本節第1項から3項では、昭和から平成へ、高度成長期から低成長期へと時代が移行していく中で、人口構造の変化、特に少子高齢化の進展により生じてきた様々な地域課題に豊島区がどのように対応していったかをたどった。この項ではそうした時代の転換期において、女性の社会参加が拡大していった経緯と男女共同参画社会の実現に向けた区の取り組みをたどっていく。
女性の就労を巡る問題
高度成長期に入り、企業の技術革新や設備投資により大量生産が進むにしたがい、人々の生活は豊かになり、消費行動も活発化していった。その結果、物販や金融等の第3次産業が伸び、デパートや銀行等の支店が相次いで開店され、そうした分野の新たな担い手として若い未婚の女性たちの就労機会が拡大していった。しかし当初、女性たちに求められたのは「腰掛け」と揶揄されたように結婚前の一時期だけであり、その後徐々に採用期間は伸びていったものの、処遇面では男性より低い賃金のまま置かれるなど、結局、男性を中心とする終身雇用形態を補完する役割でしかなかった。一方、昭和50年代になると、結婚・出産した後に子育てが一段落した女性たちが住宅資金や教育資金のために再就職する例も増えていったが、その多くは非正規雇用の低賃金・パートタイム労働であった。このため女性の年齢階層別の労働力率(生産年齢人口に対する労働力人口の割合)を折れ線グラフで表すと、出産・子育て年齢期にあたる25~35歳代の女性の就業率がその前後の年齢層に比べて極端に低く、その年齢層が谷間となるアルファベットの「M」に近い曲線になるため、これを「M字型カーブ」と呼んだ。欧米諸国に比べてそのカーブが深かったことから、出産・結婚に左右される日本女性の就業形態を象徴するものとして、家事・育児は女性の仕事とする性別役割分担意識の根深さとともに女性が継続的に働いていくための労働条件の改善や子育て支援等の立ち遅れが指摘されていた。
高度成長期以降の全国の雇用者数の推移を見てみると、女性の雇用者数は昭和45(1970)年に1,096万人と初めて1,000万人を突破し、60(1985)年に1,548万人、平成12(2000)年には2,140万人と30年間で倍増している(雇用者数の推移:厚生労働省「平成16[2004]年版働く女性の実情」)。特に25~29歳代の女性就業率の増加傾向は顕著で、50年代には約40%だったものが、平成期初頭には約60%に達していた。しかしこれは男性も含めた未婚化・晩婚化が進んだことがその一因となっているためであり、30~34歳代の女性の就業率は依然として低いままであった。中でも人口規模の大きい都市ほど女性の生産年齢人口に対する就業者数の割合(有業率)が低い一方、女性就労者のうち非正規雇用が占める割合が高い傾向が見られた。また、就業を希望する女性の割合が高い一方、出産・子育て等により離職する女性は大都市圏に集中していた。こうしたことからも、核家族化が進む都市に暮らす女性たちにとって結婚・出産後も働き続けることは難しく、それを可能とする環境もいまだ十分には整えられていなかったと言えるだろう。
図表1-⑨は、昭和60(1985)年・平成2(1990)年・平成7(1995)年の各年国勢調査結果から、豊島区における15歳以上の男女年齢階層別人口に占める就業者数の割合をグラフ化したものである。これを見ると男性の就業率は20歳代から60歳代でほぼ90%に達しているのに対し、女性の就業率は60~70%にとどまっている。また全国同様に25~29歳代の女性の就業率が増加している一方、30歳代は依然として60%を割っており、その年代以降もそれほどの増加は見られない。出産や育児のために一度離職してしまうと復職するのは容易でなく、再就職しようにもパートなど非正規雇用に限られるため、意欲があってもなかなか就労につながらないという女性たちが置かれた現状が豊島区においてもうかがえるのである。なお、女性も男性も平成2(1990)年より7(1995)年の就業率が低くなっているのは、バブル崩壊後の平成不況の長期化による雇用環境の悪化によるものと考えられる。
高度成長期以降の全国の雇用者数の推移を見てみると、女性の雇用者数は昭和45(1970)年に1,096万人と初めて1,000万人を突破し、60(1985)年に1,548万人、平成12(2000)年には2,140万人と30年間で倍増している(雇用者数の推移:厚生労働省「平成16[2004]年版働く女性の実情」)。特に25~29歳代の女性就業率の増加傾向は顕著で、50年代には約40%だったものが、平成期初頭には約60%に達していた。しかしこれは男性も含めた未婚化・晩婚化が進んだことがその一因となっているためであり、30~34歳代の女性の就業率は依然として低いままであった。中でも人口規模の大きい都市ほど女性の生産年齢人口に対する就業者数の割合(有業率)が低い一方、女性就労者のうち非正規雇用が占める割合が高い傾向が見られた。また、就業を希望する女性の割合が高い一方、出産・子育て等により離職する女性は大都市圏に集中していた。こうしたことからも、核家族化が進む都市に暮らす女性たちにとって結婚・出産後も働き続けることは難しく、それを可能とする環境もいまだ十分には整えられていなかったと言えるだろう。
図表1-⑨は、昭和60(1985)年・平成2(1990)年・平成7(1995)年の各年国勢調査結果から、豊島区における15歳以上の男女年齢階層別人口に占める就業者数の割合をグラフ化したものである。これを見ると男性の就業率は20歳代から60歳代でほぼ90%に達しているのに対し、女性の就業率は60~70%にとどまっている。また全国同様に25~29歳代の女性の就業率が増加している一方、30歳代は依然として60%を割っており、その年代以降もそれほどの増加は見られない。出産や育児のために一度離職してしまうと復職するのは容易でなく、再就職しようにもパートなど非正規雇用に限られるため、意欲があってもなかなか就労につながらないという女性たちが置かれた現状が豊島区においてもうかがえるのである。なお、女性も男性も平成2(1990)年より7(1995)年の就業率が低くなっているのは、バブル崩壊後の平成不況の長期化による雇用環境の悪化によるものと考えられる。
図表1-⑩は7(1995)年国勢調査における区内在住15歳以上男女の労働力状態をまとめたものであるが、就業者のうち「主に仕事」をしている人は、男性では就業者総数79,684人に対し74,877人で94.0%とほとんどを占める一方、女性は56,032人に対し37,811人で67.5%に止まり、率にして男女間で約30%もの開きがあった。またパートタイム労働など家事(や育児)が主でその合間に仕事をしているという「家事のほか仕事」は、男性が705人で0.9%であるのに対し、女性は15,289人で27.3%と、その人数は21倍を超えている。さらに非労働力人口のうち「家事」従事者は、男性908人に対し女性は32,205人で実に35倍以上にのぼり、15歳以上の女性の約3割が労働力と見なされない「家事」に専従している状況からも、依然として仕事と家事における男女の役割分業が解消されていない実態が見て取れる。
