染井遺跡の日本郵船地区と丹羽家地区は、ともに江戸時代の後半頃は植木屋だったことが文献資料などから明らかでした。しかし、当時の植木屋で実際にどのような種類や大きさの植木鉢が使われていたかについては不明のままでした。発掘調査の結果、今までに発掘された江戸時代のどの遺跡よりも多量の植木鉢が発見され、調査した場所が誤りなく植木屋の敷地の中であることを裏付けるとともに、植木屋の使っていた植木鉢の種類や大きさなどについても、貴重な情報を得ることができたのです。 |
現在の植木鉢のような、はじめから底に孔(あな)が開けてある植木鉢が大量に作られるようになるのは、江戸時代の後半頃からで、そんなに古くからのことではありません。そして、土器・陶器・磁器製のものがあります。 |
土器の植木鉢(日本郵船地区出土) | 土器の植木鉢としては灰色の瓦質のものが出土しており、これは俗に「菊鉢」と呼ばれています。日本郵船地区の地下室から出土した植木鉢のうち、46.6%がこの瓦質の植木鉢でした。これは日本郵船地区にかつて居住していた植木屋が、「菊」の栽培を得意にしていたことを示しているものと思われます。 |
| 陶器製の植木鉢は瀬戸・美濃地方で作られたもので、種類が多く、緑釉(りょくゆう)や鉄釉(てつゆう)を掛けたものなどがあり、丹羽家地区では、特に灰釉(かいゆう)が掛けられた「蘭鉢(らんばち)」と呼ばれるものが比較的多く出土しています。 |