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第18回 目白
昭和から平成へ・・・まちの変遷を語る 【動画配信】
■現地ロケ編
(2019年11月7日収録)
柏木かおるさん、若原一貴さんに、目白地域をご案内いただきながら、「目白通り」「目白骨董通り」「目白の森」についてお話をうかがいました。また、ゲストの青木滋さんに「白鳥座」「目白文化協会」、柴田知彦さんに「目白駅」「目白小学校」、徳川義崇さんに「徳川黎明会」「徳川ビレッジ」、安増千枝子さんに「洋画家・森田茂」について語っていただきました。
<ゲストご出演者>
青木 滋さん 「西武写真印刷」株式会社 代表取締役。
柴田 知彦さん 建築家。株式会社「SKM設計計画事務所」。
徳川 義崇さん 尾張徳川家第22代当主。「徳川黎明会」会長、「徳川美術館」館長。
安増 千枝子さん 画家。洋画家・森田茂の息子の妻(柏木かおるさんの母)。
■広報番組インタビュー編
(2019年11月29日収録)
■目白:8つのキーワード ( 現地ロケ編全文テキスト)
・白鳥座 目白文化協会[現地ロケ編:00分17秒~]ゲスト:青木 滋さん
「白鳥座」は、昭和28年から昭和35年まで営業していた目白唯一の映画館。映画館開店の仕掛人は、都市計画家の石川栄耀や尾張徳川家第19代当主の徳川義親たち。昭和21年、栄耀は目白の文化人らを集め、義親を会長に「目白文化協会」を設立。翌22年には、会が描く「明日の目白」を海洲正太郎が木版画で制作。この会の活動は、今日の目白のまちづくりにも影響を与えている。
・銀鈴(ぎんれい)の坂[現地ロケ編:02分31秒~]ゲスト:青木 滋さん
かつて、目白台地と神田川沿いの斜面にいくつもの湧き水の場所があり、目白駅の西側にも清い湧き水の水たまりがあった。その湧き水があたかも山の雪解けのような流れのようだったため、ある人が「銀嶺水(ぎんれいすい)」と呼んだ。平成17年3月27日、目白駅の西側の階段道に、この「銀嶺」をとり「銀鈴の坂」という通称名がつけられた。
・目白駅[現地ロケ編:03分22秒~]ゲスト:柴田 知彦さん、青木 滋さん
「目白駅は、私たちの玄関口です」(目白駅美化同好会趣意書より)前の東京オリンピックの前年(昭和38年)、徳川義親が駅新装を機に地域に呼びかけて「目白駅美化同好会」を設置。長きに渡る活動が認められ、平成28年に関東運輸局長表彰を受賞。平成12年の駅新装に際し、「目白まちづくり倶楽部」が「目白駅周辺地区整備推進協議会」を介して「駅前広場」を提案。平成15年には、目白駅・目白橋完成記念フェスティバルを駅前イベント広場で開催した。
・目白小学校[現地ロケ編:05分27秒~]ゲスト:柴田 知彦さん
昭和4年、高田第五尋常小学校(昭和33年、目白小学校に改称)創立。平成26年10月、新校舎が完成。「目白小の建替え等を考える会」の提言書を受け、区はシンボルツリーであるヒマラヤスギを残置、学習院大学の緑とつながるよう目白通り側の校舎を壁面緑化、北側の道路に歩道状空地を整備、緑化を図った。
・目白通り 目白骨董通り[現地ロケ編:06分41秒~]
目白駅前を通る「目白通り」という名は、「目白不動」があったことに由来すると思われる。昭和の初めには既に目白通りの名があったようだが、昭和38年に正式な通称名となった。「目白骨董通り」は、通り沿いに数多くの骨董屋さんがあることからいつしか呼ばれるようになった。
・徳川黎明会 徳川ビレッジ[現地ロケ編:08分33秒~]ゲスト:徳川 義崇さん
「徳川黎明会」は、昭和6年12月に尾張徳川家第19代当主徳川義親が設立。尾張徳川家が麻布から目白に移ったのは昭和7年11月。かつて講堂では寄席やダンスパーティなども開催され、敷地の周囲には塀もなく近所の人々が通り抜けることができた。昭和10年、義親と親しかったフレスコ画の先駆者・長谷川路可が描いた《天井画》は、徳川黎明会の玄関に現存する。敷地内に作られた「徳川ビレッジ」には、外国人向けの邸宅が建ち並び、多くの大樹が生い茂る。戦前、初来日したヘレン・ケラーが手で愛でた石灯籠が今も徳川ビレッジに残されている。
・洋画家 森田茂(1907~2009)[現地ロケ編:14分34秒~]ゲスト:安増 千枝子さん
洋画家。日本芸術院会員、東光会初代理事長、日展顧問、文化勲章受章、豊島区名誉区民。茨城県下館に生まれ、昭和3年に上京。昭和13年、31歳で豊島区要町(旧長崎東町)にあった貸しアトリエに移り、寺田政明らと交流。昭和23年頃、目白に住む都市計画家・石川栄耀宅の向かいにアトリエを構える。昭和41年、山形県羽黒山で初めて黒川能を観て感銘を受け、《黒川能》を描く。享年101歳。緑豊かな庭と、二階のアトリエから見える「目白の森」の景色が美しい。
・目白の森[現地ロケ編:17分47秒~]
「目白の森」の地は、目白に残る数少ない歴史ある屋敷森だった。この森を全面伐採するマンション計画が一度決定した後、森の樹木を残したいという地域住民の熱意により計画が変更され、平成9年4月、区は屋敷だった頃の樹木をなるべく残しながら公園として整備した。