阪神・淡路大震災発生-緊急災害対策51の提言
この阪神・淡路大震災発生後の1月25日、区は助役を委員長に関係部課長で構成する「緊急災害対策点検調査委員会」を設置し、この大震災を教訓に、区の防災対策について点検調査を開始した。またその実態を把握するため、1月24日~26日の3日間、防災課職員3名を神戸市に派遣し、現地の被災状況の調査を実施、その報告書には建物倒壊、交通インフラ、火災延焼など、都市直下型地震がもたらす全ての被害が同時に発生した惨状が伝えられている。これらの分析を踏まえ、平成7(1995)年4月1日付の組織改正で総務部に災害対策担当部長を新設し、さらに同月20日には調査委員会の下に「災害活動態勢プロジェクトチーム」を編成、職員の配備態勢や避難所での応急活動態勢についての見直しを進めていった(※1)。
この調査報告では11の項目のもとに51の具体的な対策が提言されている。その主な内容は以下の通り。
- 1.情報連絡体制
地域系防災無線の導入(通話機能に加えファクス・映像送信)、テレビ文字放送の活用、民間ヘリコプターの活用(協定締結)、災害連絡用直通電話の設置 - 2.初期消火体制
街頭消火器・小型消火ポンプの増設、地下旧受水槽の活用、民間の防災井戸指定拡充、地域の防災行動力向上(地域防災組織・総合防災訓練等) - 3.救援センター
区立小中学校等救援センターの増設・機能強化(29校→45校、防災井戸の設置)、二次避難所の設置(高齢者・障害者・児童福祉施設) - 4.飲料水の供給
ペットボトル飲料水の備蓄開始、公衆浴場の井戸活用(協定締結)、飲料水用井戸の整備(上池袋さくら公園) - 5.物資の備蓄等
備蓄倉庫の増設(分散備蓄)、備蓄品目の見直し・拡充(品目増)、資機材品目の見直し・拡充(仮設トイレ等)、民間企業からの物資優先供給確保(協定締結) - 6.医療救護体制
医療救護体制の強化(医師会に加え歯科医師会・薬剤師会・柔道接骨師会と協定締結)、医療資機材の見直し・拡充、救急指定医療機関との連携強化 - 7.高齢者・障害者等の救助体制
高齢者・障害者等災害時要援護者名簿の作成(地域防災組織との連携)、救助活動の手引き・外国語防災地図等の作成 - 8.区有施設等の安全点検
区施設耐震診断、橋梁等の安全点検、高速道路・地下街等の安全点検要請 - 9.防災意識の啓発・向上
消火器・防災用品のあっせん、啓発ビデオの作成・講演会の開催等 - 10.地方都市との相互応援
災害時の物資提供・救助活動等に関する相互応援協定締結 - 11.応急活動態勢
災害対策要員の増員、防災・応急救助研修の実施、防災ハンドブックの作成、職員参集訓練の実施
※1 ※2
以後、この実施計画に基づき、避難所・救援センターとなる小中学校の防災井戸の整備や備蓄物資・資機材等の配備、災害対策要員の増員や要員用宿舎の借上げなど、災害に備えた応急態勢が整えられていった(※4)。また区施設の耐震補強については、旧庁舎地での建替え方式だった新庁舎整備計画が平成8(1996)年4月に事実上の凍結に追い込まれ、その結果、当分の間は既存庁舎を活用していかざるを得なくなったことから、総事業費約17億円をかけ、9(1997)年7月から12(2000)年6月までの3か年で当時の最新免震技術を導入した耐震補強工事が行われた(※5)。また小中学校の耐震補強対策事業についても、児童生徒の安全確保に加え、災害時には各小中学校が避難所・救援センターとなることから、厳しい財政状況の中でも優先して進められた。平成11(1999)年度末時点で小学校13校、中学校4校で耐震診断が既に実施済みとなっており、そのうち学校適正化計画により11(1999)年4月に統合が予定されている要町小学校(現要小学校)は10(1998)年度中に耐震補強工事が完了し、また同じく既存校舎を活用して統合が予定される大塚台小学校(現朋有小学校)、大塚中学校(現巣鴨北中学校)も統合スケジュールに合わせて工事が進められていた。この3校のほか、7(1997)年度に実施された耐震診断で補強工事が必要と判定された朝日小学校、千川小学校、駒込中学校、長崎中学校の4校も補強工事あるいは耐震設計の段階に進んでおり、これら小中学校の耐震補強対策に係る平成8~11(1996~1999)年度の経費(当初予算ベース)は約12億円にのぼっていた(※6)。
しかしこれら区庁舎及び小中学校を除いた区施設の耐震補強は、そのほとんどが手を付けられない状況だった。また悪化の一途をたどる区財政は、緊急災害対策の実施計画で目標とした最低限必要な整備さえも達成困難なものにしていた。5か年計画の最終年度を控えた12(2000)年1月、区は4か年の達成状況を明らかにするとともに計画の見直しについて区議会に報告した。その報告では、提言の51項目76事項のうち57事項が完了、19事項が未了となっていた。そして区はこの19事項のうち救援センター及び防災倉庫の備蓄物資・資機材の配備拡充など7項目は引き続き取り組んでいくこととしたが、整備経費が大きい地域系防災無線の導入や区有施設の非常用電源、貯水槽・井戸の増設など10事項を見送ることとし、情報連絡用の携帯電話の導入及び災害対策要員の増員の2事項についても見直すこととしたのである(※7)。
第2章第1節第1項で述べた通り、前年4月に加藤前区長から区政を引き継ぎ、新区長として初めて臨む平成12(2000)年度の予算編成にあたり、高野区長が直面したのは区財政の危機的状況だった。72億円にものぼる財源不足に加え、区の借金である債務残高は土地開発公社への未償還額を含め872億円に膨れあがり、その一方、区の貯金にあたる各種基金は取崩しや運用を繰り返してきた結果、36億円にまで落ち込んでいた。さらに13(2001)年度以降も毎年50~80億円もの財源不足が見込まれていた。このため平成12・13(2000・2001)年度の2か年を「行財政緊急再建期間」に位置づけ、聖域なしの行財政改革の断行が表明され、休廃止・縮小を含めたあらゆる事業の見直しが進められるなか、防災対策すらもその例外ではなかったのである。
こうして「緊急災害対策51の提言」は未完のまま終了することになったが、阪神・淡路大震災を教訓として区民の防災意識や区の防災対策のあり方に大きな変化をもたらした「自助」「共助」「公助」という考え方に基づく取り組みについて触れておきたい。
※3 平成7年度豊島区補正予算(案)概要(H070616議員協議会資料、H070616・H070629議員協議会資料)、
H070609プレスリリース、
「緊急災害対策51の提言」実施計画(H080208予算内示会資料)、
平成8年度新規・拡充事業(H080202正副幹事長会資料)
※4 平成8年度「緊急災害対策51の提言」執行計画執行実績報告書(H081030防災対策調査特別委員会資料)、
H080830プレスリリース、
H070901プレスリリース
※5 東京都豊島区役所本庁舎耐震補強設計及び工事について(H090708・H110924企画総務委員会資料)、
東京都豊島区役所本庁舎耐震補強工事[免震レトロフィット工事](H110128庁舎建設調査特別委員会資料)、
H120424プレスリリース
※6 区立小・中学校耐震診断結果/耐震補強事業予定及び経費見込額(H080415議員協議会・H081113文教委員会資料)、
小中学校適正配置・耐震工事事業見込額(H090206予算内示会資料)、
東京都豊島区立要町小学校耐震補強及び家庭科室改修その他工事について(H100618企画総務委員会資料)
公助から自助・共助へ-災害時要援護者対策
一瞬にして壊滅的な被害をもたらす都市直下型地震に対して、消防はじめ行政機関の対応には限界があることがあらわになり、以後、国や自治体の防災対策において行政機関による「公助」に対し、まず自らの身は自分で守る「自助」と近所や地域に住む人々が助け合う「共助」の重要性が強調されるようになっていったのである。
豊島区においても、阪神・淡路大震災発生翌月の平成7(1995)年2月5日、15日に震災に対する日頃の備えや区の災害対策の現況等に関する記事を広報紙定例号に掲載したのに続き、26日には号外として「広報としま防災特集号」を発行した。「いざというときの備えを!」と題されたこの特集号は区内避難所・避難場所の地図とともに各家庭で取り組むべき備えや地域・職場での地震対策をまとめ、保存版として新聞折込により全戸配布された。また同年7月には広報ビデオ「地震ある?自信ない?~豊島区民防災事始め~」を制作し、地域防災組織や商店街、区立小中学校に配布するなど、区民に「自助」の必要性を訴えていった(※9)。また阪神・淡路大震災の惨状を目の当たりにし、区民の間にも首都直下地震に対する危機意識が高まり、非常持出袋や食料・飲料水等の備蓄をはじめ、特に阪神・淡路大震災では家具等の下敷きになって逃げ遅れた人が多かったことから家具転倒防止器具の取り付けなど、自らの身は自分で守る「自助」の取り組みが広がった。
しかし、高齢者や障害者等の災害弱者に「自助」を求めることには限界があり、災害時の避難誘導や救護には地域での「共助」が不可欠だった。特に障害者については障害の種類や程度によりきめ細かな対応が必要になるが、平成10(1998)年8月にまとめられた「災害弱者のための防災対策」からは障害者のための災害対策はあまり進んでいなかった状況が見て取れる。災害時に援護が必要な障害者等についてあらかじめ登録してもらい、災害時には地域防災組織である町会が安否確認をする取り組みが行われてはいたが、個人情報の取り扱い等の問題により登録者数は2~3割程度にとどまっていたのである(※12)。
その後、高齢者・障害者等の災害時要援護者対策が本格的に動き出すのは、阪神・淡路大震災発生から10年が経過した平成17(2006)年度のことになる。この間にも平成12(2000)年10月の鳥取県西部地震、15(2003)年5月の宮城県沖地震、同年9月の十勝沖地震、16(2004)年10月の新潟県中越地震など震度6を超える震災が全国各地で頻発し、首都直下型地震への緊迫性がいよいよ高まるなか、区議会でも災害時要援護者への対策を求める意見が出されるようになっていた。また17(2006)年3月には総務省から都道府県に対し、災害時における災害要援護者について、地方自治体の福祉関係部局が所有する個人情報を積極的に活用し、救援救護活動に取り組むよう指導する文書が出された。これらの動きを受け、区は同年6月、委員長を総務部長、副委員長を保健福祉部長に防災・福祉各部門関係8課で構成する「災害要援護者対策検討委員会」を設置し、災害時要援護者名簿の作成に向けた検討を開始した。
この災害要援護者名簿とは、要介護認定者(要介護度3~5)、愛の手帳所持者(1~4度)及び身体障害者手帳所持者(1~4級)を災害要援護者と位置づけ、それぞれ介護保険課、障害者福祉課及び中央保健センターが保有する個人情報を基に作成するもので、本来であればこれら個人情報は業務目的以外の活用や他課と共有することなどは認められていなかった。平成13(2001)年1月に施行された個人情報保護条例(令和4年4月1日「個人情報の保護に関する法律施行条例」施行に伴い廃止)は、業務を通じて収集した個人情報について本人の同意がある場合や本人の意に反せず既に公にされている場合、法令等に定められている場合、また「人の生命、身体、健康、生活又は財産を保護するため、緊急かつやむを得ないと認められるとき」のほか、「実施機関が審議会の意見を聴いて公益上特に必要があると認めるとき」を除いて目的外使用や外部への提供を禁じていた。言うまでもなく震災はまさに「緊急かつやむを得ないと認められるとき」に他ならなかったが、しかし地震発生後の非常事態に要援護者の情報をやり取りしているのでは救助活動にはとても間に合わない。そのため、いつ起きるかも分からない震災に備えて事前に名簿を作成し、平常時から救援救護体制の整備に活用していく必要があった。
その一方、この名簿はあくまで庁内での共有に限られ、平常時に消防署や地域防災組織等に提供することはできなかった。名簿は震災が発生し、「緊急かつやむを得ない」と区長が判断した場合になってはじめて外部機関へ提供できるとされ、震災直後の近隣住民等による応急活動ではその活用には限界が見られた。このため庁内共有名簿の作成作業に並行し、災害時に援助を必要とする本人からあらかじめ同意を得た上で、消防署や町会等に同意者の情報を事前に提供しておく「手挙げ方式」の名簿の作成についても検討が行なわれた。だが、どこまでの個人情報をどこまでの範囲で提供していくのか、また町会等に情報を提供するにしても震災発生時にどのように活用していくか、さらに受け皿となる町会等の理解や体制づくりなど様々な課題が浮かび上がり、その検討は慎重に進められた。実際に手挙げ方式名簿を取り入れた先行自治体でも、自分の家の事情を近所には知られたくないといった声が多く、特に近隣関係が希薄な都市部ではプライバシーが名簿づくりのネックになっていたのである。そこで区は町会をはじめ、民生委員や消防・警察等関係機関と協議を重ね、町会への情報提供を前提に要援護者本人からの申請を受け付け、それを基に作成した名簿を町会に提供するとともに、災害時の避難方法や支援者をあらかじめ決めておく避難支援プランを各町会で作成することとした。また町会・消防・警察それぞれの役割分担を明確にし、警察署・消防署・消防団・民生委員の各関係団体への情報提供範囲は選択制とした。こうした手挙げ方式の仕組みを作り、区広報紙や町会回覧板、またケアマネジャーや民生委員等を通じて周知し、平成19(2007)年7月17日から申込み受付を開始した。その前日16日に新潟県中越沖地震が発生したこともあって受付開始当初は1週間で168名の申込みがあったものの、3か月後の10月末時点で448名、庁内共有名簿登載者8,235名の5%程度であった。その後も随時申請を呼びかけていったが、手挙げ名簿者数が飛躍的に増えることはなく7%程度に止まっていた。また各町会でもこの手挙げ名簿を基に避難支援プランを作成していくことになったが、その数は20(2008)年度に11町会、翌21(2009)年度に8町会を加え19町会となり、プランを活用した避難訓練が開始される一方、町会により取り組み姿勢に温度差が見られ、プラン作成町会数もそれ以上には増えなかった(※14)。
この防災対策基本条例の制定後、区は平成25(2013)年度から約1年半をかけて町会や民生委員、介護保険事業者連絡会や障害者団体等と協議を重ねながら、災害要援護者に対して名簿登載の意思確認作業を行なっていった。この確認作業は個人情報の取扱いに関わることから慎重に進められ、要介護3~5の高齢者及び身体障害者手帳(1~4級)・愛の手帳保持者の名簿登載対象者約8,791名全員に25(2013)年12月と26(2014)年2月の計2回、名簿登録通知を発送し、登録を希望しない場合のみ「名簿登録不同意届」の提出を求めた。この時点で名簿登載者数は6,781名、対象者全員の77.1%になっていた。この人数は約600人にとどまっていた手挙げ方式名簿登録者の10倍以上にのぼるものだった。こうした登載者の拡大はただ通知を送るだけではなく、要介護高齢者に定期的に接する機会のあるケアマネジャーが制度の周知を図り、あるいはそうした機会のない障害者に対しては2回の通知による周知に加え、26(2014)年5月から民生委員が戸別訪問をして各地区別に名簿作成の趣旨説明や意思確認の聴取に回った。この際、対象者にはあらかじめ、民生委員が戸別訪問する旨の案内を送付して実施している。民生委員がこの役割を担ったのは、民生委員法に基づき守秘義務が既に課せられているため障害者等の生活状況を含めて聴取することが期待されたからであったが、以前から民生委員・児童委員協議会では「災害時一人も見逃さない運動」を通じた独自マップ作りを進めており、東日本大震災の際にはこのマップを活用した安否確認が行われていた。一方、名簿を預かることになる町会に対しては、区政連絡会等を通じて町会に制度の説明や理解・協力を求めるとともに、実際に名簿管理者となる町会役員を対象に個人情報の取り扱いについてのセミナー等を実施し、個人情報保護の徹底を図った。また障害の種類や程度別によりきめ細かな支援方法等をまとめた「障害者防災の手引き」を作成し、町会や民生委員等に配布して災害時要援護者対策に活用した(※16)。
