昭和60年代の保育園風景平成12年に廃園になった千早第二保育園(昭和59年撮影)

 本項では、前項に引き続き、少子化の進行により生じてきた保育行政分野の諸課題に対応するため、平成期初頭から中頃にかけてどのような施策展開が図られていったかをたどっていく。

保育園整備の経緯

 平成期以降の保育施策をめぐる諸課題を見ていくにあたり、その背景となった高度成長期以降の保育園整備の経緯について、豊島区通史編四(※1)の記述をもとに概観する。
 区の年少人口は昭和30年代後半に減少に転じ、その後も加速度的に少子化が進んでいく一方、高度経済成長に伴う都市化や核家族化の進行とともに働く母親が増加し、保育需要は増大していった。
 昭和38(1963)年当時の保育園設置数は、36(1961)年4月に都から区に移管された3園と同年区が新設した1園を合わせて区立保育園が4園(定員239人)、これに私立保育園9園(定員890人)を加えた計12園で、その定員数は計1,129人となっていた。しかし、その定員数をはるかに超える1,500人以上が入園できない状況にあり、保育園は圧倒的に不足していたのである。
 核家族化などにより子どもの面倒を祖父母等に頼むことも難しく、区立・私立の認可保育園にも入れなかった場合、共働きの親たちが子どもを預けられる先は認可基準に満たない無認可保育所しかなかった。また出産後も働き続ける母親は増加傾向にあったが、ゼロ歳児保育を実施していたのも無認可保育所だけだった。しかし41(1966)年5月時点で産休明けのゼロ歳児保育を実施している区内無認可保育所はわずか5施設だけで、そこでは定員187人のうち42人ものゼロ歳児を預かっていたのである。しかもこうした無認可保育所の多くは個人経営のため経済的な基盤が弱く、無認可ゆえに補助金支給等の行政からの支援も受けられなかった。こうした状況の改善を求め、働く母親たちを中心に結成された「豊島区保育所づくり協議会」による保育園増設運動が展開され、区立保育園の増設やゼロ歳児保育の実施を求める請願・陳情が区議会に相次いで提出された。
 そこで区は昭和41(1966)年度を初年度とする「行政施設計画5か年計画」に保育園10園の増設を盛り込み、毎年度ほぼ2園のペースで新設していった。そしてさらに計画終了後の46(1971)年度以降も引き続き増設を図り、56(1981)年には区立保育園32園体制を確立した。4園だった38(1963)年から20年足らずの間にその7倍の28園を増設したことになる。以後、この32園体制は維持され、区内の保育園数は平成3(1991)年4月時点で区立32園に私立9園を加えた計41園となり、その定員合計は3,850人に達した。
 一方、ゼロ歳児保育について41(1966)年に区企画室が行った調査によると、当時、ゼロ歳児を預かる公立保育園は都内に一か所もなく、ゼロ歳児保育を実施するには保母のほかに保健婦や栄養士等の配置が必要となるが、既定の保育所職員定数の範囲内での対応は難しいとされ、さらに費用負担が大きいため区独自に実施することは困難、との判断が示されていた。
 しかし親たちの切実な要望はさらに高まり、42(1967)年6月、「豊島区保育所づくり協議会」から池袋2丁目に建設予定の区立保育園にゼロ歳児を収容することを求める請願が出された。これを審議した区議会厚生委員会は同年7月11日、この請願を採択するとともに、国と都に対しゼロ歳児保育を実現するために保母の増員に加え、保健婦、看護婦及び栄養士等を配置できるよう求める「保育所の充実改善に関する意見書」を提出した。そうした中、同年7月、美濃部都知事が都議会において、翌年度からゼロ歳児保育を実施する方針を明らかにした。都知事のこの表明に対し、特別区区長会は、36(1961)年の事務移管により既に特別区の権限となっている保育園事業に対する都の押しつけであると反対意向を表明した。
 だがそのような中、区は独自に実施する態勢を整え、43(1968)年5月、先の請願で要望されていた池袋第三保育園の開設に合わせ生後8か月の離乳明け児8人を受け入れることとし、23区の中で先駆けてゼロ歳児保育を試行開始したのである。その後都側からの積極的な説得もあり、43(1968)年6月には都内26保育園がゼロ歳児モデル保育所の指定を受け、他区も足並みを揃えていくこととなった。この時、先陣を切った池袋第三保育園も改めてモデル保育所の指定を受け、以後、さらに区は実施園を順次拡大していった。こうして10年後の53(1978)年には23園(うち私立3園)で実施されるようになり、平成3(1991)年4月時点での実施園は32園(うち私立4園)、定員合計は310人に達していた。
