西口メトロポリタンプラザビルから見た池袋副都心遠望(平成24年撮影)西口メトロポリタンプラザビルから見た池袋副都心遠望(平成24年撮影)
 この平成期の通史を編さんするにあたり、第1章は平成2(1990)年10月の東京芸術劇場の開館からスタートした。池袋駅西口地域待望のこの劇場の誕生は、昭和53(1978)年に東口にオープンしたサンシャインシティに並び、池袋副都心のシンボルであるとともに、さらなる副都心の発展を予感させるものであった。だが時を同じくしてバブルが崩壊し、日本経済は失われた10年、さらに20年とも言われる長期低迷期に突入していった。そして池袋副都心の都市開発は、東池袋四丁目地区市街地再開発事業を除きほぼ休眠状態に陥り、その再開発事業も「超」がつくほどの難事業になったのである。
 一方、区は平成不況が長期化する中でも行政サービスの維持・向上を基本方針に右肩上がりの財政運営を続け、特に福祉施設や公営住宅、公園等の公共施設整備に邁進した。それは少子高齢化の急速な進展に対応するためのものではあったが、こうした公共施設整備への過剰な投資は区財政を次第に危機的な状況へと追い込み、ついには福祉・教育等の基本政策さえも見直しが迫られる状況になっていった。
 このような経緯をたどった第1章は、物語に喩えるならば起承転結の「起」にあたる。続く「承」にあたる第2章では危機的状況に陥った区財政の再建と平成12(2000)年の都区制度改革を契機とする基礎的自治体への変革の道のりを、また「転」にあたる第3章では豊島区の未来を切り拓くために展開された文化創造都市づくりと安全・安心創造都市づくりの道のりをたどってきた。そして最終章となるこの第4章では再び池袋副都心に視点を戻し、高野区長にとって最大の悲願であった池袋の再生と令和の「としま新時代」へとつながる政策展開をたどっていく。

