豊島清掃工場(平成11年6月竣工、7月本格稼働)豊島清掃工場(平成11年6月竣工、7月本格稼働)

 平成12(2000)年4月、清掃事務の移管を伴う都区制度改革が実現し、東京23区は住民に身近な基礎的自治体としての第一歩を踏み出した。それは長年にわたる自治権拡充の悲願を達成すると同時に、それぞれの区が自立した自治体として、それまでの23区横並びから自己責任・自己決定の原則に基づく政策展開が求められる時代の幕開けをも意味していた。
 本項では都区制度改革の実現に至る経緯を振り返るとともに、その後に残された都区間の課題に対し、どのような取り組みが展開されていったかをたどる。

制度改革の都区合意に至るまで

 特別区は戦後間もない昭和22(1947)年5月、日本国憲法と同時に施行された地方自治法(以下「自治法」)に「都の区は、これを特別区という」と規定されたことにより制度化された。同法において、住民に身近な事務を担う基礎的自治体としての市町村と広域的な事務を担う都道府県が普通地方公共団体に位置づけられているのに対し、特別区は一般の市町村とは異なる特別地方公共団体に位置づけられ、憲法に掲げられた「地方公共団体」の枠外に置かれていた。それでも自治法施行当初は区長公選など市町村に準じる規定が特別区にも適用されていたが、27(1952)年9月施行の改正自治法により区長公選制は廃止され、特別区は都の内部的団体に位置づけられた。以後、この区長公選制の復活が特別区における自治権拡充運動の主目標となったのである(※1)。
 またこの27年(1952)の制度改正により、本来市町村が担うべき事務の多くは原則として都が処理することとされ、区の事務権限は著しく制約された。だがその後、急速な都市化により都の事務量が肥大化していくのに伴い、昭和40(1965)年に福祉事務所及び生活保護事務等が区に移管され、都区間の事務分担の見直しが行われるようになっていった。
 このような動きに加え、昭和40年代に展開された区長公選を求める住民運動の高まりを受け、50(1975)年4月施行の改正自治法により区長公選制が復活されるとともに、保健所事務をはじめ市町村が担う事務の多くが区に移管され、それまでの都採用職員を区に配置する都配属職員制度も廃止され、区による職員採用が可能になった。しかし、20年余にわたる自治権拡充運動により区長公選制の復活を果たしたものの、依然として法制度上は特別地方公共団体に据え置かれ、都知事による区長委任事務や廃置分合・境界変更の発案権など特別区のみに適用される特例的な措置は解消されず、都の内部的団体としての性格は残されたままだった。特に都区財政調整制度の下で、毎年度特別区全体の行政経費と収入を算定し不足分を都が配分する、いわゆる垂直調整は経費の算定をめぐって都区間の争いが生じやすく、またその算定額が固まるのが年度途中になることから特別区の財政運営は安定性を欠き、さらに交付金の財源が不足した場合は都が全額補てんする総額補てん主義は都への依存を増す一因となっていた。
 こうした状況は特別区にとってはもとより、肥大化する首都東京の大都市行政に徹すべき都にとっても望ましいものではなかった。そのため都区それぞれが新たな制度構築に向けた検討を重ね、昭和56(1981)年8月、特別区長会の諮問機関である特別区政調査会から特別区を市に改めた上で一般の市とは異なった行政上の特例を設ける「『特例』市の構想」が提言された。一方、都においても59(1984)年6月、都知事の諮問機関である都制度調査会から「新しい都制度のあり方」についての答申が出された。前者は特別区を市と同等の「特例」市に位置づけようとするものであり、後者は新たな大都市制度の創設を目指すものであって、財源配分の考え方などに違いはあるものの、特別区を自治法上の普通地方公共団体に位置づけることや、本来市が担うべき事務を可能な限り区に移管していこうとの方向で多くの共通点が見られた(※2)。
 そこでこれら2つの答申を基に今後の都区制度の方向性を探るため、59(1984)年8月、都区協議会の下に都区それぞれの代表で構成される「都区制度検討委員会」が設置され、1年半の検討を経て61(1986)年2月、「都区制度改革の基本的方向」について都区間の合意(以下「61年合意」)がなされたのである(※3)。
 この61年合意で「基本的方向」として示されたのは以下の3項目である。
  • 1.特別区の内部団体的性格を改め、大都市区域における基礎的自治体とし、普通地方公共団体とすること
  • 2.特別区が地域の特性に適合した施策を積極的に進めることができるように、都と特別区の役割分担を明確にし、特に区民の皆さんに身近な事務については特別区の事務機能を一層拡充するとともに、財政自主権を強化すること
  • 3.都が府県機能を拡充するとともに、広域的な大都市行政を積極的に推進できるようにすること
 これにより以後、都区制度改革のテーマは特別区の「基本的性格の改革」「事務権能の拡充」「財政自主権の強化」の3つを柱とし、それらを一体的に実現していくことになった。そしてこの61年合意の中で挙げられた都から区に移管する事務は、特定街区の都市計画決定などまちづくりに関する事務や一般廃棄物の収集・運搬などの一般市の事務4、保健所設置市の事務5、政令指定都市の事務13、その他2の計24項目に及んだ。また税財政制度についても、従来の都区財政調整制度による垂直調整を廃止し、それぞれの役割分担に応じて明確かつ安定的な財源配分を行う方式に改めていくとの方向性が確認された。

制度改革の実現、移管後の清掃事業

 この61年合意の内容に基づいて制度改革を具体化していくためには、自治法の改正が必要であった。そこで都区それぞれが法改正の検討を国に要請するとともに、昭和61(1986)年11月、改革実現に向けた機運を醸成するため23区共同の「特別区制度の改革をめざす1万人の集い」が開催された。また同年10月からは区民による特別区の自治権拡充を求める署名運動が展開され、翌年2月までの5か月間にその署名数は134万人に達した。豊島区においても61(1986)年10月に「特別区制度改革実現豊島区大会」が開催されたのを機に、町会連合会を中心とする署名運動が開始され、62(1987)年1月16日には6万人を超える署名と町会連合会長名による「特別区制度の改革を求める要望書」が自治大臣に提出された(昭和62年1月20日付『豊島新聞』)。
 こうした動きを受け、昭和62(1987)年6月、国の第21次地方制度調査会の審議項目の一つに「都区制度等のあり方について基本的な検討」を加えることが決定された。その審議は第22次地方制度調査会に引き継がれ、そして平成2(1990)年9月、「都区制度の改革に関する答申」(以下「地制調答申」)が提出されたのである(※4)。
 この地制調答申では、特別区の基本的性格について「住民に最も身近な地方公共団体であるという意味において、特別区は、都の特別区の存する区域における基礎的な地方公共団体である」として61年合意で確認された前段部分を認めつつも、後段にあたる自治法上の普通地方公共団体に位置づけるとしてことに関しては「このような改革の後においても、大都市の一体性確保の見地から、権能、税財政などの面において、一般の市とは異なっているので、なお特別地方公共団体である」との考えが示された。また財政自主権の強化についても、新たな制度のもとで都区間の財源配分をより適切に行う必要性を示しながらも、23区相互間の行政水準の均衡化を図る必要があるため、都区間の財政調整制度は残さざるを得ないとされた。
 一方、都から特別区への事務権限の移譲については61年合意の内容にほぼ沿ったものであったが、一般廃棄物の収集・運搬に関して「住民の理解と協力、関係者間における速やかな意見の一致が望まれる」との意見が付された。さらに改革の実施にあたっては「特別区の処理する事務の範囲の拡充、都区財政調整制度をはじめとする特別区に関する特例措置の見直し、特別区の性格付けなどの措置は、相互に関連し、不可分となっているので、今回の都区制度の改革は、一般廃棄物の収集・運搬に関する事務の移譲も含めて、一括して実施すべきである」との考え方が示され、以後、一般廃棄物の収集・運搬すなわち清掃事業の移管が制度改革の必須条件になったのである。
 こうした地制調答申の考え方には、61年合意を最大限に尊重しつつも現状に則して法制度上の整合性を維持する姿勢が見られ、特別区にとって100パーセント満足のいくものではなかったと思われるが、それでも都の内部的団体の位置づけを解消する突破口になるものと言えた。そこでこの答申後間もなく、都区それぞれに制度改革を推進する組織(都:都区制度改革推進協議会、特別区:特別区制度改革推進協議会)を立ち上げるとともに、制度改革に関する具体的な都区協議の場として、都区協議会の下に都区制度改革推進委員会が設置された。
 しかしその後の度重なる国や都に対する要請にもかかわらず、法制化の動きは鈍かった。このため地制調答申から早2年が経過しようとしていた平成4(1992)年8月、特別区長会及び特別区議長会は改革の早期実現に向けて、①要望活動の強化②PR活動の強化③受入体制の整備を柱とする活動方針及び行動計画を決定し、これに基づき10月1日付けで各区に清掃事務移管準備担当部長及び同担当課長を設置するとともに、同月23日には23区共同による「新しい23区を実現するつどい」を開催した(※5)。こうした矢継ぎ早の取り組みは、まさにこの機を逃しては改革の実現は望めないという危機感の現れであり、それは「活動方針」の冒頭に掲げられた以下の一文からも読み取れる。
 今回の特別区制度の改革は、十数年にわたる特別区の悲願であり、自治権拡充の画期的な前進をもたらすものとして、あらゆる人の理解と協力が得られるものと考えられる。
 しかしながら、平成2年9月の地方制度調査会の答申から既に2年の歳月が経過したにもかかわらず、必ずしも見るべき成果があったということはできない。制度改革は、ここ1、2年が最後のチャンスであり、この時期を逃しては実現は困難にならざるを得ない。
 そこで、区長会・議長会は一致協力して、住民・議会・行政の連携のもとに制度改革の実現に向け、不退転の決意であらゆる活動に強力に取り組むものとする。
特別区制度改革実現豊島区大会

未完の都区制度改革

 この間の平成4(1992)年10月9日、特別区側の推進組織である特別区制度改革推進協議会より「都区制度改革に関する中間のまとめ」(以下「中間のまとめ」)が公表された(※6)。この「中間のまとめ」は地方制度調査会の答申を踏まえ、都区制度改革推進委員会の下に①事務事業(特例措置の見直し及び特別区の性格を含む)、②税財政、③清掃事業の3つのテーマごとに設けられた検討会の中間段階における成果を取りまとめたもので、区民や国、関係団体と協議していくためのたたき台となるものであった。この中で明らかにされた清掃事業の移管範囲は、家庭から出されるごみを中心に収集・運搬までを区が担い、その後の処理・処分は従来通り都が行うという内容であった。だが、かねてより清掃事業を分割移管することに対する都職員団体の反対は根強く、福祉事務所等が移管された昭和40(1965)年の改正時にも一般廃棄物の収集・運搬は区の事務とされたが、「別に法律で定める日までの間は」引き続き都が実施することとされ、実質的に移管が見送られてきた経緯があった。地制調答申に「関係者間における速やかな意見の一致が望まれる」との意見が付されたのもそうした経緯を踏まえてのものであり、答申が出された直後にも、都の清掃職員1万2千人で組織される「東京清掃労働組合」(以下「清掃労組」)から「収集から処分までを一貫して行わなければ、ごみ行政が混乱するだけ」と反対する声が一斉に上がったのである。
 こうした状況では労働組合側からの反発は当然予想されていたと思われるが、「中間のまとめ」が公表されたのと同時に、都は「都区制度改革の推進方針」を策定し、10月14日には「都区制度改革推進本部」(「都区制度改革推進協議会」を改組)を設置した。特別区長会もこれに呼応し、同月23日に共同大会「新しい23区を実現する集い」を開催したのに続き、翌11月16日には「第2次行動計画」を策定するとともに特別区制度改革推進本部(「特別区制度改革推進協議会」を改組)を設置した(※7)。また各区単位でも体制強化を図ることとされ、豊島区においても翌年4月に区長を本部長とする「豊島区制度改革推進本部」が設置されている。そしてその年12月の都議会において、「平成7年4月の制度改正を目途とする」との都知事の決意表明がなされ、法制化に向けた動きは本格化するかに見えた。
 しかし、年が明けて翌5(1993)年2月から開始された東京都職員労働組合(以下「都職労」)と都との労使協議は分割移管を巡って意見が分かれた。またそれらの協議が進められていた最中の4月19日、清掃事業の区移管阻止闘争を展開していた清掃労組が都庁前で総決起集会を開催、110万人の署名をもって分割移管反対の要請を行った。こうした事態を打開するため、都は「中間のまとめ」にとらわれないことを前提にさらに協議を重ね、4月28日、「清掃事業のあり方について」ようやく労使間の共通認識に達したのである(※8)。
 労使協議の中でまとめられたこの「清掃事業のあり方について」は、それまでの61年合意や地制調答申、さらにそれらを踏まえて前年公表された「中間のまとめ」で移管対象をごみの収集・運搬に限定していたのに対し、制度改革により特別区が基礎的自治体となるならば、自区内処理を原則として収集・運搬から処理・処分まで一連の清掃事業のすべてを各区が責任を負うべきとするものであった。だが実際には23区中11区には清掃工場がなく、原則通りに行かないことは明らかだった。このため、清掃事業の一貫性を確保していくことを大前提としつつも、区に移管するにあたっては資源循環型への転換を図り、これまでの収集・運搬・処理・処分という流れにリサイクルを加えた新たなシステムを構築することを目標とし、そのための条件整備に各区が主体的に取り組んでいくとともに、広域的に対応すべき部分については都区が連携・協力して取り組んでいくこととされた。当時、年々増大するごみの排出量に処理・処分が追いつかず、ごみ問題は大都市東京の深刻な社会問題となっていた。そのため清掃事業移管の目標にリサイクルを加えた新たなシステム構築が掲げられたのであるが、平成3(1991)年に区長会として「ごみ減量・リサイクル推進宣言」を行い、その取り組みを進めてきた特別区にとっては、むしろ住民に身近な区だからこそきめ細かなリサイクル行政が可能という主張に重なるものと言えた。
 また都は可燃ごみの焼却能力を高めるため、平成3(1991)年に清掃工場建設計画を策定し、豊島区も含め10か所に清掃工場を建設する計画を進めていたが、いわゆる「迷惑施設」と言われる清掃工場を建設するには、建設予定地の地元調整をはじめ整備完了までには相当の年月が見込まれた。こうした現状やこれまでの経緯を踏まえ、自区内処理の原則についてもその範囲や都区の役割分担など、具体的なあり方についてはさらに検討が必要であるとされた。そしてこの共通認識を基に、引き続き労使間で具体論の検討に入り、その他の事務事業の移管や税財政制度の改革のあり方も含め、概ね8月までに最終素案をまとめ、年末までに制度改革の実施案について都区合意を図っていきたいとの方針が示されたのである。
 こうした経緯について都から説明を受けた特別区長会は、労使間で共通認識が持たれたことにひとまず安堵し、さらに労使協議が続けられるという以上、当面はその進捗を見守るしかなかった。だが8月の最終素案が見送られ、それでも年内取りまとめの目標は堅持したいとしていた都からの新たな提案はその後もなかった。
 このため特別区長会は10月8日、都からの提案を待つまでもなく、特別区における「清掃事業のあり方」を自らが検討していく必要があるとし、「待ち」から「攻め」の姿勢に転ずる第3次行動計画を策定した(※9)。この計画に先立ち、清掃事業の移管受入れ準備の一環として清掃工場の現況調査や23区共同による清掃施設の視察が既に実施されていたが、さらに近い将来、区が清掃事業全般の運営主体となることを想定し、清掃事業の現状把握と特別区における清掃事業のあり方を構築することが計画の柱に据えられた。そしてこの計画に基づき、各区の推進本部の下に清掃事務移管担当及びリサイクル事業担当等で構成するプロジェクトチームが設置され、自区内の清掃施設の実態調査や移管後に必要となる施設整備等についての検討が開始された。またこれとは別に、特別区制度改革推進委員会清掃小委員会の下に資源循環部会と自区内処理部会が新たに設置され、ごみの発生抑制や資源化を推進するシステム構築の手法、中間処理施設及び最終処分場の整備・運営のあり方などの検討が進められた。さらに清掃事業のノウハウを習得するため、職員の都清掃局への派遣研修(各区1名以上)や23区共同及び各区単位での清掃事業研修が次年度から実施されることとなった。
 こうして清掃事業の区移管が都区制度改革の中心課題となっていくなかで、改革の実現に向けて気運を高めていくためのPR活動の面でも「清掃問題」が中心テーマに据えられた。豊島区においても平成5(1993)年11日5日、豊島区・豊島区議会共催による「新しい豊島区をめざす区民のつどい」が開催され、「ごみ減量とリサイクル」をテーマとする基調講演が行われている(※10)。その当時開催された23区共同大会や制度改革のPR パンフレットなどはいずれも「清掃問題」を前面に押し出したものとなっており、区民の関心の高いごみ問題を切り口に制度改革の必要性を訴えるものであったが、あたかも「都区制度改革=清掃事務移管」の様相を呈し、地制調答申に「今回の都区制度の改革は、一般廃棄物の収集・運搬に関する事務の移譲も含めて、一括して実施すべき」として示された課題が都区制度改革そのものを飲み込んでいったようにも見受けられる。
 そしてその年も押し迫った12月16日、定例区長会の席で都から進捗状況が報告された。それは清掃労組との協議が難航しているため、平成7(1995)年4月の制度改革実施は遅らせざるを得ないという衝撃的な内容だった。事実上の先送りで、特別区の長年の悲願であった制度改革の実現は大幅に遅れる見込みとなったのである。この突然の方針変更に、区長らから「都はやる気があるのか」など怒りの声が噴出し、また12月都議会で都知事自らが「7年4月実現」とこれまで同様の答弁を繰り返していただけに、都知事の責任を追及する声まであがった。
 この報告を受け急遽、22日に区長会会長ら代表者が都知事に面会し、緊急要請を行った。その要請書の趣旨は、早急に関係者との調整を進め、特別区との協議を開始すること、また制度実現に至る具体的な道筋を明確に示すことを求めるものであった(※11)。そして「今回の制度改革の最大の目的は特別区を基礎的自治体として位置づけることであり、清掃事業の一貫性の名のもとに処理・処分との同時移管を理由として、今回の制度改革そのものを遅らせることは、断じて許されない」とし、さらに「平成7年4月の制度改革実現は、都知事はもとより、私ども特別区長一人ひとりにとっても、住民や議会に対する公約であり、政治責任を負うべき最重要課題である」として都知事に決断を迫った。これに対して都知事は「その時期までに法改正の道筋をつけたい」と述べるにとどまったが、それは知事公約である「7年4月実現」をそれまでの「実施」という意味合いから「関係法律の改正」に後退させることであり、公約の実現が困難であることを初めて公の場で認めることになったのである。
 その翌日の23日から年末年始にかけ、特別区長会と特別区議会議長会の連名による制度改革推進PRチラシが全区で各戸配布された(※12)。これは前年10月に策定された第3次行動計画によるPR活動の一環として実施されたもので、豊島区でも12月23日に新聞折り込みにより区内各戸に配布された。「区民の皆様へ」で始まるこのチラシには、「都と区は、清掃事業の区移管をはじめとする『特別区制度改革』を平成7年4月に実現するよう、運動を進めています。この改革の実現は、東京における地方分権であり、都・区に課せられた責務であると鈴木都知事は都議会で発言されています」と記されているが、既にその前日に7(1995)年4月実現の可能性はほぼ潰えていたことになる。
 そして年が改まった平成6(1994)年1月18日、特別区長会の緊急要請に対する回答が都から提示された(※13)。その内容は、①平成7年4月までに法改正を行いたい、そのために夏頃までに都区で最終素案をまとめ、年内に法改正を国に要請する、②清掃事業の一貫性を確保するためごみの収集・運搬だけでなく少なくとも中間処理までを移管範囲とし、清掃工場を区に移管するというもので、さらに清掃工場を持たない11区から出る可燃ごみをいずれかの清掃工場で焼却処理する条件整備が必要であり、移管時期は遅らせざるを得ないと説明された。
 清掃工場の移管という新たな提案を受け、特別区長会及び特別区議会議長会は同日、①遺憾ではあるが情勢の変化は受け入れる、②都に対して法改正の確実な実現を求める、③都の条件整備の早期実現を求め、区もこれに協力する旨を決議し、都知事・都議会議長に対して要望書を提出した。そして翌週の26日に共同大会「『新しい23区』実現大会-やります!清掃事業は私たちの手で-」を開催し、その大会決議で制度改革実現に向けた決意を改めて示したのである(※14)。
 一方、引き続き協議を重ねていた都と都職労は2月18日、「清掃事業の具体的なあり方について」を合意した(※15)。これは前年4月に労使間で確認された共通認識をより具体化したものであり、①資源循環型清掃事業に転換する、②収集・運搬・中間処理までは各区が責任を負う、③区が清掃事業を行う場合も一貫性の確保を前提とする、さらに④として移管時期が挙げられているが、これについては「可燃ごみの全焼却等の一定条件が整い次第区に移管。過渡的には区間の処理協定やブロックでの域内処理」とする都の意見と、「全区に清掃工場等ができるまでは都が清掃事業を行う」とする労組側の意見が両論併記されたものだった。そして3月3日、前年4月に共通認識としてまとめられた「清掃事業のあり方について」と今回取りまとめられた「清掃事業の具体的なあり方について」を一本化し、改めて「清掃事業のあり方について」として正式合意に至ったのである。だが、その10日後の3月13日、清掃労組による分割移管反対1万人総決起集会が再び開催され、労使合意はなおも先行きに不安を残すものとなった。
 この間に第3次行動計画に基づいて設置された各部会による検討も取りまとめ段階を迎え、4月15日、特別区制度改革推進本部に「『特別区における清掃事業』の基本的あり方」が報告され、区長会はこれを了承した(※16)。この報告書は清掃事業全般にわたる特別区独自の基本的な考え方をまとめたもので、清掃事業の移管範囲をめぐる都区間の調整に向けて、特別区側の原点となる「あるべき姿」を示したものであった。その「あるべき姿」には「資源循環型清掃事業への転換」とともに「自区内処理の実現」が掲げられ、なかでも中間処理施設(清掃工場)については施設の偏在や未だ建設計画すらない区もあるものの、基礎的自治体として自区内の清掃工場・リサイクル関連施設の確保にあらゆる努力を傾注するとともに、最終処分についても将来一定の責任を果たしていくべきとの考えが示された。さらに清掃事務移管までに準備すべき短期的な取り組みとは別に、「あるべき姿」に至るための中長期的な計画を各区が策定する必要性が挙げられた。この報告書が示したものは、収集・運搬だけでなく処理・処分までを含め、基礎的自治体として清掃事業に向き合う特別区の覚悟であり、煮え切らない都の労使間協議に楔を刺すものになったと言えるだろう。
 こうした特別区側の動きに応え、翌5月24日、都は区長会及び労働組合に対し「特別区における清掃事業の実施案」を提示した(※17)。この実施案は基本的な考えに特別区案を踏襲した「資源循環型清掃事業への転換」と「自区内処理の実現」を掲げ、移管範囲は収集から最終処分までのすべての事務とし、移管時期は①都が新たに整備する新海面処分場の供用開始、②各区の直営車の車庫整備、③地域処理を図れる程度の可燃ごみ全量焼却体制の3つを判断要素に8月に都区最終素案で確定するというものであった。また自区内処理を原則にしつつ具体的な運営形態として、収集・運搬は各区、清掃工場等は所在区に移管、可燃ごみの焼却は地域処理方式(清掃工場のない区は隣接区等と協定を結び処理委託)、分別・粗大ごみは当面23区共同処理(清掃一部事務組合)、最終処分は都が設置する処分場を使用し各区が経費負担するなど実態に則した案が示された。そして区間・都区間の円滑な運営を図るための協議会を設置すること、また清掃事業の財源は新しい財政調整制度の枠組み内で対応していくとされた。
 6月16日、特別区制度改革推進本部は清掃事業の移管に伴う財源や経費負担等、明確に示されていない部分については今後も検討を要するとしつつ、この実施案を大筋で了承することを決定した。そして同月28日に開催された特別区長会と特別区議会議長会の合同会議において、都の実施案を基本的に了承することを決定し、その旨を都知事に回答するとともに、都知事並びに都議会議長に対し、特別区にとって最大の目標である「基礎的自治体としての法的位置づけ」の確実な実現を改めて要請した(※18)。
 この都への回答後、移管に向けて特別区の積極的な姿勢を示すため、各区広報特集号の発行をはじめ、ポスターや電車等中吊り広告の掲出、チラシの全戸配布、街頭キャンペーン等、23区が歩調を合わせた様々なPR活動が展開された(※19)。そうした中で、7月に掲出した電車の中吊り広告に記された「いよいよ清掃事業が区の仕事となるというお知らせです」という文面に対し、労働組合側から「事実に反する」と抗議がなされた。3月に労使合意が整ったとは言え、移管時期については依然として労使間で意見が分かれており、誤解を招く表現を謝罪する一文を付した「『清掃事業の区移管』の現状について改めてお知らせします!」とのチラシが急遽作成され、8月31日、日刊6大紙に折り込まれた。これは特別区側の「勇み足」ではあったが、それだけに制度改革の実現に向けた特別区の切なる思いが窺える。

