ところで、彼はなかなか好学の人であったらしく、明治六年(一八七三)三一歳の時に東京へ出て有名な学者であり文人でもあった成島柳北に師事して漢学の研修に努めるとともに、英語の学習にも力を入れ、三年後に帰郷した。
家業の呉服販売に従うかたわら、地方公共のため尽力したいとの志をかため、地方制度の研究調査のため欧米諸国の視察を決行して、新知識を大いに吸収し後年に備えた。
明治一七年(一八八四)からしばらく町の学務委員を勤めたが、同二二年(一八八九)四月新東金町が誕生するや、直ちに町会議員に挙げられ、当選すること二回、つづいて郡会議員を一期つとめ、更に明治二七年(一八九四)三月千葉県会議員に当選、引続き、同二九年(一八九六)三月にも再当選し、同三〇年一〇月まで在職した。
豊洲は県会議員としては衛生問題や土木問題について尽力し、それぞれ業績を残している。なお、彼ははじめ改進党に所属していたが、後に自由党に入り、さらに政友会に移っているけれども、明治三七年(一九〇四)五月に脱会している。彼は県会を退いた後、明治三〇年(一八八九)一一月には第四代東金町長に就任し、同三三年(一八九二)一二月まで約三年間その職にあって、町政の改革に力をつくし、尋常中学校の誘致等で奮闘した。こうして、大いに町の発展に貢献して幾多の功績を残している。
豊洲は元来計数には極めて明るく、経済・金融の両面にも精通した数理の人と云われ、明治一四年(一八八一)一一月、町内有志により金融機関設立が企画された際、彼はいち早くその起草委員に選ばれてこれに参加し、翌一五年県下に魁(さきが)けて株式会社東金銀行を創立せしめ、その取締役に就任、東金町商工業の発展に大きく貢献している。また、同二一年(一八八八)には東京京橋区の中外物産会社の社長代理、同二四年には山武郡物産共進会審議委員を勤めるなど、実業界での活躍もなかなか活発であった。
更に彼は、社会・公共・慈善事業にも深い理解を有し、多額の金品を寄贈して、その都度その筋から数多くの表彰を受けている。
明治三八年(一九〇五)一一月四日、病気のため死去、享年五三歳、東金市田間上行寺内墓地に葬る。
小倉豊洲