平成11(1999)年4月、悪化の一途をたどる財政状況を打開する糸口が見えないまま、3期12年、区政を担った加藤区長に代わり、高野之夫新区長が就任した。翌12(2000)年4月には都区制度改革と介護保険制度のスタートを控え、21世紀に向けた新たな区政が問われるまさに正念場の年であった。
本章では、こうした区政における歴史的な転換期にあって、新区長のもとで展開された行財政改革の長く険しい道のりを第1節でたどり、続く第2節では都区制度改革により基礎的自治体として歩み出した豊島区の先駆的な取り組みをたどっていく。
本章では、こうした区政における歴史的な転換期にあって、新区長のもとで展開された行財政改革の長く険しい道のりを第1節でたどり、続く第2節では都区制度改革により基礎的自治体として歩み出した豊島区の先駆的な取り組みをたどっていく。
初の民間出身区長の誕生
平成11(1999)年4月25日、豊島区議会議員・豊島区長選挙が執行され、区議会議員40名の新たな顔ぶれと新区長が選出された。前章最終項でも述べたように、区の行財政改革に呼応して議員定数を4名減らして行われた区議会議員選挙は、定数40名に対して57名が立候補する激戦となったが、4候補が争った区長選挙は、投票総数92,209票(投票率46.87%)、有効投票数85,871票のうち57,554票(得票率67.02%)を獲得した高野之夫候補の圧勝となった。
地元池袋に生まれ育ち、地元の立教大学を卒業後、家業の古書店を継ぎ、地元商店会の青年部で活躍し、昭和58(1983)年に区議会議員に初めて当選。以後区議6年、都議10年を経て区長選に挑んだ高野候補は、無所属新人の立場とは言え、自民・公明・民主・社民・自由各会派や連合東京、地元商工団体等の推薦を受け、事実上の信任投票と言えるものだった。この3分の2を超える得票率の高さは、それまで行政出身者で占められていた区長の椅子に初めて座る民間出身の区長の誕生と、バブル崩壊以降、閉塞感に包まれた社会状況を打破し、区政の難局を乗り越えてくれる強いリーダーシップへの期待の表れだったと言えるだろう。
高野新区長が選挙戦に臨んで掲げた「8つのお約束」-いわゆる公約は以下の通り。
地元池袋に生まれ育ち、地元の立教大学を卒業後、家業の古書店を継ぎ、地元商店会の青年部で活躍し、昭和58(1983)年に区議会議員に初めて当選。以後区議6年、都議10年を経て区長選に挑んだ高野候補は、無所属新人の立場とは言え、自民・公明・民主・社民・自由各会派や連合東京、地元商工団体等の推薦を受け、事実上の信任投票と言えるものだった。この3分の2を超える得票率の高さは、それまで行政出身者で占められていた区長の椅子に初めて座る民間出身の区長の誕生と、バブル崩壊以降、閉塞感に包まれた社会状況を打破し、区政の難局を乗り越えてくれる強いリーダーシップへの期待の表れだったと言えるだろう。
高野新区長が選挙戦に臨んで掲げた「8つのお約束」-いわゆる公約は以下の通り。
- 1.福祉の充実
介護保険制度の実施に伴う、介護・医療・福祉基盤整備の確立。特に高齢者、障害者に行き届いた福祉をはかります。 - 2.健康と環境の街
都市化するだけでなく、緑と水と自然を大切に、リサイクルを進め、区民一人ひとりの健康と安住できるやさしい環境を作ります。 - 3.元気な街
みんなが栄える豊島区を目指し、商店街の活性化と中小企業、地場産業の振興に努めます。 - 4.伝統と教育の街
一人ひとりの生きがいやボランティアの気持ちを大切にし、文化の薫り高い事業と青少年の育成を推進します。 - 5.スリムな行政
英知を集め、ムダを省き、スリムでタイムリーな行政を行います。 - 6.サービス精神の行政
行政の原点は、職員一人ひとりが、区民サービスの自覚を持つことです。職員と共にさらなる創意工夫に努力します。 - 7.顔の見える区長
区民のみなさんの声に耳を傾け開かれた区長室をめざします。積極的な広報活動と情報公開をします。 - 8.24時間体制の区長
区政に邁進するため、歩いて区役所に通える場所に住みます。
公約は福祉・教育等の基本政策に加え、「サービス精神の行政」や「顔の見える区長」などの民間の商人出身ならではのものが盛り込まれていた。そして「24時間体制の区長」の公約通り、区役所から5分のところに住まいを移し、4月27日は自宅から徒歩での初登庁となった(※1)。
初登庁当日、高野新区長は区職員を前にした就任あいさつの中で、「区財政は逼迫した情勢であり、先の見えない閉塞状況にある。12年4月は、介護保険制度の導入、清掃事業の区移管等、基礎的な自治体として新たな出発をする重要な節目である。区は様々な課題を抱えているが、常に区民の目線で見、考えていきたい。誠実に真摯に心のかよう行政サービスを提供し、元気のある区政を実現していきたい」と区政に臨む意欲を語った。
また6月21日に開会した区議会第2回定例会においても、今後の区政運営に当たる所信を表明する中で、「私は、豊島区で生まれ、豊島区で育ち、また議会人、政治家の立場から、区議六年、都議十年と、長らく豊島区に深くかかわってまいりました。豊島区では、これまで木村区長、日比区長、そして加藤区長へと、行政経験者からの区長が続いておりました。今回、私が民間からの初めての区長となったわけでございます。これまで行政経験者ではなし得なかったことに対しましても、私は民間からの区長として、新しい発想と勇気をもって対処してまいりたいと思います。また、これまで培ってまいりましたあらゆる経験を生かし、愛する豊島区のために、山積する諸問題の解決に全力を挙げて取り組む」との決意を示した(※2)。こうした就任あいさつの中にも、初の民間出身区長となることへの並々ならぬ自負が窺える。そして自らを区民の代表と任じ、区民の目線から区政を変革していく姿勢を目に見える形で示すものが「顔の見える区長」の公約に掲げた「開かれた区長室」であった。
事実、初登庁のその日から区長室には区長に面会を求める区民が引き切りなしに来訪し、廊下には人が溢れる状況が数週間も続いた。それほどの光景は行政出身区長の時代には見られなかったことで、区民にとって民間出身の区長は身近な頼れる存在として期待が大きかったことを物語るものであった。
また就任直後から精力的に区内を歩き、半月余りの間に各地区の区政連絡会(12の地区ごとに置かれた区政情報の提供、区民意見収集の場。委員は各地区町会より選出)に出席し、開かれた区政の実現に向けて「23区初の施策として外部監査の導入を是非実現したい」と区政改革に積極的に取り組む姿勢をアピールした。
この外部監査は平成9(1997)年の地方自治法改正により新たに制度化されたもので、自治体行政における監査機能の強化を図るため、公認会計士や弁護士などの専門的な識見を有する外部監査人が第三者的な視点から自治体行財政をチェックする制度であり、区長の選挙公約の「積極的な情報公開」の柱に位置づけられていた。就任早々、その導入に向けた検討を助役に指示、半年後の10月には「外部監査契約に基づく監査に関する条例」を制定し、制度導入の道筋を付けた(※3)。そして翌12(2000)年1月、助役を委員長に関係部課長で構成される「外部監査人選考検討委員会」において監査人を選定し、区議会の議決を経て3月に監査人と契約を締結(※4)、12(2000)年度から実施された(※5)。
これは区長の選挙公約の中でも短期間で具体化された施策のひとつであり、宣言通り23区初の取り組みとなった。同年4月の都区制度改革により特別区が「基礎的自治体」としての位置づけを獲得し、23区それぞれに自律的な自治体運営が求められるなか、他区に先駆けた施策展開は区政の改革に臨む区長の意気込みの表れであり、また後述するバランスシートの導入等とともに、行財政運営に民間のマネジメント手法を取り入れる契機となったのである。