 平成6(1994)年の決算議会に高齢者施設や保育施設、生涯学習施設等について23区比較した資料が提出されているが(※2)、その当時の豊島区の保育施設水準は、23区でもトップレベルを誇るまでになっていたのである。

保育料をめぐる問題

 昭和40年代から50年代にかけての保育園増設ラッシュや先駆的な保育サービスの拡充は、建設経費はもとより保育所運営経費の増大につながり、やがて区財政を圧迫する要因のひとつとなっていった。
 保育所運営経費の財源の中で大きな割合を占める保育料は、児童福祉法で保護者から徴収することが義務付けられている。その仕組みは、保育サービスの代価としてそれぞれの保護者が負担する「受益者負担」と、保護者の支払い能力に応じて負担する「応能負担」という二つの原則に基づき、保護者の所得階層(実務的には課税階層)ごとに定められ、もしこの保育料を保護者が全額、もしくはその一部を負担できない場合は、その不足分を国・都・区がそれぞれ8/10・1/10・1/10の割合で負担するというものだった。また特別区における保育事業は、昭和36(1961)年4月に保育園事業が都から区に移管された経緯から、それ以降、23区同一基準で保育料等を定めていた。
 しかし昭和39(1964)年以降50(1975)年までの11年間、特別区では保護者の負担軽減を図る観点から保育料が据え置かれ、その軽減分は各区が穴埋めせざるを得ない状況にあった。また国が定める基準額(保育単価)は全国ベースで設定されるため、23区にとっては実際にかかる経費より低く、しかもその基準額を超える経費は各区の独自政策によるものとして、それぞれの区が負担することになっていた。そのため保育サービスの充実を図るほど区には超過負担が重くのしかかる状況が続くことになり、保育園を作れば作るほど区の持ち出し分は増大した。しかし入園待機児は増加の一途をたどり、昭和50(1975)年には900人を超え、保育の需要はますます増加していくことが見込まれていた。こうした中で区の超過負担分を解消するためには、保育需要の実態に即した措置費算定基準の改善等を国に求めていくとともに、受益者負担の適正化を図ることが求められていた。
 そこで昭和51(1976)年1月、23区は保育所関係者3名、保育所利用関係者3名及び学識経験者10名で構成される「特別区保育問題審議会」を共同で設置し、特別区長会会長名で「保育所措置費徴収金(保育料)の改定について」諮問した。同年8月、同審議会から提出された答申では、保育所が親の就労等の事由により「保育に欠ける児童」のみを対象としていること、またその入所は保護者の選択に基づくものであることから、保育所運営経費のうち保育に直接関わる経費(保母等人件費、給食費、保育材料費等)は利用者が負担することが妥当であるとの考えに立ち、保育料改定の指標が提言された。改定にあたっては、昭和39(1964)年以降長期に渡り保育料が据え置かれてきたことを考慮しつつ、また家計への圧迫にも配慮して、この間の上昇倍率が最も小さい実質賃金指数を算定基準とする考え方が示された。
 そこで特別区はこの答申に基づき、昭和52年(1977)年1月、39(1964)年~50(1975)年の過去12年間の実質賃金指数の上昇倍率2.05倍を算定基準として保育料を引き上げるとともに、課税階層区分を延長し、各階層の所得に占める負担割合の均等化を図る保育料の改定を実施した(※3)。なお「特別区保育問題審議会」の答申には、保育費用の負担のあり方に関する提言のほか、保育所増設や保育所運営の公私格差の是正等を要望するとともに、国の機関事務とされていた保育料の決定について、地方自治の原則に基づき広く住民の監視下における「条例事項」とするよう国に求めるべきであるとの提言もなされた。
 この昭和52(1977)年改定に続き、59(1984)年4月、特別区は保育料の第2次改定を実施した。国の基準額が毎年改定されるのに併せて他都市の多くがその保育料を改定していたが、52(1977)年改定以降据え置かれた特別区の保育料は低いままで、他都市との差はさらに広がり、保育所運営経費の増大に伴い、再び見直しが必要となったのである。この第2次改定では、「特別区保育問題審議会」の答申で利用者負担とすることが妥当とされた保育に直接関わる経費、すなわち国が必要と認める保育所運営経費(措置費)のうち管理運営経費を除いた保母等人件費や給食費、保育材料費等の直接処遇経費について、前回改定の51(1976)年度と58(1983)年度実績を比較し、その増加率(平均47%)を算定基準として保育料の引き上げが行われた(※4)。
