深刻な財政悪化に直面する豊島区(本庁舎:中央建物)深刻な財政悪化に直面する豊島区(本庁舎:中央建物)

 前項では、戦後最長と言われる平成不況が続く中で区財政が急速に悪化し、特に平成5(1993)年度以降、基金運用に依存した財政運営へと追い込まれていった軌跡をたどった。
 そして迎えた加藤区政3期目は、財源不足に窮した財政運営から脱却するための「行財政改革」が最大の課題となった。本項では、平成7(1995)年11月にまとめられた「臨時行財政調査会報告」以降、平成11(1999)年4月に加藤区政から高野区政へと移行するまでの、4年間にわたる行財政改革の取り組み経緯をたどる。

臨時行財政調査会報告

 平成7(1995)年3月23日、収入役をトップに設置された「臨時行財政調査会」(以下「臨調」)は、(1)事務事業の抜本的な見直し、(2)公共施設体系の再構築、(3)行財政の体質改善の3つを所掌事務として、同年4月から8か月間に32回の会議を重ね、11月20日、「豊島区臨時行財政調査会報告」(以下「臨調報告」)をまとめた(※1)。
 「臨調報告」は、区財政の危機的な状況を踏まえ、さらに厳しい財政環境がなお数か年は続くこと、基金や起債の活用等による財政運営にも限界があることの2点を基本認識として、行財政改革を推進する観点から以下の3項目について検討がなされた。
  • (1)「事務事業の見直し」については、これまでにも継続的に取り組んできているが、今回改めて、近年の社会情勢の変化を踏まえ、拡大した予算規模の適正化を図る観点から、全ての事務事業の再点検を行う。
  • (2)「公共施設のあり方」については、旧基本計画において計画された施設がほぼ整備され、さらに、その後、補完計画としての新たな中期計画を策定し建設事業を推進してきた結果、公共施設の種類も数も格段に整備されてきたといえる。そこで、新しい基本計画に向けて、社会状況の変化等に対応した公共施設のあり方を検討し、施設体系の再構築を図る。
  • (3)「組織と定員の適正化」については、従来から積極的に取り組んできたが、新たな行政課題や区民の多様なニーズに対応していくため、常に簡素で合理的な組織・機構、適正な定員管理及び職員の能力開発等の人事管理を推進する。
 この3つの検討項目で示された意図は、平成5(1993)年度の「緊急財政対策特命委員会」報告に基づくシーリング方式による経費縮減や一時休止に留めていた事務事業についても、廃止も視野に入れて再点検すること、また23区でもトップレベルを誇るまでに整備してきた公共施設については(※2)、改めてその設置目的や利用状況に応じて再編すること、そして職員定数のスリム化をさらに加速させていくということであった。それはつまり、いよいよ立ち行かなくなった財政の歳入と歳出のギャップを埋めるためには、もう一段ギアを上げ、事務事業や施設の廃止も含めた大胆な見直しをせざるを得ないということを意味していた。行政サービスの維持向上を基本方針とし、一貫して拡大路線を突き進んできた区政運営は、もはや限界を迎えたことが明らかになったのである。
 そして3つの検討項目それぞれのつき、平成8(1996)年度から12(2000)年度までの5か年に取り組むべきとされた改革の内容が示された。まず「事務事業の見直し」は、本章第2節第3項でも触れた保育園5園の廃園をはじめ(※3)、区民保養施設「高麗清流園」の廃止(※4)、敬老金や寝たきり高齢者への見舞品支給の廃止等、廃止13事業・休止5事業・縮小13事業に及んだ。またコストの効率化を踏まえ、施設管理運営の民間委託化や施設使用料の改定・有料化(※5)、さらに滞納が問題化している特別区税の収納率向上など、歳入強化の対策も含まれた。