こうした一連のプロセスを経て、平成26(2014)年7月、完成した災害要援護者名簿が町会、民生委員等に提供された。この名簿の活用方法については、平時から声掛けや防災訓練への参加呼びかけを通じて要援護者の緩やかな見守り体制を築き、災害発生時にはまず各々が安全を確保した上で救援センターの開設にあたり、その後、各センターの体制に応じて災害要援護者の安否確認・救助活動を行なうことが想定された。これは「自助」を第一としながら、次に「互助」「共助」の考えを位置づけたものだが、しかし高齢化が進む町会役員や民生委員だけで震災発生直後に救援活動を行なうのは負担が大きすぎることも懸念された。また当時、「命の72時間」として被災後3日を過ぎると生存率が極端に下がることが指摘されていたことを踏まえ、救援センターに集まってきた人々にも協力を呼びかけ、この3日間を目安に迅速かつ組織的な救助活動が行なわれるよう図ったのである。以後、区は災害時要援護者の受け入れ施設として特別養護老人ホームや区内の障害者通所施設を福祉救援センターに位置づけ、27(2015)年4月に特別養護老人ホーム等を運営する 6社会福祉法人(計 11 施設)と「災害時の福祉救援センター設置・運営に関する協定」を締結した。また救援センターの開設運営マニュアルに災害時要援護者への対応を盛り込むとともに、マニュアルを活用した災害時要援護者安否確認訓練を実施し、それらの内容を地域防災計画に反映させていった。(※17)。
さらに令和3(2021)年5月、災害対策基本法が改正され、新たに避難行動要支援者について個別避難計画の作成が各市町村長の努力義務に位置づけられた。この改正は平成25(2013)年6月の同法改正時に避難行動要支援者名簿の作成が義務づけられたことにより、約99%の市町村で避難行動要支援者名簿が作成される一方、避難計画の作成が完了している市区町村は約10%、また一部完了でも約57%に止まり、依然として多くの高齢者等が震災や風水害から逃げ遅れて犠牲になっている状況が見られたことから、避難の実効性を確保するためのものであった。この改正に先立ち、区は従前から避難行動要支援者の中でも発災による停電が生命の危機に直結する在宅人工呼吸器使用者については、平成 24(2012)年度から「在宅人工呼吸器使用者災害時個別支援計画」の作成を開始し、29(2017)年度からは支援計画作成業務を訪問看護ステーションに委託するとともに、自家発電装置の購入助成や策定作業の手引きを作成するなど個別の支援を行なっていた。ただこの対象となった在宅人工呼吸器使用者は区内で数十名に過ぎなかったが、法改正を受けて個別支援計画の範囲をさらに広げ、災害時要援護者6,178名のうち避難行動要支援者3,522名(いずれも令和2年度末時点)を対象とし、個別避難計画の作成に向けた検討が開始された(※18)。
※15 防災対策基本条例について(H241107防災・震災対策調査特別委員会資料、H250221総務委員会資料)、
豊島区防災対策基本条例(平成25年3月25日条例第6号)、
豊島区防災対策基本条例の一部を改正する条例について(H280701総務委員会資料)
※16 災害時要援護者名簿の作成について(H250927・H251128・H260611区民厚生委員会資料)、
平成25年度豊島区予算案重点事業(p19)、
「豊島区障害者防災の手引き」について(H250627区民厚生委員会資料)、
広報としま1585号(平成25年10月11日発行)
※17 H270408プレスリリース、
災害時における社会福祉法人等との協力協定の締結について(H270609防災・震災対策調査特別委員会資料)、
救援センター開設標準マニュアル(令和2年3月改定)、
豊島区地域防災計画平成25年修正について(H250723・H250910防災・震災対策調査特別委員会資料)、
豊島区地域防災計画平成26年修正について(H270109防災・震災対策調査特別委員会資料)
※18 災害時要援護者への対応について(R030901防災・震災対策調査特別委員会資料)、
災害時要援護者への対応について(R040720防災・震災対策調査特別委員会資料)、
豊島区在宅人工呼吸器使用者災害時個別支援計画作成事業の手引き【第3版】(令和3年3月)
防災ネットワークづくり-防災協定
区はそれ以前にも、昭和53(1978)年8月1日に豊島土木建設協会と締結した「水災時における応急対策に関する協定」から平成6(1994)年10月1日に東京都米穀小売商業組合豊島支部と締結した「災害時における応急精米の優先供給に関する協定」まで、17年間に区内の業界団体等11団体と災害時の応急対策に関する協定を結んでいた。これに対し阪神・淡路大震災発生以降には、わずか3年の間に平成7(1995)年に5件、翌8(1996)年に12件、9(1997)年には7件と、それまでの倍を超える協定を締結した。またこれ以降もその動きは継続し、協定の相手方も区内業界団体に限らず、区外も含めた民間事業者や大学等の教育機関、さらには遠隔の他自治体へと広がっていった(※19)。
区外の民間事業者との初の協定は、阪神・淡路大震災の発生から4か月後の平成7(1995)年5月1日、区は日本へリコプター株式会社との「非常災害時等における航空機の使用に関する協定」で、同協定は被災情報の早期収集や物資等の運搬、負傷者等の搬送などに想定されるヘリコプターの使用について同社の協力を得るためのものである。これはさらに同年10月にまとめられた「緊急災害対策51の提言」の1項目に位置づけられ、提言に先駆けて締結されたものであった。
「緊急災害対策51の提言」ではこの「民間ヘリコプターの活用」のほか、「公衆浴場の井戸活用」、「医療救護体制の強化」、「民間企業からの物資優先供給確保」、「地方都市との相互応援」の各項目で関係団体との協定の締結が挙げられていた。そこで区はこの提言に基づき、翌平成8(1996)年1月8日、東京都公衆浴場商業協同組合豊島支部と「災害時における井戸及び浴場の使用に関する協定」を締結した。この協定は同支部からの協力の申し出を受け、組合員所有の井戸及び浴場を使用し、飲料水・生活用水の確保を図るとともに、罹災者への入浴支援を行なうための手続きや相互の役割分担を定めるものであった。区は消火用・飲料用として活用するために民間井戸の防災井戸指定や救援センターとなる小中学校の防災井戸整備を進めていたが、現役の井戸として使用されている公衆浴場の井戸水は水量・水質ともに安全性が高く、周辺住民の飲料水として活用することが期待された。協定締結以降、区は公衆浴場井戸の水質検査や揚水ポンプの非常用発電機の設置を進め、7~9(1995~1997)年度の3か年で7か所への配備が完了した。しかし平成7(1995)年当時、区内には60の公衆浴場があったが、区民の生活・住居様式の変化に平成不況が重なり、公衆浴場経営は厳しさを増す一方で閉業する浴場が相次いでいた。この協定締結は、公衆浴場の経営支援の側面も少なからずあったものと思われる。なお災害時に命の水となる飲料水の確保策については従来は主食中心だった備蓄品目にペットボトル飲料水が新たに加えられたほか、8(1996)年2月9日には有限会社秩父ミネラルウォーター(現・株式会社秩父源流水)と「災害時における『飲料水等』の優先供給に関する協定」が締結された(※20)。
また医療救護体制に関する協定については、区は昭和55(1980)年6月に豊島区薬剤師会と「災害時における応急医薬品の優先供給に関する協定」を、平成4(1992)年2月には東京都柔道接骨師会豊島支部(現・東京都柔道整復師会豊島支部)と「災害時の医療救護活動に関する協定」を締結していた。そして豊島区医師会・薬剤師会及び柔道接骨師会の協力のもと、災害時には避難所や保健所等に医療救護所を開設し、医師・看護婦で構成される医師会医療救護班 と保健所医療救護班が応急救護にあたる体制が取られていた。その後、阪神・淡路大震災の発生を受け、従来の医療救護体制を見直し、その再編・強化を図るため、8(1996)年4月19日、区は豊島区医師会・歯科医師会・薬剤師会それぞれと「災害時の医療救護活動に関する協定」を改めて締結した。これにより従来の医師会医療救護班に加え、新たに歯科医療救護班が編成されるとともに、この三師会と柔道接骨師会、警察・消防及び区で構成される「災害医療運営連絡会」を通じて災害時の連携協力体制を強化していった。また9(1997)年2月25日には豊島薬業協同組合と「災害時における応急医薬品および衛生用品の優先供給に関する協定」を締結し、従前の薬剤師会による医療用医薬品の優先供給に加え、区内薬品店から市販の一般医薬品や粉ミルク、衛生・生理用品等が優先供給されることになった(※21)。
さらに民間企業からの物資優先供給確保のための協定として、前述した平成8(1996)年2月の秩父ミネラルウォーターとの飲料用ペットボトルの優先供給に続き、同年3月27日、区は生活協同組合コープとうきょう(現・生活協同組合コープみらい)と「災害時における応急生活物資の供給等に関する協定」を締結した。同協同組合は区内に4店舗を展開していたが、各店舗の商品はもとより在庫物資も含め食料品・生活用品等の優先供給が得られることになったほか、同協定書には災害時の組合員によるボランティア活動等の人的支援や都外事業区域の生活協同組合等との広域的な連携による支援等の協力内容も盛り込まれた。続く4月3日には、区内北大塚に本社を置く株式会社セレスポと「震災時における緊急設備支援に関する協定」を締結した。災害時には避難所等に情報連絡や医療救護のための仮設テントの設営が必要になるが、この協定により同社が有するテント設備等の緊急対応システムの提供が受けられることになった。このシステムは区の要請後24時間以内に必要なテントキャンプ資材の搬入から設置までを完了するもので、これにより避難所の迅速な開設が図られることになった。また翌9(1997)年6月9日、区内外でホテル事業を展開する株式会社イケオンと「災害時における宿泊施設等の提供に関する協定」を締結した。これにより同社が所有する池袋駅前の「第一イン池袋」(収容人員240名)と秩父市の「秩父ホテル」(部屋数20室)が被災者の宿泊施設・入浴施設として活用されることになった。さらにこれらの施設で収容しきれない場合は区内他ホテル等への斡旋調整を行なうほか、大規模災害時だけではなく火災や水害等の小規模災害時もホテル客室等を提供するなどの協力内容が盛り込まれた(※22)。
これら民間企業との協定締結のほか、平成8(1996)年5月17日に豊島長崎食品衛生協会と、翌9年7月23日には改めて同協会及び豊島池袋食品衛生協会と「災害時における応急食料供給の協力等に関する協定」が締結された。同協会は区内食品取扱業者・業界団体が加盟する地域組織で、この協定締結により災害時に応急食料の調理業務や調理設備機器等の提供、調理・衛生管理に関する指導等の協力が得られることになり、協定締結後に炊出し訓練等が実施されている(※23)。また9(1997)年2月4日には赤帽首都圏軽自動車運送協同組合城北支部と「災害時における応急対策用貨物自動車の供給に関する協定」、翌10(1998)年2月24日には豊島郵便局と「災害時における豊島区、豊島郵便局の協力に関する覚書」を締結し、災害時の物資運搬手段としてそれぞれが所有する車両の提供及び輸送業務の提供が得られることになった。豊島郵便局との覚書には車両提供のほか避難場所・物資集積場所として同局施設・用地の提供、被災区民の避難先や被災状況に関する情報共有、避難所への臨時郵便差出箱の設置、郵便・為替貯金・簡易保険等の災害時特別事務取扱等の協力内容が盛り込まれ、さらに12(2000)年9月21日には集配等で区内を巡回している郵便局員が区道の損傷等を発見した場合に、その情報を区に提供する「道路の損傷等の情報提供に関する覚書」も交わされている(※24)。
区内教育機関との防災協定の締結も積極的に進められた。平成8(1996)年3月29日、東京都立大塚ろう学校と災害時に同校施設の一部を障害者の二次避難所として活用する「障害者を対象とする避難所施設利用に関する協定」を締結したのをはじめ、同年4月8日に東京都立文京高等学校、8月8日に東京都立牛込商業高等学校(現・東京都立千早高等学校)、翌9(1997)年1月30日には東京都立豊島高等学校と「避難所施設利用に関する協定」をそれぞれ締結し、区内すべての都立学校との協力関係が整えられた。さらに区内私立学校法人との協定として、平成10(1998)年 7月7日に川村学園、同年7月30日に十文字学園、13(2001)年12月10日に学習院、15(2003)年4月1日に東京音楽大学、同年11月28日に立教学院、17(2005)年6月20日に大正大学、20(2008)年3月11日に帝京平成大学と「災害時における相互協力に関する協定」をそれぞれ締結し、災害時の一次避難所・防災拠点としての各施設の活用ほか、災害情報提供用の戸別受信機や消化器等の設置、防災訓練への支援等に関する相互協力関係を結んだ。なお学習院とは平成29(2017)年6月1日に「災害時のヘリコプター発着場としての敷地利用に関する協定」も締結している。また平成15(2003)年9月5日には料理専門学校である学校法人後藤学園と「災害時における相互協力に関する協定」を締結し、他の学校法人と同様に避難所として施設提供のほか、同施設内の厨房を活用し、同校教職員により被災者への炊き出しを実施する協力内容が盛り込まれた(※25)。
一方、これら民間団体や公的機関等との協定締結に並行し、阪神・淡路大震災を契機とする「緊急災害対策51の提言」に基づき、他自治体との防災協定締結が進められた。平成7(1995)年5月19日に山形県遊佐町と「非常災害時等における相互応援に関する協定」を締結したのを皮切りに、同年6月5日に群馬県万場町(現・群馬県神流町)、6月7日に埼玉県秩父市、7月6日に福島県猪苗代町と同協定締結した。これら4つの市町は昭和58(1983)年に姉妹都市提携を結んだ秩父市をはじめ区の事業や区外施設の設置等により交流のある自治体で、この協定締結により区と協定締結自治体のいずれかで災害が発生した際に、①食料、飲料水、生活必需品等の救助救援物資の提供、②医療・防疫資機材、発電機、車両等の応援対策用資機材の提供または貸与、③医療職、技術職、技能職等の職員の派遣、④被災者の一時収容のための施設の提供等の応援を要請に応じて実施し合う取り決めがなされた(※26)。
また平成8(1996)年2月16日には「特別区災害時相互協力及び相互支援に関する協定」が特別区間で締結された。この協定は、いずれかの区に大規模な災害が発生した場合に、被災の軽微な区が連携して協力・援助を行なうというものであった。なお平成23(2011)年3月の東日本大震災やその後の「首都直下地震等による東京の被害想定」の改定状況を踏まえて協定内容の見直しが行なわれ、26(2014)年2月14日、帰宅困難者対策や各区が応援協定を締結している他自治体との連携等の項目を追加した新協定が改めて締結されている(※27)。
こうした自治体間同士の相互応援協定は平成9(1997)年以降も次々に締結され、平成28(2016)年2月20日の神奈川県湯河原町との協定締結までの20年余りの間に、締結自治体数は15自治体に及んだ。この間、平成14(2002)年9月30日には区制施行70周年記念事業として「2002豊島区防災サミット会議」が初開催された。7(1995)年に協定を締結した遊佐町、万場町、秩父市、猪苗代町に加え、それまでに協定を締結した埼玉県三芳町、岩手県一関市、岐阜県関市を加えた3市4町の首長を招いて開催された同サミットでは、自治体相互の災害時支援のネットワークづくりとともに、災害時の相互協力関係に寄与するよう各分野での日常的な交流を深めていくことを謳う共同宣言が採択された。同サミット会議は17(2005)年11月にさらに栃木県那須烏山市、新潟県魚沼市、長野県箕輪町、茨城県常陸大宮市を加えた6市5町が参加して再び豊島区で開催されたのに続き、19(2007)年10月に箕輪市、20(2008)年10月に魚沼市でそれぞれ開催され、東日本大震災を挟んで27(2015)年11月に三度豊島区で開催された後、翌28(2016)年7月には那須烏山市で開催された。こうして回を重ねるごとに災害時支援のネットワークづくりはもとより、文化・観光、環境等の様々な分野での相互理解を深め、都市間交流へとつながっている(※28)。また16(2004)年10月23日に新潟県中越地震が発生した際には、協定締結自治体である新潟県堀之内町(現・新潟県魚沼市)へ救援物資の搬送や区民等から集めた義援金の贈呈等の物的支援とともに、被災建物の危険度判定を行なう技術職員を派遣するなどの人的支援を行なった。その後も19(2007)年7月16発生の新潟県中越沖地震、20(2008)年6月14日発生の岩手・宮城内陸地震の際にも各自治体間で連携し、相互応援の仕組みが活かされた(※29)。
