明治一二年(一八六九)一一月、台方公立小学校事務掛りを、同一六年(一八七三)山辺郡第一番小学校区学務員を、それぞれ命ぜられ、同一七年(一八七四)九月、台方村会議員(区委員)に挙げられ、その他山辺郡第一衛生委員、東金町外二か村戸長役場筆生等をも命ぜられ、さらに、同二〇年(一八八七)には、三〇歳の若さで東金ほか三二か村連合町村会議員に当選し、一段の飛躍を遂げた。このように彼は町村制成立前の地方行政に参与して、活発な活動をしたのである。
明治二二年(一八八九)四月、町村制が施行され、新しい東金町が発足するや、彼は新町会議員に選ばれ、それ以後六回にわたって議員をつとめたが、二四年には徴兵参事会員に、二六年には学務委員をも兼務している。そして、同三五年(一九〇二)五月、推されて東金町長の職に就き、同三九年五月まで、四年間在職して、大いに町政改革のため尽力したのである。
明治四〇年(一九〇七)九月、千葉県会議員の選挙が行なわれると、彼は衆に推されて政友会から立候補し、見事に当選し、同四四年(一九一一)九月までの在職期間中、県政発展のためいろいろ立言画策するところがあった。彼はだいたい土木・勧業関係で動いたのであるが、土木問題では浚渫(しゅんせつ)船のことや道路橋梁費のことで、勧業問題では、種畜場費のことで、是々非々の立場からそれぞれ建言するところがあったが、とくに後者について、農村の副業として馬の飼育を奨励すべきことを熱心に主張したのは、特筆すべき業績であった。
こうして、彼は二〇歳の若い時から約三〇年にわたって、村政に町政にまた県政に、誠意をもって献身し、多彩な活動をつづけたのである。そして、地方自治の発展に、公共事業の充実に、また、民生の改善につくすところがあった。その功績は没すべからざるものである。
特に明治四〇年(一九〇七)に起こった千葉県立東金高等女学校の誘致問題について、彼は愛郷心を発揮して町当局と協力し、常にその運動の先駆となって県当局と折衝してこれを動かし、遂に誘致に成功したのである。
彼はまた若くして郷土の公共事業に関係したため、警察・学校等の新改築の際には必ず工事委員を命ぜられ、その都度よくその任を果たし、しばしば多額の寄附を行ない、当局から褒賞、表彰の栄を受けている。特に明治三九年(一九〇六)、日露戦役に関する協力の功に依って勲七等白色桐葉章を授与されている。
昭和五年(一九三〇)四月九日病のため死去、享年七三歳、法名は、「彰仁院義達日剛居士」。東金市台方妙福寺内先瑩域内に葬る。
高剛三郎