初登庁当日、高野新区長は区職員を前にした就任あいさつの中で、「区財政は逼迫した情勢であり、先の見えない閉塞状況にある。12年4月は、介護保険制度の導入、清掃事業の区移管等、基礎的な自治体として新たな出発をする重要な節目である。区は様々な課題を抱えているが、常に区民の目線で見、考えていきたい。誠実に真摯に心のかよう行政サービスを提供し、元気のある区政を実現していきたい」と区政に臨む意欲を語った。
また6月21日に開会した区議会第2回定例会においても、今後の区政運営に当たる所信を表明する中で、「私は、豊島区で生まれ、豊島区で育ち、また議会人、政治家の立場から、区議六年、都議十年と、長らく豊島区に深くかかわってまいりました。豊島区では、これまで木村区長、日比区長、そして加藤区長へと、行政経験者からの区長が続いておりました。今回、私が民間からの初めての区長となったわけでございます。これまで行政経験者ではなし得なかったことに対しましても、私は民間からの区長として、新しい発想と勇気をもって対処してまいりたいと思います。また、これまで培ってまいりましたあらゆる経験を生かし、愛する豊島区のために、山積する諸問題の解決に全力を挙げて取り組む」との決意を示した(※2)。こうした就任あいさつの中にも、初の民間出身区長となることへの並々ならぬ自負が窺える。そして自らを区民の代表と任じ、区民の目線から区政を変革していく姿勢を目に見える形で示すものが「顔の見える区長」の公約に掲げた「開かれた区長室」であった。
事実、初登庁のその日から区長室には区長に面会を求める区民が引き切りなしに来訪し、廊下には人が溢れる状況が数週間も続いた。それほどの光景は行政出身区長の時代には見られなかったことで、区民にとって民間出身の区長は身近な頼れる存在として期待が大きかったことを物語るものであった。
また就任直後から精力的に区内を歩き、半月余りの間に各地区の区政連絡会(12の地区ごとに置かれた区政情報の提供、区民意見収集の場。委員は各地区町会より選出)に出席し、開かれた区政の実現に向けて「23区初の施策として外部監査の導入を是非実現したい」と区政改革に積極的に取り組む姿勢をアピールした。
この外部監査は平成9(1997)年の地方自治法改正により新たに制度化されたもので、自治体行政における監査機能の強化を図るため、公認会計士や弁護士などの専門的な識見を有する外部監査人が第三者的な視点から自治体行財政をチェックする制度であり、区長の選挙公約の「積極的な情報公開」の柱に位置づけられていた。就任早々、その導入に向けた検討を助役に指示、半年後の10月には「外部監査契約に基づく監査に関する条例」を制定し、制度導入の道筋を付けた(※3)。そして翌12(2000)年1月、助役を委員長に関係部課長で構成される「外部監査人選考検討委員会」において監査人を選定し、区議会の議決を経て3月に監査人と契約を締結(※4)、12(2000)年度から実施された(※5)。
これは区長の選挙公約の中でも短期間で具体化された施策のひとつであり、宣言通り23区初の取り組みとなった。同年4月の都区制度改革により特別区が「基礎的自治体」としての位置づけを獲得し、23区それぞれに自律的な自治体運営が求められるなか、他区に先駆けた施策展開は区政の改革に臨む区長の意気込みの表れであり、また後述するバランスシートの導入等とともに、行財政運営に民間のマネジメント手法を取り入れる契機となったのである。
未曾有の財政危機に直面
こうして区民の期待を一身に背負い、「元気・やる気・勇気」をモットーに掲げて高野区政はスタートした。
だが、新区長として最初に直面したのは想像を超える区財政の厳しい現状だった。先に触れた平成11(1999)年区議会第2回定例会での所信表明の中で、その現状を次のように述べている。
だが、新区長として最初に直面したのは想像を超える区財政の厳しい現状だった。先に触れた平成11(1999)年区議会第2回定例会での所信表明の中で、その現状を次のように述べている。
-区長に就任して以来、財政や事業の報告を受け財政状況の全体像を把握するにつれ、予想していた以上の厳しい実態に改めて強い危機感を持っております。財政は区が実施する施策の基盤であり、早急な財政状況の改善なくしては施策の充実もなし得ません。現在の豊島区の財政危機を何としても克服し財政の再建を図ることが、当面、私に課せられた最大の使命であると自覚をしております。
そして、72億円超の財源不足が見込まれる12(2000)年度予算の編成はおろか、11(1999)年度の予算執行においてさえ赤字決算が危惧される状況で、このままでは財政再建団体へ転落する可能性すら否定でき得ないほどに切迫した財政状況を訴え、平成12・13(2000・2001)年度の予算編成に向けた2か年を「行財政緊急再建期間」に位置づけ、聖域なしの徹底した行財政改革を断行する決意を表明したのである。
平成11(1999)年11月、新区長体制での行財政改革を遂行するにあたり、8(1996)年以来2度目となる財政白書が公表された(※6)。「危機の克服と再生に向けて」を副題とするこの白書は、前回から3年が経過する間、さらに逼迫の度合いを増した抜き差しならぬ区財政の危機的状況を明らかにし、併せて財政運営の今後の方向を左右する諸課題を整理したものである。
白書は、まず区財政の現状を歳入・歳出の両面から詳細に分析し、財政危機の原因について、もっぱら外的要因に比重を置いていた8年版とは異なり、区財政の構造的な問題を客観的に明らかにするよう注力している。
着目したのが新規・拡充事業経費の推移で、特別区税・特別区交付金の2大財源が激減した平成6(1994)年度以降、新規事業は抑制していたが、拡充事業は毎年約5億円前後の規模で推移していた。しかしその拡充分の経費は、大部分が次年度以降も必要な経費として経常経費に組み込まれ、こうした経費が積み重なり、行財政改革による財政効果を飲み込んでしまったために経費の圧縮に結びつかなかったと分析している。
またそれ以上に区財政の硬直化を招いていたのは、バブル期以降の投資的経費の急増による余波だった。白書はこの点についても、昭和60(1985)年度の千登世橋教育センターから平成10(1998)年度の新池袋保健所までの14年間に整備された主要19施設を取り上げ、その整備のために発行した起債の返済額と整備後の維持管理経費に着目し、積極的な公共施設整備がもたらした後年度負担の影響を追っている。
これら19施設の建設費は総額826億円にのぼり、同年度間の投資的経費総額2,420 億円の約 35%を占めていた。図表2-①は昭和60年度から平成10年度までの公債費に占める主要19施設の償還経費の推移を表したグラフであるが、昭和62(1987)年度に1億円だった償還経費は年を追うごとに累積していき、5年後の平成4(1992)年度に13億円となって10億円を突破、以後6(1994)年度に21億円、8(1996)年度に40億円と2年ごとに倍増し、10(1998)年度には47億円と公債費総額の65%を占めるに至っていた。さらにこの償還経費47億円に19施設の維持管理経費27億円を合わせた74億円だけで10(1998)年度歳出総額1,012億円の実に7.3%にあたっていた。そしてこれらの施設関連経費は、いずれも義務的、固定的な経費であるため容易に削減できず、区財政を圧迫する要因となっている構図が明らかにされたのである。
こうした抑制の効かない歳出構造は、併せて示された財政状況を判断する財政指標でも分析されている。財政の弾力性を示す総合的な指標である経常収支比率は70~80%が適正水準とされるが、平成6(1994)年度時点で既にその水準を超える83.8%にまでなり、9(1997)年度に91.4%、続く10(1998)年度には93.4%の危険水域に達していた。また、区債等の元利償還経費の負担の程度を示す公債費比率も10%を超えないことが望ましいとされるが、5(1993)年度に23区平均を上回り、8(1996)年度に10%を超え、10(1998)年度には12.9%まで上昇し、23区平均の10.5%を2.4ポイントも上回る状態だった。さらに翌11(1999)年度決算時には、それぞれ98.5%、14.0%と、いずれも過去最悪の値を記録するに至るのである(図表2-②参照)。