水をあけられた副都心の開発―幻の副都心線東池袋駅と新東京タワー

 池袋が副都心に位置づけられたのは昭和33(1958)年、国の「首都圏整備計画」の中で千代田・港・中央の都心3区に集中した都市機能を分散させるため、新宿・渋谷と並んで副都心に指定されたことに遡る。
 この計画に基づき、都市再開発の先陣を切ったのは新宿だった。昭和35(1960)年、新宿駅西口の淀橋浄水場跡地を中心とする総面積96㏊に及ぶ広大な区域を対象に、新宿副都心計画が都市計画決定された。そしてこの都市計画事業の執行を担う「新宿副都心建設公社」が設立され、多層構造の駅前広場や周辺街路、新宿中央公園等が整備されるとともに、浄水場跡地の各街区を民間開発事業者に売却し、官民一体の再開発が進められた。昭和46(1971)年の京王プラザホテルの開業を皮切りに、49(1974)年に新宿住友ビル・KDDビル・新宿三井ビル、51(1976)年には安田火災海上ビルが完成し、以後、周辺エリアも含め次々と高層ビルが建設されていった。そしてバブル崩壊直前の平成2(1990)年12月、最後まで残っていた3街区に都の新庁舎が竣工し、新宿駅西口地区の再開発事業は完成を見た。超高層オフィスビルが建ち並ぶ光景は圧巻であり、これにより新宿は都心区に並ぶ業務集積拠点として副都心第一位の地位を不動のものにしたのである。
 また渋谷は戦前の東京急行電鉄による田園都市構想に端を発し、新宿・池袋と同様にJR・私鉄・地下鉄各路線が乗り入れるターミナル駅として発展してきた街である。さらに渋谷が大きく発展するきっかけになったのが昭和39(1964)年に開催された東京オリンピックで、オリンピックの主会場を抱える渋谷・新宿地区では大規模な公共事業が展開された。そして1980年代以降、新宿から渋谷へと流れていった若者たちにより様々なポップカルチャーが生み出され、渋谷は「若者の街」として時代の流行を先取りする街へと変貌していった。さらにこうした街の雰囲気に惹かれるように、2000年代に入るとITベンチャー企業等が集積し、平成12(2000)年に渋谷マークシティが開業、翌13(2001)年に東急本社跡地にセルリアンタワーが竣工して以降、渋谷を本拠地とする東急グループを中心に大規模な再開発事業が次々と動き出していた。
 一方、同じ副都心に位置づけられながらも、池袋は都市開発の面で新宿・渋谷に大きく遅れを取っていた。新宿駅に次いで乗降客の多い池袋駅を擁し、新宿に続く副都心再開発候補地として昭和34(1959)年には首都圏整備委員会により「池袋副都心地区実態調査報告書」がまとめられていたが、具体的な都市計画の動きにはつながらなかった。また高度経済成長期に消費拡大の波に乗り、1960年代には池袋駅の東西に5つの百貨店が建ち並ぶ「百貨店ブーム」で一世を風靡した池袋ではあったが、高度経済成長の終焉とともにかつての活気は次第に失われていった。そうしたなか、53(1978)年に当時では日本一の高層ビルとして脚光を浴びたサンシャインシティが池袋駅東口の東京拘置所跡地にオープン、平成2(1990)年には西口の学芸大学附属豊島小学校跡地に東京芸術劇場が開館し、池袋地域の再開発にもようやく火がつくかに思われた。だが前述した通り、その直後にバブルが崩壊し、東池袋四丁目地区市街地再開発事業を除き、池袋副都心の再開発は長い休眠状態に入っていったのである。
 平成不況の荒波をまともに被りながらも進められたこの東池袋四丁目地区市街地開発事業は、当初計画の業務系から住宅系へと大きく方針転換することにより、平成19(2007)年にようやく完成に漕ぎ着けることができた。またこれに続いて計画された隣接する東池袋四丁目第2地区の市街地開発事業においても、14(2002)年に当初の再開発組合方式から都市基盤整備公団に施行を委任する方式に変更され、23(2011)年に地上52階地下2階建ての超高層マンション「アウルタワー」が竣工した(※1)。そしてこの時期に池袋エリア内で施工された大規模な民間開発は、西池袋5丁目のザ・タワー・グランディア(2004年築)、東池袋2丁目のシティタワー池袋(2003年築)、東池袋3丁目のヴァンガードタワー(2007年築)など、そのほとんどが高層マンションの建設であった(※2)。
 こうしたことからも分かるように、平成10年代頃の池袋は企業等の進出意欲が低く、副都心として業務機能の分散を担う受け皿にはなり得ていなかったのである。
 その一方、昭和57(1982)年に策定された都の長期計画で上野・浅草地区、錦糸町・亀戸地区及び大崎地区の3地区が新たな副都心に指定され、また61年(1986)の第2次長期計画では台場・青海・有明地区の臨海エリアが7番目の副都心に指定されるなど、多心型都市構造への再編が進められた。特にかつて工場地帯であった大崎地区は、工場移転による跡地に62(1987)年「大崎ニューシティ」、平成11(1999)年に「ゲートシティ大崎」が竣工したのを機に駅周辺の再開発事業が加速度的に進んだ。さらに14年(2002)年の東京臨海高速鉄道「りんかい線」新木場-大崎駅間の全線開通により、臨海部とつながるターミナル駅として先端企業の本社オフィスが次々と進出し、かつての裏さびれた「町工場のまち」から品川駅に並ぶビジネス街へと変貌を遂げつつあった。その品川駅周辺地域もまた、10(1998)年に駅東側の旧国鉄貨物ヤード跡地が品川インターシティに生まれ変わり、15(2003)年には東海道新幹線品川駅が開業、超高層ビル建設や企業集積が進んでいた。
 また平成元(1989)年に開発工事が開始された臨海副都心エリアは、5(1993)年に港区芝浦と台場地区を結ぶレインボーブリッジが完成し、8(1996)年の「世界都市博覧会」に向け東京国際展示場(東京ビッグサイト)等の整備が進められた。だが7(1995)年4月の都知事選で当選を果たした青島幸男新知事の公約であった同博覧会の中止が決定され、臨海エリアの開発の行方に一時、暗雲が漂った。しかしそうした中でも同年11月に東京臨海新交通臨海線「ゆりかもめ」新橋-豊洲間が開通し、翌8(1996)年には臨海副都心の情報通信基盤機能を担う「テレコムセンター」が竣工、さらに都市博会場に予定されていた東京国際展示場が開業するなど、臨海副都心エリアの開発は着々と進められた。また「レインボータウン」の愛称が付けられた同エリア内の台場にフジテレビ本社が移転したのを機に、大観覧車がシンボルの「パレットタウン」や「アクアシティお台場」等のアミューズメント施設が開業、ホテルや国際会議・展示場等の施設が次々に建設された。こうして臨海副都心エリアは最先端の都市インフラを備え、羽田・成田両空港へのアクセスが良好なことに加え、水と緑に彩られたウォーターフロントという東京の新たな魅力スポットとして注目を集めていった。
 また日本一のオフィス街として「大丸有」と称されてきた大手町・丸の内・有楽町の都心エリアにおいても、1990年代以降、建物の多くが更新期を迎え、老朽化が進む一方、バブル崩壊後の景気低迷により賃料が高い同エリアから再開発によりオフィス供給力が増した品川・新宿等への企業流出が進んでいた。こうした状況に対応するため、平成10(1998)年、大地主である三菱地所をはじめエリア内の地権者を会員とする「大丸有まちづくり協議会」が設立され、それまでのオフィス機能に止まらず、人が集まる交流拠点の形成へとまちづくりの方向性を転換していった。こうした方向性を具体化するものとして、14(2002)年に1階部分にイベントスペース「マルキューブ」を設けた丸ビルが竣工、続く16(2004)年に丸の内駅前ビル群の再開発に伴い複合商業施設「丸の内オアゾ」が開業し、また丸の内仲通りを軸とした歩行者空間が整備され、平日の昼間以外は閑散としていたかつての丸の内エリアの様相は一変した。以後、これらの開発を手掛けた三菱地所が主導するかたちでNPO法人大丸有エリアマネジメント協会が設立され、オープンカフェやアートイベント等のソフト事業も含めた面的な再開発事業が展開された。さらに東京駅丸の内駅舎の改築に合わせ、この地域だけに限定される特例容積率適応地区制度を活用し、駅舎敷地の空中部分の容積率を売却するかたちで周辺オフィスビルの高層化が進んでいった。
 こうして都内各地で再開発の動きが活発化するなか、豊島区でも平成12(2000)年10月、13~16(2001~2004)年度を計画期間とする「新生としま改革プラン」を策定し、A~Eの5つの柱のプランBに「新たな時代に対応できる公共施設・都市基盤のあり方の確立」を掲げ、公共施設の再構築、学校跡地等の有効活用とともに都市基盤の整備を進めていく方針を示した。このうち都市基盤整備については、「財源対策に十分に留意しつつ、副都心としての活性化や防災まちづくりの観点から重要な施策に絞り、21 世紀へのまちづくりに取り組みます」として副都心再生に臨む姿勢を打ち出したものの、当時の区の財政状況では新たな都市開発事業に手をつける余裕などなかった。この時点で具体的な取り組みとして挙げられていたのは、加藤区政から引き継いだ「東池袋 4 丁目再開発ビルへの中央図書館移転・多目的交流施設の整備」以外には、「グリーン大通り地下空間の活用検討」と「がん研究会付属病院跡地の検討」の2項目のみで、いずれも「検討」にとどまるものであった。またその後も毎年度、改革プランの推進計画を策定して新たな取り組みが追加されてはいったが、都市基盤整備に関しては13(2001)年度に「都市計画公園の整備」(椎名町公園)と「鉄道駅エレベーター等整備への支援」、最終年度の16(2004)年度に「大塚駅周辺整備」と「東長崎駅周辺整備」が加えられたのみで、これらの中にも池袋副都心の再生に関わる新たな取り組みは含まれていなかった(※3)。
 このうち「グリーン大通り地下空間の活用検討」は、当時整備事業が進められていた地下鉄13号線(東京メトロ副都心線)に深く関わっていた。
 池袋・新宿・渋谷の3副都心をつなぐ地下鉄13号線の整備計画は、昭和50(1975)年に東京メトロの前身である帝都高速度交通営団(以下「営団」)が池袋-渋谷間約9kmの建設事業免許を申請し、60(1985)年に出された運輸政策審議会の答申で2000年までに整備すべき路線に位置づけられていた。だが路線上に位置する環状5の1号線の用地買収が進んでいなかったことなどから事業開始の目途はなかなか立たず、平成7(1995)年に路線沿線3区及び都による「営団地下鉄13号線建設促進連絡協議会」が設立され、早期実現に向けた要請運動が展開された。こうした動きを受け、また10(1998)年7月に環状5の1号線が事業認可されたことにより、同年12月に当初の計画を変更して改めて免許申請が出され、翌11(1999)年1月に免許を取得、いよいよ副都心線建設工事が開始されることになった(※4)。
 しかし、昭和50(1975)年の当初申請時に池袋駅と雑司が谷駅間にあった東池袋駅がこの変更計画では外され、区内での新駅は雑司が谷駅のみとなっていたのである。こうした事態に平成11(1999)年1月26日、区は区長名で営団地下鉄13号線「東池袋駅」設置の要望書を営団総裁及び都知事あてに提出、翌2月12日には営団地下鉄13号線建設促進豊島区協議会、東京商工会議所豊島支部、(株)サンシャインシティ、東池袋四丁目地区市街地再開発組合、東池袋四丁目第2地区市街地再開発準備組合、地下鉄13号線・環5の1道路建設推進住民協議会及び豊島区町会連合会第4地区の7団体各代表の連名により、東池袋駅の設置を求める要望書が提出された。また同年2月開会の区議会に地元の東口中央町会から「営団地下鉄13号線建設に伴い池袋東地区に駅設置の請願」が提出されるとともに、これに関連して地下鉄13号線・環5の1道路建設推進住民協議会から「都市計画道路環5の1号整備に伴う沿道住民の生活再建についての請願」、また雑司が谷在住区民から「『環5の1』道路の地下化建設を早急に具体化するよう求める陳情」が提出された。これらの請願陳情を採択した区議会は「営団地下鉄13号線の東池袋設置に関する要望書」を都知事及び営団総裁宛に提出するとともに、13号線と環状5の1号線の地下道路建設を同時に進めるよう求める「東京都市計画道路環状5の1号線に関する要望書」を都知事宛に送付した(※5)。
図表4-1 地下鉄13号線池袋~新宿7丁目間建設事業概要図(駅名は仮称)
 図表4-①の建設事業概要図からも分かるとおり、地下鉄13号線の区内ルートは池袋駅からグリーン大通りの地下を走り、有楽町線東池袋駅手前で南に折れ、整備予定の環状5の1号線の地下を通って雑司が谷から西早稲田方面に向かっている。副都心線の東池袋駅の設置候補地は、このグリーン大通りがちょうど首都高速5号線に接するあたりに想定されていた。また環状5の1号線の用地買収が進まなければ地下鉄13号線の工事に入れないという事情もあり、双方の建設工事は一体的に行われることが求められたが、それについてはこれらの請願陳情が出される6年前の平成5(1993)年にも、地元住民らから地下鉄13号線建設と環状5の1号線の同時建設を求める請願陳情が出されていた。
 環状5の1号線の雑司が谷~南池袋間、延長約1,000mの整備計画は戦後間もない昭和21(1946)年に都市計画決定されていたが、沿道住民の強い反対にあって長く手を着けらずにいた。それが時代を経る中で、このままでは地域の発展は望めないという声があがりはじめ、また13号線の整備と一体化して環状5の1号線が地下化されるという話が持ち上がっていたことから、周辺住民の多くが次第に整備賛成に傾いていった。平成5(1993)年11月、地下鉄13号線・環5の1道路建設推進住民協議会は地元住民2,294名の署名を付し、環状5の1号線の地下化を前提に「地下鉄13号線・環状5の1道路早期に同時期着工を求める請願」を区議会に提出した。またこれに続いて、計画の具体案を早急に住民に示すとともに、事業実施にあたって立退き者に対する生活再建支援と周辺環境への配慮を求める「『環状5の1』道路計画案についての陳情」が提出された。そしてこれらの請願陳情を採択した区議会は、その主旨を踏まえ、「都市計画道路環状5の1号線計画に関する意見書」を都知事宛に提出するとともに、「営団地下鉄13号線の早期建設に関する要望書」を運輸大臣及び営団総裁宛に送付していたのである(※6)。
 だがこうした経緯があったにも関わらず、平成10(1998)年に環状5の1号線が事業認可されたことに伴って地下鉄13号線の整備工事が動き出す一方、環状5の1号線の地下化は依然として将来計画に止め置かれたままだった。このため、11(1999)年2月に先の請願陳情が改めて出されるに至ったのであり、同年12月には高野区長も「この地下4車線の整備こそが地元住民の環状5の1号線の整備促進運動、営団地下鉄13号線建設促進運動の原点である」として、地下化工事の早期着手に向けた都市計画決定の手続きを求める要望書を都知事に提出した(※7)。
 こうした要望に応え、都は地下化工事を早期に実施する方針に切替え、その工事期間中に沿道住民が利用するための暫定道路の整備を平成22(2010)年度までに完了させるとともに、都市計画変更手続きを進め、翌23(2011)年4月、それまでの地表式(平面構造)4 車線の計画を地表式(平面構造)2 車線及び地下式 2 車線に変更する都市計画決定をし、24(2012)年度から整備工事が開始された(※8)。
 一方、地下鉄13号線の東池袋駅設置については、地元からの強い要望があったにもかかわらず、結果的に東池袋駅を外した変更案が平成13(2001)年5月に都市計画決定された。だが事前に駅設置が困難と見た区はこの決定に先立ち、営団との間で「新駅設置の工事開始については東池袋市街地再開発事業の進捗状況や周辺地域の整備状況を見つつ、相当の利用客が見込めるようになったときとする」、「新駅設置が可能となるよう、今回の工事であらかじめ必要な措置を施しておく」という2点を内容とする「確認書」を取り交わし、新駅設置の余地を残そうとしたのである。12(2000)年6月、区の都市計画審議会は諮問された変更計画案を了承しつつも、この「確認書」に基づき、新駅設置について早急に都市計画決定されるよう都及び営団に強く要望することを求めた。この答申を受け、同年12月、高野区長も変更案に対する区長意見の提出にあたり、新駅設置について「地元区としては街づくりの観点からも、池袋駅と雑司が谷駅間に新駅設置のための都市計画決定に早急に取り組んでいただきたい」との要望を付した(※9)。
 しかしこうした要望は受け容れられることなく、雑司が谷駅の出入口配置やバリアフリー化、また駅名を「雑司ヶ谷」から「雑司が谷」へ変更するなど、雑司が谷駅については地元要望が反映されたが、東池袋駅については将来の可能性を残しつつも、平成20(2008)年6月の副都心線開業時には設置されなかった(※10)。その背景には、新駅候補地に隣接して東京メトロ有楽町線東池袋駅が既に昭和49(1974)年に開設されており、このエリアの交通需要は満たされているとの営団側の判断があったからであり、同エリアのさらなる需要拡大が新駅設置の条件とされたのである。
地下鉄13号線建設促進報告集会(平成11年10月)
東京メトロ副都心線開業(平成20年6月)
 池袋東口駅前から地下鉄副都心線が直下を走るグリーン大通りは、平成13(2001)年4月に都から移管されたものであるが、東口のメインストリートでありながらも、通りに面した1階部分には銀行の支店や保険会社の営業所等が建ち並び、買い物客や余暇を楽しむといった人々の賑わいに欠けていた。池袋駅東口からの人の流れはサンシャインシティに向かうサンシャイン60通りに集中し、グリーン大通りの人の往来はさほど多くなかった。こうしたことから新駅設置の可能性を高めるためにもこのグリーン大通りの活性化が課題とされ、前述した新生としま改革プランに「グリーン大通り地下空間の活用検討」が盛り込まれたのである。実はこの「地下空間の活用」の検討は、13(2001)年6月、日本プロジェクト産業協議会(JAPIC)から提出された「池袋副都心地区再活性化へ向けて-池袋東口グリーン大通り周辺整備構想-」と題する提案書がもとになったものであった(※11)。
 JAPICは国土の有効利用と社会資本整備を推進するため金融・産業各界が参加して設立された社団法人で国土交通省と経済産業省が共管し、民間企業の立場から大規模再開発プロジェクトの推進や調査研究、政策提言等を行っていた。この提案書もJAPICの下部組織である都市開発委員会都市空間高度利用研究会によりまとめられたものであったが、提案の趣旨の中で、「近年の社会情勢の変化は、人々が都市に求めるニーズを多様化させ、年々都市・地域間競争が激化する中で、都市機能の更新がおおきな課題となっており、池袋副都心地区においても今まで以上にまちの魅力や快適さを提供していくことが求められている。ひるがえって池袋副都心地区の現状を見ると、都市機能の陳腐化が目立つとともに、まちの広域的な発展をうながす回遊性が不足しているといえ、池袋副都心地区本来のポテンシャルが十分に活かされていない状況にある」との池袋に対する現状認識が示され、こうした現状への打開策として、13号線の整備事業に合わせ、①グリーン大通りを池袋副都心地区再活性化のシンボルとして位置づけること、②地域が一体となって、計画的・段階的なまちづくりビジョンを描くこと、③最小の投資で最大の効果を得るための事業の枠組みを早急に検討すること、という3つの提案がなされていた。またその具体策にはグリーン大通りの重層的整備(地下空間の有効活用、地上空間の再整備)、グリーン大通りを中心とした歩行者ネットワークの構築と拠点整備(南池袋公園、日出小学校跡地付近)等を挙げ、特に地下空間の有効活用については具体的な整備計画案と整備後の利用計画も含めた事業収支等についても検討されていた。
 この提案書で示された池袋の現状認識は、外部から見たその当時の池袋の状況を正確に言い表したものではあったが、提案書の目玉とも言えるグリーン大通りの地下空間の整備事業費は当時の試算で200億円を超え、その資金調達や整備後の事業採算性等の面で多くの課題を抱えるものであった。このため地下空間整備は実際に具体化されることはなかったものの、グリーン大通りを軸にまちの回遊性を高めていくという考え方は後述する「池袋副都心再生プラン」の策定へとつながり、また拠点施設に挙げられていた南池袋公園や日出小学校跡地の活用は後の区の都市政策に活かされていった。
 豊島区がこうして副都心再生の可能性を模索していた一方、国は平成14(2002)年6月に都市再生特別措置法を施行し、都市の再生拠点として緊急かつ重点的に市街地整備を推進すべき地域を「都市再生緊急整備地域」として政令で指定する制度を開始した。さらにこの緊急整備地域のうち、都市の国際競争力の強化を図る上で特に有効な地域を「特定都市再生緊急整備地域」に位置づけたのである。この制度の適用を受けることができれば用途や容積率、高さ等土地利用規制が緩和されるとともに、民間事業者による都市計画提案制度、都市計画事業認可等の手続期間の短縮、金融支援・税制優遇措置等の支援が得られ、さらに「特定都市再生緊急整備地域」に指定された場合は税制支援が拡大されるほか、都市の国際競争力強化に資する公共公益施設の整備等に対する財政支援が得られた(※12)。
 そしてこの法律施行後の翌月、平成14(2002)年7月に東京都心・臨海地域(千代田・中央・港・江東区)、秋葉原・神田地域(千代田・台東区)、新宿駅周辺地域(新宿・渋谷区)、大崎駅周辺地域(品川区)の4地域が、また17(2005)年12月には渋谷駅周辺地域(渋谷区)が「都市再生緊急整備地域」指定を受け、このうち東京都心・臨海地域、新宿駅周辺地域、渋谷駅周辺地域は「特定都市再生緊急整備地域」にも指定された。これらの指定地域を見ても明らかなように、指定は都心及び城南エリアに集中しており、城北エリアの中核をなす池袋は17(2005)年の時点ではその中に含まれていなかった。その指定が実施されるのは実に10年後の27(2015)年となり、その結果、池袋は都市開発の面でその後さらに水をあけられていくことになったのである。
 また区の人口動向にも変化があった。平成9(1997)年を底に微増傾向にあった区の人口は15(2003)、16(2004)年と連続して減少に転じた。この減少は2年間だけの一時的なものではあったが、バブルによる地価高騰が沈静化し、人口の都心回帰が見られるなか、豊島区は23区では唯一の減少区であった。区内各駅の乗降客数も年々減少し続け、平成6(1994)年に300万人を超えていた池袋駅の1日あたり乗降客数は13(2001)年以降、260万人台にまで落ち込んでいた。さらに都内商業地の平均地価(地価公示)に下げ止まりの傾向が見られるなか、区内商業地の地価は下落傾向が続き、16(2004)年には23区の中で2番目の下落率になるなど、都心3区はもとより渋谷・新宿との差はさらに広がっていったのである。
 こうした重苦しい空気が区全体を覆うなか、にわかに第二東京タワーを豊島区に誘致するという話が持ちあがった。
 平成23(2011) 年の地上放送デジタル化完全移行は、テレビ放送の高画質・高音質化、多チャンネル化、双方向サービス化を実現するとともに、アナログ波からの切り替えにより大幅に削減される使用周波数を携帯電話等の新たなメディアへ再配分することを目的とした。また高層ビル建設等により発生する電波障害を解消し、関東圏全域に安定的にテレビ放送波を届けていくために、東京タワーよりも高い電波塔の建設が望まれたのである。このため第二東京タワーの誘致に向けた動きが各地で出始めていたが、15(2003)年12月にNHKと在京民放5社が「在京6社新タワー推進プロジェクト」を発足させ、完全デジタル化移行までに600メートル級の新タワーの建設を求め、建設地を広く募ったことからさらに各地での誘致運動は本格化していった。
 さいたま市、台東区、足立区で誘致に乗り出す動きがあるなか、豊島区で名乗りをあげたのはNPO法人アーバンクリエイト21(以下「アーバンクリエイト」)という民間組織だった。このアーバンクリエイトは豊島区のまちづくりを官民一体で進めていくことを目的に平成13(2001)年10月に設立され、東京商工会議所豊島支部の渡邊輝会長が理事長を務めていた。14(2002)年12月に第二東京タワーの建設計画を策定、当初の計画では建設候補地として池袋駅南口周辺が想定されていたが、同地は航空法上、羽田空港への航空機の離着陸を阻害しないよう約550mの高さ制限がかかることから、候補地をこの高さ制限の対象外である東池袋4丁目の造幣局東京支局敷地内に変更し、造幣局や放送事業者との面談折衝を行っていた。また15(2003)年9月には、高野区長にも建設促進の要望書が提出されていた。
 アーバンクリエイトの誘致計画では、タワーの建設・運営を担う組織として民間主体のSPC(特定目的会社)を設立し、造幣局東京支局から用地を借り受け、600m級のアンテナ塔と収益性のあるビル棟を合築した建物を建設、タワー展望台の入場料収入及び放送事業者からの施設賃料収入のほか、放送・通信関連事業者や商業施設等を誘致し、そのテナント料収入により事業運営の採算性を高めていくという事業スキームが組まれていた。また建設経費はビル棟部分も含めて約610億円が見込まれ、その資金は金融機関からの融資及び放送事業者からの出資で調達するとしていた。そして地元自治体である豊島区に対しては、都市計画変更や都市再生特別地区指定等の開発誘導に向けた都市計画手続き及び造幣局東京支局の用地確保のための協力を求めた。このアーバンクリエイトの理事長を東京商工会議所豊島支部の会長が務めていたことからも明らかなように、同支部はじめ地元商店街連合組合等の地域経済団体もこの計画を積極的に支援していく姿勢を示していた。

※6 都市計画道路環状5の1号線及び地下鉄13号線について(H051122・H051215区民建設委員会資料)環状第5の1号線事業計画について(H080415副都心開発調査特別委員会資料)