 「公共施設のあり方」では、少子高齢社会への対応や年齢階層別、属性別に設置されている施設機能等を見直しの視点として掲げたものの、前述の区立保育園、高麗清流園以外はすべて今後の検討課題とされた。施設の廃止は区の方針を180度方向転換するもので、区民からの反発も予想されることから、直ちに踏み出すことは難しかったものと思われる。また以後、公共施設整備や用地取得については極力抑制することを原則とし、処分(売却等)も含めた公有地の活用やコミュニティ施設の区民等による自主管理方式、公共施設の維持補修・改築のシステム化など、新たな手法も提示しているが、いずれも今後の検討課題とされ、抜本的な改革は平成15(2003)年度に打ち出された「公共施設の再構築、区有財産の活用」(行革推進本部案)を待つこととなる。
 また「組織と定員の適正化」では、これまでにない職員定数の大幅な削減が示された。行政需要の多様化に伴い、職員数は増加し続け、平成5(1993)年度には3,098人(自治省定員管理調査による職員数)に達していた。その後5~7(1993~1995)年度実施のリフレッシュプランにより3,055人まで削減したものの、当初の計画目標には及ばず、そのため新たな定員適正化計画(新リフレッシュプラン)では、8(1996)年度からの5か年で250人を削減することが打ち出された。
 これらの改革による財政効果は、43億円の歳出縮減と8億円の歳入確保により、合わせて約51億円と見込まれた。
 この「臨調報告」を受け、区は平成8(1996)年度予算編成にその内容を最大限反映させることをめざすこととし、そして前項末尾に記したように、区広報紙に「区の財政に赤信号!」という衝撃的なタイトルで区民に区財政の窮状を訴え、「臨調報告」実施への理解を求める記事を掲載した。さらに年明け仕事始めの1月4日には、区長の命により幹部職員全員を招集した異例の財政会議で、「臨調報告」の完全実施に加え、一次経費の20%削減(追加シーリング)を要請した。
 こうした一連の動きは、何としても運用金依存の財政構造から脱却し、安定的な財政基盤を確立させ、7(1995)年3月に制定した新基本構想「暮らし豊かにこころ輝く都市」に基づき、8(1996)年度中に策定予定の新基本計画を確実に実施したいとの思いがあった。しかし2大財源である特別区税・特別区交付金のいずれもが10億円を超える大幅減収が続く中、前年に発生した阪神・淡路大震災により、防災対策・耐震工事などの新たな行政課題への対応が求められ、平成8(1996)年度の財源不足は過去最大の120億円を超えるまで膨らんだ。この不足額に対しては、「臨調報告」に基づく8年度実施分29億円に追加シーリングによる削減分16億円を加えても、財政効果は45億円にとどまり(※6)、またしても庁舎等建設基金から76億円を運用せざるを得なかったのである。
 平成5(1993)年度以降、庁舎等建設基金の運用による予算編成は4年連続となり、5年度こそ経費縮減等の内部努力により未執行に終わったものの、既に6(1994)年度には23億円、7(1995)年度には15億円(その外に高齢者福祉施設整備基金30億円運用)が執行されていた。そこへさらに76億円の運用が執行されることになれば、庁舎等建設基金の運用額は3年間で累計114億円にのぼり、名目上では191億円の基金残高は実質80億円を割ることとなる。それは、既に実施設計の段階まで進んでいた庁舎建設事業の継続を容易ならざる状況に追い込むことになり、本章第1節第2項にも記した通り、8(1996)年4月、庁舎建設の着工は、ついにやむなく新基本計画の後期(平成14~18[2002~2006]年度)に延期され、計画は事実上の凍結に至ったのである(※7)。
基本構想(平成7年3月)
臨時行財政調査会報告(平成7年11月)
廃止が決定された区民保護施設「高麗清流園」