このような実態は、平成4(1992)年に20~65歳の女性1,500人を対象に実施した「女性の生活実態・意識調査」にも同様の結果が表れており(※1)、回答者の就労状況はパート・アルバイトを含む有職者が67%であったのに対して無職は33%、うち約8割が専業主婦であった。男女平等意識に関する質問に関しても、昭和58(1983)年調査時との比較で「男女平等になっていない」との回答がいずれも約60%を占める一方、「男は仕事、女は家庭」という考え方については58年調査時に「そうは思わない」との回答が50%だったのに対し4年調査では68%にのぼった。こうした結果からも、約10年が経過しても女性の置かれた立場にさほどの変わりはなく、旧態依然たる性別役割分担に疑問を抱く女性が増えている状況が窺えたのである。
前項でも触れたように、働く母親たちの要請を受けて昭和40年代以降保育園の増設が進み、法制度の面でも昭和61(1986)年施行の男女雇用機会均等法や平成4(1992)年施行の育児・介護休業法等、女性の就労意欲を高め、仕事と家庭・育児の両立を図る環境整備が進められるに従い、女性の就業率は上昇していった。しかしその一方、「男は仕事、女は家庭」という社会通念や男性中心の企業風土は根強く、男女雇用機会均等法も、施行当初は企業側の反対により雇用や処遇における女性差別の是正は努力義務にとどまるものであった。施行から10年後の平成9(1997)年改正により、ようやく努力義務は禁止事項へと変更されたが、それはあくまで男性中心の企業社会の中での平等であり、言い換えれば女性にも「男性並みに働く」ことが求められるという側面も少なくなかったのである。中でも転勤を採用や昇進の条件にするなど女性に不利益となる「間接差別」が問題となっていたが、そうした目に見えにくい差別を禁止し、さらに男性も対象とするセクシャル・ハラスメント対策を企業に義務づけるなど、男性も含めた性別による差別の禁止という考え方に基づく法改正(18[2006]年改正)には、さらに10年の歳月を待たなければならなかったのである。
しかし、女性の非正規雇用の拡大や男女間の賃金格差、さらに諸外国に比べて低い女性の管理職比率や男性の育児休業取得率など、様々な課題は依然として残されたままであった。スイスの非営利財団世界経済フォーラムが平成18(2006)年から毎年発表しているグローバル・ジェンダー・ギャップ指数(世界男⼥格差指数)は健康・教育・政治・経済の4つの分野で男⼥にどれだけの格差が存在しているかを分析してスコア化したものであるが、初回発表時115か国中79位だった日本のランクは年々低下し続けている(令和3[2021]年156か国中120位)。特に国会議員・閣僚等の男女比を調査項目とする政治分野と、労働人口・賃金・管理職等の男女比を調査項目とする経済分野のランクが低く、男女の賃金格差や女性登用の遅れがランキング低迷の要因として指摘されている。男性の賃金水準を100とした場合の女性の賃金水準は昭和50~60年代に60を切っており、平成以降徐々に解消されつつあるが、それでもなお70を超えていない。さらに平成不況の長期化により非正規雇用が急増し、その全体に占める割合は平成元(1989)年に19.1%だったものが6(1994)年に20%を超え、16(2004)年には31.4%に達した。しかしその男女別割合を見ると、男性が15.6%に止まっていたのに対し女性は50.6%と半数以上が非正規雇用だった。このように女性の労働環境の改善がなかなか進まない一方、男性にとってもその労働環境は決して望ましい状況ではなかった。長時間労働による過労死は後を絶たず、「社畜」という言葉が平成2(1990)年の流行語になったように、低成長期に移行しても日本の企業風土は容易には変わらなかったのである。
そうした現状は、平成19(2007)年12月に関係閣僚、経済界・労働界・地方公共団体の代表等からなる「官民トップ会議」において策定された「仕事と生活の調和(ワーク・ライフ・バランス)憲章」でも指摘された。この憲章は「我が国の社会は、人々の働き方に関する意識や環境が社会経済構造の変化に必ずしも適応しきれず、仕事と生活が両立しにくい現実に直面している」という冒頭の現状分析から始まり、そうした現状の背景として「長期的な経済の低迷や産業構造の変化により、生活の不安を抱える正社員以外の労働者が大幅に増加する一方で、正社員の労働時間は高止まりしたままである」と働き方の二極化を挙げている。さらに「今日では、女性の社会参加等が進み、勤労者世帯の過半数が、共働き世帯になる等人々の生き方が多様化している一方で働き方や子育て支援などの社会的基盤は必ずしもこうした変化に対応したものとなっていない。また、職場や家庭、地域では、男女の固定的な役割分担意識が残っている」と女性の就労環境をめぐる課題について言及し、「人口減少時代にあっては、社会全体として女性や高齢者の就業参加が不可欠であるが、働き方や生き方の選択肢が限られている現状では、多様な人材を活かすことができない」として、多様な選択肢を可能とする仕事と生活の調和の実現を今こそ希求していかねばならないとの決意が表明された。
こうした政府や労使トップによる方針表明には、人口減少社会において女性や高齢者を労働力として取り込もうとの意図も感じられるが、女性の就労が広がるのに伴い、女性自身の意識はもとより、男性をも含めた「働き方」そのものにも、またそのベースとなる家庭での男女の責任や分担のあり方にも、否応なく意識改革が求められることになった証しと言えよう。そして企業側にとっても、生産性を向上させる上でワーク・ライフ・バランスとダイバーシティの実現を図ることの重要性がようやく認識されるようになったのでる。
前項でも触れたように、働く母親たちの要請を受けて昭和40年代以降保育園の増設が進み、法制度の面でも昭和61(1986)年施行の男女雇用機会均等法や平成4(1992)年施行の育児・介護休業法等、女性の就労意欲を高め、仕事と家庭・育児の両立を図る環境整備が進められるに従い、女性の就業率は上昇していった。しかしその一方、「男は仕事、女は家庭」という社会通念や男性中心の企業風土は根強く、男女雇用機会均等法も、施行当初は企業側の反対により雇用や処遇における女性差別の是正は努力義務にとどまるものであった。施行から10年後の平成9(1997)年改正により、ようやく努力義務は禁止事項へと変更されたが、それはあくまで男性中心の企業社会の中での平等であり、言い換えれば女性にも「男性並みに働く」ことが求められるという側面も少なくなかったのである。中でも転勤を採用や昇進の条件にするなど女性に不利益となる「間接差別」が問題となっていたが、そうした目に見えにくい差別を禁止し、さらに男性も対象とするセクシャル・ハラスメント対策を企業に義務づけるなど、男性も含めた性別による差別の禁止という考え方に基づく法改正(18[2006]年改正)には、さらに10年の歳月を待たなければならなかったのである。