以上、阪神・淡路大震災以降の防災協定締結の動きをたどってきたが、平成30(2018)年度末時点での協定締結団体(協定期間が終了したものを除く)は、特別区及び15自治体のほか、12の教育機関、19の自治体機関・公共的団体、48の民間団体の計95団体にのぼる(※30)。これら防災協定の締結を通じたネットワークづくりは、区単体では限界のある「公助」の領域を官民連携により拡大させることにつながったと言えるだろう。
※19 豊島区災害協定一覧表(H110201防災対策調査特別委員会資料)
※20 災害時における井戸及び浴場の使用に関する協定書(東京都公衆浴場商業協同組合豊島支部)(地域防災計画【資料編】より抜粋)、
H080108プレスリリース、
災害時における『飲料水等』の優先供給に関する協定(秩父源流水)(地域防災計画【資料編】より抜粋)
※21 災害時の医療救護活動に関する協定書(東京都柔道接骨師会豊島支部、現:東京都柔道整復師会豊島支部)(地域防災計画【資料編】より抜粋)、
H040210プレスリリース、
災害時の医療救護活動に関する協定書・実施細目(豊島区医師会、豊島区歯科医師会、豊島区薬剤師会)(地域防災計画【資料編】より抜粋)、
災害時における応急医薬品および衛生用品等の優先供給に関する協定書(豊島薬業協同組合)(地域防災計画【資料編】より抜粋)、
H090225プレスリリース
※22 災害時における応急生活物資の供給等に関する協定書(生活協同組合コープとうきょう、現:生活協同組合コープみらい)(地域防災計画【資料編】より抜粋) 、
H080327プレスリリース、
震災時における緊急設備支援に関する協定(セレスポ)(地域防災計画【資料編】より抜粋)、
H080403プレスリリース、
災害時における宿泊施設等の提供に関する協定(イケオン)(地域防災計画【資料編】より抜粋) 、
H090609プレスリリース
※23 災害時における応急食料供給の協力等に関する協定書(豊島・長崎食品衛生協会、現:豊島池袋食品衛生協会)(地域防災計画【資料編】より抜粋) 、
H080517プレスリリース、
H090723プレスリリース
※24 災害時における物資等の緊急輸送業務の協力に関する協定書(赤帽首都圏軽自動車運送協同組合城北支部)(地域防災計画【資料編】より抜粋)、
H090204プレスリリース、
災害時における豊島区、
豊島郵便局の協力に関する覚書(地域防災計画【資料編】より抜粋) 、
H100224プレスリリース、
H120901プレスリリース
※25 災害時における相互協力に関する協定(川村学園)(地域防災計画【資料編】より抜粋)、
災害時における相互協力に関する協定(十文字学園)(地域防災計画【資料編】より抜粋)、
災害時における相互協力に関する協定(学習院)(地域防災計画【資料編】より抜粋)、
災害時における相互協力に関する協定について【学習院】(H140124防災対策調査特別委員会資料)、
災害時における相互協力に関する協定(東京音楽大学)(地域防災計画【資料編】より抜粋)、
災害時における相互協力に関する協定(立教学院)(地域防災計画【資料編】より抜粋)、
豊島区と学校法人立教学院との災害時における相互協力に関する協定について(H151217防災対策調査特別委員会資料)、
H151128プレスリリース、
災害時における相互協力に関する協定(大正大学)(地域防災計画【資料編】より抜粋)、
H170620プレスリリース、
災害時における相互協力に関する協定(帝京平成大学)(地域防災計画【資料編】より抜粋)、
H200311プレスリリース、
災害時における相互協力に関する協定(後藤学園)(地域防災計画【資料編】より抜粋)、
豊島区と学校法人後藤学園との災害時における相互協力に関する協定について(H150916防災対策調査特別委員会資料)、
H150905プレスリリース
※26 豊島区と遊佐町との非常災害時等における相互応援に関する協定(地域防災計画【資料編】より抜粋) 、
H070522プレスリリース、
豊島区と神流町との非常災害時等における相互応援に関する協定(地域防災計画【資料編】より抜粋)、
豊島区と秩父市との非常災害時等における相互応援に関する協定(地域防災計画【資料編】より抜粋)、
H070607プレスリリース、
豊島区と猪苗代町との非常災害時等における相互応援に関する協定(地域防災計画【資料編】より抜粋)、
H070706プレスリリース
※27 「特別区災害時相互協力及び相互支援に関する協定」の見直しについて(H260409防災・震災対策調査特別委員会資料)、
特別区災害時相互協力及び相互支援に関する協定(地域防災計画【資料編】より抜粋)
※28 「2002豊島区防災サミット会議」の開催について(H140723防災対策調査特別委員会・H141004厚生委員会資料)、
H140930プレスリリース、
防災サミットの開催について(H170913・H171111防災対策調査特別委員会資料)、
H171101プレスリリース、
防災サミットin箕輪について(H190912・H191113・H200109防災対策調査特別委員会資料)、
防災サミットin魚沼について(H200911・H201113防災対策調査特別委員会資料)、
防災サミットの開催について(H271106防災・震災対策調査特別委員会資料)、
H271110プレスリリース、
防災サミットin那須烏山について(H280713防災・震災対策調査特別委員会資料)
※29 新潟県中越地震に関する支援活動について(H161027議員協議会資料)、
新潟県中越地震に関する対応について(H161109・H161216防災対策調査特別委員会資料)、
平成19年新潟県中越沖地震について(H190725防災対策調査特別委員会資料)、
平成20年岩手・宮城内陸地震への対応について(H200616議員協議会資料)
東日本大震災発生-未曾有の震災への緊急対応
一方、防災協定締結都市である岩手県一関市、福島県猪苗代市、栃木県那須烏山市、茨城県常陸大宮市の各被災市からは支援要請が出され、これを受けて区は震災翌日から救援物資の搬送を開始した。その第一陣として3月12日、飲料水・食料・毛布・ブルーシート等の救援物資を積んだトラック2台にそれぞれ防災課職員2名が同乗し、一関市と那須烏山市に向けて出発、さらに14日には常陸大宮市へ、15日には猪苗代町へと救援物資・職員が各被災地に向かった。また区民からも救援物資の寄付の申出は多かったが、被災地の状況を考慮し、紙おむつ等の衛生用品や飲料用ペットボトルなど品目を限定し、3月23日から受付を開始した。さらに被災者や復興支援に役立ててもらおうと、区内で撤去された放置自転車のうち引き取り手のないものを再整備した自転車を4月6日にいわき市へ50台、同月21日に石巻市へ100台、6月15日には盛岡市へ130台の計280台を搬送した。これら区による支援とは別に、NPO法人としまNPO推進協議会や岩手県出身学生グループなどによる自主的な救援物資の募集・発送活動も取り組まれた。「としまNPO推進協議会」は区内で活動するNPO法人やボランティア活動団体等の中間支援組織として団体間のネットワークづくりを進めているNPO法人であり、また岩手県出身学生グループは同県盛岡市の民間組織「SAVE IWATE」の復興支援活動に参加した学生を中心に10名ほどで「SAVE IWATE東京支部」を立ちあげ、区内要町の「岩手県学生会館」を活動拠点にしていた。同グループは支援物資の募集のほか、岩手県内陸部に避難した被災者たちの手作りによる「復興ぞうきん」の販売支援も手掛け、平成24(2012)年2月21日には、この「としまNPO推進協議会」と「SAVE IWATE東京支部」の双方が参加する実行委員会により「復興支援チャリティ・イベント~東北の郷土料理づくりと交流会~」が開催された。この例に限らず、被災地の復興に向けた支援の輪が全国的に広がるなか、風評被害に苦しむ福島県を応援するための「がんばろうふくしま!」運動をはじめ、目白駅前美化同好会主催の「目白から元気よとどけ!」横断幕設置、宮城県を舞台とした映画「エクレール・お菓子放浪記」上映会、大正大学生制作による「大正ねぷた」「復興ダコねぷた」が展示される「光とことばのフェスティバル」、豊島観光協会主催による「お国自慢in池袋(全国観光都市PR展)」など、区内各地域で様々な支援イベントが展開された。また区職員も販売価格の一部を義援金に充てるチャリティクールビズ・ポロシャツを製作し、職員へ頒布する取り組みで支援の輪に加わった(※32)。
被災地へのこうした支援とともに、職員の派遣等の人的支援も展開された。いち早く動いたのは豊島区社会福祉協議会だった。区の職員派遣に先立ち、平成23(2011)年3月26日~30日までの5日間、新潟県中越沖地震の際にボランティアとして参加した経験のある同協議会職員を福島県相馬市災害ボランティアセンターに派遣し、4月以降も5日間ごとに福島県内の各ボランティアセンターに職員を順次派遣していった。また区内特別養護老人ホーム等の運営を担う豊島区社会福祉事業団も4月~6月にかけて宮城県気仙沼市等の介護施設に職員を派遣した。一方、区の職員派遣については全国市長会を通じ、被災各自治体からの派遣要請に応じて23区が協調して職員を派遣することになり、豊島区からも4月1日~3日までの3日間、被災した家屋の危険度や地盤被害等の調査にあたる技術系職員3名を仙台市に派遣、4月4日に帰庁した職員からは想像を超える現地の惨状が報告された。これに続き、4月24日~30日に宮城県仙台市へ清掃職員3名、5月31日~6月7日に岩手県宮古市への保健師・栄養士等の保健所職員5名が派遣された。さらに区はこの23区共同派遣に加え、区独自の職員派遣を行なうことを決定し、4月21・22日に現地事前調整のための先遣隊5名を派遣したのに続き、5月以降、罹災証明発行等の事務を担う事務系職員や地震調査等を担う技術系職員等を、防災協定を締結している一関市をはじめ、岩手・宮城・福島各県の被災自治体へ順次派遣した。これら区職員の派遣人数は23区共同派遣も含め、3月31日~9月30日までの半年間に延べ162名に及んだ(※33)。
※31 東北地方太平洋沖地震の対応について(H230316・H230322・H230523議員協議会資料)、
東北地方太平洋沖地震の対応について(H230317・H230616防災対策調査特別委員会資料)、
H230315プレスリリース、
H230324プレスリリース
※32 H230315プレスリリース、
H230322プレスリリース、
H230421プレスリリース、
H230615プレスリリース、
H230323プレスリリース、
H231130プレスリリース、
H240221プレスリリース、
H230514プレスリリース、
H230602プレスリリース、
H230826プレスリリース、
H230909プレスリリース、
H231105プレスリリース、
H230712プレスリリース
※33 H230323プレスリリース、
H230328プレスリリース、
H230407プレスリリース、
H230422プレスリリース、
東日本大震災の清掃事業への影響と対応についてについて(H230609清掃・環境対策調査特別委員会資料)、
H230419プレスリリース
さらに被災者の生活支援について区から全面委託を受けた社会福祉協議会は、区内避難者同士や区民との交流の場として巣鴨・千川の2か所に常設のサロンを開設するほか、公益社団法人全日本司厨士協会の協力を得て、一流シェフが料理をふるまう「としま地域交流のつどい」を毎年開催するなど、被災者が地域のなかで孤立しないよう心の支援にもあたった。
また区は避難生活に伴う不安を解消するため、10月1・3日に避難者を対象とする緊急法律相談会を開催した。平成23(2011)年9月22日時点で被災地から区内への避難者は109世帯・205名にのぼっていたが、その約8割が福島県避難指示区域からの避難者で、原子力発電所事故の影響を受けていた人も少なくなかった。すでに同月12日から東京電力に仮補償を申請した避難者のもとに原子力損害賠償に関する請求書類が送られていたが、書類の量が多く内容も複雑であったため、区内に事務所を構える弁護士法人東京パブリック法律事務所所属の弁護士が煩雑な手続きを支援した(※36)。
さらに電力供給量低下の影響は続き、5月13日、国の電力需給緊急対策本部は夏の冷房使用による電力需要量の増加対策として、夏期想定需要量の10.3%抑制を目標とする「夏期の電力需給対策」を決定した。これを受け、区は5月31日、前年ピーク時の電力使用量の15%削減を目標とする「夏期の電力不足への対応方針」をまとめ、この方針に基づき、7月~9月に3か月間、施設の利用形態に応じて削減率を設定し、一部施設の開館日や職員体制の縮小、省エネ電灯への切り替えなど様々な節電対策を講じた。その結果、区関連施設全体で目標値を大きく超える22.3%の削減を達成したが、その後も産官学連携による「家庭の省エネ診断」や中小企業向けの節電無料セミナーを開催するなど、区民にも節電・省エネを呼びかけていった。また12月9日には夏期の電力削減量の2分の1にあたる 11%を削減目標とする「冬期の電力不足への対応方針」をまとめ、引き続き節電対策を進めていった(※37)。
しかし、福島第一原子力発電所事故は電力不足だけに止まらず、高濃度の放射性物質が大気中へ放出されたことにより、放射能汚染というより一層深刻な問題を引き起こした。平成23(2011)年3月22日に都の金町浄水場の水道水から1歳以下の乳児の摂取基準を超える放射性物質(放射性ヨウ素)が検出され、翌23日、乳児の水道水摂取抑制とペットボトル飲料水の配布が都で決定されたことを受け、区においても24日から乳児1人につきペットボトル3本の配布が開始された。急な決定により飲料水の手配が滞るなか、同日、防災協定締結自治体である岐阜県関市から10トン、4月5日には同じく新潟県魚沼市からも飲料水ペットボトル2,400本が届けられた(※38)。
同浄水場の放射性物質検出量は数日以内に下がり、他の浄水場も含め継続的なモニタリングが実施され、都は飲用しても健康上の問題はないことを呼び掛けたが、放射能汚染に対する不安はますます高まり、被災県産の農作物や海産物に対する風評被害が広がっていった。こうした区民の不安を解消するため、区は6月から週1回、朋有小学校の校庭で大気中の放射線量を簡易測定し、その測定値を公表する区独自の放射線測定を開始した。6月3日に実施した初回測定値は国際放射線防護委員会の勧告による平常時の指標値を下回り、またその後、朋有小学校での定点観測に加え、6月28日までに9施設延べ12回の測定が行なわれたが、いずれも指標値を下回っていた。さらに区は独自測定の充実を図るため、測定地を区立小中学校31校、幼稚園3園、保育所24園の全てと主要な公園5園で実施していくとともに、測定対象を大気中の放射線量に加え、土壌・砂場・プールなどにも拡大していくことを決定した。また8月1日にはこれらの測定値を報告するとともに放射能汚染とその影響について区民に正確な情報を提供することを目的に「豊島区放射線に関する特別講習会」を開催、さらに11月16日にも放射能に関するセミナーを開催するなど、放射能汚染に対する区民の不安払しょくに努めた(※39)。
だがそれでも区民の不安は解消されず、6月開会の区議会第2回定例会に「原発依存のエネルギー政策から自然エネルギーへの転換を求める陳情」「豊島区在住の子ども(未就学児童、児童、生徒)に対する被曝許容放射線量1ミリシーベルト基準の宣言と豊島区内ホットスポット実態調査。並びに保育園、幼稚園、小学校の給食における食材安全の確認と確保。保育園・幼稚園・小学校・中学校の2011年度夏季プール安全確保についての陳情」「豊島区で安心して子育てできる放射能対策についての陳情」の3件が提出された。さらに9月開会の第3回定例会に「3月11日福島第一原子力発電所事故から漏れ出している放射線物質の長期化により空気や水、食糧の汚染から、外部被曝、体内被曝に怯えることのない暮らしを取り戻すための防護・安全・確保についての陳情」「放射能から子ども達を守るため食品検査及び砂場と園庭の除染を求める陳情」の2件、続いて11月開会の第4回定例会にも「豊島区の保育園における放射能対策についての請願」「放射能から子ども達を守るため食品検査及び砂場と園庭の除染を求める陳情」と2件が出され、平成23(2011)年内だけで計7件の請願・陳情が提出された。区が独自調査を進めている最中であったことから、これらの請願・陳情はいずれも「継続審査」の取扱いとなったが、そのタイトルからも推察できるように、子どもたちを放射能汚染から守りたいという保育園保護者・関係者からのものが過半を占め、特に給食食材について放射性物質の検査を求める声が強かった。
※37 H230531プレスリリース、
H231028プレスリリース、
