[染井通り以前]

江戸時代の染井地区の状況と発掘地点

 前述のように、染井地区には植木屋と大名屋敷が軒を連ねていました。しかし染井の歴史は、それらの植木屋や大名屋敷から始まるわけではありません。それ以前の歴史についても、発掘調査の中でほんの少しではありますが、わかってきています。

陥穴
深さ約2mで、細長い楕円形をしている。奥の方は未調査。

 その中で最も古いのは、日本郵船地区で発見された縄文時代の竪穴住居と陥穴(おとしあな)です。陥穴が約6000年前、竪穴住居が約3000年前のものと考えられます。そして、その他の地区でも縄文土器や弥生土器・土師器(はじき・古墳時代の土器)などが発見されており、当時染井の地に人間の住んでいたことは確実です。

江戸時代初頭の畠の畝 縦方向に連なる細長い黒い部分が畝の痕跡である。

 1657年の振袖大火(明暦大火)以前、染井の地はおそらく一面の畠(はたけ)の中に点々と農家がたたずむ静かな農村だったと思われます。日本郵船地区では当時の畠の畝(うね)の跡が発見されました。興味深いことに、畝の方向を子細に観察すると少し角度に違いのあるものが見られ、2時期に分けられると考えられます。この畠の畝からは小麦と陸稲(おかぼ)の花粉が発見されており、二毛作が行われていたこともわかりました。