 しかし2回の改定を経てもなお、区の超過負担分は解消されず、措置費の改善など様々な課題も積み残されたままになっていた。またこの間、昭和62(1987)年に保育所への入所措置及び保育料徴収事務が国の機関委任事務から団体委任事務に変更されたことに伴い、特別区区長会は保育料条例化の検討を厚生部長会に下命した。そして翌63(1988)年に同部長会がまとめた条例準則等の中間報告を受けて、保育料の改定時に併せて条例化するということで了承を得た。だが保育料のあり方についてはなお検討が必要とされたため、条例の具体化は平成9(1997)年の保育料改定時まで持ち越された。
 一方、国においても財政の悪化に伴い、たびたび補助率の引き下げや保育所人件費の一般財源化など保育政策を見直す動きが見られ(※5)、平成9(1997)年の児童福祉法改正では、保育所への入所の仕組みを従来の措置制度から保護者による選択・利用方式に変更するとともに、保育料についても将来的に均一化の方向で保護者の応能負担から子どもの年齢区分に基づく応益負担へと改められることとなった(※6)。
 こうした動きに呼応し、平成8(1996)年7月、特別区区長会は63(1988)年時の了承事項を踏まえ、保育料のあり方についての検討を厚生部長会に下命した。そしてその年の12月に同部長会から提出された検討報告(※7)が区長会で承認されたことを受け、各区で改定保育料を定める条例制定の動きが広がった。
 豊島区においても翌9(1997)年3月、「保育所への入所措置に関する条例」を「保育所入所措置及び費用徴収に関する条例」と名称を改め、保育料徴収手続きや改定保育料を新たに盛り込んだ改正条例を制定した(同年10月1日施行)。これにより、昭和51(1976)年に特別区保育問題審議会答申で提言されて以来課題となっていた保育料条例の制定が具体化されるとともに、59(1984)年以来ずっと据え置かれていた保育料は13年ぶりの改定がなされたのである。なお、この条例案を審議した平成9(1997)年区議会第1回定例会では、平均で約36%となる引き上げ率を9年度内は2分の1とする修正議員提案が可決され、翌10(1998)年3月までの6か月間は引き上げ率を半分に抑えた暫定保育料とする措置が取られたのである(※8)。
 しかし23区トップレベルを誇る保育園の整備や、保育内容の充実を図るための保母の増配置など、豊島区においては国の措置基準額を上回る超過負担の増大が顕著になっていた。昭和60(1985)年と平成7(1995)年の入所児一人あたりの保育所運営経費を比較すると、23区平均が80%増であるのに対し豊島区は132%増と突出し、保育所運営経費の負担割合を見ても23区平均が78%であるのに対し区の負担は80%と上回り、保護者負担(保育料)は5%にとどまっていた。また前回改定以降に実施された所得税減税措置に伴い、課税額を基礎に算定される保育料の負担比率はさらに低下することになり、保育所を利用しない子育て世帯との公平性の観点からも保育料の引き上げは避けられない状況であった。
 この9(1997)年改定は前年12月に出された厚生部長会報告に基づき行われたものだが、報告書では、これまでの改定の考え方を踏襲し、直接処遇経費部分を保護者負担として基準額を算定したところ、各階層平均で1.7倍の引き上げが必要とする結果が出された。しかし、この上昇倍率をそのまま当てはめ、長期間据え置かれていた保育料を一挙に70%引き上げることは保護者の理解を得ることは困難だろうと判断し、激変緩和策として段階的な引き上げが提起された。こうしたことからこの時の改定では約36%の保育料の引き上げにとどめられたのである。
 9(1997)年改定で積み残された引き上げ分については、それからしばらくの間持ち越されていたが、16(2004)年10月に品川区が保育料の改定を実施したあたりから各区でも改定に向けた動きが出始めた。豊島区においても、子ども家庭部内に設置した「保育料見直しプロジェクトチーム」が16(2004)年11月にまとめた報告に基づき、17(2005)年10月、豊島区独自に平均9.6%の引き上げ率を設定し、保育料の改定を実施した(※9)。この引き上げ率は9(1997)年改定時に積み残された部分の3分の1にあたるが、このプロジェクトチームの検討過程で政令市・都内各市区を対象に保育料改定に関する調査を実施したところ、品川区を含め改定を検討していると回答した区は10区にのぼり、その引き上げ率は品川区で9%、板橋区で12.8%と、既に一律ではなかった。こうして特別区の保育料は23区横並びから、各区の実情に応じて改定する方向になったのである。