夏期の電力不足への対応方針、
東日本大震災に伴う電力不足対策について(H231028・H231209議員協議会資料)、
H230707プレスリリース、
H231027プレスリリース、
平成24年度冬期の節電方針、
H231209プレスリリース
※38 H230324プレスリリース、
H230324プレスリリース、
H230405プレスリリース
※39 H230603プレスリリース、
区独自の放射線量測定について(H230609清掃・環境対策調査特別委員会資料)、
大気の放射線量の測定結果について(H230630総務委員会資料)、
東日本大震災に伴う放射能汚染対策について(H230615・H230708・H231028・H231209議員協議会資料)、
原発事故の影響への対応について(H230701子ども文教委員会資料)、
H230801プレスリリース、
H231114プレスリリース
またこの給食食材の放射性物質検査に並行し、区は子どもたちが日常的に利用する公園についてもそれまでは5か所で実施していた空間放射線測定を区内全公園158か所に拡大して実施することを決定した。これらの測定からも基準値を超える値は計測されず、その測定結果から区内においては広域的に放射性物質に汚染された地域は存在しないと考えられた。だがその一方、23区内でいわゆる「ホットスポット」と呼ばれる学校内の側溝や排水溝、雨樋等で放射線量が局所的に高い場所が発見される例が見られたことから、年明け平成24(2012)年1月~3月にかけて、全区立小・中学校、幼稚園(私立園含む)、認可保育所(私立園含む)の計84施設で児童・生徒たちが活動する場所を中心に、施設規模に応じて5~10か所を対象とする空間放射線量詳細測定を実施することを決定した。また、給食食材の放射性物質検査についてもサンプリング調査の対象外だった区立小・中学校、保育園で検査を実施し、24(2012)年3月までに全校・全園での検査を完了させることを決定した(※41)。
こうして東日本大震災発生から半年余りの間、区は様々な課題への対応に追われた。だが震災による影響は広域的・複合的な様相を呈し、震災対策は区政全般にわたり、かつ長期的に取り組むべき課題として区の行財政運営の行方を左右するものとなっていた。このため、平成23(2011)年9月1日、それまで課題ごとに緊急対応策を検討してきた危機管理対策本部に替わり、区長を本部長に全部長を本部員とする「震災対策推進本部」(以下「推進本部」)が設置されることになった(※42)。
推進本部は総合的な震災対策の基本方針や震災対策基本条例(防災対策基本条例)の制定を視野にいれ、震災復興計画(震災復興の推進に関する条例・震災復興マニュアル)、BCP(業務継続計画)、池袋駅周辺混乱防止対策計画(帰宅困難者対策計画)、さらに地域防災計画の改定も含め(*括弧内はいずれも後の正式名称)、平成23~25(2011~2013)年度の3か年で震災対策の総合的な枠組みの構築をめざした。そしてこれらの検討を計画的に進めていくため、23(2011)年度前半の取り組みを総括するとともに、同年度後半における震災対策の方向性を明示し、さらに24(2012)年度の施策展開に向けた指針となる「震災対策の強化をめざした当面の方針」(以下「当面の方針」)を策定した(※43)。
同方針では震災への対応強化にかかる基本的方向として(1)区の総力をあげて区民の不安解消と安全な生活の確保をはかる、(2)総合的な震災対策の構築へ着手する、(3)防災力の大幅な強化を3年間で成し遂げるの3項目を掲げ、また平成23(2011)年度後半に取り組む緊急対応プロジェクトの第一に「震災により直面した緊急課題への対応」を挙げ、①被災地支援・被災者支援、②電力不足への対応、③放射能不安への対応の3点を実施するとしている。これら①~③は震災発生後、半年間行ってきたものであったが、この当面の方針に基づき、引き続き継続的に取り組んでいくとされた。
なかでも区民の不安が大きかった放射能対策については取り組み③に基づき、平成23(2011)年12月、それまでの経緯を踏まえた「放射性物質対策ガイドライン」を策定するとともに、前述したように全区立小学校・幼稚園・保育園を対象とする空間放射線量詳細測定と給食の放射性物質検査を、翌24(2012)年1月から開始した。このガイドラインは放射線量測定の当面の目標値を「毎時0.23マイクロシーベルト以下」に定めるとともに、その目標値を超えた場合の除染方法等を示している。区立小中学校、区内の幼稚園・保育所、東西子ども家庭支援センター 86 施設のホットスポットと思われる地点の詳細測定を行った結果、1月18日に実施した測定において西巣鴨第二保育園非常用滑り台下から目標値を超える0.37マイクロシーベルトが検出された。このため区は翌19日に表面の砂を除去する除染作業を実施し、その結果、その後の測定値は0.12マイクロシーベルトにまで低減した。また2月13日の測定で要町保育園非常用滑り台下から0.32マイクロシーベルトが検出され、表面の土を除去した上で他所からの土で覆う除染作業を行い、測定値は0.10マイクロシーベルトまで低減した。以後、2月15日に東池袋保育園非常用滑り台下から0.45マイクロシーベルト、2月22日に雑司が谷保育園非常用滑り台下から0.34マイクロシーベルト、3月7日に西部子ども家庭支援センター非常用滑り台下から0.69マイクロシーベルト、同日明豊中学校バックネット裏のしいの木下から0.24マイクロシーベルトがそれぞれ検出されたが、いずれも同様の除染作業により0.10~0.16に低減した。86施設591地点のうち目標値を超えたのはこれら6地点のみで、それ以外の地点はすべて目標値以下であった。また当時、放射線量の簡易測定器が市販されていたことから、区民自らが測定して区に通報する例が多数あった。これらについても区は可能な限り対応し、23(2011)年12月18日~24(2012)年3月12日までに通報を受けた12施設17地点について区による再測定を行い、必要に応じて除染作業を実施した結果、いずれも目標値以下となった。さらにこうした通報を受けたことから、改めて区内全公園で放射線量詳細測定の実施を決め、24(2012)年4月~7月の間、区立公園・児童遊園等160施設998地点で測定した。その結果、13施設17地点から目標値を超える値が検出されたが、除染作業後はいずれも目標値以下となっている(※44)。
一方、これらいわゆるホットスポットの放射線量詳細測定に併行し、平成24(2012)年1月~3月に実施された区立小中学校・保育園の給食の放射性物質検査では、前年10月~12月に実施した検査と同様にすべて「検出せず」との結果となった(※45)。
平成24(2012)年9月、区は前年6月以降の放射能汚染対策の取り組みをまとめた「放射性物質対策報告書」を公表した。同報告書では「これまでの取り組みの結果、安全性は確保されているものと考えられる。一方、放射性物質の影響は長期化が懸念されている。今後も原子力発電所の事故の収束状況や放射能汚染の影響等を注視し、状況等に変化が生じた場合には、区民の安全・安心を確保するため、迅速に的確な対応を行う」と総括し、これ以降は区内3か所での空間放射線量定点測定に絞って実施していくこととした。以後、区は朋有小学校、仰高小学校、要町保育園の3地点での定点観測を継続して実施しているが、その測定値は目標値と比べ十分に低い値で推移している(※46)。
こうして放射能汚染対策は一定の成果を挙げて収束にいたったが、その一方で区民の放射能不安への対応として課題となったのが、被災地からの災害廃棄物の受け入れだった。東日本大震災により発生した災害廃棄物は2,300万tに及び、その処理には100年かかるといわれていた。こうした大量の災害廃棄物は瓦礫ごみとなって被災地の各所に積み上げられたままになっていて、復興の大きな妨げとなっていた。これらの災害廃棄物を当該地域だけで処理するには限界があり、他自治体の支援は不可欠だった。
このため都は平成23~25(2011~2013)年度までの3か年で約50万tの災害廃棄物を受け入れることとし、被災県と都及び都の外郭団体である東京都環境整備公社の三者で災害廃棄物の処理に関する基本協定を締結した。さらに都は公社に対して事業費補助及び運転資金の貸付を行い、その上で同公社は被災県と運搬処理委託契約を結び、被災地で安全性が確認された災害廃棄物を都内に搬入し、処理契約を結んだ事業者がリサイクル・破砕・焼却・埋立等をすることにより被災地の災害廃棄物処理を円滑かつ迅速に進めていくという事業フレームを構築した。
そして平成23(2011)年9月30日、この事業フレームに基づく先行事業として岩手県と都、同公社の間で基本協定を締結、処分業者の募集が開始された。この先行事業では建設混合廃棄物、廃機械・機器類等の混合廃棄物1,000tが対象であったため、委託先は大手の産業廃棄物処分業者に限られ、区内に該当する業者がいない豊島区には直接的な影響はなかった。だがこれに続いて同年11月24日、宮城県と都、同公社の間で基本協定が締結されるともに、特別区長会、東京都市長会、女川町、宮城県及び東京都の間で「宮城県女川町の災害廃棄物の処理に関する基本合意書」が締結された。この合意書は女川町の木くず等災害廃棄物(可燃性廃棄物)約10万tを特別区で組織する東京23区清掃一部事務組合の清掃工場及び多摩地域の清掃工場で円滑に処理できるよう相互に協力することを約するもので、10月14日に女川町長から要請を受け、11月15日の特別区長で受け入れを確認、合意書の締結に至ったものである(※47)。
これにより豊島清掃工場においても23区・多摩地区それぞれの割り当てに応じ、女川町からの搬出時にアスベスト等の有害物質の除去と放射能測定を行った上で受け入れることになった(※48)。都内への受け入れに先立ち、12月に石巻広域クリーンセンターで焼却試験を実施して安全性が確認され、翌平成24(2012)年1月には品川・大田の各清掃工場でも試験焼却を行った結果、放射性物質及びダイオキシン類、アスベスト等の各測定値はいずれも法規制値・協定値を下回り、通常焼却と比較して災害廃棄物を焼却したことによる影響は見られなかった。この試験結果を受け2月中に各区で住民説明会を開催し、3月以降、各清掃工場で本格的な受け入れを開始していくことになった。豊島区においては24(2012)年2月9日、豊島清掃事務所において区・都環境局・東京23区清掃一部事務組合の三者合同による住民説明会が開催されたが、実はこの2日前には豊島清掃工場運営協議会が開催され、委員である町会・商店街関係者に説明がなされていた。当然のことながら放射能汚染への不安から受け入れに反対する声もあがったが、何が何でも反対と言うよりも、できる限りの安全性の確保を求める意見が大勢を占めた。震災の惨状や復興に取り組む被災地の人々の姿が日々報道されるなか、何とか支援したいという心情が勝っていたものと思われる。なお24(2012)年4月、女川町での災害廃棄物処理の現状を視察するため、区長と区議会議員代表らが同町を訪れ、各所に積みあげられたままの瓦礫ごみの惨状を目の当たりにしたことから、5月11日に町の復興に役立ててもらおうと義援金100万円が贈られている。
こうして3月から都内各清掃工場での女川町災害廃棄物の受け入れが開始され、豊島清掃工場でも8月13日~25日の12日間に336t(1日平均28t)を受け入れることになった。これに伴い、受入前の8月8日と受入期間中の15日及び21日に清掃工場を中心に東西南北4地点で空間放射線量を測定した結果、災害廃棄物焼却の前後で周辺空間放射線量に変化がないことが確認された。そして受け入れ状況も含め、区はこれら測定結果をすべて公表した。またこの件に限らず、区は放射線量の測定結果や給食等の放射性物質検査の結果を区ホームページや広報紙等を通じてつぶさに公表し、放射能汚染に対する保護者等の不安に応えていった。放射能という見えない脅威に対する不安を100%解消することは難しいが、情報を得られなければ不安はさらに増大してしまう。だからこそ可能な限り早く、広く情報をオープンにしていくことが求められたのである。
※40 給食食材の放射性物質の測定について(H231003・H231201総務委員会資料)、
H231003プレスリリース、
H231028プレスリリース
※41 H231018プレスリリース、
公園の放射線測定結果について(中間報告)(H231111防災対策調査特別委員会資料)、
全公園における空間放射線量の測定結果について(H231201総務委員会資料)、
放射線の測定結果について(H231226防災対策調査特別委員会資料)、
H231209プレスリリース
※42 震災対策推進本部の設置について(H230914防災対策調査特別委員会資料)
※44 豊島区放射性物質対策ガイドライン、
H231226プレスリリース、
学校等の施設各所の空間放射線量測定について(H240111清掃・環境対策調査特別委員会資料) 、
学校等における空間放射線量の詳細測定結果について(経過報告)(H240127防災・震災対策調査特別委員会資料) 、
空間放射線量測定、給食の放射性物質検査等の結果報告について(H240322議員協議会資料)、
区民からの通報による測定結果と対応状況(H240127防災・震災対策調査特別委員会資料)、
公園等の空間放射線量の詳細測定結果について(中間報告)(H240713防災・震災対策調査特別委員会資料)
※45 保育園での給食の放射性物質検査の結果( 2月実施分)について(H240228子ども文教委員会資料)、
H240224プレスリリース、
空間放射線量測定、給食の放射性物質検査等の結果報告について(H240322議員協議会資料)
※46 放射性物質対策報告書、
H240914プレスリリース、
定点測定施設における空間放射線量測定について(H260410・H260610清掃・環境対策調査特別委員会資料)、
空間放射線測定(定点測定)について(H310326環境・清掃対策調査特別委員会資料)
※47 東京都の災害廃棄物受入発表について(H230930都市整備委員会資料)、
東日本大震災に伴う災害廃棄物の受入について(H231125議員協議会資料)
※48 女川町からの災害廃棄物の受入れについて(H240214・H240911 清掃・環境対策調査特別委員会資料、H240629都市整備委員会資料、H240706議員協議会資料)、
H240511プレスリリース
総合的な震災対策の推進-防災対策基本条例・震災復興条例の制定
1月20日、都が前年12月に発表した「2020 年の東京」計画の12のプロジェクトのひとつである「木密地域不燃化10年プロジェクト」の実施方針を公表した。このプロジェクトは首都直下地震発生時に大規模火災が想定される木密地域の解消に向け、「不燃化特区」という新たな制度を創設するとともに、延焼遮断帯を形成する主要な都市計画道路を特定整備路線に指定し、10年後に都の「防災都市づくり推進計画」整備地域内の不燃領域率を56%から70%に引き上げ、延焼による焼失ゼロを目指す構想である。この不燃化特区の先行実施地区の募集が2月から開始されることになり、区はこれに手を挙げる準備に入った。
また同じ2月2日には新庁舎が入る南池袋二丁目A地区市街地再開発事業建物の起工式が行われ、平成27(2015)年の完成をめざしていよいよ新庁舎整備工事が開始された。さらに同日から4日までの3日間、セーフコミュニティ国際認証の本審査が実施され、区の取り組みについて審査員から「世界でも1、2を争うレベル」との高評価が与えられた。そして翌日の2月3日には東京都・埼玉県等との連携による広域的な帰宅困難者対策訓練が初めて実施され、池袋駅周辺エリアの帰宅困難者対策において区自らがイニシアチブを取っていくことを表明した。
区制施行70周年の文化創造都市づくりから区制施行80周年の安全・安心都市づくりへと、区が目指す都市像に向けた取り組みが目に見える形になってきたのであり、2月17日に開会した平成24年第1回区議会定例会の所信表明の中で、区長も次のように述べている。
このように、周年ごとに祝う真意は、単なる慶祝の年ではなく、次の10年に向けて、区が取り組む新たなテーマを掲げ、そこに向かって舵を切る、そのターニングポイントとすることであると考えています。
そこで、当然のことながら平成24年は、区制施行80周年とセーフコミュニティの認証取得を同時に迎えることで、これまで豊島区が取組んできた都市像の集大成としての「安全・安心創造都市」の実現にはずみをつけ、次の90周年へさらに大きな一歩を踏み出していく、そういう契機の年にしていきたいと考えています。