※7 環状5の1号線について(H100716副都心開発調査特別委員会資料)環状5の1号線街路事業(雑司が谷地域)(H110224区民建設委員会資料)環状五の一号線地下道路の整備に関する要望書(H120114副都心開発調査特別委員会資料)

※8 都市計画道路環状第5の1号線について(H220915副都心開発調査特別委員会資料)環状第5の1号線都市計画変更について(H230218都市整備委員会資料)環状第5の1号線について(H231115副都心開発調査特別委員会資料)環状5の1号線(雑司が谷)地下道路整備工事の概要

※9 都市高速鉄道13号線都市計画素案説明会について(H110914副都心開発調査特別委員会資料)都市高速鉄道13号線に係る都市計画審議会報告及び雑司が谷駅の出入口の設置について(H120728副都心開発調査特別委員会資料)地下鉄13号線に係る今後の手続きについて(H121215副都心開発調査特別委員会資料)都市高速鉄道13号線の都市計画決定について(H130515副都心開発調査特別委員会資料)

※10 地下鉄13号線雑司が谷駅(仮称)出入口について(H180301都市整備委員会資料)地下鉄13号線の駅名案について(H180630都市整備委員会資料)

※11 特例都道2路線の東京都からの移管について(H120914副都心開発調査特別委員会資料)日本プロジェクト産業協議会の池袋東口グリーン大通り周辺整備構想について(H130914副都心開発調査特別委員会資料)

※12 都市再生特別措置法について(H140515副都心開発調査特別委員会資料)

 この誘致計画が実現すれば、隣接するサンシャインシティに並ぶ観光地として多くの人々を呼び込むことができ、低迷する地域経済の活性化はもとより、区としても直接、間接の税収増が見込まれ、さらに東池袋4丁目地区の市街地再開発と相まって、前述した副都心線東池袋駅の設置にも大きな弾みになることが期待された。このため平成16(2004)年6月、区もアーバンクリエイトの誘致計画を本格的に支援していく方針を固め、同月開催の区議会副都心調査開発特別委員会で区長自らがその方針を明らかにしたのである(※13)。
 そして翌7月に区長を本部長とする新東京タワー誘致推進本部を庁内に設置し、NPO法人による誘致計画の精査や各種法令、都市計画上の課題整理などを進めるとともに、建設候補地である造幣局東京支局に対しての協力要請を行っていった。さらに9月21日、誘致計画を官民一体で進めていくため、区の助役を委員長、総務部長を副委員長、委員として東京商工会議所豊島支部、豊島区商店街振興組合連合会、地元企業のサンシャインシティ、ビックカメラ、ミレニアムリテイリング(そごう・西武)各社、地元金融機関の巣鴨信用金庫、東京信用金庫の各代表から構成される「新東京タワー(仮称)事業化準備委員会」を設立した。
 新東京タワー建設の事業主体には、その事業規模および事業の公共性からみて確実な事業推進能力が求められ、かつ相当の信用力のある企業群で組織する必要があった。また放送事業者による「新タワー推進プロジェクト」、土地所有者である「造幣局」及び都市再生を担当する国や都等の「関係行政機関」に対し、顔の見える組織体を早期に結成し、豊島区を挙げての事業であることを示す必要もあった。さらに「新タワー推進プロジェクト」への事業計画の提出期限が年内に迫っていたため、区が主導する形で当面参加できる企業に絞り、「準備委員会」という位置づけで設置したものであり、構想段階にあったNPO法人の誘致計画を実現可能な事業計画へとつくり上げていくことがこの委員会の役割だった(※14)。
 準備委員会の設立同日に開かれた記者会見で、高野区長は「昨今、都内の再開発が汐留、お台場、六本木など南側に集中し、城北地域が取り残されている観が否めない状況にありますが、東京の開発のバランスをとるといった意味からも、池袋に新東京タワーの誘致を行うことは重要である」との認識を示し、建設予定地を所有する造幣局との協議を進め、実現に邁進していく決意を改めて表明した。またこの会見では民間シンクタンク「日本経済研究所」による調査として、池袋に新東京タワーが建設された場合、タワー単体の収入110億円に加え周辺への波及効果659億円、合わせて769億円にのぼる経済効果が見込まれるとの試算結果が明らかにされた。
 以降、準備委員会は3か月間に7回に及ぶ会議を重ね、12月 16日に「新東京タワー(仮称)プロジェクト事業計画」をまとめ、放送事業6社による「新タワー推進プロジェクト」に提出した(※15)。
 この事業計画では、基本コンセプトに①IT新時代におけるデジタル放送拠点の創出、②立地の最適性を有する新タワーの整備、③災害対策への貢献、④都市再生の実現の4項目を掲げ、建設候補地が航空法上の高さ制限対象外であることをはじめ、首都圏全体を強電界域でカバーできること、周辺エリアでの電波障害対策がすでに完了していること、震災・水害のリスクが低い強度な地盤上にあること、放送各社から至近であること、さらに交通アクセスや観光・商業といった都市基盤が既に確立されていることなど、第二東京タワーに求められる要件を満たし、かつ他候補地より優位にあるとしていた。また官民一体の推進体制により事業の公共性を確保するとし、事業スキームや建築計画、資金計画、収支計画及び事業スケジュール等を具体的に示していた。
 この間、準備委員会の発足を報告した9月24日の副都心開発調査特別委員会で、区議会としても超党派の議員連盟を作ってこの事業を後押ししていくべきとの声があがり、11月30日に「新東京タワー事業化促進豊島区議員連盟」が結成された。さらに翌12月21日には町会連合会や商工・観光関係団体、区内事業者等の各代表者による「新東京タワー誘致推進協議会」が立ち上げられ、以後、この推進協議会と議員連盟とが誘致運動の車の両輪としての役割を果たしていった。
 その一方、11月25日に開催された墨田区議会において、再開発事業が進む押上・業平地区を候補地として第二東京タワーの誘致に乗り出す方針が同区長により表明された。これにより平成17(2005)年3月末に予定される建設候補地の決定に向けて墨田区も参入することになり、公式・非公式を含め候補地提案は15地区にのぼり、誘致合戦はさらに加熱していったのである。
 年が明けた平成17(2005)年1月20日、新東京タワー誘致推進協議会並びに新東京タワー事業化促進豊島区議員連盟の主催により豊島公会堂に900人余りの参加者を集め、「新東京タワー誘致推進大会」が開催され、池袋副都心発展の起爆剤にとタワー誘致に向けた機運を高めた。また続く2月1日、推進協議会と議員連盟はこの大会で採択された「新東京タワーの豊島区への建設を求める要望書」を「新タワー推進プロジェクト」をはじめ、電波事業を所管する総務省、造幣局を所管する財務省並びに造幣局東京支局に提出した。当日、推進協議会・議員連盟の主要メンバーらに区長も加わった約40名がそれぞれのもとを訪れ、直接要望書を手渡すとともに「立地条件や事業の効率性、経済波及効果等の様々な点において、数ある候補地のなかで最も池袋が適している」ことを訴えた。この要請に対し、「新タワー推進プロジェクト」の幹事社である(株)テレビ朝日専務取締役は「放送事業者にとっては数十年にわたり大きな影響を受ける事業であるので、候補地の選定には慎重を期したい」と応えた。一方、麻生太郎総務大臣からは「良く出来たプランだと思う。(実現すれば)池袋はすいぶん変わるのではないか」、また谷垣禎一財務大臣からも「造幣局の業務に支障がないなら心配はない。必要性や公共性を勘案しながら、国民の理解が得られるか判断したい」との考えが示された(※16)。
 さらに3月末の最終決定を目前に控え、「新東京タワー災害対策活用研究会」により、災害対策利用の有効性、大地震発生時に新タワーが欠かせないこと、および災害リスクの少ない池袋への誘致の優位性についての検討結果報告書がまとめられた。この研究会は日本電気、NECシステム建設、日立製作所、新日鐵、東京電力、日本設計、三菱地所、SECOM、NTT DoCoMo、トヨタ自動車、東京ガスの各社が研究メンバーとして参加し、三菱総合研究所が事務局を担っていた。同研究会報告を受け、区は3月7日に記者会見を開催、会見当日には同研究会の座長を務め、都市防災を専門とする中林一樹東京都立大学教授(都市科学研究科長)も同席し、研究会報告について説明した。またこの研究成果を踏まえ、改めて池袋が他の候補地よりも優れている点を整理したパンフレット「新東京タワーベストセレクションは池袋」を作成、各放送事業者に提出するとともに区ホームページで広く公開し、池袋の優位性をアピールした(※17)。
 しかし、こうして官民一体の誘致運動を展開したにもかかわらず、3月28日、「新タワー推進プロジェクト」は「墨田・台東エリア」(建設候補地:墨田区業平橋・押上地区)を第一候補地として選定したことを公表、提案を行っていた他地区にその検討結果を通知した。またこの第一候補地とは別に、東京の震災時のバックアップ機能等を考慮し、「さいたま新都心」をもう一つの候補地として引き続き協議を進めていくとしていた。
 この候補地選定にあたり、「新タワー推進プロジェクト」は都竹愛一郎名城大学教授の監修のもとでデジタル波のカバーエリアやビル陰障害対策等についての技術的な検証を行うとともに、都市計画・建築構造・防災・環境・景観・観光・社会的合意等、多角的な視点から専門家の意見を聞くため、「新タワー候補地に関する有識者検討委員会」(委員長:中村良夫東京工業大学名誉教授、以下「有識者検討委員会」)を設置し、各提案の詳細検討と比較考量を諮問していた。第一候補地を「墨田・台東エリア」に選定したのはこの有識者検討委員会の答申を踏まえたものであり、いずれの候補地も電波技術面でいくつかの検討課題を残し、かつ検討委員会の選定基準をすべて満たす提案がなかったなか、相対的に技術検証において優位にあると同時に立地条件の面でも他地域に比べ優位にあると判断されたものであった。その選定理由には以下の6項目が挙げられていた。
  • ① タワーを中心としたまちづくりが進められる好機にあり、新たな情報発信の「都市文化の創成拠点」となる可能性を有していること
  • ② 歴史・伝統を有する数々の環境資産を有していること
  • ③ 隅田川や周囲の観光資源にも恵まれ、これらを有機的につなぐ拠点となる可能性
  • ④ 敷地規模や事業性の見通しの優位性から周囲への環境影響への対応が図られる余地を残していること
  • ⑤ 行政および区民による防災まちづくり等の取り組み姿勢および実績、さらにはタワー建設が一層の防災拠点機能の強化につながると考えられること
  • ⑥ 成田空港と羽田空港を結ぶ鉄道を含む複数路線の交通結節機能を有し、駅前広場を含む様々な機能増進が図られるなど、国内外の多くの来客を受け入れる条件を有すること
 墨田区が候補地として提案していた東武鉄道旧業平橋駅の貨物ヤード跡地は、航空法上、300mの高さ制限がかかっていたが、ちょうどこの年の2月に同法改正のパブリックコメントが実施され、4月には制限緩和が見込まれていたことが選定結果に大きく影響していた。またこの候補地を所有する東武鉄道が事業主体としてタワー建設に乗り出すことを表明しており、建設用地の確保に合わせて事業の確実性が認められたことに加え、東京を代表する観光地・浅草が隣接することから展望タワーとしての観光収入が見込まれたからであり、有識者検討委員会の答申の中でも「隅田川をはさんだ台東・墨田両区の市民・行政が一体となった、観光や様々なまちづくり活動の支援・推進が図られること」が条件とされていた。また同答申は「地元住民の受入があること」及び「都市防災に関するさらなる行政支援が行われること」についても、墨田区を新タワー建設地として最終決定するための条件としていた。なおこの答申には選定経過についても記載されているが、提案があった15地区すべてを対象に第一次選定の段階で6地区に絞り込まれ、さらに再評価を加えて第二次選定の対象とされた4地区の中には墨田区、台東区、さいたま市に並び、豊島区の提案も含まれていた。
 しかし防災上の優位性をアピールしていた豊島区にとって、隅田川沿いの低地に位置し、災害時の脆弱性が懸念される墨田区が選ばれたことには腑に落ちないものがあり、また事前に基本要件が示されない中で行われた選定方法にも疑問を抱かざるを得なかった。
 このため4月5日、新東京タワー事業化準備委員会は放送6社に対し「候補地選定結果等に対する質問」を提出、同月15日までを期限に回答を求め、質問書及び回答書を区ホームページで公開するとした。その質問内容は5項目17事項に及び、特に有識者検討委員会における選定にあたっての基本姿勢として「放送事業の性質上、永続的に電波を発し続ける存在であり、災害等の緊急事態の際も同様であること」が要件の第一に挙げられていたにもかかわらず、その点について十分な検証が行われないまま、最終段階では観光資源としての活用に重きが置かれたことに疑義を唱え、各比較検証データの開示とともに候補地選定のやり直しを求めるものであった(※18)。
 その理由として、以下の2点が付されていた。
  • ①技術的課題の検証が残されている中での選定は、混乱を招くものであり候補地に対し不誠実であります。また、有識者検討委員会での検討期間はわずか3か月で、しかも3回しか実施されておらず、このような短期間において、結論を出すことは拙速と言わざるを得ません。再度、徴密に検討しなおすべきと考えます。
  • ②選定にあたって最も重視すべき基本条件、すなわち、災害時も電波塔の機能を維持するための条件など、防災対策面で候補地の中でもつとも危慎される地域が選定されているが、その具体的な対策の担保等を含め、再度検証すべきと考えます。
 だが「新タワー推進プロジェクト」は、候補地区と協議するなかで有識者検討委員会から出された条件や技術的な課題がクリアできなかった場合は、プロジェクトそのものを白紙にする方針であることを区に示し、選定やり直しの求めには応じなかった。これに対し区は、国家的プロジェクトともいえる「新タワー建設」の候補地選定が曖昧な選定基準と不透明な選定説明のままに進められていることは誠に遺憾であるとの見解書を改めて提出したが選定結果が覆ることはなく、翌平成18(2006)年3月、墨田押上・業平橋地区を建設地とすることが正式に決定された(※19)。
 かくして誘致推進母体であった「新東京タワー誘致推進協議会」は解散となり、官民挙げて取り組んだ豊島区の新東京タワー構想は幻に終わったのである。
新東京タワー完成イメージ
新東京タワー誘致推進大会(平成17年1月20日)
新東京タワー誘致を総務大臣に要請(平成17年2月)