また区の借金である債務残高は、土地開発公社への未償還額を含め、平成2(1990)年度に341億円だったものが、9年後の11(1999)年度には872億円まで膨れあがり、公社への元金償還は滞ったまま、利子を払うのが精一杯という状況だった。一方、取崩しや運用をして財源不足の穴埋めのために使い続けた各種の基金は、同じ2(1990)年度には354億円あったものが11(1999)年度には10分の1の36億円まで落ち込んでいた。
借金は膨らみ貯金は使い果たし、収入は減っているのに支出は切り詰められず、という状態では家計が破綻するのは目に見えている。区財政に起きていたのはそれと同じことで、区長の発言通り「財政再建団体へ転落する可能性」は決して誇張ではなく、現実味を帯びた危機感の表れだったと言える。
さらに同白書は、今後の区財政を左右する要因として、大きな伸びが見込めない区税等の歳入に対し、少子高齢化による福祉関係経費の増大、平成14(2002)年度にピークを迎える公債費負担(公債費比率14.4%見込み)、建設時から40年を経過した施設の改築・改修や設備更新に係る経費の増大、職員定数削減による影響や退職手当の負担増など、歳出の面で中長期的に予想される課題を提示している。その上で、72億円を超える12(2000)年度の財源不足額をどう埋めるかという切迫した問題に加え、都が打ち出した「東京都財政再建推進プラン」による区事業への影響や、都区制度改革に伴う清掃事務移管等を巡り難航している都区財調協議などの未確定要素も抱え、12年度予算編成に向けてこれまで以上に厳しい事態に直面していることを明らかにした。
白書は、まず区財政の現状を歳入・歳出の両面から詳細に分析し、財政危機の原因について、もっぱら外的要因に比重を置いていた8年版とは異なり、区財政の構造的な問題を客観的に明らかにするよう注力している。
着目したのが新規・拡充事業経費の推移で、特別区税・特別区交付金の2大財源が激減した平成6(1994)年度以降、新規事業は抑制していたが、拡充事業は毎年約5億円前後の規模で推移していた。しかしその拡充分の経費は、大部分が次年度以降も必要な経費として経常経費に組み込まれ、こうした経費が積み重なり、行財政改革による財政効果を飲み込んでしまったために経費の圧縮に結びつかなかったと分析している。
またそれ以上に区財政の硬直化を招いていたのは、バブル期以降の投資的経費の急増による余波だった。白書はこの点についても、昭和60(1985)年度の千登世橋教育センターから平成10(1998)年度の新池袋保健所までの14年間に整備された主要19施設を取り上げ、その整備のために発行した起債の返済額と整備後の維持管理経費に着目し、積極的な公共施設整備がもたらした後年度負担の影響を追っている。
これら19施設の建設費は総額826億円にのぼり、同年度間の投資的経費総額2,420 億円の約 35%を占めていた。図表2-①は昭和60年度から平成10年度までの公債費に占める主要19施設の償還経費の推移を表したグラフであるが、昭和62(1987)年度に1億円だった償還経費は年を追うごとに累積していき、5年後の平成4(1992)年度に13億円となって10億円を突破、以後6(1994)年度に21億円、8(1996)年度に40億円と2年ごとに倍増し、10(1998)年度には47億円と公債費総額の65%を占めるに至っていた。さらにこの償還経費47億円に19施設の維持管理経費27億円を合わせた74億円だけで10(1998)年度歳出総額1,012億円の実に7.3%にあたっていた。そしてこれらの施設関連経費は、いずれも義務的、固定的な経費であるため容易に削減できず、区財政を圧迫する要因となっている構図が明らかにされたのである。
こうした抑制の効かない歳出構造は、併せて示された財政状況を判断する財政指標でも分析されている。財政の弾力性を示す総合的な指標である経常収支比率は70~80%が適正水準とされるが、平成6(1994)年度時点で既にその水準を超える83.8%にまでなり、9(1997)年度に91.4%、続く10(1998)年度には93.4%の危険水域に達していた。また、区債等の元利償還経費の負担の程度を示す公債費比率も10%を超えないことが望ましいとされるが、5(1993)年度に23区平均を上回り、8(1996)年度に10%を超え、10(1998)年度には12.9%まで上昇し、23区平均の10.5%を2.4ポイントも上回る状態だった。さらに翌11(1999)年度決算時には、それぞれ98.5%、14.0%と、いずれも過去最悪の値を記録するに至るのである(図表2-②参照)。
借金は膨らみ貯金は使い果たし、収入は減っているのに支出は切り詰められず、という状態では家計が破綻するのは目に見えている。区財政に起きていたのはそれと同じことで、区長の発言通り「財政再建団体へ転落する可能性」は決して誇張ではなく、現実味を帯びた危機感の表れだったと言える。
さらに同白書は、今後の区財政を左右する要因として、大きな伸びが見込めない区税等の歳入に対し、少子高齢化による福祉関係経費の増大、平成14(2002)年度にピークを迎える公債費負担(公債費比率14.4%見込み)、建設時から40年を経過した施設の改築・改修や設備更新に係る経費の増大、職員定数削減による影響や退職手当の負担増など、歳出の面で中長期的に予想される課題を提示している。その上で、72億円を超える12(2000)年度の財源不足額をどう埋めるかという切迫した問題に加え、都が打ち出した「東京都財政再建推進プラン」による区事業への影響や、都区制度改革に伴う清掃事務移管等を巡り難航している都区財調協議などの未確定要素も抱え、12年度予算編成に向けてこれまで以上に厳しい事態に直面していることを明らかにした。
またこの財政白書とともに、平成10(1998)年度決算を対象とする「豊島区バランスシート」が公表された(※7)。バランスシート(貸借対照表)は区の財政状況を企業会計的な手法で分析するもので、より多角的な視点から区の財政状況を判断するための客観的な基準の確立を目的としていた。当時、国(自治省)においても地方公共団体への導入に向けた検討が進められていたが(翌12年3月に統一基準「自治省方式」公表)、全国的にも導入事例はまだわずかであり、豊島区としても初の試みとなるものだった。
バランスシートは、従来の決算が1年間の現金収支(フロー)を表していたのに対し、区の「資産」と「負債」のストック状況を示すものである。10(1998)年度決算に基づいて作成されたバランスシートでは、区が保有する道路・橋などのインフラや土地・建物・設備等の不動産のほか、現金や基金等も含めた資産合計2,621億9,200万円に対し、特別区債や退職給与引当金(職員が退職した場合に支払われる退職金推計総額)等の負債合計が775億9,500万円で、差引き1,845億9,600万円が正味財産となっている。これはあたかも資産が負債を大きく上回っているように見えるが、資産のうち約95%が施設等の固定資産であるため、現金や基金等の直ちに換金できる手元資金は71億円余りしかなく、その額は年間歳出額の1か月分にも満たない状況であった。
しかもバランスシートの資産の大半を占める公共施設の価値は、時間の経過とともに減価償却により目減りしていく一方だったが、区には将来の老朽化に備えた改築・改修資金を蓄える余裕もなく、それまで積極的に進めてきた公共施設整備が次第に区財政に重くのしかかってくる構図がここからも読み取れるのである。
