彼が地元社会に貢献した仕事の一つに交通網の整備がある。それは当時の県道で現在の国道一二六号線のうち、東金市小野から八街町にいたる区間の改修を実現させたことである。
信が県会議員として活動したのは、三七歳から四一歳までの油の乗り切った、その生涯におけるもっともはなやかな時間であったということができよう。
信は明治一二年(一八七九)四月一四日、山辺郡油井村(東金市油井)に生まれている。父は寛之助、母はフキであった。寛之助は繁之助(信の祖父)の長男、フキは隣村丹尾村の清宮善左衛門の五女であった。橋本家は豪農で油井では随一の資産家といわれていた。それは、代々の当主がいずれも篤農家で、農事に精励し、勤倹よく家政をおさめた蓄積によるところであった。信の祖父繁之助の時代には家屋敷の構えも宏壮で絵図に描かれるほどになっていた。
信の父寛之助の人柄や経歴については不明であるが、村の収入役をしていたというから土地の信望もあつかったものと思われる。信には二人の弟と妹が一人あった。信の幼少時については分からないが、普通以上の教育を受け、しっかりした教養も身につけていたことであろう。明治三一年(一八九八)一一月、信は丹尾村の清宮善兵衛の四女のぶを妻に迎えている。のぶは信より一歳年下であった。清宮善兵衛家は酒造家で近隣に知られた素封家であるが、信の祖母キエ(繁之助の妻)も同家から入った人である。したがって、両家の血縁は深かったのである。
さて、信の公職経歴をたどってみると、明治三九年(一九〇六)二月、二八歳の時に、丘山村の収入役になったのを手はじめに、同四三年(一九一〇)一月、選ばれて郡会議員の地位についている。そして、翌四四年には躍進して丘山村長の要職にのぼったのである。まだ三三歳の若さである。彼の人物がいかに高く買われていたかが分かる。
村長には大正二年(一九二二)まで在職していたが、翌三年村会議員となって、将来の発展のため力をたくわえることにし、大正四年九月、前記のごとく、千葉県会議員選挙に打って出で、見事に栄えある当選をはたしたのである。かくて、同八年まで県政にたずさわった彼は退いて数か月自適の生活をおくっていたが、村民の強い要望に動かされて、同九年(一九二〇)四月、ふたたび村長の職に就くことになり、同一〇年五月まで在任した。
村長の椅子をはなれた後も、村会議員には引続き止まり、昭和一六年(一九四一)一二月の死亡時まで七期二三年間の長きにわたって、村政に参与した。二度の村長職とあわせて、彼が村政の進展につくした功績はまことに絶大なものがあったといえよう。そのほか、政治方面では政友会の相談役や支部評議員をつとめ、また、社会的には日本赤十字社の特別社員や地方森林会評議員などとなって、それぞれ尽瘁するところがあった。
以上のように、彼の生涯はかなりめぐまれたものであった。それは、彼の人柄がきわめて円満で重厚であり、識見もゆたかで人望があったからであろう。おわりに、彼の家庭生活についてふれておこう。彼と妻のぶとの間には、七男三女つまり十人の子宝がめぐまれたのである。これは取りも直さず夫婦がいかに琴瑟相和していたかを物語るものといえよう。
信は昭和一六年一二月二〇日、六三歳で永眠した。彼の後は長男卓が嗣いだが、卓は昭和一九年(一九四四)八月から同二〇年一〇月まで丘山村長の栄職をつとめ、父の名を恥かしめなかった。
橋本信