南池袋三丁目地区福祉基盤整備事業/オリナスふくろうの杜(平成17年2月竣工)南池袋三丁目地区福祉基盤整備事業/オリナスふくろうの杜(平成17年2月竣工)

 前項では区財政再建の最大課題であった公共施設の再構築について、その平成期初頭から20年代後半に至る経緯をたどった。本項では少し時計の針を戻し、本章第1項に続く平成16(2004)年以降の高野区政行財政改革第2ラウンドの取り組みをたどっていく。

行財政改革第2ラウンドの幕開け

 平成11(1999)年の区長就任以来、行財政改革に明け暮れた1期4年を終え、15(2003)年4月、前回を上回る圧倒的な得票率で再選を果たした高野区長は夢とロマンを抱いて2期目を迎えた(※1)。平成13(2001)年度を初年度とする「財政健全化計画」の着実な進捗により、基金運用等の特別な財源対策を講ずることなく15(2003)年度予算を編成することができ、区財政の先行きに明るい光が見え出していたからである。
 再選直後に2期目の抱負を語る中でも、「文化政策」と「都市再生」を重点政策に掲げ、「夢とロマンに満ちた豊島区の創造」を前面に打ち出していた。だがその年の秋には特別区交付金等の大幅な減収により、16(2004)年度に黒字化するという「財政健全化計画」の最終目標は達成の見通しが立たなくなり、区財政は再び危機的な状況に陥っていった。
 前項でも述べた通り、平成16(2004)年度の予算編成は「財政健全化計画」による歳出抑制・歳入確保策を実施してもなお不足する39億円を埋めるため、身を切る思いをしながら時習小学校跡地の売却という手段を講じざるを得なかった。だが16(2004)年2月時点の収支見通しではさらに17(2005)年度以降21(2009)年度までの5年間に308億円の財源不足が見込まれ、そしてその額はわずか半年後の8月には370億円に膨らんでいた。一方、区財政圧迫の最大要因となっている施設関係経費を縮減するため、前年15(2003)年10月に行財政改革推進本部が打ち出した「公共施設の再構築・区有財産の活用案」(以下「本部案」)は公共施設のあり方を抜本的に見直し、廃止も含めた再編、売却も含めた資産活用というまさに「平成の大改革」とも言える内容だった。だがこの「本部案」に掲げた施設や跡地をすべて資産活用すなわち売却したとしても、その売却益は当時の評価額で231億円に止まり、370億円もの財源不足を埋めることは望めなかったのである。
 こうした区財政の動きとともに、豊島区を取り巻く環境にも陰りが見えだしていた。平成9(1997)年以降増加傾向にあった区の人口が、一時的ではあったものの16(2004)年、17(2005)年と2年連続して減少に転じたのである。バブル崩壊後の地価下落等の影響により都心部への人口回帰が見られる中、23区の中で唯一の減少であった。また16(2004)年の地価下落率の23区比較においても、豊島区は商業地では2番目、住宅地では5番目の大きな下落となった。2期目開始にあたって「夢とロマンに満ちた豊島区の創造」を掲げた区長の思いは、まさにそうした状況に対する危機感の表れであり、都市間競争が激化する中で豊島区が再び輝きを取り戻すための政策を進めていく強い意欲の表れでもあった。だが振り出しに戻るどころか、さらに厳しさを増した区財政のもとでは、豊島区再生に向けて重点政策に掲げた文化政策や都市再生を推進していくだけの余力は最早残されていないように思われた。
 区長曰く「就任以来、最大の難局」に直面し、今後も歳入の大きな伸びが期待できない以上、多額の財源不足を埋めるためにはこれまでにも増して歳出を削らなければならないことは明らかであった。特に「財政健全化計画」による4年間の取り組みの反省として、新たな需要に対応した事業をスタートさせる一方で休廃止した事業がほとんどなかったこと、また歳出規模の43%を占める施設関連経費の縮減についても十分に踏み込めなかったことが挙げられ、事業と施設の双方において休廃止も含めた見直しに大胆に斬り込んでいくことが求められた。
 それまでの右肩上がりの経済成長が終焉し、バブル崩壊後に区の歳入が急速に落ち込んでいったにも関わらず、新規需要に対応した施策や施設整備を実施し続け、歳出超過分を区債の発行や基金の運用等で穴埋めしてきた結果、区財政は身動きが取れないほどの危機的状況に陥った。そうした状況を引き継いで区長に就任し、事務事業の見直しや300人を超える職員定数の削減など、「財政健全化計画」による4年間の取り組みにより143億円もの財政効果を生みだしたものの、それらをもってしてもなお一時的な延命策にしかなり得ず、その時々の経済状況に左右される財政構造そのものの変革までには至らなかったのである。
 こうした結果に打ちのめされつつも、そこで止まっているわけにはいかなかった。区長自らが平成16(2004)年第2回区議会定例会の招集あいさつで
-この難局こそ抜本的な改革を成し遂げる好機と捉えるべきであると考えております。難局に立ち向かう必死の覚悟の中から、改革を進める斬新な発想と力が生まれ、制度疲労に陥った仕組みを廃し、過去のしがらみを断ち切ることができるのであります。今を逃しては大きな改革は成し得ません。これまでの4年間の取組みをさらなる平成の大改革へとつなげ、聖域を設けることなく区政の構造改革を推し進めてまいりたい-
と述べているように、区政の構造改革に一歩たりとも後には退かない覚悟が示された。この覚悟は先行き不透明な経済状況やそれに伴う歳入の変化により常に歳出超に陥りやすい区財政の構造そのものを変革しない限り、真の意味での危機克服はなし得ないという強い認識に立ったものと言える。
 こうした不退転の覚悟の下に平成16(2004)年9月、「財政健全化計画」及び「新生としま改革プラン」に替わる新たなプランとしてまとめられたのが「行財政改革プラン2004」(素案)である(※2)。
 この新たなプランは計画期間を17(2005)年度からの5年間とし、特に19(2007)年度までの3年間は「集中改革期間」に位置づけられた。そしてこの新たなプランとともに、高野区政の行革第2ラウンドは幕を開けたのである。

行財政改革プラン2004

 「行財政改革プラン2004」(以下「行革プラン2004」)は全9章から構成される。図表2-⑰はその構成を表したものであるが、第1章の「新たな改革プランの目的と位置づけ」、第2章の「構造改革を必要とする区の現状」に続き、第3章で「構造改革の目標」として「①スリムで変化に強い行政経営の確立」、「②身の丈に合った持続可能な財政構造の構築」、「③多様な主体の支え合いによる新たな公共の構築」、「④安定した歳入確保に向けた魅力と価値の創造」の4つが掲げられている。そしてこの4つの目標に対応する具体的な取り組みが第4章以降にそれぞれ挙げられているが、中でも目標の①及び②は歳入環境に左右されやすい脆弱な区財政の構造を抜本的に変革することであり、まさに行革第2ラウンドの本丸と言えた。特に目標②の「身の丈に合った」は「入るを量りて出ずるを為す」に倣い、当時、財政運営のキーワードのように盛んに言われていたが、これもまたバブル期以降の「身の丈を超えた」財政運営に対する反省を端的に表したものと言えよう。
 そして「財政健全化計画」の取り組みへの反省からも、「身の丈に合った」財政構造への転換の柱となるのは第5章「施策の再構築」と前年10月に公表した「本部案」を引き継ぐ第6章「公共施設の再構築・活用」であったことは言うまでもない。「公共施設の再構築・活用」の取り組み経緯については既に前項で述べた通りであるが、「施策の再構築」にあたっても「選択と集中」の視点に立ち、施策や事務事業についてゼロベースからの見直しが行われた。それは行政としてやるべき施策を「選択」し、それらの施策に限られた財源を「集中」させることであり、「選択」するということは一方で「廃止」を伴うことを意味していた。素案段階での休廃止対象事業は32件に及び、そのほかに執行方法等の見直し対象として71、受益者負担の適正化13、施設・業務の委託化・民営化等25、投資的経費等の抑制4、外郭団体の見直し6を合わせ、第5章「施策の再構築」に挙げられた取り組み項目は151件にのぼった。
図表2-⑰ 「行財政改革プラン2004」(素案)の構成
 また「行革プラン2004」では「選択と集中」の視点とともに、改革のもうひとつの視点として「民との協働」が挙げられている。これは行政が直接的にサービスの供給を担うべき部分を明確にするとともに、民間が担うことができるサービスについては思い切って民間に委ねていくという考え方である。国の構造改革の中で「小さな政府」や「官から民へ」が提唱され、各自治体においても行財政改革の一環として公共サービスの民間委託・民営化が進められていた。そうした動きに呼応し、「行革プラン2004」でも区立保養所や区立保育園の民営化、さらに公の施設の指定管理者制度の導入等が打ち出された。
 一方、阪神淡路大震災以降のNPO等市民活動の広がりや地方分権改革の流れの中で、地域の多様な主体が協働し、地域社会が必要とする多様な公共サービスを担い合う「新たな公共」の仕組みづくりが求められていた。これは目標の「③多様な主体の支え合いによる新たな公共の構築」につながるものであり、前年3月に策定した新たな基本構想においても、その基本方針の第1に「あらゆる主体が参画しながらまちづくりを実現していく~『参画』と『協働』のシステム構築~」が掲げられている。
 このように行財政改革と地方分権改革の二つの側面からの要請を受けて「民との協働」は捉えられていたが、いずれにしても従来実施してきたサービスのすべてを行政だけで維持していくことは最早困難になっていたのである。「選択と集中」と「民との協働」という二つの視点から区が実施すべき施策や事業を厳選し、歳入に見合った水準へ行政のスリム化を図っていくことが急務であった。また急速に進む高齢化や人口減少社会への移行など、社会構造の大きな変化に伴って今後生じてくる新たなニーズに対応していくためにも、変化に強い安定した財政基盤を築くことが求められた。このため「行革プラン2004」では「財政健全化計画」で設定した最終年度に黒字化を達成するというような目標ではなく、経常収支比率や人件費比率、公債費比率など区の財政力を測る各種指標や年度間の財源調整機能を果たす財政調整基金の積立額について目標値を定めている。一時的な黒字化ではなく中長期的に持続可能な財政構造を築くことに主眼を置いた目標設定であり、これもまた平成15(2003)年度に黒字を達成したものの、翌16(2004)年度には多額の財源不足が生じ、あっという間に財政状況が暗転した苦い経験への反省と言えるだろう。
 以上述べてきたように、「行革プラン2004」の最大の目標は区財政の構造改革であったことは疑いようもないが、それと同時に先に述べた目標「③多様な主体の支え合いによる新たな公共の構築」と「④安定した歳入確保に向けた魅力と価値の創造」は未来に向けた自治体経営への展望を拓くものであった。特に目標④では都市としての「魅力と価値の創造」を掲げ、歳入確保と歳出抑制の両面から戦略的に展開していく政策を示している。歳入確保の面では「住みたいまち」「住み続けたいまち」として選ばれる都市になるよう、「文化政策」「都市再生」を基軸としたまちづくりを推進し、定住人口を増やすことにより安定した税収等の確保につなげていこうというものである。また歳出抑制の面では、高齢者の積極的な社会参加や介護予防など、「健康政策」を推進していくことにより健康で自立して暮らすことのできる健康寿命を伸ばし、医療費や社会保障費等の抑制につなげていこうというものである。そしてこれら3つの政策を戦略的に展開していくことにより持続可能な財政基盤を構築し、福祉や教育などの基本政策を推進していくための力を生み出していこうとの考えであった(図表2-⑱参照)。
図表2-⑱ 財政基盤強化に向けた戦略的取り組みの推進
 こうしてまとめられた素案で休廃止の対象とされた32の事務事業は、外国語広報誌の発行、区政モニター制度、区民農園事業、生活保護世帯への法外援護事業、生業資金貸付金事業、児童館キャンプ、ひとり親家庭休養ホーム事業、年末保育事業、保護樹林にかかる補助金、小学校4年生の移動教室など多岐にわたっていた。これらに加え、私立幼稚園入園時保護者補助への所得制限の設定、中小商工融資の利子補給率削減、敬老入浴事業の使用料基準人数の引き下げ、各種福祉給付事業(理美容助成、福祉電話、紙おむつ支給等)の助成内容の引き下げ、長崎・巣鴨各休日診療所の廃止、公園・児童遊園等の公衆便所(35か所)の廃止、各種補助額の縮減など71件に及ぶ事務事業の見直し、各種利用料等の引き上げや自己負担の導入、保育園の民営化(7園)、指定管理者制度の導入(20施設)、さらに平成17(2005)年度から5年間で職員定数を400人削減するなどの内部努力の徹底等を含め5年間で約202億円の財政効果が見込まれた。だがそれでもなお、370億円の財源不足には到底及ばなかったのである。
 この素案が報告された平成16(2004)年9月の区議会第3回定例会では、切迫した区財政の現状に改革の必要性は認めつつも、個々の事業の休廃止や見直しにあたっては利用実態や利用者への負担増を勘案し慎重な対応を求める声が多数を占めた。またこの議会報告後の10月・11月に2回にわたって素案の概要を区広報紙に掲載し、区民から広く意見を募るパブリックコメントを実施したが、寄せられた意見98件の大半も休廃止事業等の見直しを求めるものであった(※3)。こうした声を踏まえ、区は素案に修正を加え、事務事業の見直し項目に挙げていた敬老入浴事業と公園・児童遊園等の便所の廃止を見送ることにしたほか、長崎休日診療所の休止を継続に、法外援護事業の入浴券支給の廃止を支給枚数の半減に、小学校4年生の移動教室の廃止は継続にするなど13事業について見直し内容の軽減が図られた(※4)。さらに財政効果額や収支見通しを精査しつつ、新たな項目を追加して翌17(2005)年2月、成案となる「行革プラン2004」が策定された(※5)。

