平成不況の長期化は地域経済の停滞を招き、それとともに企業業績の悪化により雇用や賃金が低下し、消費はさらに冷え込むという悪循環を引き起こしていった。その結果、社会は複雑さを増し、国も地方も多様化する政策課題への対応を迫られる一方、諸税収入は著しく落ち込み、歳入と歳出のバランスを大きく崩して財政赤字を拡大させていった。
豊島区もその例外ではなく、バブル崩壊以降、むしろ23区の中でもとりわけ急速かつ深刻な財政悪化に直面することとなった(※1)。その要因を探るべく、本項ではバブル崩壊前後の区の財政運営の軌跡をたどっていく。
豊島区もその例外ではなく、バブル崩壊以降、むしろ23区の中でもとりわけ急速かつ深刻な財政悪化に直面することとなった(※1)。その要因を探るべく、本項ではバブル崩壊前後の区の財政運営の軌跡をたどっていく。
肥大化する財政規模
図表1-⑭は、昭和61(1986)年度から平成15(2003)年度までの一般会計決算の推移をまとめたものであるが、これを見ると、歳入総額625億円、歳出総額594億円だった61(1986)年度一般会計は、その後、毎年、かつてないほどの勢いで拡大し続け、わずか6年後の平成3(1991)年度にはおよそ1.7倍にあたる1,000億円を突破した。昭和62(1987)年度~平成4(1992)年度の歳出総額を伸び率に換算すると、平成2(1990)年度と4(1992)年度は前年度比3%台後半に止まっているものの、63(1988)年度は19.7%と極めて高く、それ以外の年度はいずれも13%を超えている。
また歳入総額から歳出総額と翌年度に執行を繰り越す経費の二つを差し引いた実質収支は、61(1986)年度に31億円、62(1987)年度は過去最高黒字となる45億円を記録し、以降平成5(1993)年度まで30億円を超えている。しかし前年の実質収支を除いた単年度収支で見ると、既に昭和63(1988)年度から赤字が生じており、さらに年度間の財源の不均衡を調整するための財政調整基金の取崩額や庁舎等建設基金など特定目的のために積み立てた基金の運用額を差し引いた事実上の収支では、歳出超過による赤字幅はより大きなものとなっていた。
家計に例えるなら、収入を超えて増え続ける支出を賄うために、いざという時に備えて蓄えていた貯金を取り崩し、それでも足りず、積み立ていたマイホーム資金からも引き出して穴埋めしているような状態と言える。しかもこうした財政運営は平成2(1990)年度以降、より拡大し常態化していったのである。
また歳入総額から歳出総額と翌年度に執行を繰り越す経費の二つを差し引いた実質収支は、61(1986)年度に31億円、62(1987)年度は過去最高黒字となる45億円を記録し、以降平成5(1993)年度まで30億円を超えている。しかし前年の実質収支を除いた単年度収支で見ると、既に昭和63(1988)年度から赤字が生じており、さらに年度間の財源の不均衡を調整するための財政調整基金の取崩額や庁舎等建設基金など特定目的のために積み立てた基金の運用額を差し引いた事実上の収支では、歳出超過による赤字幅はより大きなものとなっていた。
家計に例えるなら、収入を超えて増え続ける支出を賄うために、いざという時に備えて蓄えていた貯金を取り崩し、それでも足りず、積み立ていたマイホーム資金からも引き出して穴埋めしているような状態と言える。しかもこうした財政運営は平成2(1990)年度以降、より拡大し常態化していったのである。
図表1-⑮は、各年度の歳入総額の財源内訳と歳出総額の性質別内訳をグラフで表したものである。これを見ると、区の歳入の2大財源である特別区税と特別区交付金の合計額は平成元年度をピークに減少に転じているが、歳出総額はバブル崩壊後も拡大を続け、特に平成3(1991)~5(1993)年度の3年間は1,000億円を超える規模にまで膨れ上がっている。その歳入を押し上げたのは、平成元(1989)年度から5(1993)年度にかけて一気に拡大した投資的経費であり、この間に公共施設整備のために発行せざるを得なかった区債は3(1991)年度と4(1992)年度に2年連続して100億円を超えていた。
これも家計に例えるなら、毎年、給料等の収入が減っているにもかかわらず、無理をして高額なローンをいくつも組み、マイホームのほか土地や建物に多額の資金を注ぎ込んでいったようなもので、そのようなことを続けていては早晩、首が回らなくなることは火を見るよりも明らかだった。
これも家計に例えるなら、毎年、給料等の収入が減っているにもかかわらず、無理をして高額なローンをいくつも組み、マイホームのほか土地や建物に多額の資金を注ぎ込んでいったようなもので、そのようなことを続けていては早晩、首が回らなくなることは火を見るよりも明らかだった。
バブル景気による税収増に支えられ、増加傾向にあった特別区税(特別区民税、軽自動車税、たばこ税等)は、そのバブルが崩壊した翌4(1992)年度には過去最高額の309億円に達したが、その後、減少に転じ、低迷状態は長引く不況とともに平成10年代後半まで続いた。
また、大都市地域の行政を都と23区で分担する都区財政調整制度に基づき、その財源として各区に配分される特別区交付金も、平成元(1989)年度の360億円をピークに減少に転じ、特別区税と同様、景気が回復基調に乗る10年代後半まで低迷状態が続いていったのである。