しかし、女性の非正規雇用の拡大や男女間の賃金格差、さらに諸外国に比べて低い女性の管理職比率や男性の育児休業取得率など、様々な課題は依然として残されたままであった。スイスの非営利財団世界経済フォーラムが平成18(2006)年から毎年発表しているグローバル・ジェンダー・ギャップ指数(世界男⼥格差指数)は健康・教育・政治・経済の4つの分野で男⼥にどれだけの格差が存在しているかを分析してスコア化したものであるが、初回発表時115か国中79位だった日本のランクは年々低下し続けている(令和3[2021]年156か国中120位)。特に国会議員・閣僚等の男女比を調査項目とする政治分野と、労働人口・賃金・管理職等の男女比を調査項目とする経済分野のランクが低く、男女の賃金格差や女性登用の遅れがランキング低迷の要因として指摘されている。男性の賃金水準を100とした場合の女性の賃金水準は昭和50~60年代に60を切っており、平成以降徐々に解消されつつあるが、それでもなお70を超えていない。さらに平成不況の長期化により非正規雇用が急増し、その全体に占める割合は平成元(1989)年に19.1%だったものが6(1994)年に20%を超え、16(2004)年には31.4%に達した。しかしその男女別割合を見ると、男性が15.6%に止まっていたのに対し女性は50.6%と半数以上が非正規雇用だった。このように女性の労働環境の改善がなかなか進まない一方、男性にとってもその労働環境は決して望ましい状況ではなかった。長時間労働による過労死は後を絶たず、「社畜」という言葉が平成2(1990)年の流行語になったように、低成長期に移行しても日本の企業風土は容易には変わらなかったのである。
そうした現状は、平成19(2007)年12月に関係閣僚、経済界・労働界・地方公共団体の代表等からなる「官民トップ会議」において策定された「仕事と生活の調和(ワーク・ライフ・バランス)憲章」でも指摘された。この憲章は「我が国の社会は、人々の働き方に関する意識や環境が社会経済構造の変化に必ずしも適応しきれず、仕事と生活が両立しにくい現実に直面している」という冒頭の現状分析から始まり、そうした現状の背景として「長期的な経済の低迷や産業構造の変化により、生活の不安を抱える正社員以外の労働者が大幅に増加する一方で、正社員の労働時間は高止まりしたままである」と働き方の二極化を挙げている。さらに「今日では、女性の社会参加等が進み、勤労者世帯の過半数が、共働き世帯になる等人々の生き方が多様化している一方で働き方や子育て支援などの社会的基盤は必ずしもこうした変化に対応したものとなっていない。また、職場や家庭、地域では、男女の固定的な役割分担意識が残っている」と女性の就労環境をめぐる課題について言及し、「人口減少時代にあっては、社会全体として女性や高齢者の就業参加が不可欠であるが、働き方や生き方の選択肢が限られている現状では、多様な人材を活かすことができない」として、多様な選択肢を可能とする仕事と生活の調和の実現を今こそ希求していかねばならないとの決意が表明された。
こうした政府や労使トップによる方針表明には、人口減少社会において女性や高齢者を労働力として取り込もうとの意図も感じられるが、女性の就労が広がるのに伴い、女性自身の意識はもとより、男性をも含めた「働き方」そのものにも、またそのベースとなる家庭での男女の責任や分担のあり方にも、否応なく意識改革が求められることになった証しと言えよう。そして企業側にとっても、生産性を向上させる上でワーク・ライフ・バランスとダイバーシティの実現を図ることの重要性がようやく認識されるようになったのでる。
地域社会における参加の多様化
戦後復興期から高度成長期にかけての女性を取り巻く社会状況の変化については、豊島区通史編三(※2)及び四(※3)に詳しく記されているが、戦後民主化の流れの中で女性参政権の獲得や女性議員の誕生を見る一方、家庭における女性たちの地位は一段低く見られていた。
そうした状況にありながらも、昭和24(1949)年に結成された「豊島区婦人協議会」(27年「豊島区婦人団体協議会」に改称)は、困窮する「戦災未亡人」の母子援護活動にはじまり、自ら資金を集め、35(1960)年に開園した「豊竹保育園」(40年「区立雑司が谷保育園」として区に移管)は、区の乳幼児保育の先駆けとなるものであった(※4)。また、昭和33(1958)年には母親自身が様々な社会問題を学び合う自主的組織「母親勉強会」が結成され、学習テーマの一つに老後・介護問題を取り上げ、デイホームや特別養護老人ホームの設置、有償ボランティアによる高齢者援助サークル作りを区に要請するなど、その後の区の高齢者施策に影響を与えていった。
そうした先進的な取り組みも展開されたが、地域社会は全体として、戦前からの「良き妻、良き母」を理想像とする社会通念を尊重する意識が根強かった。行政が家庭の主婦層をターゲットに展開した事業にも、「女性は家庭に」という旧態依然の考え方が色濃く見られ、社会教育行政の一環として昭和35(1960)年に開始された「婦人学級」や、36(1961)年に社会福祉協議会を中心に組織化された「母親クラブ」、42(1967)年に豊島区が独自に創設した「家庭教育委員」などは、いずれも社会や行政が求める「家庭を守り、地域社会を支える母親」を教化する意味合いが強かった。しかし、スタート時は要請に基づくものであったにしても、家庭から外に出て共に学び合う中で、女性たちの意識は確実に変わっていった。40年代以降、区内各地で誕生した様々な自主グループの活動テーマは子育てや教育問題に限定されず、女性問題はもとより、福祉、環境、平和、国際協力など多岐にわたり、さらに親子読書会やひとり暮らし高齢者への支援等、実践的な活動に取り組むグループも少なくなかった。また昭和57(1982)年には、そうしたグループの交流組織として「豊島区自主グループ連絡会」が結成され、婦人団体協議会とともに、後述する男女平等推進センターの開設やその後の運営に大きく関わっていくことになる。
さらに、従来の「母として、妻として」の枠組みを越え、「自分がどう社会に関わるか」を起点とする多様な活動の広がりとネットワーク化は、豊島区の男女共同参画社会の実現に向けた大きな原動力となっていった。
そうした状況にありながらも、昭和24(1949)年に結成された「豊島区婦人協議会」(27年「豊島区婦人団体協議会」に改称)は、困窮する「戦災未亡人」の母子援護活動にはじまり、自ら資金を集め、35(1960)年に開園した「豊竹保育園」(40年「区立雑司が谷保育園」として区に移管)は、区の乳幼児保育の先駆けとなるものであった(※4)。また、昭和33(1958)年には母親自身が様々な社会問題を学び合う自主的組織「母親勉強会」が結成され、学習テーマの一つに老後・介護問題を取り上げ、デイホームや特別養護老人ホームの設置、有償ボランティアによる高齢者援助サークル作りを区に要請するなど、その後の区の高齢者施策に影響を与えていった。