 なお、9(1997)年3月に改正された「保育所入所措置及び費用徴収に関する条例」は、同年11月、改正児童福祉法の翌10(1998)年4月1日施行に合わせ、「保育の実施及び費用の徴収に関する条例」と再び名称変更し、保育料についても、これまでの扶養義務者の負担能力に応じて徴収する「応能負担」から、児童の年齢に応じた保育費用を基礎として、扶養義務者の家計に与える影響を考慮して定めた額を徴収するという「応益負担」を基本とする規定に改められた(※10)。

保育園廃園問題

 昭和40年代以降、豊島区は急増する保育需要に応えるため、速いペースで次々と保育園を増設し、56(1981)年には区立保育園32園体制を確立した。また、前述したように、ゼロ歳児保育をはじめ延長保育や障害児保育、さらに在宅保育児童を対象とする緊急一時保育、ふれあい体験保育など、多様な保育ニーズに積極的に対応し、23区でもトップレベルの保育水準を誇っていた。しかし減少傾向が止まらない年少人口に保育需要も頭打ちとなり、平成に入る頃には定員割れの保育園が出始めた。その一方、豊島区の保育水準の高さや交通の利便性から区外からの入園希望者が増え、余裕のある保育園ではそうした児童を受け入れる、いわゆる管外保育を実施するようになった。この受託件数が10年間で3倍近く増え、区の財政を圧迫するとともに、その一方、ゼロ歳児クラスでは区民でありながら入所できずに待機する児童が増加するという問題が生じていた。
 こうした状況を背景に、収入役をトップに企画・総務・福祉各関係部課長らで構成された「豊島区臨時行財政調査会」は平成7(1995)年11月、同調査会報告において事務事業の見直しにより廃止する13事業の一つとして、区立保育園5園の廃止を打ち出した(※11)。その理由に挙げられたのは措置対象児童数の減少に加え、今後も少子化傾向が顕著であること、さらに区外から受託児童数が極めて多いことが挙げられた。そして7(1995)年時点の欠員数(342人)に、管外受託を半減した場合の減少数(175人)を加えた児童減少数517人を1園あたりの平均定員数(92人)で割り返した数値が廃園数5園の根拠とされた。
 これを受けて12月8日に開催された庁議において、管外受託の抑制を図るため、平成8(1996)年度の4~9月の半年間、区外からのゼロ歳児受け入れを原則停止するとともに、区立保育園5園の廃止を平成9(1997)年度以降実施していくことが決定された。そして、第一次として9(1997)年度末に巣鴨第二保育園、池袋第四保育園、第二次として 10(1998)年度末に 西巣鴨第一保育園、千早第二保育園の各園を廃園し、残り1園については引き続き検討していくこととされた。管外受託率や措置率(在籍率)、他施設との関連、500m圏内の区立保育園の有無等を総合的に判断し、上記の4園が廃園対象として選定されたのである(※12)。
 昭和55(1980)年度末の公立・私立保育園定員数4,076人に対する在籍児童は3,976人で97.5%とほぼ定員を満たしていた在籍率は、60(1985)年度95.6%(定員4,162:在籍3,977)、平成2(1990)年度86.1%(同3,902:3,359)、7(1995)年度85.7%(同3,585:3,072)と減少傾向にあった。また区内の出生数は昭和55(1980)年の2,814人から平成7(1995)年には1,456人とほぼ半減しており、今後の保育需要増の可能性も低いと考えられた。一方、区立保育園32園の管外保育受託率は、5年度から7年度の過去3か年の平均が13.2%と1割を超えており、特に廃園対象となった千早第二保育園51.8%、巣鴨第二保育園31.1%、池袋第四保育園28.7%はその比率が高かった。また、西巣鴨第一保育園は、管外受託率は7%と平均を下回っていたが、在籍率が81%と定員割れの状況が続いていたことに加え、200mの距離に東池袋第二保育園があることから廃園対象とされた。