行財政改革推進本部

 こうして、ローン返済に追われる家計さながらに、区財政は破綻寸前に追い込まれていった。
 そして事ここに至り、区は平成8(1996)年度を「豊島区行革元年」と位置づけ、年度明けの4月4日、区長自らを本部長とする「行財政改革推進本部」を立ち上げた。
 まさに不退転の覚悟で臨む行革ではあったが、すでに今後の財政見通しでは平成9(1997)年度も8(1996)年度並みの財源不足が見込まれ、さらなる基金運用は避けられない情勢であった。このため推進本部の使命は事務事業の見直し等による財政効果をどこまで引き出せるかにかかっていたと同時に、事業の休廃止や使用料の値上げなどによって犠牲を強いることになる区民に対し、いかにその理解を得るかにかかっていた。
 区の財政状況については、それまでも区広報紙等で度々説明をしてきたが、さらに詳細な状況を明らかにするため、平成8(1996)年10月、区では初となる「財政白書」を作成し、合わせてその概要を区広報紙に掲載した(※8)。
 この白書では区財政の現状を「1.実質的な収支は赤字 2.進む財政の硬直化 3.増え続ける区債等の残高 4.底が見えはじめた基金残高」の4つの側面から分析するとともに、財政悪化の要因としては「1.激減した区税収入 2.財源保障機能を喪失した都区財政調整制度 3.拡大を続けた歳出額 4.区財政を圧迫する制度上の問題」の4つを掲げている。しかし前項からこれまで述べてきたことと照らし合わせると、現状分析はともかく、財政悪化の要因を特別区税や特別区交付金収入の激減、国庫負担金を超える区の超過負担額の問題等、外的要因にばかり求めすぎているきらいがある。また拡大してきた歳出額についても、「社会経済情勢の急激な変化に対応して、歳出規模を圧縮する努力が不充分であったことも財政悪化の一因といえます」とまとめてはいるが、実際はむしろ積極的に施設整備を進め、歳出規模を拡大させてきたというのが事実であり、その是非は別として、少なからず分析の甘さ、認識の甘さを指摘されたとしても仕方のない内容であった。
 いずれにしても今後の区財政の見通しでは、特別区税や特別区交付金収入の大きな伸びが期待できない中、平成9(1997)年度の財源不足は79億円にのぼることが見込まれた。行財政改革のさらなる推進は待ったなしの状況であり、行財政改革推進本部は、翌11月には9(1997)年度に向けての取組み内容として、「中間のまとめ」を発表した(※9)。
 前述の通り、区は、9(1997)年度を初年度とする10か年の「基本計画」の策定作業を進め、それに合わせて3か年の「実施計画」とその財政的な裏付けとなる「行財政改革計画」を年度内に策定することとしていた。この「中間のまとめ」は3か年計画の策定に先行し、直面する9(1997)年度の予算編成に向け、実効性のある具体的な施策に絞って検討事項を整理したものである。その具体策としてあげられたのは、空き缶回収事業(くうかん鳥)等廃止4・休止3・縮小23の計30事業をはじめ、これまで無料だった社会教育会館等施設使用料の有料化や保育料の改定、小中学校給食調理の業務委託化、4種の職員特殊勤務手当の廃止など、8項目150件に及んだ。
 保育料の改定(※10)については、廃園問題と合わせ本章第2節第3項にその経緯を記した通りであるが、施設使用料の有料化については、すでに7(1995)年の「臨調報告」に、「受益者負担の適正化」項目のひとつとして、勤労青少年センター、社会教育会館、青年館、西巣鴨体育場が有料化対象施設に挙げられていた。これを受けて、区は「施設使用料適正化プロジェクト・チーム」を設置し、使用料額の算定を行うとともに、実施時期・実施体制について施設所管課との調整を経て、9(1997)年1月に報告書がまとめられた。そして、この報告に基づき、引き続き検討が必要な勤労青少年センターを除く施設について、9(1997)年7月1日から有料化が実施された(※11)。
 また、小中学校給食調理の業務委託化についても、「臨調報告」では「民間委託の推進」項目の一つとして、「学校給食の自校方式は堅持しつつも、給食調理業務は、順次、委託化を図る」とされていた。これを受け平成8(1996)年9月、区教育委員会事務局次長を委員長に小中学校長、PTA会長、栄養・調理職員を含む教育委員会職員等で構成される「学校給食調理業務委託化検討委員会」が設置された。同検討委員会は3か月間に7回の会議を重ね、調理業務委託化によるメリット・デメリットを比較検討し、「より質の高い学校給食の確保等に努め、財政負担軽減に寄与する観点からも、給食調理業務の自校委託方式を早期に実施すべき」と結論づける報告書を11月にまとめた。この自校委託方式とは、学校内の給食施設・設備を使用し、学校栄養職員が作成した献立に従い、学校が購入した食材料により、委託会社の調理員が調理を行なうという方式で、従来の直営方式で調理業務職員が担っていた業務のみを委託するものであることから、給食の質や安全性が確保された上で、経費の縮減が可能と判断されたものである。この報告書に基づき、調理業務職員の退職者不補充で欠員となる部分を委託化していく方法により、9(1997)年度から順次委託実施校を拡大させていった(※12)。なお、この学校給食業務の委託については、平成8~9(1996~1997)年にその安全性等に不安を抱く保護者等による反対陳情が6件、区議会に提出されているが、いずれも不採択とされた。
 さらに、職員定数削減計画の一年前倒し等の内部努力も含め、28億円の歳出抑制と8億円の歳入確保を合わせて、「中間のまとめ」による財政効果は36億円にのぼったが、それでもなお財源不足を埋めるには程遠く、9(1997)年度の予算編成にあたっても不足分60億を穴埋めするために財政調整基金20億円の繰入れに加え、5年連続となる庁舎等建設基金から40億円を運用せざるを得なかったのである。
施設使用料の有料化/巣鴨社会教育会館
南大塚社会教育会館