そうした先進的な取り組みも展開されたが、地域社会は全体として、戦前からの「良き妻、良き母」を理想像とする社会通念を尊重する意識が根強かった。行政が家庭の主婦層をターゲットに展開した事業にも、「女性は家庭に」という旧態依然の考え方が色濃く見られ、社会教育行政の一環として昭和35(1960)年に開始された「婦人学級」や、36(1961)年に社会福祉協議会を中心に組織化された「母親クラブ」、42(1967)年に豊島区が独自に創設した「家庭教育委員」などは、いずれも社会や行政が求める「家庭を守り、地域社会を支える母親」を教化する意味合いが強かった。しかし、スタート時は要請に基づくものであったにしても、家庭から外に出て共に学び合う中で、女性たちの意識は確実に変わっていった。40年代以降、区内各地で誕生した様々な自主グループの活動テーマは子育てや教育問題に限定されず、女性問題はもとより、福祉、環境、平和、国際協力など多岐にわたり、さらに親子読書会やひとり暮らし高齢者への支援等、実践的な活動に取り組むグループも少なくなかった。また昭和57(1982)年には、そうしたグループの交流組織として「豊島区自主グループ連絡会」が結成され、婦人団体協議会とともに、後述する男女平等推進センターの開設やその後の運営に大きく関わっていくことになる。
さらに、従来の「母として、妻として」の枠組みを越え、「自分がどう社会に関わるか」を起点とする多様な活動の広がりとネットワーク化は、豊島区の男女共同参画社会の実現に向けた大きな原動力となっていった。
としま150プラン
昭和50(1975)年にメキシコで開催された国際婦人年世界会議において「世界行動計画」が採択されたことを受け、国連は、翌51(1976)年から60(1985)年までの10年間を「国連婦人の10年」と位置づける宣言をするとともに、加盟各国に世界行動計画に基づく国内行動計画の策定を求めた。これに同調し、国際労働機関(ILO)も同年、婦人労働者の機会及び待遇の均等に関する宣言と行動計画を採択している。また、54(1979)年の国連総会において、女子差別撤廃条約(女子に対するあらゆる形態の差別の撤廃に関する条約)が採択され、加盟各国は、この条約の批准も求められることとなった。
こうした国際的な動きに呼応し、昭和50(1975)年9月、政府は「婦人問題企画推進本部」の設置を閣議決定するとともに、総理大臣の私的諮問機関として、有識者からなる「婦人問題企画推進会議」を設置した。そして昭和52(1977)年2月、この推進会議の意見を踏まえて策定された10か年の国内行動計画は、施策の基本的な方向として5つの柱を示しているが、そのひとつが「男女平等を基本とするあらゆる分野への婦人の参加の促進」であり、これを具体化するとともに女子差別撤廃条約の批准に向けて昭和60(1985)年、男女雇用機会均等法が制定されたのである。
国内外のこうした動きは自治体へも波及し、昭和53(1978)年、東京都は「婦人問題解決のための東京都行動計画」を策定した。また豊島区においても57(1982)年、総務課に婦人問題主査を配置したのを緒に、60(1985)年には婦人児童部婦人青少年課(平成4[1992]年女性児童部女性青少年課に改編)を設置し、男女共同参画の取り組みを本格化させた。この間、昭和57(1982)年に策定された基本計画の施策体系の中にも「婦人の地位向上」が位置づけられ、計画事業のひとつに1,000㎡規模の「婦人会館」の建設が盛り込まれた。
こうした国際的な動きに呼応し、昭和50(1975)年9月、政府は「婦人問題企画推進本部」の設置を閣議決定するとともに、総理大臣の私的諮問機関として、有識者からなる「婦人問題企画推進会議」を設置した。そして昭和52(1977)年2月、この推進会議の意見を踏まえて策定された10か年の国内行動計画は、施策の基本的な方向として5つの柱を示しているが、そのひとつが「男女平等を基本とするあらゆる分野への婦人の参加の促進」であり、これを具体化するとともに女子差別撤廃条約の批准に向けて昭和60(1985)年、男女雇用機会均等法が制定されたのである。
国内外のこうした動きは自治体へも波及し、昭和53(1978)年、東京都は「婦人問題解決のための東京都行動計画」を策定した。また豊島区においても57(1982)年、総務課に婦人問題主査を配置したのを緒に、60(1985)年には婦人児童部婦人青少年課(平成4[1992]年女性児童部女性青少年課に改編)を設置し、男女共同参画の取り組みを本格化させた。この間、昭和57(1982)年に策定された基本計画の施策体系の中にも「婦人の地位向上」が位置づけられ、計画事業のひとつに1,000㎡規模の「婦人会館」の建設が盛り込まれた。
さらに昭和60(1985)年10月、豊島区版行動計画の策定に向け、「豊島区婦人問題懇話会」(会長:藤竹曉学習院大学法学部教授、以下「懇話会」)が設置された。学識経験者4名、婦人団体等選出12名、一般公募9名の計25名で構成される懇話会は、全体会の下に「参加・労働部会」「教育・家庭部会」「健康・福祉部会」の3つの部会を設け、それぞれのテーマごとに検討を進めていった(※5)。その後2年間にわたり全体会11回、専門部会24回、起草委員会28回、さらに区民の意見を聴く会2回の開催を経て、62(1987)年10月、その検討の成果を「婦人問題解決に向けての三つの柱と九十の提言」としてまとめ、区長に提出したのである(※6)。
「女性の自立のために」「女性の参加のために」「男女の共生をめざして」の三つの柱のもとに、90に及ぶ具体策がまとめられた提言は、女性を取り巻く課題と現状分析にあたって、「固定的な性別役割分業観の解消」を根幹的な課題として捉えていた。男女共同社会の実現を女性だけの問題に矮小化するのではなく、男女双方の「自立」を同時に実現していくことが不可欠とし、主に女性が担ってきた家事・育児を「参加」の一つの形として正当に評価するとともに、男女共通の仕事に位置づけ、家庭における男女の「共生」を第一歩に職場・地域社会に広げていくとする「男女共同参画社会」の基本的なあり方を示した。こうした考え方は、以後の区の男女共同参画推進施策の基調を形作るものとなったのである。
「女性の自立のために」「女性の参加のために」「男女の共生をめざして」の三つの柱のもとに、90に及ぶ具体策がまとめられた提言は、女性を取り巻く課題と現状分析にあたって、「固定的な性別役割分業観の解消」を根幹的な課題として捉えていた。男女共同社会の実現を女性だけの問題に矮小化するのではなく、男女双方の「自立」を同時に実現していくことが不可欠とし、主に女性が担ってきた家事・育児を「参加」の一つの形として正当に評価するとともに、男女共通の仕事に位置づけ、家庭における男女の「共生」を第一歩に職場・地域社会に広げていくとする「男女共同参画社会」の基本的なあり方を示した。こうした考え方は、以後の区の男女共同参画推進施策の基調を形作るものとなったのである。