地方制度調査会答申

 懸案の清掃事務移管に関する実施案が固まったことにより、並行して検討していた他の事務事業の移管や税財政制度改革も併せ、制度改革の全体像を示す最終素案づくりは急ピッチで進められた(※20)。
 平成6(1994)年7月、「中間のまとめ」を起点とし、2年間にわたり都と調整を図りながら検討を重ねてきた成果が「特別区制度改革最終素案の区側原案」として取りまとめられた(※21)。これに続いて翌8月19日、法改正を国に求めるための「都区制度改革に関する最終素案」が都から提案された(※22)。
 しかしこの都の最終素案は、清掃事務移管を含めた改革の主要部分の実施を6年後の平成12(2000)年4月とするほか、これまでの検討の中で法改正により区の業務とする「移管事務」としていた政令指定都市事務のすべてを、都の業務のまま区への「委任事務」に変更するなど、区側原案から大幅に後退した内容になっていた。また、紆余曲折を経て昨年6月にようやくまとまった清掃事業についても実施案により特別区がすべての清掃事業の責任を負うとしたにもかかわらず、清掃業務に従事する職員について一定期間は都の職員の身分のまま区に派遣するという、特別区の自主性・自律性を損なう提案が含まれていた。さらに特別区が再三にわたって要望してきた基礎的自治体の位置づけも、自治法上に明文化する部分が削除されており、特別区にとって到底受け入れがたい内容だった(※23)。
 都側の説明では、法制化に向けて国(自治省)と事前折衝をする過程で、法案として出す以上は国会審議に耐えうる理論的根拠が必要であり、特に政令指定都市の事務については、23次の地制調答申により法制化された「中核市」に下りる政令指定都市事務が限られたものになっている以上、区の再編を含め特別区が中核市並みの条件を備えなければ政令指定都市の事務を特別区の事務とすることは説明がつかないとされ、自治省からはこのままでは素案すら受け取れないと言われたこともあって、都としてもやむを得ない選択だったと区側の理解を求めた(※24)。
 また8月31日に設けられた区長会代表と都知事の会見の席で、区長らは基礎的自治体としての法的位置づけや清掃職員の身分の取扱い、さらに平成7(1995)年4月の法改正を明言されてきた中でなぜ実施が平成12(2000)年になるのかなどについて都知事の真意を問いただした。これに対し都知事からは法的位置づけや7(1995)年法改正をめざす気持ちに変わりはない、だが収集・運搬から処理・処分まで一括して移管するためには車庫や清掃工場を整備して全量焼却が確保できるまで移管を先延ばしせざるを得ない、それが概ね5年後になる見込みであること、また7(1995)年に法律を改正する際に清掃事業移管の12(2000)年施行をきちんと定めていくことについては自治大臣に直接会って話をつけたい旨の発言がなされた。これに応え、区長会長は自治法上、特別区を基礎的自治体に明確に位置づけることが都区制度改革の核心であり特別区の悲願である、これまで築いてきた都区の協調と信頼の絆が水泡に帰すことのないよう、改めて都知事の尽力を願い、9月9日に正式回答を出す旨を伝えた(※25)。なお、この会見で都知事が約した自治大臣との面会は10月19日に実施され、都知事より次期通常国会での自治法改正が要請された。
 この都の最終素案については、議長会からも「基礎的自治体としての法制化が外されたことは制度改革に向けて住民とともに進めてきた運動を無にすることになる」「これでは清掃事業の処理・処分まで特別区の事務とされる意味がない」などとに反発する意見があがっていた。また労働組合側からも、清掃事業をはじめとする事務事業の移管と「基礎的自治体」としての法制化はセットで実施されるべきであり、法制化・事務移管・都区財政制度の見直しの3点が同時に実施されなければ再検討を求めるとの方針が示され、特別区に対しても「特別区における清掃事業の実施案」に掲げられた「資源循環型清掃事業への転換」と「自区内処理の実現」を具体化するための「行動計画」の策定が求められた(※26)。
 それまでにも制度改革の実現が危ぶまれた局面は幾度もあったが、最終段階に至ってまさに最大の「正念場」に直面し、特別区長会は厳しい決断を迫られることになった。都の最終素案は昭和61(1986)年の都区合意、さらに平成4(1992)年の「中間のまとめ」からも著しく後退した印象を拭いきれないものではあったが、特別区を法制度上の基礎的自治体として明確に位置づけることこそが今回の改革の本質であり、昭和27(1952)年以来40年以上に及ぶ悲願を達成するこれが最後の機会ととらえ、約束の9月9日、特別区の基礎的自治体法制化を求める要請書を付し、区長会・議長会として都側提案を受け入れる旨を回答したのである(※27)。
 その後もギリギリまで調整が重ねられ、9月13日、最終素案に若干の修正が加えられた「都区制度改革に関するまとめ(協議案)」が都区間で正式合意された(※28)。これを受けて特別区長会は9月20日、基礎的自治体の法制化と平成7(1995)年4月の法改正を確実にするため、「都区制度改革に関する当面の活動方針」を作成し、国等関係者への働きかけを強力に進めていった。豊島区議会においても「特別区を『基礎的な地方公共団体』とするよう法改正を求める意見書」が同月22日可決され、自治大臣・内閣法制局長官・都知事に提出された(※29)。
 さらに翌10月には都区制度改革推進委員会清掃事業検討会により「清掃事業の特別区への移管に向けた具体的行動計画」がまとめられ、同月31日、特別区制度改革推進本部はこれを了承した(※30)。この行動計画は、先に特別区が独自にまとめた「『特別区における清掃事業』の基本的あり方」の中で示した「あるべき姿」を実現するため、各特別区が自区内で発生する一般廃棄物の処理について過渡的・経過的及び将来的にどのように責任を果たしていくかの道筋を明らかにするものであり、23区全体での取り組みとともに各区別の具体的行動計画が挙げられている。これはまた、労働組合側からも策定が求められていたものであった。
 12月15日、懸案だった労使協議もようやく合意に達し、清掃事業の平成12(2000)年4月移管、移管に向けた条件整備の達成状況を確認するための労使協議の場を設けることなど6項目について確認する「清掃事業の特別区への移管に関わる覚書」が都と清掃労組間で交わされた(※31)。
 そしてこの覚書と先に都区間で合意された「都区制度改革に関するまとめ(協議案)」をもって12月21日、都知事と特別区長会長が自治大臣に面会し、法改正を直接要請するに至ったのである(※32)。
 以上述べてきたように、この平成6(1994)年は清掃事業の移管をめぐる都区間、労使間の調整、さらに法制化に向けた国(自治省)との調整などが目まぐるしく繰り広げられた激動の1年であった。そして時を同じくして、豊島区では清掃工場の建設という、もう一つの難事業が山場を迎えていたのである。

※20 事務事業移管・税財政制度改革検討概要(H060708特別区制調査特別委員会資料)

※21 特別区制度改革最終素案の区側原案(H060727特別区制調査特別委員会資料)

※22 都区制度改革に関する最終素案(H060824特別区制調査特別委員会資料)
都区制度改革に関する最終素案の概要(H060824特別区制調査特別委員会資料)

※23 「区側原案」と「最終素案都案」との比較(H060912特別区制調査特別委員会資料)
中間のまとめと『最終素案都案』との比較表(H060824特別区制調査特別委員会資料)

※24 特別区区長会における都区制度改革・最終素案局長説明(H060912特別区制調査特別委員会資料)

※25 拡大役員区長による知事会見の概要(H060912特別区制調査特別委員会資料)

※26 臨時議長会における意見等について(H060912特別区制調査特別委員会資料)
「都区制度改革に関する最終素案」に対する対処方針【都職労】(H060912特別区制調査特別委員会資料)

※27 「都区制度改革に関する最終素案」に対する回答について(H060912特別区制調査特別委員会資料)

※28 都区制度改革に関するまとめ(協議案)(H061025特別区制調査特別委員会資料)
「都区制度改革に関するまとめ(協議案)」の概要(H061025特別区制調査特別委員会資料)
最終素案都案の修正点について(H060920特別区制調査特別委員会資料)

※29 都区制度改革に関する当面の活動方針(案)(H060920特別区制調査特別委員会資料)
特別区を「基礎的な地方公共団体」とするよう法改正を求める意見書(H060920特別区制調査特別委員会資料)

※30 清掃事業の特別区への移管に向けた具体的行動計画(H061110特別区制調査特別委員会資料)

※31 清掃事業の特別区への移管に関わる覚書

※32 都知事と特別区長会長の自治大臣要請について(H070118特別区制調査特別委員会資料)