バランスシートは、従来の決算が1年間の現金収支(フロー)を表していたのに対し、区の「資産」と「負債」のストック状況を示すものである。10(1998)年度決算に基づいて作成されたバランスシートでは、区が保有する道路・橋などのインフラや土地・建物・設備等の不動産のほか、現金や基金等も含めた資産合計2,621億9,200万円に対し、特別区債や退職給与引当金(職員が退職した場合に支払われる退職金推計総額)等の負債合計が775億9,500万円で、差引き1,845億9,600万円が正味財産となっている。これはあたかも資産が負債を大きく上回っているように見えるが、資産のうち約95%が施設等の固定資産であるため、現金や基金等の直ちに換金できる手元資金は71億円余りしかなく、その額は年間歳出額の1か月分にも満たない状況であった。
しかもバランスシートの資産の大半を占める公共施設の価値は、時間の経過とともに減価償却により目減りしていく一方だったが、区には将来の老朽化に備えた改築・改修資金を蓄える余裕もなく、それまで積極的に進めてきた公共施設整備が次第に区財政に重くのしかかってくる構図がここからも読み取れるのである。
行財政緊急再建計画
高野区長を本部長として、改めて組織された行財政改革推進本部(以下「行革本部」)は、5月からの半年間に16回の本部会議を重ね、財政白書・バランスシートとともに、平成12・13(2000・2001)年度の予算編成に向けた「行財政緊急再建計画」を同時に公表した(※8)。
前章で述べたとおり、区は平成8(1996)年を「行財政改革元年」に位置づけ、翌9~11(1997~1999)年度の3か年を計画期間とする「行財政改革計画」を策定して改革を進めてきた。この計画に基づく財政効果は3年間で113億円にのぼったが、財源不足を埋めるには遠く及ばず、庁舎等建設基金等の特定目的基金の運用をはじめ、様々な財源対策を講じて何とか凌いできたというのが実態であった。その結果、区の財政状況はより深刻さを増し、基金運用に頼らない財政基盤を築くという当初の目標を達成するどころか、6(1994)年度から6年連続しての基金運用は累計213億円(11年度決算見込み)に達し、特定目的基金の実質残高はわずか29億円(11年度新設の介護保険円滑導入基金17億円は除く)にまで落込み、基金の運用も最早、限界に達していた。
こうした実態に加え、さらに12(2000)年度だけでも72億円超の財源不足が見込まれ、このままでは翌年度予算が組めないという、文字通り、緊急事態に迫られて策定したのが「行財政緊急再建計画」である。そのため計画の策定にあたっては、これまで進めてきた経費削減策だけでは限界であることを踏まえ、区有地等の資産活用も含めた「緊急措置」も視野に入れて検討された。
図表2-③は両計画の主な内容を項目ごとにまとめたものであるが、「行財政緊急再建計画」も「行財政改革計画」の枠組みを踏襲し、「内部努力の徹底」(組織スリム化)と「施策の見直し」(事業スリム化)を大きな柱に、コストカットに主眼が置かれた。
だが、抑制の効かない歳出構造の一因として財政白書に挙げられた新規・拡充事業は、義務的事業や一般財源負担が生じないものを除き、原則として「実施しない」とする厳しい姿勢が示された。さらに補助金の見直しは、事業助成10%、団体補助30%の削減を原則とするなど、6月の区長所信表明で示された「聖域なしの徹底した行財政改革」に一歩踏み込んだものと言えるだろう。また、区長をはじめとする特別職の給与削減も加藤区政時代から実施されていたものだが、今回はそれぞれの減額率が区長については10%から20%(期末手当は50%)へ、助役については5%から10%に倍増され、管理職手当の10%自主返上も含め、区一丸となって行財政改革に取り組む覚悟を示したものであった。なお、この給与カットの特例措置は11月から向こう 1年間の時限的なものであったが2度延長され、平成11(1999)年11月から3年間にわたって実施され、平成13(2001)年度には管理職も給料月額の5%が削減された(※9)。
その一方、公共施設の運営については具体的な廃止施設が挙げられていたものの、出張所廃止に伴う併設施設や老朽化により既に休業中の豊島プールなどにとどまっており、財政白書等で明らかにされた公共施設全体の構造的な問題を解消する道筋は依然として示されていなかった。しかもこの計画を完全に実施したとしてもなお30億円以上の財源不足が見込まれる上、都区制度改革に伴う清掃事務移管等を巡る都区財調協議、国の制度設計が遅れている介護保険制度の財源問題など、未確定要素も多く、区長として初めて臨む12(2000)年度予算編成は想像以上に厳しいものとなったのである。
前章で述べたとおり、区は平成8(1996)年を「行財政改革元年」に位置づけ、翌9~11(1997~1999)年度の3か年を計画期間とする「行財政改革計画」を策定して改革を進めてきた。この計画に基づく財政効果は3年間で113億円にのぼったが、財源不足を埋めるには遠く及ばず、庁舎等建設基金等の特定目的基金の運用をはじめ、様々な財源対策を講じて何とか凌いできたというのが実態であった。その結果、区の財政状況はより深刻さを増し、基金運用に頼らない財政基盤を築くという当初の目標を達成するどころか、6(1994)年度から6年連続しての基金運用は累計213億円(11年度決算見込み)に達し、特定目的基金の実質残高はわずか29億円(11年度新設の介護保険円滑導入基金17億円は除く)にまで落込み、基金の運用も最早、限界に達していた。
こうした実態に加え、さらに12(2000)年度だけでも72億円超の財源不足が見込まれ、このままでは翌年度予算が組めないという、文字通り、緊急事態に迫られて策定したのが「行財政緊急再建計画」である。そのため計画の策定にあたっては、これまで進めてきた経費削減策だけでは限界であることを踏まえ、区有地等の資産活用も含めた「緊急措置」も視野に入れて検討された。
図表2-③は両計画の主な内容を項目ごとにまとめたものであるが、「行財政緊急再建計画」も「行財政改革計画」の枠組みを踏襲し、「内部努力の徹底」(組織スリム化)と「施策の見直し」(事業スリム化)を大きな柱に、コストカットに主眼が置かれた。
その一方、公共施設の運営については具体的な廃止施設が挙げられていたものの、出張所廃止に伴う併設施設や老朽化により既に休業中の豊島プールなどにとどまっており、財政白書等で明らかにされた公共施設全体の構造的な問題を解消する道筋は依然として示されていなかった。しかもこの計画を完全に実施したとしてもなお30億円以上の財源不足が見込まれる上、都区制度改革に伴う清掃事務移管等を巡る都区財調協議、国の制度設計が遅れている介護保険制度の財源問題など、未確定要素も多く、区長として初めて臨む12(2000)年度予算編成は想像以上に厳しいものとなったのである。
財政健全化計画
こうして編成された平成12(2000)年度予算案は、「介護保険の導入や清掃事業の移管等を円滑に行うとともに、あわせて『赤字団体』への転落を食いとめるため、財政運営に万全を期す予算」として位置づけられた(※10)。その規模は一般会計969億円、前年比1.6%減と2年連続の緊縮予算となったが、当初の一般会計の財源不足72億円に新たに介護保険事業や清掃事業開始等に伴う既定経費の増加分11億円が必要になり、それを加えた83億円の財源不足額に対し、人件費の削減や施策の見直しによる歳出削減約53億円と、施設使用料の改定や未利用地の売却等による歳入確保約8億円の計61億円を充ててもなお、22億円が埋め切れず、またしても庁舎等建設基金の運用(11億円)や財政調整基金の取崩し(6億円)等の財源対策を講じなければならなかった。それはまさに赤字団体への転落を回避するために、なけなしの貯金を叩いて組んだ予算だった。
12(2000)年度の予算編成は何とか乗り切ったものの、翌年度以降も毎年50~80億円もの財源不足が見込まれ、自転車操業の予算編成から抜け出すためには何としても中期的な展望に立った財政計画を立てる必要に迫られていた。その一方、都区制度改革により「基礎的自治体」として位置づけられた特別区は、それぞれが自律的な行財政運営を図り、個性的な地域づくりを進めることが求められていた。そのためにも安定した財政基盤を築くことは急務であったが、これまでの綱渡りのような予算編成を続けている限りは現状を打開することはできず、行財政運営のあり方そのものにメスを入れなければならないことは明白だった。予算案が審議された平成12(2000)年第1回区議会定例会の所信表明の中でも、区長自身が「行財政改革の成否は、潤沢な資金があった時代から持続している思考や制度からどれだけ脱却できるのか、また、どれだけ新しい発想でものが見られるのかにかかっている」と述べている(※11)。