この基本方針は23~25(2011~2013)年度の3か年を計画期間とし、前年9月に策定した「震災対策の強化をめざした当面の方針」を踏まえつつ、さらに区の防災・震災対策の総合的な枠組みの完成を目指すものであった。同じく3月に策定された区の基本計画の実施計画にあたる「未来戦略推進プラン2012」の中でも、東日本大震災の教訓を踏まえて震災対策を迅速に見直すとし、23(2011)年度を「緊急対応期」、24(2012)年度を「本格対応期」、25(2013)年度を「対応完了期」に位置づけている。
また震災後の復興対策に関しては、すでに平成20(2008)年度から都市復興マニュアルの作成に向けた検討が開始されていた。まず区内各地域の災害危険特性等を分析し、地区ごとの都市復興の方向性を探る基礎調査を実施し、この調査結果に基づき、21(2009)年9月~翌22(2010)年3月までの半年間にわたり、区内でも木造住宅の密集度が高い上池袋地区をモデル地区として震災復興まちづくり訓練が実施された。この訓練は建物の耐震化・不燃化等の予防対策や初期消火訓練等の応急対策ではなく、「自分たちのまちが被災したら復興をどう進めるか」という視点に立って地域住民自らが復興まちづくり方針を立案していく訓練で、あらかじめ復興のイメージを共有しておくことにより、円滑かつ迅速な復興につなげることを目的とした、いわゆる「事前復興」という考え方である。こうした基礎調査やまちづくり訓練の検証を踏まえ、22(2010)年度からマニュアル作成に向けた検討を本格化させ、翌23(2011)年7月に「震災復興マニュアル (都市・住宅復興編)」が策定された。同マニュアルは震災復興本部の設置や被災者の生活再建に向けた態勢整備、震災復興基本計画の策定等の震災復興全般に関することのほか、主に都市・住宅等のハード面での復興まちづくりの手順を時系列で示している。このマニュアルに基づき、23(2011)年9月に住家被害調査から罹災証明の発行、その後の復興支援につなげる新たなシステムを活用した「罹災証明発行訓練」が実施された。また上池袋地区に続き、24(2012)年度に池袋本町地区、25(2013)年度には雑司ヶ谷霊園南地区で同様の震災復興まちづくり訓練が実施され、それ以降も区内の木造密集地域で順次、同訓練が実施されていった。そしてさらに24(2012)年度からは都市・住宅復興編に続き生活復興編の検討が開始された(※51)。
こうした復興マニュアルの検討に合わせ、区はその根拠条例となる震災復興条例を防災対策基本条例とは別に制定することとした。両条例について庁内で検討した後、有識者や区内各関係団体から意見を聴取するとともに、11月に条例の素案を公表してパブリックコメントを実施し、これらの意見を踏まえ、翌平成25(2013)年第1回区議会定例会に条例案を提出。同年3月25日、区議会において防災対策基本条例と震災復興の推進に関する条例(以下「震災復興条例」)の2条例が同時に可決制定された(※52)。
防災対策基本条例は「自助」「共助」「公助」を基本理念とし、区民・事業者及び区の責務を明らかにするとともに、予防対策・応急対策・復興対策それぞれに関する基本的な事項を定めたものである。この条例の特徴のひとつは、区民・事業者のほかに「災害発生時に自宅外にいる者」を「外出者」と定義し、外出者も含めた区民・事業者それぞれの「自助」「共助」に関する責務や役割を規定したことである。また地域防災組織の育成・支援をはじめ、マンションの防災対策、災害時要援護者対策、ボランティアへの支援、防災まちづくりの推進等に関して区が実施する基本的な施策が予防対策として位置づけられ、さらに避難・救護、情報連絡体制等の従来の地域防災計画の内容を応急対策として根拠付けるほか、帰宅困難者対策の実施とこれを推進するための組織となる「駅周辺エリア防災対策協議会」の設立に関する条項、また放射性物質対策等の実施に関する条項など、東日本大震災の教訓を踏まえたものとなっていた。一方、防災対策基本条例に基づく個別条例として制定された震災復興条例は、区・区民・事業者等が協働して復興に取り組むことを基本理念とし、区長を本部長とする震災復興本部の設置ほか、被災市街地の復興に関する基本的事項として復興対象地区の指定及び指定地区内での建築行為の届出義務、復興基本計画の策定など、震災復興マニュアルの内容を根拠付ける規定が整えられた(※53)。
そしてこの防災対策基本条例の制定に伴い、平成25(2013)年度に地域防災計画が改定された。地域防災計画については東日本大震災発生を受け、すでに23(2011)年度に帰宅困難者対策や放射能汚染対策など新たな課題への対応ほか、情報基盤の整備や罹災証明発行システムの導入など大幅な改定が行われていたが、25(2023)年度改定では新たに帰宅困難者対策として駅周辺安全確保計画の策定や駅周辺エリア防災対策協議会の設立等に関する記載が加えられ、また震災復興マニュアルの作成を踏まえて災害・復興計画に関する記載部分の拡大が図られた(※54)。
また震災復興条例の制定に合わせ、平成25(2013)年3月、震災復興マニュアルの生活・産業復興編がまとめられ、先の都市・住宅復興編と合わせて、総則・体制編、都市・住宅復興編、生活・産業復興編及び資料編からなる「震災復興マニュアル」が完成した。新たに加えられた生活・産業復興編には医療・福祉、保健・衛生、生活支援対策等のくらしの復興をはじめ、教育・地域・文化の復興、仕事と産業の復興のそれぞれについて、都市・住宅復興編と同様に震災後の復興手順が時系列で示されている(※55)。
一方、こうした区の防災・震災対策の基本となる条例や計画を策定する中で、女性の視点を取り入れる新たな動きが生まれた。東日本大震災では避難所生活などで多くの女性たちが女性ならではの困難な状況に直面したことが指摘され、その教訓を踏まえて防災・震災対策に女性の視点を取り入れていくことが課題とされた。そこで豊島区においても初めて災害時における女性特有の問題課題を検討するため、平成23(2011)年11月14日、「女性の視点による防災・復興対策検討委員会」(以下「女性の視点検討委員会」)が立ち上げられた。この検討委員会は町会・青少年育成会連合会・子育てグループ等の区民団体、民生委員・児童委員協議会、豊島区社会福祉協議会、豊島消防団、豊島防火女性の会、池袋・目白・巣鴨警察署の各団体選出委員のほか一般公募区民に防災・母子保健関連の区職員を加えた20名の委員で構成され、そのうち18名を女性が占め、区内3警察署からも女性警察官が参加した。同年12月21日の第1回検討委員会から翌24(2012)年12月21日までの約1年にわたり、エポック10(男女平等推進センター)を会場に計8回の会議を重ね、25(2013)年1月30日、検討結果報告書を区長に提出した。なお24(2012)年4月20日の検討委員会では委員以外の区民も参加する公開講座として、女性の視点による防災・復興対策講座「女性たちが避難所で困ったこと~岩手の事例から~」が開催された。講師を務めたNPO法人参画プランニング・いわて理事長の平賀圭子氏はかつてエポック10に勤務したことがあり、18(2006)年から23(2011)年3月まで「もりおか女性センター」所長を務めた後、指定管理者として同センターの運営に携わっていた。必要なものを必要な人に届けるデリバリーケアプロジェクトや「女性の心のケアホットライン・いわて」の開設、被災女性の経済的自立支援事業の立ち上げなど体験に基づいた事例が紹介され、検討委員会メンバーに多くの示唆を与えた(※56)。
女性の視点検討委員会報告書には救援センター運営のあり方、地域での防災対策・防災活動、地域防災計画へ反映すべきことのほか、日常と災害はつながっているとの視点から地域における男女共同参画の実現についても記載されている。救援センター運営のあり方については運営本部への女性の配置や、着替えスペース等の女性や乳幼児に配慮した避難所機能の確保、性別に偏らない避難所運営のほか、女性や子どもへの暴力防止や相談窓口の設置、巡回相談体制の確保等が提言され、また地域防災計画に反映すべきこととして「被災者の人権尊重」「災害支援・復興にあたっての男女双方の視点の導入」を盛り込むことが提言された。
※50 防災・震災復興条例について(H240606防災・震災対策調査特別委員会資料)
※51 都市復興マニュアルについて(H210115副都心開発調査特別委員会資料)、
都市復興マニュアル基礎調査報告書のあらまし(H210715副都心開発調査特別委員会資料)、
H210929プレスリリース、
H220313プレスリリース、
震災復興マニュアルについて(H230114副都心開発調査特別委員会資料)、
豊島区の震災復興に備えて、
豊島区震災復興マニュアルについて(H230715副都心開発調査特別委員会資料)、
り災証明発行訓練について(H230713・H230914防災対策調査特別委員会資料)
※52 防災対策基本条例について(H241107防災・震災対策調査特別委員会資料、H250221総務委員会資料)、
豊島区防災対策基本条例【概要】、
震災復興に関する条例について(H240614副都心開発調査特別委員会資料) 、
震災復興の推進に関する条例(仮称)の骨子(案)(H240717副都心開発調査特別委員会資料)、
震災復興に関する条例について(H241114副都心開発調査特別委員会資料)、
豊島区震災復興の推進に関する条例について(H250222都市整備委員会資料)
※53 豊島区防災対策基本条例(平成25年3月25日条例第6号)、
豊島区震災復興の推進に関する条例
※54 豊島区地域防災計画の見直しについて(H230713・H240419防災対策調査特別委員会資料)、
豊島区地域防災計画平成25年修正について(H250723・H250910防災・震災対策調査特別委員会資料)
※55 豊島区震災復興マニュアル【本編】(平成25年3月)、
豊島区震災復興マニュアル【資料編】(平成25年3月)、
豊島区震災復興マニュアル〔生活・産業復興編〕のあらまし
※56 女性の視点による防災・復興対策検討委員会検討結果報告書、
女性の視点による防災・復興対策検討委員会について(H250313防災・震災対策調査特別委員会資料)、
H240420プレスリリース、
H250130プレスリリース
また東日本大震災では障害者の死亡率が高かったことが指摘され、津波警報が聞こえなかったため逃げ遅れた聴覚障害者も少なくなかった。このため、平成24(2012)年2月17日に聴覚障害者向け緊急地震速報受信器の区内各施設への導入を開始するとともに、災害時に頭や首等に巻くことにより聴覚障害者であることを周知できる「災害用聴覚障害者のためのバンダナ」を製作し、区内聴覚障害団体に配るほか障害者福祉課窓口等で配布した。翌25(2013)年4月には車椅子利用者や視覚障害者などの障害当事者が参加して作成した障害者向けの防災マニュアル「豊島区障害者防災の手引き」を配布するほか、前述した防災会議の定数増に伴い、障害者関係団体からも委員を任用するなど、障害者の防災対策を強化していった。さらに地域防災組織を担う町会役員等の高齢化が進むなか、特に働き手の大人たちの多くが地域外に出勤して不在となる日中には地域防災の担い手として中学生のマンパワーが期待された。このため各中学校でも防災教育が進められ、消防団等地域との連携による実践的な防災訓練が実施された。さらにそうした防災教育の中で被災地との交流が生まれ、25(2013)年3月9日には中高生が企画運営に参加した「3.11を風化させない」防災フォーラムが開催された(※58)。
一方、平成25(2013)年3月の震災復興マニュアル作成後、28(2016)年4月14日に発生した熊本地震での被災地支援活動を通じ、被災した区民の生活再建支援には住家被害認定調査及び罹災証明書発行業務の公平・公正かつ迅速な処理が欠かせないことが再認識され、発災時における業務実施計画の策定及び他自治体応援職員の受け入れを想定した受援計画の作成が喫緊の課題となった。このため同年8月に関係課職員による住家被害調査プロジェクトチームと罹災証明発行プロジェクトチームを立ち上げ、首都直下地震の発生を想定した各種復興業務に関する検討を開始した。さらに11月2日には東京都52区市町村が参加する「東京都被災者生活再建支援システム利用協議会」が発足し、首都直下地震が発生した際に相互に連携して被災者の生活再建を迅速に行っていくため、住家被害認定調査や罹災証明書の発行、生活再建支援業務等について標準化・電子化を図っていくことになった。こうした動きを受け、区は29年12月4日に一元的な被災者台帳の作成及び全庁的な活用を大方針とする「豊島区における被災者生活再建支援に関する方針」を定め、罹災証明発行訓練や被災者生活再建支援訓練等を通じて「罹災証明書発行計画・受援計画」や「住家被害認定調査計画」のバージョンアップが図られている(※59)。
また平成24(2012)年5月、区は発災時の業務継続性を確保するための「業務継続計画 (BCP:Business Continuity Plan)」【地震編・大規模停電編・新型インフルエンザ編】(以下「BCP」)を策定した。東日本大震災では市や町の庁舎等が被害を受け、また職員の多くも被災者であったため発災後暫くの間、行政機能の著しい低下が見られたことから、業務の中断により区民生活に大きな影響が出ることがないよう、発災直後の応急活動に並行し、区民生活に密接に関わる通常業務もできる限り迅速に再開することが求められた。このため区は全業務のうち特に優先度の高い業務を「非常時優先業務」として選定し、業務復旧の手順をあらかじめ決めておくBCPの策定に至ったのであり、BCPは言わば区役所版の復興マニュアルと言えるものだった。このBCPでは首都直下地震や新型インフルエンザ等大規模な感染症が発生し、職員も被災者や罹患者となって全職員が参集できないことが想定される場合、また大規模停電により各業務システム等の停止が想定される場合それぞれについて、発災直後の応急体制から優先度に応じて業務を順次再開していく基本的な流れが示されている。さらにこのBCPに基づき各部局単位でより具体的な「BCP実施マニュアル」を作成し、同年10月14日の総合防災訓練に合わせ、このマニュアルを検証するための全職場訓練が実施された。以後、こうした訓練等を通じ、マニュアルの改訂・整備が図られている(※60)。
※57 豊島区防災会議の委員の拡充について(H250129防災・震災対策調査特別委員会・H250221総務委員会資料)、
H301119プレスリリース、
女性の防災リーダーの育成について(R010710防災・震災対策調査特別委員会資料)
※58 H240217プレスリリース、
H240323プレスリリース、
H250408プレスリリース、
H230910プレスリリース、
H250227プレスリリース
※59 平成28年度豊島区罹災証明書発行訓練実施報告書(平成29年2月15日実施)、
東京都被災者生活再建支援システム利用協議会について(H290413防災・震災対策調査特別委員会資料)、
豊島区における被災者生活再建支援に関する方針(平成29年12月4日)、
平成29年度豊島区被災者生活再建支援訓練実施報告書、
平成30年度豊島区被災者生活再建支援訓練実施報告書、
豊島区罹災証明書発行計画・受援計画Ver.2.0(平成29年12月)、
豊島区住家被害認定調査計画 Ver.3.0(平成 30 年 12 月改定)
※60 豊島区業務継続計画【地震編・大規模停電編・新型インフルエンザ編】、
豊島区業務継続計画について【概要】、
豊島区業務継続計画について(H240606防災・震災対策調査特別委員会資料)、
H240620プレスリリース、
H241010プレスリリース
帰宅困難者対策-黒子からリーダーへ
平成23(2011)年3月11日の震災発生当日、首都圏の鉄道路線が運行停止となり、1都4県で推計約515万人、都内だけで約352万人もの帰宅困難者が発生した。豊島区においてもJR・地下鉄・私鉄の8路線が乗り入れる池袋駅を中心に区内各駅周辺で大量の帰宅困難者が発生し、駅構内や地下通路、駅前広場等に多くの人々が滞留した。またバス停やタクシー乗場、公衆電話の前には長蛇の列ができ、さらに駅周辺や幹線道路は徒歩で帰宅しようとする人々で混雑状態になった。
しかし、こうした取り組みを重ねていたにもかかわらず、東日本大震災発生時には通信連絡手段が一時途絶えたこともあって災害情報の把握や共有に混乱を来し、また池袋周辺の事業者の多くが自社等の安全確保対応に追われ、利用者・滞留者の避難誘導等の初動対応はほとんど行われなかった。