この特別区交付金は財源配分の均衡を図るため、都が徴収する固定資産税、市町村民税法人分及び特別土地保有税の調整3税を主な原資に、その一定割合を特別区の財源として交付する仕組みで、普通交付金と災害等の特別の財政需要が生じた場合に交付される特別交付金の2種類がある。このうち普通交付金は、都が各区の基準財政需要額と基準財政収入額を算定し、財源不足額に応じて各区に交付するもので、その基準財政需要額は議会総務費や民生費、経済労働費、教育費などの経常的経費と公共施設の整備経費などの投資的経費に大別される。豊島区ではこの投資的経費が基準財政需要額に占める割合が昭和62(1987)年度には15.6%であったものが、翌63(1983)年度に20.2%と2割を超え、以後平成元(1989)年度から5(1993)年度までの5年間はいずれも25%以上になっており、特に4(1992)年度には32.3%に達していた。一方、バブル崩壊後の平成3(1991)年度以降、都の法人税収入は記録的な減収が続き、交付金をめぐる都区間の調整は年を追うごとに厳しさを増し、基準財政需要額を圧縮するために算定基準の大幅な見直しや投資的経費の繰り延べ措置が行われた。平成4(1992)年度から6年連続して行なわれたこの繰り延べ措置の結果、平成9(1997)年度当初の区の繰り延べ累積額は372億円にのぼっていたのである(※2)。
また、大都市地域の行政を都と23区で分担する都区財政調整制度に基づき、その財源として各区に配分される特別区交付金も、平成元(1989)年度の360億円をピークに減少に転じ、特別区税と同様、景気が回復基調に乗る10年代後半まで低迷状態が続いていったのである。
この特別区交付金は財源配分の均衡を図るため、都が徴収する固定資産税、市町村民税法人分及び特別土地保有税の調整3税を主な原資に、その一定割合を特別区の財源として交付する仕組みで、普通交付金と災害等の特別の財政需要が生じた場合に交付される特別交付金の2種類がある。このうち普通交付金は、都が各区の基準財政需要額と基準財政収入額を算定し、財源不足額に応じて各区に交付するもので、その基準財政需要額は議会総務費や民生費、経済労働費、教育費などの経常的経費と公共施設の整備経費などの投資的経費に大別される。豊島区ではこの投資的経費が基準財政需要額に占める割合が昭和62(1987)年度には15.6%であったものが、翌63(1983)年度に20.2%と2割を超え、以後平成元(1989)年度から5(1993)年度までの5年間はいずれも25%以上になっており、特に4(1992)年度には32.3%に達していた。一方、バブル崩壊後の平成3(1991)年度以降、都の法人税収入は記録的な減収が続き、交付金をめぐる都区間の調整は年を追うごとに厳しさを増し、基準財政需要額を圧縮するために算定基準の大幅な見直しや投資的経費の繰り延べ措置が行われた。平成4(1992)年度から6年連続して行なわれたこの繰り延べ措置の結果、平成9(1997)年度当初の区の繰り延べ累積額は372億円にのぼっていたのである(※2)。
こうしたことからも、歳入の先行きに陰りが出始めてなお、公共施設整備に邁進し続けていたことがうかがえるが、それは歳出性質別内訳のグラフを見ればより明らかである。このグラフに赤色で示された投資的経費は、平成元(1989)年度以降突出して増大しており、人件費(議員等報酬、職員給与など)や扶助費(生活保護費、老人ホーム等施設への措置費など)等、経常的に避けられない義務的経費も年々増加してはいるものの、歳出総額が1,000億円を超えた平成3(1991)~5(1993)年度の3年間は、歳出総額の約3割を投資的経費が占めていた。また前述した通り、平成3(1991)年度以降の多額の区債発行が、その後の元利償還のための公債費となって後年度の区財政に重くのしかかっている状況も見て取れるのである(※3)。
本章第1節第2項でも述べたように、区は平成元(1989)年2月に用地買収等を含む総事業費1,004億2千万円にのぼる「公共施設整備中期計画」を策定し(※4)、さらにそのわずか2年後の3(1991)年1月には、同時に策定された「高齢社会対策総合計画」前期施設建設事業を含む総事業費1,087億円にのぼる「新公共施設整備中期計画」を策定して計画の拡大を図った(※5)。そしてこれらの計画に基づき、特別養護老人ホームなどの高齢者施設や高齢者住宅のほか、障害者福祉施設、図書館、社会教育施設、スポーツ施設、公園、自転車駐車場、区民住宅などの施設を次々に建設していったのである(図表1-①参照)。
言うまでもないが、大規模施設の整備には用地取得から竣工まで少なくとも3~4年はかかり、着工後に途中で工事を止めるのはかなり難しい。バブル崩壊以前に計画され、その計画に基づき整備された大規模施設も、財政環境が厳しくなったからと言って直ちに工事を止めるわけには行かなかったものがほとんどだった。
平成5(1993)年区議会第1回定例会にあたり、5年度予算の編成に起債22億、財政調整基金と用地取得基金の取崩し50億、さらに庁舎等建設基金の運用43億、合計115億円もの財源対策を講じなければならなかった財政状況(※6)と、6(1994)年度予算も含めたその先の財政見通しをどのように分析しているかと問われたのに対し、加藤区長は以下のように答えている。
本章第1節第2項でも述べたように、区は平成元(1989)年2月に用地買収等を含む総事業費1,004億2千万円にのぼる「公共施設整備中期計画」を策定し(※4)、さらにそのわずか2年後の3(1991)年1月には、同時に策定された「高齢社会対策総合計画」前期施設建設事業を含む総事業費1,087億円にのぼる「新公共施設整備中期計画」を策定して計画の拡大を図った(※5)。そしてこれらの計画に基づき、特別養護老人ホームなどの高齢者施設や高齢者住宅のほか、障害者福祉施設、図書館、社会教育施設、スポーツ施設、公園、自転車駐車場、区民住宅などの施設を次々に建設していったのである(図表1-①参照)。
