布施甚七(ふせじんしち)(衆議院議員・東金町長・実業家)

15 ~ 18 / 1145ページ
 文久三年(一八六三)一〇月一七日、上総国山辺郡東金町岩崎(東金市東金一、二一三)農、布施新助の長男に生まれ、幼名を甚太郎と呼び後、甚七と改めた。布施家は家号を「大十文字屋」と言い近隣に聞えた素封家である。なお、父新助は同町の小林佐平次の二男に生まれ、先代甚之丞(甚七の祖父)の養子となり、家を嗣いだ人である。
 甚七は生まれつき聰明で闊達、弱冠よく町内の要職を勤め、明治二二年(一八八九)四月、東金町会議員に当選した。二七歳の若さであった。ついで、同二五年(一八九二)四月、同二七年(一八九四)四月と、引きつづき三回当選を果たし、同三〇年(一八九七)一一月まで在職し、町政の発展に尽したのであるが、同年九月山武郡会議員に選ばれ、地方の振興に努め、同二七年(一八九四)三月衆に推されて千葉県議会議員に立候補し、見事に当選した。そして、県会議員在職のまま、町民からの強い支持を受けて、同年四月一一日、第三代の東金町長の任につくことになった。(第一代町長は篠原蔵司・第二代は内田家治之助)さらに、同二九年(一八九六)三月には、町長在任のまま、ふたたび県会議員選挙に立候補して当選し、翌三〇年一〇月まで在職している。こうして、一人二役の多忙な月日をおくってきたが、同三〇年(一八九七)一一月一日をもって町長を辞任し、同年一〇月に行なわれた県会議員選挙には立候補せず、翌三一年三月に第五回衆議院議員の総選挙が行なわれるや、満を持して待ちつづけていた甚七は思い切って自由党から立候補し、衆望を得て当選の栄を獲得したのであった。そして、同年八月、第六回の総選挙に引続いて今度は憲政党から出馬し、二度目の当選をはたし得て、三五年(一九〇二)一二月まで在職して国政に参与したのである。彼こそ東金が生んだ栄えある第一号衆議院議員である。しかし、次の第七回(明治三五・八)以後の総選挙には感ずるところあって出馬はしなかった。
 以上、町政・郡政・県政・国政と多岐広般にわたって政治に関与し、幾多の公共事業に参与尽瘁することは実に二〇余年の長きに及び、その間各種の社会慈善事業に対して多額の金品を寄附し、当局から褒賞を受けている。特に海防費献納の功によって、黄綬褒賞を授けられたことは、大きな栄誉である。
 彼はまた、経済金融の面にも明るく、地域の発展は先ず産業の興隆と経済力の蓄積にあるとして、その資金の円滑なる流通を促進する金融機関の設立を企図し、明治一四年(一八八一)一月同志と計りその運動に着手し、翌一五年株式会社東金銀行の設立を遂げ、同二九年(一八九六)第三代の頭取に就任している。その後、当地に続々として大小の銀行が設立されていることからも、彼が合理的な先見の明の保持者であったことに敬服するものである。なお、彼は同三六年(一九〇三)日本赤十字社千葉支部商議員を勤めたことも附記しておきたい。
 甚七は家業として小禽屋を経営していたが、鶏の研究に熱を入れ、東金や千葉方面の同業同志に呼びかけて家禽協会を設立し、その幹事長として活躍し、国益に利するところがあった。また、謡曲・義太夫などの趣味をもち、風雅な生活を送っていた。晩年の彼は温厚な長者の風貌をもって人に接したといわれるが、大正七年(一九一八)九月から病臥の身となり、翌八年(一九一九)二月一〇日、ついに不帰の客となった。行年五七歳であった。大義院報国日甚居士と謚(おくりな)された。生前は小倉豊洲・篠原蔵司(いずれも別項参照)らと特に親交があったと伝えられる。
 甚七は妻(布留川氏)との間に二人の女子をもうけた。長女を定子といい、次女を美津子といった。定子は家をつぎ、入夫した佐内との間に男児が生まれなかったので、長女の菊江に、養嗣子として千葉弥次馬(茂原市上永吉)の六男で、千葉三郎(衆議院議員・労働大臣)の弟たる六郎を迎え、家を嗣がしめた。六郎は東京帝国大学経済学部を卒業し、政界・財界・教育界に広く活動したが、特に東金市長として敏腕を振い、市の発展に寄与したことは、世人のよく知るところである。