清掃事務移管問題

 平成6(1994)年当時、同年度に新たに整備された有明清掃工場をはじめ建替え中のものも含め23区内には16の清掃工場が稼働していたが、そのほとんどは都心から離れた外縁部に位置し、自区内に清掃工場がない区は豊島区を含め、11区に及んでいた。年々増大するごみの排出量に処理・処分が追いつかず、都内の清掃工場で処理しきれない可燃ごみはそのまま埋立地に廃棄されていたが、その埋立地にも限界がきており、ごみの減量・資源化はもとより、可燃ごみの焼却能力を向上させるための清掃工場の増設が喫緊の課題となっていた。
 だが、ごみ焼却の排煙による大気汚染問題や周辺地域の地価下落への懸念などにより、清掃工場はいわゆる「迷惑施設」とされ、その建設には周辺住民からの反対運動が付きものになっていた。一方、昭和40年代に生じた杉並区の清掃工場建設反対運動に起因する「ごみ戦争」を契機に「自区内処理の原則」が謳われるようになり、また平成2(1990)年の地制調答申で清掃事業の移管が都区制度改革の必須条件とされたことにより、清掃工場を持たない区もその責任を改めて問われるようになっていたのである。
 豊島区でも自区内清掃工場の建設は区政の重要課題のひとつになっていたが、区域のほぼ全域が市街地化され、まとまった遊休地が乏しい現状では建設予定地の確保さえ困難に思われた。そうしたなか、平成3(1991)年9月19日、区は上池袋2丁目の池袋スケートセンター用地約8,000㎡をその候補地として清掃工場を誘致することを発表した(※33)。7月下旬にこの用地の所有者である西武鉄道に加藤区長自ら打診し、その後、西武鉄道首脳部と区長、都清掃局長による三者協議を重ねた結果、西武鉄道から清掃工場の建設計画を了解する旨の回答が得られたことにより、この日の区議会正副幹事長会で明らかにされたものである。これを受けて都は改めて区に協力を要請するとともに、西武鉄道に用地の取得を正式に申入れ、焼却日量300トン以上の清掃工場を建設する計画に着手した。
 この用地は東側を川越街道(国道254号線)及び首都高速5号線の3層高架道路、西側をJR埼京線及び東武東上線、南側をJR山手線の鉄道路線に囲まれた一画に位置し、北側には特別養護老人ホームや健康診査センター等7施設からなる福祉保健総合施設整備予定地として前年3月に国鉄清算事業団から取得した区有地が隣接していた(※34)。この区画内には区道や他の民有地も含まれていたが、住宅地に直接面していないことから周辺環境への影響は比較的少ないものと期待された。また西武鉄道所有地には冬は池袋スケートセンターとして、夏は池袋マンモスプールに名前を変えて昭和35(1960)年からレジャー施設が営業されていたが、西武鉄道側からは当時の堤義明オーナーの意向として代替用地は要求しない、ただし現在の施設移転については2年程度必要との旨が伝えられた。清掃工場の建設工事には地元調整や環境アセスメントの手続き等で少なくとも着工までに3年は要することから、都にとっても区にとっても願ってもない申し出だった。
 9月26日に開会された平成3(1991)年区議会第3回定例会の招集あいさつでもこの件に触れ、建設の時期や工場の規模等について東京都と協議を進め、日常生活に不可欠な基幹的施設として検討を深めていく決意を述べるとともに、すでに設計段階に入っていた複合福祉施設整備予定地の活用方法について見直す方針を明らかにした。
 この定例会での各会派による一般質問は清掃工場建設計画に関することに集中し、工場からの排煙等による公害問題や1日の通行量が300台にのぼると想定される清掃車による交通渋滞など周辺区民の不安を代弁する質問が続いたが、自区内処理の原則からして豊島区だけが避けては通れないと、建設計画そのものに反対する声は特段あがらなかった。そしてこうした質問に対して区長は、「周辺地域の環境問題も含め地域区民の合意形成が第一」であり、地元説明会を積極的に実施するなど地域区民の理解と協力が得られるよう最大限努力していくと答弁したのである。
 だがこの区長答弁とは裏腹に、事前に何ら説明もなく建設計画が発表されたことに地元の池袋東一町会から憤りの声があがった。もともとこの地域は高速5号線や川越街道の通行車両による排気ガスや騒音に悩まされており、それに加えて1日300台もの清掃車が出入りするとなればさらなる環境被害が懸念されたのである。このため9月30日、同町会は急遽役員会を開き、全員一致で建設計画に反対し闘うことを決議、その場で「反対運動実行委員会」が立ち上げられた。
 そして翌11月の区議会第4回定例会に、同町会から「清掃工場建設反対についての陳情」(町会長外252名)が出されると同時に、町会連合会からは「豊島区内における都清掃工場建設計画の促進に関する請願」(連合会長外19名)が出され、単位町会と町会連合会の双方から正反対の要望が出されるという異例の事態に至ったのである。これまでも述べてきたように、町会連合会は都区制度改革の実現に向けて住民運動を主導してきた立場にあって清掃工場の自区内建設にも前向きであったが、地元町会が反対の声をあげていることも承知していたため、「都の一方的な計画に迎合することなく地元住民の意向を尊重しつつ」としながらも、「地域発展のための施設となるよう、一日も早い施設建設」を求めるものであった。この陳情及び請願を審査した区民建設委員会はその取扱いに苦慮することになったが、この間に豊島区で排出される可燃ごみ量が1日350トンを超えているのに対し300トンの焼却能力では不足するため400トンに変更したい、そのために隣接民有地の買収や区有地の譲渡も含め1万㎡を確保したいとする都からの協力要請などもあって、その後も引き続き検討が必要であるとし、いずれも「継続審査」の取扱いとされた。
 一方、都は10月29日、豊島地区清掃工場を含め平成22(2010)年度までに10の清掃工場を新たに整備する「清掃工場建設計画」を発表した(※35)。この計画は清掃工場を都市生活に不可欠な基幹的施設に位置づけ、その建設にあたっては「自区内処理の原則」に基づいて清掃工場未設置区を中心に推進していくとするものであった。また必ずしも地域住民に歓迎される施設ではなかった清掃工場の今後のあり方について、周辺環境との調和に配慮した建物景観や余熱利用による「ローカルエネルギーセンター」として、また各種施設との合築による地域コミュニティセンターとして地域に密着した施設を整備していく方向を示すとともに、特に土地の高度利用が求められている地域においては地下式清掃工場についても検討していくとしていた。
 こうして波乱含みのなか、豊島地区清掃工場建設計画はスタートし、翌4(1992)年4月、区は建設予定地が池袋駅に近接する副都心の中心に位置していることから地下式にする可能性も含め、清掃工場が地域に受け入れられ易い施設となるよう都に要望書を提出、6月には都区協議の場として「豊島地区清掃工場に係る都区連絡協議会」(以下「都区連絡協議会」)が設置された。
 また区はこの4(1992)年度に、清掃車の搬出入路や区有地に計画していた福祉保健総合複合施設と清掃工場との併設の可能性などについて区独自の視点で基本的な考え方を整理するため、「豊島地区清掃工場に係わる調査」を実施した(※36)。この調査の検討項目の中でも特に清掃車の搬出入路については、交通渋滞や周辺環境への影響を分散するため、複数の搬出入路を確保することが必須課題とされていた。このため同調査においても想定できうる限りのケーススタディがなされているが、高速道路や六ツ又陸橋、さらに鉄道3路線を東西に跨ぐ池袋大橋など、複雑な地形や周辺構造物等の影響により、複数搬入路の確保には様々な困難が伴うことが想定された。
 こうした課題が表面化してきたことを受け、翌5(1993)年5月、区議会は「交通対策調査特別委員会」の名称を「清掃工場建設問題及び交通対策調査特別委員会」(以下「清掃・交通特別委員会」)に変更し、「清掃工場対策」を新たな調査項目に加えた。そして7月30日に開催された同委員会において、清掃工場の規模を焼却日量400トンに拡大するため、当初計画の西武鉄道所有地8,000㎡に加え、区有地や他の民有地を含め敷地面積を約12,000㎡に変更する建設計画の概要が都担当者から説明された(※37)。またバブル崩壊により地価が下落する中で払下げ額をめぐって難航していた都の用地買収交渉もようやく話がまとまり、翌8月に買収額約347億6千万円で西武鉄道との売買契約が成立し、他の民有地も6(1994)年3月までに取得が完了した。そして4月には平成7(1995)年度着工、10(1998)年度の竣工をめざす「豊島地区清掃工場基本計画案」が取りまとめられるとともに、清掃工場建設事業の円滑な推進を図ることを目的に住民代表(15名)と都区職員(関係部課長各5名)で構成される「豊島地区清掃工場建設協議会」が設置され、清掃工場の建設計画は具体的に動き出すことになったのである(※38)。
 しかしその一方で、区有地部分に整備予定だった特別養護老人ホーム等の代替地問題が浮上した。前年度に区が実施した調査や都区連絡協議会での検討の中でも、高齢者が24時間生活する場となる特別養護老人ホーム及びケアハウスは清掃工場との併設は適さないとされ、その代替地については都区の協議事項とされていた。だが代替地の候補地として検討された物件は、区が独自に交渉したものも含め面積等の条件や売買価額の面でいずれも折り合いがつかなかった。そして10月15日に開かれた清掃・交通特別委員会において、5(1993)年度中に用地取得を完了させたい都から、年度内に代替地が決まらない場合は区有地についても金銭で買い取りたいとの申入れを受け、そうなった場合は区としても当該区有地を都に売却処分する方針であることが報告されたのである。この方針変更を俄には納得しがたい委員らからは、何としても年度内に代替地を探して当初計画通りに進めてほしいとの要望が出された。だがその後も代替地は決まらず、翌6(1994)年1月13日の同委員会において、年度末も迫っていることから都への金銭譲渡手続きに入りたい旨が報告され、1月17日、区議会は「今後とも引続き代替地取得に積極的に取り組まれるよう」強く求める要望書を都知事に提出した(※39)。
 しかし年度内の代替地確保は叶わず、3月23日、区財産価格審議会の了承を経て当該区有地約1,800㎡は約51億6千万円で都に売却された。前述した通り、この区有地は平成2(1990)年3月に約87億2千万円もの巨費を投じて国鉄清算事業団から取得した用地であったが、その後のバブル崩壊に伴う地価の下落により都への売却額は取得価額の40%を超える約35億6千万円もの大幅減となった。一方、この問題が議論されていたのと同時期に都区制度改革の動きにも大きな変化が生じ、都の労使協議の遅れから平成7(1995)年度制度改革実現が実質的に見送られ、6(1994)年1月にはごみ収集運搬だけでなく中間処理・清掃工場も含め区に移管する方針が都から示されていた。このため自区内清掃工場の建設はますます先送りできない課題となり、代替地問題の解決を待たず都への売却を決断し、その売却金を新たに創設する「高齢者福祉施設整備基金」に積立て、特養用地を取得する際の財源に充てることで都との協議をまとめたのである。なおこの代替地については8(1996)3月に国から16億円で払下げを受けた西巣鴨二丁目の大蔵省関東財務局西巣鴨住宅用地4300㎡を充て、11(1999)年に区内初のケアハウスを併設する特別養護老人ホーム「菊かおる園」が開設されている。
 さらにこの代替地の問題に続き、その可能性について都に検討を求めていた「地下式工場」の問題が持ち上がった。平成6(1994)年2月15日、清掃・交通特別委員会に報告された都による検討結果の内容は(※40)、清掃工場を全面地下式とした場合、地下に通じる搬出入路の確保等の技術的な問題に加え、工期が10~12年と通常の地上式の3倍程度かかり、工費も概算で地上式の6~7倍が見込まれること、また当時はまだ地下式工場の建設実績はなかったため、工事中はもとより稼働後も含めた労働安全性の問題や周辺環境に与える影響等、予測できない懸念要素が多々あるというものであった。このため結論として地下式の採用は不可能であるとされ、可能な限り敷地の有効活用や近隣環境への影響を極力少なくする工夫を講じ、通常の地上式で計画を進めていくとの考えが示された。だがちょうど千代田区でも3年前から地下式工場の検討が続けられ、いまだにその結論が出されていないこともあって、「千代田区でできてなぜ豊島区でできないのか」「どうすればできるのかという可能性の話がひとつもない」など、結論ありきの都の説明を追求する意見が噴出し、「時間と金をかければ地下式は可能なのか」という質問に対する回答を求める形で次回委員会に持ち越された。そして3月9日に改めて再開された質疑の中で、全面地下化は不可能との結論に変わりはなかったものの、区から要望が出されている複数の搬出入路確保と還元施設の合築の条件を満たした上でギリギリ可能な案として、清掃工場を約23m、体積にして約40%を地下に潜らせる計画案が示された。それは委員会が求めた問いに対する十分な答えにはなっていなかったが、その後も引き続き都度、都に説明を求めていくとしてこの件に関する質疑はひとまず終了された。

法制化に向けた動き

 こうして平成6(1994)年4月、半地下式の設計案が盛り込まれた「豊島地区清掃工場基本計画」が策定された。その計画の概要は約12,000㎡の敷地に地上5階地下4階の工場棟(延べ床16,800㎡)、清掃工場管理事務室と区施設が合築された地上12階・地下2階の管理棟(同16,600㎡)等を配置するもので、区施設には①スポーツセンタ-(温水プール・トレーニングルーム等)・②生涯学習センター・③健康診査センター・④休日診療所・⑤口腔保健センター・⑥高齢者サービスセンターの6施設の整備が予定されていた。また池袋大橋側に配置された高さ210mの煙突は、高さ240mのサンシャイン60に直撃しないよう、排煙を70m上空に吹き上げる構造となっていた。
 この計画概要は5月25日発行の区広報紙に掲載され、翌6月には都清掃局により「豊島地区清掃工場の建設計画について」と題するリーフレットが区内に全戸配布された(※41)。だがこうした都区連携のPRにも関わらず、近隣住民の反対運動はなおも続き、その動きは地元池袋東一町会から池袋駅東口地区の東池袋一丁目中央町会や東池袋ウイロード商店会、川越街道を挟んだ池袋一丁目西山町会と池袋本町一丁目町会、さらに池袋大橋西口側の池袋トキワ通り商店街振興組合など周辺町会や商店会に広がっていった。
 平成6(1994)年3月、東池袋一丁目中央町会と東池袋ウイロード商店会は清掃工場を地下化し、その上に区庁舎と公会堂を一体的に整備するという「東池袋ユートピアランド計画」を区に提案した。既に地下化はほぼ不可能とされ、また当時、新庁舎・公会堂建設計画も現在地での建替えの方向で基本設計まで進んでいたことから、区はこの提案を受け入れがたいとした。提案が聞き入れられなかった同町会・商店会は翌4月に「豊島ユートピアランド推進委員会」を発足させて建設反対運動に転じ、6月開会の区議会第2回定例会に「豊島区池袋駅北地区(池袋スケートセンター跡地周辺)再開発に関する提案陳情」(豊島ユートピアランド推進委員会事務局長外6名)を改めて提出した。この陳情の趣旨は先の区への提案に加え、ごみを焼却するのではなく粉砕・圧縮して固形燃料化する新たな技術を導入することにより工場規模も整備経費も縮減でき、煙突のない都心部型モデルとなるとし、清掃工場と新庁舎・公会堂の建設計画双方の白紙撤回を求めるものであった。まさに夢のような提案であったが、この陳情を審査した区議会区民建設委員会でも、ごみの固形化はまだ実証段階の技術であり、清掃工場と庁舎の建設は別物であるとの意見が大勢を占め、陳情は不採択とされた(※42)。
 一方、川越街道に面して交通公害が懸念される池袋一丁目西山町会と池袋本町一丁目町会も池袋駅前の清掃工場建設は副都心のイメージに合わないとして「クリーン&フレッシュ協議会」を設立、さらに池袋トキワ通り商店街振興組合も街路灯に「池袋駅隣接・ゴミ処理工場反対」のフラッグを掲出するなど周辺住民による反対運動が止む気配はなかった。
 こうした中でも清掃工場建設に向けた手続きは進められ、7月21日、都清掃局は「環境影響評価書案」を都市計画環境保全委員会に提出し、環境影響評価(環境アセスメント)の手続きを開始した(※43)。この環境影響評価は大規模な開発事業等を実施する際にあらかじめその影響を予測・評価し、その評価内容を公表して住民や関係自治体の意見を聴くとともに専門的立場から審査し、それらを計画に反映させることで悪影響の発生を未然に防止するための制度である。都の環境影響評価条例に基づき、清掃工場の建設工事中及び稼働後の大気汚染や悪臭、騒音、振動など9項目について評価が行われ、いずれも条例基準値等を下回り、周辺環境へ与える影響は都市計画決定する上で支障ないものと判断された。
 続いて9月14日、都環境保全局により同評価書案が公示され、意見募集が開始されるとともに、豊島区をはじめ影響が想定される周辺4区(北・板橋・文京・新宿)の各区長に意見提出が求められた。この公示前日の13日には12(2000)年4月の清掃事務移管を前提とする都区制度改革最終素案について都区間で正式合意がなされており、それに間に合わせるためにも11(1999)年度竣工スケジュールは遅らせるわけにはいかなくなっていた。また評価書案の公示後、9月16日から27日までの間に関係地域7か所(区内4か所)で説明会が開かれ、11月12日には区立勤労福祉会館で周辺住民等5名を公述人とする公聴会が開催された。これらを通して評価書案に寄せられた意見書は区長提出意見も含め16件に及び、その中には池袋トキワ通り商店街振興組合から提出された計画の白紙撤回を求める意見書も含まれていた。これらの意見に共通するのは周辺環境に与える影響への懸念であったが、とりわけごみ焼却時の排出ガスに含まれるダイオキシン類等の有害物質に関する意見が多かった。評価書案ではダイオキシン類が評価対象に含まれていなかったこともあって周辺住民の不安は大きく、それだけに焼却型工場の建設を積極的に進める都の清掃事業のあり方を糾す意見も寄せられた。10月28日に提出した区長意見の中でも、各評価項目に関する6項目18事項にわたる要望のひとつとして、ダイオキシン類の想定排出濃度の明示と「一層の排出抑制に向けたダイオキシン類対策に最大限の努力」を求めている(※44)。
 そして12月13日、こうした意見に対する都の考え方を示す「見解書」が発表され、翌7(1995)年1月11日から30日まで区内各施設で縦覧に供されるとともに、18日から23日にかけて区内4か所で住民説明会が開催された。この見解書の中ではダイオキシン類の発生抑制に努め、排出ガス中のダイオキシン類濃度は国のガイドラインの期待値を達成できるとしつつも、最終処分場の延命を図る上でも中間処理方式としては衛生的かつ大幅な減量・減容が可能な焼却方式が現状で最も優れているとの考えが示されていた。この見解書に対し2月7日、「ダイオキシン類の対策については、一層の低減に向けた抑制除去技術の開発等に積極的に取り組むとともに、これら測定数値等を含め情報公開を基本とすることにより、住民の信頼を得るよう努められたい」など4項目の個別要望事項を挙げ、「周辺地域の環境保全に最善の努力を払われたい」とする区長意見が改めて提出された(※45)。
 またこうした環境影響評価手続きに並行し、豊島地区清掃工場の建設を都市計画決定する手続きが進められた。7月7日、区の都市計画審議会は評価書案及び見解書に対する区長意見の実現について最善の努力を求める意見を付してこの都市計画案を了承した。これを受けて同月13日、区長も都市計画審議会の要望意見を付して了承する旨を都知事に回答した。そして8月4日に開かれた都の都市計画地方審議会で計画案が了承され、9月4日、豊島地区清掃工場建設計画の都市計画決定が告示された。さらに翌10月に工事説明会が開かれ、11月には既存の基礎を撤去する準備工事が開始されるなど、清掃工場建設事業は11(1999)年度竣工に向けて大きく動き出したのである(※46)。
 しかし、こうした間にも清掃工場建設に反対する住民運動はさらにエスカレートしていった。都の「見解書」が発表された後の2月16日、豊島公会堂において前述した豊島ユートピアランド推進委員会をはじめ、池袋西口開発委員会、豊島21世紀会、池袋ゴミ焼場新設反対連合、えんとつなきクリーンセンター建設東京ネットの各団体主催による「ゴミ焼却型清掃工場建設ストップ総決起大会」が開催され、18世紀のごみ焼却を21世紀にも続ける行政のやり方を転換させようと、「ゴミ固形燃料型」への転換を訴えた(平成7年2月21日付『豊島新聞』)。
 またこの年6月開会の区議会第2回定例会には、清掃工場建設計画に反対する請願・陳情5件が相次いで出された。以下、提出された順に列記する。
  • ① 東京都豊島地区清掃工場新設は「焼却埋立型」でなく「リサイクル型」の施設に関する陳情(豊島21世紀会会長外1名)
  • ② 生ごみのコンポスト化・資源化への陳情(豊島・住民参画を考える会代表外6名)
  • ③ 東京都豊島地区清掃工場についての請願(豊島清掃工場の建設に反対する市民の会代表外221名)
  • ④ 加藤一敏区長の公約である「いのちを守る安全な街づくり」「地球市民としての環境保護」「福祉水準の向上」「中小企業振興」「地域文化の発展」の五つの柱全部に対して直接・間接に違反する東京都豊島区清掃工場の建設であるため、断固反対・白紙撤回を要求する陳情(豊島区ゴミ工場建設反対連合・健康社会の建設連合会長外6名)
  • ⑤ 豊島区民のかけがえのない命と環境保護のため、都市博中止跡地に自治省のゴミ発電システムセンターを建設する決議を要求する陳情(青島都知事にゴミ政策を提案する専門家会議議長外5名)
 これらの請願・陳情は6月27日の区民建設委員会で審議されたが、③の請願は所属会派の意見とは異なる立場の紹介議員によるものであったため、実質的な審議はなされず「継続」の取り扱いとされ、残り4件の陳情も自区内処理の原則に基づく清掃工場建設計画の白紙撤回は認めがたいとして、いずれも不採択とされた。

豊島地区清掃工場建設計画

 それでも反対運動は止むことなく、年が明けた8(1996)年1月16日、「がん、ぜんそく公害を生む池袋ゴミ焼却工場を考える会」及び「豊島区民の健康と環境を守る会」など、清掃工場の建設に反対する周辺住民ら280名は公害紛争処理法に基づく調停を都の公害審査会に申請した。その請求内容は、「1.清掃工場建設の必要性に関する資料の開示・釈明、周辺住民の健康調査の実施及び調査結果の公表、環境影響評価の再実施がなされるまでの間、本件施設の建設を停止すること」「2.周辺地域、近接沿道の大気汚染・騒音・振動の連続測定の実施及び測定結果の公表」「3.本件施設の非焼却型、分散型への転換」を求めるものであった。さらに同月25日には反対住民118人が建設工事の差止めを求める仮処分を東京地裁に申立てたのである(※47)。この仮処分の申し立ては同年7月に取り下げられたが、10月には建設工事差止めを求める訴えが改めて東京地裁に提訴された(原告55人)。
 公害調停は解決を見ないまま2年以上も続き、その間に9件の参加申立、申請の取り下げ、事件の分離がなされ、最終的な申請者人及び参加人は979名にのぼり、請求内容も10(1998)年5月に「1.大気及び土壌中のダイオキシン類濃度測定」「2.血液及び母乳中のダイオキシン類濃度測定」に変更された。
 ダイオキシン類がごみ焼却灰から初めて検出されたのは昭和50年代に遡るが、国がその対策に本格的に乗り出したのは平成に入ってからである。平成8(1996)年に中央環境審議会が有害大気汚染物質に該当する可能性のある234物質の中で22の優先取組物質のひとつにダイオキシン類を選定。これを受け、翌9(1997)年8月に大気汚染防止法施行令が一部改正され、ダイオキシン類は指定物質に加えられた。以後、廃棄物焼却炉に対する排出抑制対策と大気環境モニタリング測定の実施が各自治体に義務づけられることとなったのである。さらにダイオキシン類による環境被害が社会問題化するなか、11(1999)年3月にダイオキシン類対策特別措置法が成立、翌12(2000)年1月に施行された。その動向は清掃工場の建設工事が進められていたのとまさに同時期で、反対運動の焦点が最終段階でダイオキシン類対策に特化していったのも時代背景によるものと考えられる。
 一方、区もそうした動きに呼応し、9(1997)年3月に清掃工場のダイオキンン類対策の強化を求める要望書を東京都へ提出した。これはその年の1月に厚生省の「ごみ処理に係るダイオキシン削減検討会」が新たに建設する工場の排ガス中ダイオキシン類濃度として0.1ng-TEQ/㎥(濃度単位、TEQはダイオキシン類の毒性等量を表す略語、1ngナノグラムは1グラムの10億分の1)という新ガイドラインを示したことに伴い、従来の0.5ng-TEQ/㎥を期待値としていた清掃工場の計画について、さらなる削減努力を求めるものであった。これに対し都は4月2日、新ガイドラインの趣旨に沿って可能な限り対応すると回答し、清掃工場の公害防止基準の自己規制値を0.1ng-TEQ/㎥以下とした(※48)。また同年6月開会の区議会第2回定例会において、工場稼働前からの測定調査の実施を求める「大気、ダイオキシン区内調査についての請願」(西山町会及び周辺地域住民代表外220名)が採択された。これを受けて都清掃局は8月26日・27日の両日、清掃工場建設現場事務所と千登勢橋教育文化センターの区内2か所で測定調査を実施、それぞれ2日間の平均で0.71pg-TEQ/㎥、0.64 pg -TEQ/㎥(1pgピコグラムは1グラムの1兆分の1、1ngナノグラムの1000分の1)という数値が検出され、地点によってさほどの差はなく、都内平均値ともほぼ同レベルであった(※49)。
 平成8(1996)年4月に開始された公害調停は10年9月期日までに20回に及んだが、申請人と被申請人である都(都知事)との意見は平行線をたどり、当事者間の互譲が諮られることは困難と判断した公害審査会は10(1998)年10月5日、国基準を上回る年2回のダイオキシン類調査の実施等が盛り込まれた調停案を示し、双方にその受諾を勧告した(※50)。
 この調停案の内容(要約)は、「1.清掃工場稼働前に焼却炉煙突から半径5km以内の4か所以上で大気中及び土壌中のダイオキシン類濃度測定調査を実施し、調査結果を速やかに公表する」「2.清掃工場稼働後、通常運転中の焼却炉排出ガス中のダイオキシン類濃度を少なくとも6か月に1回定期的に測定し、測定結果を公表する」「3.豊島区が1に適合する測定を実施した場合は被申請人による測定とみなすことができる」「4.被申請人は清掃工場稼働による排出ガスの総量を毎年減少させるよう努力を継続するものとし、将来豊島区に管理を移行した後も、この努力を継続させるよう指導しなければならない」「5.申請人・参考人らは被申請人が清掃工場を建設・稼働開始することに異議を述べない」「6.本調停費用は各自の負担とする」という6項目からなり、11月20日までに受諾しない旨の申出を文書で行わない場合は、調停案による合意が成立したものとみなされた。また、調停に当たった調停委員会は「本件の社会的重要性に鑑み」、調停案を公表するとともに、ダイオキシン類対策に関する委員会の見解を付している。その見解には、「地元住民である申請人ら及び参加人らが健康上の被害が及ぶのではないかとの危倶を感じ、被申請人に対して危倶を払拭する対策を求めるのは、心情として理解できる」としつつ、都がダイオキシン類濃度の基準値を新ガイドラインに沿って0.1ng-TEQ/㎥以下としたことを踏まえ、都の清掃事業施策を遂行する上で豊島清掃工場の建設・稼働が必要性を有することに鑑み、「直ちに被申請人に対してその建設・稼働の中止を求めることは相当ではない」と述べている。それでもなお住民の不安がすべて払拭されたことにはならず、それゆえに国基準を上回る測定調査の実施とダイオキシン類濃度の削減だけでなく、排出ガス総量の削減努力を求めるものであった。
 都はこの調停案を10月5日に受諾、一方の申請人側からは期日までに申出がなされなかったため、11月20日、調停案は事実上の合意が成立し、長きにわたった公害調停は決着に至ったのである。
 この間も建設工事は進捗し、平成8(1996)年3月に本格工事着工、同年9月には「東京都豊島地区清掃工場建設に伴う同工場管理施設と地元還元施設との合築に伴う土地の無償貸付契約」を都区間で締結、10月から建設費108億8千万円にのぼる上池袋二丁目地区複合施設の建設工事が開始された(※51)。翌9(1997)年4月には「清掃工場周辺まちづくり方針及びまちづくり計画」を策定し、池袋東口駅前公園から複合施設を結ぶ「緑のプロムナード」や池袋西口につながる人道橋の整備が進められた(※52)。
 そして平成3(1991)年9月の計画発表から8年の歳月を経て、11(1999)年6月26日、豊島地区清掃工場は正式施設名「豊島清掃工場」に、上池袋二丁目地区複合施設は「豊島区立健康プラザとしま」として落成の日を迎えたのである(※53)。
 豊島清掃工場は日量200トンの焼却能力を有する流動床炉2機を擁し、また川越街道と池袋大橋側の2か所に設けられた搬出入路や敷地外に清掃車を滞留させないための周回路など、都内清掃工場としては初となる工夫が随所に取り入れられた。また還元施設である健康プラザとしまには、工場の余熱を利用した温水プールやトレーニングルームが設けられた「池袋スポーツセンター」、地域区民交流の場となる多目的ホールや会議室等のある「上池袋コミュニティセンター」、MRI(磁気共鳴断層撮影装置)やヘリカルCT(らせん状連続コンピュータ断層撮影装置)等の高度医療検査機器を備えた「豊島健康診査センター」、高齢者在宅サービスセンター「上池袋豊寿園」の4施設が整備された。この複合施設建設工事では入札時に大手ゼネコン間の談合疑惑が持ち上がり、また不況のあおりを食らって下請け業者が倒産して工期が遅れるなど、周辺住民らの反対運動と同様にこちらも山あり谷ありを乗り越えての竣工だったのである。
「健康プラザとしま」(平成11年6月竣工、7月オープン)
落成式典(平成11年6月26日)