職員給与カット問題

 この策定過程の最終段階で追加された項目のひとつが「職員給与の削減」である。
 前述したように、「行革プラン2004」の素案では職員定数400人の削減が打ち出されているが、この素案公表に先立つ平成16(2004)年2月の区議会第1回定例会において、17(2005)・18(2006)年度の2年間に新規職員の採用をゼロとする方針が明らかにされ、17(2005)年1月にはそれらの内容を盛り込んだ「定員管理計画」が策定された(※6)。
 また素案公表後の第4回定例会で「豊島区長等の給料の特例に関する条例」が議決され、区長等特別職の給料については区長20%、助役10%、収入役・教育長7%が既に17(2005)年1月から1か年の期間で減額され、同時に管理職についても手当の20%(課長級で給料の4%相当)が返上されていた(※7)。しかしこれらの内部努力を様々重ねてもなお、どうしても不足する6億円を埋めるため、17(2005)年度予算編成最終盤の1月6日、臨時・特例的措置として一般職員も含めた職員給与を5%カットする案が職員団体に提示されたのである。その提案内容は平成17(2005)年4月1日~平成18(2006)年3月31日までの臨時・特例的措置として、職員給与の5%相当額を削減、その方法として17(2004)年6月期及び12月期の期末手当からそれぞれ6か月分にあたる30%相当額を削減するというものであった(※8)。
 特別区の職員給与は23区統一交渉事項として各区長は特別区長会に、各区の職員労働組合(以下「区職労」)は特別区職員労働組合連合会(以下「特区連」)に交渉・妥結権を委任している。また争議行為の禁止等、労働基本権が制約されている代償措置として職員給与については民間給与水準との均衡を図りつつ、特別区人事委員会の勧告に基づき労使合意することが原則とされている。この原則に則り、17(2005)年度の特別区職員の給与も前年12月14日、高野区長自らも副会長を務める特別区長会と特区連との間で妥結していた。その妥結から1か月も経たない年明け1月6日の突然の提案に、職員団体からは一斉に反発の声が上がった。何よりも職員給与は23区統一交渉事項であり、各区長、各区職労とも個別に交渉・妥結権を有していないことから、区職労は区の提案そのものがルール違反であるとしてその受取りを拒否した。そしてさらにこうした豊島区の動きは当然のことながら、他区にも大きな影響を及ぼすことになった。
 提案の翌1月7日、特区連は特別区長会会長に対し「統一交渉の遵守を求める申し入れ」を行うとともに、1月11日には高野区長に対しても提案の即時撤回を求める申し入れを行った。この特別区長会への申し入れは、①豊島区の提案を区長会として事前に承知していたのか否かを明らかにすること、②豊島区の提案は統一交渉項目に関わった内容であり、統一交渉以外の場で提案し労使交渉に付することは特別区における労使協議の根本原則を大きく損なうものと考えるが貴識の見解を質す、③豊島区の提案が統一交渉項目に関わる内容に踏み込んだものとの認識に立つのだとすれば、2001年当時の経緯を踏まえ、統一交渉を遵守する立場に復するよう区長会全体の意志として豊島区長に早急に働きかけることの3点を内容としていた。この「2001年当時の経緯」とは、平成13(2001)年第1回定例会の議決を経て「職員の給料の特例に関する条例」に基づき管理職給料が5%削減された件であり(※9)、その時には豊島区も含めた数区で同様の動きがあったため、当時の特区連の申し入れに対し特別区長会会長から遺憾の意が表明され、臨時特例的と称する給与削減等が個別に提案されることのないよう最大限努力してまいりたいとの回答を得ていたのである。そうした経緯もあって今回の豊島区の提案に、改めて特別区長会としての見解を質すことになったのである。
 提案の白紙撤回を求める職員団体の要請行動や抗議集会が連日のように行われる一方(※10)、区側も2月17日開会予定の第1回定例会に条例案を提出する構えを崩さず、双方とも打開点を見いだせないまま、特区連や他区・他自治体職員団体からの応援の声を背に受け、区職労はストライキも辞さない構えを見せていた。一方、豊島区の提案に対する他区の反応は様々であったが、特区連の指令で各区職労が各区長に統一ルールの遵守を要請したことに対する回答は、「統一交渉ルールから逸脱した提案が行われ遺憾であると言わざるを得ない」「豊島区と同様に財政事情は厳しいが、統一交渉のルールを守ることは当然と考えている。職員が区民のために一生懸命働けば、それに報いるのが基本的な考え方という立場で臨んでいる」「ルールで決められているので組合として当然の要請と思う。信義・誠実の大原則は守られるべきだと思う。組合との協定が反故にされるのは問題だ。豊島区だけのことではない」などいずれも統一交渉の妥結事項を遵守する姿勢に変わりはなかった。だが1月19日に出された区長会会長名による回答では、職員給与は統一交渉項目に係るものとの見解を示しつつも、「今回の提案は豊島区における厳しい財政状況から行われた極めて例外的なもの」であり「今後も誠意をもった話し合いを基本に統一交渉を行ってまいります」と応えるのみで、区長会全体の意志として豊島区長に早急に働きかけることに対する具体的な回答は示されていなかった。いずれの区も豊島区の提案に異論を抱きつつも表だって批判することは控え、区長会としての意思統一をするまでには至らなかったものと考えられる。
 こうして膠着状態が続く交渉が大詰めを迎える1月中頃からは、区長室前で朝夕の座り込みが行われるようになった。区長の登庁・退庁時に合わせ、数十人もの組合員達が区長室の前に居並ぶ光景は異様であり、区長に対する罵声が響くなど物々しい雰囲気に包まれていた。そうした中で1月19日、閉庁後の抗議集会に続いて行われた区職労と助役・総務部長・人事課長との団体交渉の席上、区側からルール破りの提案について陳謝するとともに、①勤務条件に関わる案件は労使協議が整ってから議案提出するのが筋である、②誠意をもってぎりぎりまで交渉をしていく、③当初予算の変更は困難であるが、更に提案内容も含め総合的な検討を加えたい、④精力的に交渉を重ね、協議が整った内容については責任をもって実施していきたいとの考えが示された。これを受けて21日に配置されていた1時間ストライキは2月4日に延期されたが、白紙撤回の要望は依然として受け容れられず、交渉はさらに続いた。そして1月30日、区側から職員給与の臨時・特例的な縮減等についての修正再提案が出された。その内容は当初提案の5%カットについては管理職のみを対象とし、一般職員については5%を4%に変更するとともに、実施期間について平成17年度1年度限りとすることを明記するというものであった。「総合的な検討」の結果が削減率わずか1ボイントの縮小という内容に、白紙撤回を要求していた職員団体側は納得せず、この提案についても受け取りを拒否した。そしてまさにストライキ決行予定前日の2月3日、再度設けられた団体交渉で区側は給与の削減率について管理職(部長級)5%、管理職(課長級)4%、一般職員3%とする再修正案を提示し、これが区としての最終案、ギリギリの条件であるとの考えを示した。この提案を受け区職労は対応を協議、白紙撤回は適わなかったがこの再修正案をもってやむなく妥結することを決定したのである。そして決定後に開かれたその日二度目の団体交渉には高野区長も出席し、今回の提案により職員に衝撃を与え、労使の信頼関係を揺るがす事態を招いたことに対する責任を感じていること、またこれまで培ってきたルールを踏み外したことを陳謝するとともに、今回の提案は17(2005)年度限りであり、今後は人事委員会の勧告の尊重と統一交渉のルールを遵守することを改めて誓ったのである。
 こうして1か月間におよんだ職員給与カット問題はどうにか終結に至り、第1回定例会で「職員及び幼稚園教育職員の給与の特例に関する条例」が議決された(※11)。臨時・特例的措置とは言え統一ルールを破ったことは異例中の異例の事態であり、それほどまでに区財政が緊迫した状況に追い込まれていたことの表れであったと言える。また区民サービスの低下につながる行財政改革を断行せざるを得ない状況の中で、公務員に対する厳しい見方が依然としてあったことも事実であり、区長曰く職員もろともに「一度はくぐらなければならない試練」であったと言えよう。

指定管理者制度の導入

 「行革プラン2004」で示された「民との協働」の視点により進められた民間委託・民営化の流れの中で新たに浮上したのが指定管理者制度の導入である。
 指定管理者制度とは、それまで公共的団体等に限定されていた「公の施設」の管理運営を民間事業者やNPO等も含めた幅広い団体に委託することを可能とする制度で、平成15(2003)年6月の地方自治法改正により創設(同年9月施行)されたものである。この「公の施設」とは同法第244条第1項に規定する「住民の福祉を増進する目的をもってその利用に供するための施設」で、各自治体の条例に基づいて設置される施設である。豊島区においても、既に公会堂や区民センター、社会教育会館、体育施設等の管理運営業務を外郭団体である豊島区コミュニティ振興公社等に委託していたが、民間事業者については清掃や警備、設備保守等の施設維持管理業務の一部を委託しているに過ぎなかった。しかし単に施設維持管理だけでなく運営も含めて一括して民間事業者に委託することのメリットは、民間事業者がそれまで培ってきた豊富な専門知識や経験、あるいはネットワーク等が生かされ、利用者のニーズや動向に対してより鋭敏な対応が期待できることにあった。例えば民間スポーツ施設等の管理運営のノウハウを持つ民間事業者を区の体育施設の指定管理者として指定することにより、施設の効果的な活用や多彩なスポーツプログラムの展開等、区民にとってサービスの向上につながることが期待されたのである。また、区にとっても施設管理の効率化はもとより、施設の使用許可等の管理権限を指定管理者に委任することができるため、管理者としての職員配置が不要になることから歳出規模の43%を占める施設関係経費の縮減が期待できた。さらに民間事業者にとっても、公共分野への参入は事業拡大のチャンスであった。
 こうしたことから豊島区においても法改正により民間事業者参入の道が開けたことを受け、17(2005)年度の制度導入に向けて準備が進められた。指定管理者に係る手続き条例の制定及び関係施設条例の改正、公募プロポーザル方式を原則とする事業者選定、さらに事業者の指定について区議会の議決を経て、平成17(2005)年4月、19区施設において指定管理者制度が導入された。以下、導入までの流れを列記する。
・平成16(2004)年7月指定管理者制度の運営方針検討
・同年8月指定管理者に係る手続き条例案等の検討
・同年10月「公の施設に係る指定管理者の指定手続き等に関する条例」議決(※12)
・同年11月「豊島区公の施設指定管理者審査委員会」設置、第1回委員会開催(※13)
・同年12月施設改正条例議決、事業者公募開始(※14)
・平成17(2005)年1月プロポーザル事業者選考
・同年3月指定管理者の指定について議決、事業者と協定締結(※15)
・同年4月指定管理者による管理代行開始(※16)
 この19施設での制度導入による財政効果額は1億5千万円にのぼり、18(2006)年度以降も導入施設を順次拡大していった。令和2(2020)年4月1日現在で導入施設は45施設、17(2005)年度導入以降令和元(2019)年度決算までの15年間の累計効果額は実に約50億円に及んでいる(※17)。