 庁議決定後、翌8(1996)年1月に区議会各会派へ説明、2月に職員団体へ提案し、3月には廃園対象各園の保護者に対する説明会が開催された。しかし当然のことながら、保護者からは「保育水準がさがる」「区の定住化政策に逆行する」など区の廃園方針に反対する声が一斉にあがり、また「管外受託率とか措置率とか机上の数字だけで選んでいる。子どものことは考えていないのではないか」「園庭がない、防災上危険がある、日当たりが悪いなど条件の悪い園を廃止すべき」「環境の良い、園庭の広い園は残してほしい」など廃園の選定理由についても疑問の声があがった。そして、各園保護者から廃園に反対する陳情が次々と区議会に提出されたのである(※13)。

※13 保育園廃園問題関連陳情書(平成8・9年)

 平成8(1996)年6月19日に受理された千早第二保育園父母の会会長外6,571名の署名が付された「千早第二保育園廃止に反対する陳情」は、同年区議会第2回定例会の福祉衛生委員会で審査された。委員会では、管外受託や0・1歳児待機の現状をはじめ区が進める定住化対策と保育行政との整合性、廃園決定に至る検討プロセス、複合施設化による園存続の可能性など様々な観点から質疑が行われた。そして今後の保育行政のあり方については策定作業中の児童福祉計画の中で明確化していくこと、また転園を余儀なくされる子どもと保護者にできる限りの配慮をしていくことを前提に、近年の著しい少子化により区立学校についても統合が進められている中で、保育園の廃園についても止むを得ないとの意見が多数を占め、陳情は「不採択」とされた(※14)。
 続く9月18日に受理された西巣鴨第一保育園父母会会長外8,360名の署名が付された「西巣鴨第一保育園廃止に反対する陳情」についても第3回定例会同委員会で審査が行われたが、結論としては前回と同様「不採択」の取り扱いとなった(※15)。西巣鴨第一保育園は他の廃園対象3園とは異なり、管外受託率は平均より下回っていたが、周辺エリア内に複数の保育園がある一方、措置率(在籍率)が低下していたことから、通園距離や建物の老朽度、今後の改築計画等も比較勘案し、エリア全体として1園廃止の対象とされたものである。また翌9(1997)年3月策定予定の児童福祉計画において、在宅の子育て支援体制の大きな柱となる「子ども家庭支援センター」の設置場所として、同園の廃園後跡施設の活用が検討されていたという背景もあった。そうした個々の事情に違いはあるものの、少子化の進行による入園児童の減少や極めて逼迫した財政状況を鑑みれば、これまで堅持してきた保育園32園体制を見直さざるを得ない時期に来ており、また子育て支援の新たな課題に対応していくためにも、廃園方針を支持する意見が多数を占めたのである。
 それでも子どもたちを預けている園の廃止は保護者たちにとって納得し難いものであり、残り2園の父母会からも11月11日同日付でそれぞれ陳情が出された。巣鴨第二保育園父母会代表他11,629名、池袋第四保育園廃園に反対する会会長外14,695名の署名が付された陳情は、委員会審査が行われた11月21日までにさらに各1,569名、2,433名の追加署名が提出され、陳情2件合わせて3万人を超える署名が集まっていた。こうした状況の中、加藤区長は第4回定例会の委員会審査冒頭にあたり、平成9(1997)年度末廃園予定の巣鴨第二、池袋第四の2園について、その実施時期を10(1998)年度末に変更することを表明した(※16)。この方針変更は、自由民主党区議団、区民クラブ区議団及び公明区議団の3会派から廃園まで残すところ1年4か月あまりしかなく、転園先の希望等を聴取するなど、保護者の理解を得る周知期間として9年度末廃園予定を1年間延期するよう申し入れがあったこと、また日本共産党区議団からも廃園計画に反対する立場から園児募集中止記事の広報紙掲載を取りやめるようにとの強い要求があったことを受けて、区長自らが政治判断を下したものである。また、委員会審査直前に両陳情者から意見陳述の申し入れがあり、正式な参考人手続きには間に合わなかったが委員会を一時中断し、休憩時間に2園の保護者代表から直接意見を聴く機会が設けられるという異例の対応がとられた。そうした保護者の切実な声を受け、計画の白紙撤回を求める陳情そのものは前2回と同様に不採択とされたが、転園対象者への支援と保護者の納得が得られるよう丁寧な説明に努めることを改めて区議会から要請される形となったのである。