言うまでもないが、大規模施設の整備には用地取得から竣工まで少なくとも3~4年はかかり、着工後に途中で工事を止めるのはかなり難しい。バブル崩壊以前に計画され、その計画に基づき整備された大規模施設も、財政環境が厳しくなったからと言って直ちに工事を止めるわけには行かなかったものがほとんどだった。
平成5(1993)年区議会第1回定例会にあたり、5年度予算の編成に起債22億、財政調整基金と用地取得基金の取崩し50億、さらに庁舎等建設基金の運用43億、合計115億円もの財源対策を講じなければならなかった財政状況(※6)と、6(1994)年度予算も含めたその先の財政見通しをどのように分析しているかと問われたのに対し、加藤区長は以下のように答えている。
-問題は6年度です、おっしゃるとおりに。これはもうだれに聞いても6年度。国もそうですけれども、都もそうです、全国の自治体ほとんどがそうだと思います、6年度をどうするかと。これを乗り切れるか乗り切れないかということは、本当に大変なことだと思っております…ただ今年の場合は財政の規模が1.2%増という微増にとどまりましたけれども、投資的経費だけは 13. 6%増と突出しましたのは、今までの計画でこれはバブル時代につくった計画でございます。この計画に基づいて着工した事業が、既に本年度中にこの3月からでございますが、秀山荘から始まりまして、秀山荘とか長崎六丁目の集合施設、それも含めまして 10施設完成するのですよね。これは大きな事業で、この建物だけでも 110億という規模のものが、この10施設、5年度中に完成をいたします。この手当を5 年度中に支払わなければならない、施設建設費の5年度中に払わなければならない金だけで、実に投資的経費が 13. 6%増えてしまったのです。これはもういわば義務的な経費ですよ。どうしても払わざるを得ない。契約を解除しない限りもう着工しているのですから。こういうことでみんな頭打ちばかりではないと思いますが、これほど急激に落ち込むということはもう予想もしなかったです、昨年の秋までは。だものですから、これほどでありますれば、庁舎にまで手をつけないということが昨年の暮れあたりで予測できておれば、例えば生活産業プラザとか猪苗代青少年センターの着工は、それはもう少し前の段階だと思いますけれども、こういうのも着工しなかったでしょうと思います。着工してしまったので、これはどうしようもないということでございます。
このあまりにストレートな区長答弁にも、走り出してしまった事業を止めるに止められないジレンマと、急激な財政環境の悪化を予想できなかったことに対する忸怩たる思いが滲んでいる。ただ当時はそれでも景気回復に光を見出そうとしていたのか、年間10施設もの整備ラッシュを性急に押し進めた結果の弁としては、やや厳しさを欠いた面がある内容であった。
こうした後戻りのできない施設建設による投資的経費の増大に加え、本章第1節第3項でも述べたように、バブルにより地価が高騰した時期に土地開発公社を設立し、多額の用地買収を推し進めていったことも投資的経費をさらに増大させた大きな要因であった。
図表1-⑯は、本章第1節第3項で示した図表1-②用地買収費の推移をグラフ化したものであるが、これでわかるとおり、平成3(1991)年度の用地買収費は前年度、及び前々年度のほぼ2倍と極めて突出している。これは三芳グランド(93億円)や特別養護老人ホームアトリエ村用地(53億円)など高額な買収が重なったもので、区の一般会計決算の投資的経費341億円のうち、その約6割近い190億円が用地買収費に充てられたことになる。さらに区の決算には現れない土地開発公社が購入した生活産業プラザ用地(72億円)など141億円を加えると、わずか1年の間で実に331億円もの巨費を用地買収に注ぎ込んだことになる。それでも特別養護老人ホーム等は超高齢社会における福祉基盤として活かされていったが、埼玉県三芳町にある三芳グランドはその後も区民に十分利用されてきたとは言い難い。
こうした後戻りのできない施設建設による投資的経費の増大に加え、本章第1節第3項でも述べたように、バブルにより地価が高騰した時期に土地開発公社を設立し、多額の用地買収を推し進めていったことも投資的経費をさらに増大させた大きな要因であった。
図表1-⑯は、本章第1節第3項で示した図表1-②用地買収費の推移をグラフ化したものであるが、これでわかるとおり、平成3(1991)年度の用地買収費は前年度、及び前々年度のほぼ2倍と極めて突出している。これは三芳グランド(93億円)や特別養護老人ホームアトリエ村用地(53億円)など高額な買収が重なったもので、区の一般会計決算の投資的経費341億円のうち、その約6割近い190億円が用地買収費に充てられたことになる。さらに区の決算には現れない土地開発公社が購入した生活産業プラザ用地(72億円)など141億円を加えると、わずか1年の間で実に331億円もの巨費を用地買収に注ぎ込んだことになる。それでも特別養護老人ホーム等は超高齢社会における福祉基盤として活かされていったが、埼玉県三芳町にある三芳グランドはその後も区民に十分利用されてきたとは言い難い。