※12 豊島区公の施設に係る指定管理者の指定手続き等に関する条例の制定について(H160930総務委員会資料)

※13 指定管理者制度について(H161112公共施設・公共用地有効活用対策調査特別委員会資料)
H161119プレスリリース

※14 豊島区民センター・豊島公会堂・南大塚ホール各条例の一部を改正する条例について【指定管理者制度導入】(H161202区民厚生委員会資料)
豊島区立社会教育施設、体育施設条例の改正について【指定管理者制度導入】(H161203文教委員会資料)
豊島区立区民の森条例、目白庭園条例の一部改正について【指定管理者制度導入】(H161203都市整備委員会資料)
豊島区立自転車等駐車場条例の改正について【指定管理者制度導入】(H161203都市整備委員会資料)

※15 指定管理者による施設管理について(H170217議員協議会資料)
豊島区民センター・豊島公会堂・南大塚ホールの指定管理者の指定について(H170224区民厚生委員会資料)
社会教育会館、体育施設の指定管理者の指定について(H170225文教委員会資料)
豊島区立区民の森・目白庭園指定管理者の指定について(H170225都市整備委員会資料)
巣鴨地域自転車駐車場指定管理者の指定について(H170225都市整備委員会資料)

※16 H170329プレスリリース

※17 豊島区行政経営白書(平成18年2月)
豊島区行政経営白書(令和2年度版)

保育園の民営化

 「民との協働」による施策再構築の取り組みの中で、導入に向けて粛々と手続きが進められた指定管理者制度と異なり、保護者等の強い反対が予想されたのが保育園の民営化であった。
 前述した通り、平成7(1995)年の臨調報告に基づく保育園5園の廃園計画の際も、保護者等の強い反対を受けて実施時期が先送りされるなどさまざまな紆余曲折を経て、計画から5年後の12(2000)年4月にようやく4園の廃止に至った経緯がある。またこの間、家庭内育児の孤立や児童虐待等の問題が顕在化するに伴い、区は施設中心の保育行政から地域との連携による子ども・家庭支援施策への転換を図るため、9(1997)年3月に「子ども・家庭支援豊島プラン(豊島区児童福祉計画)」を策定し、子ども家庭支援センターの整備や児童虐待防止ネットワークづくりを進めていた。
 一方、バブル崩壊後の長引く不況により主に女性を対象とする非正規職員や派遣職員等の雇用の拡大・多様化が進み、それに伴う新たな保育需要増により都市部を中心に待機児童問題が発生していた。そしてこうした待機児童の解消を図るため、民間事業者による認可保育所経営への参入を認める国の規制緩和や都の認証保育制度の創設、幼保一元化による幼稚園での保育事業の促進など保育サービスの提供主体の多様化が進行していた。
 その当時、豊島区においても定員割れする保育園がある一方で0・1歳児を中心に年度途中に「待機児童」が発生する状況が見られるようになっていたが、待機児童の問題はまだそれほど深刻にはなっていなかった。それはもともと23区でもトップレベルの水準を誇る保育園が設置されていたからでもあったが、区財政が逼迫するに伴いその高い水準を維持していくことが困難になり、行財政改革の一環として保育園の民営化が検討されようになったのである。施設再構築の平成13(2001)年「本部素案」、15(2003)年「本部案」のいずれにおいても区立保育園の民営化は基本路線に位置づけられ、老朽化施設の建替え等を契機に民営化を推進していくこと、その第1号として南池袋三丁目地区福祉基盤等整備事業の中で民設民営の保育園を整備することが示されていた。そしてこうした基本路線に従い、「行革プラン2004」では区立保育園28園のうち半数程度を10年間で民営化していくことを前提に、18(2006)年度から21(2009)年度の4年間で7園を民営化する方針が示されたのである。
 この方針は、「本部案」で改めて民営化方針が確認されたのを受けて内部検討を開始し、平成16(2004)年12月に子ども家庭部保育園課がまとめた報告書「区立保育所の民営化・委託化について(案)」をベースとしていた(※18)。
 同報告書は豊島区における保育需要の動向について、第2次ベビーブームを挟んだ昭和40~50年代は専ら保育の受け皿を量的に拡大していった時期であったのに対し、それ以降は保護者の就労形態の多様化により延長保育や一時保育、ゼロ歳児保育など保育サービスの質的な拡充が求められるようになったと分析している。平成に入ってさらに少子化が進行するとともに財政状況が厳しくなる中で保育施設の再編(廃園)が課題になる一方、家庭育児を巡る様々な問題の顕在化等により「保育に欠ける」要件を必要としない保育需要、すなわち保育所への入所措置対象ではなくても乳幼児段階から集団生活を体験させたいという新たなニーズへの対応が求められるようになっていた。また保育所運営経費の財源別内訳で区の負担分は74.1%にのぼり、区内保育施設のうち施設数や定員数の8割以上、運営経費の9割近くを区立保育園が占め、いずれも23区平均を上回って区が担っている状況にあった。こうしたことからも、国や都の動向を踏まえて官民の役割分担を改めて見直し、区の保育施策についても民営化・委託化の推進を基本路線とする構造改革が必要であると結論づけている。
 そしてこれからの保育施策における行政と民間の役割分担について、以下のように記している。
  • 〇 行政は、保育施策・子育て支援施策全体の計画、保育サービスの誘導・調整・支援・指導・監督等の基本的な役割を果たしながら、民間部門では充足できないサーピスを補完する。
  • 〇 民間は、その機動性・柔軟性を生かして、保育サービスの実施部門を受け持ち、多様な保育サービスを展開していく。
 こうした考えに基づき、当面の民営化の方針として以下の4点を挙げている。
  • 〇 今後10年間に区立保育所の半数程度を目安に民営化を進める。
  • 〇 民営化対象園は、区立保育園・私立保育園の地域的な配置バランス、私立保育所の安定的な運営への配慮と多様なサービス展開ができる立地条件、施設の状況等を総合的に勘案して決定する。
  • 〇 民営化の推進にあたっては、常に、社会経済状況の変化、区の財政環境、保育需要や国・都の保育施策の動向等を視野におき柔軟に調整していく。
  • 〇 民営化の方法は、民設民営(民間保育所に転換する)を原則としつつ、施設の状況、今後の運営方法等を総合的に勘案し、指定管理者による公設民営(運営委託)も考慮する。
 そしてこの方針に基づき、10年間の前期5年間に民営化する対象園として18(2006)年度に南池袋保育園(民設民営)・駒込第三保育園(公設民営)、19(2007)年度に雑司が谷保育園(公設民営)、20(2008)年度に南大塚保育園(公設民営)・西池袋第一保育園(民設民営)、21(2009)年度に千早第一保育園(民設民営)・池袋本町保育園(民設民営)の7園が明示された。
 この民営化による財政効果として、1園あたり民設民営で約5,000万円、公設民営で約4,400万円の経費縮減が図れると試算され、計画通りに7園の民営化を実施した場合の21(2009)年度までの累積効果額は約6億4千万円、保育士等職員定数の155人削減が見込まれていた。民営化の目的は第一義的にはこうした経費縮減により区の財政負担を軽くすることではあったが、その余剰財源を前述した新たな保育ニーズや老朽化した施設の改築費用等に振り向けていきたいとの考えもあったのである。だが民営化を進めていくにあたっては、過員となる職員の処遇や適正な事業者の確保等、様々な課題が想定された。
 中でも最大の課題は保護者等の理解をいかに得るかであった。「行革プラン2004」の素案が公表された平成16(2004)年9月時点では民営化予定の具体的な対象園名までは明示されていなかったが、それでもパブリックコメントには「保育園の民営化によりファミリー世帯の減少が進む」「財政状況のため保育園の民営化を選択するのは安易である。入所負担金が多少高くなっても区が直営で引き続き保育園を運営していくべきだ」「民営の力で公立の高水準保育を維持するのは難しく、劣悪な保育が予想されることに不安を感じる」「経営主体(職員)が代わることは子どもにとって大きな負担となる」など民営化に反対する声が寄せられていた。
 また同年第4回区議会には「豊島区の保育園に対する公的保育の拡充を求め、区立保育園の民営化計画の再検討を求める陳情」(豊島の保育をよくする区民ネットワーク代表外7,276名)が提出された。この陳情は、豊島区の保育園の水準を維持し公的保育の拡充を図ることと、民営化計画を再検討し今後の保育園のあり方について保護者住民の意見を反映させることの2点を求めるものであった。こうした保護者たちの不安の大半は、民営化による保育サービスの低下や、職員等を含め保育環境が急に変わることによる子どもたちへの影響にあったことは言うまでもない。このため18(2006)年度民営化予定の2園のうち、南池袋保育園(民設民営)については民営化移行以前から受託事業者の職員を入れて慣らし期間を設け、もう一つの駒込第三保育園については区の外郭団体である社会福祉法人への委託を前提に区の保育士を一定期間派遣するなどして保育環境が急激に変化しないよう円滑な移行を図る予定であった。またその他の園についても民営化の計画発表から移行までに最低1年以上の期間を置き、説明会や情報提供、意見交換を重ね、保護者の十分な理解を得て進めていくこととしていた。こうしたことから区議会においても保護者の理解、さらに職員の理解を十分図っていくことを前提としつつ、区財政の厳しい現状が引き続き予想される中で、民間にできることは民間に任せていくことは時代の流れであるとする意見が過半を占め、この陳情については不採択とされたのである。ただし、この時点では議会内においても民営化の相手先については社会福祉法人に限定し、利潤追求を原則とする株式会社の参入については否定的な意見が多数であった。
 こうして年明け17(2005)年1月から民営化対象園の保護者等への説明会を開始するとともに、同年7月には民営化にあたっての方法や事業者選定に関する基本的な考え方をまとめ第2回区議会定例会に報告した。この民営化の方法は施設を無償貸付けした上で設置主体・運営主体のいずれをも民間事業者に移行する「民設民営方式」を原則とするが、施設の所有権が区に限定されていない施設や複合施設など、施設維持管理等に関して調整が必要な施設については例外的に保育所運営のみ業務委託する「公設民営方式」とするというものであった。また事業者選定については国の方針(平成13年3月30日厚生労働省雇用均等・児童家庭局保育課長通知「地方公共団体が設置する保育所に係る委託について」)に従い、社会福祉法人等の公共的団体に限定せず株式会社等も含めて広く民間に間口を広げた公募選定方式を原則とした(※19)。
 民営化スケジュールが1年後に迫る南池袋保育園については既に13(2001)年度から開始された南池袋三丁目地区福祉基盤等整備事業の中で施設の整備や事業者の選定等が進められていたが、その経緯については後述する。もうひとつの駒込第三保育園については、JR駒込駅に隣接する都所有の都営住宅建物内に併設された施設であったため、民営化の方法としては「公設民営方式」が採られ、受託事業者も職員派遣制度を活用して円滑な民営化を進めていくため区の外郭団体である豊島区社会福祉事業団に特定され、予定通り18(2006)年4月に民営化された。
 この2園の民営化準備に並行し、翌19(2007)年度民営化予定の雑司が谷保育園の事業者選定も進められた。雑司が谷保育園は旧雑司が谷児童館跡地に建設する新園舎(18年12月竣工)が区民集会室を併設する複合施設であったため、駒込第三保育園と同様に「公設民営方式」が採られたが、民営化までに準備期間があったため事業者については広く公募し選定していく方式が初めて採用された(※20)。17(2005)年9月の事業者公募に先立って保護者への募集要項の事前説明が行われ、12月には外部委員(児童福祉に関する学識経験者)2名と内部委員(助役・政策経営部長・子ども家庭部長)3名から構成される事業者選定審査会が設置された。翌18(2006)年1月に株式会社9社を含む応募13法人から提出された保育内容や実績、運営状況等に関する書類審査を実施して上位4法人に絞り込み、3月には審査委員に保護者代表や保育園長も加わって4法人が運営する保育園を実際に見学した後、プレゼンテーション・ヒアリング審査を行い、最も保育内容の優れていた「社会福祉法人桜ヶ丘」が受託事業者に選定された。これらの審査過程では保護者から提出された「安定した財政基盤を持つ事業者を選んでほしい」、「子どもの心を大切にする事業者を選んでほしい」などの意見が盛り込まれた要望書のほか、13法人から提出された応募書類を事業者名が特定されないようマスキングした上ですべて公開し、それにより改めて提出された「事業者選定に関する要望書」や見学会後に提出された「施設見学の感想およびヒアリング時の質問について」など、保護者の意見を審査に随時反映していく手法が採られ、また事業者が選定された後も保護者と事業者の話し合いの場を設けていった。こうしたきめ細かな説明や意見聴取により保護者の不安を和らげていったことにより、18(2006)年区議会第4回定例会に提出された雑司が谷保育園の移転に関する保育所条例改正案は全会一致で可決されたのである(※21)。
 それ以後の民営化対象4園についても同様の手法で事業者選定を実施していく予定であったが、20(2008)年度移行予定の南大塚保育園と西池袋第一保育園はいずれも移行時期が1年先送りされた(※22)。南大塚保育園は都営住宅敷地内に設置された施設で建物の所有権は都と区が共有していたため、民営化の方法としては「公設民営方式」が採られ、18(2006)年度中に委託事業者を選定する予定であった。だが民営化に伴う耐震工事等の調整に時間がかかり(※23)、民営化そのものに関する保護者等との協議が進んでいなかったため、合意形成のための協議期間の1年延期を求める要望が保護者の会から提出されたことを受けて移行時期を変更したものである。また西池袋第一保育園はスケジュール通りに18(2006)年度に公募プロポーザルを実施したが、選定審査会で「該当事業者なし」との結果に至ったことにより、選定を改めてやり直すこととなったための延期であった。いずれにしても保育園の民営化にあたっては保護者等の理解が不可欠とする考え方に基づくものであったが、当時民営化を急速に進めた他自治体で住民訴訟が頻発していたこともあって、「急がば回れ」のことわざ通り、一年先送りしても保護者等の理解を得ながら進めていくことが最善の策との判断だったと考えられる。そして結果的に南大塚保育園は先行事例の駒込第三保育園と同じく職員派遣制度を活用した社会福祉事業団への業務委託とすることとし、西池袋第一保育園は仕切り直しの事業者選定で「社会福祉法人みつばち会」が受託先に決定し、21(2009)年4月に両園とも民営園に移行した。また千早第一保育園については昭和39(1964)年以来区内で保育施設の運営実績がある「社会福祉法人育和会」から同園の運営事業者となりたいとの申し出があり、保護者の同意を得て選定審査会を通すことなく事業者に決定され、予定通り21(2009)年4月に民営化された。同時に民営化が予定されていた池袋本町保育園については施設を運営しながらの改修工事が困難となり、仮園舎を建築して一時移転することになったため民営化の準備期間が短くなり、保護者から1年延期の要望が出された。これに応じて事業者の公募選定も先送りし、21(2009)年2月にこれもまた昭和45(1970)年以来区内で私立保育園を運営している「社会福祉法人みのり保育園」が審査会で選定され、22(2010)年4月に民営園に移行した。これにより当初計画の7園の民営化が完了したのである(※24)。
 前期計画分の民営化が完了したことにより、その実施結果を検証し、後期の民営化の方向性を示すこととしていたが、保育計画で建替えの対象となっていた西巣鴨第二保育園・高松第一保育園の2園については建替えを契機に駅に近いという立地を活かし、民間事業者による多様な保育サービスの展開と待機児童の解消を図るため、先行して民営化が進められた。そして平成26(2014)年度に西巣鴨第二保育園、翌27(2015)年度に高松第一保育園が民営化され民営化園は計9園となった(※25)。
 当初計画の10年間で28園の半数を民営化するとの方針ではさらに5園の民営化が必要であったが、26(2014)年9月の区議会第3回定例会においてこの後、駒込第二保育園・池袋第三保育園・東池袋第一保育園の3園をもって区立保育園の民営化はひとまず終了とすることが報告された(※26)。平成25(2013)年度の認可保育所入所希望者の急増に対応するため25(2013)~26(2014)年度の2か年にわたり「待機児童対策緊急プラン」により認証保育所や小規模保育所の誘致等を強力に進めた結果、「今後も私立保育園が増設される見込みであること」、「保護者が区立か私立を選択できる環境を確保する必要があること」などが方針変更の理由に挙げられた。さらに地域に増えつつある私立保育園とのネットワークを構築していく上で、区立保育園が地域の保育施設の核となることが求められた。この方針変更に基づき、令和3(2021)年4月に駒込第二保育園、令和4(2022)年4月に池袋第三保育園、令和5(2023)年4月に東池袋第一保育園が民営化された(※27)。
 これにより平成15(2003)年10月に施設再構築の「本部案」に掲げられた保育園の民営化計画は、足かけ20年の歳月を経て完了するに至ったのである。
雑司が谷保育園「お月見」行事(平成20年9月/19年4月民営化)

