安田雄輔(ゆうすけ)(県会議員・実業家)

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 明治一三年(一八八〇)一〇月六日、山武郡東金町上宿(東金市東金一三七六番地)、安田助次郎の長男に生まれる。家は「伊勢孫本店」と言われ、代々麹(こうじ)製造販売業および繭糸仲買業を営む東金切っての老舗である。
 幼少から神童と謳(うた)われ、長じて明敏果断の質を備えて、青年時代に早くもその片鱗を現わし、区民に推されて上宿区長を勤め、東金町第一の大区の行政をよく掌握して徴動だにさせず、区政改革の実を挙げ、続いて町会議員に当選すること三回におよび、大正六年(一九一七)から同一一年(一九二二)までその職にあって、地方自治の進展に寄与し、町民からその手腕を高く評価されたのである。
 大正六年(一九一七)五月、折から千葉県会議員補欠選挙が山武郡で施行されるに当たり、同志から推されて政友会から出馬して見事当選し、更に大正八年(一九一九)九月改選の県会議員選挙にも出馬し、ふたたび当選して県政の改革に大いに手腕を振い、従来主張し続けて来た、悪評高い荷車税の廃止を実現させ、また、繭の品質向上のため種々の努力を払ったのである。
 彼は若い頃から雄弁をもって鳴り、少壮政治家としてその前途を嘱望されていたが、惜しむらくは大正一一年(一九二二)五月六日県会議員在職中、病気のため逝去、享年四三歳であった。法名は、「真智院昭徳日雄居士」。東金市台方妙福寺内先塋域内に葬る。
 彼は当時の県政界においては一流の政治家と目されると共に、わが東金町内屈指の実業家でもあり、多端な公事のかたわら、三ツ輪運送株式会社々長、山武郡麹同業組合長、東金繭糸組合長等、幾多の役職を歴任し、東金実業界を指導し、その堅実な発展に大きな足蹟を残している。
 また、大正九年(一九二〇)二月、風光明媚な八鶴湖畔に株式会社山武公会堂を建設している。これは彼の文化的先見性を物語るもので、後世に残した大きな功績の一つである。
 明治維新以来人智は開け、世運は急速に発展し、諸制度も備わり、わが東金は山武郡の政治経済教育文化の中心地として、人士の往来文化の交流が隆盛の一途を辿る状況に鑑(かんが)み、此処に一大会堂を設立してこれに対処せんと企図したのである。
 爾来その解散に至る約四〇年間、この会堂は、時には名士の講演会に演説会に、あるいは諸団体の会合に研修会に、はたまた演芸に映画に、公私の別なく広く活用されて、山武郷土の文化向上に稗益すること多大であったと、深い敬意と感謝を表するものである。

安田雄輔