12(2000)年度の予算編成は何とか乗り切ったものの、翌年度以降も毎年50~80億円もの財源不足が見込まれ、自転車操業の予算編成から抜け出すためには何としても中期的な展望に立った財政計画を立てる必要に迫られていた。その一方、都区制度改革により「基礎的自治体」として位置づけられた特別区は、それぞれが自律的な行財政運営を図り、個性的な地域づくりを進めることが求められていた。そのためにも安定した財政基盤を築くことは急務であったが、これまでの綱渡りのような予算編成を続けている限りは現状を打開することはできず、行財政運営のあり方そのものにメスを入れなければならないことは明白だった。予算案が審議された平成12(2000)年第1回区議会定例会の所信表明の中でも、区長自身が「行財政改革の成否は、潤沢な資金があった時代から持続している思考や制度からどれだけ脱却できるのか、また、どれだけ新しい発想でものが見られるのかにかかっている」と述べている(※11)。
その視点から策定されたのが平成12(2000)年10月の「財政健全化計画」と「新生としま改革プラン」である。「行財政緊急再建計画」期間の途中ではあったが、財政収支の帳尻合わせに終始してきた感のあるこれまでの行財政運営から脱却し、財政再建と同時に新たな発想に立った行政スタイルの確立をめざすものとして以後4年間、この二つの計画を両輪に行財政改革が進められていくこととなった。
「財政健全化計画」(※12)は、平成6(1994)年度から6年連続して実質的な赤字が続く区財政を段階的に立て直し、16(2004)年度までの4年間で黒字へ転換することを目標としていた。その目標達成に向け、今後の財政見通しを踏まえた各年度の収支計画を示すとともに、198に及ぶ見直し対象事業を提示している。その中には、私立幼稚園児保護者への補助、公衆浴場への助成、商店街活性化事業助成、民生・児童委員活動費、高齢者クラブ運営助成、心身障害者や難病患者への福祉手当、低所得者への援護、紙おむつの支給・購入費助成、高齢者世帯の住み替え家賃助成、就学援助生活困窮児への補助金など区民福祉に直結する事業も含まれ、まさに区長の宣言通り、「聖域なしの行財政改革の断行」であった。だが、こうした区民の痛みを伴う改革にまで手をつけざるを得ない状況には、新任区長として無念さや忸怩たる思いが胸に渦巻いていたことは想像に難くない。公約にも掲げていた「文化の薫り高いまちづくり」への夢を抱いて就任したものの、「ぜひ実現したい事業でお金のかかるものはすべて目をつぶってきた」とその夢を封印し、誰も好き好んでやりたくはないことを区長としてやらざるを得なかったことについて、「区民生活への影響の大きさを考えたとき、断腸の思いで決断したものもあった」と吐露した言葉が、当時の偽らざる心境であったろう。
「財政健全化計画」(※12)は、平成6(1994)年度から6年連続して実質的な赤字が続く区財政を段階的に立て直し、16(2004)年度までの4年間で黒字へ転換することを目標としていた。その目標達成に向け、今後の財政見通しを踏まえた各年度の収支計画を示すとともに、198に及ぶ見直し対象事業を提示している。その中には、私立幼稚園児保護者への補助、公衆浴場への助成、商店街活性化事業助成、民生・児童委員活動費、高齢者クラブ運営助成、心身障害者や難病患者への福祉手当、低所得者への援護、紙おむつの支給・購入費助成、高齢者世帯の住み替え家賃助成、就学援助生活困窮児への補助金など区民福祉に直結する事業も含まれ、まさに区長の宣言通り、「聖域なしの行財政改革の断行」であった。だが、こうした区民の痛みを伴う改革にまで手をつけざるを得ない状況には、新任区長として無念さや忸怩たる思いが胸に渦巻いていたことは想像に難くない。公約にも掲げていた「文化の薫り高いまちづくり」への夢を抱いて就任したものの、「ぜひ実現したい事業でお金のかかるものはすべて目をつぶってきた」とその夢を封印し、誰も好き好んでやりたくはないことを区長としてやらざるを得なかったことについて、「区民生活への影響の大きさを考えたとき、断腸の思いで決断したものもあった」と吐露した言葉が、当時の偽らざる心境であったろう。
各事業の具体的な見直し内容については、毎年度の予算編成に併せて策定する実施計画(※13)の中で明らかにされたが、収納率向上・受益者負担適正化・資産活用等による「歳入確保」と、内部努力の徹底(組織スリム化)・施策の見直し(事業スリム化)による「歳出抑制」という枠組みは従前と変わっていない。
図表2-④は「財政健全化計画」策定当初の収支計画と各年度の主な取り組み内容をまとめたものである。表上段の収支見通しにおける毎年度50~80億円にのぼる財源不足に対し、計画策定当初は13~15(2001~2003)年度の3年間はつなぎの財源対策として20~30億円を必要としつつも、16(2004)年度には約4億円の黒字が見込まれていた。一方、表下段は当初計画以降の変動要因を反映した各年度実施計画における財政効果額であるが、15(2003)年度には6(1994)年度以降続いてきた基金運用等の特別な財源対策を講じることなく予算編成がなされ、健全化による成果が着実に現れてきたことが窺えた。また同年度の予算編成時点では、翌16(2004)年度も約52億円の財源不足に対し約55億円の健全化対策を実施することにより、引き続き特別な財源対策を講ずることなく黒字転換できる見通しに立っていた(※14)。それにも関わらず、最終年度の16(2004)年度には想定を超える72億円もの大幅な財源不足が再び生じ、ついに旧時習小学校跡地の売却という財源対策を講じざるを得なかった。計画期間の4年間で当初目標の250人を上回る334人の職員を削減し、また198に及ぶ事務事業の見直しによる累積効果額は約28億円にのぼっていたが、それら歳出抑制の徹底を図ってきてもなお、最優先事項に掲げてきた黒字転換の目標は達成できず、財政健全化のゴールはまたしても遠のいたのである(※15)。
目標を達成できなかった要因について、平成16(2004)年区議会第1回定例会の招集あいさつの中で区長自ら次のように分析している(※16)。
図表2-⑤は平成6(1994)年度から18(2006)年度までの一般会計予算額と決算額の推移を表したグラフであるが、当初予算額は区長就任の11(1999)年度以降8年連続して減少しており、15(2003)年度予算は2(1990)年度以来、13年ぶりに900億円を下回る規模にまで縮小されている。だがそれでも歳入・歳出決算額の実質的な収支は、庁舎等建設基金の運用などの特別な財源対策を除けば6年度以降11年度までは実質的な赤字が続いていた。12(2000)年度は、当初予算に計上していた庁舎等建設基金運用の11億円を歳入せずに済んだため7年ぶりに実質的な黒字となり、続く13(2001)年度も雑司が谷小学校跡地の定期借地権料収入等26億円の財源対策を講じたものの、基金の運用はせず、50億円を超える特別区税収入増もあって、2年連続して実質的な黒字、3年ぶりの対前年比プラスの決算に転じていた。そして15(2003)年度には、計画策定当初想定していた約20億円のつなぎの財源対策を講じることなく予算編成がなされ、財政健全化の手応えは確実なものと思われた。しかし、都区財政調整交付金の急激な落込み等によりその期待は反転し、再び実質的な赤字財政に逆戻りしてしまったのである。
そうした状況を省みつつも、さらなる改革に向けた意欲を区長は次のように述べている(※17)。