※19 H170708 保育園の民営化について②【駒込第三・雑司が谷】(H170708・H170930子ども文教委員会資料)

※20 H171004プレスリリース

※21 保育園の民営化について④【雑司が谷】(H180630・H181201子ども文教委員会資料)
H171004プレスリリース

※22 保育園の民営化について⑤【南大塚】(H181201・H200929子ども文教委員会資料)
保育園の民営化について⑥【西池袋第一】(H190622・H200222子ども文教委員会資料)

※23 南大塚保育園耐震補強・改修工事にともなう関連複合施設について(H171201区民厚生委員会資料)

※24 保育園の民営化について⑦【池袋本町・千早第一】(H191130子ども文教委員会資料)
保育園の民営化について⑧【西池袋第一・千早第一】(H201205・H201209子ども文教委員会資料)
保育園の民営化について⑨【池袋本町】(H210227・H211204子ども文教委員会資料)

※25 保育園の民営化について⑩【西巣鴨第二・高松第一】(H230701・H230930子ども文教委員会資料)
保育園の民営化について⑪【西巣鴨第二】(H240224子ども文教委員会)

※26 区立保育所の民営化について(H260919議員協議会資料)

※27 区立保育園の民営化について(R011002子ども文教委員会資料)
駒込第二保育園の民営化について(R020708子ども文教委員会資料)
池袋第三保育園の民営化について(R030929・R031130子ども文教委員会資料)
東池袋第一保育園の民営化について(R040620子ども文教委員会資料)

