前項では平成11(1999)年4月の高野区長就任から16(2004)年3月までの5年間にわたる財政再建の足取りをたどったが、それら一連の取り組みは一定の成果を上げつつも「財政健全化計画」の最終目標は達成できず、改めてコストカット中心の行財政改革の限界を明らかにしたものだった。そのため、次は改革の本丸とも言える「公共施設の再構築」へいよいよ進んでいくことになるが、その前段として、本項では区政の透明性向上・説明責任の徹底に向けた取り組みの経緯をたどる。
区民の痛みを伴う行財政改革を断行するには、区の現状を詳らかにし、区民の理解を得ることが必須の条件となる。また平成12(2000)年4月の都区制度改革により基礎的自治体に位置づけられた特別区は、それまでの23区横並びから各区それぞれの地域特性を活かした施策展開が求められるようになり、いわゆる「自己決定・自己責任の原則」に基づく自治体運営を進めていく上でも区民への説明責任はより一層重要なものとなっていた。さらにIT技術の進展に伴い、情報発信のあり方も多様化していた。そうした区政を取り巻く様々な環境の変化を背景としつつ、民間出身区長ならではのユニークな発想で展開された「開かれた区政」の実現に向けた取り組みをたどり、さらに「公共施設の再構築」につながる「施設白書」「人事白書」の2白書について概観する。
区民の痛みを伴う行財政改革を断行するには、区の現状を詳らかにし、区民の理解を得ることが必須の条件となる。また平成12(2000)年4月の都区制度改革により基礎的自治体に位置づけられた特別区は、それまでの23区横並びから各区それぞれの地域特性を活かした施策展開が求められるようになり、いわゆる「自己決定・自己責任の原則」に基づく自治体運営を進めていく上でも区民への説明責任はより一層重要なものとなっていた。さらにIT技術の進展に伴い、情報発信のあり方も多様化していた。そうした区政を取り巻く様々な環境の変化を背景としつつ、民間出身区長ならではのユニークな発想で展開された「開かれた区政」の実現に向けた取り組みをたどり、さらに「公共施設の再構築」につながる「施設白書」「人事白書」の2白書について概観する。
区民との対話
前項でも述べたとおり、就任後の区長が真っ先に取り組んだのは、選挙公約の一つであった「顔の見える区長」を具体化する「開かれた区長室」であった。
その第一弾として実施したのが平成11(1999)年7月にスタートした「こんにちは1日区長室」(※1)である。元々商人であった区長にしてみれば区長室の奥に収まっている気はさらさらなかったに違いない。開かれた区政の象徴として、それこそ区長室をガラス張りにしたいとの思いもあったようだが、この「1日区長室」は区長執務室から出て、区庁舎1階の区民相談コーナーで区民一人ひとりと対面する方式で行われた。日常生活での困りごとから区政への要望や提言まで、差し向かいで区民の生の声を聴くこの取り組みは16(2004)年度まで継続的に実施され、毎年4~6回、6年間で延べ35回、参加した区民は264人にのぼった。14(2002)年度には外国人区民や小・中・高校生を対象とする回を設けるなど、参加者の幅を広げる試みも行なわれ(※2)、区民にとっては普段なかなか接する機会のない区長に直接意見を述べることができ、区長にとっても自分の考えを区民に直接伝え、また区民のリアルな意見を聴くことができる相互コミュニケーションの場となった。
また、「1日区長室」の開始とほぼ同時期に「ホット・ほっと区民集会」がスタートした。喫緊の区政課題をテーマに区民の意見や要望を区長が直接聞くことを目的とする対話集会で、集会名称には最新情報(ホットな話題)を区長と区民の熱気ある対話を通して語り合うことで、安心できる(ほっとできる)開かれた区政をとの想いが込められていた。平成11(1999)年7月26日に開催された第1回のテーマは、翌12(2000)年4月から始まる「介護保険制度」、第2回は区民の関心が高い「防災対策」、そして3回目には区政の最重要課題である「行財政改革」で、その後も清掃・リサイクルや高齢者の健康づくり、商店街振興、子育て支援などその時々のタイムリーなテーマが取り上げられた(※3)。14(2002)年から15(2003)年にかけては、区が導入を目指していた放置自転車対策税及びワンルームマンション税について、構想段階で3回、条例化段階で3回の計6回の集会が開催された(※4)。この新税構想についてはマスコミ等でも連日のように報道され、社会的に大きな反響を呼んだが、集会は地元住民たちが新税をどのように捉えているかを発信するとともに、区としても構想を進めていく上で区民からの後押しを得られる機会となった。この区民との対話集会も16(2004)年度まで継続して実施され、6年間で延べ17回、参加者数は1,474人に及んだ。
これら「1日区長室」や「ホット・ほっと区民集会」のほかにも、地域の集会施設を会場に地域のまちづくりについて区長と区民が語り合う対話集会「まちかど区長室」(平成13年2月~14年11月、延べ19回、参加者数567人)、区民の自宅に出向いて区政の課題を気軽に語り合う「お茶の間区長室」(平成15年、2回、参加者数23人)など、ユニークな出前事業が実施された(※5)。
図表2-⑤は平成11(1999)年度から16(2004)年度までに実施された区長と区民との対話集会等の実績をまとめたものであるが、6年間で延べ69回、参加者数は2,331人に及ぶ。こうした取り組みの積み重ねが、区長が常日頃から繰り返し述べていた「区民目線の区政」「区民から信頼される区政」のベースとなり、また区民にとっても区政の様々な課題に対する関心や理解を深めるきっかけになったと言えるだろう。
その第一弾として実施したのが平成11(1999)年7月にスタートした「こんにちは1日区長室」(※1)である。元々商人であった区長にしてみれば区長室の奥に収まっている気はさらさらなかったに違いない。開かれた区政の象徴として、それこそ区長室をガラス張りにしたいとの思いもあったようだが、この「1日区長室」は区長執務室から出て、区庁舎1階の区民相談コーナーで区民一人ひとりと対面する方式で行われた。日常生活での困りごとから区政への要望や提言まで、差し向かいで区民の生の声を聴くこの取り組みは16(2004)年度まで継続的に実施され、毎年4~6回、6年間で延べ35回、参加した区民は264人にのぼった。14(2002)年度には外国人区民や小・中・高校生を対象とする回を設けるなど、参加者の幅を広げる試みも行なわれ(※2)、区民にとっては普段なかなか接する機会のない区長に直接意見を述べることができ、区長にとっても自分の考えを区民に直接伝え、また区民のリアルな意見を聴くことができる相互コミュニケーションの場となった。
また、「1日区長室」の開始とほぼ同時期に「ホット・ほっと区民集会」がスタートした。喫緊の区政課題をテーマに区民の意見や要望を区長が直接聞くことを目的とする対話集会で、集会名称には最新情報(ホットな話題)を区長と区民の熱気ある対話を通して語り合うことで、安心できる(ほっとできる)開かれた区政をとの想いが込められていた。平成11(1999)年7月26日に開催された第1回のテーマは、翌12(2000)年4月から始まる「介護保険制度」、第2回は区民の関心が高い「防災対策」、そして3回目には区政の最重要課題である「行財政改革」で、その後も清掃・リサイクルや高齢者の健康づくり、商店街振興、子育て支援などその時々のタイムリーなテーマが取り上げられた(※3)。14(2002)年から15(2003)年にかけては、区が導入を目指していた放置自転車対策税及びワンルームマンション税について、構想段階で3回、条例化段階で3回の計6回の集会が開催された(※4)。この新税構想についてはマスコミ等でも連日のように報道され、社会的に大きな反響を呼んだが、集会は地元住民たちが新税をどのように捉えているかを発信するとともに、区としても構想を進めていく上で区民からの後押しを得られる機会となった。この区民との対話集会も16(2004)年度まで継続して実施され、6年間で延べ17回、参加者数は1,474人に及んだ。