図表2-④は「財政健全化計画」策定当初の収支計画と各年度の主な取り組み内容をまとめたものである。表上段の収支見通しにおける毎年度50~80億円にのぼる財源不足に対し、計画策定当初は13~15(2001~2003)年度の3年間はつなぎの財源対策として20~30億円を必要としつつも、16(2004)年度には約4億円の黒字が見込まれていた。一方、表下段は当初計画以降の変動要因を反映した各年度実施計画における財政効果額であるが、15(2003)年度には6(1994)年度以降続いてきた基金運用等の特別な財源対策を講じることなく予算編成がなされ、健全化による成果が着実に現れてきたことが窺えた。また同年度の予算編成時点では、翌16(2004)年度も約52億円の財源不足に対し約55億円の健全化対策を実施することにより、引き続き特別な財源対策を講ずることなく黒字転換できる見通しに立っていた(※14)。それにも関わらず、最終年度の16(2004)年度には想定を超える72億円もの大幅な財源不足が再び生じ、ついに旧時習小学校跡地の売却という財源対策を講じざるを得なかった。計画期間の4年間で当初目標の250人を上回る334人の職員を削減し、また198に及ぶ事務事業の見直しによる累積効果額は約28億円にのぼっていたが、それら歳出抑制の徹底を図ってきてもなお、最優先事項に掲げてきた黒字転換の目標は達成できず、財政健全化のゴールはまたしても遠のいたのである(※15)。
目標を達成できなかった要因について、平成16(2004)年区議会第1回定例会の招集あいさつの中で区長自ら次のように分析している(※16)。
-一つには都区財政調整交付金交付額と当初予算額との乖離が過去2年連続して10数億円の規模の大幅なものになったこと、また新たな時代の要請に伴う緊急かつ区民福祉の維持向上から不可欠な新規・拡充事業の歳出需要が当初見込みを超えて対応せざるを得なかったこと、さらに国民健康保険事業会計など特別会計への繰出金が年々増加し一般会計を圧迫していることなどが挙げられます。
しかしここに挙げられているのはいずれも72億円の財源不足が生じた直接的な要因であって、用地売却という手段を講ぜざるを得なかったことには触れていない。背景にあるのは、やはり本来の目的が年度間の財政調整機能であるはずの財政調整基金を使い果たしことであり、特定目的基金の運用に頼り続けてきたこれまでの歪んだ財政運営のツケが回ってきたことは明らかである。平成15(2003)年度末現在の財政調整基金の残高は6億円、特定目的基金は運用額192億円を除くと実質的な残高は15億円、合わせてもわずか21億円に過ぎなかった。最早、財源不足に対応できるゆとりはどこにも残されていなかったのである。
-この4年間の取組みでは、事務事業の改善は積極的に実施したものの、新規需要に対応した事業を加える一方で、休廃止した事業はほとんどありませんでした。また、平成12年の施設白書で指摘した歳出規模の43%を占める施設関連経費の縮減についても、十分に踏み込んだとは言えません。こうしたことから、この間の取組みは、一時的な延命策としての効果はあったものの、歳出構造の構造的な改革には至らなかったものと深く反省をしております。
さらに、これから先、改革を実施せず、現状のサービス水準を維持した場合には、現時点で、平成17年度に71億円、21年度までの5年間で308億円という財源不足が見込まれており、区長就任以来、最大の難局に直面しております。しかし、私は、この難局こそ抜本的な改革を成し遂げる好機と捉えるべきであると考えております。難局に立ち向かう必死の覚悟の中から、改革を進める斬新な発想と力が生まれ、制度疲労に陥った仕組みを廃し、過去のしがらみを断ち切ることができるのであります。今を逃しては大きな改革は成し得ません。これまでの4年間の取組みをさらなる平成の大改革へとつなげ、聖域を設けることなく区政の構造改革を推し進めてまいりたいと思っております。
そして、身の丈を超えて拡大してきた行政サービスを歳入規模に見合った水準へとスリム化していくために、区財政硬直化の最大要因である「公共施設の再構築」にいよいよ切り込んでいくことになるのである。
さらに、これから先、改革を実施せず、現状のサービス水準を維持した場合には、現時点で、平成17年度に71億円、21年度までの5年間で308億円という財源不足が見込まれており、区長就任以来、最大の難局に直面しております。しかし、私は、この難局こそ抜本的な改革を成し遂げる好機と捉えるべきであると考えております。難局に立ち向かう必死の覚悟の中から、改革を進める斬新な発想と力が生まれ、制度疲労に陥った仕組みを廃し、過去のしがらみを断ち切ることができるのであります。今を逃しては大きな改革は成し得ません。これまでの4年間の取組みをさらなる平成の大改革へとつなげ、聖域を設けることなく区政の構造改革を推し進めてまいりたいと思っております。
新生としま改革プラン
「財政健全化計画」と対を成す「新生としま改革プラン」(※18)は、前述のとおり、財政収支の不足分を何とか穴埋めすることに追われてきたこれまでの行財政運営から脱却し、新たな発想に立った行政スタイルの確立とそれによる財政再建をめざすものとして策定された。西暦2000年を迎え、都区制度改革の実現により基礎的自治体として自律した自治体運営への転換が求められるなか、これまでのようなコストカットばかりの行革を続けていては、区の活力は低下するばかりで未来への展望は開けない。こうした問題意識から策定されたこのプランは、その思いをプランの名称「新生としま」に込め、「新たな豊島区を創り出す」ための指針として策定されたのである。
「新生としま改革プラン」は以下の5つの柱を掲げ、それぞれの柱の下に基本的な方針を定めている。
・プランA 行政サービスを再編成し、効率的で質の高いサービスを提供します
・プランB 新たな時代に対応できる公共施設・都市基盤のあり方を確立します
・プランC 区民と協働して地域の活性化に努めます
・プランD 計画的な人材育成を図るとともに、簡素で効率的な組織運営、定数の適正管理を徹底します
・プランE 透明性、迅速性にすぐれた行政システムを確立します
このプランも「財政健全化計画」と同様に13~16(2001~2004)年度の4か年計画で、その具体的な取り組み内容は、毎年度予算編成時に「財政健全化計画」実施計画とセットで策定される「新生としま改革プラン」推進計画の中で明らかにされた(※19)。図表2-⑥はプランA~Eごとにそれぞれの方針と主な取り組み内容をまとめたものであるが、4年間の取り組みは80項目113事項に及んだ。
プランAは施策の重点化、区民が利用しやすく費用対効果の高い行政サービスの追求、民間との役割分担の明確化の3つの方針を掲げているが、なかでも12(2000)年4月にスタートした介護保険事業をはじめ、高齢化の進展に伴い、急増する高齢者福祉関係経費が今後さらに区財政に重くのしかかってくることを踏まえ、23 区でもトップレベルを誇ってきた福祉サービスのあり方を見直すことは避けて通れない課題であった。限られた財源の中では従前からの行政サービス水準を維持していくことは最早困難であるばかりでなく、変化する地域社会の実態に即し、旧態依然とした発想から脱却し、重点的に取り組むべき施策を「選択」していく時代になったと言えよう。しかし敬老金や高齢者福祉手当などのいわゆる金銭給付を伴う既存事業の廃止には、当然のことながら少なからず抵抗はあったが、それらの財源を在宅福祉などの新たなサービスに振り向けていくことは、今後の福祉施策の方向性を見据えての判断であった。さらに、行政だけが福祉サービスを担う時代は終わり、むしろ専門的知識や経験の豊かな社会福祉法人や民間事業者に施設の整備から運営までを積極的に委ねていく方針が示された。こうした民間との役割分担の見直しもまた、時代の変化に対応した判断だったのである。