行財政改革計画

 こうした先行き不透明な財政状況を反映し、本章第2節第1項でも述べたように、平成9(1997)年1月に策定された基本計画は、10か年の計画期間に実施する計画事業について事業費や実施時期等が明示されておらず、毎年度ローリングを繰り返していく3か年の実施計画の中で示していくこととされた。またこの実施計画の財政フレームを裏付けていく「行財政改革計画」もセットで策定され、これも同様に3か年で毎年度ローリングしていくこととされた(※13)。
 この「行財政改革計画」は、加藤区長による以下の序文から始まる。
-21世紀を目前に控え、中央集権から地方分権へ、成長優先の政策から生活優先の政策へと、生活に身近な地方自治体の果たすべき役割への期待は、近年ますます高まりを見せています。
また、少子・高齢化の急激な進行、国際化・情報化への対応、都区制度改革の実現、防災対策や環境・リサイクル問題への取り組みなど、新たな行政需要は増大かつ多様化し、区政を取り巻く環境は大きく変化しています。
一方、区財政は、バブル経済の崩壊とともに極めて深刻な事態に直面し、これまで数次にわたり取り組んできた行財政改革によっても、未だ危機的状況を脱するに至っていないのが現状です。
そこで、本区では、あらためて、平成8 年度を「行財政改革元年」と位置づけ、安全で真に豊かさを実感できる生活、安心して住みつづけられる街「暮らし豊かに こころ輝く都市」の実現をめざし、最も緊急かつ重大な課題として行財政改革に取り組むことといたしました。
「豊島区行財政改革計画」は、中長期的な視点に立って、健全で強固な財政基盤を確立するとともに、より効率的な行財政運営を推進していくため、行財政改革として今後3か年で取り組むべき事項を整理した計画です。
この計画を着実に実行していくことが、本区の将来を決すると言っても過言ではございません。そのため、区議会のご指導を仰ぎつつ、私を初めとして、すべての区職員が一丸となって行財政改革に取り組んでまいる所存です。
ここに、区民の皆様のご理解とご協力を切にお願い申し上げる次第です。
そして、不退転の決意で臨む行財政改革の目標は、以下の3点に集約された。
  • (1)平成12年度に特定目的基金の運用による予算編成を脱却し、歳入・歳出の収支均衡を図る。
  • (2)そのため、歳入の確保と歳出の抑制によって、財政効果目標額を達成する。
  • (3)上記の目標の実現をめざす中において、中長期的な見通しのもとに、新たな住民ニーズに的確に対応できる強固な財政基盤を確立する。
 前述したとおり、9(1997)年度予算編成にあたっても、庁舎等建設基金から40億円を運用せざるを得ない状況にある中、既にこの時点で10(1998)年度78億円、11年度57億円の財源不足が見込まれており、これを乗り越えて、12(2000)年度に運用金に依存せずに財政の収支均衡を達成させることは容易ならざることであった。これまでにも増して歳出抑制・歳入確保の取り組みが求められ、「行財政改革計画」の内容は、以下の通り、「臨調報告」や「中間のまとめ」を踏まえつつも、小中学校の適正配置も含め、さらに拡大させたものとなった。

1. 内部努力の徹底

組織再編(課組織1割程度削減、出張所機能見直し等)、職員定数250人削減の1年前倒し、再雇用職員の定数内化等)、予算編成手法の改善(スクラップアンドビルドの徹底、サンセット制の導入、減債基金創設、区債発行額抑制等)

2. 施策の見直し

投資的経費抑制(公有地取得・新規公共施設建設の原則休止、児童遊園用地取得基準見直し等)、公有財産の有効活用(暫定活用、定期借地権・貸付・売却等)、事務事業の見直し(9[1997]年度実施分:廃止4・休止3・縮小23事業)、民間委託の推進(小中学校機械警備、給食調理業務、自転車駐車場夜間管理警備等)、財政援助団体等の運営効率化(委託料等の見直し等)

3. 歳入の確保

受益者負担の適正化(使用料・保育料・国民健康保険料・事務手数料の改定、無料施設有料化等)