この三芳グランドはもともと学校法人川村学園が所有していた土地で、前年の平成2(1990)年に運動場空地が不足していた区に対し、学園側から提供の申し出があり、区はそれを無償の借り上げ施設として野球場とテニスコートを開設した経緯があった。それをより安定的に運営したいとの考えから翌年度には購入を決め、財産価格審議会での価格決定を経て、年度内に2回に分けて買入れが行われたのである。当初から交通の利便性や施設管理の問題などの指摘があり、費用対効果に疑問が出されてはいたものの、いずれの買入れ議案も区議会において全員異議無く可決された(※7)。まだバブル崩壊の深刻な影響が現実味を帯びていない頃であったとは言え、社会全体がバブルに踊らされ、「土地神話」が崩れるなどとは夢にも思わなかった時代の風潮が、区政にもまた色濃く反映していたことがうかがえる。
以上述べてきた経緯を顧みると、バブルが崩壊した平成3(1991)年は、豊島区にとっても、その後の財政動向を大きく決定づける大きな分岐点であったと言える。バブル崩壊による景気の減速を感じつつも「新公共施設整備中期計画」を策定し、ひたすら施設整備のアクセルを踏み続け、投資的事業を拡大した結果、そのわずか2年後の5(1993)年度には、もはや後戻りできない状況に陥ってしまった。「公共施設整備中期計画」及び「新公共施設整備中期計画」の計画期間にあたる元(1989)年度~8(1996)年度の8年間だけで、その投資的経費は総額1,789億円にのぼり、その額は元(1989)年度歳出全体の約2倍にあたる。
そして、肥大化する歳出と縮小する歳入の差額を埋めるためにやむなく採られた基金の取崩しや区債の発行という苦肉の策が、さらにその後の区財政を圧迫していくことになっていったのである。
そして、肥大化する歳出と縮小する歳入の差額を埋めるためにやむなく採られた基金の取崩しや区債の発行という苦肉の策が、さらにその後の区財政を圧迫していくことになっていったのである。
基金の取り崩しと累積する負債
図表1-⑰は、昭和61(1986)年度から平成15(2003)年度までの各年度末における区債と基金それぞれの残高推移を表したものである。このうち緑色の折れ線グラフは公共施設整備等のために区が発行した特別区債の残高だが、166億円だった昭和61(1986)年度末から平成2(1990)年度まではほぼ横ばいで推移しているものの、3(1991)年度以降は急速に増加し、平成8(1996)年度には600億円を超え、ピーク時の11(1999)年度には2(1990)年度の179億円の約4倍にあたる667億円にまで膨れあがった。
一方、赤色の折れ線グラフは土地開発公社による用地買収費の未償還金を含めた区の実質的な債務残高(=借金)を示したものである。この中には11(1999)年度以降に発生した旧街づくり公社への借入金補てんを含んでいる。これは平成10(1998)年12月に池袋保健所が区民センター隣地(東池袋1-20、平成8〔1996〕年度土地開発公社が21億円で用地買収)に移転するに際、旧池袋保健所跡地(東池袋1-39、現・区役所分庁舎)を売却し、その代金をもって新池袋保健所用地購入費に充てる方針で学校法人電波学園と交渉を進めていたものの、契約直前に不調となったため、代わって旧街づくり公社が金融機関から25億円を借り受けて11(1999)年度に取得したもので、その借入金を区が20年かけて補てん償還したために発生した債務である(※8)。
このケースを除き、土地開発公社が設立された昭和62(1987)年以降、急速に膨らんでいった債務はすべて土地開発公社への未償還分で、設立から平成10(1998)年度までの10年余の間に買収した用地は53件を数え、その取得費は551億円に及んだ。特に平成3(1991)年度の買収総額は275億円にのぼり、特別区債残高279億円に匹敵するまでになっていた。
本章第1節3項でも述べた通り、土地開発公社の用地取得手法は、まず公社が区に代わって用地を先行取得し、後に区がそれを買い戻し、その代金を複数年かけて償還していく仕組みで、当初はその償還期間が5年以内になっていた。しかし急速に悪化する財政状況に伴って償還は繰り延べされ、約180億円にのぼる未償還金残高は区の決算に現れない、いわゆる「隠れ借金」として10年代後半まで引きずっていくことになったのである。
また図表1-⑰の棒グラフは財政調整基金(昭和51[1976]年12月創設)、用地取得基金(昭和53年3月創設)、庁舎等建設基金(昭和63[1988]年4月創設)及びその他の特定目的基金を積み上げたものである。これを見ても分かる通り、区の基金(貯金)は平成2(1990)年度末に残高354億円でわずかに債務(借金)を上回っていたが、翌3(1991)年度末には債務残高が一気に554億円に増大し、たちまち258億円もの債務超過に転じた。その後もその差は年々拡大し、平成元(1989)年度末に111億円あった用地取得基金はわずか4年で底をつき、昭和62(1987)年度末に98億円あった財政調整基金も取崩しが続き、平成5(1993)年度末には、これまた底をついてしまった。その後も積み立てては取崩しを繰り返す状況で、年度間の財源不均衡を調整するという財政調整基金の本来の機能は失われていった。さらに図表1-⑱で示す通り、庁舎等建設基金等の特定目的基金も決算上は基金残高が示されているものの、平成6(1994)年度以降、基金は「運用」という名目で財源不足を穴埋めするために使われ、平成10(1998)年度末には名目上229億円と示されながら実質的な残高はついに10分の1の26億円まで落ち込み、こちらもほぼ底をつく状態になっていたのである。その運用金203億円を差し引いた10(1998)年度末の基金残高の総額は実質的にはわずか48億円にすぎず、ピークだった平成2(1990)年度末から10年足らずの間に300億円以上も目減りしたことになる。