懇話会の提言を受け、区は翌63(1988)年1月、庁内組織として婦人行動計画策定員会を設置し、64年度を初年度する10か年計画の策定作業に着手した。この庁内組織については、第2回定例会の一般質問で、計画策定過程で特に配慮していることは何かとの質問に対して、「本区においては婦人問題を単なる女性側の視点からのみとらえるのではなく、広く男女両性の問題、すなわち人間問題としてとらえ(中略)、男女両性が個人の人生を主体的に選択し、等しく持てる能力を発揮し、社会の発展を支えていくような新たな社会システムの確立を究極の目標としている。その目標達成のためには、まず婦人行動計画策定の意義を全職員が十分に理解し、計画の実現に向けて全庁的な協力体制で臨むことが必要であるとの見地から、策定委員会は男女各半数ずつの委員からなり、その内訳も課長、女性係長、職員団体推薦の女子職員等、幅広い層の職員参加をもった画期的な構成とした」と区長が答えている通り、区の政策決定に関わる検討組織として、これまでに例のないメンバー構成となった。そして、63(1988)年11月、懇話会提言の3つの柱に相当する、「自立の推進」「平等参加の促進」「平和の中の共生」を基本理念とする「としま150プラン-豊島区婦人行動計画-」(以下「150プラン」)が策定された(※7)。
このプランでは、上記3つの基本理念のもとに、150にのぼる施策が体系化されているが、多様化する女性のライフスタイルに合わせ、福祉・健康・子育て・就労・地域活動・生涯学習等多岐にわたり、その中には、区内在住の有名無名女性の様々な歩みをたどる女性史編さん事業や、150プラン推進体制として、区民参加による婦人行動計画会議(仮称)を設置することも盛り込まれていた。この女性史編さん事業は、平成3(1991)年から6年をかけて公募区民の編さん委員たちが足と耳と手でまとめた、聞き書き女性史『風の交叉点』全4集として具体化された(※8)。また、区民参加の会議については、平成元(1989)年6月に、学識経験者9名と公募区民3名で構成される「としま150プラン区民会議」が設置された。委員の任期は2年で、計画期間が終了する10(1998)年度の第5次委員会まで、プランの進捗状況を点検・検証し、改善点等を具申する役割を担った。
そして、基本計画の計画事業に位置づけられていた「婦人会館」の建設についても、改めて「としま女性センター(仮称)」として、この150プランの中に位置づけられたのである。
そして、基本計画の計画事業に位置づけられていた「婦人会館」の建設についても、改めて「としま女性センター(仮称)」として、この150プランの中に位置づけられたのである。
男女平等推進センター(エポック10)
「としま女性センター(仮称)」は、第1節第1項で触れた芝浦工業大学高校跡地の再開発事業である池袋西口の新池袋駅ビル(現在のメトロポリタンプラザビル)の中で開設の具体化が進められた。この跡地開発については、地元と関連事業者等で構成される「池袋駅西口地区開発整備推進協議会」が昭和60(1985)年にまとめた提言の中で、周辺エリア一帯を新たな文化ゾーンとする整備目標のひとつに、公共・民間による文化機能の積極的な配置が掲げられていた。そして、この提言が示した青写真に基づき、文化機能のひとつとして、再開発ビル内に女性センター用の床を提供することが開発の条件とされたのである(※9)。これを受けて平成元(1989)年4月、区と再開発事業施行者である池袋ターミナルビル株式会社及び東武鉄道の三者間で、「新池袋駅ビル(仮称)開発に伴う女性センター及び自転車駐車場の整備に関する協定」が締結され、さらに4(1992)年5月には、区と駅ビルの管理事業者となる池袋ターミナルビルの間で、女性センターが入居するビル10階約1,000㎡の賃貸借契約が締結された。その賃借料は、保証金ゼロ、家賃は規定の5分の1の坪単価1万円という破格の条件だった。
再開発事業者との調整と並行し、平成元(1989)年4月、同センターの機能やあり方を検討するため、学識経験者と関係団体から選出された女性たちをメンバーとする「としま女性センター(仮称)開設準備委員会」(委員長:庄司洋子立教大学教授)が設置された。同委員会では、150プランに示されていた情報・相談・学習の3つの機能を具体化する施設レイアウトをはじめ、内装や備品、開設後の運営や事業展開にいたるまで、利用する立場から様々な角度での検討を重ねていった。こうしてハード・ソフト両面から、開設に向けた準備は着々と進められていったのである(※10)。
平成4年(1992)年3月、区議会第1回定例会において設置条例案が議決され、「としま女性センター(仮称)」の正式名称は「豊島区立男女平等推進センター」に決定された。これまで他自治体で開設された同様施設が「婦人会館」「女性センター」という名称であったのに対し、男性も含めた「男女共同参画」の拠点施設になるようにと、開設準備員会で考えられたものであり、「男女」が謳いこまれた施設名は全国でも例がなかった。また正式名称とは別に、より身近な施設として利用してもらえるよう、愛称名とシンボルマークが一般公募され、それぞれ182点、81点の応募作品の中から、「エポック10(テン)」の愛称名と、限りない飛躍・可能性を表現したシンボルマークが選ばれた(※11)。愛称名は、英語の「Equal Participation of Community Habitants(地域住民の平等参加)」の略であり、「新しい時代」「画期的な時代」を意味する「Epoch(エポック)」と、施設がメトロポリタンビル10階に開設されることから「10」を組み合わせたもので、地域のあらゆる人々が平等に参加できる、新しい時代を創造する画期的な拠点になるようにとの願いが込められている。
こうして平成4(1992)年6月10日、初代所長に元朝日新聞編集委員の佐藤洋子氏を迎え、男女平等推進センター「エポック10」はオープンの日を迎えた(※12)。
開設準備委員会委員長を務めた庄司洋子立教大学教授の推薦を受け、豊島区初の民間登用となった佐藤洋子氏は、所長就任にあたって次のような思いを区広報紙に寄せている(※13)。
開設準備委員会委員長を務めた庄司洋子立教大学教授の推薦を受け、豊島区初の民間登用となった佐藤洋子氏は、所長就任にあたって次のような思いを区広報紙に寄せている(※13)。
-(前略)より選択肢の多い、性別にとらわれない生き方を選べる社会をもたらすために、どんな地域社会をわたしたちはひらいていかなければいけないのか。そのために女と男がどう関わり合っていけばいいのか。じっくりと腰を据えて、「エポック10」に集う女性たち、そして無論男性たちとも、区民の皆さんと、より実践的でより具体的な方向性をともに模索していきたいと思います。
※12 H040609プレスリリース
そしてその言葉通りに、ジャーナリストとして培ってきた問題意識や洞察力、幅広い人脈をフルに活用し、第一線で活躍する著名人を講師に招いての講演会や、所長自らがインタビュアーとなって旬の問題に切り込むインタビュートーク、さらに女性のためのキャリア支援講座から男性のため介護料理教室まで多彩なプログラムを展開し、主催事業の延べ参加者数は年間3,000人を超えた。