 この方針変更に基づき、翌9(1997)年1月、「新基本計画」に合わせて策定された3か年の「行財政改革計画」の中で、保育園の廃園については「小中学校適正配置等の推進」と並び「区立保育園適正配置の推進」として位置づけられ、改めて4園の10年度末廃止が明記された(※17)。また3月には、基本計画の分野別計画に位置づけられる「子ども・家庭支援豊島プラン(豊島区児童福祉計画)」が策定された(※18)。同プランは子どもとその家庭が地域社会のなかでいきいきと暮らせるよう、福祉をはじめ教育、保健・医療、住宅など子どもと子育て中の家庭にかかわる諸施策を統合し、豊島区における児童福祉を推進することを目的とする10か年の計画であった。国が平成6年に策定したエンゼルプランの豊島区版にあたり、核家族化により孤立しがちな家庭内育児への支援や児童虐待、発達障害等の新たな課題への対応等、これまでの施設中心の保育行政から地域との連携によるきめ細かな子育て支援への転換を図っていくものであった。
 一方、翌9(1997)年6月18日付で豊島区・区立保育園の廃園問題を考える会代表外5名により「区立保育園廃園計画について、区民への説明作業の推進を求める陳情」が出された。陳情者は廃園対象園に子どもを通わせている保護者のグループであったが、保育園の廃園は廃園対象園だけの問題ではなく、廃園対象外の保護者たちからも廃園計画について説明を求める声があがっていた。廃園計画で示された5園のうち、今後検討していくとされた残り1園をめぐり保護者の間で不安が広がっていたのである。これに対し区は3月に廃園対象外の園で説明会を1回開催して以降、保護者たちからの要請に応えておらず、陳情の主旨はそうした現状の改善を求めるものであった。この陳情審査に先立つ7月8日、与党3会派は廃園計画を知らずに入園した児童が卒園するまでは廃園を延期すべきではないかとさらなる実施延期を申し入れた。そして7月11日に開催された区議会2回定例会福祉衛生委員会において、陳情の主旨が廃園計画の撤回を求めるものではなく区の説明責任を問うものであり、区議会としても保護者への丁寧な説明を区に要望してきたこれまでの経緯を踏まえ、この陳情は採択された(※19)。こうした一連の流れを受けて区は改めて計画の見直しを検討し、3日後の14日に開催された福祉衛生委員会において加藤区長自ら「転園措置の円滑化と転園に伴う児童の心理的負担等に配慮する必要が十分理解できますので、廃園計画を2年延期いたしまして、この計画を知らずに平成7年度までに入園された児童が卒園する12年度末に、当該4保育園を廃園することといたしたい」と表明するに至ったのである。また、併せて5園目の廃止計画の撤回と、8(1996)年度以降入園児の転園についても十分配慮するとともに保護者や区民の納得が得られるよう説明会を開催し、精力的に対応していくことを約束した。
 こうして二転三転した廃園計画もこの区長表明によりどうにか決着が図られ、今後の新規募集を停止するため、同年9月の第3回定例会で「保育所条例の一部を改正する条例」が賛成多数で議決され、平成12(2000)年3月末の4園廃園が決定されたのである(※20)。

保育行政から子ども・家庭支援施策への転換

 これまでも述べてきたように、高度成長期から平成期初頭にかけての区の保育行政は保育園を中心に展開されてきた。その背景には都市化や家族形態の変容、さらには生活水準の向上に伴って家計を支えるために働く母親が増え、保育園の増設やゼロ歳児保育、延長保育など保育内容の充実を求める声が高まったことがあった。だが保育園に通うのは親の就労等を事由とするいわゆる「保育に欠ける児童」であり、平成2(1990)年1月1日現在の区の就学前人口(0~6歳)13,092人のうちの3,359人で、25.7%に過ぎなかった。また同年の区立及び私立幼稚園の在籍児童数2,606人を加えても全体の44.9%にとどまっており、保育園や幼稚園に通う子どもたちと同数程度あるいはそれ以上の子どもたちが家庭内で育てられていたのである。
 そうした家庭内育児の場においても、核家族化により孤立しがちな母親たちの育児不安や子どもの虐待など子育てをめぐるさまざまな問題が生じていた。それまでは特殊な事情のある家庭でのみ起きることと考えられていた児童虐待は、もはやごく普通の家庭でも起こりうることで、家族関係や地域との関係、仕事や生活上の悩み、親が気付かない子どもの発達上の問題など様々な要因が複合的に絡まりあっているケースが多く、単に親の問題として片付けられない状況になっていた。こうした児童虐待を未然に防ぐためにも家庭内育児への支援は急務であるとの認識から、区はこれまでの「施設中心の保育施策」から「すべての子どもたちを対象とする子育て支援施策」への転換を図っていったのである。