本章第1節3項でも述べた通り、土地開発公社の用地取得手法は、まず公社が区に代わって用地を先行取得し、後に区がそれを買い戻し、その代金を複数年かけて償還していく仕組みで、当初はその償還期間が5年以内になっていた。しかし急速に悪化する財政状況に伴って償還は繰り延べされ、約180億円にのぼる未償還金残高は区の決算に現れない、いわゆる「隠れ借金」として10年代後半まで引きずっていくことになったのである。
また図表1-⑰の棒グラフは財政調整基金(昭和51[1976]年12月創設)、用地取得基金(昭和53年3月創設)、庁舎等建設基金(昭和63[1988]年4月創設)及びその他の特定目的基金を積み上げたものである。これを見ても分かる通り、区の基金(貯金)は平成2(1990)年度末に残高354億円でわずかに債務(借金)を上回っていたが、翌3(1991)年度末には債務残高が一気に554億円に増大し、たちまち258億円もの債務超過に転じた。その後もその差は年々拡大し、平成元(1989)年度末に111億円あった用地取得基金はわずか4年で底をつき、昭和62(1987)年度末に98億円あった財政調整基金も取崩しが続き、平成5(1993)年度末には、これまた底をついてしまった。その後も積み立てては取崩しを繰り返す状況で、年度間の財源不均衡を調整するという財政調整基金の本来の機能は失われていった。さらに図表1-⑱で示す通り、庁舎等建設基金等の特定目的基金も決算上は基金残高が示されているものの、平成6(1994)年度以降、基金は「運用」という名目で財源不足を穴埋めするために使われ、平成10(1998)年度末には名目上229億円と示されながら実質的な残高はついに10分の1の26億円まで落ち込み、こちらもほぼ底をつく状態になっていたのである。その運用金203億円を差し引いた10(1998)年度末の基金残高の総額は実質的にはわずか48億円にすぎず、ピークだった平成2(1990)年度末から10年足らずの間に300億円以上も目減りしたことになる。
この庁舎等建設基金の運用が開始された経緯については本章第1節第2項にも記したが、特定目的以外での処分・取崩しができない基金を、「運用」という名目で財源不足の穴埋めにする改正条例案が平成5(1993)年区議会第1回定例会に提出された(※9)。その時には今回限りの緊急措置との説明がなされ、運用金については7年間で繰り戻しを行っていく計画も示されていた。結局、この5(1993)年度当初予算に計上された庁舎等建設基金運用43億円は、他の様々な財源対策により執行せずに済んだが、その後も深刻な財源不足が続く中、基金の運用は「特別な財源対策」として実行され、そして常態化していった。翌6(1994)年度には当初予算に計上された40億円の運用金のうち、実際に23億円が執行された。続く7(1995)年度には庁舎等建設基金と高齢者福祉施設整備基金合わせて45億円を執行(60億円計上)、以下8(1996)年度63億円執行(76億円計上)、9(1997)年度30億円執行(40億円計上)、10(1998)年度42億円執行(同額計上)、11(1999)年度10億円執行(同額計上)と6年連続して累計213億円が運用され、ついに頼みの綱の基金運用も限界を迎える事態に至ったのである。
図表1-⑲は、各年度の区債の発行額と土地開発公社による用地買収に係る借入金を折れ線グラフで示し、区債の残高を棒グラフで表したものである。
このグラフからも明らかなように、用地取得基金や財政調整基金の取崩しが行われた平成3(1991)~5(1993)年度はかつてない多額の区債が発行され、しかも土地開発公社の借入金も急激に増加し、用地買収もこの時期に集中していた。一方、平成6(1994)年度以降は新規の施設建設事業の延期や休止により公社借入金は激減し、区債発行額も急速に減少していったが、それにもかかわらず、区債残高は平成11(1999)年度まで増え続ける一方で、また土地開発公社の未償還金も平成8(1996)年度以降、減ることなく推移していった。これは財政状況の悪化に伴い、支払うべき償還金を捻出できず、毎年、繰り延べしていったことにより累計負債残高が膨んでいったものであるが、このきわめて異例な償還の先送りは、さらに別の面でも区財政を圧迫していくことになっていた。
図表1-⑮の歳出性質別内訳のグラフにあるように、区の債務償還のための公債費は平成5(1993)年度以降、5(1993)年度37億円、6(1994)年度40億円、7(1995)年度46億円と、次第に拡大している。しかもこのうち、それぞれ20億円、22億円、25億円は利子返済に充てられたものであり、元金償還の繰り延べとともに膨れ上がり、その額は元金償還額を上回っていった。
またこの公債費には、日々の支払いのための資金繰りに金融機関から借り入れた一時借入金の利子も含まれていた。これはバブル崩壊後、しばしば支払のための現金、いわゆる歳計現金が不足し、支払い業務に支障が出る恐れが生じたため、それを回避する目的で取られた措置で、平成5(1993)年度に初めて実施されている。その時の年間の借入最高額は60億円、借入日数は累計180日だったが、その後も毎年、かなりの頻度で行われていった。借入最高額が最も高かったのは平成10(1998)年度の165億円で、借入日数も累計359日に及んだ。翌11(1999)年度は借入最高額80億円だったものの、前年度同様、歳計現金不足は常態化し、借入日数は累計365日と前年度を上回った。こうした措置は平成16(2004)年度まで続けられ、その後は解消したものの、これらの利子も含め、その返済は後の区財政に重くのしかかっていった。