また震災後に内閣府が実施した調査(「帰宅困難者対策の実態調査結果について」:首都直下地震帰宅困難者等対策協議会事務局〔内閣府防災担当〕)によれば、震災当日、首都圏の企業739のうち約80%の企業が従業員に対して帰宅についての何らかの方針を出しており、うちすべての従業員に対して職場に留まるよう呼びかけた企業が約8%に止まっていたのに対し、原則として帰宅するよう呼びかけた企業は約36%にのぼっており、大部分の従業員に対して職場に留まるように呼びかけた企業の約41%も希望者や短距離で徒歩帰宅可能者には帰宅を認めていた。また同調査では14時46分の発災時に社内・学内にいた人3,072人のうち47.4%が17時台に会社・学校を離れており、また通勤・通学者以外の外出者も含めた5,372人のうち43.3%が通常の帰宅手段として鉄道・地下鉄を挙げているのに対し、震災当日の帰宅手段は徒歩が第1位で37.0%を占めていた。
こうした状況は区内においても同様であったと推測され、可能な限り早く自宅に帰ろうとする人々が一斉に駅に殺到したうえ、池袋駅の東西を挟む百貨店等が地震直後に閉店してシャッターを下ろしたため、行き場を失った大量の帰宅困難者が駅の外へとあふれ出したのである。また首都直下地震では建物の倒壊や火災、道路の寸断等も予測され、帰宅困難者の多くが徒歩で帰宅しようとすると、集団転倒や落下物による事故等の二次災害を引き起こす危険性があるばかりでなく、救急・消火活動や緊急輸送活動等の妨げになることが懸念された。
こうした区の方針転換については、平成24(2012)年1月19日の区長月例記者会見で2月3日に実施予定の都、埼玉県及び混乱防止対策協議会との合同による広域的な帰宅困難者対策訓練について発表した際も、区長自ら「黒子からリーダーへ」と区主導による対策強化を表明した。なおこの帰宅困難者訓練は例年の混乱防止対策協議会主催による訓練とは別に実施されたもので、池袋駅東西に情報提供ステーションを開設し、エリアメールやデジタルサイネージ等多様な通信媒体を活用した情報提供訓練や駅周辺集客施設等での一時待機訓練のほか、埼玉県庁をゴールとする中山道コース、新座市役所をゴールとする川越街道コースの2ルートで徒歩による帰宅を支援するシミュレーション訓練が実施された。また区は帰宅困難者向けのポケットサイズの「震災時対応マニュアル」を2万部作成し、3月 9日に池袋駅構内で通行者に配布、大震災発生時には「むやみに移動を開始しない」よう呼びかけた(※64)。
この間にも帰宅困難者対策のより具体的な行動計画の策定に向けた検討は進められ、前述したように平成24(2012)年3月、「総合的な震災対策の推進に向けた基本方針」とともに「帰宅困難者対策計画」が策定された。同計画は基本方針と同様に23~25(2011~2013)年度を計画期間とし、区や各事業者等が連携して取り組むべき対策として①一斉帰宅の抑制、②区の初動態勢の強化、③駅周辺における対策拠点の整備、④帰宅困難者の一時滞在施設の確保、⑤物資の備蓄等、⑥情報連絡・情報提供の確保、⑦安全な帰宅支援、⑧実践的な訓練の実施の8項目を挙げ、具体的な事業・取組みが年次計画で示されている(図表3-⑪参照)。また前年11月に国の首都直下地震帰宅困難者等対策協議会において「一斉帰宅抑制の基本方針」が承認されたことや、都においても企業などに全従業員分の水・食料・毛布の備蓄を要請するとともに、従業員を職場に待機させる努力義務や鉄道事業者に駅構内での帰宅困難者の一時保護を求める条例制定の動きがあることを踏まえ、都、区、管轄の警察署・消防署、鉄道事業者、駅周辺事業者等の役割を明確化するとともに、混乱防止対策協議会の機能強化についても触れている(※65)。
これら「総合的な震災対策の推進に向けた基本方針」「帰宅困難者対策計画」の策定を受け、区は平成24(2012)年度の当初予算編成において安全・安心都市づくりを最重要課題に位置づけ、セーフコミュニティとともに震災対策に重点化した予算配分を行い、耐震化の促進や災害情報システム・罹災証明書発行システム等の災害情報基盤の整備などの新規・拡充20事業に2億9,500万円を計上した(※66)。
前述したように区は平成8(1996)年から9年(1997)年にかけて、区内都立学校4校(大塚ろう学校・文京高等学校・千早高等学校・豊島高等学校)と各校施設の一部を避難所施設として利用する協定を結んでいた。また10(1998)年から20(2008)年にかけて区内私立学校法人7法人(川村学園・十文字学園・学習院・東京音楽大学・立教学院・大正大学・帝京平成大学)と災害時に一次避難所として各施設を活用する「災害時における相互協力に関する協定」をそれぞれ締結していた。これにより東日本大震災発生時には、区全体の帰宅困難者受入総数10,674人のうち6,606人がこれら防災協定締結校に受け入れられた。一方、民間事業者としては池袋駅東口のホテル、第一イン池袋を経営する株式会社イケオンと平成9(1997)年に「災害時における宿泊施設等の提供に関する協定」を締結していたが、一次避難施設に関する協定締結は1件もなかった。このため発災当日、同ホテルや池袋西口のメトロポリタンホテル、池袋ショッピングパークを除き、駅周辺の百貨店をはじめ民間ビル等のほとんどは帰宅困難者を受入れることはなく、大量の滞留者を発生することにつながったのである。
この17事業者に続き、翌平成26(2014)年4月25日に池袋ショッピングパーク、ジェイアール東日本ビルディング、ルミネ池袋店の3事業者と同内容の協定を締結し、締結事業者数を20にするとともに、池袋駅に関わる主な事業所との協定締結が完了した(※68)。
これ以降も、同年6月2日に区内金融機関では初となる東京信用金庫と、翌27(2015)年11月12日に学習院、28(2016)年12月22日には川村学園とそれぞれ「帰宅困難者対策の連携協力に関する協定」を締結した。さらに31(2019)年1月28日には西武鉄道と改めて同協定を締結し、池袋駅南口に3月竣工予定の「ダイヤゲート池袋」(旧西武鉄道本社ビル)で帰宅困難者を受入れることになった。「ダイヤゲート池袋」は免震構造の採用や BCP(業務継続計画)への配慮がなされた災害に強い高層オフィスビルであり、池袋駅周辺の帰宅困難者対策が一段と向上することが期待された(※69)。
さらに平成27(2015)年7月24日、都市再生特別措置法に基づき都市開発事業等を通じて緊急かつ重点的に市街地の整備を推進すべき地域に位置づけられる「都市再生緊急整備地域」、またその中でも国際競争力の強化を図る上で特に有効な地域に位置づけられる「特定都市再生緊急整備地域」の双方に池袋駅周辺エリアが指定された。これに伴い、内閣総理大臣を会長に国の関係行政機関(国土交通省)、独立行政法人都市再生機構、地方公共団体(都・区・警視庁・消防庁)の各長及びエリア内で都市開発事業を施行する民間事業者等を構成員とする「池袋駅周辺地域都市再生緊急整備協議会」が設立され、その下部組織として「池袋駅周辺地域都市再生緊急整備協議会会議」、さらにその下に「都市再生安全確保計画部会」が設置された。この指定により従来の「池袋駅周辺エリア」に東池袋4・5丁目地区が加えられてエリア範囲が拡大されたほか、周辺市街地再開発の進展による滞在者の増加、環状5の1号線・補助81号線・補助173号線等の都市計画道路整備の進捗、南池袋公園・造幣局跡地防災公園等の防災上活用可能な資源の増加、また27(2015)年5月にオープンした新庁舎の「総合防災システム」の稼働等の環境変化を踏まえ、「池袋駅周辺エリア安全確保計画」を拡充する新たな計画を策定することになった。前述の「都市再生安全確保計画部会」が28(2016)年2月に設置され、同部会において検討が重ねられ、28(2016)年12月、「池袋駅周辺地域都市再生安全確保計画」が策定された。同計画は都市開発事業を通じて滞在者等の安全確保を図っていくことを目的とするもので、都市整備と防災の政策融合を図るものと言えた。このため「池袋駅周辺エリア安全確保計画」を基本としつつも、ライフライン・エネルギーの確保や防災拠点の形成など都市整備の視点からの基本方針が加えられ、またエリア内を池袋駅周辺、旧庁舎跡地及び東池袋駅周辺の3つに区分し、それぞれの地区特性を踏まえた整備内容が示された(※71)。
こうして一時滞在施設等の帰宅困難者の安全確保施設の検討が進められていくのに並行し、もう一つの課題である災害情報基盤の整備についても検討が進められた。
東日本大震災発生時、安否確認等の電話が集中したことにより通信回線が逼迫し、固定電話で最大時80~90%、携帯電話で70~90%の通信規制が実施された。通話・メール等がつながらない状態が翌日まで続き、部局間の連絡や関係機関との電話による情報連絡に大きな支障が生じた。さらに災害時の情報連絡手段である移動系防災行政無線は入れ替え作業中のため十分に機能せず、また前述したように民間事業者の多くは自社の安全確保対応に追われ、混乱防止対策協議会内での情報共有は滞った。区民への情報伝達用の同報系防災行政無線も各地域防災組織(町会役員宅等)に配備していた戸別受信機に通信障害が発生し、屋外拡声器による放送も発生直後に1回放送されたのみであった。このため区民等への災害情報の提供は区のホームページを中心になされたが、当時は携帯電話もいわゆるガラケーが主流であったため、広報ツールとしては十分に活用していなかったことから、帰宅困難者の多くは正確な情報を得られず、不安を増大させ混乱状態に拍車をかけた。こうしたことから関係機関相互の災害情報の共有、さらに屋外滞留者も含め災害情報を正確かつ迅速に提供していくことが帰宅困難者対策の主要課題に位置づけられたのである。
※70 「池袋駅周辺エリア防災対策協議会」の設置について(H260709防災・震災対策調査特別委員会資料)、
池袋駅周辺エリア安全確保計画について(H270115副都心開発調査特別委員会資料) 、
池袋駅周辺エリア安全確保計画(平成27年3月) 、
池袋駅周辺エリア安全確保計画骨子
※71 池袋駅周辺地域都市再生緊急整備協議会の開催について(H280219総務委員会資料)、
池袋駅周辺地域都市再生緊急整備協議会都市安全確保計画部会について(H280701総務委員会資料)、
池袋駅周辺地域都市再生安全確保計画の策定について(H290113副都心開発調査特別委員会資料)、
池袋駅周辺地域都市再生安全確保計画(平成28年12月策定、平成30年3月変更)
同報告書では震災発生時の状況や防災行政無線を中心とする防災情報システムの現状を踏まえ、「防災情報基盤の今後のあり方」として①多様化、②多重化、③統合化、④日常化(汎用化)の4点を挙げている。①の多様化は従来の防災行政無線や固定電話・携帯電話による情報通信手段に加え、スマートフォン・タブレット端末・PC・デジタルサイネージ・衛星電話等の多様な情報媒体を活用して災害情報を提供することであり、②の多重化は複数の通信手段を用意しておくことにより、仮に災害時に1つの通信手段で回線遮断等の障害が生じても他の通信手段により継続して情報提供が行なえるようにしておくことである。③の統合化は通信手段の多様化・多重化を進めることにより情報の受発信等の作業を増大、煩雑にさせる恐れがあることから、可能な限り統合し、効率的な情報システムを構築していくことであり、さらにそうした作業が災害時に円滑に行えるよう、平常時から活用できる汎用的なシステムとすることが④の日常化である。
こうした考え方に基づき、区は平成24(2012)年度から新たな通信手段の導入等を進めていくとともに、27(2015)年の新庁舎開設に合わせ、災害情報システムの構築をめざしていった。
この提案採択を受け、区はNTTと共同し、都市・繁華街型モデルとなる「防災情報伝達制御システム」を構築した。このシステムは災害対策本部からのひとつの端末操作で防災行政無線網・携帯電話網・インターネット・IP電話網・地デジ波等の複数の通信網を通じ、従来の防災行政無線のほかエリアメール・安全安心メール、ケーブルテレビ(文字放送)、駅放送設備、SNS(Twitter・Facebook)、デジタルサイネージ、区ホームページ等の複数媒体へ一斉に情報を送信する情報制御システムで、既存の通信網・情報媒体を活用することでシステム開発を迅速かつ低コストで行えるメリットがあった。またこのシステムは防災情報基盤整備検討部会報告書の多様化・多重化・統合化を具体化するものであり、SNSは平常時から防災情報等の提供に活用することを想定し、日常化を図っていくものでもあった。さらに実証実験では池袋エリアに限定していたが、将来的には区内全域での展開や関係機関間のテレビ会議システム、エリアワンセグの活用も視野に入れていた。
「防災情報伝達制御システム」の構築に並行し、新庁舎整備に関する検討課題のひとつとして「総合防災システム」の導入に向けた検討が進められた。この「総合防災システム」は避難所等の災害対策拠点や備蓄物資、災害時要援護者情報等の様々な防災情報を日常的に管理するとともに、災害発生時には情報収集から分析、発信までを一元的に管理するシステムであり、これにより災害発生時に的確な判断を下せるよう、司令塔となる災害対策本部の機能強化を目的とした。平成24~26(2012~2014)年度の3か年でシステム構築を完了させ、新庁舎がオープンする27(2015)年度から運用を開始するというスケジュールに従い、24(2012)年度に「総合防災システム導入に係る基本計画」をまとめ、25(2013)年度に詳細なシステム機能やシステムの全体像を設計してシステム調達のプロポーザルを実施、委託事業者としてNEC(日本電気株式会社)を選定し、26(2014)年度からシステム開発が進められた(※75)。
この総合防災システムの大きな特徴は、35か所の救援センターを中心に主要駅・道路等区内全域に51台のビデオカメラを設置し、各地の被災情報をリアルタイムに災害対策本部に集約する防災カメラシステムである。救援センター周辺の被災状況や駅前等の滞留状況をリアルタイム映像で把握することにより、状況に応じて区民や帰宅困難者等を安全に避難誘導することが可能になる。また庁内LAN 回線を通じた救援センター配備職員とのWEB会議やインターネット回線を通じた現地派遣職員や鉄道事業者、一時滞在施設となる民間事業者の端末機とのテレビ会議で現地と災害対策本部をつなぎ、被災状況を共有しながら効果的・効率的な応急活動を指示・要請することもできる。さらに災害対策本部に集約した情報を、区ホームページや防災情報伝達制御システムを通じて直ちに区民や帰宅困難者等に発信することも可能になる。こうして災害対策本部が司令塔となり、適切かつ迅速な応急活動を支援していくというのがこの総合防災システムである。さらにこのシステムには世界初となる「群衆行動解析技術」が導入された。この技術は主要駅や幹線道路に設置した高所カメラで撮影された映像から混雑度を高精度に推定し、異常混雑や滞留者の流れの異常などを検知するもので、群衆全体の動きの変化を早期に把握することで災害対策本部の意思決定に役立て、二次災害等を抑止しようというものである。こうした最新技術の導入や防災情報伝達制御システム、被災者生活再建支援システムとの連携強化に係る経費も含め、平成24~27(2012~2015)年度の4か年に約3億円を投じて総合防災システムの構築を完了させた(※76)。
平成27(2015)年10月14日、新庁舎移転後初の総合防災訓練が実施され、総合防災システムの操作訓練が行われ、これに続く12月14日には同システムを活用した帰宅困難者対策訓練が池袋駅周辺で実施された。この訓練では防災カメラによる情報収集、群衆行動解析技術による駅周辺滞留者の混雑度・流れ等の異常検知、池袋駅現地連絡調整所及び池袋駅東西駅前の情報提供ステーションとのインターネット回線による情報連絡、防災情報伝達制御システムを活用した情報提供、一時滞在施設への誘導・受入れ、徒歩帰宅者支援までの一連の流れに沿った訓練が実施された(※77)。
さらに平成28(2016)年度以降も、帰宅困難者用備蓄物資の輸送訓練、外国人を対象とする多言語音声翻訳及び帰宅困難者がSNS等に書き込んだ情報を解析する社会実験、埼玉県と連携した要配慮者のバス搬送訓練など、毎年新たな取組みを加えながら帰宅困難者対策訓練が実施された(※78)。
以上述べてきたように、東日本大震災で様々な課題が露呈したことにより、帰宅困難者対策は「黒子からリーダーへ」と区の方針が転換され、加速度的に進展した。だがその根幹にあるのは、「自助・共助・公助」を基本理念に民間事業者や関係機関との地域協働の仕組みを築いていくことに他ならない。またその仕組みを首都直下地震が発生した際にも活かしていくためには、平常時から民間事業者等と防災意識やその認識を共有していく努力が求められる。実践的な帰宅困難者訓練などを通じて不断に検証を重ね、さらに実効性のある仕組みに磨き上げていく取組みが現在も進められている。