 平成3(1991)年5月、区は保護者が病気・出産・家族の看護等で乳幼児の保育ができない場合に一時的に預かる「緊急一時保育」を区立・私立全41園で開始した(※21)。利用期間は1か月以内、日額1,300円(午前8時30分~午後5時)の有償サービスではあったが、生後8週経過児から小学校就学前の幼児を対象とし、特別な事情があれば延長保育にも対応するという、ほぼ保育園通園児と同様の保育を受けることができた。また平成7(1995)年5月には保護者が子どもと一緒に来園し、園児たちと遊ぶ様子を見ながら育児に関する相談を受けることができる「ふれあい体験保育」が開始された(※22)。この事業は育児について身近に相談できる人がいなかったり、近くに子どもの遊び相手が少ないことなどによる保護者の不安を解消することを目的としていたが、保育園への入所を考えている親たちにとっては実際の保育園を見て体験できる機会になった。さらに平成10(1998)年8月には巣鴨第二保育園で「一時保育事業」が開始された(※23)。この事業は保護者が通院・冠婚葬祭・ボランティア・PTA・就労・通学等で一時的に子どもの面倒を見られないときに時間単位で子どもを預かる有償サービス(1時間500円)であったが、既に実施していた「緊急一時保育」よりも利用要件が幅広く、女性の社会進出を後押しする狙いがあった。また同年12月からは、仕事と子育ての両立を支援するための「ファミリー・サポート・センター事業」が開始された(※24)。「ファミリー・サポート・センター」とは「子育ての手助けをしてほしい人」(利用会員)と「子育ての手助けができる人」(援助会員、有償ボランティア)とで構成される会員制組織で、区は事務局として両者の橋渡しを行った。働きながら子育てをしている親たちにとって、保育園・学童保育の時間外や急な残業時、あるいは子どもが軽い病気の時などに安心して子どもを預けられる所があるかどうかは仕事を続けていく上で大きな問題であった。この事業はそうした従来の保育サービスでは対応しきれない部分をカバーするとともに、地域の中で子育てを支えあう新たな仕組みづくりをめざすものであった。
 これら様々な保育サービスを展開していく一方、区は平成9(1997)年3月、子どもと子育て家庭にかかわる諸施策を体系化した「子ども・家庭支援豊島プラン(豊島区児童福祉計画)」を策定するとともに、翌4月の組織改正で児童女性部(12年「子ども家庭部」に改称)に「子育て支援課」を新設した。
 この「子ども・家庭支援豊島プラン」は「①子どもを権利の主体として位置づける、②すべての子ども・家庭の福祉の向上をめざす、③区と区民の協働によって子ども・家庭福祉を推進する」の3つを基本理念に掲げ、「①在宅を基盤とした子育て支援体制づくり、②多様化する保育ニーズへの対応、③要養護家庭の個別のニーズへの対応、④子どもの権利擁護基盤づくり」の4つを目標としていた(※25)。そしてこの基本理念と目標の双方に「子どもの権利」が掲げられた背景には、当時顕在化しつつあった児童虐待の問題があったのである。
 都内の児童相談所に寄せられた児童虐待に関する相談件数は平成5(1993)年度に195件であったものが11(1999)年度には1,316件と大幅に増加していた。豊島区においても12(2000)年5月に保育園・児童館・保健所・区立心身障害者センター・子育て支援課を対象に実施した子ども虐待状況調査で、11(1999)年度中に対応した件数は124件にのぼり、同年度に都の児童相談所が豊島区分として受理した件数の15件をはるかに上回っていた。この調査では学校等教育機関は対象外であったため実際の件数はさらに多いと考えられたが、その当時は虐待に関する相談があっても各機関でバラバラに対応し、相互の連携や早期発見・解決のための組織的な対応ができない状況にあった。このため、地域で児童虐待問題に対応していた池袋・長崎両保健所の保健婦たちが問題提起し、11(1999)年1月、衛生部と児童女性部との共同により「豊島区子ども虐待防止連絡会(仮称)設立準備委員会」が設置された。保育園や児童館、生活福祉課ケースワーカー、心身障害者福祉センター、教育センター等の関係職員が参加したこの準備委員会は、児童虐待の事例研究を通して機関連携のあり方について検討を重ねていった。一方翌12(2000)年4月、区は子育て支援課に「子どもの権利担当係長」を新設し、児童虐待防止のための連携協力体制の構築に向けた本格的な取り組みを開始した。そうした経緯を経て同年7月、区の関係職員のほか、警察、都児童相談センター、民生・児童委員、人権擁護委員、家庭裁判所調査官、私立幼稚園・保育園長等計26名の委員で構成される「豊島区子ども虐待防止連絡会議(虐待防止ネットワーク)」が発足した(※26)。またこの連絡会議のもとに専門部会を設置し、関連機関が相互に関わる事案の調整を行うとともに、緊急を要する事案については「ケース会議」を随時召集し、虐待防止に向け迅速に対応していく体制を整えたのである。