なお、平成6(1994)年度から発行されている減税補てん債は、国の制度減税による減収分を補うために特例的に発行が認められる地方債で、6(1994)年度税制改革において個人所得税の特別減税が先行実施されたのを端緒に、7(1995)年度以降も景気対策のための特別減税が継続実施されたことを受け、豊島区においてもこの減税措置による減収分を補てん債で穴埋めせざるを得なかったものである。これに先立って平成4(1992)年度に、豊島区では地方税収入が標準税収入額を下回る場合に発行が認められる減収補てん債を発行し、秀山荘や猪苗代青少年センター等の施設整備事業に充当している。しかし経費縮減等の内部努力や減税補てん債、減収補てん債を発行してもなお、財源不足を埋めるには足りず、基金運用に依存する財政構造から抜け出せない状況が続いていったのである。
図表1-⑲は、各年度の区債の発行額と土地開発公社による用地買収に係る借入金を折れ線グラフで示し、区債の残高を棒グラフで表したものである。
このグラフからも明らかなように、用地取得基金や財政調整基金の取崩しが行われた平成3(1991)~5(1993)年度はかつてない多額の区債が発行され、しかも土地開発公社の借入金も急激に増加し、用地買収もこの時期に集中していた。一方、平成6(1994)年度以降は新規の施設建設事業の延期や休止により公社借入金は激減し、区債発行額も急速に減少していったが、それにもかかわらず、区債残高は平成11(1999)年度まで増え続ける一方で、また土地開発公社の未償還金も平成8(1996)年度以降、減ることなく推移していった。これは財政状況の悪化に伴い、支払うべき償還金を捻出できず、毎年、繰り延べしていったことにより累計負債残高が膨んでいったものであるが、このきわめて異例な償還の先送りは、さらに別の面でも区財政を圧迫していくことになっていた。
図表1-⑮の歳出性質別内訳のグラフにあるように、区の債務償還のための公債費は平成5(1993)年度以降、5(1993)年度37億円、6(1994)年度40億円、7(1995)年度46億円と、次第に拡大している。しかもこのうち、それぞれ20億円、22億円、25億円は利子返済に充てられたものであり、元金償還の繰り延べとともに膨れ上がり、その額は元金償還額を上回っていった。
またこの公債費には、日々の支払いのための資金繰りに金融機関から借り入れた一時借入金の利子も含まれていた。これはバブル崩壊後、しばしば支払のための現金、いわゆる歳計現金が不足し、支払い業務に支障が出る恐れが生じたため、それを回避する目的で取られた措置で、平成5(1993)年度に初めて実施されている。その時の年間の借入最高額は60億円、借入日数は累計180日だったが、その後も毎年、かなりの頻度で行われていった。借入最高額が最も高かったのは平成10(1998)年度の165億円で、借入日数も累計359日に及んだ。翌11(1999)年度は借入最高額80億円だったものの、前年度同様、歳計現金不足は常態化し、借入日数は累計365日と前年度を上回った。こうした措置は平成16(2004)年度まで続けられ、その後は解消したものの、これらの利子も含め、その返済は後の区財政に重くのしかかっていった。
なお、平成6(1994)年度から発行されている減税補てん債は、国の制度減税による減収分を補うために特例的に発行が認められる地方債で、6(1994)年度税制改革において個人所得税の特別減税が先行実施されたのを端緒に、7(1995)年度以降も景気対策のための特別減税が継続実施されたことを受け、豊島区においてもこの減税措置による減収分を補てん債で穴埋めせざるを得なかったものである。これに先立って平成4(1992)年度に、豊島区では地方税収入が標準税収入額を下回る場合に発行が認められる減収補てん債を発行し、秀山荘や猪苗代青少年センター等の施設整備事業に充当している。しかし経費縮減等の内部努力や減税補てん債、減収補てん債を発行してもなお、財源不足を埋めるには足りず、基金運用に依存する財政構造から抜け出せない状況が続いていったのである。
区財政に赤信号
以上述べてきたように、バブル崩壊後、特別区税や特別区交付金等の一般財源が落ち込む中、「公共施設整備中期計画」(平成元[1989]年策定)やそれを増補改訂した「新公共施設整備中期計画」(3[1991]年策定)に基づき、用地取得や施設建設を強力に進めてきた結果、平成5(1993)年度には93億円もの基金を取り崩し運用するという異例の財源対策を講じなければ予算を編成できないという事態に陥り、区の財政危機は現実のものとなった。
このため区は、5(1993)年度開始早々の4月6日、「緊急財政対策特命委員会」(以下「特命委員会」)を立ち上げ、翌6(1994)年度予算の編成に向けた内部検討に着手した(※10)。企画部長を委員長とするこの特命委員会は、現年度予算の経費節減方針と来年度予算編成に向けての基本方針の策定を所掌し、早くも同月13日には現年度予算執行について、光熱費や需用費等の一般事務経費は5~10%(約5億円)を配当保留とするという調整基準案を作成した。
また、4月15日発行の区広報紙『広報としま』に「豊島区の財政の現状について」(以下抜粋)と題する記事を掲載し、区民にも理解と協力を呼び掛けた(※11)。