さらにプランAには「区民との協働による地域福祉ネットワークづくり」が挙げられているが、そうした考え方はプランCにも反映され、新たな地域コミュニティづくりやボランティア活動・NPO活動等に対する支援強化、区政への区民参加の促進の3つの方針が掲げられた。これらの方針には、都区制度改革や地方分権改革の進展を踏まえ、区民を自治の主体に位置づけ、「参加」と「協働」を自治体運営の根幹に据える考え方の萌芽が見られる。そしてその考え方は3年後の平成15(2003)年3月、新たに制定された基本構想の中により明確に位置づけられ、さらに3年後の18(2006)年3月、「参加と協働のまちづくり」を基本理念とする「自治の推進に関する基本条例」の制定へとつながっていった。その経緯については次節で詳しく述べるが、従来の行政主導に替わる新たな行政スタイルの確立に向け、「新生としま改革プラン」は羅針盤の役割を果たしたと言えるだろう。
続くプランDの職員の人材育成や組織のスリム化、プランEの区政の透明性の向上やIT技術を活用した積極的な情報発信は区長の公約にも掲げられていたが、都区制度改革により23 区横並び意識や国・都への依存体質からの脱却が求められる中、民間シンクタンク等への職員派遣や民間企業体験研修等の取り組みは職員のさらなる意識改革を促すものであった。また、前述した外部監査の導入をはじめ、様々な媒体を活用した積極的な情報提供は、区政情報の共有を前提とする区民参加の土台をなすものと言えた。
そして、これら5つの柱の中でも改革の成否の鍵を握るのはプランBの公共施設の再編であったことは言うまでもない。500を超える公共施設関係経費は区の歳出の4割以上を占め、さらに今後毎年50億円を超える改修経費が想定されるなど、施設の維持管理は区財政を圧迫する最大の要因となっていた。このため、プランB では区民集会室や児童館、保育園、保健所等の区民生活に密着した施設の配置状況や利用実態を見直し、統廃合の方針を掲げるとともに、既に統廃合が進められている学校や出張所等の跡地活用についても踏み込んだ再編案の検討が謳われた。その具体的な内容は、このプランに基づいて設置された検討組織による報告がベースとなり、平成15(2003)年10月、「公共施設の再構築・区有財産の活用」行革本部案に集約されていった。公共施設の抜本的な再編なくして財政再建はなし得ず、平成7(1995)年の臨調報告以来、その必要性を認識しながらもなかなか手がつけられなかった領域に一歩踏み込んだ意味は大きいと言えるだろう。
一方このプランBは、施設の再編・活用にとどまらず、都市基盤整備の推進を方針のひとつに掲げている。危機的な財政状況にあって新たな投資的事業に手を付けることは至難の業ではあったが、それでもなお、副都心の再生をはじめ地域の発展につながるまちづくりや安全安心のための防災街づくりなどを進めていくことは、21世紀を見据えたまちづくりの展望を拓くためにも歩みを止めるわけにはいかなかった。財政再建をなし得ても、その間にまちが寂れてしまったのでは何のための改革か、ということになる。財源対策に留意しつつも東池袋 4 丁目地区市街地再開発ビルの交流施設・新中央図書館の整備や鉄道事業者による駅舎改築と連動する大塚駅・東長崎駅の周辺整備等、重要な施策に絞って都市基盤整備の取り組みは進められた。以後、「都市再生」は区の重要政策のひとつに位置づけられていくこととなるが、その動きが本格化するのは財政健全化の成果が確実なものとなる平成20年代後半以降のこととなる。
「新生としま改革プラン」は以下の5つの柱を掲げ、それぞれの柱の下に基本的な方針を定めている。
・プランA 行政サービスを再編成し、効率的で質の高いサービスを提供します
・プランB 新たな時代に対応できる公共施設・都市基盤のあり方を確立します
・プランC 区民と協働して地域の活性化に努めます
・プランD 計画的な人材育成を図るとともに、簡素で効率的な組織運営、定数の適正管理を徹底します
・プランE 透明性、迅速性にすぐれた行政システムを確立します
このプランも「財政健全化計画」と同様に13~16(2001~2004)年度の4か年計画で、その具体的な取り組み内容は、毎年度予算編成時に「財政健全化計画」実施計画とセットで策定される「新生としま改革プラン」推進計画の中で明らかにされた(※19)。図表2-⑥はプランA~Eごとにそれぞれの方針と主な取り組み内容をまとめたものであるが、4年間の取り組みは80項目113事項に及んだ。
さらにプランAには「区民との協働による地域福祉ネットワークづくり」が挙げられているが、そうした考え方はプランCにも反映され、新たな地域コミュニティづくりやボランティア活動・NPO活動等に対する支援強化、区政への区民参加の促進の3つの方針が掲げられた。これらの方針には、都区制度改革や地方分権改革の進展を踏まえ、区民を自治の主体に位置づけ、「参加」と「協働」を自治体運営の根幹に据える考え方の萌芽が見られる。そしてその考え方は3年後の平成15(2003)年3月、新たに制定された基本構想の中により明確に位置づけられ、さらに3年後の18(2006)年3月、「参加と協働のまちづくり」を基本理念とする「自治の推進に関する基本条例」の制定へとつながっていった。その経緯については次節で詳しく述べるが、従来の行政主導に替わる新たな行政スタイルの確立に向け、「新生としま改革プラン」は羅針盤の役割を果たしたと言えるだろう。
続くプランDの職員の人材育成や組織のスリム化、プランEの区政の透明性の向上やIT技術を活用した積極的な情報発信は区長の公約にも掲げられていたが、都区制度改革により23 区横並び意識や国・都への依存体質からの脱却が求められる中、民間シンクタンク等への職員派遣や民間企業体験研修等の取り組みは職員のさらなる意識改革を促すものであった。また、前述した外部監査の導入をはじめ、様々な媒体を活用した積極的な情報提供は、区政情報の共有を前提とする区民参加の土台をなすものと言えた。
そして、これら5つの柱の中でも改革の成否の鍵を握るのはプランBの公共施設の再編であったことは言うまでもない。500を超える公共施設関係経費は区の歳出の4割以上を占め、さらに今後毎年50億円を超える改修経費が想定されるなど、施設の維持管理は区財政を圧迫する最大の要因となっていた。このため、プランB では区民集会室や児童館、保育園、保健所等の区民生活に密着した施設の配置状況や利用実態を見直し、統廃合の方針を掲げるとともに、既に統廃合が進められている学校や出張所等の跡地活用についても踏み込んだ再編案の検討が謳われた。その具体的な内容は、このプランに基づいて設置された検討組織による報告がベースとなり、平成15(2003)年10月、「公共施設の再構築・区有財産の活用」行革本部案に集約されていった。公共施設の抜本的な再編なくして財政再建はなし得ず、平成7(1995)年の臨調報告以来、その必要性を認識しながらもなかなか手がつけられなかった領域に一歩踏み込んだ意味は大きいと言えるだろう。
一方このプランBは、施設の再編・活用にとどまらず、都市基盤整備の推進を方針のひとつに掲げている。危機的な財政状況にあって新たな投資的事業に手を付けることは至難の業ではあったが、それでもなお、副都心の再生をはじめ地域の発展につながるまちづくりや安全安心のための防災街づくりなどを進めていくことは、21世紀を見据えたまちづくりの展望を拓くためにも歩みを止めるわけにはいかなかった。財政再建をなし得ても、その間にまちが寂れてしまったのでは何のための改革か、ということになる。財源対策に留意しつつも東池袋 4 丁目地区市街地再開発ビルの交流施設・新中央図書館の整備や鉄道事業者による駅舎改築と連動する大塚駅・東長崎駅の周辺整備等、重要な施策に絞って都市基盤整備の取り組みは進められた。以後、「都市再生」は区の重要政策のひとつに位置づけられていくこととなるが、その動きが本格化するのは財政健全化の成果が確実なものとなる平成20年代後半以降のこととなる。
補助金制度改革
この項を締めくくるにあたり、「新生としま改革プラン」の取り組み項目にも掲げられている補助金制度改革について触れておく。