南池袋三丁目地区福祉基盤等整備事業

 保育園民営化第1号に位置づけられる南池袋保育園は、前述した通り南池袋三丁目地区福祉基盤等整備事業の中で進められた。
 この整備事業の発端は平成13(2001)年に遡る。同年4月に、「豊島区立小・中学校の適正化第一次整備計画」(平成9年策定)により、高田・雑司谷・日出小学校の3校が統合され、これに伴い3月をもって閉校となる雑司谷小学校が跡地として新たに活用されることになった。そこでかねてから課題となっていた高齢化に伴って年々需要が高まる介護基盤施設等を整備する計画がその年の2月に公表されたのである(※28)。
 この計画の事業スキームは雑司谷小学校跡地に定期借地権を設定して開発事業者に貸付け、民間による特別養護老人ホーム(身体障害者療護施設併設)、介護老人保健施設及び保育園の福祉3施設のほか、公的共同住宅を誘致していくというものであった。
 定期借地権とはあらかじめ定めた期間(50年以上)の満了により消滅する借地権で、設定期間満了後に土地が戻ってくることが担保され、区有地を売却することなく多額の借地料を得ることができ、また事業者にとっても買い取るよりも安い価格で事業用地を確保できるという双方にとってメリットのある制度であった。特に賃貸借契約時に一括して支払われる50年間の地代相当分として見込まれる権利金約25億円は、逼迫する区財政の新たな財源確保策として期待は大きかった。
 また前年の介護保険制度開始に伴って、特別養護老人ホームの入居待機者数は制度開始前に百数十名程度だったものが開始1年後には500名を超えるまでに急増しており、今後さらに介護サービス需要の増大が見込まれる中で介護基盤施設の整備は急務となっていた。だが当時、要介護高齢者の在宅復帰や在宅療養支援等を行う介護老人保健施設は区内に1か所もなく、また大規模な福祉施設を整備するための遊休地も少なく、民間事業者の進出意欲が乏しい現状を打開するには学校跡地の活用は切札と言えた。とは言え、福祉施設だけを誘致するのでは設置者となる社会福祉法人等への整備費用の助成など区の財政負担は依然として重く、こうした財政的な問題をクリアするために収益性の高い公的住宅との合築という案が考え出されたのである。ファミリー向けの良好な公的住宅の供給は定住化対策としても期待でき、国や都の助成対象となる中堅所得層ファミリー向け賃貸住宅(特定優良賃貸住宅の供給の促進に関する法律に基づく都民住宅)約84戸と高齢者向け優良賃貸住宅(東京都高齢者向け優良賃貸住宅供給助成事業制度要綱に基づく高齢者世帯住宅)約22戸を確保する計画であった。さらに隣接する南池袋保育園は老朽化が著しく園庭のない施設であったため、この事業に組み込んで一体的に整備することにより、施設環境の改善と民営化への転換を同時に実現することが企図されたのである。
 定期借地権を活用した民間誘致による福祉基盤整備は区にとって初の試みであったが、全国でも先駆的な取り組みとして各自治体から注目を集めていた。だがこの時点では、50年もの長期間とは言え、国はまだ時限的な施設として特別養護老人ホームを設置することを認めておらず、国には都を通じて積極的に働きかけてはいたものの、認められない場合は借地人側に有利な普通借地権による契約となる可能性も孕んでいた。
 こうした不確定要素を抱えながらも、公的住宅と福祉3施設の合築施設を整備するという大規模かつ複雑なプロジェクトであったため、事業全体を推進する法人(以下「キー法人」)には資金力があり、自治体と共同して事業を推進してきた実績を有する法人を選定することが求められた。このため公的住宅の整備を担う事業者をキー法人とし、都市基盤整備公団、日本勤労者住宅協会、財団法人首都圏不燃建築公社の3法人に絞り、事業プロポーザルが実施された。2月の計画公表後、3法人に調査書を送付するとともに数度にわたる個別ヒアリングを実施し、①―般定期借地権50年のもとでの事業構築が可能かどうか、②民間施設と合築を行う公的法人として国の理解がえられる法人かどうか、③都民住宅及び高齢者向け住宅の建設が可能で、かつ国・都から補助を受けられる法人かどうか、④定期借地権期間満了時に建物の無償譲渡が可能かどうか、⑤一時金としての地代支払金額の多寡、⑥街づくりのための周辺整備に対する財政負担意志の有無の6項目の基準で審査を行った結果、翌3月16日の政策経営会議(政策決定を行う庁内会議)で日本勤労者住宅協会(以下「勤住協」)が選定された(※29)。
 勤住協は昭和42(1967)年に設立された勤労者向け住宅の供給を担う国土交通省所管の特殊法人であったが、高齢者や障害者向け住宅も手がけており、区の求める計画を担いうる法人に合致していた。都市基盤整備公団も当時は同じく国土交通省所管の特殊法人であったが(平成16年独立行政法人都市再生機構に移行)、定期借地権の設定期間が基本的に70年であったこと、さらに区が想定する都民住宅や高齢者世帯住宅の建設に対応できないことから選考過程で候補から外された。また公益法人である首都圏不燃建築公社はいずれの住宅建設も可能であったが、提案された整備プラン等を比較検討し、最終的に地代支払金の提示額が高かった勤住協が選ばれたのである。
 この提示額については整備計画で想定される延べ床面積約18,000㎡のうち8,000㎡を住宅部分、10,000㎡を福祉施設分とした場合、50年分の地代約25億円をその面積で按分すると公的住宅法人負担分が11億1千万円、福祉施設法人負担分が13億9千万円となるが、福祉施設を整備する法人、特に保育園を運営する社会福祉法人については財政基盤が脆弱であることが想定されたため、公的住宅部分を担う各法人に対しどの程度上乗せできるか上限額の提示を求めていた。これに対し勤住協から13億5千万円、首都圏不燃建築公社からは12億5千万円の提示があり、区としてはこの上乗せ分で保育園負担分をカバーできるのではないかとの考えもあっての選定結果だった。だがこの差額は国が設立した特殊法人であることから勤住協の方が手厚い助成を受けられることによるものであり、この決定が報告された平成13(2001)年3月22日の区議会議員協議会でも1億円の差額は区にとって大きいことは認めつつも、民間法人である首都圏不燃建築公社が堅実に実績を挙げているのに対し、財務状況の悪さや欠陥住宅問題を起こしていたことなどから、勤住協の経営実態を危惧する声があがっていた。
 こうした様々な課題を抱えながらも、敷地面積約4,600㎡(南池袋3丁目7-1)、延べ床面積約18,000㎡(地上24階地下1階)の1階から7階までの低層部に特別養護老人ホーム(100床規模)、介護老人保健施設(100床規模)、保育園(定員120人)の福祉3施設を、8階から24階までの高層部に中堅所得層ファミリー向け賃貸住宅(84戸)と高齢者向け優良賃貸住宅(22戸)を建設するというビッグプロジェクトは始動した。加藤区政から引き継いだ東池袋4丁目地区市街地再開発事業の交流施設(あうるすぽっと及び中央図書館)を除けば、高野区長になって初の大規模施設整備事業であり、また学校跡地の本格活用第1号となる事業でもあった。
 それゆえに是が非でも成功させなければならない事業であり、議会の承認はもとより整備予定地周辺住民の理解は欠かせず、キー法人決定後の翌4月からほぼ月1回のペースで地元説明会が開催された。だが学校跡地に高層ビルが建設されることに対する周辺住民の不安は大きく、特に日影の影響を直接受ける近隣住民から反対の声があがった。5月31日に区長宛てに陳情書が提出されたのに続き、6月25日には「南池袋三丁目地区『雑司谷小学校跡地』福祉基盤整備事業の見直しを求める陳情」(代表者ほか63名)と「南池袋三丁目地区(雑司谷小学校跡地)福祉基盤整備事業計画の見直しを求める陳情」(代表者ほか499名)の2件の陳情が区議会に提出された。これらの陳情の趣旨はいずれも24階建ての高層ビル建設は周辺地域の住環境悪化につながるとして、住宅との合築による福祉基盤整備計画の撤回を求めるものであった。この間にも区は地元説明会と並行して日影の影響を受ける世帯への個別説明を重ね、6月26日の第4回説明会に公的住宅部分の24階を20階に抑える修正案を提示した。それでもなお日影の影響を100%解消できるわけではなかったが、4階分低くすることにより住宅部分の床面積を約1,000㎡圧縮せざるを得ず、それ以上の圧縮は整備計画の事業スキームそのものが成り立たなくなりかねないことから、区としても可能な範囲での最大限の誠意を示したものと言えた。また歩道用空地を含め空地率50%程度、保育園の園庭400㎡を確保するとともに、移転後の保育園跡地を地域の広場として開放するなど周辺住民の要望を取り入れた修正も加えられた。こうした区の対応もあって7月9日に両陳情を審査した区議会総務委員会は、緊急性の高い介護基盤施設の整備と財源対策としての公的住宅の整備は切り離せないとして計画の撤回要望には添えないとの意見が多数を占め、いずれの陳情とも不採択としたが、区に対しては地元住民の理解を得るためのさらなる協議を尽くすよう注文が付けられたのである(※30)。
 こうした住民協議を重ねていく一方、福祉3施設整備事業者の公募選定作業は進められた。応募にあたっては3施設すべてを同一社会福祉法人が整備するか、各施設を整備する3法人でひとつのグループを構成することを条件に4月2日から募集を開始、2グループ6法人から応募があった。これを受けて学識経験者4名と区職員4名(助役・政策経営部長・保健副支部長・子ども家庭部長)から構成される福祉施設整備事業者選定審査会を設置、6月15日から5回の審査会を経て7月18日に事業者が決定された(※31)。なおこの審査会では南池袋三丁目地区と同時に計画が進められていた池袋一丁目地区(特別養護老人ホーム)と池袋四丁目地区(知的障害者入所施設)の施設整備事業者の審査も行われている。
 南池袋三丁目地区の福祉3施設整備事業者として決定された各事業者は、特別養護老人ホームは社会福祉法人敬心福祉会、介護老人保健施設は医療法人社団瑞雲会、そして保育園は社会福祉法人幸会だった。このうち保育園整備を担う幸会は豊島区での選定に先立つ5月、新宿区の同様事業(介護老人保健施設と保育園の合築)でも選定を受けていた。同法人はいずれの事業も受託する意欲を見せていたが、9月11日になって「同一法人に単年度で2か所の補助を行うことは望ましくない」との見解が国から示され、区としても国や都に幾度も掛け合ったが認められず、9月28日、幸会も国や都の補助なしに施設整備を進めていくことは困難であると辞退届が提出されるに至ったのである(※32)。
 こうした事態に陥っている最中の9月26日、区立南池袋保育園父母の会から「区立南池袋保育園の存続を求める陳情」(会長ほか970名)が区議会に提出された。陳情の趣旨は、民設民営化に関する十分な説明もないまま、一方的に計画を進めることは公立の保育園ということで安心して子どもを預けてきた保護者を無視するものであり、区立としての保育園の存続を求めるものであった。陳情提出後も連日のように署名が追加され、最終的にその数は5,676名に達した。この追加署名の数は前年12(2000)年に「公共施設の再構築」第一次報告で保育園の民営化路線が打ち出されていたこともあって、単に南池袋保育園一園の問題ではなくなっていたことを物語るものと言えた。
 前述した通り、区の計画は南池袋三丁目地区福祉基盤等整備事業に南池袋保育園を組み込むことにより、現状587㎡の施設規模を900㎡に拡大するとともに400㎡の園庭を確保し、定員も91名から120名に増員することで待機児童の解消を図り、さらに民営化により産休明け保育や延長保育時間の拡充、区内で初めてとなる休日保育や病後児保育の実施など多機能型保育園の拠点施設とすることを目指していた。幸会の辞退申し出を受けて対応を余儀なくされた区は、こうした事業スキームそのものを変更することなく保育園整備事業者のみを再公募する方針を10月9日に決定し、その2日後の11日、陳情審査のために開かれた区議会厚生委員会に幸会が辞退するに至った経緯を口頭で報告したのである。
 当然のことながら事業者の辞退という突然の報告に委員会審議は陳情審査どころではなくなり、そうした事態を予見できなかったのか、計画の進捗に支障を来すのではないかなど事業者辞退に係る質疑に終始し、陳情審査は次回委員会に持ち越された。そして17日に再開された委員会では、一定の基準を満たす認可保育園であれば区立から私立に移行しても保育の質が必ずしも低下するものではないこと、むしろ民営化により保育サービスの多様化が図られることが期待でき、そうしたメリットも含めて丁寧に説明することで保護者の不安解消を図るべきとする意見が多数を占め、陳情そのものは不採択とされた。なお、幸会の辞退が公表された後の第4回定例会にも同様趣旨の「豊島区立南池袋保育園の存続を求める陳情」(豊島区立南池袋保育園を守る会代表ほか4,576名)が出されたが、同じく不採択とされている(※33)。
 一方、事業者辞退の問題については10月30日の議員協議会に持ち越され、全議員出席のもとで改めて詳細な経緯が報告され、質疑が行われた。待機児童解消策として国の規制緩和や都の認証保育所制度など民設民営化の流れが加速していたことは先に述べたが、それにより各自治体で民設民営による保育園整備の動きが一気に広がり、国や都の補助制度への申請が殺到したため、単年度に2件の補助が受けられなくなったことが幸会辞退の理由であった。そうした、事業者のみに責任を転嫁しがたい背景があったとは言え、撤退とそれに伴う選定のやり直しは、結果として事業計画の枠組みや進捗に少なからぬ影を落としたことは否めず、今後の事業者再選定にあたってより慎重な対応が求められることとなったのである。
 仕切り直しとなった保育園整備事業者の選定は11月20日から募集を開始、応募8法人の中から選定審査会による評定結果に基づき、翌14(2002)年3月に社会福祉法人マハヤナ学園に決定された(※34)。マハヤナ学園は大正8(1919)年に旧西巣鴨町に設立され、翌年託児所を開設、以来80年以上にわたり保育事業に携わってきた実績があり、また大正14(1925)年に開校した巣鴨家政女学校(現淑徳巣鴨中学高等学校)を運営する学校法人大乗淑徳学園とは姉妹法人の関係にあった。実績もあり豊島区にもゆかりのある法人ということで、区としてもひとまずは安堵の胸を撫で下ろす格好になったと言えるだろう。
 こうした事業者選定を進める一方、11月21日、区と勤住協、福祉3施設のうち特別養護老人ホーム整備事業者の社会福祉法人敬心福祉会、介護老人保健施設整備事業者の医療法人社団瑞雲会の4者間で基本協定が締結された。この協定は再公募する保育園整備事業者も含め、この事業に係わる5者の権利・義務関係や事業スキーム、建設工事期間も含め53年とする定期借地権の設定期間など事業を円滑に推進していく上での基本的な合意事項を定めたものであり、その内容は新たな保育園整備事業者にも継承されるとした。なお当初認められていなかった定期借地権を活用した特別養護老人ホームの整備についても、その後、特例として国庫補助対象とされることになった。
 またこの間に施設建物の実施設計も進められ、日影の影響を緩和するため高層部をスリム化することにより最終的な階数を地上22階建てとすることや風の影響を緩和する建物形状の変更、保育園食事室を使用時間外に地域交流スペースとして開放することなどの修正が加えられた。