このため区は、5(1993)年度開始早々の4月6日、「緊急財政対策特命委員会」(以下「特命委員会」)を立ち上げ、翌6(1994)年度予算の編成に向けた内部検討に着手した(※10)。企画部長を委員長とするこの特命委員会は、現年度予算の経費節減方針と来年度予算編成に向けての基本方針の策定を所掌し、早くも同月13日には現年度予算執行について、光熱費や需用費等の一般事務経費は5~10%(約5億円)を配当保留とするという調整基準案を作成した。
また、4月15日発行の区広報紙『広報としま』に「豊島区の財政の現状について」(以下抜粋)と題する記事を掲載し、区民にも理解と協力を呼び掛けた(※11)。
-4年以上も続いたバブルともいわれる大型景気が、不況に転じてからもう2年にもなリます。
国や東京都の財政もこの不況の影響をまともに受けていますが、豊島区の財政も、区民の皆さんの個人所得がもとになる特別区民税をはじめ、法人の収益や個人の利子所得などを基礎に都から配分される財政調整交付金、利子割交付金などに大きく左右される仕組みになっています。
このため、平成4年度から財源が急激に落ち込みましたので、豊島区としては昭和50年度以来17年ぶりに「減収補てん債」という特別な起債をして、年度を越すこととしました。
こうした厳しい財政状況下ではありましたが、かねてからご要望の高い住宅対策、不況の影響を受ける中小商工業・自営業を営む方々への支援、高齢者・障害者など社会的に弱い立場にある方々への援助に特に配慮し、できるだけ現行行政水準を保つことができるよう経常的な経費を極力切りつめ、原則として新しい施設の建設には着手しないこととしました。
そして、なお足りない財源については、これまで積み立ててきた基金から50億円を取り崩し、新庁舎建設のための基金から43億円を運用(一時借入れ)して予算を編成しました。
残念ながら、景気回復の見通しが未だ不透明で、豊島区の財政に明るさが見えてくるまでには、まだ時間がかかるものと考えられます。
このため、4月に入ってすぐ、来年度、つまり平成6年度の予算の検討にとりかかったところです。
平成6年度の予算編成も、引き続き厳しいものと予想されますが、区民の方々の福祉向上のため、さらに努力してまいりますので、事情をご理解いただき、格別なるご協力を賜りますようお願いします。
国や東京都の財政もこの不況の影響をまともに受けていますが、豊島区の財政も、区民の皆さんの個人所得がもとになる特別区民税をはじめ、法人の収益や個人の利子所得などを基礎に都から配分される財政調整交付金、利子割交付金などに大きく左右される仕組みになっています。
このため、平成4年度から財源が急激に落ち込みましたので、豊島区としては昭和50年度以来17年ぶりに「減収補てん債」という特別な起債をして、年度を越すこととしました。
こうした厳しい財政状況下ではありましたが、かねてからご要望の高い住宅対策、不況の影響を受ける中小商工業・自営業を営む方々への支援、高齢者・障害者など社会的に弱い立場にある方々への援助に特に配慮し、できるだけ現行行政水準を保つことができるよう経常的な経費を極力切りつめ、原則として新しい施設の建設には着手しないこととしました。
そして、なお足りない財源については、これまで積み立ててきた基金から50億円を取り崩し、新庁舎建設のための基金から43億円を運用(一時借入れ)して予算を編成しました。
残念ながら、景気回復の見通しが未だ不透明で、豊島区の財政に明るさが見えてくるまでには、まだ時間がかかるものと考えられます。
このため、4月に入ってすぐ、来年度、つまり平成6年度の予算の検討にとりかかったところです。
平成6年度の予算編成も、引き続き厳しいものと予想されますが、区民の方々の福祉向上のため、さらに努力してまいりますので、事情をご理解いただき、格別なるご協力を賜りますようお願いします。
さらに特命委員会は、翌6(1994)年度予算編成に向け、5(1993)年度の重点事業(住宅対策、中小商工業・自営業者支援、高齢者・障害者援助、資源リサイクル対策)は極力維持するとし、区民の健康と安全に直接かかわる施策は後退させないことを基本としながら既存事業の見直し作業を取りまとめ、9月に庁議に報告した。その内容は(1)新規・拡充事業は緊急性のあるもののみ厳選する、(2)新公共施設整備中期計画については既に工事着手中のものを除き原則として新規着手しない、(3)予算要求基準の設定(5~30%のシーリング)、一時的な事業の休止(15事業)・縮小(20事業)、(4)補助金の再検討(10%削減)の4項目の実施により約40億円の財政効果を生み出す、というものであった。
その後、予算会議を経て、最終的に「区民福祉を後退させない」との区長判断に基づき、休止とした15事業のうち5事業を報告通りに休止とし、残り10事業のうち5事業は休止から縮小に変更した。また縮小20事業のうち19事業を縮小することに決定した。その財政効果額は報告書より規模は小さくなったものの、約26億円が見込まれた(※12)。
しかし財源不足を埋めることはできず、土地開発公社償還金43億円の繰り延べに加え、前年度だけの緊急避難的な措置としていた庁舎等建設基金からの運用を、6(1994)年度も40億円の運用を実施せざるを得ず、さらに特別減税による減収が38億円見込まれたことから、減税補てん債の発行も余儀なくされたのである。