約1,000㎡のフロアには、女性問題に関する資料を揃えた情報コーナーや気軽に意見交換ができる交流コーナーのほか、様々なイベントに利用できる多目的ホール、印刷機・製本機を備えたワーク室など、利用団体・グループの活動拠点としての諸機能が備えられていた。さらに、電話でも受け付ける一般相談のほか、法律やからだ、こころに関する相談に弁護士・医師・カウンセラー等が対応する専門相談は午後9時まで予約を受け付けるなど、駅ビル内の立地を活かした相談事業も実施され、一般・専門合わせた相談件数は年間2,000件近くにのぼった。また、運営に利用者の意見を反映し、区民や利用者の要望に沿った利用しやすいセンターにするため、登録団体と一般公募の区民が参加する運営委員会方式は現在も続いている。
約1,000㎡のフロアには、女性問題に関する資料を揃えた情報コーナーや気軽に意見交換ができる交流コーナーのほか、様々なイベントに利用できる多目的ホール、印刷機・製本機を備えたワーク室など、利用団体・グループの活動拠点としての諸機能が備えられていた。さらに、電話でも受け付ける一般相談のほか、法律やからだ、こころに関する相談に弁護士・医師・カウンセラー等が対応する専門相談は午後9時まで予約を受け付けるなど、駅ビル内の立地を活かした相談事業も実施され、一般・専門合わせた相談件数は年間2,000件近くにのぼった。また、運営に利用者の意見を反映し、区民や利用者の要望に沿った利用しやすいセンターにするため、登録団体と一般公募の区民が参加する運営委員会方式は現在も続いている。
開設当初の男女平等推進センターの事業実績は、各年度の成果報告に見ることができるが、センターの情報・相談・学習及び交流機能を有機的に活用した幅広い事業展開には目をみはらされる(※14)。また、エポック10を活動拠点とする女性たちのエネルギーが結集した、まさに「エポック」な状況は、当時の担当課長によるレポートからもうかがえる(※15)。そうした多くの女性たちに支えられながら、エポック10で展開された先駆的な取り組みは全国的にも注目を集めたが、公共施設に息を吹き込むのは、そこに集う人であり活動であるという、ひとつのモデルを示すものであったと言えるだろう。
だが危機的な財政状況を立て直すため、平成15(2003)年10月に公表された「公共施設の再構築・区有財産の活用本部案」(豊島区行財政改革推進本部)の中で、男女平等推進センターについては「借上げ施設であり、区有施設に移設後、返却する」との案が示された。公共施設に係る管理運営経費が区財政の大きな圧迫要因になっていたことから、そのあり方を見直し、再構築の視点のひとつに「民間からの借り上げ施設は、極力、区有施設内に移転する」との方針が掲げられたことによるものだった。加えて、規定より低廉に抑えられているとは言え、共益費を含め年間約6,200万円にのぼる賃借料を払い続けることは、当時の財政状況では困難になっていたのである。こうした方針に基づき、庁内に設置された移転推進プロジェクトチームで検討が行なわれ、移転先として勤労福祉会館が最適と判断された。
翌16(2004)年2月、この移転案を検討するため運営委員会委員や利用団体推薦者等で構成される「男女平等推進センター移転検討委員会」が設置された。委員会は、緊急かつ切迫した区の提案に戸惑いつつも、「今回の勤労福祉会館への移転は、暫定的なものであり、将来新庁舎等建設計画や区民センター改築計画の中で改めてセンターを配置すること」「勤労福祉会館への移転については、センターの現行機能が継続発揮できるように、施設整備、機能配置、勤労福祉会館との共用のあり方等について、検討委員会の意見を最大限尊重すること」という二つの附帯条件をつけて勤労福祉会館への移転を了承した(※16)。
こうして、平成17(2005)年3月、男女平等推進センターは、メトロポリタンプラザビルで展開された13年間に及ぶ先進的な活動を「エポック10」の愛称とともに継承していくことをめざし、勤労福祉会館での新たなスタートをきったのである(※17)。
だが危機的な財政状況を立て直すため、平成15(2003)年10月に公表された「公共施設の再構築・区有財産の活用本部案」(豊島区行財政改革推進本部)の中で、男女平等推進センターについては「借上げ施設であり、区有施設に移設後、返却する」との案が示された。公共施設に係る管理運営経費が区財政の大きな圧迫要因になっていたことから、そのあり方を見直し、再構築の視点のひとつに「民間からの借り上げ施設は、極力、区有施設内に移転する」との方針が掲げられたことによるものだった。加えて、規定より低廉に抑えられているとは言え、共益費を含め年間約6,200万円にのぼる賃借料を払い続けることは、当時の財政状況では困難になっていたのである。こうした方針に基づき、庁内に設置された移転推進プロジェクトチームで検討が行なわれ、移転先として勤労福祉会館が最適と判断された。
翌16(2004)年2月、この移転案を検討するため運営委員会委員や利用団体推薦者等で構成される「男女平等推進センター移転検討委員会」が設置された。委員会は、緊急かつ切迫した区の提案に戸惑いつつも、「今回の勤労福祉会館への移転は、暫定的なものであり、将来新庁舎等建設計画や区民センター改築計画の中で改めてセンターを配置すること」「勤労福祉会館への移転については、センターの現行機能が継続発揮できるように、施設整備、機能配置、勤労福祉会館との共用のあり方等について、検討委員会の意見を最大限尊重すること」という二つの附帯条件をつけて勤労福祉会館への移転を了承した(※16)。
こうして、平成17(2005)年3月、男女平等推進センターは、メトロポリタンプラザビルで展開された13年間に及ぶ先進的な活動を「エポック10」の愛称とともに継承していくことをめざし、勤労福祉会館での新たなスタートをきったのである(※17)。
としま男女共同参画推進プラン
一方、昭和63(1988)年に策定された150プランの計画期間終了に伴い、新たな行動計画の策定に向け、平成10(1998)年5月、「男女共同参画推進懇話会」(会長:秋元樹日本女子大学人間社会学部教授、以下「推進懇話会」)が設置された。学識経験者6名、団体選出9名、一般公募5名の計20名で構成される推進懇話会は、150プラン策定以降の女性問題をめぐる国内外の動きを踏まえ、新行動計画の基本的な考え方について検討を重ねていった。2年にわたる検討を経て12(2000)年3月、その成果を「21世紀への提言・男女共同参画社会をめざして」にまとめ、区長に提出した(※18)。