清掃工場建設反対運動

 平成6(1994)年12月に特別区を基礎的自治体に位置づけるための法改正を自治大臣に要請した後、翌7(1995)年2月23日、特別区長会と特別区議会議長会は法制化への気運を盛り上げようと、「特別区制度改革実現決起大会」を開催し、「地方自治法など関連する法律の今期通常国会での改正」を求める要請書を各国会議員に送付した(※54)。
 だが都と特別区が求めた自治法等の改正は、通常国会への提案予定法案の中で「検討中の法律案」として登録されるにとどまり、実質的には法案の提出は見送られた。同年5月16日の特別区長会において都側からこの間の経過説明がなされたが、自治省との交渉過程での感触から課題となったと思われたのは以下の4点であった(※55)。
  • (1)6(1994)年9月までに都区及び労使間の合意案の提出が求められていたものが年末にずれ込み、大幅に遅れたことで法案を具体化するための詰めが十分ではない
  • (2)特別区を基礎的自治体として自治法上に規定することについての内閣法制局との調整、清掃事業移管に係る法改正にあたっての厚生省との調整が残されている
  • (3)国において地方分権推進法案の成立が政治課題とされている中で、都区のみに関わる法改正、しかも5年先に施行する法律を他の法案よりも優先して提出することに緊急性は認められない
  • (4)労使合意の内容(前年12月の覚書)は移管にあたっての条件整備を前提としているため、その実現の確実な見通しが求められる
 さらにこれらの課題に加え、7(1995)年1月17日に発生した阪神・淡路大震災や3月に起きた地下鉄サリン事件等、社会を揺るがす災害や事件の発生により関係省庁の対応は極限状態にあり、都も法案提出は困難な状況にあると認めざるを得なかったのである。その結果、制度改革の実現は任期満了により退任する鈴木都知事に替わり、新たに就任する青島都知事に引き継がれていくことになった。新都知事も都議会で施政方針を述べる中で、「今後とも国に対し、法改正を強く働きかけるとともに、事務事業移管に向けての条件整備を着実に進めるなど、法改正のための環境づくりに努め、都区制度改革の早期実現に力を尽くす決意」を表明した。
 都が示した課題のうち(1)~(3)は時間的な制約や法案提出のタイミングに関わるものであったが、清掃事業移管の労使合意で前提とされた「条件整備」、すなわちは①新海面処分場の整備、②清掃車の車庫整備、③可燃ごみ地域全量焼却体制の確立(清掃工場の増設)の3つの条件整備の達成状況については、労働組合側が納得できる形で示す必要があった。このため特別区長会は6月19日、これら条件整備の着実な推進を図っていくことを柱とする「基本的行動方針」を決定し、前年10月に策定した「清掃事業の特別区への移管に向けた具体的行動計画」に基づき、「資源循環型清掃事業への転換」と「自区内処理の原則の実現」に向けた諸計画を各区が責任を持って実施していくこととした(※56)。
 特に清掃車については直営車と雇上車とをほぼ同じ比率で都から各区に配分されることになっていたため、移管の条件をクリアするためには11(1999)年度までに直営車の車庫整備を完了させる必要があった。豊島区は都から既設の清掃事務所・車庫を移管されることになっていたが、車庫のない区は23区中13区に及んでいた。このため車庫整備への財政支援を都に求めてくこととし、都も8月10日の特別区長会で車庫用地取得に係る利子の全額補助と移管後の元利償還については新たな財政調整制度のもとで対応するとの支援策を示した。また11月17日、制度改革の推進にあたり課題の整理や調整等を行うため、国(自治省)・都・特別区の三者による「都区制度改革連絡調整会議」が設置された。これは都区制度改革推進派を自認し、法改正へも積極的に対応していくことを表明していた当時の深谷隆司自治大臣の意向を反映した異例の対応であった。同調整会議は12月20日に2回目の会合が持たれ、区長会を代表して大田区長と議長会会長の台東区議会議長、清掃労組委員長の三者も招かれ、それぞれの立場から意見を述べた。その席上で一日も早い法改正を求める特別区側の声に応え、自治省側は法改正の時期にこそ言及しなかったものの、「都区制度改革をやるという強い意志は変わっていない」ことを明言したのである(※57)。
 そして平成12(2000)年4月の制度改革の実現には10(1998)年の法改正がタイムリミットとされるなか、国・都・区間の調整は進められていった。また特別区においても清掃車庫などの条件整備はもとより、清掃事業を担う市町村に義務づけられている「一般廃棄物処理計画」の策定や「清掃協議会」の設置など、移管に向けて山積する諸課題の検討を精力的に進めていった(※58)。この「清掃協議会」は、今回の移管では23区から排出される可燃ごみを23区内で全量焼却するための地域処理方式や不燃・粗大ごみの清掃一部事務組合による共同処理方式など独自の方式が採られることが想定されていたため、各特別区間の調整を行うために設置するもので、その所掌事務や組織構成等に関する検討が進められた。
 こうして国・都・特別区間で法改正に向けて共通認識が整いつつある一方、あくまでも条件が整わなければ区への移管は認めないとする清掃労組との協議は難航した。平成6(1994)年12月の覚書き締結以降、ほぼ中断状態だった労使協議は、9(1997)年度に入って労使協議の場である清掃区移管問題対策委員会の下に小委員会が設けられ、条件整備の達成状況に関する確認作業が進められた。だが新海面処分場の整備が完了し(6月供用開始)、可燃ごみの全量焼却能力の確保も目処が立ち、残すは清掃車庫の整備のみと思われていた矢先の同年5月、清掃労組側から直営車庫整備・清掃工場建設・新海面処分場供用開始の3条件だけではなく、「資源循環型清掃事業のための施設整備」も重要な判断材料になるとの考え方が示された。「車庫整備が整えばすべてクリアできるとの考えは大きな誤解」であるというのである。
 確かに労使間で交わされた覚書には条件整備の実現を前提とし、引き続きの労使協議の中で「都区制度改革に関するまとめ(協議案)」で示された条件整備等の達成状況を確認していくとされていた。そしてその協議案では「自区内処理の原則」とともに「資源循環型清掃事業への転換」を大きく打ち出し、上記3条件に加え「資源循環型事業の推進のための体制整備」としてリサイクルセンターなど資源化関連施設の整備を挙げていたことも事実である。だがこれまでの都区制度改革連絡調整会議の中でもリサイクル施設についての言及はなく、それが労使協議の確認事項に含まれるとの認識は特別区側にはなかった。何としても10(1998)年法改正に間に合わせようと、車庫のない区の中には用地を確保するためにやむを得ず必要面積の3倍もの用地を買収したり、価格が高くてもこの機会を失すると他にないということでかなり無理をして取得したりするなど、各区が車庫整備に邁進していただけに特別区側の戸惑いは隠せなかった。
 いずれにしても平成10(1998)年の通常国会に改正法案を出すためには、9月20日までに自治省から内閣法務局に文書をだすことが通達で決まっており、遅くとも8月末までには労使合意の確認作業を終えなければならなかった。残された時間が限られていたなか、以後、9(1997)年の夏から年末にかけて、まさに正念場となる調整が繰り広げられていったのである。以下、清掃事業の移管問題を中心に半年間の動きを時系列で追っていく(※59)。
○7月10日都区制度改革等に関する説明会(都主催)(※60)
施設整備の考え方と資源循環型清掃事業への転換について7月中に都案を示すとともに、各区に「資源循環型清掃事業のあり方」について8月20日までに提出が求められる
○7月29日①「施設整備に関する考え方(素案)」及び②「資源循環型清掃事業の転換に向けた施策(素案)」を都庁職員労働組合(以下「都庁職」)に提示(※61)
①の内容:ごみ排出量減少等の現状を踏まえ従来の清掃工場建設計画を見直し(建設時期の先送り)、資源化関連施設も含めた多様な中間処理施設の整備に方針転換する等
②の内容:循環型社会経済システムの確立(ごみの発生・排出抑制、ごみ減量・リサイクルの推進、安定的なリサイクルルートの確立等)
○7月30日都区制度改革等に関する説明会 上記2素案について説明
○8月1日都の素案に対する清掃労組側の見解
要旨:清掃工場建設計画の見直しは自区内処理の原則を放棄し経過的措置である地域処理を永続化させるもの、清掃車庫整備には地域住民の合意書が必要、組合との合意を無視して法改正を要請する場合は断固として区移管を阻止する
○8月4日法改正の考え方について自治省が自治労へ文書回答
回答要旨:都区制度改革のための自治法一部改正は関係者間での条件整備の確認が前提
○8月18日「資源循環型清掃事業の転換に向けた取り組み」(豊島区)を提出
7月1日の説明会で求められた各区の取り組み内容に関する豊島区回答:これまでの取り組みに加え新規施策として7品目9分別の資源分別回収パイロットプランの区内全域実施、公共施設の生ごみコンポスト化、リサイクルセンターの設置等(※62)
○8月20日自治大臣・内閣官房副長官へ制度改革要請(※63)
自治大臣コメント:条件が整備されればそれを前提に法改正は必ず行う
同日の特別区制度改革実施準備本部役員会で都は引続き都庁職と協議し9月上旬までに最終的な取りまとめを行う方針を示す
○8月26日区長会長、自治事務次官に要請
同日、議長会・特別区制調査特別委員長会が自治大臣に要望
○9月14日区長会・議長会、制度改革実現PRチラシ全戸配布(6大紙折込み)(※64)
○9月17日清掃区移管問題対策委員会 都側が「都の見解」公表
 12(2000)年3月までに全区で清掃車庫整備完了の見通しを明記
○9月18日議長会、都知事・都議会議長に制度改革の実現を要請(※65)
○9月19日前日の議長会要請を受け都議会議長が都知事に制度改革推進を申入れ
○9月19日都労使協議(清掃区移管問題対策委員会)、合意不成立
協議結果:まだ協議しなければならないいくつかの項目が残されているので、これらを整理しながらこれまでの協議を踏まえ「現時点おける具体的な協議事項の達成状況と見通し」をまとめる方向で引き続き小委員会で協議していく(※66)
労使協議の結果に対して区長会会長遺憾のコメント発表(※67)
○9月20日法案提出期限
○9月22日特別区長会臨時総会、知事への緊急要請
○9月26日都総務局長、自治省行政局長に法案提出期限の猶予を要請
おおよそ10月末をメドとする
○10月2日都議会「都区制度改革実現に向けての条件整備に関する決議」
○10月3日都知事、都庁職と会談(※68)
知事発言要旨:法改正のタイムリミットが迫っており自ら判断する時期が近づいている、最終判断を下すにあたって職員団体もギリギリの検討をされるよう強く願う
○10月4日議長会PRチラシ全戸配布(6大紙折込み)
○10月7日区長会・議長会合同会議、決議・緊急行動計画(要請活動強化)決定(※69)
決議要旨:①昭和27(1952)年以来の自治権拡充運動の集大成として特別区を「基礎的自治体」に位置づける制度改革を断固として実現する、②都が自区内処理原則及び資源循環型清掃事業をめざして自信をもって立案した計画に基づき、遺漏なく清掃事業の区移管を実現する、③一歩も後退することなく、改革実現の最後のチャンスである10(1998)年法改正を断固として要請していく
○10月14日区長会・議長会、都知事・都議会議長へ要請
10月7日決議の③に基づく「平成10年法改正の確実な実現」を求める要請書提出
○10月16日都が職員団体に対し法改正に合意を求める提案(※70)
提案内容:都区制度改正に関わる関係法令改正の要請に合意する、廃棄物の処理及び清掃に関する法律については引き続き職員団体と条件整備の確認のための協議を行い、移管の見通しを立てることとして実施の日を別に定める方式としたい
○10月17日区長会・議長会合同会議、区長会臨時総会
前日の職員団体に対する都提案について説明を受け、了承を求められる
○10月20日「都の『提案』に対する特別区の見解」を都知事に提出(※71)
要旨:事前に何らの協議・意見聴取なく一方的に行われた提案は遺憾、実施の期日を「別に定める方式」とすることは重大な変更であり疑義がある、「提案」は到底承服できない、「10年法改正・12年4月実施」の確保について改めて知事の決断を強く求める
○10月24日都議会が都知事に促進の要請、都議会議長・都知事記者会見
記者会見知事発言要旨:来週早い時期には何とか決着をつけたい
○10月27日区長会・議長会合同会議(※72)
都から「別に定める方式」は撤回し、「10年法改正・12年4月実施」に向け引続き最大限努力する旨の説明を受ける
区長会長・議長会長共同コメント要旨:都の説明はこれまでの都区間で合意してきた基本的な方向に沿うもの、特別区としても自らなすべき役割を確実に果たし、都区相携えて制度改革実現に向け一層努力を重ねていく
○10月27日都知事が都庁職・清掃労組と会談(※73)
都知事の最終判断として都の方針決定を伝え、職員団体側からも合意できるよう努力したい旨の発言があり、今月中に国へ事前申請し、職員団体からの回答(11月8日清掃労組臨時大会)を待って正式要請することとなる
都の方針要旨:①12(2000)年4月に都区制度改革が実現できるよう、10(1998)年通常国会での関係法令一括改正を国に要請する、②条件整備等の約束は守る
○11月4日臨時区長会、清掃事業の区移管に関わる都区間の確認事項を了承(※74)
確認事項:①清掃事業の区移管にあたっては条件整備が実現していることを前提とする(特別区が行う条件整備は移管時の清掃車庫の完成)、②特別区は基礎的自治体として「清掃工場整備計画」(「一般廃棄物処理基本計画」として策定予定)に基づき施設整備を計画的に進め、自区内処理の責任を果たしていく、③資源循環型清掃事業への転換向けて、移管前においても都区双方で積極的に対応する、④条件整備が達成できなかった場合等の対応は都区で協議し、その協議結果を尊重する
○11月8日清掃労組臨時大会(※75)
最終合意を決する大会議案に10月27日の都知事要請が反映されておらず、10月16日の都提案(施行期日を別に定める方式)のままでの合意案だったため、これでは合意と認められないと議事に入ることなく流会(10日区長会で都が経過説明)
○11月10日「清掃事業の区移管に関わる都区間の確認について」都知事へ回答
11月4日の臨時区長会で了承された4項目を回答
○11月11日自治省に法改正要請
副知事が自治省行政局長と会談、自治省は「労使合意が前提」との立場を崩さず不調
同日、都より清掃労組臨時大会流会後も非公式の労使交渉継続中、職員団体の合意を得るために特別区が了承回答した確認事項(④の「条件整備が達成できなかった場合等の対応」)についてさらに具体的に示す「新たな確認」が非公式に打診される
○11月12日区長会、知事宛に要請書提出(※76)
前日の都の打診に対し、確認事項は10日回答文面のままとしたい旨を口頭で回答するとともに、知事宛要請書を手交
要請要旨:特別区は清掃事業を円滑に受け入れるため、すでにできる限りの努力を傾けてきた。清掃労組臨時総会流会の事態に強い危惧を抱かざるを得ない、事ここに至り一刻も早く法改正の手続きに着手することが先決であり、知事のリーダーシップの下に自治省に対し法改正のためのあらゆる働きかけをするよう切に願う
○11月13日参議院行財政改革・税制等に関する特別委員会質疑
制度改革に向けて法改正の準備に入るよう糾す議員質問に対し、自治大臣は労使合意が前提との従来の考え方を述べるとともに、「諸条件が整えば来年の通常国会に自治法改正案を提出できるよう努力する」旨を答弁
○11月14日10年法改正実現のための緊急行動計画(第2次)
10月7日設定の同計画に続く第2弾として、国政レベルでの議論の盛り上がりを図るため地元出身国会議員をはじめ各政党都連、衆参地方行政委員会への要請を実施
○11月20日清掃区移管問題対策委員会 都が職員団体に新提案
提案内容:条件整備未達成の場合には「公法上の委託が最善」(達成されるまでの間、23区は都に清掃事業を一括委託し、引き続き都が事業を執行する)
○12月6日清掃労組臨時大会、組合側が都の新提案受入れを決定
○12月8日都と清掃労組「清掃事業の区移管による確認書」調印、労使合意成立(※77)
確認書要旨:①国に対する法改正実現の要請(12年 4 月実現に向け関係法令の一括改正を要請、ただし法制化にあたって問題が生じた場合は労使協議)、②清掃事業区移管に関わる確認事項(自区内処理を原則とする条件整備の実現が前提/清掃工場・清掃車庫整備の達成状況等の確認など移管時期は引き続き協議のうえで判断/達成できなかった場合は都区で対応を協議、その間は「公法上の委託方式」により都が引き続き事業を執行/特別区が自区内処理の責任を果たしていくことを都区間で確認/資源循環型清掃事業への転換は移管前においても都区双方で積極的に対応)
○12月10日都が自治省に労使合意報告、自治省より都に提案(※78)
自治省提案要旨:都の23区一括委託方式は受け入れられない、都は12(2000)年4月1日に法的にも実態的にも清掃事業を区に移管すること、その時点でどうしても処理できない区がある場合はその区に限って委託等必要な措置を講ずること、都は清掃労組に対する「23区一体委託」の提案を撤回すること
○12月19日各区が自治大臣に対し「直営車庫の運営体制性に関する確約書」提出、22日には各区と都「都から特別区への清掃事業の移管に関する確認書」取り交わす(※79)
確約書・確認書:直営車庫整備が必要でない10区・必要な13区の別
○12月25日都知事、自治大臣に制度改革に関する要請
要請趣旨:12(2000)年4月1日一括実施に向けた関連法令の10年通常国会での改正
自治大臣コメント:①特別区の基礎的自治体としての位置づけ②特別区の財政自主権の強化③清掃事業をはじめとする事務移譲の三位一体改革が同時に実施されることを前提に関係法律の改正案を次期通常国会に提出したい。それには改正法案関係省庁、特に廃棄物処理法を所管する厚生省の同意は不可欠であるため速やかに同意を得てもらいたい
 