※74 H241120プレスリリース、
H251120プレスリリース
※75 災害情報システムの検討状況について(H250412防災・震災対策調査特別委員会資料)、
災害情報システムの検討状況について(H251212災防災・震災対策調査特別委員会資料)
※76 豊島区総合防災システムの導入について【検討課題74】(H260415議員協議会資料)、
H270310プレスリリース
※77 H271014プレスリリース、
H271125プレスリリース、
平成27年度豊島区帰宅困難者対策訓練について(H271106・H280112防災・震災対策調査特別委員会資料)
※78 H281114プレスリリース、
H291109プレスリリース、
H301112プレスリリース、
平成28年度豊島区帰宅困難者対策訓練の実施について(H281110・H281216防災・震災対策調査特別委員会資料)、
平成29年度豊島区帰宅困難者対策訓練の実施結果について(H300314防災・震災対策調査特別委員会資料)、
平成30年度帰宅困難者対策訓練の実施について(H300905・H310110防災・震災対策調査特別委員会資料)
防災まちづくり-木密地域不燃化10年プロジェクト
第1章第1節第3項で述べた通り、昭和58(1983)年度に東池袋4・5丁目地区で居住環境整備事業が開始されたのを端緒に、平成元~20(1989~2008)年度に染井霊園周辺地区、平成3(1991)年度から上池袋地区、平成8~17(1996~2005)年度には南長崎2・3丁目地区の各地区で同事業が実施され、延焼遮断帯となる道路の拡幅や公園・広場等の整備を進めるとともに、老朽建物の建替えや共同化が図られてきた。またいずれの地区においても、地域住民らで構成するまちづくり協議会が設立され、それぞれの地区のまちづくりについて合意形成が図られ、様々なまちづくり提案がなされた。
東池袋4・5丁目地区での居住環境整備事業については地区内の不燃化に著しい進展がみられないなか、平成5(1993)年に事業期間が延伸され、また都の「防災都市づくり推進計画」に基づいて12(2000)年度から開始予定だった「緊急木造密集地域防災対策事業」が財政難により凍結され、防災まちづくりは一時、停滞を余儀なくされた。そうした紆余曲折を経て、16(2004)年度から都と区が共同し、道路整備と沿道の建替え等を連携して進めていく「一体開発誘発型街路事業」として「補助81号線沿道まちづくり事業」が開始され、同地区のまちづくりは再び動き出した。翌17(2005)年11月に補助 81 号線の整備事業が認可され、12月にはまちづくり協議会から「沿道街づくりルール素案」が提言された。区はその提言に則った地区計画等の都市計画案を作成、18~19(2006~2007)年度にかけて地域住民の意向調査及び縦覧・意見募集等の都市計画手続きを進め、20(2008)年6月、「東池袋四・五丁目地区地区計画」が都市計画決定された。以後、漸く沿道街区の共同化が進められるに至っているが、事業開始から既に40年が経過している状況にある(※79)。
平成3(1991)年から居住環境整備事業が開始された上池袋地区においても、7(1995)年10月に「上池袋地区まちづくり協議会」が設立され、10(1998)年4月には「上池袋地区まちづくり計画に関する提言書」が提出された。この提言を踏まえ、上池袋まちづくりセンターや堀之内公園、ひばりがや広場等が整備された。11(1999)年に移転が決定した癌研究会附属病院跡地の利用についても同協議会から提出された住民アンケート調査や意見書を踏まえた検討が進められ、防災公園(上池袋東公園)や歩行者通路「ドレシアアベニュー」の整備につながっており、また地元要望を受けて通称「がん研通り」は「宮仲公園通り」に改称されている。こうして地区内の防災性の向上が図られる一方、事業期間の延伸が幾度となくなされ、これもまた、開始から既に30年以上が経過している(※80)。
既に事業が終了している染井霊園周辺地区と南長崎2・3丁目地区においても、まちづくり協議会との話し合いを重ねながら広場や公園の整備、木造住宅の建替え等が進められたが、いずれも10年、20年という長期にわたる事業となった。平成12(2000)年12月に染井霊園地区で設立された「駒込地域まちづくり協議会」は、15(2003)年6月に「災害に強く安心して住めるまち」「染井吉野桜のふるさと花のあるまち」「広い公園と憩いの場の確保」などの目標を掲げたまちづくり提言を行っており、17(2005)年の染井橋の架け替えや21(2009)年の「門と蔵のある広場」整備に協議会の提案が活かされた。また平成7(1995)年6月に設立された「南長崎2・3丁目地区まちづくり協議会」も8(1996)年1月と10(1998)年2月の二度にわたりまちづくり提言を行っており、この提言に基づき11(1999)年3月に南長崎花咲公園が開園した(※81)。
この居住環境整備事業のほか、昭和末から平成期にかけて都市防災不燃化促進事業と防災生活圏促進事業のふたつが、国や都の制度に則った防災まちづくり関連事業として展開された。このうち都市防災不燃化促進事業は防災上重要な避難場所や避難道路の周辺を不燃化促進区域に指定し、区域内で耐火建築物を建築する者に対して建築費等の一部を助成することにより不燃化を促進する事業で、昭和59~平成15(1984~2003)年度に雑司が谷墓地周辺地区、昭和62~平成8(1987~1996)年度に立教大学周辺地区でそれぞれ実施された。既に両地区とも事業期間は終了しており、雑司が谷墓地周辺地区では20年の事業期間中に171棟を助成し、事業開始時に11.1%だった建築物の耐火率は¬35.8%にまで改善されたが、計画目標値の70%には及ばなかった。一方、立教大学周辺地区では10年間の事業期間中に120棟を助成し、耐火率は60.1%とほぼ目標値を達成している。
この都市防災不燃化促進事業においても居住環境整備事業と同様に、それぞれの地区でまちづくり協議会が設立され、様々な提言がなされている。昭和57(1982)年に設立された「雑司が谷墓地周辺地区不燃促進協議会」は平成9(1997)年に「雑司が谷地区まちづくり協議会」に改称するとともに、活動範囲を雑司が谷・南池袋地区全域(オール雑司が谷)に広げ、11(1989)年に南池袋地区防災生活圏促進事業が開始されたのに伴って設立された「池袋南地区まちづくりの会」と活動を共にし、27(2015)年には両会が合体して「雑司が谷・南池袋まちづくりの会」へと改編されている。この間に昭和62(1987)年12月に雑司ヶ谷霊園内に避難ルートを確保する「インナーリンク構想」、平成11(1999)年6月には雑司が谷・南池袋全体を視野に入れた「雑司が谷地区防災まちづくり計画」を区長に提出、これらの提言をもとに霊園周辺の万年塀の生け垣化や避難路が整備され、生け垣等を自主管理する「緑のこみちの会」が誕生している。平成15(2003)年の事業終了及び19(2007)年の南池袋地区防災生活圏促進事業終了後も自主的なまちづくり団体として活動は続けられ、22(2010)年に「池袋南地区まちづくりの会」として国土交通省の「まちづくり計画策定担い手支援事業」の適用を受け、地域内の中でも災害危険度の高い雑司が谷2丁目地区についてアンケート調査を実施し、24(2012)年7月に同地区のまちづくりのあり方について区長に提言した。こうした活動が2丁目地区の中心に位置する高田小学校跡地の公園づくりの検討へとつながり、26(2014)年3月に「旧高田小学校跡地公園計画についての提言書」が提出された(※82)。
また昭和60(1985)年に設立された「立教大学地区不燃化まちづくり協議会」も63(1988)年に谷端川プロムナード構想、平成2(1990)年にはブロック塀の生垣化や建物の後退、地域緑化等の地域独自の「まちづくり協定」を提案、谷端川緑道の整備や池袋第三小学校の緑化活動(池三小緑の会)など、地域のシンボルである立教大学の景観と調和する緑豊かなまちづくりが進められた。さらに8(1996)年の事業終了後も「立教大学地区まちづくり協議会」として活動を継続させ、13(2001)年4月、「キャンバス通り(補助172号線)沿道まちづくり計画」を区長に提言した。この計画は立教大学南側に位置する補助 172 号線の事業化に伴い、地区内の街並み保全を図るため、地区計画の土台となるまちづくりの基本ルールを広く地域住民の参加を得ながらまとめたものであり、15(2003)年1月、地元提言に基づく地区計画としては区内初となる「立教大学南地区地区計画」が都市計画決定された(※83)。
一方、居住環境整備事業、都市防災不燃化促進事業に続いて開始された防災生活圏促進事業は、延焼遮断帯となる幹線道路等に囲まれた概ね小中学校区程度の生活圏内において、防災道路や広場等の整備とともに住民参加によるコミュニティづくりなどハード・ソフト両面から「逃げないですむ」まちづくりを進めていく事業である。災害危険度が高く、かつ防災まちづくりに対する地域住民の意欲が高い地区として池袋本町地区が選定され、平成7(1995)年度から事業が開始された。8(1996)年2月に「池袋本町防災まちづくりの会」が結成され、8月に同会から提出された「池袋本町地区の防災まちづくり計画に関する提言書」を踏まえ、翌9(1997)年3月に「池袋本町地区防災生活圏促進事業推進計画」が策定された。そしてこの計画に基づき10(1998)年4月、地区内第1号となる池袋第二小学校井戸広場を開設、さらに12(2000)年3月には地区防災センター及び防災広場公園用地として池袋本町JRアパート跡地(池袋本町1丁目)約6,000㎡を約24億8千万円で取得した。以後、同用地は防災広場として暫定活用され、15(2003)年8月から敷地内の一部でプレーパーク事業が展開された(※84)。
同地区での防災生活圏促進事業は平成16(2004)年度をもって終了となったが、翌17(2005)年度に居住環境総合整備事業の認可を得て、引き続き「池袋本町防災まちづくりの会」との協議を重ねながら防災まちづくりの取組みが進められた。21(2009)年4月に池袋本町1丁目の防災施設用地に歩道上空地を整備、25(2003)年3月には清掃車庫跡地(池袋本町4丁目)約4,200㎡に防災機能を有する「池袋本町電車の見える公園」が開設された。なお池袋本町1丁目の防災施設用地については、隣接する池袋第二小学校と地区内の文成小学校の統合に伴い、新小学校と池袋中学校の校舎併設型小中連携校を同用地も含めた敷地に建設する計画が進められ、28(2006)年8月に新校舎が竣工した。さらに老朽化が著しかった池袋本町4丁目の特別養護老人ホーム「養浩荘」の移転先として同用地の一部に特別養護老人ホームが整備され、令和元(2019)年6月に「池袋ほんちょうの郷」として新たに開設された(※85)。
この池袋本町地区に続き、平成10~19(1998~2007)年度には南池袋地区でも防災生活圏促進事業がスタートした。事業開始にあたって12(2000)年7月に設立された「池袋南地区まちづくりの会」は、前述したように先行する「雑司が谷地区まちづくり協議会」と活動をともにしながら、13(2001)年8月に「池袋南地区まちづくり計画」を提言、この提言に基づき「番神の水」「柳の水」「七曲がりの水」等の井戸広場が整備され、また南池袋三丁目地区福祉基盤等整備事業に伴い民営化・廃園する南池袋保育園跡地の活用について、同会を中心に防災を主体とした広場整備の検討が重ねられ、18(2006)年4月に提出された計画案に基づき、19(2007)年4月、「南池ふくろうひろば」が開設された。この事業は20(2008)年3月をもって10年間の事業期間が終了したが、その後も同会の活動は雑司が谷2丁目地区の防災まちづくりへと引き継がれていった(※86)。
以上述べてきた居住環境整備事業、都市防災不燃化促進事業及び防災生活圏促進事業の3事業は、何年もかけて少しずつ改善を図っていく「修復型まちづくり」と言われるもので、一朝一夕に完成する事業ではない。事業開始後、阪神・淡路大震災を契機として「自分たちのまちは自分たちで守る」という意識がより高まり、事業を実施してきた各地区では、その後もまちづくり協議会を中心に様々な取組みが展開される一方、木造密集地域の解消という根本的な課題の解決には至っていなかった。
そうしたなか、平成23( 2011)年 12 月、都は10 年後の東京の姿を描く「2020 年の東京」計画を発表した。この計画は「大震災を乗り越え、日本の再生を牽引する」との副題からも分かるとおり、東日本大震災後の新たな社会経済状況に対応して首都東京が日本再生の先陣を切るとともに、2020年オリンピック・パラリンピック競技大会の開催を見据え、21世紀の都市のあるべき姿を世界に示すための防災・環境・国際競争力・少子高齢化等各分野にわたる中長期的な計画で、その実現に向けた12 のプロジェクトの1つとして「木密地域不燃化 10 年プロジェクト」が掲げられた。同プロジェクトは延焼による焼失ゼロの「燃え広がらない・燃えないまち」の実現をめざし、震災時に特に甚大な被害が想定される都内区部7,000haの木密地域で主要な都市計画道路整備率の 100%実現、不燃領域率を56%から70%に引き上げていくことを目標としていた。翌24(2012)年1月、その具体的な施策展開を示す「木密地域不燃化 10 年プロジェクト」実施方針を発表、延焼遮断帯を形成する主要な都市計画道路を特定整備路線に指定するとともに、特に改善を図るべき地区を不燃化特区に指定し、各区と連携して10年間の集中的・重点的な取り組みを実施することにより木密地域の改善を加速させていくとした。そしてこの実施方針に基づき、不燃化特区制度の先行実施地区の募集が開始され、2月から6月までの間に申請を受け付け、提案内容の審査を経て8月に先行実施地区を決定、その後、都区共同で整備プログラムを作成し、25(2003)年4月から事業を開始するというスケジュールが組まれた。さらに同年3月までに不燃化特区を制度化し、先行地区での事業開始に合わせ、新たに次の実施地区を公募し、本格実施に移行していくとしていた(※87)。
この募集を受け、区は既に防災まちづくり事業を実施している区内各地区の中から応募要件にすべて該当する東池袋4・5丁目地区を先行実施地区として申請した。この申請は豊島区を含め、23区のうち11区・12地区から出されていたが、平成24(2012)年8月31日、都はこの12地区すべてを先行実施地区とすることを発表した(※88)。
以後、区は都と協議しながら整備方針や支援内容等について検討し、平成25(2013)年4月に東池袋4・5丁目地区の整備プログラムを策定した。この整備プログラムでは区域面積19.2haの不燃領域率を32(2020)年度までに58.7%から70%以上に引き上げることを目標に、「地区まちづくり推進制度」として①まちづくりコンサルタントの派遣、②公営住宅等の優先的あっせん、③連担建築物設計制度活用奨励金、④固定資産税・都市計画税の減免、⑤戸建て建替の設計費支援、⑥老朽建築物除却費支援、⑦士業等派遣などの支援策が挙げられている。
この整備プログラムが策定された背景には、従来の居住環境整備事業は共同化への支援が中心で、個別の建替えへの支援はなく、一方、共同化に向けた権利者の合意形成の難しさや高齢化による建替えへの不安、さらに未接道敷地・狭小宅地が多く建替えが困難であることなどが障壁となり、地区全体の改善がなかなか進まない状況があった。そこでこのプログラムでは戸建木造住宅の建替更新や老朽建築物の除却を促すため、従来より手厚い⑤⑥の助成制度が新設され、さらに不燃化建替による新築住宅及び老朽建築物を除却した更地にかかる固定資産税・都市計画税を最長5年間減免する④の税制優遇制度や移転・相続問題など様々な課題を抱えている権利者等に専門家を派遣する⑦の支援策が設けられた。また東池袋五丁目地区第一種市街地再開発事業及び区が用地取得を進めている防災道路B路線整備を地区全体の不燃化を促進・波及させていくコア事業に位置づけ、周辺道路と沿道整備を一体的に図っていくこととした。こうして平成25(2013)年3月に制定された都の不燃化推進特定整備地区制度要綱に基づき、東池袋4・5丁目地区は不燃化特区の指定を正式に受け、4月から事業が開始された(※89)。