この提言は、「Ⅰ.男女の平等と共同参画への意識の形成(意識変革)」「Ⅱ.日常生活の場における男女の平等と共同参画の実現(行動変革)」「Ⅲ.女性の人権の尊重と生涯を通じた健康の支援(人権尊重)」「Ⅳ.男女共同参画を推進する地域社会システムの構築(システム変革)」の4つを基本目標に掲げている。特に、Ⅲの人権尊重の背景には、女性に対する暴力(DV:ドメスティック・バイオレンス)や、生涯を通じての健康と、自分のからだと性に対する自己決定の権利(リプロダクティブ・ヘルス/ライツ)等、新たな課題への対応が盛り込まれた。また、この基本目標を達成するための専管組織の設置をはじめ、男女共同参画基本条例(仮称)」の制定や「男女共同参画都市宣言」など、男女共同参画に対する意識をより広げていく取り組みも示された。
この提言は、「Ⅰ.男女の平等と共同参画への意識の形成(意識変革)」「Ⅱ.日常生活の場における男女の平等と共同参画の実現(行動変革)」「Ⅲ.女性の人権の尊重と生涯を通じた健康の支援(人権尊重)」「Ⅳ.男女共同参画を推進する地域社会システムの構築(システム変革)」の4つを基本目標に掲げている。特に、Ⅲの人権尊重の背景には、女性に対する暴力(DV:ドメスティック・バイオレンス)や、生涯を通じての健康と、自分のからだと性に対する自己決定の権利(リプロダクティブ・ヘルス/ライツ)等、新たな課題への対応が盛り込まれた。また、この基本目標を達成するための専管組織の設置をはじめ、男女共同参画基本条例(仮称)」の制定や「男女共同参画都市宣言」など、男女共同参画に対する意識をより広げていく取り組みも示された。
区はこの提言に基づき、平成12(2000)年4月の組織改正でそれまで児童女性部だった所管を総務部に移し、「男女共同参画推進課」を新設するとともに、「男女共同参画推進行動計画策定委員会」を庁内に設置した。また、同年8月には、10(1998)年に実施した「男女平等社会に関する住民意識調査」等の分析結果をもとに、区では初となる「豊島区男女共同参画白書(豊島区における男女共同参画の現況)」を公表した(※19)。
この白書でも、家庭と仕事の男女役割分業観や職場での男女平等の現状に依然として男女間の意識に差があることや、地域活動や政策・方針決定の場への男女共同参画も未だ十分に進んでいない現状が明らかにされた。さらに20~30歳代女性の約4割が職場でのセクシャル・ハラスメント被害を「見たり聞いたり、受けたことがある」と回答しており、配偶者・パートナーからの暴力についても「経験がある」との回答が男女とも約2割を占め、そのうち「殴る、蹴る」という暴力を受けたことがある女性が約15%にのぼるなど、深刻な実態が明らかにされた。
この白書でも、家庭と仕事の男女役割分業観や職場での男女平等の現状に依然として男女間の意識に差があることや、地域活動や政策・方針決定の場への男女共同参画も未だ十分に進んでいない現状が明らかにされた。さらに20~30歳代女性の約4割が職場でのセクシャル・ハラスメント被害を「見たり聞いたり、受けたことがある」と回答しており、配偶者・パートナーからの暴力についても「経験がある」との回答が男女とも約2割を占め、そのうち「殴る、蹴る」という暴力を受けたことがある女性が約15%にのぼるなど、深刻な実態が明らかにされた。
こうした現状分析を踏まえ、区は平成13(2001)年3月、審議会等の附属機関の公募割合を25%まで高めることを目標とし、その構成も男女のいずれか一方が40%未満になることがないよう努める旨を定めた「附属機関等の委員公募等に関する基本方針」を作成し、女性委員の積極的な登用を推進していった(※20)。そして同じく4月、庁内策定委員会の検討を経て、第2次行動計画となる「としま男女共同参画推進プラン」(計画期間:平成13~22年度の10か年、以下「推進プラン」)を策定した(※21)。
推進懇話会の提言を踏まえ、意識変革・行動変革・人権尊重・システム改革の4つを基本目標とする推進プランは、各目標のもとに10の基本課題を掲げ、86施策・121事業を体系化しているが、特に社会問題となっているドメスティック・バイオレンスの実態調査や専門相談窓口の設置、緊急一時保護機能の充実等を重点事業に位置づけている。また、「男女共同参画基本条例(仮称)」、「男女共同参画都市宣言」についても、改めて推進プランの中に位置づけられた。さらに150プランと同様に、推進体制として区民参画による「(仮称)行動計画推進会議」を設置することを盛り込むとともに、国内外の状況や社会経済環境の変化等に応じて計画期間中に見直しを図っていくこととした。
推進懇話会の提言を踏まえ、意識変革・行動変革・人権尊重・システム改革の4つを基本目標とする推進プランは、各目標のもとに10の基本課題を掲げ、86施策・121事業を体系化しているが、特に社会問題となっているドメスティック・バイオレンスの実態調査や専門相談窓口の設置、緊急一時保護機能の充実等を重点事業に位置づけている。また、「男女共同参画基本条例(仮称)」、「男女共同参画都市宣言」についても、改めて推進プランの中に位置づけられた。さらに150プランと同様に、推進体制として区民参画による「(仮称)行動計画推進会議」を設置することを盛り込むとともに、国内外の状況や社会経済環境の変化等に応じて計画期間中に見直しを図っていくこととした。
この方針に基づき、平成19(2007)年12月、行動計画としては第2次となる推進プランの改定が行われた(※22)。この改定版では、ワーク・ライフ・バランスの推進等の新たな課題に対応するとともに、男女共同参画推進条例の理念に基づき、課題や施策を明確化・重点化し、より実効性あるプランとするため、13(2011)年策定の推進プランが掲げていた基本目標・基本課題を新たに4つの目標と9つの重点課題に再編し、21施策・78事業を体系化した。また、それぞれの課題について、23(2011)年度までに達成すべき具体的な数値目標を設定し、その達成状況を毎年公表していくこととしている。以後、推進プランは、配偶者等暴力防止基本計画等を取り込む形で、第3次(平成23[2011]年12月)、第4次(平成28[2016]年12月)の行動計画が策定され、現在に至っている。
都市宣言から条例制定へ
推進プランの中に位置づけられた「男女共同参画基本条例(仮称)」、「男女共同参画都市宣言」について検討するため、平成13(2001)年6月、「豊島区男女共同参画推進会議」(会長:秋元樹日本女子大学人間社会学部教授、以下「推進会議」)が設置された(第1回会議:7月13日開催)(※23)。
学識経験者、団体推薦、公募区民等による男性5名、女性7名の計12名で構成される推進会議は、男女共同参画社会の実現に向けた気運を盛り上げていくため、まずは都市宣言の具体化から検討を始め、宣言に盛り込むべき事項や理念、宣言に伴って実施すべき普及啓発事業等について議論を重ねていった。そして、13(2001)年12月に宣言文の素案を公表(※24)、パブリックコメント(区民意見募集)を経て、14(2002)年2月の区議会第1回定例会において、全会一致で可決された(※25)。