 以上、平成9(1997)年7月以降わずか半年間の経過をたどるだけでも、日々目まぐるしく状況が変わり、都区間、都労使間のギリギリの交渉が幾度も繰り広げられていたことが窺える。

※59 都区制度改革の動き(H090910特別区制調査特別委員会資料)
都区制度改革について(H091028特別区制調査特別委員会資料)
特別区制度改革をめぐる動き(H100108特別区制調査特別委員会資料)

※60 都区制度改革等説明会概要(H090729特別区制調査特別委員会資料)
都区制度改革等説明会報告について(H090729特別区制調査特別委員会資料)

※61 施設整備の考え方(素案)(H090910特別区制調査特別委員会資料)
資源循環型清掃事業への転換に向けた施策(素案)(H090910特別区制調査特別委員会資料)

※62 資源循環型清掃事業への転換に向けた取り組み(H090910特別区制調査特別委員会資料)

※63 【再掲】都区制度改革の動き(H090910特別区制調査特別委員会資料)

※64 制度改革実現PRチラシ(H091009特別区制調査特別委員会資料)

※65 都区制度改革実現のための要請書(H090919議員協議会資料)

※66 清掃区移管問題対策小委員会における労使の論点整理(H091009特別区制調査特別委員会資料)

※67 清掃事業区移管に係る労使協議の結果に対する区長会会長コメント(H090919議員協議会資料)

※68 知事・職員団体会談資料(H091009都区制度改革に関する勉強会資料)

※69 区長会・議長会合同会議資料(H091009都区制度改革に関する勉強会資料)
広報としま1046号(平成9年10月25発行)

※70 清掃事業の区移管に関する提案(H091017特別区制調査特別委員会資料)

※71 【再掲】都区制度改革について(H091028特別区制調査特別委員会資料)

※72 制度改革に関する区長会・議長会合同会議の状況について(H091028特別区制調査特別委員会資料)

※73 都区制度改革と清掃事業の区移管について(H091028特別区制調査特別委員会資料)

※74 前回(9.10.28委員会)以降の動きについて(H091111特別区制調査特別委員会資料)

※75 【再掲】前回(9.10.28委員会)以降の動きについて(H091111特別区制調査特別委員会資料)
前回(9.11.11委員会)以降の動きについて(H091117特別区制調査特別委員会資料)

※76 【再掲】前回(9.11.11委員会)以降の動きについて(H091117特別区制調査特別委員会資料)

※77 【再掲】清掃事業の区移管について(H091210議員協議会資料)

※78 都区制度改革についての自治省から東京都に対する提案(H100108特別区制調査特別委員会資料)

※79 清掃事業の移管に関する確認書・確約書等(H100108特別区制調査特別委員会資料)

 こうした厳しい状況のなか、最も大きな変化は都が清掃工場未整備11区の建設計画を見直し、資源循環型清掃事業への転換を図ったことである。前述したように、6(1994)年12月に労使間で交わされていた覚書きでは「自区内処理の原則」に基づき、清掃工場や清掃車庫等の条件整備の達成を区移管の前提としていた。だが年々増加の一途をたどっていた都内のごみ排出量はバブル崩壊とともに減少に転じ、またリサイクルの進展や豊島区でも見られたようにダイオキシン類対策など環境問題に対する社会的な関心の高まりを背景として、都は平成9(1997)年6月に出された都清掃審議会の最終答申「清掃事業の今後のあり方について」(※80)に基づき、施設整備のあり方を含め資源循環型清掃事業への転換が求められていた。この都の方針転換に対し、特別区側からは法改正を目前にして労使交渉に水を差すことになるのではとの懸念の声もあがったが、都としては法改正後、いわゆる後出しで方針転換を明らかにする方が労使関係にマイナスになると判断し、敢えて労使協議の最終段階で明らかにしたのである。こうした一連の都の対応に対し、区長会・議長会は10月7日の決議の中で「都が『自信をもって』立案した計画」と表現したのも、特別区側からの都に対する叱咤激励の思いとともに、打ち消そうとする先行きへの不安が見え隠れするようにも思われる。こうした特別区側が抱いた懸念は現実のものとなり、清掃工場の建設計画を先送りし、それに替わって資源化施設や資源ごみのストックヤードを優先して整備していくとの方針転換により労使交渉は行き詰まり、法案提出期限が過ぎても労使合意は図られなかった。清掃区移管問題対策委員会の下に設けられた小委員会での労使協議は既に20回を超えていたが、短期間で埋めるにはあまりに大きな認識の違いが労使間に生じていたのである(※81)。
 しかしそれ以上に特別区にとって信じ難かったことは、9月20日の法案提出期限から1か月が過ぎようとしていた10月16日、苦肉の策とは言え都が労働組合側に提案した法施行日を「別に定める方式」としたことだった。この「別に定める方式」は「法施行と移管は一括実施すべき」として自治省も難色を示したが、特別区側にとってはまさに寝耳に水の話であり、また昭和39(1964)年の自治法改正時にごみの収集・運搬は区の事務とされながらも、「別に法律で定める日から施行する」と附則に規定されてから30年以上も放置されてきたことを考えれば、再び同じ轍を踏むことになるとの強い危機感を抱いたことは当然と言えよう(※82)。特別区長会・議長会の猛反発を受け、都区間の信頼関係さえ失いかねない事態に都も態度を一転、最終的に都知事の政治判断で法改正の申請を行うことになったが、合意確認のための清掃労組の臨時大会が流れ、12月6日に再度開かれた総会で労使合意がなされるまでの2か月間は、まさに水面下での緊迫した調整が展開されていた。さらに合意を得るために都が新たに提案したのは「23区一括委託方式」だったが、これには自治省から待ったがかけられた。条件整備が達成できない区が数区あるからといって、23区すべてが都に一括委託するのでは現状と変わりなく、法改正する意味がないというのはまさに正論であり、「法的にも実態的にも」清掃事業が区に移管されることが求められたのである。
 これにより労使問題は年を越すことになったが、そうした決着のつかない難問がある中でも年末の12月25日、自治大臣が法改正の手続きに実質的なGOサインを出したことにより、ようやく年明けから法案づくりが進められることになった(※83)。

公害紛争の調停

 こうして幾度もの危機を乗り越え、平成10(1998)年3月10日、自治法の一部改正等関連法案の通常国会への上程が閣議決定された(※84)。そして4月9日の衆議院本会議で可決、続く4月30日の参議院本会議でも可決され、5月8日、12(2000)年4月1日を施行日とする地方自治法等の一部を改正する法律が公布された(※85)。
 この改正により特別区は「基礎的な地方公共団体」として法制上に位置づけられ、それまで都の内部的団体として制約されていた特例措置の多くが廃止されるとともに、市とほぼ同等の事務権限が特別区に移譲されることとなった。それは昭和27(1952)年施行の改正自治法により区の内部的団体に位置づけられて以来、約半世紀にわたる自治権拡充運動の結実であった。特別区長会と議長会、そして各区・区議会が連携し、粘り強く関係者への要請行動を重ねていったことが国を動かす大きな力となったと言える。
 なおこの改正法案を審議した衆参両院の地方行政・警察委員会は、法案可決にあたりいずれも附帯決議を行っている。その内容は政府に対し、特別区が基礎的な地方公共団体としての体制を一層確立するよう行財政面での権限移譲に努めること、また清掃事業の移管にあたって事業運営のあり方や職員の身分の取扱等について関係者間の協議が促進されるよう配慮することを求めるものであった。
 この附帯決議に見るまでもなく、法改正が実現したとは言え、12(2000)年4月施行までに解決しなければならない課題は、前年末に自治省から差し戻された清掃事業区移管の労使合意をはじめ、その他の事業移管のあり方、そして都区制度改革の柱のひとつである税財政改革など山積していた(※86)。
 これらの課題は、都区協議会の下に設置された都区制度改革推進委員会の税財政検討会・清掃事業検討会・事務事業検討会の各部会において法改正以前から検討が重ねられていたが、いよいよ12(2000)年度実施に向けて具体策等をまとめていく段階に入っていった(※87)。だが都区間で詰めなければならない課題が数多く残されていたにも関わらず、法改正後3か月が経過しても都から具体的な話はなく、特別区長会は7月29日、6(1994)年9月の都区合意(協議案)に基づく具体的協議の早期開始を都に要請した(※88)。
 この区の要請に対し、都は8月10日、都区合意から4か年が経過する中でごみ量の減少やダイオキシン類排出基準の見直し等、清掃事業を取り巻く状況は大きく変化し、協議案通りには実施が難しい面が出てきていると問題提起し、それらの問題点について特別区においても検討するよう要請した。
 これを受けて区長会は、ごみの収集・運搬を各区が直接実施するにあたっての問題点、また地域処理方式による中間処理の実現可能性や移管後の運営形態等について検討するよう担当部長らで構成する「清掃事業検討会」に下命した。そして9月10日、今後さらなる検討が必要ではあるものの、収集・運搬も中間処理も予定通り12(2000)年4月の区移管は可能であるとする検討会報告を都に示した。これを受け、翌11日から都区による実務的な協議が開始され、1か月後の10月9日に清掃事業検討会より「中間のまとめ」が報告された(※89)。そこでは不燃・粗大ごみ等の中間処理については「特別区の共同処理」とすることで一致したが、収集・運搬から可燃ごみの中間処理(焼却)までについては、経過措置として「特別区の共同処理」が一定期間必要であるとする都と、経過措置なく「各区が直接実施」をめざす区の考え方に大きな食い違いが見られた。
 この「中間まとめ」報告前日の10月8日、特別区長会は都区制度改革の意義や法改正の趣旨を踏まえた特別区としての考えを改めて示すため、清掃事業移管に関する「基本方針」を決定している。それは特別区を基礎的自治体として自治法に位置づけることと清掃事業移管の同時実施は法が求めているところであり、都が言うところの「経過措置」を取ることなく、法制的にも実態的にも基礎的自治体としての責任を果たしていく道筋を示すものであった。そしてその道筋を示す方針として、12(2000)年2月までに清掃車庫を確実に整備した上で収集・運搬を各区が直接実施するための諸準備に万全を期すこと、また中間処理については各清掃工場への搬入調整ルールの確立等、移管後の円滑な運営形態について引き続き検討していくとともに、清掃事業に係る都との財源調整や職員の身分の取扱い等の未調整の課題について早急に協議に入るよう都に申し入れることが掲げられていた。
 一方、こうした協議が都区間で進められていることに反発した清掃労組は、10月6日付『都政新報』1・2面にわたり、「清掃事業の運営形態に関わる都区間協議にあたってのわが組合の考え方と決意」と題する意見広告を掲載した。その「考え方」とは、これまでの労使協議の経過と現状認識、すなわち協議案の実施可能性は既に失われているとの現状認識に立ち、都区それぞれの責任において「23区一括委託方式」に代わる「なんらかの一括方式」、移管後の具体的な清掃事業運営形態を示すべきとするものであり、また「自治権拡充」という大義名分の下で清掃事業の一貫性と23区の統一性・一体性を破壊・混乱させることは断じて許されないと都区協議の方向性を批判するものであった。そして、今後の労使協議及び都区間の協議において納得できない状況が生じた場合は、ストライキを中心とする実力行使も辞さない「決意」が示されたのである。
 そして「中間のまとめ」が報告された同日の10月9日、都から区長会に対し、清掃事業全体を「経過的な対応として一括共同処理」とする提案がなされた。これは清掃労組から迫られた「なんらかの一括方式」に対応するものであったが、区長会が前日決定した「基本方針」とは相容れないものであった。このため区長会は12日、自治省及び都議会各会派宛てに要請書を提出、その中で「制度改革の趣旨を実現し、区民の期待にこたえるためには、特別区としては少なくとも収集・運搬を直接実施することが区民に対する責任である」との特別区の決意を訴えた。さらに16日、13名の区長で構成される制度改革実施本部清掃・事務事業委員会において、中間処理については「一定期間共同処理を行うこととし、その期間中に、協議案どおり地域処理を行うための諸課題を解決する」ことを了承、同日開催の区長会総会に報告した。これを受けて区長会は26日、先に決定した「基本方針」のうち収集・運搬については「各区が直接実施する」ことを堅持、可燃ごみの中間処理係る部分については協議案通りの実施を原則としつつ「ダイオキシン対策期間中(平成17年度まで)共同処理を行う」ことに変更するとともに、翌27日、都知事宛にこの「基本方針」への理解と一層の支援を求める要望書を提出した(※90)。
 しかし、11月10日に都から再度示された提案内容は、依然として「収集・運搬から中間処理まで少なくとも3年間一括共同処理」とするというものであった。これに対し区長会は16日、「都の提案は受けがたい」旨を回答、そしてこうした都区間の駆け引きの末、12月11日、都は収集・運搬については区の主張どおり「各区が直接実施」、可燃ごみの中間処理については「一定期間共同処理」とする提案を区長会に示したのである(※91)。なおこの提案では清掃事業従事職員の身分の取扱いについて、18(2006)年3月末までの6年間は都からの派遣職員とし、派遣期間満了後、特別区職員へ身分切替えするものとされた。
 区長会はこの新たな都の提案を了承、また清掃労組もこのまま見切り発車となれば自分たちの身分が保障されなくなる恐れがあることから、その取扱いをめぐる交渉で合意が図られる見込みとなった。結果的に都区、労使それぞれが歩み寄る形となり、23区の清掃事業は各区が直接実施するごみ収集・運搬、共同処理による中間処理、東京都が管理、運営する処分場の大きく3段階に分かれて運営されることになったのである。
 こうして10(1998)年末に移管後の運営形態についてようやく都区合意が図られ、制度改革実現まで残り1年と迫る11(1999)年が明け、各区におけるごみ収集・運搬事業の移管に向けた準備作業に並行し、共同処理のための体制づくりが進められた。
 平成11(1999)年4月、23区長から構成される「清掃事業共同処理準備委員会」が設置され、共同処理機関の設置に向けた協議が開始された(※92)。同準備委員会は同年7月に共同処理の実施機関となる「東京23区清掃一部事務組合」(以下「清掃一部事務組合」)及び特別区間の調整を図る「東京23区清掃協議会」(以下「清掃協議会」)の各規約案を策定、各区議会の議決を経て(豊島区においては同年第3回定例会で可決)、それぞれ12(2000)年4月1日から施行されることになった(※93)。
 清掃一部事務組合は自治法284条に基づき、2以上の地方公共団体が事務の一部を共同処理することにより行政運営の効率化・合理化を図るために設置する特別地方公共団体に位置づけられ、各区議会議長23名で構成される議会が設置された。なお同組合が担う共同処理事務のうち「可燃ごみの焼却施設の整備及び管理運営」については、規約の附則で「平成 17年度末を目途に関係特別区が協議し、関係特別区による当該事務の安定的処理体制の確立をもって、共同処理を廃止する」と規定された。これは都区合意の「一定期間共同処理」を踏まえたものであり、17(2005)年度まではダイオキシン類削減対策により清掃工場のプラント更新等が集中し可燃ごみの焼却余力が減少するため、それまでの間を経過措置期間とし、また「安定的処理体制の確立」とは「可燃ごみの中間処理について特別区総体で 15 パーセント以上の焼却余力が確保されていること」と「地域処理のための各ブロックを構成する関係特別区相互間及び各ブロック相互間において、処理協定が成立していること」を条件とし、これらを確認する覚書を11(1999)年7月15日に23区長間で結んでいる。
 一方、清掃一部事務組合に係る経費の各区分担金も含め、清掃事業の移管に伴い区が負担することになる経費については、新たな財政調整制度のもとで対応していくとされていた。だがごみ量の推計値や職員人数(都は派遣職員のみ対象)など算定基礎からして都区間に大きな認識の違いがあり、11(1999)年10月時点での経費の試算額は都の1,059億円に対し区は1,964億円で、その差は905億円と2倍近い開きがあった(※94)。
 この清掃事業にかかる経費も含め、税財政改革をめぐる都区協議は最後まで難航した。財政難を背景に移管経費の抑制を図ろうとする都に対し、特別区側は財政難と移管事務の財源は別次元の話だと譲らず、双方とも着地点を見いだせない状況が続いた。
 平成12(2000)年4月1日の都区制度改革では引き続き大都市行政事務として都が実施していく消防、上下水道等の事業を除き、37に及ぶ事業が区に移管されることが決まっていた。これに加え、同日施行の地方分権一括法により国の機関委任事務制度が廃止されるに伴い、それまで都知事による区長委任事務とされていた事業も含め都から区に移譲される事業(豊島区で12事業)や新たに開始される介護保険制度など区が担う事業は大幅に拡大されることになった(※95)。だがこれら事業の財源はもとより、従前の財調で措置していた交付金や都の福祉施策の方針転換(福祉サービス安定化事業)に伴う見直し、介護保険事業をはじめとする将来需要に係る調整の先送りなど、都の提案は特別区にとって受け入れがたいものばかりだった。さらに特別区の固有財源として入湯税・ゴルフ場利用税交付金・航空機燃料譲与税が移譲されることになった一方、大都市行政の一体性・統一性を確保するための調整財源として市町村民税法人分・固定資産税・特別土地保有税の3税は引き続き都が徴収することが法定化された。そしてその都が担う大都市行政事務の範囲や事業費等について明確に示されないまま、区への配分額を何とか抑えようとする都と事務権限の移管に伴う財源移譲はセットであるとする特別区の考え方は平行線をたどったのである(※96)。
 都区間の財源配分をめぐる攻防は12(2000)年度予算編成の土壇場まで縺れこみ、それまで都区協議の場であった税財政検討会では決着が着かず、都区財政調整協議会に送られることになった(※97)。この時点でも依然として清掃事業の移管に伴う経費の試算額は都区間で853億円も乖離しており、財源不足が生じた場合は都が補てんするという話もあがっていたが、それでは従前の総額補てん主義と変わらず、特別区の財政自主権の強化という制度改革の趣旨に沿うものではなかった。
 そうしたなか、年が明けた12(2000)年1月11日に開かれた区長会拡大役員会において、都は調整財源の都区配分割合を従来の都56%・区44%から都48%・区52%に変更し、清掃事業については別途745億円を交付する案を提示した(※98)。前年末に49.5%がギリギリの数字だと示していた都にすれば、この52%の配分率はさらに譲歩した形ではあった。また都は、別途745億円の交付金を含めれば実質的には配分率の57%に相当し、区の要望にほぼ沿うものだと主張したが、それはあくまで経過措置的な交付金であり、配分率自体は52%に固定化しようとするものであった。
 この提案内容については1月14日に開かれた区長会総会で改めて都から詳細な説明がなされたが、あたかも都区協議の決定事項のような説明であったため、これに納得できない区長らから反発する声が一斉に挙がった。そして総会後、そのまま都知事要請に入り、配分率のさらなる引き上げや財政調整協議(以下「財調協議」)の中で具体的な方針が示されていない都市計画交付金について、区の実施経費に見合う配分を求めた。だがこうした区長らの要望に対し知事は、都財政が破綻寸前の苦しい中で出した結論であり、何とか飲み込んでほしいと逆に理解を求めたのである。こうした知事発言もあって、また実際のところ各区の財政状況にも違いがあり、区長会の中でも都の提案に対する姿勢には温度差が見られた。実質的に57%だからよしとする意見と、それならば明確に57%にすべきだとする意見に分かれ、侃々諤々の議論にその日は結論を見出すことができなかった。そして18日、20日、21日と立て続けに臨時総会を開催、引き続き都提案への対応を協議していくのと並行し、財調協議の場での実務的な調整が進められた。この間、区長会として配分割合や都市計画交付金の充実を都議会各会派に要請するとともに、1月19日には特別区議会議長会も配分率等の再考を求める「都区制度改革に伴う財源配分等に係る緊急要望」を都知事に提出した(※99)。
 こうして区長会・議長会の連携による要請活動はギリギリまで行われたが、改正自治法により調整財源の配分率は都条例で定めることとされていたため、条例案上程のための事務日程期限がいよいよ迫った1月21日、財調協議での検討結果を踏まえ、以下5項目について都区間で確認することを前提に都の提案を了承することが臨時区長会総会において決定された(※100)。
  • 1.今回財源配分に反映させない清編関係経費については、区の財源配分に反映させる課題として整理し、都の実施経費を踏まえて平成17年度までに協議する。
  • 2.今後の小中学校改築需要急増への対応は、実施状況等を踏まえて協議する。
  • 3.今回の配分割合は、清掃事業について一定期間特例的な対応を図ること等を踏まえたものであり、都区双方の大部市事務の役割分担を踏まえた財源配分のあり方については、今後協議する。
  • 4.部市計画交付金については、平成12年度に大幅な増額を図るとともに、部区双方の実施状況に見合った配分が行われるよう検討する課題とする。
  • 5.一定期間終了後、配分割合の見直しを行うことは当然として、それまでの間、大きな制度改正やどうしても対応できない事態が発生した場合には、配分割合に関する都区間の協議を行う。
 これら確認事項は52%の配分率について今後も引き続き協議していくことを担保するとともに、増大が見込まれる小中学校改築経費や都市計画交付金の拡充等の懸案事項についても都区協議の検討課題に位置づけるものであった。こうして条件づきではあったものの、12(2000)年度の財源配分をめぐる都区協議はようやく合意に達したのである(※101)。