池袋副都心再生プラン-LRT構想と東西デッキ構想

 これまで述べてきたように、他地区に大きく水をあけられた感のある池袋は、メガロポリスとして発展し続ける新宿や「若者の街」として賑わう渋谷に比べ、「これといって特徴のない街」と言われ続けていた。そしてそれは今後、さらなる発展が望めないのではないかという不安へとつながり、渋谷・新宿・池袋を結ぶ副都心線の開通を平成20(2008)年に控え、池袋は通過駅になるのではと危惧する声も聞こえていた。
 副都心としての浮沈に関わるこうした事態に、誰よりも危機感を抱いていたのは他ならぬ高野区長自身であった。生まれ育った池袋に対する愛着は人一倍強く、西池袋の古書店主から区議に転身したのも、また都議を経て区長選に打って出たのも、その根っこにあったのは池袋を誰にも自慢できるまちにしたいという思いだった。また豊島区の中心である池袋が輝かなければ、豊島区全体を光り輝かせることなどできないというのが区長の考えだったのである。そうした考えについて、区長は平成15(2003)年区議会第3回定例会の招集あいさつの中で次のように述べている(※20)。
 池袋は、豊島区の中央に位置しています。池袋を中心として多数の地域拠点が個性を競い合うことによって、豊島区全域に活力が漲ります。中心が沈滞していれば区全体が元気を失ってしまいます。池袋副都心の再生は豊島区発展の命運を握っていると言っても過言ではありません。こうした認識の下、私は池袋副都心の再生に今後とも全力を投入していく所存でございます。
 こうした区長の考えに基づき、区財政再建のための構造改革を進める一方、将来に夢と希望が持てる新たな都市政策を展開していこうと、平成12(2000)年10月に策定したのが「新生としま改革プラン」であった。だが区財政の危機的な状況が続く中では新たな都市開発事業に多額の投資的経費を投入する余裕などなく、また民間開発も低調で他の副都心に比べ池袋の地盤沈下はより顕著になっていった。このような状況を何としても打破しようと、区は15(2003)年度当初予算の重点施策の第一に「都市の再生」を掲げ、「池袋副都心再生プラン」の策定に着手することを打ち出した(※21)。
 それまでに池袋副都心に関わる計画としては、平成2(1990)年に区の都市計画マスタープランとして策定された「地区別整備方針」に基づき、翌3(1991)年に「副都心整備基本計画」が策定されていた(※22)。
 同計画が策定されたこの時期は、平成2(1990)年に池袋西口に東京芸術劇場が開館し、続く4(1992)年にメトロポリタンプラザビルがオープン、一方東口側でも元(1989)年に東池袋四丁目地区市街地再開発事業の準備組合が設立され、池袋駅の東西で再開発に向けた気運が高まっていた時期であった。このため計画期間を10か年として21世紀の池袋副都心の将来像を描くこの計画では、芸術や文化と深い関わりを持ちながら発展した池袋という街の特性を活かし、「劇場都市づくり」をコンセプトに8つの施策を展開していくとし、そのリーディングプロジェクトに①東西連絡デッキ広場の建設、②新庁舎等の建設、③池袋駅西口地区開発整備推進事業、④東池袋4丁目地区の街づくりの4事業が挙げられていた。だがこれまでも繰り返し述べてきたように、その後の平成不況の長期化により区財政は悪化の一途をたどり、新庁舎・新公会堂の建設計画は事実上の凍結に追い込まれ、また池袋駅周辺の再開発も東池袋四丁目地区市街地再開発事業を除き、ほとんど進捗を見ないままになっていた。
 一方、前述したように都は新宿・渋谷・池袋の3副都心に加え、上野・浅草地区、錦糸町・亀戸地区、大崎地区及び台場・青海・有明地区(臨海副都心)の4地区を新たに副都心に位置づけ、多心型都市構造への再編をめざしていた。平成6(1994)年2月策定の「副都心育成・整備指針」、9(1997)年2月策定の「生活都市東京構想」に基づき、同年9月に「副都心整備計画」を策定、その中で各副都心の整備テーマや整備の方向性を示し、池袋副都心については「多彩な生活・交流の舞台のあるまち」という将来像が掲げられていた(※23)。だがこの計画は都が示すガイドラインであって、区独自の計画としては3(1991)年に策定した「副都心整備基本計画」以降、実質的に「空白状態」になっていたのである。
 平成15(2003)年度の当初予算案を提出した同年2月14日開会の区議会第1回定例会の招集あいさつで、高野区長は「池袋副都心再生プラン」の策定の意義について次のように述べている(※24)。
 池袋副都心を中心とする都市の再生と発展は、本区の魅力ある街づくりを進める上で緊急かつ重要な課題であります。また、戦後形成された首都圏の中核都市やターミナル駅周辺において近年次々と新たな開発が進められる中で、池袋が今後どのように生まれ変わり生き残っていくのか、本区としても改めて積極的に挑戦するべき時期に来ていると考えるのであります。このような都市の魅力を引き出し再構築するという課題に対しましては、明確な将来ビジョンを持って応えていくことが必要であると考え、15年度中に池袋副都心再生プランを策定することといたしました。
 本年十月には工事着工が予定されております東池袋四丁目地区再開発、グリーン大通りの整備構想、都市計画道路172号、環状5の1号線など幹線道路網の整備、東西デッキ構想、そしてこれらを総合化して街の質を高めるソフト事業の創設など、池袋の東西に跨る数多くのプロジェクトを新世紀の豊島区を創造するための都市再生戦略として再構築しようとするものであります。
 そしてこの招集あいさつから間を置かず、2月25日には助役を委員長に各関係部課長で構成される「池袋副都心再生プラン策定委員会」が設置され、1年余りの検討を経て、翌平成16(2004)年4月に「池袋副都心再生プラン」が策定された(※25)。
 このプランの策定にあたり、策定委員会の検討事項として挙げられていたのは以下の8項目であった。
◆池袋副都心再生プラン策定委員会の検討事項(同委員会設置要綱より)
  • (1)面的整備に関すること
    • ・ 東池袋四丁目地区市街地再開発
    • ・ 南池袋二丁目地区(旧日出小学校周辺)整備
    • ・ 池袋北口地区整備
    • ・ 補助81号線沿道整備 ほか
  • (2)副都心の建築物の建築制限・緩和に関すること
    • ・ 建築物の更新促進策及び政策的誘導施策  ほか
  • (3)グリーン大通りの整備に関すること
    • ・ 路面電車(LRT)の導入方策
    • ・ 安心・安全な歩行者空間の整備(トランジットモール化含む)
    • ・ 地下鉄13号線新駅設置 ほか
  • (4)歩行者・自転車ネットワークの整備に関すること
    • ・ 補助172号線、補助173号線、環状5の1号線、補助81号線、補助175号線等の整備に伴う
      歩行者・自転車ネットワークの構築
    • ・ 交通バリアフリーの推進
    • ・ 東西駅前広場の整備 ほか
  • (5)東西デッキ構想に関すること
  • (6)造幣局東京支局の整備に関すること
    • ・ 建築物の集約化と防災公園の整備 ほか
  • (7)街の賑わい創出・魅力アップに関すること
    • ・ 文化スポット、アートスペースの確保と活用
    • ・ 文化産業、ベンチャー等への支援 ほか
  • (8)その他副都心の整備に関すること
    • ・ 副都心区域の見直し
    • ・ 学校跡地等公有地の活用 ほか
 区長の招集あいさつにもあったように、これら検討事項の中には都市整備というハード事業だけではなく、街の魅力向上などのソフト事業も含まれており、また既に進行中の事業のほか、着手予定の事業や過去に検討されたものも合わせ、副都心再生に関わるプロジェクトが網羅されていた。そしてこれらのプロジェクトを再構築するかたちでまとめられた「池袋副都心再生プラン」では、「『駅袋』構造と直線的動線の改善」と「マイナス評価の刷新」の2点を池袋が抱える課題として捉え、これを解決するための基本方針として「安心、安全に集える、人と環境に優しいまち・池袋」「多様な機能が集積し、活力にあふれるまち・池袋」「芸術文化を発信する、魅力とにぎわいのまち・池袋」「様々な主体が参画、協働して創るまち・池袋」の4つの柱が設定された。さらにそれぞれ柱のもとに各プロジェクトが再生プランA~Nとして再編され、これら15の再生プランを展開していくことにより池袋副都心の将来像である「文化発信 ユニバーサル都市・池袋」の実現をめざすとした。
 図表4-②は「池袋副都心再生プラン」における課題の認識から将来像の実現までを体系化したものである。まず課題の「駅袋」構造とは、池袋駅の東西に大規模百貨店が建ち並び、また芸術劇場等も地下通路で直結されているため、来街者は外に出ることなく、この範囲内で目的を充足させることができるため、人が街の中に出にくい構造になっていたことを指している。また直線的動線とは、池袋最大規模の集客施設であるサンシャインシティへの人の流れが駅から直線的であるため面的な広がりを持つに至っていないことである。こうした点、線にとどまる歩行者動線を面的に広げ、回遊性を高めていくためには、周縁部での核となる施設の立地や各施設間のネットワーク化、さらにグリーン大通りに見られるような通りに面した1階部分に業務系の事務所が並び、にぎわいの連続性を分断している状態の改善が求められた。一方、もうひとつの課題の「マイナス評価」とは、戦後のヤミ市から盛り場へと発展してきた池袋がひきずっている「怖い・汚い・暗い」という負のイメージであり、平成2(1990)年に開館した東京芸術劇場はこうしたイメージを払拭する上で一定の役割を果たしてはいたが、副都心エリア全体に影響を及ぼすまでには至っていなかった。そのため安全・安心なまちづくりはもとより、文化芸術機能の一層の充実を図り、新たな魅力を発信して池袋に対するマイナス評価を刷新していくことが求められていた。
図表4-2 池袋副都心再生プランの体系
 これらの課題を背景に策定された「池袋副都心再生プラン」の大きな特徴は、その将来像の頭に「文化発信」という言葉が掲げられていることからも分かるように、都市再生と文化政策をこれまで以上に結びつけたことであった。言うまでもなく、このプランが策定された前年の平成14(2002)年は、区制施行70周年を機に「文化を基軸とするまちづくり」をスタートさせた年である。すべての政策分野に文化の視点を取り入れていくという、高野区長の方針のもとでこのプランも策定されたものであり、以後、都市再生は常に文化政策との融合が図られていくことになる。また基本方針の中に挙げられた「安全・安心」や「環境」も後に区の重要政策に位置づけられるもので、都市再生は様々な政策分野が横断的に連携する総合的なまちづくり政策として捉えられていたのである。また、こうした区の方向性の背景には、他の副都心とは違う方法で池袋の再生に取り組まざるを得ないという事情があった。そのことに関し、15(2003)年の区議会第2回定例会で高野区長は次のように述べている(※26)。
 昨年来、丸の内や汐留、六本木、品川などで超高層ビル街が次々と完成し、内外の注目を集めております。また、臨海部への埼京線の乗入れ延伸、平成19年の地下鉄13号線の新宿・渋谷方面への延伸などを考え合わせますと、池袋副都心を取り巻く環境は急激に変化することが予想されます。このような時期に、池袋副都心をより活性化し、東京を代表する商業都市として発展させる道筋をつけることが私の重要な使命であると考えております。  豊島区は、都心部や臨海部に比べ大規模開発をするような土地がないことから、他都市と同じような手法で都市の活性化を図ることは無理でありますが、ハード面からソフト面まで、あらゆる知恵を集めてこの問題に取り組んでいく覚悟であります。
 ここで区長が述べているように、東口の東京拘置所跡地にサンシャインシティが、また西口の学芸大学附属小学校跡地及び芝浦工業大学高等学校跡地に東京芸術劇場やメトロポリタンプラザが建設されて以降、池袋駅周辺で大規模開発用地としての可能性が期待されるのは東池袋の造幣局東京支局の移転跡地だけだった。だが昭和50年代から移転促進運動が展開されていたにもかかわらず、同支局の移転問題に進展は見られず、前述した新東京タワー構想が浮上した際も、支局施設は残したままの建設計画だったのである。広大な旧国鉄貨物駅跡地を抱える汐留や品川・大崎地区、また埋立により造成された臨海部のように大規模開発のための土地はなく、また丸の内や六本木、渋谷のように大規模開発を先導する大資本の企業も池袋にはなかった。駅の東西を壁のように取り囲む百貨店等と通りを隔てた駅前街区は土地所有が細分化され、小規模な店舗ビルや業務系ビルが混在しながら密集して建てられており、市街地再開発事業を進めていくにも地権者の合意形成など高いハードルを抱えていた。
 こうした池袋駅周辺の土地利用の現状からも、大規模開発で競争しても勝ち目はなく、池袋副都心の再生には他地区とは異なる手法でのアプローチが必要だった。そうしたなか、豊島区独自のプロジェクトとして打ち出されたのが再生プランAのグリーン大通りへのLRT(最新路面電車)の導入である。
 LRT(light rail transit)は従来の路面電車の走行性能や車両デザイン等をグレードアップさせた低床の新世代路面電車で、1970 年代に北米で考案、フランス・オーストリア・ドイツ等欧米各国で導入され、脱自動車社会の人と環境に優しい新たな公共交通システムとして都市再生に大きな役割を果たしていた。
 区はLRTの導入に向け平成15(2003)年度予算に調査経費を計上し、LRTの必要性や導入方式等について検討する基礎調査を実施、同年9月にその調査結果を第1次報告書としてまとめた。また同月には内閣府の都市再生本部が広く全国から募った都市再生モデル調査事業として、区が提案していた「池袋東口地区LRT導入ケーススタディ」が採択され、国もLRT構想に大きな関心を寄せていることが窺われた。この採択により15(2003)年度内に限定した措置ではあったが、LRTの導入に向けた調査にかかる経費について全額補助が受けられた(※27)。
 これらの調査結果を踏まえ、「池袋副都心再生プラン」ではLRTをグリーン大通りに導入する目的として、①池袋駅からサンシャインシティ方面・東池袋方面へのアクセス、②副都心地区としてのイメージアップ戦略、③ユニバーサルデザイン装置としての役割の3点が挙げられている。東口地区の新たな核となる東池袋四丁目地区市街地再開発事業が平成16(2004)年2月にいよいよ着工され、歩行者動線が集中するサンシャインとのネットワーク化、両方面へのアクセス手段の多様化を図るとともに、ユニバーサルデザイン対応の車両により高齢者や障害者等も含めた来街者の移動を支援し、さらに先進的なLRTを街のシンボルとしてアピールすることにより新宿・渋谷等、他の副都心地区との差別化を図ろうとしたのである。
 また平成10(1998)年に事業認可された環状5の1号線をはじめ、西口地区の補助172号線、173号線等の都市計画道路の整備事業が次々進められ、近い将来には池袋の交通体系に大きな変化がもたらされることが予想された。特に環状5の1号線が開通すれば池袋東口駅前明治通りの慢性的な渋滞の解消が期待され、それを機にLRTの導入と一体化して東口中心部をトランジットモール化することも想定されていた。それは他の副都心地区で進められていた都市開発とは大きく異なり、大規模開発によって建てた高層ビルの中に人を囲い込むのではなく、建物から人が出て歩いて楽しくなる「回遊都市」をめざすものであった。
 平成15(2013)年3月、LRT構想をアピールするため、グリーン大通りに線路を模した花壇が設置された。翌4月に再選を果たし、文化と都市再生を未来に向けた政策の柱に位置づけて「夢とロマンに満ちた副都心づくりへの挑戦」を掲げた区長にとって、LRT構想はまさに「夢とロマン」のシンボルと言えるものだった(※28)。
 そして8月にはLRT構想に賛同する区民有志が集まり、「としま区民フォーラム2003 -池袋に新しい路面電車とは? トランジットモールとまちのにぎわい- 」を開催、これを機に「池袋の路面電車とまちづくりの会」が発足された。同会は11月にも設立総会を兼ねたシンポジウム「熱く語ろう!池袋LRT構想」を開催、その場に出席した高野区長は「区民が変えたいと願った瞬間から、街は変わっていく。そのために、区民に夢を与えるということは行政の大切な仕事。財政的に大変厳しい状況だが、区民の理解を得ながら、最少の費用で最大の効果を得られるよう頑張りたい」とLRT構想にかける思いを語った。以後、「池袋の路面電車とまちづくりの会」は市民レベルでのLRT構想推進活動を展開し、シンポジウムやLRTビジネスコンテスト等を開催するほか、平成17(2005)年8月には「池袋LRTの早期実現に関する要望書」を区長に提出した(※29)。