一方、都は不燃化特区先行実施地区の募集に並行し、特定整備路線の選定作業を進めていった。平成24(2012)年6月28日に一次選定として都内23 区間・延長約 23 kmの候補区間を公表、10月31日には二次選定分も含め28区間・延長約26kmが決定された。このうち豊島区に係る区間は補助26号線南長崎6丁目~長崎5丁目(280m)及び千早4丁目~要町3丁目(430m)、補助172号線西池袋4丁目~長崎5丁目(1,620m)、補助81号線南池袋2丁目~同4丁目 (260m)及び巣鴨4丁目~北区西ヶ原1丁目(1,280m)、補助73号線池袋4丁目~板橋区板橋1丁目(1,070m)、補助82号線上池袋3丁目~板橋区大山金井町(1,170m)の5路線7区間で都内全区間の約4分の1にあたる7 区間・延長6.1 kmに及んだ。なお補助81号線南池袋2丁目~同4丁目については、前述した通り道路整備と沿道の建替え等を連携して進めていく「一体開発誘発型街路事業」として17(2005)年11月に認可を受けて既に事業が開始されており、特定整備路線の先行事例となるものであった(※90)。
都はその他の候補区間についても事業認可が下り次第、特定整備路線に指定して用地買収等に着手することとし、影響を受ける沿道住民に対して専門家による無料相談や優遇金利による移転資金の貸付け、都営住宅や代替地のあっせんなどの支援策を設けた。こうした制度設計に並行し、平成24(2012)年9月に沿道各地区で震災後の復興まちづくりを考える出前講座が開催されたのをはじめ、25(2013)年に入ってからは2月~3月に事前相談会、7月~11月には事業概要・測量説明会を順次開催し、特定整備路線についての周知を図るとともに地区住民の理解を求めていった(※91)。
一方、同年4月に不燃化特区の本格実施に向けた新規申請の募集が開始されたことから、区は不燃化特区制度を活用して特定整備路線の沿道整備をより効果的に進めていくため、補助73号・82号線沿道の池袋本町・上池袋地区(108.8ha:池袋本町1丁目~4丁目全域、上池袋3~4丁目全域及び上池袋2丁目 1~4 番・8~45 番)、補助26号・172号線沿道地区(76.5ha:長崎1~5丁目全域及び南長崎6丁目・長崎6丁目・千早3・4丁目・要町3丁目の補助 26 号線沿道)、補助 81 号線沿道地区(39.7ha:巣鴨5丁目・駒込6~7丁目全域)の3地区を新たに申請し、翌26(2014)年4月にいずれも不燃化特区に指定された。これにより先行する東池袋4・5丁目地区(19.2ha)と合わせ、区内の不燃化特区は4地区となり、区域面積は累計244.2haとなった。さらに27(2015)年4月に雑司が谷・南池袋地区(38.2ha:雑司が谷1・2丁目、南池袋2・4丁目)の新規指定、補助26号・172号線沿道地区の区域拡大(153.5ha:南長崎1~6丁目)の追加認定を受け、区内不燃化特区は 5 地区・累計約359.7ha、区の総面積1,301haの27.6%に及んでいる(図表3-⑫参照)(※92)。
一方、都は平成26(2014)年12月、木密地域不燃化 10 年プロジェクトを推進していくため「防災街区整備方針」を改定し、特定整備路線を防災公共施設に位置づけるとともに、不燃化特区の指定に基づき防災再開発促進地区の区域の統合・拡大を都市計画決定した。また27(2015)年3月には不燃化特区を「新たな防火規制」の区域として指定、これにより不燃化特区内で建物を建て替える際に、原則として準耐火建築物以上にすることが義務づけられた。さらに28(2016)年3月に防災都市づくり推進計画を改定し、木造住宅密集地域の改善をさらに加速するため、延焼遮断帯内の防災生活道路の整備や地区計画等による新防火区域の指定を区に働きかけていくとした。こうした都の動きに連動し、区は27(2015)年度以降、補助26号・172号線沿道地区、補助73号・82号線沿道地区、補助 81 号線沿道地区の3地区で防災生活圏促進事業を新たに開始した。また既に継続実施されている東池袋4・5丁目地区、池袋本町地区及び上池袋地区に加え、雑司が谷・南池袋地区、長崎地区、補助 81 号線沿道地区の3地区で居住環境整備事業を順次開始し、計6地区で居住環境整備事業を展開していった。さらに都の防災都市づくり推進計画の改定を受け、29(2017)年4月から地区防災不燃化促進事業として、不燃化特区内の防災生活道路沿道での不燃化建築物への建替え等に対する新たな助成制度を導入した。木密地域不燃化 10 年プロジェクトに加え、様々な防災まちづくり事業を一体的に展開していくことにより、特定整備路線沿道だけではなく、不燃化特区の区域全体へ面的な拡大を図っていったのである(※94)。
こうした事業展開に並行し、区は都による特定整備路線の整備に合わせて沿道市街地の良好な街並み形成を図っていくため、地区のまちづくり方針や地区計画の原案となるまちづくりルールの作成作業を進めていった。平成26(2014)年11~12月に各地区でまちづくりルールの導入に向けた説明会を開催し、翌27(2015)年以降もまちづくりルールの素案に関する説明会や意見募集、まちづくり懇談会等での意見交換を通じて地域住民の意見を吸い上げていった。そしてこれらの意見を踏まえ、同年8月、区の都市づくりビジョン(都市計画マスタープラン)に基づく「特定整備路線沿道まちづくり方針」として、「補助81号線沿道巣鴨・駒込地区まちづくり方針」「池袋本町・上池袋地区まちづくり方針」及び「補助172号線沿道長崎地区まちづくり方針」をそれぞれ策定した。これらの方針では、それぞれの地区の特性を踏まえながらも、特定整備路線沿道の不燃化・耐震化による地域の延焼遮断帯機能の向上、住宅地の閑静な居住環境を保つ中低層の街並み形成、既存商店街のにぎわい再生など共通した市街地像が示されている(※95)。
これに続いて区は地区計画の原案を作成し、9月から10月にかけて各地区で原案の説明会を開催した。その後、原案の公告・縦覧、意見募集等の一連の手続きを経て、12月28日開催の都市計画審議会に地区計画案を付議、同審議会の了承を得て翌28(2016)年3月7日、「補助81号線沿道巣鴨・駒込地区地区計画」「上池袋二・三・四丁目地区地区計画」「池袋本町地区地区計画」及び「補助172号線沿道長崎地区地区計画」の各地区計画を都市計画決定した。これら各地区計画では区域内の最低敷地面積を65㎡とするほか、特定整備路線沿道の建物の高さ制限や用途地域の見直しによる防火規制の強化等が定められている(※96)。
こうして特定整備路線と不燃化特区制度の2つを柱に、令和2(2020)年度までを事業期間として木密地域不燃化 10 年プロジェクトは進められた。その終期を控えた令和2(2020)年3月、都は都防災都市づくり推進計画の基本方針を公表し、翌3(2021)年3月に新たな計画期間を令和3~12(2021~2030)年度として同計画を改定した。これにより木密地域不燃化10年プロジェクトは同年3月31日をもって終了となったが、不燃化特区制度の活用と特定整備路線の整備については令和7(2025)年度までの5年間延長され、引き続き不燃化の取組みが進められている。その結果、令和元(2019)年度時点で不燃化特区5地区の不燃領域率は事業開始時と比べ、東池袋4・5丁目地区で58.7%から62.6%、池袋本町・上池袋地区で61.8%から67.8%、補助26・172号線沿道地区で55.0%から61.5%、補助81号線沿道巣鴨・駒込地区で58.8%から63.6%、雑司が谷・南池袋地区で59.4%から64.9%へとそれぞれ向上している。延焼による焼失ゼロの目安とされる不燃領域率70%には達していないが、いずれの地区でも4~6ポイントの改善が図られており、それまでなかなか進まなかった木造密集地域の不燃化がこのプロジェクトにより一定の成果を得たと言えるだろう。
以上、昭和末から平成期を通じた防災まちづくりの取組み経緯をたどってきたが、平成7(1995)年の阪神・淡路大震災、さらに平成23(2011)年の東日本大震災を契機に、その取組みが強化されていった跡が見て取れる(図表3-⑬参照)。そして今後30年間で発生確率70%と想定される首都直下地震に備え、その取組みは止むことなく、現在も続けられているのである。
※79 東京都防災都市づくり推進計画について(H081112副都心開発調査特別委員会資料)、
東池袋地区「補助81号線街路整備と沿道まちづくり」について(H160915副都心開発調査特別委員会資料)、
東池袋地区補助第81号線沿道まちづくりルール素案-提言書、
東池袋4・5丁目地区まちづくりについて(H190115副都心開発調査特別委員会資料)、
東池袋地区補助81号線沿道まちづくり協議会ニュース(第1号~13号)【H1611~H3010】、
東池袋四・五丁目地区地区計画及び用途地域等の変更について(H200222・H200929都市整備委員会資料)、
東池袋四・五地区地区計画【H200620告示】
※80 H100408プレスリリース、
H100514プレスリリース、
豊島区立公園条例の一部を改正する条例について【堀之内公園】(H170225都市整備委員会資料)、
豊島区立児童遊園条例のー部改正について【ひばりがや広場・南池ふくろうひろば】(H190219都市整備委員会資料)、
癌研究会付属病院の跡地利用計画について(H110615副都心開発調査特別委員会資料)、
癌研究会附属病院跡地利用について(H140628・H150221清掃都市整備委員会資料)、
癌研究会附属病院跡地利用について(H170914・H1800113・H180914・H181215副都心開発調査特別委員会資料)、
豊島区立公園条例のー部を改正する条例について【上池袋東公園】(H200222都市整備委員会資料)、
H210519プレスリリース、
H211202プレスリリース、
密集住宅市街地整備促進事業の事業延伸について(H130515副都心開発調査特別委員会資料)
※81 H170329プレスリリース、
豊島区立児童遊園条例の一部を改正する条例【門と蔵のある広場ほか】(H210227都市整備委員会資料)、
H210328プレスリリース、
南長崎2・3丁目まちづくりニュースNo.1(H061007区民建設委員会資料)、
東京都豊島区公園条例等の一部改正について【南長崎花咲公園】(H110210区民建設委員会資料)、
H110326プレスリリース、
H211202プレスリリース、
豊島区における防災まちづくりの状況と今後の施策展開(H110908防災対策調査特別委員会資料)
※82 H110611プレスリリース、
H120325プレスリリース、
雑司ヶ谷霊園万年塀改修計画(H101111副都心開発調査特別委員会資料)、
地区まちづくりの担い手事業について(H221004都市整備委員会資料)、
旧高田小学校跡地公園計画についての提言書、
雑司が谷墓地周辺地区街づくりニュースNo.20-21、
まちづくりニュース「ぞうしがや」No.48-51、
まちづくりニュース「ぞうしがや」No.71-76
※83 H120520プレスリリース、
H130427プレスリリース、
H150131プレスリリース、
立教大学南地区地区計画原案等について(H140715副都心開発調査特別委員会資料)、
立教大学南地区地区計画【H150131告示】
※84 防災生活圏促進事業地区の決定及び事業概要(H070605副都心開発調査特別委員会資料)、
防災生活圏整備促進事業地区について(H070725副都心開発調査特別委員会資料)、
H080807プレスリリース、
東京都豊島区池袋本町地区防災生活圏促進事業推進計画(H090515副都心開発調査特別委員会資料)、
H100416プレスリリース、
土地の買入れについて【池袋本町JRアパート敷地】(H120224企画総務委員会資料)、
池袋本町地区防災生活圏促進事業用地として取得した旧JR職員住宅跡地について(H121212防災対策調査特別委員会資料)、
プレーパーク事業について(H140702・H141004・H150225・H150626厚生委員会資料)、
H150822プレスリリース
※85 池袋本町地区の居住環境総合整備事業について(H180113副都心開発調査特別委員会資料)、
H210411プレスリリース、
豊島区立公園条例の一部改正について【池袋本町電車の見える公園の新設】(H250222都市整備委員会資料)、
H280829プレスリリース、
池袋本町地区校舎併設型小中連携校の建設について(H240224・H241207・H270626子ども文教委員会資料)、
池袋本町地区校舎併設型小中連携校基本設計について(H251129子ども文教委員会資料)、
H250320プレスリリース、
池袋本町一丁目の『防災施設用地』の特別養護老人ホーム用地としての活用について(H270929区民厚生委員会資料)、
養浩荘から池袋ほんちょうの郷への移転、運営開始について(R010628区民厚生委員会資料)
※86 豊島区立児童遊園条例のー部改正について【ひばりがや広場・南池ふくろうひろば】(H190219都市整備委員会資料)、
まちづくりニュース「ぞうしがや」No.52-62、
まちづくりニュース「ぞうしがや」No.64-69、
池袋南地区のまちづくりの歩み(平成19年度防災生活圏促進事業関連成果)
※87 木密地域不燃化10年プロジェクトについて(H240614副都心開発調査特別委員会資料)
※88 木密地域不燃化10年プロジェクトについて(H240717副都心開発調査特別委員会資料)、
木密地域不燃化10年プロジェクトについて(H240913副都心開発調査特別委員会資料)
※89 木密地域不燃化10年プロジェクトについて(H250415副都心開発調査特別委員会資料)、
不燃化特区における助成制度のご案内
※90 木密地域不燃化10年プロジェクトについて(H240717副都心開発調査特別委員会資料)
※91 木密地域不燃化10年プロジェクトについて(H240913副都心開発調査特別委員会資料)、
木密地域不燃化10年プロジェクトについて(H250415副都心開発調査特別委員会資料)、
木密地域不燃化10年プロジェクトについて(H250724副都心開発調査特別委員会資料)、
木密地域不燃化10年プロジェクトについて(H251114副都心開発調査特別委員会資料)
※92 木密地域不燃化10年プロジェクトについて(H250724副都心開発調査特別委員会資料)、
木密地域不燃化10年プロジェクトについて(H260415副都心開発調査特別委員会資料)、
木密地域不燃化10年プロジェクトについて(H260715・H260911副都心開発調査特別委員会資料)
※93 木密地域不燃化10年プロジェクトについて(H250724副都心開発調査特別委員会資料)、
木密地域不燃化10年プロジェクトについて(H260114副都心開発調査特別委員会資料)、
木密地域不燃化10年プロジェクトについて(H260415副都心開発調査特別委員会資料)、
木密地域不燃化10年プロジェクトについて(H260715・H260911副都心開発調査特別委員会資料)、
巣鴨・駒込地区不燃化特区まちづくりニュースNo.1-2、
池袋本町・上池袋地区不燃化特区まちづくりニュースNo.1-4、
長崎・千早地区不燃化特区まちづくりニュースNo.1-2
※94 防災街区整備方針の改定について(H260911副都心開発調査特別委員会資料)、
木密地域不燃化10年プロジェクトについて(H270611副都心開発調査特別委員会資料)、
東京都防災都市づくり推進計画の改定(案)について(H280222都市整備委員会資料)、
木密地域不燃化10年プロジェクトについて(H261113副都心開発調査特別委員会資料)、
豊島区建築物不燃化促進助成条例の改正について(H270220都市整備委員会資料)、
新たな防災道路の指定について(H280920都市整備委員会資料)
※95 木密地域不燃化10年プロジェクトについて(H261215副都心開発調査特別委員会資料) 、
木密地域不燃化10年プロジェクトについて(H270611副都心開発調査特別委員会資料) 、
木密地域不燃化10年プロジェクトについて(H270715副都心開発調査特別委員会資料)、
木密地域不燃化10年プロジェクトについて(H270915副都心開発調査特別委員会資料)
※96 木密地域不燃化10年プロジェクトについて(H271112副都心開発調査特別委員会資料)、
木密地域不燃化10年プロジェクトについて(H280113副都心開発調査特別委員会資料)、
補助81号線沿道巣鴨・駒込地区地区計画、
上池袋二・三・四丁目地区地区計画、
池袋本町地区地区計画、
補助172号線沿道長崎地区地区計画、
地区計画の区域内における建築物の制限に関するの一部を改正する条例【東池袋四丁目42番地区、補助81号線沿道巣鴨・駒込地区、上池袋二・三・四丁目地区、池袋本町地区、補助172号線沿道長崎地区】(H280704都市整備委員会資料)