これら「1日区長室」や「ホット・ほっと区民集会」のほかにも、地域の集会施設を会場に地域のまちづくりについて区長と区民が語り合う対話集会「まちかど区長室」(平成13年2月~14年11月、延べ19回、参加者数567人)、区民の自宅に出向いて区政の課題を気軽に語り合う「お茶の間区長室」(平成15年、2回、参加者数23人)など、ユニークな出前事業が実施された(※5)。
図表2-⑤は平成11(1999)年度から16(2004)年度までに実施された区長と区民との対話集会等の実績をまとめたものであるが、6年間で延べ69回、参加者数は2,331人に及ぶ。こうした取り組みの積み重ねが、区長が常日頃から繰り返し述べていた「区民目線の区政」「区民から信頼される区政」のベースとなり、また区民にとっても区政の様々な課題に対する関心や理解を深めるきっかけになったと言えるだろう。
情報公開から情報発信へ
「開かれた区政」の実現に向けて、区民との対話とともに区長が重視したのは区政情報の積極的な発信であった。それは区長自身、自分が区長になって初めて区財政の内情を知ったように、区民に区の現状が正しく伝わっていないことが危惧されたからであった。
豊島区は昭和60(1985)年4月に「行政情報の公開に関する条例」を施行し、区が保有する情報を区民の求めに応じて提供する行政情報公開制度をスタートさせた。以後制度の運用状況を毎年公表するとともに制度利用の周知を図り、公開請求件数は初年度の152件から平成11(1999)年度には1,243件と年々増加していった。しかしその内訳は建築標識設置届等の民間開発関連情報に偏っており、請求者も一般の区民より区外の事業者が多かった。制度開始から15年が経過していたが、当初期待されていた憲法に定められた主権者としての区民の知る権利を保障し、区政への参加を広げる仕組みとしての機能は十全に果たされているとは言い難い状況だったのである。また情報技術の進展により業務の電算化や行政情報の多様化が進んでいくに伴い、文書を前提としていた従来の制度ではカバーしきれない部分が出てきたため、12(2000)年3月、従前の「行政情報の公開に関する条例」を全面改正し、電磁的記録等も公開対象とするとともに、公開請求者の範囲の拡大や非公開情報を明確化する「行政情報公開条例」を制定したのである。また同時に、総合的な個人情報保護制度の確立を図るため、従前の「電算処理に係る個人情報の保護に関する条例」(昭和52年7月施行)を廃止し、区政運営上取り扱われるすべての個人情報を対象とする「個人情報保護条例」を新たに制定し、翌13(2001)年1月から新制度の運用を開始した(※6)。
豊島区は昭和60(1985)年4月に「行政情報の公開に関する条例」を施行し、区が保有する情報を区民の求めに応じて提供する行政情報公開制度をスタートさせた。以後制度の運用状況を毎年公表するとともに制度利用の周知を図り、公開請求件数は初年度の152件から平成11(1999)年度には1,243件と年々増加していった。しかしその内訳は建築標識設置届等の民間開発関連情報に偏っており、請求者も一般の区民より区外の事業者が多かった。制度開始から15年が経過していたが、当初期待されていた憲法に定められた主権者としての区民の知る権利を保障し、区政への参加を広げる仕組みとしての機能は十全に果たされているとは言い難い状況だったのである。また情報技術の進展により業務の電算化や行政情報の多様化が進んでいくに伴い、文書を前提としていた従来の制度ではカバーしきれない部分が出てきたため、12(2000)年3月、従前の「行政情報の公開に関する条例」を全面改正し、電磁的記録等も公開対象とするとともに、公開請求者の範囲の拡大や非公開情報を明確化する「行政情報公開条例」を制定したのである。また同時に、総合的な個人情報保護制度の確立を図るため、従前の「電算処理に係る個人情報の保護に関する条例」(昭和52年7月施行)を廃止し、区政運営上取り扱われるすべての個人情報を対象とする「個人情報保護条例」を新たに制定し、翌13(2001)年1月から新制度の運用を開始した(※6)。
行政情報公開制度・個人情報保護制度は国の法整備に先駆けて自治体が先駆的に取り組んできた経緯があり、地方自治の推進の観点からも意義深い制度と言える。しかし、書面による公開請求手続きをはじめ、多くの区民にとっては少なからず敷居の高い制度であるという点は改善されたとは言えず、制度改正によっても区民利用が飛躍的に増えるとは考えにくかった。本来、区民にとって身近なものであるはずの区政の透明性・公開度を高め、区政への区民参加を広げるためには、区民からの公開請求を待つことなく、区政情報をより分かりやすくオープンな形で提供・発信していく必要があった。そしてこうした情報公開からより積極的な情報提供へという流れは、日進月歩の情報化の進展と相俟って、ITを活用した広報媒体の多様化へとつながっていったのである。
前項で触れた「新生としま改革プラン」のプランE「透明性、迅速性にすぐれた行政システムを確立」において「インターネットの活用などにより地域情報、行政情報の迅速な提供に努めます」との方針が掲げられ、その具体的な取り組み事項としてホームページの活用が挙げられている。また、平成12(2000)年12月に策定された「行政情報化推進計画」(※7)においても、ホームページの開設について「行政情報の広範囲な広報機能と双方向性を活用した広聴機能を志向していることから、これを『情報公開の器』として、開かれた区政の推進のために、さらに積極的に活用していく段階となっています」と意義づけている。
こうした方針に基づき、区は1年間の試行期間を経て平成12(2000)年11月に区公式ウェブサイト「豊島区ホームページ」を開設した(※8)。試行段階では区民の生活に密着した情報が中心だったが、本格開設時には条例183・規則226等を全文閲覧できる「例規集」を23区で初めて掲載したほか、主要な計画・白書・報告書等を網羅した「政策情報ルーム」、区の現況や各政策分野の統計表157からなる電子統計年鑑「としまの統計」等の大量の行政情報が掲載され、文字通り『情報公開の器』となるコンテンツの充実が図られた。また広聴機能についても、電子メールによる区政への意見受付や主な意見等を紹介する「区政へのご意見」を掲載し、区民との双方向コミュニケーションの仕組みも設けられた。さらに翌13(2001)年3月には予定価格250万円以上の発注工事に関する契約情報の提供を開始、14年(2002)2月には戸籍に関する各種証明や住民票の写し等の交付請求書、保育所入所申込書、介護保険要介護認定・要支援認定申請書等83種類の申請書ダウンロードサービスを開始するなど、次々に「電子区役所」としての機能を付加していった(※9)。
ホームページの活用と並行し、区は審議会等の政策形成に深く関わる会議への区民参加の拡大について検討を進め、平成12(2000)年6月、「会議録の作成に関する指針」(20年4月21日要綱に改定)の試行運用を開始した。翌13(2001)年4月には同指針を本格実施に移行すると同時に、「附属機関等の委員公募等に関する基本方針」(13年3月23日区長決裁)を策定、合わせて運用を開始した(※10)。「会議録の作成に関する指針」は会議の公開を原則として、対象となる会議の範囲や記載事項等の統一基準を定め、各会議体を所管する課に会議録の作成を義務づけるものであり、「附属機関等の委員公募等に関する基本方針」は区政への区民参加を広げていくために公募委員の構成比を25%に、また女性委員の積極的な登用を図るために構成員の男女比についていずれか一方が40%未満となることのないようにとの目標値を定めたものである。この「会議録の作成に関する指針」に基づき、翌14(2002)年1月から会議録のホームページへの掲載が開始されたが、掲載対象となった29会議体の中には庁議や政策経営会議など9つの非公開会議も含まれていた(※11)。特に区政運営の最高決定機関である庁議の会議録公開は23区でも初の試みであり、政策形成過程の透明性を大きく向上させるものと言えるだろう。