 だがこうした推進派がいる一方、LRT構想に反対する声も少なくなかった。特に平成15~16(2003~2004)年度にかけては、区財政を黒字化するという財政健全化計画の最終目標が達成できなくなるという最大の危機に直面し、いよいよ公共施設の再構築を本格化させていった時期である。ことぶきの家や児童館の廃止、地域区民ひろばへの再編という大鉈を振るう一方でLRT構想を進める区に対し、LRTに投資する財源があるなら教育や福祉に回すべきという声があがっていたのである。
 現実の問題としても当時の区にはLRTに投資するほどの財政的な余力はなく、LRTもトランジット化もまったく構想の域を出ず、専用軌道敷設に係る技術的な問題や建設経費はもとより、導入後の事業の運用体制や採算性、さらに都電荒川線との直通化の可否など検討すべき課題が山積していた。さらに平成16(2004)年に新東京タワー構想が浮上し、この構想に結びつけてLRTの導入を促進していこうとの動きも見られたが、前述した通り新東京タワー構想はわずか2年足らずで幻と終わっていた。しかしそれでも池袋を何とかしたいという区長の熱意でLRTに関する調査検討はその後も継続され、19・20(2007・2008)年度には「池袋LRT整備構想調査」が実施された。この調査では都電荒川線との連携を前提としたグリーン大通り等へのLRT の導入可能性のほか、路線計画、運行計画、施設計画(車両)、概算事業費等について検討がなされたが、LRT の導入街路上に移設困難な地下埋設物があることや都心一等地のなかで車両基地の用地をいかに確保していくかなど物理的な課題が依然として残され、具体的な事業化までには程遠い状況のままとなっている(※30)。
グリーン大通りにLRTの花壇完成(平成15年3月)
路面電車によるまちづくりを考える区民フォーラム(平成15年8月)
「池袋の路面電車とまちづくりの会」設立総会&シンポジウム(平成15年11月)
池袋の路面電車とまちづくりの会「池袋LRTの早期実現に関する要望書」提出(平成17年8月)
 またこのLRT導入調査に並行し、区は新たな公共交通システムのもうひとつの手段として、コミュニティバスの導入についても検討を進めていた。
 区内にはJRや西武・東武の各私鉄路線に加え、昭和期に開業した東京メトロ丸ノ内線、有楽町線、都営地下鉄三田線のほか、平成期に開業した東京メトロ南北線(1991年11月駒込-赤羽岩淵間開業、2000年9月目黒-赤羽岩淵間全線開通)、都営地下鉄大江戸線(1997年12月練馬-新宿間開業)の地下鉄5路線が走り、さらに平成20(2008)年6月には副都心線の開業が予定されていた。こうした地下鉄路線の進展やそれに伴う需要減等を背景に路線バスを再編する動きは平成初頭から見られたが、その動きは大江戸線開業後の平成10年代に入って一層加速した(※31)。
 特に平成10(1998)年、西部地域住民の日常生活を支える重要な足としての役割を担っている国際興業バス池07路線が不採算を理由に廃止する計画が明らかになり、地域住民等の強い存続要望により一旦は延期されたものの、21(2009)年に再び廃止の方針が示された(※32)。
 一方、高齢者や障害者等の外出支援、病院や商店街等へのアクセス、そして公共施設や文化・観光施設を結ぶ回遊性の向上など、様々な面から高齢社会に対応した地域内移動を確保する手段として、コミュニティバスを導入する動きが他区で広がっていた。また平成19(2007)年8月に実施した「協働のまちづくりに関する区民意識調査」の中で、コミュニティバスの導入についての意向を尋ねたところ、「あれば便利だが、できる限り事業採算性を重視すべきである」(42.8%)という回答が最も多かったものの、「今後の高齢社会では、多少税金を投入しても、移動利便性を高める必要がある」(28.3%)との回答が「交通の便が高いので、導入する必要はない」(25.4%)を上回っており、コミュニティバス導入の検討の際に重視することについての回答では「高齢者や障害者、乳児連れの人が地域内を移動しやすくすること」(64.9%)、「駅から遠く、バス路線もない交通不便地域を解消すること」(50.8%)が上位にあがっていた。さらに区議会からもコミュニティバスの導入を求める意見が度々あがっていたことから、19(2007)年9月の区議会第3回定例会において、それまでは区内の公共交通は充足しているとの判断から見送っていたコミュニティバスの導入に向けた調査を開始することを高野区長自ら表明した(※33)。
 この区長表明に基づき、区は平成19・20(2007・2008)年度に前述した「池袋LRT整備構想調査」に合わせて「コミュニティバス導入検討調査」を実施した。この調査の一環として20(2008)年3月に行った区民意向調査では、JR埼京線の東側より西側エリアの方が交通面で不便に感じている人が多く、また交通の便が良ければ行きたいところとしてサンシャインシティや池袋スポーツセンター、中央図書館、区役所等の区の副都心中心部の施設が多いことが判明した。また高齢者の多くは駅の上下移動のないバスを交通手段として利用しており、またバスへの要望としては運行本数の増便や停留所の快適性向上、ノンステップバスの導入などがあがっていた(※34)。
 こうした調査結果を踏まえ、平成20(2008)年11月、地域の実情に応じたバス等の輸送サービスのあり方を検討するため、太田勝敏東洋大学国際地域学部教授を会長に迎え、国土交通省や都の道路管理者(第四建設事務所)、交通管理者である警視庁及び区内3警察署に加え、バス事業者や区民団体等代表者の参加を得て「地域公共交通会議」が設置された。同会議は翌12月から検討を開始し、コミュニティバス導入に向けた基本方針や導入の優先度が高い地域として西部地域の南長崎方面から副都心中心部のサンシャインシティ方面を想定し、LRTとの連携も視野に入れながら運行ルート案の検討を重ねていった。だが、既存のバス路線と重複・競合する部分についてバス事業者との調整が難航し、また区民代表委員からも既存路線との重複はメリットが出ない、住宅街を通さないと意味がないなどの意見が出され、結局、区内の道路環境からも新たな路線を構築するのは非常に困難との結論に至り、当初の22(2010)年度内の運行目標は見直されることになった(※35)。
 この間、先に述べたように国際興業バス池07系統を平成22(2010)年末をもって廃止する方針が示されことから、区は江古田二又と池袋西口を結んでいた同路線をサンシャインシティ方面まで延伸することを条件に、その運行にかかる経費を財政支援することを決定した。これにより地域住民から要望の多かったコミュニティバスを補完するものとして、翌23(2011)年3月から池 07 系統の延伸運行が開始された。この運行は当面5年間の社会実験として位置づけられ、その間の利用状況等を踏まえて検証を行っていくこととし、コミュニティバスの導入構想についてもこの検証を行った上で改めて導入の必要性も含め検討していくとされた(※36)。
 この池07系統の延伸運行は乗降客数が年々増加するなど一定の効果が認められ、試行期間中の平成24(2012)年3月に新停留所設置(豊島区役所東)、25(2013)年3月には補助172号線を経由するルート変更、さらに27(2015)年5月の新庁舎移転に伴う路線変更・新停留所設置等の利便性向上が図られていった。また26(2014)年に地域公共交通会議において収支率40%、区民満足度50%を下限とする運行継続基準が設定され、それらの指標に基づいて事業評価を実施、28(2015)年に同会議により継続実施が承認された。以後、同会議によるモニタリングを重ねながら区の財政支援による運行は継続され、現在に至っている(※37)。
 こうして池07系統を「地域公共バス」として活用する一方、区は区民の交通行動や公共交通に対する考え方を把握するため、平成27(2015)年度に「交通行動実態及び交通意識に関する調査」を実施した。その調査結果では、池07系統に対する区の支援のあり方について「今後も区が補助金を出して運行すべき」という回答が最も多く、特に南長崎や長崎・千早等の西部地域では 5 割程度が継続運行を望んでいた。また区が補助金を投入して公共交通による新たな移動手段の確保に取り組んでいくことについても「区がさらに補助金を出して確保していくべき」との回答が同じく西部地域で4割を超えていた。だがこうした新たな公共交通の導入ニーズの高い地域は細街路が多く、路線バスの新規認可は不可能である現状に変化は見られなかったが、長崎・南長崎地域での特定整備路線の事業化、デマンドタクシーの実現に向けた国やタクシー業界の取り組みなど新たな動きが見られた。こうした動向も踏まえ、地域公共交通会議においてさらに検討が重ねられ、今後の対応方針として「特定整備路線等の新たな道路開通時期を見据えてシルバーパスが利用できる乗合バスの路線拡充に向け関係者との協議を進める」、「池07路線の運行実績等による事業評価の手法及び結果を積み重ね、コミュニティバス導入時の検討材料とする」、「副都心移動システム(電気バス)の導入時に実施する交通管理者との協議や路線認可に関する手続き、運行後の実績等による評価を確認しながらコミュニティバス導入時の検討材料とする」の3点が取り決められた。これによりコミュニティバスの導入については引き続き検討課題とされるとともに、LRT構想を見据えた池袋副都心の新たな移動システムとして、電気バスの導入が検討されることになったのである(※38)。
 一方、「池袋副都心再生プラン」の中で再生プランEに位置づけられた「東西連絡施設の整備」、いわゆる池袋駅の鉄道線路上空間を渡す東西デッキの整備も池袋副都心の再生に不可欠な課題であった。
 前述したように池袋駅は「駅袋」と言われるほど駅から人が出にくい構造になっており、鉄道線路による東西の分断が池袋発展の阻害要因となっていた。駅の東西をつなぐ通路としては北側にWEロード、南側にビックリガードがあったが人の流れは駅の地下通路に集中し、人にぶつからずに歩くのが困難なほど混雑していた。このため東西地区の交流・連携をより図るとともに、防災上の観点からも東西デッキの実現を求める声は従前からあがっていた。
 東西デッキに関する検討は昭和57(1982)年11月、区として初めて策定した基本計画の計画目標のひとつに池袋東西デッキ広場の建設を関係機関に要請していくことが明示され、旧国鉄に協力を依頼したことに遡る。翌58(1983)年に東池袋・南池袋・雑司が谷地域の町会・商店会で組織される南池袋活性化協議会から「池袋駅の『東西連絡歩行デッキ』並びに『南口改札口』設置に関する請願」が区議会に出され、平成2(1990)年にも池袋駅東西の商店会で組織される池袋副都心協議会から「池袋駅東西上空自由通路早期実現についての請願」が出され、区議会はこれらの請願をいずれも採択していた。またこの間の昭和 62 (1987)年に池袋副都心協議会は日本都市計画学会の協力を得て「池袋ルネッサンス構想」を発表、その中で池袋の東西を結ぶ3本の大デッキ「スーパーモール」の整備を提案していた。さらに平成元(1989)年4月、区は池袋ターミナルビル株式会社と同社が建設中のメトロポリタンプラザビルに高架通路を設置する協定を締結、4(1992)年に開業した同ビルに東西デッキ西側の受け皿となるペデストリアンデッキ(高架歩道)が整備された。
 こうした動きに呼応し、区は平成元(1989)年度に創設された国の複合空間基板施設整備事業の適用を受け、3(1991)年3月、池袋ネットワーク・コアとして2,000㎡・5,000㎡・10,000㎡のデッキ広場3案を提示する「池袋地区複合空間基盤施設整備計画策定事業調査報告書」をまとめた。これをきっかけに3(1991)年6月には国・都・JR東日本及び区の4者による「池袋地区複合空間基盤施設整備事業連絡協議会」が発足し、関係者による協議が開始された。また同年10月に東京商工会議所豊島支部主催によるシンポジウム「池袋東西デッキ広場実現に向けて」が開催され、翌4年には同支部内に「池袋東西デッキ広場構想推進懇談会」が設立されるなど、東西デッキの実現に向けた気運は一時、高まりを見せた。だが、事業資金面の問題や鉄道事業者等の土地所有者の事業参加意欲の低さもあって関係者間の合意形成にまで至らず、その後も東西デッキの検討については進展を見ない状態が続いていた(※39)。
 そうしたなか、平成16(2004)年4月策定の「池袋副都心再生プラン」で個別プランのひとつに掲げられたことより、東西デッキ構想は再び検討の俎上に載せられた。同プランでは西口のメトロポリタンプラザ側デッキと東口の西武側を接続させる南側デッキ設置案とWEロード上空にデッキを設置する北側デッキ設置案のほか、WEロードの拡幅整備構想案、線路上空に東西の貫通道路を整備する駅中央部上空デッキ構想案を挙げ、それぞれについて①利用動線、②概算事業費及び特定財源、③事業効果、④検討課題・調整事項の4つの視点から検討を加えているが、それぞれ主体となる事業者や整備の目的が異なり、またいずれの案も区単独での整備は不可能であり、土地や建物を所有する鉄道事業者や百貨店等の協力、さらには官民一体となった共同事業として進めていく必要があることから、その段階では構想として提示するに止めていた(※40)。
 そして平成19(2007)年7月、「池袋駅及び駅周辺整備検討委員会」(委員長:岸井隆行日本大学理工学部教授、以下「池袋駅周辺整備検討委員会」)が設置されたことにより、東西デッキの検討は本格化していった。同検討委員会は池袋副都心の核となる池袋駅及び駅周辺について、歩行者空間の回遊性と安全性を高めるとともに、副都心としての魅力の向上と活性化を図る方策を調査検討することを目的に、学識経験者、関係鉄道事業者、駅関連大規模店舗、国、都及び区からなる28名の委員で構成され、同月6日に初会合が持たれた。
 地下鉄副都心線の平成20(2008)年6月開業を間近に控え、新宿、渋谷はもとより各副都心間の競争が激化している状況下で、前述した「都市再生緊急整備地域」の指定も視野に入れ、池袋副都心の活性化の方策を検討することとし、具体的な検討の視点には鉄道各線間のスムーズな乗り換えや池袋駅の東西を結ぶ上空自由通路の確保、来街者のスムーズな移動のためのバリアフリー化や地下・地上部の改善、災害時における安全な避難経路の確保、駅及び周辺サイン計画などが挙げられた。
 特に東西デッキについてはこれまでの経緯を踏まえ、関係者が一堂に会するこの機に具体化に向けた関係団体間の合意形成につなげることが期待された。初会合であいさつした区長も「都市再生は本区4つの重点施策のひとつ。東池袋4丁目の再開発が完成したが、新庁舎建設の問題とも合わせて、池袋副都心の核となるような駅周辺整備を考えて欲しい。地下鉄副都心線により池袋が通過駅になるのではないかと言う危機感が大きい。池袋の東と西を結ぶことで池袋副都心の価値が出てくる。東西デッキを再検討して池袋再生のステップとなるよう関係機関が手を携えていただきたい」と述べ、東西デッキの実現に向け関係機関の協力を求めたのである(※41)。
 以後、池袋駅周辺整備検討委員会は平成19~21(2007~2009)年度にかけて7回開催され、池袋駅及び周辺地域の現状や課題の把握を進めながら、達成すべき整備目標を①安全で便利で快適な交通結節点の実現(豊かな歩行者空間とユニバーサルデザインによる便利な交通結節点の実現)、②東西南北のまちの一体化(東西都市軸を中心とした自由な回遊動線とエリアマネジメントによる一体的なまちづくりの実現)、③駅における新たな魅力拠点の創出(賑わいの文化・交流拠点、安心の防災・交通拠点、憩いの環境拠点の導入による魅力づくりの実現)の3つを設定し、実現すべき将来像を「駅からまちへと人があふれ出すターミナルエリア」(〈えき〉と〈まち〉が融合した〈次世代型拠点ターミナル〉)と定めた。そしてデッキ導入を軸とする池袋駅及び駅周辺整備の展開シナリオとして、23(2011)年度までの短期、29(2017)年度までの中期、30(2018)年度以降の長期の3段階に分け、地上・デッキレベルと地下レベルそれぞれの整備イメージを描いていった(※42)。
 このうち駅の地上部及び東西を結ぶ上空デッキについて、短期には東西駅前広場の暫定整備と駅周辺道路における歩行者空間の拡充を、中期にはLRTの導入のほか、百貨店の改修に併せた東西デッキ(中央デッキ・南側デッキ)及び同デッキからつながる南北デッキの整備、さらにデッキ上の防災広場・環境空間の整備及び文化機能の導入を、そして長期には東口のトランジットモール化を見据えた歩行者空間の再拡充や駅前広場の再整備(交通施設の再配置)、各広場へのデッキの接続及びデッキと周辺再開発との接続等を段階的な整備概要として想定した。この長期的な整備イメージについては委員間で合意形成が図られ、「デッキ及び地上部の基本構想」として位置づけられたのである(図4-③参照)。
図表4-3 デッキ及び地上部の基本構想

