徳川家康像(富正氏蔵)
徳川家康画像
正面の衣冠束帯姿が家康である。その下の二人物のうち、向かって左が秀忠、右が家光であろうか。中央上の署名(正月廿五日家康)と花押は家康の自筆である。
家康は慶長一九年(一六一四)正月七日東金御殿に来て、同月十六日に千葉に向かい、船橋御殿にしばらく滞留していた。右の「正月廿五日」とは、あるいはこの慶長一九年のことであったかもしれない。ちなみに、この年家康は満七二歳であった。
徳川家康の書状(富正氏蔵)
家康が天正19年当時宰相であった秀忠を江戸に下向させることで太閤秀吉に世話をかけたので、家臣の本多豊後守を挨拶に派遣する旨、秀吉の側近に報じた書状である。なお、書状の本文は家康の祐筆が書き、署名・花押は家康の自筆である。
徳川家康の下知状(富正氏蔵)
慶長五年(1600)九月関ヶ原の戦がおこったが、これは同年二月六日付で家康が船橋大神宮宮司の富基重に対して、出陣の準備をしておくよう指示した下知状である。「大途御用」とは関ヶ原役のおこるべきことを示唆したことばと思われる。この状は家康の命令によって祐筆が書いたものである。
鎌倉公方足利持氏の御教書(みきょうじょ)
(鎌倉市浄光明寺蔵)
これは室町時代の鎌倉公方足利持氏が上総国北山野辺郡(山辺郡の北部をさしたものか)の代官が民政について不正過酷の処置にあったことを調査の上糾弾するむねを通知した書状である。なお、「湯井」は今の油井、「粟宇」は粟生のことであろうと思う。この書状は祐筆の書いたもので花押は持氏の自筆である。また、浄光明寺(真言宗)は東金にも関係のある北条長時(六代執権)が建長三年(1251)に創建した名利である。
河野呼牛の句(片岡栄一氏蔵)
白井鳥酔の句(奥田包介氏蔵)
日吉神社の神輿
大野茶園風景・飯田林斎筆
(大野与一氏蔵)
酒井亜人筆 赤人塚の風景(酒井四郎氏蔵)