さらに平成15(2003)年4月、区政への区民参加を促進する新たな手法としてパブリックコメント制度が開始された(※12)。この制度は区の重要な政策・計画等の策定過程でその案を公表し、区民等に広く意見を公募、提出された意見を意思決定に反映させるとともに、その結果を公表する一連の手続である。制度開始に先立つ14(2002)年12月に新基本構想(15年3月制定)の策定段階で導入されたのをはじめ(※13)、区の主要な計画・方針、前述した新税構想(※14)など基本的制度や区民生活に重大な影響(義務の設定、権利の制限等)を与える条例等の制定・改廃にあたって必ず実施されることとなった。
一方、「信頼度、透明度一番の区政の実現」を2期目の区政運営の第一目標に掲げた高野区長は、その姿勢を自ら具体化するため15(2003)年7月、区長交際費の全面公開に踏み切った。それまでプライバシーの観点から一部非公開としていた相手先の名前も含めて公開するもので、同年4月以降の月ごとの執行状況にあわせ、週単位の公務スケジュールについてもホームページへの掲載が開始された(※15)。区長交際費については内部基準で①会費②慶事③賛助・協賛・激励④見舞⑤弔慰の5つの支出項目が定められており、ホームページには支出年月日とこの支出項目のほか支出内容(件名・相手先の名前等)、支出金額が明記された。相手先の名前も含めた全面公開もまた23区初の試みであり、公金支出に対する基本姿勢を自ら正すことにより率先垂範たらんとする区長の強い意志が感じられる。
以上述べてきたように、平成11(1999)年の区長就任以来、「区民に開かれた区政」の実現に向けて展開されたたさまざまな取り組みは、情報公開からより積極的な情報発信への流れを加速させ、以後一貫して高野区政の基本路線になっていったのである。
前項で触れた「新生としま改革プラン」のプランE「透明性、迅速性にすぐれた行政システムを確立」において「インターネットの活用などにより地域情報、行政情報の迅速な提供に努めます」との方針が掲げられ、その具体的な取り組み事項としてホームページの活用が挙げられている。また、平成12(2000)年12月に策定された「行政情報化推進計画」(※7)においても、ホームページの開設について「行政情報の広範囲な広報機能と双方向性を活用した広聴機能を志向していることから、これを『情報公開の器』として、開かれた区政の推進のために、さらに積極的に活用していく段階となっています」と意義づけている。
こうした方針に基づき、区は1年間の試行期間を経て平成12(2000)年11月に区公式ウェブサイト「豊島区ホームページ」を開設した(※8)。試行段階では区民の生活に密着した情報が中心だったが、本格開設時には条例183・規則226等を全文閲覧できる「例規集」を23区で初めて掲載したほか、主要な計画・白書・報告書等を網羅した「政策情報ルーム」、区の現況や各政策分野の統計表157からなる電子統計年鑑「としまの統計」等の大量の行政情報が掲載され、文字通り『情報公開の器』となるコンテンツの充実が図られた。また広聴機能についても、電子メールによる区政への意見受付や主な意見等を紹介する「区政へのご意見」を掲載し、区民との双方向コミュニケーションの仕組みも設けられた。さらに翌13(2001)年3月には予定価格250万円以上の発注工事に関する契約情報の提供を開始、14年(2002)2月には戸籍に関する各種証明や住民票の写し等の交付請求書、保育所入所申込書、介護保険要介護認定・要支援認定申請書等83種類の申請書ダウンロードサービスを開始するなど、次々に「電子区役所」としての機能を付加していった(※9)。
ホームページの活用と並行し、区は審議会等の政策形成に深く関わる会議への区民参加の拡大について検討を進め、平成12(2000)年6月、「会議録の作成に関する指針」(20年4月21日要綱に改定)の試行運用を開始した。翌13(2001)年4月には同指針を本格実施に移行すると同時に、「附属機関等の委員公募等に関する基本方針」(13年3月23日区長決裁)を策定、合わせて運用を開始した(※10)。「会議録の作成に関する指針」は会議の公開を原則として、対象となる会議の範囲や記載事項等の統一基準を定め、各会議体を所管する課に会議録の作成を義務づけるものであり、「附属機関等の委員公募等に関する基本方針」は区政への区民参加を広げていくために公募委員の構成比を25%に、また女性委員の積極的な登用を図るために構成員の男女比についていずれか一方が40%未満となることのないようにとの目標値を定めたものである。この「会議録の作成に関する指針」に基づき、翌14(2002)年1月から会議録のホームページへの掲載が開始されたが、掲載対象となった29会議体の中には庁議や政策経営会議など9つの非公開会議も含まれていた(※11)。特に区政運営の最高決定機関である庁議の会議録公開は23区でも初の試みであり、政策形成過程の透明性を大きく向上させるものと言えるだろう。
さらに平成15(2003)年4月、区政への区民参加を促進する新たな手法としてパブリックコメント制度が開始された(※12)。この制度は区の重要な政策・計画等の策定過程でその案を公表し、区民等に広く意見を公募、提出された意見を意思決定に反映させるとともに、その結果を公表する一連の手続である。制度開始に先立つ14(2002)年12月に新基本構想(15年3月制定)の策定段階で導入されたのをはじめ(※13)、区の主要な計画・方針、前述した新税構想(※14)など基本的制度や区民生活に重大な影響(義務の設定、権利の制限等)を与える条例等の制定・改廃にあたって必ず実施されることとなった。
一方、「信頼度、透明度一番の区政の実現」を2期目の区政運営の第一目標に掲げた高野区長は、その姿勢を自ら具体化するため15(2003)年7月、区長交際費の全面公開に踏み切った。それまでプライバシーの観点から一部非公開としていた相手先の名前も含めて公開するもので、同年4月以降の月ごとの執行状況にあわせ、週単位の公務スケジュールについてもホームページへの掲載が開始された(※15)。区長交際費については内部基準で①会費②慶事③賛助・協賛・激励④見舞⑤弔慰の5つの支出項目が定められており、ホームページには支出年月日とこの支出項目のほか支出内容(件名・相手先の名前等)、支出金額が明記された。相手先の名前も含めた全面公開もまた23区初の試みであり、公金支出に対する基本姿勢を自ら正すことにより率先垂範たらんとする区長の強い意志が感じられる。
以上述べてきたように、平成11(1999)年の区長就任以来、「区民に開かれた区政」の実現に向けて展開されたたさまざまな取り組みは、情報公開からより積極的な情報発信への流れを加速させ、以後一貫して高野区政の基本路線になっていったのである。
※6 東京都豊島区行政情報公開条例案の概要(H120224企画総務委員会資料)、
東京都豊島区個人情報保護条例案の概要(H120218議員協議会資料)、
広報としま1159号(平成12年12月15日発行)
※8 H111115プレスリリース、
H121115プレスリリース
※9 H130531プレスリリース、
H140201プレスリリース
※10 H120605プレスリリース、
H130327プレスリリース、
