[駒込七軒町]


丹羽家地区で検出された駒込七軒町の一角


丹羽家地区の発掘範囲のうち、最も染井通りに近い部分では、井戸址・柱穴址・ゴミ穴など、主に生活に関連した遺構が集中して発見されました。
 江戸時代には、よく街道筋に軒を連ねるように町屋が形成されています。そして、江戸時代の絵図を見ると、染井通りにも駒込七軒町と呼ばれる町屋がありました。発掘範囲と絵図を照合してみると、上述の生活関連遺構群は町屋の一部にあたっています。駒込七軒町は、伝通院という寺の領地(寺領)であることがわかっています。しかし、この町屋がいつ頃から存在したのか、あるいはどのような人々が生活していたのかは、残念ながら明らかとなっていません。


駒込七軒町関係の江戸時代の遺構


町屋部分からは、幅5m、深さ1mという大きな溝が発見されました。溝は一方が染井通りと直交し、もう一方は平行する方向に走行しています。この溝は、土の堆積をみると、水が流れていた痕跡もなく、短期間で埋められたと考えられます。

「溝」の断面 薄い土層が幾重にも重なり、人の手で埋められていることがよくわかります。

 溝のあった位置は、1856年(安政3)の絵図で見ると、道路になっていたようです。溝が短期間で埋められたことや、出土遺物の年代などを考え合わせると、この溝は、幕末のある時期に埋められたことになるでしょう。
 溝の役割は、城郭にある堀のような防禦を目的としたものとは考えられません。とするとこの溝は、町屋を区画するための境の溝ではないかとも考えられます。

発見された井戸 左は切石か発見された状態。右は完全に掘った状態。

 さて、町屋部分で発掘された井戸は、出土した遺物の年代からみて幕末頃に掘削され、明治時代にいたるまで約100年間ほど使われていたようです。井戸は、単に関東ローム層(赤土)を掘り込んで造られた素掘りの簡単なもので、埋められる時にはあたかも蓋をするような形に切石が入れられていました。

 町屋部分の調査では、多くの陶磁器類が出土しました。主な陶磁器類は、江戸時代の後半を中心に伊万里焼や瀬戸・美濃地方で作られた碗・皿類です。これらの陶磁器類の研究は、当時の人々の生活を復元するうえで、有効な手段となります。町屋部分で出土した磁器類は、高級品とはいえないまでも、他の江戸の遺跡と比較してもそれほど遜色はないようです。陶磁器類からみる限り、駒込七軒町に住んだ人々の生活は、決して低い生活水準ではなかったことになるでしょう。