このような環境下に成長し、長じて県立成東中学校を卒業後、早稲田大学政治経済科に学び、業成って帰郷し、農業を継ぐと共に、若き指導者として、郷土の若者をひきいてその先頭に立って、強烈な正義感を堅持し、地方自治行政の進展と産業の振興にその生涯を捧げた功績はまことに偉大である。
大正の初期弱冠にして衆に推されて、東金町議会議員に当選、爾来当選を重ねること実に四回の多きに達し、昭和の初期には、東金町長小倉文彦氏に切望されて助役に就任、よく町長を補佐して町政を円滑に進展させた。
昭和五年(一九三〇)五月三一日、第一四代東金町長に就任、以来昭和一四年七月まで、九年四か月の長きに亘って、町政を掌握して、東金町発展のために尽している。
昭和一五年(一九四〇)一月行なわれる千葉県議会議員選挙の為に退任し、県会議員に立候補、みごと当選し、折からの第二次世界大戦にもよく耐えて県政のために活躍し数々の事績を残している。
昭和二〇年任期満了のためその職を退き、終戦後衆に推されて千葉県農地委員に就任、戦後の新生農民のため大いに奮闘している。
以上が彼の三〇余年間に亘る公的経歴の大要で、その間数々の功績が挙げられるが、特に三点に絞ってこれを述べてみたい。
その一つは、教育に関する東金尋常高等小学校の新築移転のことである。
大正二年(一九一三)四月、東金新宿に新築された、東金尋常高等小学校は、その後児童の増加に伴ない、教室の不足をきたし、加えて運動場の狭隘は目に余るものがあり、運動会は、県立東金高等女学校の校庭を借用して実施する状況で、これが解消のため、校舎の新築移転は焦眉の急務で歴代の町当局の苦慮するところであった。
彼は、ここに思いを決し、昭和八・九年の大旱害に遭遇の折にもかかわらず、これを町議会に提案し、僅か一五分をもって、満場一致これを可決したという。即ち敷地は、東金町岩崎下(東岩崎サンピア・中央公園)の田圃三万平方メートル(縱一二〇間横八〇間)の矩形の敷地と、上宿から新宿下の片貝県道(市役所通り)に至る田圃の買収と校舎新築がその内容で、土地買収費、建築費は約一一万円という。
水田の埋立は鴇ケ嶺から土砂を運搬し、その作業は、全町民と生徒の勤労奉仕作業によるもので、昭和一一年(一九三六)一一月三日、堂々たる校舎と講堂の新築が成ったのである。因みに総工費は二〇万円という。
この校舎の新築移転は、彼の果断と先見性を物語り、将来の東金市の中心がここに移動したことを証明したもので、おそらく彼の胸中には、今日の都市計画の青写真が描かれていたと思われるのである。
第二点は用水・地水に対する知識が広く、配慮が深いことである。
由来、九十九里平野の農業は、古来から天水への依存度が高く、一度旱害に遭遇するや拱手傍観するのみの事例は、かつての昭和八・九・一五年の三度の大旱害の際経験済みのことである。農民が安んじて営農出来る抜本策は、利根川の引水に如くものなしと確信し、同志十枝雄三等と計り、利根川引水事業団の設立運動を県・政府に迫まり、遂に昭和一七年(一九四二)国会はこれを認め、三か年継続工事費として四〇七万円を計上し、今日の両総用排水が着工され、完成をみたのである。両総用排水事業の期成同盟会では相談役の一人になった。その他、県協力会議員・山武郡軍郷会長・県農業会山武郡支部長・県農業会専務理事・両総土地改良区顧問等を歴任した。戦後は、県農地委員会の第一期、二期の委員を務めて農地改革の推進に尽した。
一方、昭和二三年(一九四八)七月に県養蚕販売農業協同組合連合会が創立され、彼は当初理事を務め、県下五千数百名の蚕業者を擁し、生産繭の販売・蚕種・桑苗・蚕葉等の資材供給を行い、作業の共同化・乾繭保管設備の保有運営、生産技術の向上と指導等に努めた。また、県畜産農業協同組合連合会は、各郡の畜産農業協同組合を下部組織として、同年七月に創立総会を開催して発足し、彼は監事に就いた。
政党では、大正一三年(一九二四)一二月憲政会県支部幹事をふり出しに、立憲民政党山武支部長を経て、昭和一六年(一九四一)大政翼賛会山武郡支部理事・東金町支部理事、翌年山武郡支部顧問、一八年東金支部常務委員を務めた。戦後は、進歩党千葉県支部に所属した。
昭和二五年(一九五〇)一二月八日死去、六一歳であった。
小川正義