附属機関等の委員公募等に関する基本方針(平成13年3月23日区長決裁)、
豊島区審議会等の会議の公開に関する要綱(平成20年4月21日区長決定)
※11 H140121プレスリリース
※12 豊島区パブリックコメント制度実施要綱(平成15年3月31日区長決裁)
※13 豊島区基本構想について(H150220総務委員会資料)
※14 広報としま号外 豊島区法定外税特集(平成15年10月5日発行)
※15 H150703プレスリリース
2期目を迎えた高野区政
この間に第1期4年の任期を終え、平成15(2003)年4月の区長選挙では前回を上回る得票数62,142票を得て高野区長が再選された。投票総数87,895票(投票率43.61%)、有効得票総数84,468票のうち実に73.57%に及ぶ得票率は、「区民に開かれた区政」を前面に押し出した区長の姿勢に対する区民の評価の表れと言えるだろう。
再選を果たした区長は2期目初日の職員に対する訓示の中で、1期目の「元気・やる気・勇気」に替わる区政運営の新たなキーワードとして「未来・信頼・ふれあい」を掲げ、未来に向けて様々な施策を豊島区から発信し、全国自治体の中で信頼度ナンバーワンをめざし、区民とともに夢とロマンにあふれる豊島区を創造していこうと呼びかけた。また広報紙に寄せた区民への就任あいさつにおいても、同じキーワードのもとに「文化」と「都市再生」を未来に向けた政策の柱に位置づけ、「夢とロマンに満ちた豊島区の創造」に全力を尽くす決意を表した(※16)。
前述した通り、この平成15(2003)年度当初は、13(2001)年度を初年度とする「財政健全化計画」の取り組みに一定の成果が見られ、6(1994)年度以降継続してきた特定目的基金の運用等の特別な財源対策を講じることなく予算編成を終えた時期にあたる。その15(2003)年度当初予算においても、「福祉」「教育」の基本政策に並び「文化」と「都市再生」は重点政策に位置づけられており(※17)、前年14(2002)年の区制施行70周年を記念して展開された文化事業を引き継ぐかたちで文化政策をまちづくりの基軸に据えるとともに、前項で触れた「新生としま改革プラン」で「財源対策に留意しつつも」とやや遠慮がちに頭出ししていた「都市基盤の整備」についても、まちづくりの将来を見据えた政策として積極的に推進していく方針が明確に打ち出されていた。そこには、束の間ではあるが財政健全化の兆しが見え始め、やっと区長自身の思い描く政策を展開できるとの期待感が読み取れる。
再選を果たした区長は2期目初日の職員に対する訓示の中で、1期目の「元気・やる気・勇気」に替わる区政運営の新たなキーワードとして「未来・信頼・ふれあい」を掲げ、未来に向けて様々な施策を豊島区から発信し、全国自治体の中で信頼度ナンバーワンをめざし、区民とともに夢とロマンにあふれる豊島区を創造していこうと呼びかけた。また広報紙に寄せた区民への就任あいさつにおいても、同じキーワードのもとに「文化」と「都市再生」を未来に向けた政策の柱に位置づけ、「夢とロマンに満ちた豊島区の創造」に全力を尽くす決意を表した(※16)。
前述した通り、この平成15(2003)年度当初は、13(2001)年度を初年度とする「財政健全化計画」の取り組みに一定の成果が見られ、6(1994)年度以降継続してきた特定目的基金の運用等の特別な財源対策を講じることなく予算編成を終えた時期にあたる。その15(2003)年度当初予算においても、「福祉」「教育」の基本政策に並び「文化」と「都市再生」は重点政策に位置づけられており(※17)、前年14(2002)年の区制施行70周年を記念して展開された文化事業を引き継ぐかたちで文化政策をまちづくりの基軸に据えるとともに、前項で触れた「新生としま改革プラン」で「財源対策に留意しつつも」とやや遠慮がちに頭出ししていた「都市基盤の整備」についても、まちづくりの将来を見据えた政策として積極的に推進していく方針が明確に打ち出されていた。そこには、束の間ではあるが財政健全化の兆しが見え始め、やっと区長自身の思い描く政策を展開できるとの期待感が読み取れる。
当然のことながら、厳しい行財政改革を断行する一方で「文化」と「都市再生」に財源を投入することには反対の声もあった。それでもなお、行財政改革をやっているだけでは区の活力は低下していくばかりである。特に生まれ育った池袋のまちづくりについての思い入れは深く、同じ副都心である新宿・渋谷に遅れをとっていること、さらに都心部や臨海部などで次々に新たな大規模開発が進められる中で、このままでは池袋の衰退は避けられないとの強い危機意識があった。この予算案を提出した平成15(2003)年区議会第1回定例会で「池袋が今後どのように生まれ変わり生き残っていくのか、本区としても改めて積極的に挑戦するべき時期に来ている。都市の魅力を引き出し再構築するという課題に対し、明確な将来ビジョンを持って応えていくことが必要」との認識を示したように、都市間競争の時代にあって池袋副都心の再生は緊急かつ重要な課題と捉えられていた。そしてその再生の鍵となる政策が「文化」と「都市再生」であり、この二つの政策を区の活性化のテコにしていこうとの考え方もまた、前述した「区民に開かれた区政」と同様に高野区政の以後一貫した基本路線になっていった。
こうした区長の考え方は、再選後の15(2003)年区議会第2回定例会において2期目にあたっての所信を表明する中にも色濃く表われていた(※18)。この所信表明では区政運営の達成目標として以下の7つの目標を掲げ、それぞれについて具体的な取り組み事項が挙げられている。
だがそうした希望溢れる2期目の船出も、夏を越える頃には想像を超える急速な財政悪化に直面することになる。14(2002)年度決算と15(2003)年度都区財政調整当初算定結果がまとめられた9月時点において、14(2002)年度一般会計歳入決算額は特別区交付金等の大幅な減収により前年度比12.8%の減、6(1994)年度に次ぐ大幅なマイナスとなり、実質的な単年度収支も前年度の黒字転換から一転し、約25億円もの赤字を出す結果となった。また15(2003)年度の特別区交付金も前年度比7.4%のマイナス、区の当初予算額を約17億4千万円も下回る算定結果が出され、歳入額の予算割れが確実視された。さらに「財政健全化計画」策定時の見通しを超える歳入の落込みにより、16(2004)年度には当初想定を遙かに超える約72億円もの財源不足が見込まれた。その結果、「財政健全化計画」の最終目標である16(2004)年度の財政黒字達成は極めて厳しい状況に陥っていたのである。
こうした事態を受け、行財政改革推進本部は翌10月、「公共施設の再構築・区有財産の活用案」(以下「本部案」)を公表した。財政悪化の直接的な要因は特別区交付金等歳入の急激な落ちこみではあったが、その根本にはそうした変化に対応しきれない区財政の硬直化があることは明らかであった。その最大要因として長年検討課題に掲げられながらも実施に至っていなかった「公共施設の再構築」に、いよいよ本腰を入れて取り組む時を迎えたのである。そしてこの改革の必要性の裏付けとなったのが平成12(2000)年9月にまとめられた「施設白書」と「人事白書」であった。
こうした区長の考え方は、再選後の15(2003)年区議会第2回定例会において2期目にあたっての所信を表明する中にも色濃く表われていた(※18)。この所信表明では区政運営の達成目標として以下の7つの目標を掲げ、それぞれについて具体的な取り組み事項が挙げられている。
① 信頼度、透明度一番の区政の実現
区長交際費の全面公開、公務日程の公開、危機管理体制の強化、自治基本条例の制定
② 新基本構想を実現する基本計画・財政計画の策定
行政評価制度の導入、中期的財政計画の策定、新税の導入
③ 豊かな心を育てる教育の実現
学校適正配置計画終了、特色ある学校づくり(小中一貫校)、教育ビジョン