区は平成11年(1999)11月策定の「行財政緊急再建計画」に基づき、12(2000)年度の予算編成時に事業助成10%、団体補助30%の削減を原則とする補助金の見直しを行った。同計画には補助金の一律カットの方針とともに、「すべての補助金を廃止した上で新たな視点からの見直しを行う等、補助金についての抜本的な改善手法を検討する」というなお書きが付されていた。これに従い、翌12年6月に「補助金検討委員会」(会長:新藤宗幸立教大学法学部教授)が設置され、10月には提言書(※20)が提出された。
区が独自に支出している補助金には、各種団体の育成と運営の助成を目的とする「団体補助」と、特定の事業・研究等の奨励を目的とする「事業補助」がある。12(2000)年度に支出された補助金は、一律カットされてはいたものの、「団体補助」が86団体に4,066万8千円、「事業補助」は79件で4億1,867万5千円、総額で約4億6千万円にのぼっていた。
提言書ではこれらの補助金について、記録を遡れる限り調査した結果、団体補助対象にあたる86団体のうち69団体が昭和63(1988)年度から継続して交付を受けている実態があり、補助対象が固定化していると見られること、また1団体あたりの交付額平均は47万円程度だが、なかには3万5千円の例もあり、団体の維持に不可欠な財源というには零細であること、さらに申請書や決算書の内容が不十分で、団体の活動をいかに助成しているかが明確でないと指摘している。さらに事業補助についても団体補助と判別がしがたいものが多く、事業の公益性や必要性、有効性が必ずしも明確でないと断じている。そして、いずれの補助金も長年の慣行で交付され続けてきた結果、区民への説明責任が著しく低下しており、公金支出の透明性を確保する観点からも「補助金制度の抜本的な改革」が必要であるとしている。結びに補助金改革の基本的方向として、現行補助金をすべて一旦廃止し、事業補助に一本化する新たな補助金制度の創設が提言された。その内容は、区民の自主的活動を支援するための補助金(区民活動支援事業補助金)と、区の政策を実現するために補助金の交付をもって区自ら積極的に関わる必要がある補助金(重要政策補助金)の2本立てとし、前者については区民参加の審査委員会が明確な基準のもとに補助金交付の適否を判定し、これに基づいて区長が補助金交付の決定をするよう求めるものであった。
区は平成11年(1999)11月策定の「行財政緊急再建計画」に基づき、12(2000)年度の予算編成時に事業助成10%、団体補助30%の削減を原則とする補助金の見直しを行った。同計画には補助金の一律カットの方針とともに、「すべての補助金を廃止した上で新たな視点からの見直しを行う等、補助金についての抜本的な改善手法を検討する」というなお書きが付されていた。これに従い、翌12年6月に「補助金検討委員会」(会長:新藤宗幸立教大学法学部教授)が設置され、10月には提言書(※20)が提出された。
区が独自に支出している補助金には、各種団体の育成と運営の助成を目的とする「団体補助」と、特定の事業・研究等の奨励を目的とする「事業補助」がある。12(2000)年度に支出された補助金は、一律カットされてはいたものの、「団体補助」が86団体に4,066万8千円、「事業補助」は79件で4億1,867万5千円、総額で約4億6千万円にのぼっていた。
提言書ではこれらの補助金について、記録を遡れる限り調査した結果、団体補助対象にあたる86団体のうち69団体が昭和63(1988)年度から継続して交付を受けている実態があり、補助対象が固定化していると見られること、また1団体あたりの交付額平均は47万円程度だが、なかには3万5千円の例もあり、団体の維持に不可欠な財源というには零細であること、さらに申請書や決算書の内容が不十分で、団体の活動をいかに助成しているかが明確でないと指摘している。さらに事業補助についても団体補助と判別がしがたいものが多く、事業の公益性や必要性、有効性が必ずしも明確でないと断じている。そして、いずれの補助金も長年の慣行で交付され続けてきた結果、区民への説明責任が著しく低下しており、公金支出の透明性を確保する観点からも「補助金制度の抜本的な改革」が必要であるとしている。結びに補助金改革の基本的方向として、現行補助金をすべて一旦廃止し、事業補助に一本化する新たな補助金制度の創設が提言された。その内容は、区民の自主的活動を支援するための補助金(区民活動支援事業補助金)と、区の政策を実現するために補助金の交付をもって区自ら積極的に関わる必要がある補助金(重要政策補助金)の2本立てとし、前者については区民参加の審査委員会が明確な基準のもとに補助金交付の適否を判定し、これに基づいて区長が補助金交付の決定をするよう求めるものであった。
この検討委員会は6名の委員から構成され、うち3名は区民委員で区民参加による補助金の見直し検討は23区でも初の試みだった。
検討委員会からの提言を受け、14(2002)年度交付分から新制度へ移行するため、13(2001)年4月に「補助金等審査委員会」を設置し、8月に改めて「区民活動支援事業補助金」の募集を開始した(※21)。区民代表と学識経験者5名からなる審査委員会は、交付申請された233事業すべてをスコア方式で個別審査し、その審査結果をまとめた意見書を提出した。このスコア方式は、10の審査項目について各項目5点、各審査委員の持ち点50点、5人の点数合計250点満点で150点以上を評価A(申請のまま補助金を交付することに問題のない事業)、130~149点を評価B(原則交付だが検討の余地がある事業)、130点未満を評価C(交付すべきでない事業)とするもので、それぞれ評価A112事業、B93事業、C28事業の審査結果が出された。この個別審査結果に併せ、区政関係者や公務員OB、国際交流団体、社会運動団体、青少年育成団体等の申請事業について、公益性や区民への波及効果、自主財源率等の観点から見直しの必要性を求める意見が提出された。さらに直接の審査対象ではないものの、区が独自で作成した重要政策補助金についても従前の団体運営補助の性格が強い助成の残存や、同一団体に対して区の複数の所管課から補助金を支給している例など、再検討すべき点があるとの意見も付された。これらの課題を残しつつも、外部評価方式の導入は補助金制度の透明性向上につながる画期的な取り組みとして、15(2003)年度以降も継続して実施され、地域における多様な区民活動を支える仕組みとして定着していった。
検討委員会からの提言を受け、14(2002)年度交付分から新制度へ移行するため、13(2001)年4月に「補助金等審査委員会」を設置し、8月に改めて「区民活動支援事業補助金」の募集を開始した(※21)。区民代表と学識経験者5名からなる審査委員会は、交付申請された233事業すべてをスコア方式で個別審査し、その審査結果をまとめた意見書を提出した。このスコア方式は、10の審査項目について各項目5点、各審査委員の持ち点50点、5人の点数合計250点満点で150点以上を評価A(申請のまま補助金を交付することに問題のない事業)、130~149点を評価B(原則交付だが検討の余地がある事業)、130点未満を評価C(交付すべきでない事業)とするもので、それぞれ評価A112事業、B93事業、C28事業の審査結果が出された。この個別審査結果に併せ、区政関係者や公務員OB、国際交流団体、社会運動団体、青少年育成団体等の申請事業について、公益性や区民への波及効果、自主財源率等の観点から見直しの必要性を求める意見が提出された。さらに直接の審査対象ではないものの、区が独自で作成した重要政策補助金についても従前の団体運営補助の性格が強い助成の残存や、同一団体に対して区の複数の所管課から補助金を支給している例など、再検討すべき点があるとの意見も付された。これらの課題を残しつつも、外部評価方式の導入は補助金制度の透明性向上につながる画期的な取り組みとして、15(2003)年度以降も継続して実施され、地域における多様な区民活動を支える仕組みとして定着していった。