※84 地方自治法等の一部を改正する法律案の概要(H100326特別区制調査特別委員会資料)
地方自治法等の一部を改正する法律案関係資料(H100326特別区制調査特別委員会資料)
〔都区制度/特別区〕現行及び改革後並びに「協議案」の比較(H100326特別区制調査特別委員会資料)
事務事業に関する「協議案」及び法律案要綱の比較(H100326特別区制調査特別委員会資料)

※85 制度改革の経緯について(H100609特別区制調査特別委員会資料)
「地方自治法等の一部を改正する法律」案の国会審議状況について(H100416特別区制調査特別委員会資料)
地方自治法等の一部を改正する法律案に対する附帯決議(H100512H100512特別区制調査特別委員会資料)

※86 特別区制度改革に係わる全体スケジュール(案)(H100326特別区制調査特別委員会資料)

※87 清掃事業の移管に伴う基本的課題に関するまとめについて(H100609特別区制調査特別委員会資料)

※88 清掃事業移管の動きについて(H100908特別区制調査特別委員会資料)

※89 区移管後の清掃事業の運営形態について(H101013特別区制調査特別委員会資料)
清掃移管について(H101016都区制度改革に関する勉強会資料)

※90 清掃事業検討会中間のまとめ以降の動きについて(H101029特別区制調査特別委員会資料)

※91 清掃事業の移管に関する提案について(H101222特別区制調査特別委員会資料)

※92 清掃事業共同処理準備委員会の設置について(H110201特別区制調査特別委員会資料)

※93 清掃事業移管後の運営形態について(H110728特別区制調査特別委員会資料)
東京23区清掃一部事務組合及び東京23区清掃協議会の設置について(H110927・H110930区民建設委員会資料)

※94 清掃事業経費の財源についての考え方(都)(H110728特別区制調査特別委員会資料)
清掃事業経費に関する都区協議の状況(H111001特別区制調査特別委員会資料)

※95 地方分権・制度改革等による移管事務一覧(H120209予算内示会資料)
平成12年度都区制度改革及び地方分権に係わる事務移管について(H120308福祉衛生委員会資料)

※96 税財政制度の改革について(H100609特別区制調査特別委員会資料)
税財政制度の改革について(H100908特別区制調査特別委員会資料)
都から示された「都が行う大都市事務」に対する区側の考え方(H100728特別区制調査特別委員会資料)
制度改革の経緯と現状について(H110616特別区制調査特別委員会資料)

※97 最終段階を迎えた税財政制度改革の現状と課題(H111020都区制度改革に伴う税財政度改革勉強会資料)
都区制度改革等にともなう都区財源配分について(H111208・H111217・H111224議員協議会資料)
税財政検討会における検討のまとめについて(H111215特別区制調査特別委員会資料)

※98 都区財政調整についての都提案について(H120117議員協議会資料)

※99 都提案に対する区長会の要望について(H120120特別区制調査特別委員会資料)

※100 財調協議会(12.1.21)において整理した都区協議会での確認事項(H120208特別区制調査特別委員会資料)

※101 都区制度改革等にともなう新たな都区財政調整制度(H120209予算内示会資料)
都区協議における区側の主張の要点と協議結果(H120216特別区制調査特別委員会資料)
都区財政調整制度の検討課題(H120718特別区制調査特別委員会資料)

法改正に向けたせめぎあい

 最後まで縺れに縺れた税財政改革をめぐる都区協議もどうにか決着し、平成12(2000)年3月28日、都区協議会において「地方自治法等の一部を改正する法律等の施行による都区制度改革実施大綱」が決定された(※102)。この実施大綱は特別区の基礎的自治体としての位置づけ、清掃事業をはじめとする事務事業の移管、新たな都区税財政制度のいわゆる都区制度改革における三位一体改革の全貌を示すものである。それはまた、昭和61(1986)年2月に「都区制度改革の基本的方向」について都区合意が図られて以降、15年に及ぶ都区協議の集大成でもあった。だが前述した通り、税財政制度改革をはじめ積み残された課題は多く、清掃関連施設の移管についても所在区にすべて無償譲渡とする区の主張は通らず、事業運営主体への無償譲渡または無償貸付を原則とする都の方針に基づき、清掃工場については17(2005)年度までの経過措置期間は「清掃一部事務組合への貸付」とされるなど、依然として特別区の完全な自主自立が保証されたわけではなかった(※103)。
 こうした課題を抱えつつも12(2000)年4月1日、改正自治法が施行され、特別区は基礎的自治体としての一歩を踏み出した。清掃事業をはじめとする37事業が区に移管され、同日開始の介護保険事業とともに、特別区は市と同等の事務事業を担っていくこととなったのである。それは昭和27(1952)年9月施行の改正自治法により都の内部的団体に位置づけられて以来、約半世紀にわたる自治権拡充運動の結実であった。この都区制度改革の実現という歴史の大きな転換点にあたり、高野区長は区広報紙を通じ、「こうした自治と分権の潮流は地域の個性や魅力を生かした自主自立の区政運営を可能にしましたが、それは同時に、まさに区の実力と真価が問われる時代を迎えたことを意味しています。私は豊島区政を預かる長として、この新しい自治の歴史の幕開けに、改めてその重要性と責任の重さを強く感じています」との覚悟を示し、極めて厳しい区財政の中でも来るべき21世紀に向けて豊島区の理想の自治を実現していく決意を区民に向けて表明した(※104)。
 そして4月1日当日、都から移管された豊島清掃事務所において清掃車の出庫式が行われ、区によるごみ収集・運搬事業がスタートした。同日、「廃棄物の発生抑制、再利用による減量及び適正処理に関する条例」を施行するとともに、組織改正により清掃・資源リサイクル・環境保全等を一体的に進めていくため、清掃環境部を新設した(※105)。既に実施していた区独自の資源分別回収パイロットプランに新たにプラスチック容器を加え、分別品目を8品目12分別に拡充していくとともに、4月20日には豊島清掃工場の還元施設に開設された上池袋コミュニティセンターにおいてリサイクルをテーマとする「ホット・ほっと区民集会」を開催、同27日には今後、地域でリサイクルの中心的な担い手となる区民338名に「リサイクル・清掃推進員証」を交付、5月30日には第1回「ごみゼロデー・さわやかキャンペーン」を実施するなど、次々と区民を巻き込んでの「リサイクル都市としま」の実現に向けた施策・事業を展開していった(※106)。さらに9月7日には区長の附属機関として、学識経験者(9名)・区議会議員(4名)・区民(公募3名含む9名)・区職員(2名)から構成される「リサイクル・清掃審議会」を設置、資源循環型清掃事業への転換を図る本格的な検討が開始された(※107)。
 一方、豊島清掃工場も前年3月から焼却炉の試運転が開始され、工場竣工後の7月から本格稼働に移行、1日平均約350トンを焼却処理していたが、清掃一部事務組合が管理運営することになった移管後もほぼ同様の焼却量で推移した。また同じく前年7月に公害防止・環境保全対策等に関する「豊島清掃工場の操業に関する覚書」を都区間で締結し、以後年2回のダイオキシン類調査をはじめ、排ガスや排水、騒音・振動等の調査が定期的に実施された。それらの結果はいずれも基準値以下で、特にダイオキシン類調査では区内各エリア別の測定結果においても清掃工場の稼働による影響は確認されなかった(※108)。
 こうして清掃事業の移管は概ね順調に進められ、周辺住民等からの苦情もほとんど聞かれなかった(※109)。だが平成7~8(1995~1996)年頃に、収集作業員の乗降に伴う川越街道での清掃車路上駐車に対し、近隣住民からの苦情や池袋警察署から口頭注意を受けた経緯があり、都は清掃事務所(池袋本町1-7-9、約1,823㎡)に隣接する豊島簡易裁判所跡地(大蔵省関東財務局管理、約3,199㎡)を清掃車の駐車場として一時使用していた。それが11(1999)年に入り国有財産の処分を進める関東財務局から都に用地買収の要請があり、駐車場としての一時使用の継続は認めない方針が打ち出された。こうした動きを受け、区は路上駐車問題が再燃しないよう都に要請、都も清掃事務所が老朽化していたこともあって同用地の買収に動き出し、既設の清掃事務所西分室(同1-3-31、約612㎡)と池袋清掃車庫(同4-41-2、約4,421㎡)を統合し、新たに清掃事務所を建設する話が進められた。翌12(2000)年3月に国と都において国有財産売買契約が締結され、これにより清掃事務所については移管時に建物も含め区に無償譲渡されたが、統合予定の2施設及び豊島簡易裁判所跡地については統合施設が供用開始されるまでの間は無償貸付とし、供用開始時に改めて譲与されることになった(※110)。そして旧建物の解体工事までは都が実施し、新清掃事務所の建設は区が実施していくこととなり、区は14(2002)年度から4か年の整備計画を立て、15(2003)年8月着工、翌16(2004)年12月竣工、17(2005)年1月の供用開始に伴い都からの譲与が完了した(※111)。なおこの清掃事務所の建設にあたっては、小中学校の耐震補強工事と合わせ、区として初の発行となる住民参加型ミニ公募債「豊島ふれあい債」が活用された(※112)。
 こうして豊島区においてはごみの収集・運搬から中間処理までの自区内処理施設の整備が完了したが、ごみ量の減少やダイオキシン類対策の規制強化等を背景として、平成9(1997)年に資源循環型清掃事業への転換を打ち出した都は、千代田・新宿・中野・荒川・文京・台東6区の清掃工場未整備区での建設計画を先送りしていた。千代田区については事業系ごみ、特に紙ごみの占める割合が高く、それらのリサイクル対策を至急進めるため、ストックヤード機能を含む資源化施設の整備に早急に着手するとされたが、新宿・中野・荒川の3区については清掃工場建設用地取得に努め、22(2010)年度を目途に建設に着手、文京・台東については24(2012)年度以降に整備とのスケジュールが示され、いずれもごみ量等の動向を勘案し、さらに検討していくこととされた。(※113)。
 その一方、平成12(2000)年4月に清掃事業が区に移管された際、中間処理については経過措置として17(2005)年度末まで清掃一部事務組合による共同処理とし、それ以降の運営形態はその時点で決定するとされていた。またその間の清掃工場の整備及び管理についても清掃一部事務組合が行うことになっていたことから、移管と同時に策定された「一般廃棄物処理基本計画」の中に建設計画が位置づけられていた新宿・中野・荒川の3区は13(2001)年8月(荒川は翌年3月)、それぞれ清掃工場の用地取得を清掃一部事務組合に要請した(※114)。
 だが前述した通り、23区から排出されるごみ量(可燃・不燃・粗大ごみ等計)は平成期に入って減少に転じ、元(1989)年度に約490万トンだったものが12(2000)年度には約350万トンと2割以上減少していた。可燃ごみについても約300万トンを割り込み、以後もほぼ横ばいで推移していくことが予測される一方、豊島清掃工場をはじめ13(2001)年度までに整備された17区22か所の清掃工場の処理能力の合計は300万トンを超えていた。また当時、清掃一部事務組合はダイオキシン類対策を最優先課題に掲げ、環境負荷を低減させるための施設建替えやプラント等設備更新を優先的に進めていた。
 そうした中で3区からの要請を受けた清掃一部事務組合は14(2002)年3月、「一般廃棄物処理基本計画見直し検討会報告」をまとめ、その中で今後も定期的なプラント更新等既設工場の機能更新・強化を図っていくことが不可欠であること、また既設工場のみで23区の可燃ごみ全量焼却を維持し、さらに一定の焼却能力率を確保できることから新たな工場を建設する必要性は極めて乏しく、現段階において新設工場の用地取得等に着手する必要はないとの考えを示した。また仮に3区で清掃工場を建設した場合、用地取得経費も含め概算で1,127億円もの建設経費が見込まれる一方、現状の整備状況やごみ量の動向を踏まえると国庫補助を申請したとしても事業採択されない可能性が高かったことも新規建設を見送る理由とされた。
 清掃一部事務組合はこの報告に対する検討を各区清掃主幹部長会に依頼、これを受けて6月にまとめられた部長会の報告書では、「自区内処理の原則」に基づき計画通り清掃工場を進めるべきとする区が新宿・中野・荒川を含め8区、ごみ量推移や財政負担の面から新規の工場建設は必要ないとする区が10区と二分する結果となった。こうした結果に新宿区長及び新宿区議会は遺憾の意を示し、清掃一部事務組合の検討会報告は「自区内処理の原則」を逸脱するものであり、ごみ焼却を他区工場に依頼している当区にとって用地取得は不可欠であると区長会での検討を要請した。
 このため区長会はすでに前年、清掃地域処理協定の考え方についての検討を助役会・清掃所管部長会・同課長会に下命していたが、これに加え3工場の用地取得についても検討するよう指示した。そして1年後の15(2003)年7月16日、区長会総会において助役会より「清掃地域処理協定の考え方」が報告され、区長会はこれを了承した(※115)。
 中間処理施設のあり方についてはこれまでも二転三転してきた経緯があるが、特別区としての基本的な考えは平成6(1994)年の都区合意(協議案)がベースとなっていた。それは各区が運搬・収集から処理・処分まで清掃事業の全過程を担うことを大前提とし、「自区内処理の原則」に基づき未整備区での清掃工場建設を進めていく、また清掃移管時に工場のある区・ない区は委託契約を結んでごみを処理するいわゆる「地域処理」で対応するというものであった。そしてその上で、その後の都の方針転換やごみ量の動向等を踏まえ、10(1998)年10月26日に区長会で決定した「可燃ごみの中間処理についても協議案どおり実施することが原則であるが、ダイオキシン対策期間中(平成17年度まで)共同処理を行うこととし、その期間中に協議案どおり地域処理を行うための諸課題を解決することとする」との基本方針が最終的な着地点になっていた。このように「地域処理」はある程度まとまりのある地域内で中間処理を補完し合う方式であり、現行の清掃一部事務組合による「共同処理」が終了した後、各区が「自区内処理」を実現するまでの経過的対応と捉えられていた。助役会の報告もこうした認識に立ち、23区を2~6のブロックに分割し、それぞれのケースで地域処理を具体的に実施していく上での諸課題を検討したものであった。だがブロックごとの全量焼却能力を確保することはもとより、各清掃工場により異なる操業協定や地域事情、23区全体としての負担の公平性の確保など容易には解決できない課題が多く、また国においても中間処理の効率化・広域化が進められている中で協議案が掲げた「自区内処理の原則」や「地域処理方式」は見直すべき時期に来ているとの意見が大勢を占めていた。
 助役会からのこうした報告を受け、区長会は15(2003)年7月16日、以下内容の「特別区における一般廃棄物の中間処理について」を決定した(※116)。
  • ① 23区は、工場のある区もない区も相互に協調・連携し、全体の責任として、特別区の区域から排出される一般廃棄物の安定的な中間処理体制を確保することを確認する。
  • ② その上で、ごみ量の減少、危機的な財政状況、中間処理をめぐる諸課題等の状況変化を踏まえるならば、今新たな清掃工場の必要性はない。そこで、清掃一部事務組合に対しては、この視点に立って施設整備計画の見直しに取り組むよう回答する。
  • ③ 今後の特別区における中間処理のあり方については、平成 6 年の「協議案」にとらわれることなく、改めて区長会で協議することとする。
 この区長会の決定は新宿・中野・荒川3区の清掃工場建設計画を撤回するものであり、「自区内処理」の実現を事実上断念するものと言えた。そしてこの決定事項②に基づき、翌8月7日、新宿・中野・荒川の清掃工場建設の項目を削除する「一般廃棄物処理基本計画」の変更が清掃一部事務組合評議会において決定された。
 一方、③の決定事項については11月14日、各区長を構成員とする区長会の下部組織「自治研究会第 2 分科会」により「今後の特別区における安定的な中間処理のあり方の研究」と題する検討報告がまとめられ、同日この報告を区長会の方針とすることが確認された。この分科会は当初、「清掃地域処理のためのブロック化の研究」をテーマとしていたものが7月の区長会決定によりテーマを変更し、7回に及ぶ検討が重ねられた。その検討報告の要旨は、17(2005)年度末までとしていた清掃一部事務組合による共同処理を 18(2006)年 4 月 1日以降も当分の間は継続することが望ましい、その際は清掃一部事務組合の抜本的な改革を行い、効率的・効果的な運営を図るべきであるというものであった。
 こうした区長会の方針転換は、特別区が長らく縛られてきた「自区内処理」という原理原則からようやく脱したとも捉えられるが、各区が基礎的自治体として運搬・収集から処理・処分まで清掃事業の全過程に責任を負うとした大前提が最早成り立たなくなったことを意味していた。現実を直視した方針転換とは言え、大変な難産の末に実現した都区制度改革の中心課題であった清掃事業のあり方が、制度改革からわずか3年後に再検討を迫られるに至ったのである。
 以後、区長会は18(2006)年度以降も共同処理を継続していくことを前提に、それ以降の清掃事業に係る24項目に及ぶ課題の検討を助役会に下命、そのもとに清掃所管部長会・同課長会、また区長会自らも役員会において精力的な検討を重ねていった(※117)。中でも17(2005)年度末までの時限的な組織に位置づけていた清掃一部事務組合の改革や同時に派遣期間が終了する清掃従事職員の身分切り替え、技術的ノウハウの継承など、18(2006)年度以降の安定的な執行体制の確立は急務であった。さらに各区の人口規模に応じて算定されている清掃一部事務組合の分担金や、必ずしも人口規模とごみ排出量が比例していないことから生じるアンバランスの是正、税財政改革で積み残された清掃事業に係る財源配分など重要課題が山積していた。そうした課題を約1年半かけて一つひとつ潰していきながら、17(2005)年7月にはおおよその方針が固められた(※118)。
 清掃一部事務組合については経営計画や経営改革プラン等の策定、経営審議会機関を設置し、経営責任の明確化を図るとともに組織のスリム化を図り、また伝達ルール等の確立や情報公開の徹底により区に意向が反映されやすい体制を築いていくとの方向性が示された。さらに清掃協議会において経過的に処理している事務は本来、各区が責任を持って直接処理するものであるとの認識に立ち、この間、実務的に諸々作られてきた23区統一ルールを見直し、それらは中間処理施設の管理運営や搬入調整等必要なルールに限定していくとともに、清掃協議会が執行していた事務を区に移行し、同協議会を廃止するとした。また従事職員の身分切替えについては、都職員の派遣期間終了後も3年間は暫定期間として対象職員を清掃一部事務組合に帰属させるとともに、新たに技術系職員を採用して安定的な体制を維持する、またアウトソーシングを含め現状の職員配置等を見直し効率的な組織に刷新していく、任用制度や区技能系職員に準じた給与体系を確立していくとの方針で16(2004)年2月に労使合意が図られた。清掃一部事務組合の分担金については人口割からごみ量割への移行をシュミレーションし、その結果をもって18(2006)年度以降に新制度に移行するとの方針は確認されたが、助役会で結論が得られなかった「清掃工場のある区・ない区の負担の公平、役割分担のあり方」については引き続き検討していくとされた。なお23区と清掃一部事務組合を横断する課題については、今後実務的な検討を行い、助役会・区長会で解決を図っていくとともに、懸案の財源配分問題については18(2006)年度財調協議の中で都と調整していくとされた。
 こうした方針に基づき、清掃一部事務組合の経営改革の一環として平成18(2006)年10月24日、清掃一部事務組合と東京ガスがそれぞれ60%・40%の割合で出資する資本金2億円の合弁会社「東京エコサービス株式会社」が設立された(※119)。これは前述した清掃事業に係る検討課題、清掃一部事務組合の抜本的改革を図る方策の一つとして挙げられたアウトソーシングの推進方針を反映したものである。清掃工場の運転業務委託は同年度に有明工場と練馬工場で開始されていたものの、委託先がプラントメーカーに限定されていたため競争原理が働かず、委託経費の高止まりが懸念された。またごみ焼却に伴って発生する電力の余剰分は特定規模電気事業者や東京電力に低価格で卸売りしていたが、それでは収入増を図ることには限界があった。このため、清掃一部事務組合の退職者等の人材を活用した新会社を設立して経費負担の抑制を図るとともに、東京ガスと合弁することにより余剰電力を小売販売し、収益増につなげることとした。これにより清掃工場の運営管理受託事業は3年目からの収支の黒字化、電力販売事業では初年度からの黒字が見込まれ、豊島清掃工場においても23(2011)年度から東京エコサービス株式会社への業務委託が開始された。豊島区でもその前年度より同社から豊島清掃工場の余剰電力を購入し、それを試行的に区立小学校5校で活用する取組みを開始、電気代金の削減はもとよりCO2削減効果も検証され、23(2011)年度以降、実施校は順次拡大されていった(※120)。
 また引き続き検討課題とされた「清掃工場のある区・ない区の負担の公平、役割分担のあり方」については、17(2005)年4月15日の区長会総会で「清掃一組に派遣する職員については工場のある区もない区も各区のごみ量に応じて派遣数を分担する」との方針が決定され、職員経費等に係るアンバランスの平準化が図られた。さらに20(2010)年3月14日の区長会総会において「清掃工場のごみ処理量の平準化に向けて、搬入調整やごみ減量の取り組みを進めるが、一定の平準化が図られるまでの間、金銭による調整措置を一部、例外的、限定的に導入する」との方針が決定された(※121)。これは清掃工場のある16区の自区内発生ごみ量の15%を16区で等分した量を処理基準に設定し、この基準を超えるごみ量を金銭による負担の対象として(1トンあたり1,500円)、処理量が基準に達しない工場所在区は不足する量に応じ、清掃工場のない区は自区内発生ごみ量に応じてそれぞれ金銭を負担、また処理量が基準を超えている工場所在区はその超過分に応じて負担の対価を受けるという仕組みで、区別の持込みごみ量の把握精度が向上した22(2010)年度から導入された。
 こうして様々な課題を23区が協調して乗り越え、18(2006)年度以降も共同処理方式は継続され、現在に至っている。清掃工場も13(2001)年8月に中央清掃工場・渋谷清掃工場が稼働して以降新設はなく、建替・プラント等の更新を主体に22工場体制が維持されている(※122)。
 山あり谷ありの連続だった清掃事業の移管から23区の共同事業として定着するまで、延々と繰り広げられたドラマに終わりはなく、人々の日々の暮らし中からごみがなくならない限り、今後もまた新たなごみを巡るドラマがずっと続いていくに違いない。
清掃車出庫式(平成12年4月1日)
第1回「ごみセロデーさわやかキャンペーン」
(平成12年5月30日)