宣言は、豊島区の地域性を踏まえつつ、めざすべき都市像を掲げて宣言の決意を表明する前文に続き、推進プランに基本目標として掲げられた「意識変革」「行動変革」「人権尊重」「システム改革」に対応する4つのキーワードで取り組むべき方向性を分かりやすく示し、一人ひとりに呼びかけるようなやわらかい表現で書かれている。特に最初のキーワードの「女(ひと)と男(ひと)」は、男女平等推進センターが開館周年事業として毎年開催している「エポック10まつり」のテーマ「輝いて!女(ひと)と男(ひと)」に重なり、また、男女共同参画を女性だけでなく男女共通の課題に位置づける区の基本理念に通じるものである。
宣言文全文は以下の通り。
多くの芸術文化をはぐくんできたまち。
性別や世代、国籍の違いを越え、
多様な人々が暮らし、働き、集うまち。
わたしたちは、お互いの人権を尊重し、
活力と輝きに満ちた豊島区の実現をめざし、
ここに「男女共同参画都市」を宣言します。
自分らしく生きたいという気持ちを大切にしていこう。
合い、お互いに助け合おう。
る豊島区をみんなでつくっていこう。
向けて発信していこう。
平成14年2月15日 豊島区
学識経験者、団体推薦、公募区民等による男性5名、女性7名の計12名で構成される推進会議は、男女共同参画社会の実現に向けた気運を盛り上げていくため、まずは都市宣言の具体化から検討を始め、宣言に盛り込むべき事項や理念、宣言に伴って実施すべき普及啓発事業等について議論を重ねていった。そして、13(2001)年12月に宣言文の素案を公表(※24)、パブリックコメント(区民意見募集)を経て、14(2002)年2月の区議会第1回定例会において、全会一致で可決された(※25)。
宣言は、豊島区の地域性を踏まえつつ、めざすべき都市像を掲げて宣言の決意を表明する前文に続き、推進プランに基本目標として掲げられた「意識変革」「行動変革」「人権尊重」「システム改革」に対応する4つのキーワードで取り組むべき方向性を分かりやすく示し、一人ひとりに呼びかけるようなやわらかい表現で書かれている。特に最初のキーワードの「女(ひと)と男(ひと)」は、男女平等推進センターが開館周年事業として毎年開催している「エポック10まつり」のテーマ「輝いて!女(ひと)と男(ひと)」に重なり、また、男女共同参画を女性だけでなく男女共通の課題に位置づける区の基本理念に通じるものである。
宣言文全文は以下の通り。
豊島区男女共同参画都市宣言
副都心の‘にぎわい’と豊かな歴史の中で、多くの芸術文化をはぐくんできたまち。
性別や世代、国籍の違いを越え、
多様な人々が暮らし、働き、集うまち。
わたしたちは、お互いの人権を尊重し、
活力と輝きに満ちた豊島区の実現をめざし、
ここに「男女共同参画都市」を宣言します。
女(ひと)と男(ひと) 一人ひとりがその人らしく
性別などの違いにかかわりなく、お互いの個性を尊重し合い、自分らしく生きたいという気持ちを大切にしていこう。
分かち合い 助け合い
家庭、職場、地域それぞれの場で出あう喜びや困難は、分かち合い、お互いに助け合おう。
ともに暮らしたい 豊島のまちで
誰もが健康で安心して暮らしていける、そんな願いが実現できる豊島区をみんなでつくっていこう。
豊島区民として 地球市民として
男女共同参画、平和、地球環境の大切さを、豊島区から世界に向けて発信していこう。
平成14年2月15日 豊島区
この都市宣言記念事業は、6月8・9日の男女平等推進センター開館10周年記念に合わせて「エポック10まつり2002」を皮切りに、11月9日には豊島公会堂を会場に内閣府男女共同参画推進本部と豊島区の共催による記念式典が開催された。内閣府の男女共同参画宣言都市奨励事業として実施されたもので、今後区は宣言都市の一員として国が実施する諸事業に正式に加わっていくこととなった。さらに翌15(2003)年1月18日には、地域活動団体代表者など40名(議員定数と同数)が参加し、本会議さながらの質疑応答を繰り広げる「模擬区議会」が開催された。また、記念式典に合わせ、区内小中学生を対象に、男女平等や男女がともに生きる社会をテーマとする作文・ポスターを募集するなど、広く都市宣言の普及啓発が図られた(※26)。
都市宣言に続き、推進会議は「男女共同参画基本条例(仮称)」の検討に着手し、14(2002)年9月に「条例の基本的考え方についての中間まとめ」を公表(※27)、パブリックコメントを経て、15(2003)年1月、「条例の基本的な考え方についての答申」を区長に提出した(※28)。
答申は、条例に盛り込むべき内容として、6つの基本理念と、セクシャル・ハラスメントやDV等の性別に起因する人権侵害の禁止、拠点施設(男女平等推進センター)の設置、雇用分野における参画推進に加え、新たな仕組みとして「男女共同参画苦情処理委員(仮称)」の設置を提起している。この苦情処理委員は、男女共同参画推進に関する区の施策についての苦情申出や、性別に起因する人権侵害等の救済申出を処理することを目的とし、行政から独立した第三者機関に位置づけられるものであった。
都市宣言に続き、推進会議は「男女共同参画基本条例(仮称)」の検討に着手し、14(2002)年9月に「条例の基本的考え方についての中間まとめ」を公表(※27)、パブリックコメントを経て、15(2003)年1月、「条例の基本的な考え方についての答申」を区長に提出した(※28)。
答申は、条例に盛り込むべき内容として、6つの基本理念と、セクシャル・ハラスメントやDV等の性別に起因する人権侵害の禁止、拠点施設(男女平等推進センター)の設置、雇用分野における参画推進に加え、新たな仕組みとして「男女共同参画苦情処理委員(仮称)」の設置を提起している。この苦情処理委員は、男女共同参画推進に関する区の施策についての苦情申出や、性別に起因する人権侵害等の救済申出を処理することを目的とし、行政から独立した第三者機関に位置づけられるものであった。
この答申を受け、区は条例案を策定し、15(2003)年2月の区議会第1回定例会に提案した(※29)。3月20日、議会の議決を経て、「豊島区男女共同参画推進条例」が制定されたのである(※30)。条例の施行は同年4月1日、苦情処理委員制度については7月1日から運用が開始された(※31)。
都市宣言は文字通り、男女共同参画都市としての決意を区民とともに内外に宣言するものであり、条例の制定は男女共同参画を推進していくための基本理念、基本ルール、基本的な仕組み等を定めるもので、いずれも男女共同参画を永続的な取り組みとして制度化したものと言える。それは昭和60(1985)年の婦人問題懇話会設置以来、約20年にわたる男女共同参画社会の実現に向けた豊島区の取り組みのひとつの到達点であるとともに、また新たなスタート地点となるものであったと言えるだろう。
都市宣言は文字通り、男女共同参画都市としての決意を区民とともに内外に宣言するものであり、条例の制定は男女共同参画を推進していくための基本理念、基本ルール、基本的な仕組み等を定めるもので、いずれも男女共同参画を永続的な取り組みとして制度化したものと言える。それは昭和60(1985)年の婦人問題懇話会設置以来、約20年にわたる男女共同参画社会の実現に向けた豊島区の取り組みのひとつの到達点であるとともに、また新たなスタート地点となるものであったと言えるだろう。