 こうして保育園整備事業者が決定し、建築計画や施設設計の大枠が固まってきたことを受け、平成14(2002)年3月27日、基本協定の内容をさらに詳細に具体化する実施協定がマハヤナ学園を加えた5者間で締結された。これに続き2日後の29日に区と勤住協との間で定期借地権設定契約が締結され、5月24日には豊島区財産価格審議会の答申を受けて設定された権利金約23億円が支払われた。この定期借地権については勤住協が一括して取得し、各整備事業者は補助金交付の内示後、施設床面積按分に従いそれぞれの権利部分を勤住協から買い取ることとなっていた。だがその補助金の申請・審査手続きが進められている最中の6月20日、突然、キー法人である勤住協から事業計画を変更したいとの申し入れが出されたのである(※35)。
 その変更案は公的住宅としてのファミリー向け賃貸住宅(都民住宅)を勤労学生用賃貸住宅(26㎡のいわゆるワンルームマンション)もしくは民間賃貸住宅(家賃が高額となる民間事業者へのサブリース)に変更したいという2案で、当初の事業計画から大きくかけ離れた内容であった。勤住協が東北で手がけていた大規模開発が行き詰まって資金繰りがうまくいかなくなっていること、そのため住宅金融公庫の低金利融資が下りず、他の金融機関からの融資では収支計画が赤字になり事業として成立しなくなるということ、さらに国が急速に進めている特殊法人改革により民営化もしくは整理統合されることになれば組織を維持していくことが立ちゆかなくなるという3点が変更理由に挙げられた。国の特殊法人であるからこそ安定性・信頼性に重きを置いて選定したことが裏目に出る結果となったのである。勤住協の経営実態については当初から区議会でも懸念の声があがっていたこともあり、キー法人選定にあたっての判断の甘さを厳しく糾弾された。
 いずれにしても勤住協から示された修正2案は定住化対策として公的住宅を供給するという事業スキームの根幹を覆すものであり、都民住宅にできない理由を明確にするよう再三にわたって指示する一方、このまま勤住協と事業を進めていくことに危機感を抱いた区は、キー法人選定の際に勤住協に並ぶ候補であった首都圏不燃建築公社(以下「不燃公社」)に事業継承の可能性を水面下で打診した。そうした中で勤住協より定期借地権の分譲型などいくつかの代案が示されたが、いずれも事実上の事業撤退に等しく、区にとってとても飲める話ではなかった。このため、7月10日の政策経営会議において①事業の基本的スキームは変更しない、②勤住協提案は区としては受け入れられない、③勤住協へペナルティを科す、④不燃公社へは区長が直接要請することが確認され、翌11日、早速区長自ら不燃公社理事長に事業への参画を要請、前向きに検討したいとの回答が得られた。ただ事業継承にあたっては、都民住宅を公社一般賃貸住宅へ仕様変更するほか、建築コストの削減を含む事業費の削減、定期借地権設定契約の対価については他の事業者の承諾を得て住宅部分の持分に限ること、建物全体の管理運営に係る費用負担についても他の事業者との応分の負担とすることなどの前提条件が提示された。そして7月17日に勤住協の役員会において事業撤退が正式決定され、一方の不燃公社も同月23日の役員会で事業への参画が決定された。
 これらの決定を受け、①福祉基盤整備を最優先とする、②高齢者向け優良賃貸住宅27戸については当初計画通りとし、ファミリー向け賃貸住宅については当初計画の都民住宅74戸を区民住宅12戸と不燃公社が経営する一般賃貸住宅68戸程度に変更し、一般賃貸住宅については近隣相場より低廉な家賃設定や区民優先枠の確保等について要請する、③勤住協が約23億円で5月に取得した定期借地権(地上権)については住宅部分の持分約9億円を一旦区が買い戻してから不燃公社に譲渡し、他の事業者持ち分は各法人が勤住協と直接売買契約を結び権利移転することなどを基本的な考え方として、勤住協から不燃公社へのキー法人変更手続きが進められた。8月9日、区・勤住協・福祉3施設整備事業者の5者間で勤住協の事業撤退を承認する協議書を取り交わすとともに、不燃公社と事業継承に係る覚書き及び確認書を締結、同月30日には不燃公社を新たなキー法人とする建設計画説明会が開催された。そして9月19日に新5者による実施協定を改めて締結、その後地上権の各法人持ち分についての売買契約が履行され、10月18日には各法人への地上権の移転が完了した(※36)。
 こうしてキー法人が撤退するという非常事態によって引き起こされた一連の騒動は一応収束したかに見えた。だが事業継承を円滑に進めるため、別途協議事項としていた撤退に伴う勤住協との違約金交渉は暗礁に乗り上げていた。勤住協がキー法人だった際に締結された実施協定では、事業推進義務を履行できない旨の申し出を行なった場合、「違約金として本件持分売買価格の20%又は本件持分残存期間の対価相当額の20%に相当する金額」を支払わなければならないことが規定されていた。この取り決めにより勤住協は区に対し持分である住宅部分の地上権売買代金約9億円の20%にあたる約1億8千万円の違約金支払義務が生じていた。またこの協定には「故意又は過失のない場合において、甲(区)及び四者(ただし申出者等を除く)が相当と認めたときは、違約金の減免をすることができる」との但し書きが付されており、事業継承手続きが進められていた8月6日、この規定に則り違約金減免の要請書が勤住協から区及び福祉3施設整備事業者宛に提出された。だが今回の撤退事由は偏に勤住協に起因するものであり、区は当初からペナルティとしての違約金を徴収する方針でいた。
 平成14(2002)年9月から年をまたいで違約金交渉は重ねられたが、撤退は勤住協側の事情で事業継続が困難になったことよるものであるとする区の主張と、事業継続の意思を持っていたにもかかわらず計画変更の申し出を区が認めず、区の求めに応じて撤退を決定したものであるとする勤住協の主張は平行線をたどり、合意に至らなかった。このため区は、勤住協に対する違約金債権を確保するための民事調停を申立てることとし、調停が不成立の場合は訴訟も辞さない決断を下した。この調停も訴訟も議会の議決が必要であることから、平成15(2003)年第1回定例会に「民事調停の申立て及び調停不成立等の場合における訴えの提起について」の議案を提出し、全会一致で可決された(※37)。
 平成15(2003)年6月27日に東京簡易裁判所に違約金請求調停を申立て、翌16(2004)年3月までに5回にわたり調停が行われた。この請求は実施協定の規定に基づく違約金約1億8千万円全額と支払済みまで年5分の割合による遅延損害金の支払いを求めるものであったが、9月10日に行われた第1回目の調停に、勤住協側から区の要請を受けたことなどのためやむなく事業から撤退したのであり事業の引継ぎ等にも協力してきている、事業から撤退したことにより区に損害は発生していない、違約金の規定(地上権持分売買価格の20%)は公序良俗に反する内容でもあるから少なくとも減額または免除されてしかるべきであるなどを理由に区が違約金全額を請求しうる根拠はなく、調停には応じられないとの答弁書が提出された。こうして双方の主張が噛み合わないまま調停は進められ、翌16(2004)年2月27日の4回目の調停において、調停委員会から和解金として3,000万円を3分割で支払う調停案が示され、その成立に向けて努力するよう強く勧告された。これを受けて区もこの調停案を受け入れ、次回調停で和解に至ったのである(※38)。
 この和解金は16(2004)年11月に1回目の1,000万円、翌17(2005)年7月に2回目の1,000万円がそれぞれ支払われ、残り1,000万円は18(2006)年3月末日が支払期限であった。その支払期限の迫る1月30日、約180億円にのぼる負債を抱えた勤住協が東京地裁に民事再生法を申請し、2月14日から民事再生手続きが開始された(※39)。これに伴う再生計画が認可決定された場合、勤住協に対する元本50万円以上の債権はその93%及び利息・遅延損害金の全額が免除をされることになり、区の和解金残金1,000万円も930万円が免除対象となる。区としては再生計画案そのものに明確に反対する意思は持っていなかったが、多額の債権を放棄することになるので債権者としての議決権を行使しないことで反対の立場を表すこととした。その再生計画案が否決されれば倒産ということになるので、いずれにしても残りの1千万円はほぼ回収不能となることは避けられなかった。なお、勤住協は平成20(2008)年4月に民事再生を断念し、22(2010)年2月に破産廃止されている。
 一方、平成17(2005)年2月の竣工をめざし、15(2003)年の年明けから着工された建設工事が順調に進捗し、竣工を半年後に控えた16(2004)年7月9日、二度あることは三度あるとの譬えではないがマハヤナ学園から突然、事業撤退の申し出があった(※40)。学園側の理事長及び理事・監事等が来庁し、区分所有建物における事業運営に対する不安があること、法人の理念(大乗仏教)を生かした運営が難しいこと、定員割れが予測される保育園の運営に対する不安があること、国・都・区の今後の財政支援の見直しの動向が不透明で不安があることなどを理由に、撤退は理事会の決議事項であるとして口頭で区長に申し出たものであった。あまりに唐突かつ一方的な申し出に区長は納得できないと応じたため、12日に改めて理事長が来庁し、撤退の理由を記載した文書を提示して詳細な説明が行われた。だがそれについて協議する暇もなく、14日には撤退の届出書が提出されたのである。届出書には改めて撤退理由が記されていたが、周辺保育園の定員割れ状況及び長期的な保育需要の減少見込み、近隣建物の区分所有に伴う制限や負担、行革による私立保育園に対する補助減額の懸念に加え、法人の創設理念を具現化できないことが挙げられ、今後50年にわたって事業を継続していく上での懸念材料が多くなってきたことから撤退を決定したとされていた。この「法人の創設理念」とは大乗仏教の「感恩奉仕」の教えに基づき近隣住民の生活全般を支援する事業(隣ほ事業)から開始したことによるものであったが、複合施設の整備事業への参入にあたって宗教的な行事は行わないよう要請していた。経営面での懸念が撤退理由の大部分を占めてはいたが、そうした根本的な理念の部分で最初からボタンの掛け違いがあったものと考えられる。
 マハヤナ学園からの撤退の正式届出を受け、参加法人間の権利関係等の調整はもとより、既に進捗している整備工事に係る費用負担や都から内示が下りている補助金等の処理、新たな事業継承者の選定など対応が求められる課題が降って湧いたように持ち上がった。とりわけ計画当初から区立保育園の民営化に反対の声をあげていた保護者にどう説明し、理解を得るかが最優先かつ最重要の課題であった。このため、施設整備は区が責任をもって工期内の完成をめざすこと、マハヤナ学園に替わる新規事業者の選定については南池袋保育園の保護者の意見も考慮し慎重に検討することを対応の基本方針とし、翌15日に南池袋保育園各保護者に文書で報告、1週間後の22日には保護者説明会を開催し、改めて事業者撤退の経緯を説明するとともに9月までには事業継承者について報告したい旨を伝えた。だが2度にわたる事業者の撤退を目の当たりにし、不信感を募らせた保護者からは17(2005)年4月の民営化は避けてほしいとの声が多数あがったのである。
 8月に入り、事業継承者として区内及び都内で多数の保育園や福祉施設の運営実績を有する社会福祉法人恩賜財団東京都同胞援護会(以下「同胞援護会」)に事業への参加を打診、同法人から内装変更要望と保護者の理解を条件に積極的に参加したいとの回答が得られたことにより、9月6日の政策経営会議で同胞援護会を事業継承者とし17(2005)年4月民営化の方向で検討していくことが決定された。これまで公募により選定した2法人いずれもが撤退という事態に至ったこと、また再公募する時間的な余裕がないことや内装工事の発注が迫っていること、そして何より保護者等の理解を得る時間を少しでも確保するためにも事業者選定を速やかに行う必要があったため、公募によらず事業実績や事業運営の安定性・継続性を重視しての決定であった。
 そして9月11日に開かれた2回目の保護者説明会で、民営化の時期は当初計画通りの17(2005)年4月とすることを前提に同胞援護会が事業継承者に内定したことが説明された。だが「区との信頼関係回復、事業者との意思疎通等に一定の時間が必要であり、民営化を1年間延期して欲しい、17年4月の民営化には反対」との意見が保護者たちのほぼ一致した意見として出されたのである。こうした保護者の強い意向を受け、また同胞援護会からも保護者の理解が参加の条件にされていたこともあり、区は民営化の時期を1年延期することに方針転換し、同月25日の保護者説明会でその旨を説明した(※41)。
 この方針転換に伴い、南池袋保育園の廃園と新設園の開園をそれぞれ1年延期し、その間に同胞援護会の職員を南池袋保育園に入れて保育事業の円滑な引き継ぎを図っていくこととされ、10月27日に同胞援護会評議会で事業継承が了承された。また新設園の工事についてはキー法人となった首都圏不燃建築公社が承継して行うこととし、竣工後の17(2005)年3月に不燃公社から施設を区が一旦買い取り、18(2006)年1月にそれを同胞援護会に売却するというスケジュールが組まれた(※42)。マハヤナ学園に対しては地上権持分を区が買い戻し、区が交付した補助金の返還を請求するとともに協定に基づく違約金についても請求することとし、8月6日に地上権売買契約を締結、11月には違約金とともに補助金も返納された(※43)。
 一方、区の方針転換に保護者たちの不安も徐々に緩和され、10月に同胞援護会が運営する保育園を見学した後、11月20日に開かれた保護者説明会では同胞援護会を事業継承者とすることに理解が得られた。これを受けて11月26日、同胞援護会を事業継承者に指定することが正式決定された。こうして当初計画から1年遅れにはなるが、南池袋保育園の民営化は果たされることになったのである。
 平成13(2001)年2月の計画公表から様々な紆余曲折があった4年間の時を経て、平成17(2005)年2月19日、南池袋三丁目地区福祉基盤等整備事業による施設建物「オリナスふくろうの杜」は竣工した(※44)。この施設名のオリナスは「いろいろなサービスを織り成す」ということから命名されたものである。そして4月1日、その名を表すように特別養護老人ホーム「池袋敬心苑」、介護老人保健施設「安寿」、身体障害者養護施設「雑司谷」、賃貸住宅「ベラカーサ南池袋」がそれぞれ開設され、1年後の18(2006)年4月には「同援さくら保育園」が開設された。
 これをもって定借地権を活用した民設民営による施設整備事業としても、学校跡地を活用した本格的な施設整備事業としても第1号となる南池袋三丁目地区福祉基盤等整備事業は完了したことになる。そして定期借地権の活用手法は後に新庁舎整備・庁舎跡地活用事業の中に活かされていくことになり、またこの事業をきっかけに公共施設の民営化は加速していった。だがその一方で、キー法人や構成法人が次々撤退するなど様々な問題が生じ、民間との共同事業の難しさが露呈した事業でもあった。この事業に係わった多くの人々がその難しさにどれほど思い悩んだか計り知れない。その事実もまた「オリナス」の光の影の部分として区政の歴史に刻まれるべきものと言えるだろう。
特別養護老人ホーム「池袋敬心苑」(デイケア施設)
同援さくら保育園
南池袋三丁目地区福祉基盤整備事業(全体イメージ)