※102 都区制度改革実施大綱(H120413特別区制調査特別委員会資料)

※103 清掃事業の区移管に伴う財産処理について(H111215特別区制調査特別委員会資料)
清掃事業の区移管について(H120209予算内示会資料)

※104 広報としま1134号(平成12年4月5日発行)

※105 H120401プレスリリース、東京都豊島区廃棄物の発生抑制、再利用による減量及び適正処理に関する条例
東京都豊島区浄化槽清掃業の許可及び浄化槽保守点検業者の登録に関する条例について(H111122区民建設委員会資料)
移管後の清掃事業の運営状況について(H120719公害・環境対策調査特別委員会資料)

※106 H120327プレスリリース
H120420プレスリリース
H120427プレスリリース
H120530プレスリリース
「ごみゼロデー・さわやかキャンペーン」(5月30日)の実施について(H120523清掃都市整備委員会資料)

※107 リサイクル・清掃審議会について(H121012清掃都市整備委員会資料)
H120907プレスリリース

※108 豊島清掃工場の試運転とごみ搬入(H110316・H110629清掃工場建設問題及び交通対策調査特別委員会資料)
豊島清掃工場の操業等に関する覚書(H110908清掃工場問題及び交通対策調査特別委員会資料)
平成12年度一般環境大気中のダイオキシン類の調査結果について(H120912・H130523清掃工場問題及び交通対策調査特別委員会資料)

※109 清掃工場の操業状況等について(H120721清掃工場問題及び交通対策調査特別委員会資料)
豊島清掃工場の操業等の状況について(H130926清掃工場問題及び交通対策調査特別委員会資料)

※110 豊島簡易裁判所跡地について(H111215特別区制調査特別委員会資料)
旧豊島簡易裁判所・最高裁判所池袋宿舎池袋宿舎跡地について(H130522清掃都市整備委員会資料)
負担付譲与について【豊島清掃事務所庁舎建設用地】(H170224総務委員会資料)

※111 東京都豊島区立新豊島清掃事務所基本設計(案)(H141007清掃都市整備委員会資料)
東京都豊島区立新豊島清掃事務所実施設計の概要(H150221・H161203清掃都市整備委員会資料)
豊島区豊島清掃事務所新築工事等(H150626総務委員会資料)
新豊島清掃事務所について(H161217・H170120清掃・環境対策調査特別委員会資料)

※112 平成15年度住民参加型ミニ市場公募債の発行について(H150926議員協議会資料)
H151014プレスリリース

※113 【再掲】施設整備の考え方(素案)(H090910特別区制調査特別委員会資料)
【再掲】資源循環型清掃事業への転換に向けた施策(素案)(H090910特別区制調査特別委員会資料)

※114 地域処理に関する検討について(H130926清掃工場問題及び交通対策調査特別委員会資料)
新宿・荒川・中野清掃工場用地の取得について(H140628清掃都市整備委員会資料)

※115 清掃工場用地取得(新宿・中野・荒川)に関する経過(H150916行財政改革調査特別委員会資料・H151006区民都市整備委員会資料)

※116 特別区における一般廃棄物の中間処理について(H151202区民都市整備委員会資料)

※117 清掃事業に関する課題について【清掃一組の抜本的な改革のあり方・操業協定の見直し】(H160714清掃・環境対策調査特別委員会資料)
清掃事業に関する課題について【最終処分場の延命及び確保】(H161111清掃・環境対策調査特別委員会資料)
清掃事業に関する課題について【一般般廃棄物処理業の許可等のあり方・各区別持込ごみ量の把握・覚書の見直し(雇上会社)】(H161217清掃・環境対策調査特別委員会資料)
清掃事業に関する課題について【家庭ごみ有料化の検討】(H170120「清掃・環境対策調査特別委員会資料)
清掃事業に関する課題について【清掃協議会のあり方・清掃一組分担金の算出方法の検討・23区の清掃事業の統一ルールの検討】(H170512清掃・環境対策調査特別委員会資料)
清掃事業に関する課題について【長期的なごみ量推計の手法の検討・廃棄物処理手数料の改定】(H170720清掃・環境対策調査特別委員会資料)
清掃事業に関する課題について【廃プラスチックのサーマルリサイクル実施の検討】(H180224・H181003都市整備委員会資料、H190328・H190703清掃・環境対策調査特別委員会資料)

※118 清掃事業に関する課題について(H170722議員協議会資料)
東京二十三区清掃一部事務組合経費分担金について(H170120清掃・環境対策調査特別委員会資料)

※119 清掃一部事務組合が設立する新会社について(H180712・H181113清掃・環境対策調査特別委員会資料)
清掃一部事務組合が設立する新会社の概要(H180914議員協議会資料)
清掃一組による合弁会社の設立について(H181003都市整備委員会資料)

※120 豊島清掃工場の業務の一部委託について(H220909清掃・環境対策調査特別委員会資料)
区立小中学校における清掃工場発電電力の活用(試行)について(H220609清掃・環境対策調査特別委員会資料)
区立小・中学校における清掃工場発電電力の利用状況について(H231109清掃・環境対策調査特別委員会資料)
学校等での新電力の利用状況について(H250723清掃・環境対策調査特別委員会資料)

※121 清掃負担の公平・役割分担のあり方等について(H200704都市整備委員会資料)
特別区の清掃事業の現況について(H210909清掃・環境対策調査特別委員会資料)

※122 新工場の稼働について(H130926清掃工場問題及び交通対策調査特別委員会資料)
清掃一部事務組合清掃工場建設工事進捗状況(H180609清掃・環境対策調査特別委員会資料)