※31 バス路線再編整備について(H020523副都心開発調査特別委員会資料)大江戸線開業に伴う都営バス路線の再編整備について(H121115副都心開発調査特別委員会資料)都営バス路線再編整備について(H141114副都心開発調査特別委員会資料)都営バス・池86系統について(H191112副都心開発調査特別委員会資料)

※32 国際興業バス池07路線の廃止計画について(H110715副都心開発調査特別委員会資料)国際興業池07バス路線の廃止について(H110914副都心開発調査特別委員会資料)国際興業バス・池07系統について(H220514副都心開発調査特別委員会資料)

※33 協働のまちづくりに関する区民意識調査報告書(平成20年3月)【再掲】新たな地域公共変通システムのあり方に関する調査(H190928総務委員会資料)

※34 新たな地域公共交通システムについて(H201114副都心開発調査特別委員会資料)

※35 新たな地域公共交通システムについて(コミュニティバスの導入)(H210515副都心開発調査特別委員会資料)コミュニティバス導入の検討について(H211113副都心開発調査特別委員会資料)

※36 国際興業バス「池07系統」延伸事業について(H220924議員協議会資料)国際興業バス「池07系統」の延伸について(H230114副都心開発調査特別委員会資料)豊島区のコミュニティバスのあり方について(H240224・H240629・H261128都市整備委員会資料)

※37 国際興業バス「池07系統」の延伸について(H230715副都心開発調査特別委員会資料)国際興業バス「池07系統」の延伸について(H240113副都心調査特別委員会資料)国際興業バス「池07系統」の延伸について(H240717副都心開発調査特別委員会資料)国際興業バス「池07系統」について(H250115副都心開発調査特別委員会資料)国際興業バス「池07系統」について(H250912副都心開発調査特別委員会資料)国際興業バス「池07系統」について(H260929都市整備委員会資料)新庁舎の交通アクセスについて【検討課題100】(H270213議員協議会資料)地域交通政策について(H270715副都心開発調査特別委員会資料)国際興業バス「池07系統」について(H290414副都心開発調査特別委員会資料)国際興業バス「池07系統」について(H300413副都心開発調査特別委員会資料)地域公共バス「池07系統」運行支援事業について(H300914副都心開発調査特別委員会資料)

※38 地域交通政策について(H280415副都心開発調査特別委員会資料)豊島区におけるコミュニティバス等に関するこれまでの検討経緯と今後の対応方針(H301203都市整備委員会資料)池袋副都心移動システムについて(H290414副都心開発調査特別委員会資料)

※39 豊島区基本計画(原案)(S570809議員協議会資料)東西デッキ関連請願(昭和58年9月21日・平成2年6月15日)豊島學池袋地区複合空間基盤施設整備計画策定事業調査報告書(H030619副都心開発調査特別委員会資料)池袋東西連絡デッキ広場街づくりニュース№1 (H031116副都心開発調査特別委員会資料)新池袋駅ビル(仮称)建設計画概要(H010303区民建設委員会資料)H031028プレスリリース

※40 池袋副都心再生プラン(H160514副都心開発調査特別委員会資料)

※41 池袋駅及び駅周辺整備検討委員会の設置並びに関連事業について(H190711副都心開発調査特別委員会資料)H190706プレスリリース

※42 第2回池袋駅及び駅周辺整備検討委員会の開催状況について(H191214副都心開発調査特別委員会資料)第3回池袋駅及び駅周辺整備検討委員会の開催状況について(H200415副都心開発調査特別委員会資料)池袋駅及び駅周辺整備検討委員会の開催状況及び今後の後の予定について(H201114副都心開発調査特別委員会資料)