4. 公共施設の効率的運営

小中学校適正配置、保育園適正配置(5園廃園)、統合・廃止施設跡地の利用計画策定、公共施設耐震補強(本庁舎、小中学校等)、施設体系の再構築
 以上の取り組みによる財政効果額は、既に9(1997)年度の当初予算編成時に36億円と積算されていたが、引き続き10(1998)、11(1999)年度についても、それぞれ30億円、47億円の目標額が設定された。そして、これらの収支見通しに基づいて実施計画の財政フレームを想定し、基本計画の計画事業が具体化されていくこととなったのである(※14)。そうした意味で「行財政改革計画」と実施計画は、新たな基本構想・基本計画を実現していくための車の両輪と言えた。
 また計画策定後の4月には、今後「行財政改革計画」を進めていく上で、適切な助言や意見等を求めていくことを目的に、学識経験者3名、区政モニター経験者の区民3名と収入役の7名による「行財政改革推進懇話会」(座長:新藤宗幸立教大学法学部教授)を発足させた(※15)。以後、同懇話会は、計画のローリングにその意見を反映させていく役割を担っていった。
 しかしこうした取り組みを進めながらも、翌平成10(1998)年度の予算編成に際しては、歳出試算額の19億円減が見込まれる一方、歳入が32億円も落ち込む見込みとなり、財政不足額は当初の78億円から91億円に膨らんだ。さらに11(1999)年度は、前年6月時点での試算時より歳入は15億円上回る見込みだったが、逆に歳出が41億円の増となり、当初見込みの57億円の財源不足額は、26億円超の83億円にまで膨らんでしまった(※16)。
 これに伴い、10(1998)年度版の「行財政改革計画」では、職員定数60人の削減や、廃止5・休止7・縮小33事業等による歳出抑制33億円(当初目標額29億円)に加え、道路占用料の改定や徴税努力等による歳入確保3億円(同1億円)と合わせて36億円の目標額を超える財政効果を生みだした。しかし、それでもなお不足する55億円を埋めるためには庁舎等建設基金から40億円、高齢者福祉施設整備基金から2億円の計42億円を運用せざるを得なかったのである(※17)。
 さらに11(1999)年度は、旧池袋保健所の街づくり公社への売払い代金(25億5千万円)や、都市計画道路環状5の1号線整備に伴う日出小学校校地一部の売払い代金(12億5千万円)を歳入に計上しても83億円の財源不足を解消するには至らず、例年にも増した危機感で11年度版「行財政改革計画」の策定作業が進められた。しかし職員定数40人削減や廃止4・休止7・縮小18事業等による歳出抑制37億円(当初目標額45億円)、収納率向上による歳入確保2億円(同1億円)の計39億円と、昨年度以上の財政効果を生みだしたものの、やはり目標額には届かなかった。なお不足する45億円を埋めるために、財政調整基金18億円全額繰入れのほか、7年連続となる庁舎等建設基金からの10億円の運用、さらに運用金償還経費10億円の計上を見送ることで、何とか予算を編成したのである。なお、この11年度版「行財政改革計画」では、12(2000)年度の都区制度改革による清掃事務移管や、介護保険制度の導入に向けて、新たな行政需要に対応するより効率的な組織が求められることから、現行12出張所を廃止し、3区民事務所に再編する出張所制度改革が打ち出された。またこれを機に、平成12(2000)年度からの4年間で200人の定員削減をめざす新たな定員適正化計画の策定に取組むとしている(※18)。
 図表1-⑳は「行財政改革計画」による平成9~11(1997~1999)年度財政収支見通しと財源対策の内容をまとめたものであるが、3か年の財源不足累計額は当初試算時の231億円から270億円に膨らむ一方、行革による財政効果額は当初目標額の113億円が111億円にとどまる結果となった。その差を埋めるために想定を上回る基金の運用がなされ、3か年の運用額累計は庁舎等建設基金だけでも90億円にのぼった。このうち、9(1997)年度の当初予算に計上された40億円は30億円の執行に留まったが、残り2か年は全額執行された。これにより、ピーク時には192億円あった庁舎等建設基金は、実質的に運用が開始された平成6(1994)年度からの6年間で運用額累計が181億円にのぼり、11(1999)年度末の実質的な残高はわずか11億円となった。もはや基金運用に依存しようにも元手がないという暗澹たる状況に陥っていたのである。
図表1-⑳ 行財政改革推進計画の財政収支見直しと財源対策
 この間の平成10(1998)年2月、10年度予算案を審議する予算特別委員会の席上で、加藤区長は、4月から1年の間、区長給料の月額10%減額とともに、他の特別職(助役・収入役・教育長・常勤監査委員)の給料月額5%と部課長の管理職手当10%を返上する旨を表明した。区長の給料については既に前年4月から同様の措置が執られており、さらに1年間延長するものにすぎなかったが、今回は他の特別職や部課長も含めた区の執行部全員が、自らも身を削って行財政改革に臨む姿勢を示すものとなった(※19)。
 一方、区議会においても、平成9(1997)年第4回定例会に、自由民主党、区民クラブ、公明の各会派議員9名を提案者として、現行の議員定数44名を40名に減ずる東京都豊島区議会議員定数条例案が提出された。この議員提出議案は、前年の8(1996)年第4回定例会で議員定数削減を求める「区議会議員の定数削減についての陳情」が採択され、続く9(1997)年第1回定例会で定数削減に反対する「豊島区議会の議員の法定数を守り住民自治を充実させるための陳情」が不採択となったことを踏まえ、「豊島区議会として自らの意思で議員の定数を削減することは区民に対する区議会の責務である」との観点から提出されたものである。
 同議案は議会運営委員会に付託され、実質的な審議は翌10(1998)年2月13日開会の第1回定例会に持ち越された。その開会を前にして、議案の速やかな可決を求める合計署名数7,000名を超える陳情4件と、これに反対する陳情1件が出されたが、既に23区中16区、全国的にも9割以上の自治体が実施に踏み切っており、議員定数の削減はもはや時代の趨勢と言えた。かくして、議会機能の低下につながるとの共産党による強硬な反対があったものの、同議案は賛成多数で可決され、次回選挙から施行されることとなった(※20)。
 こうした動きは、事業の縮小・休廃止や使用料等の引き上げにより区民に負担を強いる行財政改革を進めていくにあたって、区も区議会も自ら身を切る姿勢を示したものであったが、区の財政状況を抜本的に変える力にはなり得ず、平成11(1999)年4月、財政再建という大きな宿題を次期高野区政に託す形で、加藤区長は3期12年の任期を終えたのである。

