四、五日まえに、「総集篇」の初校を見おわった。これで胸つき八丁もどうやら越えられたかと、文字どおりホツとする思いだった。実際、本巻の編集は骨が折れた。いつ出来あがることやら、ずいぶん心細かった。これをつくりあげないでは、死ぬに死にきれない気持であった。ここまで来て、やっと蒼空が仰げる。感慨もひとしおである。
本巻は「史料篇」とちがって、東金の郷土史家が力をあわせて執筆することにした。それぞれの分野のベテランに得意の筆をふるってもらう方針をとったのである。その方針は正しかったし、そうして出来た本巻の意義も大きい。執筆者たちは、かなり熱を入れて書いてくれた。しかし、中にはとうとう執筆してくれなかった人もあるし、また、自己の分担の一部を書いて、あとは投げ出してしまった人もある。原稿の内容の立派なものも相当あるが、何か投げやりで、そのままでは使えないものもあった。ひとの原稿に手をつけるのは失礼であるが、わたしは立場上、どうしても手を入れざるをえなかった。誤字は訂正しなければならないし、意味の通らない文章は直さなければならないし、内容についてもよく検討して、まちがいは正し不足はおぎなわなければならない。場合によっては書き改めなければならない。そういう作業をすることについては、編集委員会で了承を得ておいたのであるが、いざ現実にぶつかってみると、なかなか簡単に行くことではなかった。
ひとの書いた原稿を削除するというのも、いやな仕事である。折角書いたものだから、何とかして活かしたいという仏心もある。削るより書き加えるほうが、むしろ楽である。生かせるものなら、なるべく活かしたいとも思う。しかし、どうしても活かせない場合もある。そういう場合はいたしかたないが、わたしは活かす方針をとった。そして、ずいぶん書き直したり、書き加えたりした。そんなことのために、結果的には原稿の枚数が増加してしまって、その処置に困る事態も生じたのである。
以上のごとき諸事情が本巻の出版をおくらせたのであるが、そのほか、あてにしていた原稿がとうとう提出されなかったため、代りに自分が書かなければならなかったことなども大きなマイナスとなった。本巻の刊行が予定よりかなりおくれてしまったことについては、わたしも責任を感じている。なお、おくれた事情について、もう一つ個人的なハプニングをつけ加えるならば、今からは一昨年のことになるが、わたしが眼病にかかり、かなり長い間困ったことと、右手の親指を自動車のドアにはさんで使えなくなり、これも数か月間執筆困難におちいったことをあげておきたい。
ともかく、これでようやくわたしは自己の責務を果たすことができた。本巻の出来栄えは立派ではないだろう。わたしも不満はいろいろある。だが、この程度でお許し願いたいと思う。いま、わたしが切に望むことは、よき協力がほしいということである。
(六二・一・二二 柴田武雄)