 池袋駅周辺整備検討委員会はこれらの検討内容を「池袋駅及び駅周辺整備計画(案)」に集約する一方、個別課題としてサイン等案内誘導システムを検討するため、エリアマネジメント組織を見据えたサイン検討部会を立ち上げ、出入口名称等の具体的な検討を進めていった。また平成21(2009)年3月14日にシンポジウム「池袋から変わる!?駅とまちとの素敵なカンケイ」を開催し、その場で検討成果である整備計画案を報告した(※43)。
「池袋及び駅周辺整備検討委員会」初会合(平成19年7月)
公開シンポジウム「池袋から変わる!」(平成21年3月)
 このシンポジウムでの報告後、同年7月の第7回会議をもって池袋駅周辺整備検討委員会としての議論は一区切りつけることになったが、東西デッキについてはデッキ部会を立ち上げ、事業化プログラムの策定に向け検討していくことが確認された。また検討委員会で取りまとめた整備計画案に基づき、地下空間サインについて共通ルールの策定を引き続き進めていくとともに、東口駅前広場の整備については、平成22(2010)年度末策定予定の都市総合交通戦略を踏まえ、整備計画の具体化を図っていくこととした(※44)。
 一方、池袋駅周辺整備検討委員会での協議に並行し、西口駅前広場については平成19(2007)年4月に池袋西地区開発委員会をはじめ西口地区商店街・町会等の地域団体と関係事業者、交通管理者である池袋警察署及び区で構成される「池袋駅西口駅前広場再生検討会」が設置され、駅前広場のバリアフリー設計や西口駅前交番の移設、バス・タクシー・一般車輌等の交通処理などの検討が進められた。そして地元の意見を反映させつつ、20(2008)年度から工事を開始、22(2010)年9月に40年ぶりにリニューアルした駅前広場のお披露目会が開催された。その後、地下コンコースと広場をつなぐエレベーターが設置され、さらに23(2011)年3月には池袋のシンボルであるフクロウをかたどったモザイカルチャー「えんちゃん」が設置され、以後、区民ボランティアによる駅前緑化活動が展開されている(※45)。
池袋駅西口駅前広場完成(平成22年9月)
池袋駅西口駅前広場エレベーター設置
モザイカルチャー「えんちゃん」
 また区は、池袋副都心全体の整備指針と周辺都市計画道路の整備状況を見据えた将来ビジョンについての検討を進め、平成22(2010)年6月に「池袋副都心整備ガイドプラン」、翌23(2011)年9月に「池袋副都心交通戦略」を策定した。
 この「池袋副都心整備ガイドプラン」は、「池袋副都心再生プラン」が平成18(2006)年策定の新基本計画に反映されてその役割を終えた後を受け、基本計画の分野別計画にあたる都市計画マスタープランの下位計画として策定されたもので、池袋駅周辺整備検討委員会で取りまとめた「池袋駅及び駅周辺整備計画」の上位計画に位置づけられる。池袋の地域特性を活かしたまちづくりを公民連携で進めていくための指針として、20(2018)年度に学識経験者・国・都及び区で構成された「池袋副都心整備ガイドプラン検討委員会」によりまとめられた素案をもとに、21(2019)年度に庁内組織である策定委員会が内容を調整し、パブリックコメントを経て策定された。同プランは池袋副都心の将来像に「文化と活力、みどりにあふれた新たなチャレンジの舞台となる『まち』池袋」を掲げ、「池袋駅とその周辺を再生する」「文化を創造・発信する」「環境対策を率先する」「交流をはぐくむ舞台をつくる」の4つの重点行動目標と、「文化とにぎわいの交流拠点の形成」「人にやさしい回遊空間の形成」「環境に配慮した街並みの形成」の3つのまちづくり方針を設定している。そしてこれらの目標・方針に基づき、池袋副都心全体を「池袋ターミナルエリア」「東池袋エリア」「にぎわい交流エリア」及び「池袋の都市軸」に区分し、それぞれのエリアごとの整備方針を示している。このうち「池袋ターミナルエリア」は「池袋駅及び駅周辺整備計画」の対象エリアに重なり、整備方針の軸になっているのはやはり東西デッキの整備であった(図表4-④参照)(※46)。
図表4-4 池袋副都心整備ガイドプランにおける池袋副都心の将来像
池袋ターミナルエリアの整備イメージ
 もう一方の「池袋副都心交通戦略」については、平成10年代以降、環状5の1号線や補助81号線、172号線、173号線等の都市計画道路の整備事業が次々と進捗し、池袋副都心の交通環境が大きく変化することが予想されるなか、平成17(2005)年9月に中村文彦横浜国立大学大学院教授を委員長に学識経験者・国・都・警視庁及び区で構成される「池袋副都心交通ビジョン検討委員会」が設置され、19(2007)年3月には「池袋副都心交通ビジョン(案)」がまとめられていた(※47)。
 この交通ビジョン検討委員会での議論は、新たに交通事業者や区民団体代表を加えて平成21(2009)年10月に設置された「池袋副都心地区都市交通戦略検討委員会」に引き継がれ、また検討委員会とは別に委員によるワークショップを開催してより詳細な調査・検討が重ねられ、23年(2011)1月に池袋副都心交通戦略「池袋の交通のあり方を考える(案)」が取りまとめられた。その後、パブリックコメントを経て同年9月に成案として策定されたこの交通戦略もまた、それまでの再生プランや整備計画、ガイドプランと同様に「歩行者優先」「回遊性の向上」等をキーワードに駅からまちのなかへ人の流れを生み出し、賑わいの溢れる池袋副都心の将来像を描くものであった。そしてその実現のための方策には、東西デッキの整備やLRTを含む新たな公共交通システムの導入が改めて位置づけられていた(図表4-⑤参照)(※48)。
図表4-5 池袋副都心交通戦略における池袋副都心の将来像
 こうして池袋副都心の将来像が様々描かれるなか、平成23(2011)年3月11日に発生した東日本大震災は、池袋駅及び駅周辺の防災対策のあり方を大きく見直す契機となった。震災当日、池袋駅周辺で大量の帰宅困難者が発生して混乱が生じたことにより、帰宅困難者対策をはじめとする駅の安全対策が喫緊の課題となり、鉄道事業者や駅関連大規模店舗事業者等の防災意識にも変化をもたらしていったのである。
 そうした変化に呼応し、平成25(2013)年4月、池袋駅周辺整備検討委員会が再開され、前回までの検討内容にエリア防災の視点を加え、南デッキ及び地下サインの検討を優先的に進めていくことが確認された。さらに区は、これとは別に関係鉄道事業者との協議を重ね、同年10月10日にJR東日本と「池袋駅及び駅周辺整備事業に関する覚書」を締結した。この覚書は区がめざす池袋副都心の都市像及びJR東日本がめざす池袋駅の安全性・利便性の向上を実現するための整備事業について、相互に協力して推進していくことを内容とするもので、当面の整備事業として東西連絡通路(南デッキ)の新設と中央地下通路の再整備が対象とされた。また11月28日には西武鉄道とも同様の覚書を締結し、さらに翌26(2014)年には両者と南デッキに関する調査委託締結をそれぞれ締結し、同年6月から南デッキ整備に関する現況調査が開始されることになった。さらに池袋駅周辺整備検討委員会においても地下空間整序化検討部会と南デッキ整備事業者分科会を設置し、詳細な検討が進められた。そして27(2015)年3月、「池袋駅東西連絡通路(東西デッキ)整備基本構想」が策定されるに至ったのである(※49)。
 この基本構想では、東西デッキ整備の目的の第一に「首都直下地震への早急な対策の推進」が掲げられ、以下、「快適な移動空間の整備推進」及び「池袋副都心における都市整備プロジェクトの連鎖的推進」が挙げられている。また池袋駅線路上空に「北デッキ」と「南デッキ」を整備し、この二つをもって「東西デッキ」とすること、整備にあたっては池袋駅地下通路の混雑緩和など駅全体の利用者動線の円滑化を図るため、駅の上空と地下にわかりやすいルートを設定して東西の回遊性を確保することを前提に、二つのデッキ整備は計画的な一体性を確保しつつも段階的に整備していくとして、南デッキの整備を先行させるとした。その南デッキについては、既存の西口メトロポリタンデッキを活用して東口の西武百貨店に接続させ、さらに建替えが予定されている西武鉄道旧本社ビルへと結び、多方面への歩行者動線を描いた整備イメージが示されていた(図表4-⑥参照)(※50)。
図表4-6 池袋東西連絡通路(東西デッキ)整備基本構想(整備イメージ及び南デッキ位置)
 なお、この間の進展について高野区長は平成26(2014)年区議会第1回定例会の招集あいさつで次のように述べている(※51)。
 池袋駅の東西デッキ構想は、31年前の昭和57年に当時の豊島区基本計画に位置付けられ、以来、検討を進めてまいりましたが、なかなか実現に至りませんでした。  しかし、平成23年3月11日の東日本大震災の発生、そしてその直後の池袋駅周辺で帰宅困難者があふれたあの日の経験を契機として、安全に避難・滞留ができる歩行者空間としての東西デッキの有効性について、区及び関係事業者が認識を共有することができたのであります。  そして、昨年10月にはJR東日本、11月には西武鉄道と覚書を締結し、ついにデッキ予定地での測量及び調査に着手することとなりました。今後、これらの結果をもとに、1日も早いデッキ実現に向けて関係者との協議を進めてまいります。
 以上、池袋副都心再生プランにはじまり、LRTと東西デッキという二つの構想を中心にその後の池袋副都心の整備に関する様々な指針等の策定経緯をたどってきたが、再生プランが示した歩行者優先の回遊都市という方向性は一貫して引き継がれ、また、これ以降も池袋副都心整備の基調をなす考え方になっていった。
 そしてこうした池袋副都心の将来像を共有し、区民との協働によるまちづくりを進めていく役割を担ったのが「池袋副都心グランドビジョン懇談会」であった。

池袋副都心グランドビジョン-政策誘導型まちづくりの展開

 副都心線の開通を4日後に控えた平成20(2008)年6月10日、「池袋副都心の未来計画」共同記者会見が開催された。高野区長とともにこの記者会見に臨んだのは東京商工会議所豊島支部、豊島区商店街連合会、豊島区町会連合会、豊島区観光協会、豊島産業協会等の区主要団体の各会長ほか、地元立教大学や地域のまちづくりに取り組む団体の代表に加え、さらに官民一体で進めるプロジェクトのパートナーなど26名が顔を揃えた。会見の趣旨は池袋副都心の再生に取り組む「決意」とともに地域と行政が力を合わせて取り組む「姿勢」を内外にアピールすることであり、区長並びに出席者のうち17名が地域代表として発言した(※52)。
 この会見の様子は区ホームページに報告されているが、そこには区長と17名全員のメッセージの要旨が掲載されていた。少し長くなるが、以下にその全文を引用する。
【区長からのメッセージ要旨】
 都内では、六本木・秋葉原・丸の内そして臨海部などのまちが注目されておりますが、副都心線の開通によって、池袋・新宿・渋谷が結ばれるとともに、埼玉から、4年後には神奈川につながる、新たな首都圏の大動脈が誕生します。
 都市間競争が激化する中、三つの副都心が互いに協力して相乗的な発展を遂げて行くことを期待しています。しかし、それと同時に、サンシャイン60の誕生から30年、この間まちの基本が変わらず開発の遅れた池袋が通過駅となることについて、強い危惧を感じております。池袋副都心の価値を高めるためには、地域の強みを活かしつつ、特色あるまちづくりを進めていくことが必要となります。
 豊島区は人口密度が最も高い都市であり、またターミナルである池袋駅の平均乗降客についても全国で最高水準です。このような日本一の高密都市、すなわち環境負荷についても最大の都市は、正面から環境問題に取り組むことが求められており、その取り組みが周辺のまちへ波及することによって、東京の環境対策の推進に寄与できます。
 また、18年かかった東池袋四丁目の市街地再開発が昨年完成し、劇場「あうるすぽっと」と新中央図書館との連携により、新しい文化発信の拠点となりました。このような積み重ねの結果、池袋西口・東口各々の地域で、様々な再生の機運が生まれつつあります。
 本日お示しする「池袋副都心・グランドビジョン2008」は、東京初のLRT導入、新庁舎整備・跡地再開発、池袋西口駅前まちづくり等、「人と環境へのやさしさ」をコンセプトとしており、これら環境と副都心再生の共存を実現することによって、東京における池袋副都心の個性を発揮することを意図したものであり、今後のまちづくりの目標となるものです。
 また、池袋が通過駅となる危機感を共有しつつ、官民が一致団結して協力することこそ、池袋を大きく変える、千載一遇のチャンスであります。
 池袋は、人が住む副都心、顔の見える副都心であり、本日集まった皆さんを中心に、多くの人たちがまちの発展を図るために、日夜、活動しております。
 本日を契機に、これら地域の皆さんの代表と「グランドビジョン推進懇談会」を発足し、今後、「まちぐるみ」でビジョンの実現に向けて精力的に取り組んでまいります。