④ 区民との協働の推進と新たな地域コミュニティの実現
パートナーシップセンターの設立、(仮称)地域区民広場
⑤ 元気・スポーツ・健康としまの実現
介護予防、福祉基盤整備、少子化対策・子どもプラン、スポーツ推進計画
⑥ 文化の風薫るまちづくり
文化特区構想、新たな文化拠点(東池袋交流施設)、観光振興プラン
⑦ 21世紀に対応した新たな都市づくりと都市再生
都市計画道路沿道街づくり、安全・安心まちづくり(防犯カメラ、場外車券売場)
これらの目標や取り組み事項からも、平成11(1999)年の第1期開始当初に掲げていた「①平和と基本的人権を尊重する区政を実現する、②個性ある豊島区を実現する、③区財政の再建を図る」の3つの基本理念に比べ、どのような政策に軸足を置いていくか、いわゆる高野区政の独自色が鮮明になってきていることが窺える。ここでも「文化」と「都市再生」は柱に位置づけられているが、その実現に向け、15(2003)年4月には文化政策を牽引する専管組織として「文化デザイン課」が新設された。またこれに先立つ2月には将来の池袋の姿を描く「池袋副都心再生プラン」の策定に着手するとともに、グリーン大通りへの「LRT(路面電車)導入構想」を公表している。都市計画道路環状5の1号線や補助172号線等の都市計画事業の動きを見据え、池袋全体の交通体系を抜本的に見直しその将来像を大胆に描く、まさに「夢とロマンに満ちた豊島区の創造」に向けた意気込みに溢れていた。区長交際費の全面公開、公務日程の公開、危機管理体制の強化、自治基本条例の制定
② 新基本構想を実現する基本計画・財政計画の策定
行政評価制度の導入、中期的財政計画の策定、新税の導入
③ 豊かな心を育てる教育の実現
学校適正配置計画終了、特色ある学校づくり(小中一貫校)、教育ビジョン
④ 区民との協働の推進と新たな地域コミュニティの実現
パートナーシップセンターの設立、(仮称)地域区民広場
⑤ 元気・スポーツ・健康としまの実現
介護予防、福祉基盤整備、少子化対策・子どもプラン、スポーツ推進計画
⑥ 文化の風薫るまちづくり
文化特区構想、新たな文化拠点(東池袋交流施設)、観光振興プラン
⑦ 21世紀に対応した新たな都市づくりと都市再生
都市計画道路沿道街づくり、安全・安心まちづくり(防犯カメラ、場外車券売場)
だがそうした希望溢れる2期目の船出も、夏を越える頃には想像を超える急速な財政悪化に直面することになる。14(2002)年度決算と15(2003)年度都区財政調整当初算定結果がまとめられた9月時点において、14(2002)年度一般会計歳入決算額は特別区交付金等の大幅な減収により前年度比12.8%の減、6(1994)年度に次ぐ大幅なマイナスとなり、実質的な単年度収支も前年度の黒字転換から一転し、約25億円もの赤字を出す結果となった。また15(2003)年度の特別区交付金も前年度比7.4%のマイナス、区の当初予算額を約17億4千万円も下回る算定結果が出され、歳入額の予算割れが確実視された。さらに「財政健全化計画」策定時の見通しを超える歳入の落込みにより、16(2004)年度には当初想定を遙かに超える約72億円もの財源不足が見込まれた。その結果、「財政健全化計画」の最終目標である16(2004)年度の財政黒字達成は極めて厳しい状況に陥っていたのである。
こうした事態を受け、行財政改革推進本部は翌10月、「公共施設の再構築・区有財産の活用案」(以下「本部案」)を公表した。財政悪化の直接的な要因は特別区交付金等歳入の急激な落ちこみではあったが、その根本にはそうした変化に対応しきれない区財政の硬直化があることは明らかであった。その最大要因として長年検討課題に掲げられながらも実施に至っていなかった「公共施設の再構築」に、いよいよ本腰を入れて取り組む時を迎えたのである。そしてこの改革の必要性の裏付けとなったのが平成12(2000)年9月にまとめられた「施設白書」と「人事白書」であった。
施設白書
平成11(1999)年11月に公表された「財政白書」は、バブル崩壊以降も積極的に進めてきた公共施設整備の後年度負担が区財政の圧迫要因となっている現状を明らかにした。また同白書は今後の財政運営を左右する要素として、「大きな伸びが見込めない区税等の収入」「急速に進む少子高齢化」「ピークを迎える公債費負担」「施設改築等経費の大幅な増加」「職員の年齢構成がもたらす影響」を挙げている。そしてさらに施設と職員について詳細な分析に取り組み、区財政の構造的な課題を浮き彫りにしたのが翌12(2000)年9月に公表された「施設白書」と「人事白書」である。
この2白書と同時に、前年度公表した「財政白書」のミニ版にあたる「区財政の現状と推移」と、全国統一基準の自治省方式に準拠した「豊島区バランスシート」に加え、新たに経営分析的な手法を財務分析に取り入れるために主な行政サービス21分野の事業コストを算出した「行政サービスとコスト」が公表された(※19)。「施設白書」「人事白書」「行政サービスとコスト」はいずれも23区初の試みであり、5つもの白書の一斉公表は市町村レベルでは先駆的な取り組みであった。折しも「財政健全化計画」「新生としま改革プラン」の策定作業を急ピッチで進めているところであり、区の置かれた状況を改善し、区政を前に進めるためにはこれまで以上に大胆な行財政改革を断行し、区民の痛みを伴う事業・サービスの見直しに踏み込んでいかざるを得ず、そのためには、区の現状について徹底した情報公開と説明責任が求められたのである。
「施設白書」(※20)は第1章「施設整備の経緯と現状」、第2章「施設コストの現状」、第3章「施設の改修」の3章から構成され、平成12(2000)年5月1日現在で借上げ施設を含め560か所(敷地面積約83万3千㎡、延べ床面積約47万1千㎡)にのぼる区施設の現状と課題を多角的に分析しているが、各章で明らかにされた内容は以下の3点に集約できる。
なお、11(1999)年度末の区債残高667億円のうち79.2%にあたる528億円が施設建設によるものであったが、この「施設白書」では触れられていない、いわゆる「隠れ借金」と言われる土地開発公社等への未償還額を加えた区の実質的な借金はこの時点で過去最高の872億円に達しており、事態はより深刻だった。
また施設別の整備状況を見ると、平成11(1999)年度末現在、借上げ施設分を除く区の保有地は約74万㎡、建物面積は約42万㎡にのぼり、そのうち小・中学校(41か所)が土地の44.1%(約32万8千㎡)、建物面積の50.2%(約21万3千㎡)と過半を占めていたが、全小・中学校を含む66か所の施設が昭和39(1964)年度以前に整備されたものであったのに対し、主要施設524か所のうち87%にあたる458か所は40年代以降、50%にあたる262か所は昭和60年代以降に整備されたものであった。
これまでも繰り返し述べてきたように、バブル景気只中の平成元(1989)年2月に策定した「公共施設整備中期計画」と、さらにその内容を拡大する改定版として平成3(1991)年1月に策定した「新公共施設整備中期計画」により、区は施設整備に拍車をかけ、その流れはバブル崩壊後も止まることがなかった。その背景には、高度経済成長期以降の右肩上がりの時代にあって、後年「ハコモノ行政」と揶揄される公共施設の整備は「公共の福祉の向上」とほぼ同義として進められてきた経緯がある。また公共施設を整備することは将来への投資であり、一時的に発生する負担(債務)は将来にわたって平準化していけばよいと考えられていた。だがバブルの崩壊とともにその図式は脆くも崩れ去り、わずか10年足らずの間に公共施設は区財政を圧迫する重荷に転化し、最早現状の施設水準を維持していくことすらも困難な事態に陥っていたのである。