※36 南池袋三丁目地区福祉基盤等整備事業に係る補正予算(H140911議員協議会資料)
議員協議会会議録(平成14年9月11日議員協議会・総務委員会)【南池袋福祉基盤整備関連⑧】
南池袋三丁目地区福祉基盤等整備事業この間の経過と今後の予定について(H141206議員協議会資料)
議員協議会会議録(平成14年12月6日)【南池袋福祉基盤整備関連⑨】

※37 民事調停の申立て及び調停不成立等の場合における訴えの提起について【南池袋福祉基盤整備関連】(H150220総務委員会資料)
総務委員会会議録(平成15年3月10日)【南池袋福祉基盤整備関連⑩】

※38 南池袋三丁目地区福祉基盤等整備事業から撤退した日本勤労者住宅協会に対する違約金請求に係る民事調停の経過等について(H151003総務委員会資料)
総務委員会会議録(平成15年10月8日)【南池袋福祉基盤整備関連⑪】
南池袋三丁目地区福祉基盤等整備事業から撤退した日本勤労者住宅協会に対する違約金請求に係る民事調停の経過等について(H160318議員協議会資料)
議員協議会会議録(平成16年3月18日)【南池袋福祉基盤整備関連⑫】
総務委員会会議録(平成16年3月31日)【南池袋福祉基盤整備関連⑬】

※39 日本勤労者住宅協会の民事再生手続について(H180914議員協議会資料)
議員協議会会議録(平成18年9月14日)【南池袋福祉基盤整備関連⑱】

※40 南池袋三丁目地区福祉基盤等整備事業からの撤退の申し出について(H160715・H160924議員協議会資料)
議員協議会会議録(平成16年7月15日・9月24日)【南池袋福祉基盤整備関連⑭】

※41 南池袋三丁目地区福祉基盤等整備事業に係る保育事業承継者について(H161202区民厚生委員会資料)
区民厚生委員会会議録(平成16年12月9日)【南池袋福祉基盤整備関連⑮】

※42 南池袋三丁目地区福祉基盤等整備事業にかかる保育所施設の購入について(H170224総務委員会資料)
南池袋三丁目地区福祉基盤等整備事業にかかる保育所施設の売却について(H171201総務委員会資料)

※43 保育園の民営化について③【南池袋】(H171202・H181003子ども文教委員会資料)

※44 H170219プレスリリース

未来戦略推進プラン

 「選択と集中」と「民との協働」という二つの視点から施策と施設の再構築を図る行革第2ラウンドの取り組みは、「行革プラン2004」から「行財政改革プラン2005」(平成18年3月策定、以下「行革プラン2005」)に引き継がれ、区財政の構造改革はさらに進められた(※45)。特に「行革プラン2005」では「スクラップ・アンド・ビルド」の視点が加えられ、右肩上がりの時代の増分主義的な財政運営からの脱却を図るべく、17(2005)年度から導入された予算の「部局枠配分方式」の範囲を拡大するとともに、新規事業を立ち上げるにあたっては既存事業の休廃止を含めた見直しを行い、増分と減分との均衡を前提とする仕組みが取り入れられた。「ビルド」より「スクラップ」の方がいかに難しいかはこれまでの取り組みで骨身に沁みており、過去の失敗を繰り返さないためにも再び増分主義に陥らない仕組みが必要とされたのである。
 「行革プラン2005」に挙げられた事務事業の見直し項目は、休廃止5事業、縮小や執行方法等の見直し29事業、受益者負担の適正化3事業、施設・業務の委託化・民営化11事業(指定管理者制度の導入5事業10施設、民営化2事業3施設、業務委託4事業)、外郭団体の見直し4団体の計52件にのぼり、その財政効果は約4億1千万円、さらに人件費抑制等の内部努力の徹底と施設再構築による縮減分と合わせ、「行革プラン2005」による財政効果額は合計約11億円が見込まれた。これに対し18(2006)年度の新規拡充事業(施設建設除く)による増分は約5億6千万円に止まっていることからも、いかに事業費の圧縮が図られていたかが窺える。これらの取り組みにより、その18(2006)年度一般会計予算額約861億円は前年度比3億4,400万円の減、区長就任以来8年連続して前年度比マイナス予算となった。
 行政の徹底的なスリム化を図る2年間の改革により、区財政は徐々に回復の兆しを見せ始めていた。また平成15(2003)年度に急激に落ち込んだ特別区交付金等の歳入環境も、その後の景気回復に伴って改善しつつあった。16(2004)年8月時点の収支見通しで約370億円と見込まれていた21(2009)年度まで財源不足額も17(2005)年2月時点で約166億円、18(2006)年度2月時点で約90億円まで圧縮されていた。そして集中改革期間の2年次目となる18(2006)年度予算は特別な財源対策を講ずることなく編成することができ、17(2005)年度決算も前年度に続き実質単年度収支23億円の黒字となった。2年連続の黒字達成は平成元(1989)年度以降初めてのことであり、また財政の弾力性を示す経常収支比率も77.8%と5(1993)年度以来12年ぶりに70%台にまで改善させることができたのである。こうした黒字決算の余剰金はこの間の行政改革で切り捨てた事業の復活に充てるべきとの声もあったが、財政の構造改革を成し遂げるためには極力、一時的な収入増や余剰金に頼らない財政運営を図ることを基本としなければならず、依然として土地開発公社への未償還額も含めた区の借金は705億円にのぼり、対する基金等の区の貯金はわずか117億円と大きな開きがある現状では多少の余剰金に浮かれてはいられなかった。負の遺産を確実に償還して、景気変動に左右されない安定した財政基盤を築いていくためにも、ここで改革の手を緩めるわけにはいかなかったのである。
 一方、人口減少社会へと転ずる中でいかにして定住世帯を増やしていくことができるか、また都市間競争が激化する中でいかに「住みたいまち」「住み続けたいまち」として選ばれる都市になっていくかが問われ、過去の負の遺産の克服に終始するだけではなく、未来を拓いていくための改革が求められていた。このため平成18(2006)年6月、8(1996)年4月の設置から10年間にわたって財政健全化を担ってきた「行財政改革推進本部」を改め、新たに「未来戦略創出会議」が設置された。そして区長をトップとするこの会議の下で翌19(2007)年3月、「未来戦略推進プラン2007」が策定されたのである(※46)。
 この新たなプランは、「行財政改革プラン」による2年間の取り組みを引き継ぎつつも、さらに将来に向けた都市経営の視点から、都市としての魅力と活力を高めるための政策展開を図っていくことを目的としていた。また前年18(2006)年3月に策定された新基本計画を確実に実現していくための実施計画にも位置づけられていた。
 このため、「行財政改革プラン」では構造改革の4つの目標の4番目に掲げられていた「安定した歳入確保に向けた魅力と価値の創造」にあたる「文化と品格を誇れる価値あるまちづくり」が第一の目標に掲げられ、以下「多様な主体の支え合いによる新たな公共の構築」、「スリムで変化に強い行政経営の確立」、「持続可能な財政構造の構築」の順となっている。それに応じてプランの構成も、「行財政改革プラン」では最終章に位置づけられていた「としま未来への経営戦略」が「としま未来への戦略プラン」(以下「戦略プラン」)と名前を変えてプランの核となる第4章に据えられ、「行財政改革プラン」の柱であった「施策の再構築」は「行財政システムの改革」として第5章に、「公共施設の再構築・区有財産の活用」は第6章にそれぞれ繰り下げられている。こうした構成の変更からも、財源対策のための行革プランから都市経営のための戦略的なプランへと大きく方向転換して行こうとの意図が見て取れる。
 それはプラン冒頭に記載された区長の序文からも窺える。以下にその序文を引用する。
-今、新たな分権改革のうねりが、静かに力強く、巻き起ころうとしています。
21世紀は、真に自立した基礎的自治体が政策を競い合い、豊かな価値を創造し合うことで、日本全体の活力を生み出していく、まさに『地域の時代』です。
そして、『地域の時代』を築くのは、ほかでもない地域からの取り組みであり、豊島区も、地域の将来と自らが進むべき道筋をしっかりと描き、新たな分権社会を築く原動力となるべく力を尽くしてまいります。
豊島区は、これまでの行財政改革の成果が結実し、ようやく長いトンネルから抜け出ることができたところです。財源不足への対応に追われ続ける状況を克服し、やっと将来に目を向けることができるようになったのです。
今こそ、負の遺産を克服するための改革に区切りをつけ、「未来をひらくための改革」を本格化すべき時であります。
これから進める「未来への改革」の要となるのが、これまで8年間にわたる改革の集大成として策定する『未来戦略推進プラン2007』です。
新たなプランは、財源不足の解消を目的とする計画ではなく、ビルド・アンド・スクラップの考え方に基づき、将来ビジョンの実現に向けて新たな施策や事業を進め、生み出していくための計画であり、また、平成18年3月に策定した『豊島区基本計画』の実施計画でもあります。
このプランの「未来戦略」では、「文化と品格を誇れる価値あるまち」の実現に向け、「文化」「健康」「都市再生」、そして「環境」の各政策について、10年後のビジョンと4年間の重点プロジェクトの展開を明らかにしています。
これら4政策を、新たな活力を生む“エンジン”として、熱く回し続けることで、「住みたいまち」、「訪れたいまち」としての評価と信頼を高めてまいります。 そして、そこから生まれた活力をもとに、財政基盤を強化することで、「福祉」「子育て」「教育」、「安心・安全」など、区民生活を支える質の高いサービスの向上に力を注ぎ、25万区民の一人ひとりが、豊かな暮らしをとおして夢をかなえ、住んでよかったと誇りに思える豊島の実現に向けて努力してまいります。
 この序文からも明らかなように、「未来戦略」の重点政策に位置づけられたのは「文化」「健康」「都市再生」「環境」の4つの政策である。そしてこの4つの政策を柱に10のビジョンと32のプロジェクトが掲げられている(図表2-⑲参照)。
図表2-⑲ 戦略的プランの全体像
 重点政策と福祉・教育等の基本政策との関係についても、重点政策を核に「文化と品格を誇れる価値あるまちづくり」を推進し、定住人口の増加を図ることで安定した歳入確保や財政基盤の強化につなげ、それにより生み出される活力を基本政策の充実に充てていくという政策展開の好循環をより明確にイメージをしたものになっている(図表2-⑳参照)。そして18(2006)年度当時の人口25万5,000人を4年後に27万人、10年後の28(2016)年度には28万人へと増加させる目標が設定された。
図表2-⑳ 戦略プランの展開イメージ
 また「未来戦略推進プラン」は新基本計画の実施計画に位置づけられるものであることから、基本計画の計画期間の平成18(2006)から27(2015)年度までの10年間の前期5年のうち、既に「行革プラン2005」で対応した18(2006)年度を除く19(2007)~22(2010)年度までの4年間を計画期間とし、毎年度改訂していくこととされた。このため「未来戦略推進プラン2007」には19(2007)~22(2010)年度までの財政フレームが示されるとともに、第7章に基本計画の19年度実施計画が盛り込まれている。
 この都市経営の視点に立った「戦略プラン」と行財政改革の視点を引き継ぐ「行財政システムの構築」及び「公共施設の再構築・区有財産の活用」、そして基本計画の分野別実施計画という「未来戦略推進プラン」の構成は、改定版でも基本的に踏襲され現在に至っている。その一方、「戦略プラン」に掲げる重点施策やプロジェクトの中味はその時々の社会経済状況や行政需要等に応じて改定が加えられていった。
 「環境都市づくり元年」に位置づけられた翌20(2008)年度版は「環境」を最重点政策に掲げ、人口密度日本一の高密都市として如何に環境負荷を低減できるかという挑戦的な課題解決に向け、環境基本計画の策定やクールシティ推進事業等を核とする「環境まちづくりの推進」、「CO²削減プロジェクトの展開」など新たなプロジェクトが加えられた。また同年度版では「文化」「健康」「都市再生」「環境」の4つの重点政策30プロジェクトに加え、「子育て・教育」「福祉」「安心・安全」「参加・協働」の4つの基本政策20プロジェクトを組み込み「戦略プラン50」として位置づけたほか、区内を東西南北と中央の5ブロックに分け、それぞれの地域を軸にした政策展開をエリア地図に落とし込んだ地域別事業計画が盛り込まれた(※47)。続く21(2009)年度版では、同年1月に「文化芸術創造都市部門」で文化庁長官表彰を受賞したことを受け、「文化創造都市づくり・新展開」として地域の様々な文化資源を活用したまちづくりの推進が謳われるとともに、前年の東京メトロ副都心線開通を機に池袋副都心再生の新たなビジョンとして策定された「池袋副都心グランドビジョン」のリーディングプロジェクトが掲げられた(※48)。以後、セーフコミュニティ国際認証取得に向けた「安全・安心創造都市づくり」をはじめ、東日本大震災の教訓を踏まえた震災対策の強化、副都心再生の起爆剤となる新庁舎整備等々、時機を捉えた政策に焦点があてられている。
 10年を計画期間とする基本計画が区の長期的かつ総合的なビジョンを示すものであるのに対し、「未来戦略推進プラン」は基本計画の実現をめざしつつも、よりスピーディかつメリハリの効いた施策展開を図っていくための役割を果たしていると言えるだろう。

