[植木屋の繁栄]

丹羽家地区の植木溜まりの状況

 染井植木屋の繁栄は、江戸時代の中頃以降のことでした。その先駆的役割を果たした初代伊藤伊兵衛は、藤堂家下屋敷に出入りし庭木の手入れをしたと言われます。その後、三代目伊兵衛(三之丞)と息子の政武は、それぞれ「きり嶋屋伊兵衛」「翻紅軒」と呼ばれるようにツツジやサツキの栽培に努め、染井植木屋街の基礎をつくります。彼らは、卓越した知識をもとに日本最初の園芸書「錦繍枕」(1692・元禄5年)や「花壇地錦抄」(1695・元禄8年)を著すなど、高度な樹木栽培技術を習得していました。


丹羽家地区の植木溜まり
右下の小穴は、植木鉢を置く棚のようなものであろう。

 伊藤一族の活躍で、染井植木屋は、元禄の頃から花卉類の名所として徐々に有名となっていきました。そして、江戸時代後半になると、菊・万年青など主に鉢植え植物類が爆発的に流行し、一般庶民も園芸文化の一翼をになうようになりました。その時も、中心的役割を果たしたのは、やはり染井の植木屋だったのです。


丹羽家地区発見の地下室
左側に階段が見える。

 この植木屋の集住していた場所のうち、現在までに調査の手が及んでいるのは日本郵船地区と丹羽家地区の2か所です。日本郵船地区は、伊藤一族の分家筋にあたる伊藤小右衛門・重兵衛家の敷地にあたると思われます。一方の丹羽家地区には、丹羽茂右衛門が住んでいました。