そして突然起こった阪神淡路大震災と急速な円高により、景気回復基調が後戻りした翌平成7(1995)年度の予算編成においても、庁舎等建設基金からの30億円に加え、高齢者福祉施設整備基金から今後必要な事業費約10億円余りを残し、それ以外の30億円全額とを合わせて60億円にのぼる運用がなされ、基金運用への依存は常態化していった。
こうした事態にそれまでの経費縮減に重きを置いた財源対策から一歩進んで、社会経済の変化に対応した行財政のあり方や中長期的な視点に立った改革の進め方を検討するため、平成6年(1994)4月、「臨時行財政改革研究会」を設置、さらに翌7(1995)年3月には、収入役を会長とする「臨時行財政調査会」を設置し、財政の構造的転換に向けた改革計画の策定に乗り出した。
しかし財源不足を埋めることはできず、土地開発公社償還金43億円の繰り延べに加え、前年度だけの緊急避難的な措置としていた庁舎等建設基金からの運用を、6(1994)年度も40億円の運用を実施せざるを得ず、さらに特別減税による減収が38億円見込まれたことから、減税補てん債の発行も余儀なくされたのである。
そして突然起こった阪神淡路大震災と急速な円高により、景気回復基調が後戻りした翌平成7(1995)年度の予算編成においても、庁舎等建設基金からの30億円に加え、高齢者福祉施設整備基金から今後必要な事業費約10億円余りを残し、それ以外の30億円全額とを合わせて60億円にのぼる運用がなされ、基金運用への依存は常態化していった。
こうした事態にそれまでの経費縮減に重きを置いた財源対策から一歩進んで、社会経済の変化に対応した行財政のあり方や中長期的な視点に立った改革の進め方を検討するため、平成6年(1994)4月、「臨時行財政改革研究会」を設置、さらに翌7(1995)年3月には、収入役を会長とする「臨時行財政調査会」を設置し、財政の構造的転換に向けた改革計画の策定に乗り出した。
そして、「行財再改革元年」に位置づけられた平成8(1996)年1月15日発行の広報としまには、「区の財政に赤信号!」という衝撃的なタイトルの記事が掲載された。区財政の窮状を訴え、区民の痛みを伴う行財政改革に理解を求める記事には、加藤区長による「区民の皆さんへ」との以下のメッセージが付されていたのである(※13)。
-4年連続のゼロ成長は、区民の皆さんの生活と営業に深刻な影を落としていますが、豊島区の財政も火の車です。
ここ数年来、区民税や財政調整交付金など主要な財源の急激な落ち込みが続いており、区の財政状況はかつてない深刻かつ重大な局面に陥っています。
財源の落ち込みに反比例して、新しい行政需要(区の仕事)は年々、津波のように押し寄せてきます。
とりわけ高齢社会の進展に対応して、様々なニーズが次から次へと広がってまいりました。特別養護老人ホーム・高齢者在宅サービスセンター・高齢者住宅の増設、介護相談センターやホームヘルプサービスの拡充など積極的に推進してきました。
豊島区では、厳しい財政難が続くなか、起債や基金の活用などを行うことにより、福祉、中小企業をはじめ区民生活に直結した施策の維持向上に必死の努カを重ねてまいりました。
また、3年間で140名の職員定数を削減するなど、創意工夫による行財政運営の見直しを進め、最少の経費で最大の効果を挙げるよう努めてきたところです。
しかし、歳入と歳出のギャップがこれほど広がり長引きますと、財政の対応能力も限界に達しました。
この苦難に追いうちをかけたのが阪神・淡路大震災です。発災直後に設けました「豊島区緊急災害対策点検調査委員会」の最終報告「51の提言」、そして耐農診断結果に基づく学校など区有施設の改修工事は、区民の生命と財産を守るため早期に実施しなければなりません。
したがいまして、どうしても抜本的な行政改革が必要です。その処方箋が「豊島区臨時行財政調査会」の報告です。
区民の皆さんにおかれましては、この深刻な財政危機を克服し、豊島区の自治を守るために、何卒深いご理解をいただき、おカ添えを賜りますようお願い申し上げます。
ここ数年来、区民税や財政調整交付金など主要な財源の急激な落ち込みが続いており、区の財政状況はかつてない深刻かつ重大な局面に陥っています。
財源の落ち込みに反比例して、新しい行政需要(区の仕事)は年々、津波のように押し寄せてきます。
とりわけ高齢社会の進展に対応して、様々なニーズが次から次へと広がってまいりました。特別養護老人ホーム・高齢者在宅サービスセンター・高齢者住宅の増設、介護相談センターやホームヘルプサービスの拡充など積極的に推進してきました。
豊島区では、厳しい財政難が続くなか、起債や基金の活用などを行うことにより、福祉、中小企業をはじめ区民生活に直結した施策の維持向上に必死の努カを重ねてまいりました。
また、3年間で140名の職員定数を削減するなど、創意工夫による行財政運営の見直しを進め、最少の経費で最大の効果を挙げるよう努めてきたところです。
しかし、歳入と歳出のギャップがこれほど広がり長引きますと、財政の対応能力も限界に達しました。
この苦難に追いうちをかけたのが阪神・淡路大震災です。発災直後に設けました「豊島区緊急災害対策点検調査委員会」の最終報告「51の提言」、そして耐農診断結果に基づく学校など区有施設の改修工事は、区民の生命と財産を守るため早期に実施しなければなりません。
したがいまして、どうしても抜本的な行政改革が必要です。その処方箋が「豊島区臨時行財政調査会」の報告です。
区民の皆さんにおかれましては、この深刻な財政危機を克服し、豊島区の自治を守るために、何卒深いご理解をいただき、おカ添えを賜りますようお願い申し上げます。