布施甚七

  【参考資料】
    布施甚七墓碑銘(原漢文)
                  (東金本漸寺布施家墓地)
 君、諱(いみな)ハ長発、布施氏。初メ甚太郎ト称シ、後甚七ト改ム。考(こう)①新助ハ同街小林佐平次ノ二男ニシテ、君ガ祖考②甚之丞ノ養フ所トナリ、其ノ女ヲ妻トシテ君ヲ生ム。是レ、君ガ母ニシテ、君ハ其ノ長子タリ。
 資性温良ニシテ濶達。幼ニシテ郷党ニ学ビ、既ニ長ジテ経世ノ志ヲ抱キ、自由党ニ加盟ス。明治二十二年(一八八九)市町村制ヲ布キ、山辺武射二郡ヲ合セテ山武郡トナス。君、東金町会議員ニ選バレ、後、町長トナル。尋イデ千葉県会・山武郡会ニ並ビニ議員タリ。三十一年(一八九八)衆議院議員ニ選バレ、立法ノ議ニ参ス。職ニ在ルコト四年、恪勤(かくきん)励精頗ル其ノ績ヲ見(あらわ)ス。
 三十六年(一九〇三)日本赤十字社千葉支部商議員トナル。是レヨリ先、君、株式会社東金銀行ヲ創(はじ)メ頭取トナル。家禽(かきん)協会ヲ千葉ニ東金ニ設ケ、幹事長トナリ、県一ノ養禽ノ業ヲ全国ノ冠タラシメ、国益ヲ裨補(ひほ)スルコト尠(すくなか)ラザルハ、蓋(けだ)シ君等ノ尽力ニ由レリ。
 君、尤モ義勇奉公ノ念ニ篤シ。東金街嘗ツテ火ヲ失シ、全戸烏有(うゆう)③ニ帰ス。君、厄(やく)ニ罹(かか)ラズ、率先シテ米廩(りん)ヲ開キ窮氓(きゅうぼう)④ヲ賑恤(しんじゅつ)⑤シ、小学校舎ヲ築クヤ、巨金ヲ舎捐⑥シテ其ノ資ヲ助ケ、並ビニ銀杯ノ賞ヲ得、防海費ヲ献ジテハ、黄綬褒賞ヲ授ケラル。是ヲ以テ、水陸演武ノ挙ニハ、常ニ陪観ノ栄ヲ得タリ。
 先塋(せんけい)⑦ノ在ル本漸寺中堂宇頽破(たいは)スルヤ、君、専ラ経営シテ竣工シ、主僧深ク其ノ義ニ感ジタリト云フ。
 君、文久三年(一八六三)十月十七日ヲ以テ、上総山辺郡東金宿ニ生ル。大正七年(一九一八)九月、病ニ家ニ臥シ、荏冉(いんぜん)⑧トシテ癒エズ、翌八年二月十日、終ニ起(た)タズ。享年五十七。先塋ノ次ニ葬ル。佛諡(おくりな)⑨シテ、大義院報国日甚居士ト曰フ。
 布留川氏ヲ娶リ、二女子ヲ娩(う)ム。長ハ嵯多(さだ)⑩、家ニ在リ、次ハ美津、市原染吉ニ嫁ス。
 頃者(ちかごろ)族人、君ガ行歴ヲ状シテ、余ニ其ノ墓ニ銘センコトヲ請フ。乃チ、梗概(こうがい)ヲ叙シ、且ツ之ニ銘ス。銘ニ曰ク、
 
  夙(つと)ニ公益ヲ図リ   肇(はじむ)ムルニ里仁⑪ヨリス
  県ニ郡ニ         報国ノ志伊(まこと)ナリ
  魄(はく)⑫芳シク地ニ帰シ 神(しん)芳シク永ク存ス
  厥(そ)⑬ノ人厥(そ)ノ功   億万年ナラン
            司法大臣従三位伯爵
                   大木遠吉 撰文
     大正十年(一九二一)九月十日
                   布施定子 建之
 
 注 ①亡父のこと。
   ②亡祖父のこと。
   ③焼失すること。
   ④窮民に同じ。
   ⑤救済すること。
   ⑥寄附すること。
   ⑦先祖の墓。
   ⑧月日がすぎること。
   ⑨戒名。
   ⑩「定子」の漢字式表現。
   ⑪郷土の幸福をはかること。
   ⑫魂。
   ⑬「其」に同じ。