隠れ借金の完済

 「未来戦略推進プラン2007」が策定された19(2007)年3月の翌4月22日、豊島区議会議員・豊島区長選挙が執行され、有効投票総数89,041票のうち60,925票を得て高野区長は3選を果たした(当日有権者数205,405人、投票者数92,063人、投票率44.82%)。前回に次ぐ得票率68.42%は次点候補者31.58%の2倍を上回る圧勝であった。
 選挙後の6月に開会された区議会第2回定例会初日、区長は3期目にあたっての所信を次のように表明している(※49)。
-これまでの8年間は、こうした財政危機の克服を最重要課題として、あらゆる対策を講じ、改革の道を走り続けてきた日々でありました。しかし、今振り返れば、私にとっての初心とは、元気ある豊島区の再生に向けた、区独自の政策展開にあったのであり、財政健全化は、そのために成し遂げなければならない前提条件であったのであります。豊島区は、負の遺産の大きさ、傷の深さゆえに、財政危機を克服するために、予想していた以上に長い年月を要しました。しかし、この間の構造改革は、区民、議会の皆様の言葉には尽くせないご協力の上に確実に成果を上げ、先の見えない閉塞感を払拭し、今、しっかりと新たな方向をつかもうとしております。(中略)
 さきの選挙戦において今年3月の未来戦略推進プラン2007を基本としたローカル・マニフェストを作成し、4つの基本政策と4つの重点政策を推進することを区民の皆様にお約束いたしました。基本政策として掲げたのは、子育て・教育、福祉・医療、安心・安全、そして参加・協働であり、重点政策として位置付けるのは、文化、健康、都市再生、環境の4政策であります。私が目指すのは、豊島区が持つ強みを最大限に生かしながら、重点政策のエンジンを熱く回し続けることで、新たな魅力と価値を創造し、そこから生まれた活力によって、区民生活の基盤を成す基本政策の水準を押し上げていくような好循環をつくり上げることであります。そして、その好循環を生み出し続けるために大切なのが、人間力と創造力であります。大きく転換する社会経済の中で、これから先も豊島区は、従来の延長線上に立った発想では解決できない課題に直面することがあると思います。その課題解決に果敢に挑戦し、自らの道を切り開いていく力こそ、都市の活力、つまり人間力と創造力なのであります。文化と品格を誇れる価値あるまちの実現に向け、政策を進めることで、この2つの力をさらに大きく育てていくことこそ、未来戦略が目指すところであります。こうした私の政策に信任を与えてくださった区民の期待に応えるべく、豊島区に生まれ育った政治家として、私のすべてをかけて、これからの4年間に臨む決意であります。
 こうした所信の中にも財政危機を脱し、過去の清算から未来志向の政策転換への強い意欲が感じ取れる。だが未来に向かって走り出すにあたって、どうしても解決しなければならない問題があった。それは土地開発公社への未償還債務、いわゆる「隠れ借金」問題であった。
 第1章第3節第2項で述べた通り、この「隠れ借金」とは昭和末期から平成初頭にかけて公共施設整備を拡大させる中で、その用地の先行取得を担った土地開発公社借入金の未償還分のことである。区は平成元(1989)年に策定した「公共施設整備中期計画」、さらに2年後の3(1991)年に策定した「新公共施設整備中期計画」に基づき、バブル崩壊により特別区税や特別区交付金等の主要財源が減収していく中でも公共施設整備を拡大し、その整備費用として年間100億円規模の特別区債を発行していた。またそうした公共施設用地を先行取得するために昭和63(1988)年に設立された土地開発公社の借入金は平成11(1999)年度までの13年間で累計550億円を超えていたが、財政悪化により当初の期限内に償還できず、繰延べ措置された額は180億円にのぼっていた。これに旧池袋保健所跡地(現区役所東池袋分庁舎)を売却した際に街づくり公社(現としま未来文化財団)が肩代わりした借入金25億円と合わせた205億円が区の決算には表われない「隠れ借金」であり、667億円にまで膨らんだ特別区債残高と合わせた区の実質的な負債、いわゆる借金は平成11(1999)年度時点で872億円の過去最高額に達していた。一方、借金に対する貯金にあたる基金残高は、財政調整基金がわずか6億円、財源不足を穴埋めするために運用を繰り返してきた庁舎等建設基金ほか特定目的基金の実質残高は29億円、合わせて36億円に過ぎず、836億円もの債務超過に陥っていたのである。
 図表2-21は区の貯金(基金)と借金(負債)の推移を表したグラフであるが、区の債務超過は平成3(1991)年から始まり、その後10年足らずの間に急速に拡大していった。平成11(1999)年当時、特別区債の元利償還額は約74億円にのぼり、うち利子の支払だけでも24億円を超えていた。この「借金地獄」から抜け出さない限り、真の意味での区財政の構造改革は完遂しえなかったのである。
 このため平成12(2000)年度以降、起債の発行を抑制することにより、5年後の17(2005)年度末の特別区債残高は約150億円が縮減され518億円にまで減少していた。だが償還が繰り延べされたままの土地開発公社等の借入金は205億円から187億円へと、わずか18億円程度の縮減にとどまっていた。一方、基金残高はこの5年間で36億円から117億円まで積み増され、最高時836億円だった債務超過額は588億円にまで圧縮され、その差は年々縮まっていった。こうして負債の縮減に努めるとともに長期的な視点から貯金と借金のバランスを確保することが財政健全化の次なるステップに位置づけられ、滞っていた土地開発公社等の「隠れ借金」についても前倒しで償還していくこととし、平成18(2006)年度に19億2千万円を償還したのに続き、翌19(2007)年度にはとしま未来文化財団から旧池袋保健所用地を約25億円で買い戻すとともに土地開発公社分の借入金も約3億円を繰上げ償還した。さらに20(2008)年3月、土地開発公社未償還分の残り126億円を22(2010)年度までの3年間で全額返済する方針が打ち出され、その第一歩として同年6月の第2回定例会に繰上げ償還金約29億円が補正予算に計上された。この返済の利子分だけで年間約4,400万円の財政効果が見込まれ、繰上げ償還により軽減した利子相当分の財源は他の区民サービスに充当できることからも、可能な限り早期の償還が求められたのである。
図表2-21 貯金(基金)と借金(負債)の推移
 だが、ようやく長いトンネルから抜け出せたかに見えた区財政に、またも試練の波が覆い被さった。平成19(2007)年のサブプライム問題に端を発した世界金融危機、続く20(2008)年のリーマンショックを契機に広がった世界同時不況は日本経済を直撃し、企業業績の悪化はもとより、「年越し派遣村」が社会問題化した派遣労働者の大量解雇など国民の生活にも多大の影響を及ぼした。その影響は当然のことながら区財政にも及び、回復基調にあった特別区税や特別区交付金等の主要財源が再び減少に転じる一方、生活困窮者の急増に伴い生活保護費等の扶助費が増大し、21(2009)年度予算編成に向けて41億円の財源不足が生じることとなった。このため、18(2006)年度以降3年連続して特別な財源対策を講ずることなく組めていた予算は、世界的な不況の長期化に23(2011)年3月に発生した東日本大震災の影響も相俟って、21(2009)年度以降5年連続で特別な財源対策を講ずる必要に迫られた。
 だが、その財源不足を埋めるために平成20(2008)年度末時点で176億円まで積み増した基金の取崩しに手を染めれば、あっという間に枯渇することは過去の教訓からも明らかであり、また債務の償還を滞らせれば、その分だけ無駄な利子を支払い続けなければならなくなる。まさに区長曰く「就任以来10年にわたる改革の真価が問われる局面」に直面したのである。
 このため21(2009)年度予算編成にあたっては、先行き不透明な景気変動に備えるため財政調整基金を取崩すことなく、旧中央図書館の跡地売却収入10億5,500万円の財源対策を講じたほか、西部地域複合施設整備や勤労福祉会館・南大塚ホール大規模改修など一般財源負担が大きな施設整備を中心に、事業の着手時期を1~2年先送りするなどの策を講じて41億の財源不足を埋めたのである。なお、同年度の決算では特別区交付金が39億円の大幅減となったものの、不況対策としての定額給付金や生活保護費への国の負担金などの国庫補助金57億円余りが組み込まれたため、予算編成段階で財源対策として組み込んでいた旧中央図書館の用地売却は結局行わずに済み、結果的に4年連続で特別な財源対策を講じることなく黒字決算となった。
 一方、土地開発公社等の「隠れ借金」126億円を22(2010)年度までに全額返済する方針はその間も堅持され、20(2008)年度に43億円、21(2009)年度に26億8千万を繰上げ償還し、21年度末時点で約40億円にまでに圧縮された残高を22(2010)年度第3回定例会に補正予算を計上し、全額完済を果たした。これをもって長年の懸案であった「隠れ借金」問題は解消されたのである。
 以後、引続き起債の発行を抑制する一方、財政調整基金をはじめ公債費負担の軽減を図る減債基金や、長期間にわたる学校改築を着実に推進するための義務教育施設整備基金などの特定目的基金を積極的に積み増し、平成25(2013)年度末にはついに基金残額(貯金)が区債残高(借金)を上回るに至った。それは平成2(1990)年度以来、実に23年ぶりのことであり、約四半世紀の時を経てようやく過去の負の遺産を克服できたのである。なお翌26(2014)年度は再開発建物内に整備する新庁舎の保留床購入等のため一時的に基金残額が区債残高を下回ることになったが、それ以降は平成期を通じて基金残高が上回る安定した状態が維持されている。
 どの時点をもって財政健全化が達成されたかについては、「行革プラン」から「未来戦略推進プラン」へ移行した平成19(2007)年度か、或いは以後財源対策を講ずることなく予算編成が可能となった平成26(2014)年度か、その時点の判断は難しいが、少なくともこの貯金と借金との逆転は「行革プラン」が掲げた「変化に強い持続可能な財政基盤を構築する」という目標がひとつの形をなしたものと言え、これにより長く厳しかった行財政改革の大きな山をようやく乗り越えることができたと言えるだろう。