遺構の展開

 丹羽家地区の調査では、重複して多数の植栽痕が発見されました。植栽痕のほとんどが明治時代に属するもので、江戸時代まで遡る植栽痕は意外に少ないようです。
 この植栽痕の配置からみて、この場所は明治時代に「植木溜まり|として使われていたことがわかります。また、江戸時代には、植栽痕がまばらに配置されている様子から、「回遊式庭園」になっていたと理解できます。このような江戸時代の状況は、日本郵船地区も同じでした。

丹羽家地区の植栽痕集中地区

 さて、植栽痕とは、樹木を植える時、あるいは抜き取る時に円形に掘られた穴のことです。染井で発掘された植栽痕には2種類あります。一つは中央部が丸く盛り上がるもので、もう一つは窪んでいるものです。この違いは、植物の種類によって根の張りかたが違うため、根切り方法にも違いが出るためと思われます。また植栽痕には、小さな柱穴が1個ないし数個ともなうこともあります。この柱穴は、移植して間もないためにまだ根がしっかり付いていない樹木を丸太棒などで支えた時に、その棒を固定するため掘った穴だろうと考えられます。


「染井之植木屋」「絵本江戸桜」


ところで徳川将軍の中には、ことのほか花好きで、王子での鷹狩りの帰りにたびたび染井を訪れた人もいました。将軍をも魅了した染井の植木屋の素晴らしさは、浮世絵にも描かれています。見事な庭園をもつ染井の植木屋たちは、江戸名所の一つに数えられるほど有名で、とりわけ四季おりおりの花の盛りには江戸市民の憩いの場所となっていました。


植木棚と思われる小穴群


「染井之植木屋」(「絵本江戸桜」所収/北尾政美画/1803・享和3年)には、染井植木屋の入口部分や庭内の様子が興味深く描かれていますが、その中には植木鉢をのせた棚も見ることができます。こうした棚については、丹羽家地区の調査で植栽痕の間に小穴が集中している場所が確認されており、おそらくこれが、棚のようなものであったと考えられます。