出張所制度改革

 平成11(1999)年度版の「行財政改革計画」で打ち出された出張所制度改革は、4月の組織改正で専管組織として「出張所制度改革担当課長」が設置された後、高野区政に引継がれた。翌5月には、前年から組織等検討委員会で重ねてきた検討結果を「最終報告」としてまとめ、6月5日発行の区広報紙で公表した(※21)。
 この出張所制度改革は前述したとおり、翌12(2000)年4月に予定される清掃事務移管や介護保険制度導入により行政需要の増大が予想される一方、行財政改革による組織の効率化が求められる中で、細分化された管轄区域を見直し、12出張所を3区民事務所に統合再編するという内容であった。各種事務の電子化・オンライン化が進み、出張所取扱い業務の大半を占める住民票の写しや印鑑登録証明書等の発行を自動交付機で代替することが可能になり、出張所設置の必要性が薄くなっていたことが背景にあった(※22)。
 豊島区における出張所制度は、戦後の昭和22(1947)年に9出張所が設置されたのを端緒に、人口増加に伴い42(1967)年に2か所、50(1975)年に1か所増設され、以後四半世紀にわたり12出張所体制が取られてきた。各出張所の管轄区域は地域防災の地区単位であり、また町会との情報交換の場である区政連絡会や地区青少年育成委員会等もこの区割りをベースに設置されるなど、12地区の区割はさまざまな地域活動エリアとして区民の生活にも根付いていた。そのため6月から各地区で開催された住民説明会では、出張所が統合されることによる住民サービスの低下への懸念とともに、それまで出張所が担ってきた地域防災本部の設置場所や、各地域団体の活動拠点となっていた出張所の会議室・区民集会室の利用等、改革による影響を懸念する声があがった(※23)。
 こうした声に対し、出張所の配置区域に準じ、概ね徒歩10分圏内に1か所ずつ、計12か所に住民票などを発行する自動交付機を設置するとともに、来所が困難な障害者や高齢者等には出張サービスを実施する等の条件整備を進めていった。また地域防災の地区割りは従前通り12地区とし、地域防災本部は地区内の救援センター校に移すこととし、出張所跡施設についても、従来通り地域団体の利用に供するとともに、団体活動の拠点として活用していくとした。
 これらの条件整備を前提に、平成11(1999)年区議会第3回定例会に、「豊島区役所の出張所設置に関する条例」を全部改正する「区民事務所設置条例」案を提出、全員異議なく可決され、12(2000)年4月1日から施行されることとなった(※24)。
 こうして出張所は、昭和22(1947)年の設置以来、50年の歴史に幕を閉じることになったのである。
第11出張所(昭和50年代撮影)
住民票の写し等の自動交付機(平成12年4月稼働)