「施設白書」はさらに、児童館、保育所、区民集会室、ことぶきの家、特別養護老人ホーム、公共住宅、図書館、公園・児童遊園の主要8施設について、23区と比較した整備水準も含めた分析を行っている。以下にその内容を要約する。
公園・児童遊園と特別養護老人ホームを除き、いずれの施設も23区平均を大きく上回り、特に児童館、保育園、ことぶきの家の整備水準は23区の中でもトップレベルに位置していた。また、施設別職員数では保育園687人、小学校169人、児童館145人、この3施設だけで計1,001人となり、施設関連職員の53.5%に達していた。
前章で述べたとおり、少子化の進展に伴い小・中学校については平成9(1997)年1月に策定された「区立小・中学校の適正化第一次整備計画」に基づいて既に統廃合が進められており、現状の施設水準の維持すら困難な状況にあって、23区水準を超える児童館、保育所等を再編の次なる対象にせざるを得なかったと言えるだろう。
この2白書と同時に、前年度公表した「財政白書」のミニ版にあたる「区財政の現状と推移」と、全国統一基準の自治省方式に準拠した「豊島区バランスシート」に加え、新たに経営分析的な手法を財務分析に取り入れるために主な行政サービス21分野の事業コストを算出した「行政サービスとコスト」が公表された(※19)。「施設白書」「人事白書」「行政サービスとコスト」はいずれも23区初の試みであり、5つもの白書の一斉公表は市町村レベルでは先駆的な取り組みであった。折しも「財政健全化計画」「新生としま改革プラン」の策定作業を急ピッチで進めているところであり、区の置かれた状況を改善し、区政を前に進めるためにはこれまで以上に大胆な行財政改革を断行し、区民の痛みを伴う事業・サービスの見直しに踏み込んでいかざるを得ず、そのためには、区の現状について徹底した情報公開と説明責任が求められたのである。
「施設白書」(※20)は第1章「施設整備の経緯と現状」、第2章「施設コストの現状」、第3章「施設の改修」の3章から構成され、平成12(2000)年5月1日現在で借上げ施設を含め560か所(敷地面積約83万3千㎡、延べ床面積約47万1千㎡)にのぼる区施設の現状と課題を多角的に分析しているが、各章で明らかにされた内容は以下の3点に集約できる。
1.バブル期以降に急拡大した施設整備投資
昭和55(1980)年度から平成11(1999)年度までの過去20年間に施設整備のために費やした投資的経費の総額は2,800億円にのぼり、特に平成元(1989)年度以降5年間だけで20年間の支出総額の過半を占める1,424億円に達する。土地の取得経費についても昭和40(1965)年度からおよそ30年間に1,200億円を投じているが、昭和62(1987)年度時点で204億円(区有地面積約61万㎡)だった公有財産購入費の累積額は平成6(1994)年度には1,123億円(同71万㎡)と5倍以上に膨れあがっていた。【参照:図表2ー⑧投資的経費の推移、図表2ー⑨土地面積と公有財産購入費の推移】
2.歳出総額の4割以上を占める施設関連経費
施設が建設され取り崩されるまでの総費用、いわゆるライフサイクルコストの視点から見ると、建設時にかかる経費、いわゆるイニシャルコストが占める割合は低く、むしろ日常の維持管理経費や補修費用などが大きな割合を占める。また施設に係る維持管理経費、人件費、区債の償還経費などは容易に縮減できない準義務的な経費といえるもので、それらの経費の区の歳出総額に占める割合が高ければ高いほど財政運営の自由度は低くなる。
平成11(1999)年度における施設関連経費は、光熱水費、修繕費・補修工事費、設備点検・警備等の委託経費等の維持管理経費が138億円で歳出総額の14.0%を占め、施設運営に従事する職員は区職員全体の68%にあたる1,871人でその人件費132億円は同じく13.3%を占めていた。さらに施設整備のために発行した区債等の償還経費は74億円にのぼり、歳出規模がほぼ同じだった平成3(1991)年度比で約2.7倍に膨れ上がっていた。
こうした施設関連経費の全体像を普通会計(一般会計と国保等の公営事業を除く特別会計を統合した会計)の11(1999)年度決算ベースで捉え直すと、各性質別経費内訳は義務的経費(人件費、扶助費、公債費)494億円のうち212億円(人件費147億円・公債費65億円の計)、一般行政経費350億円のうち117億円、これに投資的経費(建設費、土地買収費、耐震対策費、工事請負費、備品購入費)103億円を加えた施設関係経費の総額は実に432億円にのぼり、歳出総額989億円の43.7%を占めていた。とりわけ一般行政経費350億円のうち施設サービス以外の施策に充当できるのはわずか233億円しかなく、この分析結果からも新たな行政需要に対応するゆとりなどほとんどなかったことが明らかにされた。【参照:図表2ー⑩平成11年度歳出額の内訳と施設経費(普通会計ベース)】
3.重くのしかかる施設改修経費
建築後40年を経過し老朽化が進む施設に要する改修経費を試算した結果、すでに標準的な修繕実施年数を超えている施設の「積み残した改修経費」だけで180億円にのぼり、これに13(2001)年度以降20年間に想定される改修経費906億円を加えた総額は1,086億円に達する。これを20年間で単純に割り戻すと年平均54億円となるが、その額は過去5年間における改修経費平均年額(16億77百万円)の3倍強にもあたる。特に13~17(2001~2005)年度の5年間は小・中学校の改修時期が到来するため、16(2004)年度の96億円をピークとしてこの期間だけで391億円、さらに積み残し分の180億円も加えると5年間で571億円、年度平均114億円もの改修経費が必要となり、そのすべてを実施することは極めて困難であった。【図表2-⑪参照】
こうした分析からもバブル崩壊前後の約5年間の公共施設整備への過剰な投資、すなわち収支均衡を欠いた財政運営を続けたことが区財政の急速な悪化を招いたこと、その結果として区の経営資源の大半が施設の維持管理のために費やされることとなり、新たな課題に対応するための施策展開を阻害していたこと、さらに区債等の償還や施設改修経費などの後年度負担が今後も区財政に重くのしかかっていくことは容易に想像できたのである。昭和55(1980)年度から平成11(1999)年度までの過去20年間に施設整備のために費やした投資的経費の総額は2,800億円にのぼり、特に平成元(1989)年度以降5年間だけで20年間の支出総額の過半を占める1,424億円に達する。土地の取得経費についても昭和40(1965)年度からおよそ30年間に1,200億円を投じているが、昭和62(1987)年度時点で204億円(区有地面積約61万㎡)だった公有財産購入費の累積額は平成6(1994)年度には1,123億円(同71万㎡)と5倍以上に膨れあがっていた。【参照:図表2ー⑧投資的経費の推移、図表2ー⑨土地面積と公有財産購入費の推移】
施設が建設され取り崩されるまでの総費用、いわゆるライフサイクルコストの視点から見ると、建設時にかかる経費、いわゆるイニシャルコストが占める割合は低く、むしろ日常の維持管理経費や補修費用などが大きな割合を占める。また施設に係る維持管理経費、人件費、区債の償還経費などは容易に縮減できない準義務的な経費といえるもので、それらの経費の区の歳出総額に占める割合が高ければ高いほど財政運営の自由度は低くなる。
平成11(1999)年度における施設関連経費は、光熱水費、修繕費・補修工事費、設備点検・警備等の委託経費等の維持管理経費が138億円で歳出総額の14.0%を占め、施設運営に従事する職員は区職員全体の68%にあたる1,871人でその人件費132億円は同じく13.3%を占めていた。さらに施設整備のために発行した区債等の償還経費は74億円にのぼり、歳出規模がほぼ同じだった平成3(1991)年度比で約2.7倍に膨れ上がっていた。