制度改革の実現に向けた最終調整

 一方、平成12(2000)年の都区制度改革の際に積み残された税財政改革に係る5つの課題、すなわち①都区の役割分担を踏まえた財源配分のあり方(大都市事務の明確化)、②財源配分に反映されていない清掃関連経費の取扱い、③小・中学校改築需要増大への対応、④都市計画事業の実態に見合った都市計画税の配分、⑤大きな制度改正などに対応する配分割合の変更、の5つの課題(以下「主要5課題」)については、12(2000)年2月10日の都区協議会において引き続き双方で検討していくことが確認されていた。だがいずれの課題も都区双方に認識の違いがあり、制度改革実施後の協議は思うように進展しなかった(※123)。
 課題①の都区の財源配分は、その算定基礎となる大都市事務(都が実施する市町村事務)の範囲が不明確なまま、約1兆円にのぼる大都市事務経費の使途も明らかにされていなかった。また課題②の財源配分に反映されていない清掃関連経費とは12(2000)年度の財調協議の中で区への配分率を52%とするとともに清掃関連4経費(都の既発債償還費、地元還元施設補助、都派遣職員の退職手当及び人件費等の一部)として別枠で措置された745億円の交付金のことである。都が実際に清掃事業費として支出していた2,032億円のうち移管時に財源配分に反映されたものは1,287億円のみで、残り745億円は特例措置として交付金で対応するとされたものだが、その際にこの特例措置分も財源配分に反映させる課題として整理し、17(2005)年度までに協議することとされていた。また都はこの交付金も含めれば実質的に区の要望をほぼ満たす57%の配分率になると説明していたこともあり、区側は配分割合の見直しにあたっては57%が出発点となると認識していた。だが都はその別枠分のすべてが財源配分に反映されるわけではないとして双方の合意点は見いだせない状態が続いていた。課題③の小・中学校改築需要についても、10(1998)年2月にそれまでに繰り延べ措置されていた学校改築経費が復元措置された際に将来需要は財源配分の課題として協議することが確認されていたが、想定される改築ラッシュに対応できるだけの財源措置についての協議も進んでいなかった。さらに課題④の都市計画税の配分についても、本来は市町村税である都市計画税は都区が実施する都市計画事業の原資となるものであったが、区に配分される割合は1割にも満たず、特別区にとって十分な財源が確保されているとはとても言いがたい状況だった。そして課題⑤の制度改正に伴う配分割合の変更については、前述した清掃関連経費はもとより12(2000)年度以降にも児童扶養手当事務等が区に移管されたにも関わらずその経費は財源配分に反映されていなかった。また12(2000)年4月に同時スタートした介護保険事業の需要増大、さらに国による三位一体改革(国庫補助負担金の廃止・縮減、税財源移譲、地方交付税制度の一体的な改革)の影響など、予想を超える支出に対応していくためにも都区の財源配分について早急な協議が求められた。
 だがいずれの課題も年度単位の財調協議の場では本質的な議論を深めるまでには至らず、このため15(2003)年3月20日、都と特別区は都区協議会・都区財政調整協議会の下に都区各担当者で構成される大都市事務検討会・清掃関連経費検討会・小中学校改築等検討会を設置し、それぞれの課題ごとに実務レベルでの検討を集中的に行っていくこととした。
 以後、これら3つの検討会を中心に都区間の協議は進められたが、16(2004)年度に入ってもなお、都区合意に達する道筋は見出せなかった(※124)。
 最も意見の乖離があったのは範囲が不明確だった都の大都市事務に係る経費の内訳で、この段階になってようやく都側から資料が提出されたものの、その経費総額として都側が約1兆2千億円であると示したのに対し、区側の分析では約7千億円弱にとどまり、都区の見解には依然として大きな隔たりがあった。またこれまでも述べてきたように、中間処理の23区共同処理は当初17(2005)年度までの経過措置として位置づけられ、これに伴い清掃従事職員の区への身分切替えも18(2006)年4月に予定され、都による交付金の特例期間も17(2005)年度までとされていた。このため5つの主要課題の中でも特に清掃事業に係る経費を財源配分に反映させることは特別区側にとって喫緊の課題だった。だがこれについても、特例措置分を財源配分に反映させるという考え方の出発点からして都区双方の認識が一致していなかったため、具体的な経費の取扱いにまで至らず、双方の主張は平行線をたどった。
 また「小中学校改築需要急増期への対応」と「都市計画交付金のあり方」の 2つを協議課題とした小中学校改築等検討会おいても、小中学校改築について都区共同で実態調査を実施し、各種データに基づいた議論が交わされたが、現行の算定基準や少子化により学校統廃合が進んでいる中での将来需要の捉え方等で意見が対立した。
 さらに都市計画交付金についても区側は実態に見合った交付金の増額を求めたが、その実態そのものを把握し難いことから議論はそれ以上深まらず、都は現行の見直しは必要ないとの姿勢を崩さなかった。
 しかし特別区の「基本的性格の改革」「事務権能の拡充」「財政自主権の強化」をめざし、また首都東京の自治のあり方として都区の役割分担と住民に対する行政責任を明確化することを目的とした都区制度改革は、この主要5課題が解決されなければ未完のまま、その意義を失いかねなかった。こうした状況を打開すべく、特別区長会と特別区議会議長会は16(2004)年10月14日、役員合同会議の場において主要5課題の全面的な解決をめざし、広く関係者の理解を得るための働きかけを行っていくこと、さらに都区協議の場における今後の都の対応状況を踏まえ、必要に応じて共同行動を実施していくことを申し合せた。
 清掃事業経費の特例措置の期限が迫るなか、17(2005)年度に入って都区協議はいよいよ大詰めを迎えた。大都市事務・清掃関連経費・小中学校改築等の各検討会は7月26日に都区財政調整協議会に検討結果を報告したが、都区双方の見解はこれまでの延長線から抜け出ることはなく、報告は両論併記の形でまとめられ、検討会としての結論を出すには至らなかった。このため7月以降、主要5課題の検討は都区財政調整協議会の場に移り、さらに12月からは17(2005)年度分財調の再調整及び18(2006)年度予算編成に向けた財調協議と並行し、主要5課題の最終的な決着をめざして協議は続けられた(※125)。
 しかし、都区の役割分担に基づく財源配分の課題については、引き続き時間をかけて協議していくべきとする都と、少なくとも政令指定都市事務など法令上府県事務とされている事務を大都市事務の範囲からを除外した上で協議していくべきとする区の見解は平行線をたどった。大都市事務の範囲が整理できなければ財源配分割合も定まらず、現行52%の配分率ありきで財調に反映させるか否かは都の裁量が優先された。また財調に反映することで都区の認識が一致したとしても、その範囲や算定方法等に大きな食い違いがあった。そのため清掃関連経費について区の試算では554億円増となるのに対し、都案ではわずか24億円増に過ぎず、小・中学校改築等経費も区案768億円増に対し都案122億円増にとどまった。その結果、都区双方が積み上げた18(2006)年度の財源配分は、区が4,533億円増と試算したのに対し都は逆に540億円の減とする内容で、双方の見解はあまりに大きく乖離していた。またこの協議にあたり都から16項目、区から71項目の計87項目に及ぶ提案が出されたが、都区双方の考え方が一致したのは20項目のみで、残りの67項目については相容れ難かった。さらに17(2005)年度財調の再調整にあたっても、市町村民税法人分の増収等により約 812 億円の追加需要算定が可能だったが、区の1,732億円追加案に対し都はゼロ回答というあり様だった。財源配分をめぐるこうした都区間の考え方の違いは最後まで埋まらず、実務レベルでの調整は事実上困難となった。
 このため、政治的な解決を図ろうと、10月末から翌18(2006)年1月にかけて区長会正副会長と副知事によるトップ交渉が重ねられた。そこで区長会側は、①大都市事務問題と都区制度のあり方については都区双方で別途協議、②都区の配分割合はこれまでの協議経過を踏まえ57%、③三位一体改革の影響により配分割合のさらなる加算の3項目を要求して交渉にあたったが、副知事は三位一体改革の影響については理解を示しつつも、都区の財源配分については都としての案を出すと応じた。 そして1月12日、都から以下3項目の提案が出された。
  • 1.都区の役割分担を踏まえた財源配分
    都区制度のあり方について特別区の再編を含め都区双方で検討する組織を設置
    役割分担による財源配分はその結論により整理
  • 2.具体的な課題への対応(清掃関連経費・小中学校改築経費・都市計画交付金)
    清掃関連経費は清掃職員の退職手当及び灰溶融処分費等のみ算定
    小中学校改築経費は起債償還分のみ算定、ただし起債償還分を一括清算することとし、52%の枠を超えた部分について18(2006)年度限りの特例交付金 200 億円を交付
    特別区都市計画交付金は市街地再開発事業(再開発組合等への助成)1項目のみ追加
  • 3.「三位一体改革」の影響への対応
    19(2007)年度から調整率(調整税のうち区に交付する割合)を 54%に改定
 都はこの提案をもって区の了承を取り付け、18(2006)年都議会第1回定例会に関係条例の改正案を提出するつもりでいた。だが都の提案は矛先を変えるように23区の再編問題を持ち出して、財調協議の根幹となる都区の役割分担、財源配分に関する検討を先送りしようとするものだった。そして清掃事業や学校改築等の個別課題についてはあくまで52%の枠中での対応にとどまり、小中学校改築経費の特例交付金200億円も起債償還分の清算に充てるだけで、これからピークを迎える改築需要に応えるものとは言えなかった。また三位一体改革による影響額についても、国の補助や負担金の削減等により区側は600億円規模の負担増を見込んでいたが、都が示した配分率のプラス2%はその半分の300億円相当に過ぎなかった。これらの内容はいずれもこれまでの区側の主張をほぼ顧みず、都の考え方を押し通すだけのものであった。
 このため翌1月13日、区長会会長は都知事に再考を要請、16日に再度、副知事との協議の場が設けられたが実質的な修正は示されず、12日の提案が都としての最終提案とされた。これを受けて同日に開かれた区長会総会において、区長会の総意として都側提案を拒否することを決定し、その旨を都に通告した。財調協議はついに決裂状態に陥ったのである(※126)。
 過去にも年度内に財調協議がまとまらなかった例は昭和51~54(1976~1979)年度に4回あったが、実に四半世紀ぶりの異常事態を迎えたことになる。
 こうした事態を打開するため、都は1月26日、17(2005)年度分の再調整に絞っての協議を区側に打診、これを受けて交渉は再開された。そこで都から示された新たな案は、調整3税の当初算定残に税収増分を加え、特別区への交付金を約686億円増額するという再調整方針だった。これは先の提案で起債償還分のみとしていた学校改築経費等について、区側の要望を受け入れて当初のゼロ回答を改める方針であった。このため区長会は2月1日、この再調整結果については了承した。
 しかし、18(2006)年度の財調協議は依然として決裂状態にあり、このまま財調協議が整わなければ都も関連条例を議会に出せなくなる。また何より都区間の相互協力関係が損なわれることになり、それらを憂慮した都知事の強い働きかけにより2月6日、副知事より区長会長に再度申し入れがあり、区側も財調協議が整わないまま年度を越すようなことになれば行財政運営に支障が生じることから、事態を打開するため双方歩み寄って調整することを確認し合った。そして2月8日、区長会長と副知事との会談において、①「都区の役割分担と財源配分のあり方」については協議が整い次第、今後の都区のあり方を検討する都区の共同機関を設置する、②18(2006)年度財調については都案の通りとし、区は 200億円の特別な交付金を受け入れる、③三位一体改革の影響への対応として都から提案された調整率の2%アップ(19年度以降)については影響の全体像を見極め、19(2007)年度財調協議で合意に努めるとの3項目を条件に、18(2006)年度財調協議と19(2007)年度以降の財調協議を切り離して対応していくことが確認された。
 その2日後の2月10日、臨時区長会が開かれ対応策が協議された。条件の②は一度拒否した都案を飲み込むことになるため納得できないと反対する声もあったが、③については2%アップで済まそうとしていた都が区側の主張を受け入れて譲歩し、改めて次年度に調整率アップについて協議する場が担保されたことにより、都が示した方向で対応していくことを了承した。これにより財調協議が再開され、2月16日の都区協議会においてようやく18(2006)年度財調協議は決着し、都はギリギリのところで条例改正案を都議会に提出できたのである。
 しかし18(2006)年度に入り、2%プラスアルファの確保を期待して臨んだ19(2007)年度財調協議において、都が12月4日に示した当初案は前年度同様の2%アップにとどまるものだった。振り出しに戻った実務者レベルでの財調協議に対立はさらに深まり、またも不調に終わった。区長会及び議長会もこの都提案に猛反発し、12月4日に副知事に再考を要請、12月18日には議長会が主要5課題の完全履行を求める決議を行い、都議会各会派への要請行動を展開した。こうして前年同様、副知事とのトップ交渉が年をまたいで行われることになったが、区長会側は少なくとも3%アップの55%への変更を求め、今度ばかりは一歩も引き下がらなかった。一方の都も税収増の動向を見れば52%でも足りるところを昨年の経過を踏まえて54%としたものだと譲らず、双方とも譲歩する姿勢が見られないまま交渉は最終局面を迎えた。そして19(2007)年1月9日の財調協議において、財調交付金のうち災害等の特別の財政需要に対応して交付するための財源として都に留保される特別交付金の割合を2%から5%にアップする都提案を区側が暫定的に認めるのと引き換えに、都も交付金総額の区への配分率を55%とすることで話をまとめ、11日の区長会臨時総会でこれを了承し、31日の都区協議会で正式に合意が図られた(※127)。
 そしてこの19(2007)年度財調協議以降、都区の財源配分は45%・55%で落ち着き、令和2(2020)年度に児童相談所の区移管に伴う特例的な対応として区への配分比率を55.1%に変更するまで、この配分比率は維持された。こうして12(2000)年の制度改革時に積み残された主要5課題は、大都市事務をめぐる都区の役割分担と財源配分のあり方を除き、ようやく一定の終結を見ることになった。
 しかしこの間、都区の認識の違いはもとより、各区間においても対応に温度差があったことは否めない。潤沢な税収により都から交付金を受けていない区もあれば、歳入の大半を交付金に頼っている区もあり、また豊島区をはじめ極めて厳しい財政状況にある区にとっては、たとえ1%の違いでも死活問題だった。そしてこのように特別区間の財政力に格差があることが、都が検討の俎上に載せようとしている23区の再編問題につながっていたのである。
 この再編問題も含め、主要5課題のうち残された課題は、平成18(2006)年2月16日の都区協議会における合意事項、すなわち「今後の都区のあり方について、事務配分、特別区の区域のあり方、税財政制度などを根本的かつ発展的に検討することとし、協議が整い次第、このための検討組織を都区共同で設置する」との内容に基づき、同年5月から検討組織の構成や検討課題等の基本事項に関する協議が開始された。11月には組織名称を「都区のあり方検討委員会」(以下「あり方検討委員会」)として検討組織を設置、翌19(2007)年1月から本格的な検討が開始された。同委員会は都側から3副知事及び総務局長、区側からは区長会会長、2副会長及び区長会事務局長の各4名によって構成されるとともに、その下に専門的事項を検討するための幹事会が置かれ、これも都区それぞれから推薦を受けた同数(7名)の委員によって構成された(※128)。
 あり方検討委員会は「都区の事務配分」「特別区の区域のあり方」「都区の税財政制度」を検討課題とし、実質的な検討は幹事会を中心に進められた。その幹事会がまず取り掛かったのは、都区の事務配分を検討する上での枠組みとなる区への移管対象事務の選定であった。都は広域的自治体としての事務にできる限り特化し、特別区は基礎的自治体としてより幅広く地域の事務を担うとの視点から、都の内部的な事務や特別区の区域外で実施している事務を除く444にのぼる都事務を検討対象とした。19(2007)年6月26日の第2回幹事会から開始された選定作業は、都区間の意見の相違を孕みつつも足掛け4年にわたる議論を経て、23(2011)年1月19日の第28回幹事会において全444事務の仕分けを完了した。その結果、区に移管する方向で検討する事務53、都区の役割を見直す方向で検討する事務30、都区の役割の見直しの是非を引き続き検討する事務101、都に残す方向で検討する事務184に仕分けされ、その他は対象外75及び税財政の課題に移行1とされた(※129)。
 この結果を受け、あり方検討委員会は次に事務移管の具体化に向けた検討に入る予定だった。だが都はこの結果に対し、特別区が政令指定都市並みの人口50万人規模になった場合を想定して評価したものであり、これをもって移管の前提条件とするものではないとの考えを示した。人口規模や財政力、税収の偏在など、23区間で格差が見られる現状では一律的に移管することは困難であり、事務配分と特別区の区域再編はセットで検討すべきとの主張である。
 こうした都の主張の背景には、国による地方分権改革の一環として進められた市町村合併、いわゆる「平成の大合併」があった。これは地方への権限及び財源の移譲にあたって、その受け皿となる基礎自治体の行財政基盤を強化するため、平成11(1999)年から22(2010)年度末にかけて国の主導で進められた市町村の統廃合で、11(1999)年度当時3,232(市670、町1,994、村568)あった市町村数は、10年後の22年度末には1,727(市786,町757,村184)とほぼ半減した。この「平成の大合併」については、住民サービスの高度化、職員の削減や公共施設の統廃合による行財政の効率化などのメリットが評価される反面、周辺地域の活力や歴史的・文化的風土の喪失、住民の声が行政に届きにくくなるなどのデメリットも指摘されていた。
 また都は、東京を巡る地方自治制度の課題や改革の方向について調査・検討するため17(2005)年9月に学識経験者及び企業経営者で構成される「東京自治制度懇談会」を設置していた。19(2007)年11月にこの懇談会での議論をとりまとめた報告書の中でも特別区の再編統合に関する意見が述べられているが、都区が議論を深め再編によるメリット・デメリットを明らかにしていく必要があるとしつつも、区民の生活圏の拡大に対応して行政サービスの受益と負担をできる限り一致させ、必要なサービスを効果的に供給していくために特別区の区域再編を含めた見直しが不可欠であるといった意見をはじめ、特別区がより広範に地域の事務を担おうとする場合、専門性の確保や需要の確保の必要性から規模拡大の要請が働くとして、事務配分の検討にあたって区域再編の検討は避けて通れない、今後見込まれる膨大な大都市の行政需要に対応するため、行政改革推進の視点からも特別区の再編は極めて重要な課題であるなど、再編に対する肯定的な意見で占められていた(※130)。
 一方、特別区においても平成15(2003)年10月、学識経験者で構成される「特別区制度調査会」を設置し、特別区の自治のあり方について独自に検討を進めていた。同調査会は第一次(15年10月~17年10月、19回)及び第二次(18年1月~19年12月、20回)にわたって特別区の自治のあり方について調査研究を重ね、それぞれ第一次報告「東京における新たな自治制度を目指して」、第二次報告「『都の区』の制度廃止と『基礎自治体連合』の構想」を提出している(※131)。この第二次報告で打ち出された「基礎的自治体連合」構想は、それまでの都による大都市行政の一体性という観念から脱却し、23区の対等・協力関係に基づく広域自治の新たな仕組みを提起するものであった。それはまた国主導で進められている地方分権改革のあり方にも、多様な選択肢の可能性を示唆するものと言えた。また同報告は結びにあたって区域再編問題にも触れ、「まず先に『平成12年改革』による都区の役割分担、財源配分の原則を実現し、その上で各特別区が自主的に区域問題に取り組むことが順当な道筋である」との考えを示した。さらに「この第二次報告は、特別区にとって悲願であった『平成12年改革』をさらに超えて、『都の区』の制度廃止を提案するものである。それだけに、これまで『都の区』であることによって形成されてきた都への依存心を払拭していく必要がある。なによりも、都に頼らず、都に留保されてきた事務を自分たちで処理し、行政需要の違いと著しい財源の偏在を自らの手で調整していくには、これまで 23 区間で培ってきた『互譲・協調』の精神と、『自分たちの事柄は自分たちの力で解決していく』という自主・自立への確固たる決意が強く求められる」と、特別区に対しても意識改革を求めたのである。
 このように特別区の再編問題をめぐっての識者の意見は様々だったが(※132)、実際のところ23区に住む当の区民にとって、区の再編はさほど切実な問題とは捉えられていなかった。またかつてこの問題について特別区間で話し合われたこともなく、区側はその必要性を都ほどには感じていなかったと思われ、そのためあり方検討委員会においても、区域のあり方はそれぞれの区が主体的に判断すべきであるとして、方向性の整理が終了した事務から移管の具体化の検討を行うべきだと主張した。しかしあくまでも事務配分と区域のあり方はセットで検討すべきとする都とは見解が分かれ、未だ具体的な検討に入れない状態が続いている。
 その一方、区に移管する方向で整理されていた児童相談所については、23(2011)年12月19日のあり方検討委員会においてに、同委員会とは切り離し、都区間で別途協議していくことが確認された。前年1月に江戸川区で発生した児童虐待による死亡事件の一因に学校や都の児童相談所、区が所管する子ども家庭支援センターの連携不足が挙げられたことにより、他に先行して実務的な検討の場を設けることを区が提案、都も緊急に対応すべき課題としてできるだけ早く検討体制等について都区間で協議したいとの考えを示していた。だが3月に発生した東日本大震災により協議は中断、9月に改めて区長会からの要請を受け、都区間で話がまとまったものである。翌24(2012)年2月、都区協議の場として「児童相談所のあり方等児童相談行政に関する検討会」が立ち上げられたが、都はあり方検討委員会と切り離したのだから「移管ありき」とはしないと主張、その後の協議においてもこの問題に対する都区の温度差が見られた(※133)。
 危機感を募らせる特別区は都との協議と並行し、児童主管課長会の子ども家庭支援センター部会において児童相談所の移管モデルの検討に着手した。同部会は移管後の児童相談所や一時保護所の持ち方、児童福祉司等の配置基準、人材確保の具体的方策等について3つの人口規模別にケーススタディを行い、25(2013)年11月に最終報告がまとめられた。これを受けて副区長会は翌12月、この移管モデルを基本に各区で具体化に向けた検討を行い、その検討結果を取りまとめることを下命した。区はこの移管モデルを検討会にも提示したが都からの具体的な回答はなく、都区間の協議は滞っていた(※134)。
 こうしたなか、国の社会保障審議会児童部会の下に設置された「新たな子ども家庭福祉専門委員会」からの提言を受け、平成28(2016)年5月に改正児童福祉法が成立し、特別区も独自に児童相談所を設置できることとなった(※135)。また29(2017)年4月1日の同法施行後5年を目途に国による支援が得られることとされたため、区長会はこの支援措置期間に準備が整った区から順次、児童相談所の設置を目指すこととし、移管準備に向けた体制づくりが進められた。そして児童相談所の設置を希望する区として豊島区も手を挙げ、長崎健康相談所の改築に合わせ、併設施設として令和5(2003)年2月、豊島区児童相談所が開設された(※136)。
 こうした児童相談所の例を除き、平成23(2011)年12月以降、あり方検討委員会は幹事会も含めほぼ休眠状態となっており、あれほど膨大な時間をかけて仕分けた移管事業に関する実質的な検討はなされていない。これに替わり、21(2009)年9月、東京都・特別区長会・東京都市長会・東京都町村会の4団体共同による「東京の自治のあり方研究会」が設置された。これはあり方検討委員会の議論の中で、「特別区の区域のあり方については引き続き課題とするが、当面、都区のあり方検討とは別に、将来の都制度や東京の自治のあり方について、学識経験者を交えた都と区市町村共同の調査研究の場を設ける」ことで都区の認識が一致したことを受けて設置されたものである。同研究会は21(2009)年11月から27(2015)年3月までに15回の会議を重ね、最終報告がまとめられた(※137)。その報告の中で再編問題については、「合併・連携それぞれにメリット、デメリットの両面があることを念頭に、大都市、中山間地域、島しょ地域といった地理的状況、人口規模、人口や産業の集積の状況、地域の連担、面積など、その地域特有の様々な状況を踏まえ、合併・連携等の多様な選択肢の中で、どのような手段がより有効であるのかについて、具体的なデータ等に基づき、関係自治体間で議論していくことが重要である」との方向性が示されている。
 特別区においても20年(2008)4月、第二次特別区制度調査会報告の方向を踏まえ、今後の特別区のあり方に関する議論に備えるため、特別区協議会の下に「特別区制度懇談会」と「特別区制度研究会」が新たに設置された。学識経験者から構成される同懇談会は特別区制度調査会の流れを引き継ぐものであり、その時々のテーマに関する意見交換・意見聴取の場となっている。また研究会は若手研究者と23区職員の参加による共同研究の場として2年を1期として、令和4年現在、7期まで期を重ねている。さらに平成30(2018)年6月には区長会の下に「特別区長会調査研究機構」が設立された。これは特別区版のシンクタンクと言え、「特別区及び地方行政に関わる課題について、大学その他の研究機関、国及び地方自治体と連携して調査研究を行うことにより、特別区長会における諸課題の検討に資するとともに、特別区の発信力を高めることを目的」(同機構設置要項第1条)としている。毎年度、各区からの提案に基づき、多岐にわたる行政課題のテーマごとに区職員・有識者・専門家等による調査研究が続けられている。
 こうしてその時々で形を変えながらも特別区のあり方に関する調査研究は継続されており、今後も都及び特別区の自治のあり方に関する話し合いはいずれ次の段階へと引き継がれていくであろう。議論を重ねていく以外に解決の道は開かれないことは、23(2011)年11月24日の最後となったあり方検討会幹事会において、4年にわたって激論を交わし合った都区双方の幹事から「この間、事務配分の検討対象 444 項目の仕分けや特別区の区域に関わる話などについて、まさに喧々諤々の議論を行い、都区双方にとって本当に実りの多い議論ができたのではないかと思っている。今後、東京都を巡る状況は、国の進めていく地方自治制度改革の中の一番大きな目玉、課題になっていくのではないか。そういったなかで都区の関係をどのようにやっていくのかということが一番の論点になっていくと思っている。今後も都区で様々な課題について協議し、言い方は強過ぎるかもしれないが、国に決して流されることがないようにしていきたいと思っている」「今後も、様々な課題について、都区の間で真撃に話し合いをするという姿勢を持ち続けることが何よりも大切だと考えている。国や他自治体等の動きに惑わされることなく、都区がしっかりと話し合いを続けることが必要だと思っている」とのそれぞれの言葉の中に込められている。
 地域のことは地域が決めるという地域主権を目指した点では、都区制度改革と地方分権改革は方向を一にしていた。だがその一方、都と特別区を取り巻く地方分権推進改革の流れは、東京一極集中が進むなか、時として東京対地方という構図が強調され、そこに焦点を当てた様々な議論が呼び起こされてきた。「地方創生の推進」と「東京と地方との格差是正」という名のもとで東京富裕論や都心区直轄構想、法人住民税の一部国税化やふるさと納税等の税制改正、さらに道州制や首都機能移転など、首都東京の自治のあり方は常に問われ続けているのである(※138)。
 人口減少社会、超高齢社会へと日本全体が大きな転換点を迎えるなか、今後も続くであろう大都市東京における都と特別区との将来を見据えたあるべき姿を模索する改革は、永遠に「未完」であり続けるのかもしれない。

※133 児童相談所のあり方に関する検討について(中間報告)(H250410行財政改革調査特別委員会資料)

※134 特別区児童相談所移管モデル最終報告書(概要版)(H251129子ども文教委員会資料)
児童相談所のあり方に関する都区協議の経過(H251212行財政改革調査特別委員会資料)
児童相談所のあり方に関する都区協議、検討状況について(H260513行財政改革調査特別委員会資料)
H270109児童相談所の移管に関する検討状況について(H270109行財政改革調査特別委員会資料)

※135 児童相談所の移管について(H280317議員協議会資料)
児童相談所の移管に関する検討状況等について(H280713行財政改革調査特別委員会資料)

※136 児童相談所の設置に関する検討状況について(H280920子ども文教委員会資料)
児童相談所の設置について(H281205子ども文教委員会資料)
児童相談所の設置準備状況について(H300702子ども文教委員会資料)
児童相談所準備状況について(R010912公共施設・公共用地有効活用対策調査特別委員会資料)
児童相談所の設置準備状況について(R030707子ども文教委員会資料)
R040615 プレスリリース
豊島区児童相談所設置条例について(R040928 子ども文教委員会資料)

※137 東京の自治のあり方研究会最終報告(平成27年3月)

※138 特別区制度をめぐる課題(H200715議員協議会資料)
都区制度について(H240517行財政改革調査特別委員会資料)
「東京富裕論」への反論(平成19年6月)
不合理な税制改正等について(H300905行財政改革調査特別委員会資料)
「不合理な税制改正等に対する特別区の主張(平成30 年度版)」の公表について(H301016特別区広報資料)
不合理な税制改正等について(R010911行財政改革調査特別委員会資料)
不合理な税制改正等に対する特別区の主張(令和3年度版)