丹羽家地区の調査では、重複して多数の植栽痕が発見されました。植栽痕のほとんどが明治時代に属するもので、江戸時代まで遡る植栽痕は意外に少ないようです。 |
この植栽痕の配置からみて、この場所は明治時代に「植木溜まり|として使われていたことがわかります。また、江戸時代には、植栽痕がまばらに配置されている様子から、「回遊式庭園」になっていたと理解できます。このような江戸時代の状況は、日本郵船地区も同じでした。 |
| ところで徳川将軍の中には、ことのほか花好きで、王子での鷹狩りの帰りにたびたび染井を訪れた人もいました。将軍をも魅了した染井の植木屋の素晴らしさは、浮世絵にも描かれています。見事な庭園をもつ染井の植木屋たちは、江戸名所の一つに数えられるほど有名で、とりわけ四季おりおりの花の盛りには江戸市民の憩いの場所となっていました。 |
| 「染井之植木屋」(「絵本江戸桜」所収/北尾政美画/1803・享和3年)には、染井植木屋の入口部分や庭内の様子が興味深く描かれていますが、その中には植木鉢をのせた棚も見ることができます。こうした棚については、丹羽家地区の調査で植栽痕の間に小穴が集中している場所が確認されており、おそらくこれが、棚のようなものであったと考えられます。 |