こうした施設関連経費の全体像を普通会計(一般会計と国保等の公営事業を除く特別会計を統合した会計)の11(1999)年度決算ベースで捉え直すと、各性質別経費内訳は義務的経費(人件費、扶助費、公債費)494億円のうち212億円(人件費147億円・公債費65億円の計)、一般行政経費350億円のうち117億円、これに投資的経費(建設費、土地買収費、耐震対策費、工事請負費、備品購入費)103億円を加えた施設関係経費の総額は実に432億円にのぼり、歳出総額989億円の43.7%を占めていた。とりわけ一般行政経費350億円のうち施設サービス以外の施策に充当できるのはわずか233億円しかなく、この分析結果からも新たな行政需要に対応するゆとりなどほとんどなかったことが明らかにされた。【参照:図表2ー⑩平成11年度歳出額の内訳と施設経費(普通会計ベース)】
建築後40年を経過し老朽化が進む施設に要する改修経費を試算した結果、すでに標準的な修繕実施年数を超えている施設の「積み残した改修経費」だけで180億円にのぼり、これに13(2001)年度以降20年間に想定される改修経費906億円を加えた総額は1,086億円に達する。これを20年間で単純に割り戻すと年平均54億円となるが、その額は過去5年間における改修経費平均年額(16億77百万円)の3倍強にもあたる。特に13~17(2001~2005)年度の5年間は小・中学校の改修時期が到来するため、16(2004)年度の96億円をピークとしてこの期間だけで391億円、さらに積み残し分の180億円も加えると5年間で571億円、年度平均114億円もの改修経費が必要となり、そのすべてを実施することは極めて困難であった。【図表2-⑪参照】
なお、11(1999)年度末の区債残高667億円のうち79.2%にあたる528億円が施設建設によるものであったが、この「施設白書」では触れられていない、いわゆる「隠れ借金」と言われる土地開発公社等への未償還額を加えた区の実質的な借金はこの時点で過去最高の872億円に達しており、事態はより深刻だった。
また施設別の整備状況を見ると、平成11(1999)年度末現在、借上げ施設分を除く区の保有地は約74万㎡、建物面積は約42万㎡にのぼり、そのうち小・中学校(41か所)が土地の44.1%(約32万8千㎡)、建物面積の50.2%(約21万3千㎡)と過半を占めていたが、全小・中学校を含む66か所の施設が昭和39(1964)年度以前に整備されたものであったのに対し、主要施設524か所のうち87%にあたる458か所は40年代以降、50%にあたる262か所は昭和60年代以降に整備されたものであった。
これまでも繰り返し述べてきたように、バブル景気只中の平成元(1989)年2月に策定した「公共施設整備中期計画」と、さらにその内容を拡大する改定版として平成3(1991)年1月に策定した「新公共施設整備中期計画」により、区は施設整備に拍車をかけ、その流れはバブル崩壊後も止まることがなかった。その背景には、高度経済成長期以降の右肩上がりの時代にあって、後年「ハコモノ行政」と揶揄される公共施設の整備は「公共の福祉の向上」とほぼ同義として進められてきた経緯がある。また公共施設を整備することは将来への投資であり、一時的に発生する負担(債務)は将来にわたって平準化していけばよいと考えられていた。だがバブルの崩壊とともにその図式は脆くも崩れ去り、わずか10年足らずの間に公共施設は区財政を圧迫する重荷に転化し、最早現状の施設水準を維持していくことすらも困難な事態に陥っていたのである。
「施設白書」はさらに、児童館、保育所、区民集会室、ことぶきの家、特別養護老人ホーム、公共住宅、図書館、公園・児童遊園の主要8施設について、23区と比較した整備水準も含めた分析を行っている。以下にその内容を要約する。
- ① 児童館(24館)
利用対象人口である14歳以下の年少人口は昭和40(1965)年に比べ70%近く減少。各館の1日平均利用者数104人。小学校数に対する児童館数の割合82.8%は23区中第3位、利用距離415mは1位、14歳以下人口千人あたり児童館数も1位。 - ② 保育所(区立保育園32園)
区立保育園定員数2,751人。5歳以下の乳幼児数は昭和40(1965)年に比べ約70%以上減少。利用距離360mは23区中第1位、5歳以下人口千人あたりの定員336人は3位(0歳児定員比は1位)。 - ③ 区民集会室(43か所)
利用率43.0%。他の類似施設を合わせると集会機能を有する施設は96か所にのぼる。 - ④ ことぶきの家(16か所)
60歳以上区民の約12%が利用登録。65歳以上高齢者人口は昭和40年に比べ2.8倍に増加。同年齢人口千人あたりの設置数は23区中2位。 - ⑤ 特別養護老人ホーム(区内6か所)
区立4か所(定員300人)、区内民設2か所(同100人)及び区外民設6か所(同85人)に助成。65歳以上人口千人あたりの区立及び区内民設の定員数は23区中13位。 - ⑥ 公共住宅(683戸)
区営住宅(低所得世帯)120戸、福祉住宅240戸、区民住宅312戸、従前居住者住宅1戸。うち福祉住宅132戸及び区民住宅全312戸の計444戸が民間からの借上げ(年間賃借料9億3千万円)。高齢者住宅については、65歳以上高齢者千人あたりの戸数が23区中4位、高齢者住宅を除く447戸の人口千人あたり戸数は8位。 - ⑦ 図書館(8館)
平成11(1999)年度利用登録者105,968人(人口の45.2%)。貸出し冊数は1日あたり6,310冊。利用距離は23区中第3位、人口千人あたりの蔵書数は12位。 - ⑧ 公園・児童遊園(163か所)
総面積約18万1千㎡。昭和39(1964)年に比べか所数で9.6倍、面積で5.9倍に増加。5,000㎡以上8か所、これを含む1,000㎡以上42か所、国や都が設置する大規模な都市公園はない。人口1人あたり公園面積、区面積に占める公園面積率ともに23区中最下位。
前章で述べたとおり、少子化の進展に伴い小・中学校については平成9(1997)年1月に策定された「区立小・中学校の適正化第一次整備計画」に基づいて既に統廃合が進められており、現状の施設水準の維持すら困難な状況にあって、23区水準を超える児童館、保育所等を再編の次なる対象にせざるを得なかったと言えるだろう。
人事白書
平成6(1994)年度以降の行財政改革の取り組みの中で、職員定数の削減は「内部努力の徹底」の大きな柱に位置づけられてきた。一方「新生としま改革プラン」に基づき新たな行政スタイルの確立をめざす上で、人件費抑制等の財政効果のみならず、定数削減による影響を多面的に検証し、今後の人事行政に反映していくことが求められた。このため「施設白書」と同時に公表された「人事白書」(※21)は、職員を自治体経営の重要な資源に位置づけ、その動向等を総合的に把握するとともに、今後の人事行政の基本資料とすることを目的としていた。
同白書は「職員」「組織」「人件費」「外郭団体」「人事制度」「福利厚生・研修」の6つの視点から職員・組織の動向を分析し、他区と比較しつつ今後の課題と展望を示している。
平成12(2000)年度当時の職員数は2,716人(都派遣清掃職員等192人を除く)、定数削減により6(1994)年度以降連続して減少しており、5(1993)年度ピーク時の3,104人から388人、12.5%の減少となっていた。だが職員一人あたりの人口で見ると、豊島区は88.5人で他区平均109人より約20人下回っており、特に福祉系(保育士等)職員は314人と23区平均の452人を大きく下回っていた。退職者数の一定割合について新規採用を抑制することにより定数の削減を図っていった場合、10年後の22(2010)年度に職員数は2,113人となり職員一人あたりの人口も他区平均と同水準となる見込みだったが、新規採用の抑制により職員の高齢化が進み、45歳以上の職員割合は元年度の33.6%から12(2000)年度には45.2%に、平均年齢も39.1歳から42.5歳に上昇していた(23区平均42.2歳)。