 さらに翌13(2001)年、区は「子ども・家庭支援豊島プラン」の目標の①に挙げられた「在宅を基盤とした子育て支援体制づくり」の核となる「子ども家庭支援センター」を東西2か所に開設した(※27)。いずれも前年3月末に廃園となった保育園跡施設を活用した施設であり、改修工事を施し、11月14日に旧千早第二保育園に西部子ども家庭支援センターを開設したのに続き、12月3日には旧西巣鴨第一保育園に東部子ども家庭支援センターを開設した。その設置条例に「子どもとその家族がいきいきと健康に生活することができる家庭環境及び地域環境の形成並びに地域社会における子育て機能の向上に資することを目的とする」と記されているように、両センターは子どもと家庭に関するさまざまな問題の総合相談窓口となるほか、親子・親同志の交流を支援する「親子遊び広場事業」、子育てサークやボランティアグループの支援・育成、子育てネットワークなど住民参加の地域活動を推進する「地域組織化活動事業」、さらに巣鴨第二保育園から千早第二保育園に引き継がれていた「一時保育事業」など、在宅育児家庭を支援するための幅広い事業を展開した。
 また西部子ども家庭支援センターでは障害のある子もない子も、すべての子どもの健全な発達をサポートしようというノーマライゼーションの考えに基づき、心身障害者福祉センターから幼児指導部門を移管した「発達支援事業(通園事業)」が実施された。平成7(1995)年の発達障害者支援法施行に伴い、自閉症等の発達障害、特に学習障害(LD)や注意欠陥多動性障害(ADHD)等の新たに認知され始めた障害を抱える子どもたちへの支援が課題になっており、子どもの発達に不安や障害の疑いを持つ親たちが気軽に相談できる窓口の役割を果たすことになった。
 さらに16(2004)年4月、区は児童虐待への組織的対応を強化するため、東部子ども家庭支援センターに虐待対策ワーカーを配置するとともに、同センターを「先駆型子ども家庭支援センター」へ移行した(※28)。この移行に伴いセンターが新たに実施する事業は、①見守りサポート事業、②虐待防止支援訪問事業、③在宅サービス基盤整備事業の3事業であった。このうち①は児童相談所と連携し、軽度の児童虐待が認められるが在宅での指導が適当と判断される家庭や一時保護、施設措置をされた児童が家庭に戻った後の家庭に対する支援、②は保健所・保健センター等と連携し、親の不適切な養育態度など生活環境に問題がある家庭や乳児健康診断未受診家庭といった子どもの健全な成長に懸念が持たれる家庭に対し児童虐待の予防的支援、③は養育家庭の拡充に向け、広報等での養育家庭制度の紹介、リーフレットの作成・配布、養育家庭体験発表会の開催など地域住民への養育家庭制度の普及等の活動をそれぞれ行うものであった。全国の児童虐待相談対応件数は平成以降増加の一途をたどり、児童虐待による死亡事故も多発していた。新たに配置された虐待対策ワーカーには、そうした最悪のケースを未然に防ぎ、重篤化しないよう関係機関や地域との連携の要となる役割が期待された。なお平成12(2000)年に設置された「豊島区子ども虐待防止連絡会議(虐待防止ネットワーク)」は、17(2005)年の児童福祉法の一部改正に伴い新たに規定された「要保護児童対策地域協議会」に移行し、東部子ども家庭支援センターがその事務局を担うこととなった(※29)。
 こうした児童虐待防止の取り組みは、昭和34(1959)年の国連総会において「児童の権利に関する宣言」が採択され、その宣言30周年と国際児童年10周年にあたる平成元(1989)年に同じく国連総会で採択された「児童の権利に関する条約(子どもの権利条約)」(日本も平成6[1994]年に批准)の理念に基づくものであった(※30)。同条約はすべての子どもの基本的な人権として、生きる権利、育つ権利、守られる権利、参加する権利を保障することを条約批准国の責務に定めているが、その「守られる権利」にはあらゆる種類の虐待や搾取から子どもを守ることが含まれていた。そして豊島区における児童虐待の取り組みはより広く子どもの権利を保障していこうという流れを生みだし、18(2006)年4月1日施行の「子どもの権利に関する条例」へと結実していったのである(※31)。
東部子ども家庭支援センター
虐待対策ワーカー
西部子ども家庭支援センター(発達支援学習会)