【地域からのメッセージ要旨】
  • ○ 幻とまで言われた地下鉄13号線も、3区と区議会・区民が一体となった運動によって幸い完成の運びとなりました。また、将来を考えて環状5の1号のルートにこだわった結果、駅前の混雑問題の解消にも大きく資するものになりました。区長が過去10年で区の財政を建て直したタイミングで、副都心線・新庁舎建設を迎えられた。まちづくりの核を作り、情報交換を密にして、今後、環境に配慮した明るいまちづくりを目指してわれわれも努力していきます。
  • ○ サンシャイン通りでは、歩道を拡張し、美化運動を続け、緑とオアシスを作るなど、違法駐車の問題を解決してきた。このオアシスの中をLRTが走る姿はヨーロッパを連想します。車を制限すれば、人は歩いてくれる。結果的にCO2は少なくなり、環境的に良くなる期待感があります。私は通過駅になるという危機感は持っておらず、新宿、渋谷にない理想のまちができるのではないかと期待感で一杯です。マスコミのかたにも後押し願いたい。行政もがんばっていただけますか? (都市整備部長)LRTは、グランドビジョン2008の第一の目玉であり、様々な課題はありますが、LRTができるだけ早く走れるように努力していきます。
  • ○ 日ごろから官民一体で区民の福祉を願っているが、第一に安全安心のまちでなければなりません。長年要望していた新庁舎の建設が、区長の英断によって方向づけられ、非常に期待をもつと同時に、今後も防災に強い豊島区を構築していきたいと思っています。商店が発展していないところに人は住まない、住民も商店の発展に協力していかなくてはならないと思っています。なんといっても人間味のある都市づくりを住民は望んでいます。
  • ○ 豊島区全体が「文化の香るまち」に向かって大きく変わってきています。東西デッキについては、東西の活性化のためだけでなく、池袋に来街する200万人以上の人の安全を考えると何が何でも必要であると思います。副都心線の開通については、西口地区に30店舗のエチカができ、メトロが投下する地域資産は計り知れないものがあります。これを地元も大事に育て、一緒にまちづくりをしたいと思います。将来的には他の地域に負けない、魅力的なまちができると考えています。芸術劇場や大学を活かして、地域の皆さんで知恵を出し合って進める個性あるまちづくり、それが本当のまちづくりです。
  • ○ 人にも環境にもやさしい副都心に向け、製造業においてもCSRに重点をおいて活躍しています。本年3月の「ものづくりメッセ」では1万2千人にきていただいたが、これまでの公害対策での実績もふまえて、今後も一層環境対策に真剣に取り組み、明るい希望に溢れる副都心再生に向け、努力する覚悟です。
  • ○ 地域と大学と区が協働して、フラットな飾らない池袋の魅力を増していくことが大切です。今後も大学は「池袋学」を深めて、まちの現状を認識して、多様な側面を持った複合的なまちづくり、歴史的に多様な人や機能を持ったまちづくりに向かって、池袋再生に大いに協力していきたいと考えています。
  • ○ 現庁舎は老朽化が進んで、免震工事は終わっているものの、大規模な地震に際しては安心とは言えません。新庁舎は環境に配慮し、耐震性に優れた庁舎であり、財政面でも、区民の負担を最小限にした計画であることを評価したい。現庁舎地の跡地は、定期借地権の方法も含め、民間のノウハウを活用しないといけないが、多くの区民は売却すると危惧しているので、一層の周知が必要であると思います。木造密集地域の整備は特に豊島区が急がなくてはいけない課題であると思います。専門家集団として提案に対し全面的に協力をしていきます。
  • ○ 東池袋四丁目再開発の進展で池袋が面的に広がり、副都心線の開通も非常に大きなチャンスであると期待しています。商業だけでなく、豊島区には住宅都市としての大きな役割があります。環境に配慮した住みやすい豊島といわれるように貢献したいと考えています。高齢者や外国人へも十分対応しながら、行政と協力して住みやすいまちをつくってみたいと思います。
  • ○ 長年、地域の環境浄化・環境美化の活動を地道にやってきました。このたび副都心線開通に伴い、他の地域との差異をさらに鮮明にすべく、人と自然とに優しい環境に、まちづくりを進めていきたいと思います。区役所跡地の活用については、従来型の都心にあるような再開発の形ではなく、ヨーロッパのような、とりわけドイツのエコを中心としたエコシティの構築を目指していくことができればと考えています。
  • ○ 新しい池袋西口広場は、まず安心安全の歩行者空間を整備し、交番を移転して悪質な風俗店や黒服のカラス族対策を実施し、イベントもできるように歩道を3倍に広げ、付属物の側面を緑化しようと計画しています。副都心線開通で地域間競争がもっと激しくなるので、更なる再開発も必要だが、バブル期のようなハードな、ブルドーザーでまちを掘り返す外科手術のようなことにはしたくない。繁華街でありながら地元の人が多く住んで、歴史ある祭り・イベントが継続している池袋は、文化や伝統の中から何かを生み出しながら、行政主導ではなく、まちの人自身がどんな町を作りたいか、再開発によってどのようなまちを作り出すかが大事だと意識していきたい。
  • ○ 「都市再生緊急整備地域」の指定については、税金・資金面で支援を受けられる制度に豊島区が手を挙げたことは、大きな意味があります。都市計画道路では、立教大学の裏を通る補助172号が来年か再来年には完成するといわれていますし補助173号の用地買収もかなり進んできております。これは池袋の発展に必要欠くべからざる道路です。
  • ○ 町の発展は、安全なまち、安心して歩けるまちが第一の基本であることは誰でも認めることです。駅前に住むものの責務として毎回パトロールを真剣勝負でやっています。池袋西口の素晴らしい計画の中に迷惑スカウト・カラス族を入れるわけにはいきません。池袋には、まちを愛するうるさい親父連中が一杯います。パワーある限り、安全安心・活気あるまちづくりができると確信しています。
  • ○ 2年半前から地域通貨でまちおこしをやっています。池袋は、歴史的に人を受け入れる気質、風土があります。それを利用しながら、他地域と違った意味で心のつながりのあるまちづくりをしていきます。立教の蔦などで壁面緑化をして、池袋全体を緑で覆っていくつもりです。学生や高齢者のかたなど、地域からの参加がますます増えています。他地域と違った池袋ができる原動力が地域通貨アイポイントの力だと思っています。
  • ○ 数年前から地域住民の間で南池袋二丁目地区の再開発事業を検討してきました。今後の地域の協力、我々の努力次第では、池袋の未来に重要なものとなる可能性をもった再開発です。地権者は、個々の利害をのりこえ、各関係者の理解、協力を得て、取り組んでいる最中です。現在、大地権者である豊島区の参加及び強力なバックアップのもと、日本で初めてと言われる住民と区との協働事業を推進しています。本プロジェクトは、行政経費、安全性、環境配慮から見て、日本全国に対し、ひとつの「規範」となりうる可能性をもっています。今後も地域住民をあげて構想の実現に協力させていただく所存です。
  • ○ 明治通りは、池袋の駅前を通っており、池袋の駅前の交通渋滞は大変なものですが、この環状5の1号線の整備により緩和されます。地域の声を盛り込んだ地区計画を検討する中で、私たちは、環状5の1号線を幹線道路でなく、生活に密着した道路と位置づけています。課題は地下鉄と地上の中間に通過路をつくることです。道路ができて、まちが二分されることにもなるので、住民間の交流のある、歴史と文化をもつ雑司が谷らしいまちづくりをしたいと思っています。LRTは都電荒川線と相互乗り入れできるようになることが非常に望ましいと思います。
  • ○ 今日は奇しくも「路面電車の日」で嬉しく思っています。LRTは、東口駅前・あうるすぽっと・サンシャインシティを回遊する池袋回遊線、東口駅前・雑司が谷と新庁舎を回遊する雑司が谷回遊線、西口駅前と立教大学を回遊する西口回遊線の3つをモデルとしました。回遊線内部、グリーン大通りでは、パーク・アンド・ライドにより、トランジットモールを目指します。交通渋滞の解消、駐車待ち車両の抑制でCO2を減らし、ヒートアイランド現象を緩和し、まちの中心を車ではなく、人にもどして、歩行者が優先できる都市をつくります。先人が池袋にすばらしいまちを残してくれたと思ってくれるようなまちになると思います。
  • ○ 世界で地球温暖化が危惧され、7月に洞爺湖サミットが行われる中、豊島区が「環境都市づくり元年」と位置づけ、国の「環境モデル都市」に提案をしたということは、意味深いことです。提案の目玉である清掃工場の廃熱利用や生ごみからのメタンガスの利用は、未利用エネルギーを積極的に都市エネルギーに利用していこうという、時代性をとらえた取り組みです。地球にやさしい未利用エネルギーを地域で展開し、CO2排出量削減に大きな効果が期待できます。地域の持続可能な発展のために、豊島区、商店街と協力して今後進めていきたいと考えています。
 各氏のメッセージからはそれぞれの活動分野に応じて視点は異なるものの、安全・安心で環境にやさしい池袋の再生にかける期待の大きさとともに、池袋ならではの良さを活かしたまちづくりを大切にしたいとの思いが随所に窺える。それは区長メッセージの「人が住む副都心、顔の見える副都心」という言葉に通じるものであり、またその当時、区長がよく口にしていた「地域の顔が見えるまちづくり」ということに重なるものであった。
 これまでも述べてきたように、区が目指す池袋副都心の将来像は、都心部や臨海部のような大規模開発によるのではなく、池袋の持つ特性を活かしつつ点在する地域資源をネットワーク化させ、東西デッキやLRTを導入することにより、人の回遊・交流を促していくことをめざすものであり、「建物」ではなく「人」を中心とするまちづくりであった。また他の副都心のような大資本による民間開発が期待できない池袋では、行政が主導する政策誘導型のまちづくりを展開していくことが求められた。だが行政がイニシアチブを発揮していくにしても、まちづくりを推進していくためには区民や地域の各種団体、事業者等との連携・協働は不可欠であった。
 こうして池袋副都心の再生を一致協力して推進していこうと、この会見を機に出席者の総意により「池袋副都心グランドビジョン懇談会」を発足させることが決定された。そして翌月の7月16日に第1回目の懇談会が開催され、以後平成29(2017)年5月の第12回まで、10年にわたって開催された。図表4-⑦は各回のテーマを一覧にしたものであるが、各懇談会はそれぞれ池袋副都心のまちづくりに動きがある時を捉え、タイムリーなテーマを設定し、適宜、多くの情報を提供する場として、また貴重な考えや情報等を得られる場として開催された。区長自らが区の目指す副都心再生の道筋について説明を行い、活発な意見交換がされ、またこうした懇談会の様子は常に報道機関向けに公開され、広く発信していく場にもなっていた(※53)。
 また第5回に新庁舎整備の基本設計を説明した建築家・隈研吾氏は新庁舎の設計デザインを担うとともに、平成23(2011)年7月に都市政策顧問(参与)を委嘱、池袋副都心再生のグランドデザインを描くにあたり、総合的なコーディネイターとして提言を受けることになった(※54)。
図表4-7 池袋副都心グランドビジョン懇談会の開催経緯
「池袋副都心グランドビジョン2008」共同記者会見(平成20年6月)
第1回「池袋副都心グランドビジョン推進懇談会」(平成20年7月)
 最初の共同会見で発表された「池袋副都心グランドビジョン2008」はその当時、進行中もしくは今後予定される池袋副都心のまちづくりに関連する16のリーディングプロジェクトを地図上に落し込み、一覧化したものであった(図表4-⑧参照)。
図表4-8 池袋副都心グランドビジョン2008
 これまでに述べてきた東池袋4丁目地区の市街地再開発、副都心線「東池袋新駅」の設置促進や環状5の1号線、補助81号線、補助172号線、補助173号線等の都市計画道路の整備、池袋駅西口駅前広場の整備や東西デッキ、LRT構想等に加え、新庁舎整備や現庁舎跡地の活用などの新たなプロジェクト、さらにかねてからの課題である都市再生緊急整備地域の指定や造幣局東京支局の移転跡地活用を図る東池袋まちづくりなど、様々なプロジェクトが並んでいた。
 さらに区はこの年を「環境まちづくり元年」に位置づけ、国の「環境モデル都市」の募集に手を挙げ、「高密都市から発信する低炭素社会実現への挑戦」を提案していた。その内容は清掃工場排熱利用システムの構築や地域冷暖房導管ネットワークの拡大、都市型生ごみ発電施設の整備等のエネルギー対策やクールシティ中枢街区パイロット事業等のヒートアイランド対策など、環境政策が前面に打ち出されたもので、LRT構想も低炭素社会への転換に向けたシンボルに位置づけられていた。だがこの提案は残念ながら選外という結果に終わった(※55)。
 この「池袋副都心グランドビジョン2008」の作成及び懇談会設置の意義について、平成20(2008)年6月27日開会の区議会第2回定例会の招集あいさつで高野区長は次のように述べている(※56)。
 なおこの平成20(2008)年度は11(1999)年の区長就任以来、8年連続で前年比マイナス予算だったものが区長3選を果たした前年度から2年連続のプラス予算に転じ、しかも3年連続して特別な財源対策を全く講じることなく予算を編成することができ、また5月には区の総人口が16年ぶりに26万人を突破するなど、バブル崩壊以降の長い長いトンネルをようやく抜け出した時期であり、池袋副都心の再生にかける区長の思いは益々高まっていた。
 新たな東京の交通動脈である副都心線が開業してから2週間が経過いたしました。街から街へ、移動の自由度が高まることにより、ショッピング、文化、情報、そして安全・快適性など、街全体の真価が問われることになります。区内では10年ぶりとなる鉄道駅が誕生した雑司が谷では、交通利便性が大きく高まることで、目白とともに、さらに住みやすく価値ある住宅地として生まれ変わることが期待されます。現在のところ、副都心線開業による大きな影響は見られませんが、新たなステージを迎えた都市間競争は、静かに、しかし確実に進みつつあります。副都心線は、4年後に予定されている横浜方面への直通運転で、全体のネットワークが完成いたします。私たちは今こそ、副都心線の開業を成長の糧とするための戦略を描き、個性ある都市再生を進めていかなければなりません。サンシャインシティが誕生した30年前、あの時の心躍るような期待と感動は、今でもはっきりと心に残っております。街を変えるためには、都市づくりのビジョンを多くの人々が共有することが必要であります。将来の発展を予感させるようなビジョンこそが、人々の中に熱い夢を芽生えさせ、その思いが集まることで、街全体を動かすようなうねりを生み出していくのであります。
 そしてこの度、池袋副都心における都市づくり戦略の総称を、「池袋副都心・グランドビジョン」として、新たにスタートさせることにいたしました。これまでに大きな成果をあげてきた文化政策に加え、「人と環境への優しさ」をコンセプトとすることで、都心部や新宿・渋谷には真似のできない、個性ある都市再生に挑戦したいと考えております。
 そして、もう一つ大切なことは、地域の顔が見えるまちづくりこそが池袋の強みであり、池袋らしさでもあるということであります。先日、日本を代表する建築家であります隈研吾氏をお招きし、これからの都市づくりについてお話を伺いました。隈氏は、本来、街が持っている空気や雰囲気を大切に、流行に流されない都市づくりの考え方を強く持つこと、そして、行政がリーダーシップを発揮しながら、主体的に活動する人々と協働していくことの重要性を強調されていました。他都市に追いつくという発想ではなく、自分らしさを大切にしながら、自信を持って進むことが発展への近道であることを示唆する内容であり、大きな共感を得たところでございます。こうしたことから、副都心線開業を目前に控えた6月10日、東京商工会議所豊島支部、商店街連合会、町会連合会、観光協会、産業協会、建築士事務所協会を初め、地域のまちづくりに取り組む代表の方々のご参画を得て、共同記者会見という形で、新たなグランドビジョンを発表することとしたのでございます。当日は、継続的に話し合いを進める場として、「グランドビジョン推進懇談会」の設置も合意されたところであります。報道機関からも大きな反響があり、池袋副都心の再生に取り組む決意と同時に、地域と行政が力を合わせて取り組む姿勢を強くアピールできたものと考えております。グランドビジョンでは、環境、都市再生、新庁舎を中心として、16のリーディングプロジェクトを掲げております。現在進行中の事業のほか、現時点では提案段階のものも含まれておりますが、今後、実現の可能性を探りつつ具体化を図り、さらに魅力あるプロジェクトを加えたいと考えております。
 なおこの招集あいさつが行われた定例会のひとつ前の第1回定例会では、副都心再生のトータルビジョンとして「新・ルネサンス構想」が謳われ、平成20(2008)年度当初予算案の新規重点事業にも「新ルネサンス構想(新・池袋副都心再生プラン)策定事業」が挙げられていた。この構想は「池袋副都心整備ガイドプラン」に名称を変えて22(2010)年6月に策定されることになるが、この名称から思い起されるのは、昭和 62 (1987)年に池袋駅東西の商店会で組織される池袋副都心協議会が発表した「池袋ルネッサンス構想」である。53(1978)年に当時日本一の高さを誇ったサンシャインシティが完成し、副都心としての池袋の発展に誰もが胸を膨らませていた時代に、まさに夢のような池袋の将来像を描いた構想であった。この招集あいさつの中で「サンシャインシティが誕生した30年前、あの時の心躍るような期待と感動は、今でもはっきりと心に残っている」と区長自らが述べているように、あの時の期待と感動を再びという思いが区長の中にあったことは確かであろう。
 一方、「グランドビジョン」の名称の由来は定かではないが、前述したように池袋副都心の整備に関する計画等には平成16(2004)年策定の「池袋副都心再生プラン」をはじめ、21(2009)年に池袋駅及び駅周辺整備検討委員会により取りまとめられた「池袋駅及び駅周辺整備計画(案)」、22(2010)年6月策定の「池袋副都心整備ガイドプラン」、23(2011)年9月策定の「池袋副都心交通戦略」、またバリアフリー新法の制定に伴い23(2011)年4月には「池袋駅地区バリアフリー基本構想」も策定されており、さらにこれらすべての上位計画にあたる「都市計画マスタープラン」と多岐にわたり、内容が重複している部分も少なくない。こうしたことから池袋副都心の再生を先導する主要なプロジェクトを束ね、これらの総称として「池袋副都心グランドビジョン」と呼ぶことで、区民に分かりやすく伝えていこうとしたものである。
 以後、このグランドビジョンは基本計画の実施計画として毎年策定される未来戦略推進プランの中に組み込まれ、その内容や構成プロジェクトの再編・改定が重ねられていった。なお未来戦略推進プランの中にグランドビジョンとして載せられていたのは同プランの2017年版までの10年間であるが、その最終年度には18のリーディングプロジェクトが挙げられており、この間に追加されたプロジェクトとしては「『演劇の街・池袋』としての交流・発信機能の拡充」「東・西文化軸の形成による回遊性向上」「ユニバーサルデザインのまちづくり」「緑と環境が体感できる都市軸の形成」「南池袋二丁目B・C地区(街区再編まちづくり)」「地域公共バスの導入」等が挙げられる(図表4-⑨参照)(※57)。
図表4-9 池袋副都心グランドビジョン(未来戦略推進プラン2017)
 そしてこれらのリーディングプロジェクトの中でも池袋副都心の再生を加速させていく最大の契機となったのが、南池袋2丁目A地区市街地再開発事業として展開された新庁舎の整備であった。
 その新庁舎整備については次項で詳しく述べるが、この項を閉じるにあたり、これまでの経緯の振り返りも兼ね、平成11(1999)年の高野区政誕生以降、新庁舎がオープンする27(2015)年までの池袋副都心のまちづくりに関する主な動きを年表にして以下に付す。