また区の組織については昭和40(1965)年度の部制発足時の4部25課体制から平成12(2000)年度には14部64課体制に拡大していたが、23区の中では標準的な規模であった(他区平均15.9部72.3課)。一方係組織総数は元(1989)年度の338から増加し続け、5(1993)年度ピーク時には374まで増え以後ほぼ横ばいになっていた(12年度365)。原則として各施設は係を単位に設置されていたため、施設管理のあり方等の見直しにより係組織の簡素化が課題となっていた。
職員人件費については、平成8(1996)年度ピーク時271億円(特別職等を含む)から減少に転じ、11(1999)年度は8年度比2.8%減の263億円、うち職員給は7(1995)年度ピーク時203億円から5.8%減の191億円となっていた。一般会計に占める人件費の割合は9(1997) 年度ピーク時の29.3%から11(1999)年度25.9%へ減少している一方、係長職以上職員の割合が他区よりも高いことから職員1人あたりの平均給は他区平均を上回っていた。また、退職手当は今後の定年退職者増により15(2003)年度には2,489百万円となり、さらに「団塊の世代」が退職を迎える19(2007)年度以降の急増が見込まれていた。こうした職員数・職層構成・年齢状況等の動向を踏まえ、長期的展望のもとに適正な人件費比率を維持していくことが求められた。
「人事白書」はその他にも、外郭団体への職員派遣や人件費補助を見直し、各団体の自主性確立を支援していくことや、23区共通基準となっている任用・給与等についても区の独自性を発揮していくために積極的に見直していくこと、都・特別区・区で役割分担している福利厚生事業や区と特別区職員研修所の二本立てで展開している研修制度の見直しについても提起している。
こうした「人事白書」の分析を踏まえ、平成12(2000)年10月、「財政健全化計画」「新生としま改革プラン」と同時に「人材育成計画」が策定された。
同計画は従来の人事制度の「閉鎖性」「非競争性」を打破し、職員の意識改革と組織の生産性の向上を図っていくために、勤続年数や年齢を重視する人事制度から個人の能力・業績を重視する制度への再構築を目指すものであった。このため、民間や他の自治体等での勤務経験者の採用枠を設定する「経験者採用制度」の創設や人事考課における「目標による業績評価」の導入など、昭和54(1979)年以来適用されてきた特別区人事制度の「共通基準」の枠組みを超える区独自の制度も盛り込まれた。
いずれにしても聖域なき行財政改革を断行していく以上は内部努力によるさらなる職員数の削減は避けて通れず、とりわけ職員一人あたり人口を23区平均レベルに是正していくことは必須課題とされた。「施設白書」でも分析されていたように、平成11(1999)年度時点で施設関連職員数は全職員数の 68%にあたる1,871人にのぼり、全職員給与額の3分の2にあたる約132億円が投じられていた。職員数・人件費の抑制を図っていくためには施設の統廃合を進めていくことが求められる一方、統廃合にあたっては当該施設従事職員の処遇が大きな問題となることは容易に想定された。そうした意味からも、施設再構築と人事制度の再構築は表裏一体で取り組まなければならない課題だったと言えるだろう。
同白書は「職員」「組織」「人件費」「外郭団体」「人事制度」「福利厚生・研修」の6つの視点から職員・組織の動向を分析し、他区と比較しつつ今後の課題と展望を示している。
平成12(2000)年度当時の職員数は2,716人(都派遣清掃職員等192人を除く)、定数削減により6(1994)年度以降連続して減少しており、5(1993)年度ピーク時の3,104人から388人、12.5%の減少となっていた。だが職員一人あたりの人口で見ると、豊島区は88.5人で他区平均109人より約20人下回っており、特に福祉系(保育士等)職員は314人と23区平均の452人を大きく下回っていた。退職者数の一定割合について新規採用を抑制することにより定数の削減を図っていった場合、10年後の22(2010)年度に職員数は2,113人となり職員一人あたりの人口も他区平均と同水準となる見込みだったが、新規採用の抑制により職員の高齢化が進み、45歳以上の職員割合は元年度の33.6%から12(2000)年度には45.2%に、平均年齢も39.1歳から42.5歳に上昇していた(23区平均42.2歳)。
また区の組織については昭和40(1965)年度の部制発足時の4部25課体制から平成12(2000)年度には14部64課体制に拡大していたが、23区の中では標準的な規模であった(他区平均15.9部72.3課)。一方係組織総数は元(1989)年度の338から増加し続け、5(1993)年度ピーク時には374まで増え以後ほぼ横ばいになっていた(12年度365)。原則として各施設は係を単位に設置されていたため、施設管理のあり方等の見直しにより係組織の簡素化が課題となっていた。
職員人件費については、平成8(1996)年度ピーク時271億円(特別職等を含む)から減少に転じ、11(1999)年度は8年度比2.8%減の263億円、うち職員給は7(1995)年度ピーク時203億円から5.8%減の191億円となっていた。一般会計に占める人件費の割合は9(1997) 年度ピーク時の29.3%から11(1999)年度25.9%へ減少している一方、係長職以上職員の割合が他区よりも高いことから職員1人あたりの平均給は他区平均を上回っていた。また、退職手当は今後の定年退職者増により15(2003)年度には2,489百万円となり、さらに「団塊の世代」が退職を迎える19(2007)年度以降の急増が見込まれていた。こうした職員数・職層構成・年齢状況等の動向を踏まえ、長期的展望のもとに適正な人件費比率を維持していくことが求められた。
「人事白書」はその他にも、外郭団体への職員派遣や人件費補助を見直し、各団体の自主性確立を支援していくことや、23区共通基準となっている任用・給与等についても区の独自性を発揮していくために積極的に見直していくこと、都・特別区・区で役割分担している福利厚生事業や区と特別区職員研修所の二本立てで展開している研修制度の見直しについても提起している。
こうした「人事白書」の分析を踏まえ、平成12(2000)年10月、「財政健全化計画」「新生としま改革プラン」と同時に「人材育成計画」が策定された。
同計画は従来の人事制度の「閉鎖性」「非競争性」を打破し、職員の意識改革と組織の生産性の向上を図っていくために、勤続年数や年齢を重視する人事制度から個人の能力・業績を重視する制度への再構築を目指すものであった。このため、民間や他の自治体等での勤務経験者の採用枠を設定する「経験者採用制度」の創設や人事考課における「目標による業績評価」の導入など、昭和54(1979)年以来適用されてきた特別区人事制度の「共通基準」の枠組みを超える区独自の制度も盛り込まれた。
いずれにしても聖域なき行財政改革を断行していく以上は内部努力によるさらなる職員数の削減は避けて通れず、とりわけ職員一人あたり人口を23区平均レベルに是正していくことは必須課題とされた。「施設白書」でも分析されていたように、平成11(1999)年度時点で施設関連職員数は全職員数の 68%にあたる1,871人にのぼり、全職員給与額の3分の2にあたる約132億円が投じられていた。職員数・人件費の抑制を図っていくためには施設の統廃合を進めていくことが求められる一方、統廃合にあたっては当該施設従事職員の処遇が大きな問題となることは容易に想定された。そうした意味からも、施設再構築と人事制度の再構築は表裏一体で取り組まなければならない課題だったと言えるだろう。