[染井地区の歴史と調査の概要]


染井遺跡の発掘調査
 豊島区染井は、「ソメイヨシノ」で知られた植木の里として有名です。ソメイヨシノの名が「染井」に由来していることは言うまでもありませんが、それが江戸時代の終わり頃に作られた新品種であることは、あまり知られていないようです。

 染井の植木屋は、植物の交配を重ねる中から多くの新品種を生み出したり、植物栽培に関する多数の書物を残している「技術者」でもありました。この優秀な技術者である染井の植木屋は、なぜ、ここに住みついたのでしょうか。

 17世紀中頃、1657年(明暦3)の振袖大火によって、江戸市中は灰塵に帰してしまい、その後の復興の中で「染井通り」が敷設されます。この染井通りに沿って、その南側に柳沢家下屋敷(現六義園)・藤堂家下屋敷・建部家下屋敷などの大名屋敷が、広大な敷地を取り込んで軒を連ねるように配置されます。その大名屋敷の広い庭の手入れにかり出された近隣の農民たちが、染井植木屋の直接の始まりと言われています。

 そうした染井植木屋の様子は、今まで文献資料に基づいて研究され「豊島区史」や「豊島区立郷士資料館常設展示図録」などでも紹介してきましたが、最近まで植木屋たちの生活の様子をはじめとする、より具体的な実像はなかなか描くことができませんでした。しかし、近年の地域再開発の波は染井の地にも押し寄せ、地下の埋蔵文化財(遺跡)を根こそぎ破壊しつつあります。その中で1988年12月から始まった日本郵船株式会社用地内の発掘調査は、この地域の埋蔵文化財の初めての本格的な調査であり、「染井植木屋」の活動した場所の様子や、植木屋以前の染井の様子を、ほんの僅かではありましたが、明らかにすることができました。

 以来、1989年から1990年にかけて丹羽家地区・加賀美家地区・染井霊園事務所地区と都合4か所で発掘調査が実施されました。これらの地区の場所は、次頁の地図の通りです。今後もこの地域での発掘調査は機会があるごとに実施されるわけですが、ここでは、今までの調査の成果を、わかっている範囲で紹介していきたいと思います。