石橋弥(わたる)(県会議員・公平村長・農民自治連盟会長)

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 弥は明治三一年(一八九八)七月六日、山武郡公平村道庭(東金市道庭)の農家に生まれた。父は彦三郎、母はくらと称した。石橋家は土地の名門で、祖父久米蔵(後、彦三郎と改名)は区長をつとめて令名があり、父彦三郎は警察委員・衛生委員等を歴任し、さらに区長に就任して功績を残している。母くらは山武郡大網町大網(大網白里町大網)矢部哲養の妹であった。弥は長男であったが、姉が二人、妹が一人あった。ところが、弥が一一歳の明治四一年(一九〇八)八月二三日、父彦三郎が四人の子どもを残して死去してしまった。これは、弥にとって大きな不幸だった。母くらの労苦も容易ならぬものがあったであろう。幼少の身で戸主となった弥には、一家を背負う重い責任があったのである。
 性来明敏な弥は、公平小学校を修了すると県立成東中学校に入学し、大正五年(一九一六)卒業したが、青雲の志に燃える彼は、進んで早稲田大学法学部に入り、修学の功成って、同一〇年(一九二一)三月卒業とともに帰郷し、薦められるままに、同九月市原郡海上村分目(市原市分目)岡田輝六の妹能婦(のぶ)を妻に迎え、翌一一年三月一九日、長男一弥が誕生した。すなわち、現衆議院議員石橋一弥氏である。
 帰郷後の弥は家業につとめながら、経世の学を研鑽し、一時、土地の小学校に奉職したこともあるが、やがて上京して警視庁の警部補となり、間もなく辞任して、東金銀行に入ったが、数年で退き、その間、地域青年たちの要望もだし難く、推されて山武郡連合青年団長の地位につき、若き団員の指導育成に当たるとともに、自らも青春を謳歌しながら、貴重な社会体験を積むことができたのである。
 こうして、識見高まり人格も錬成された弥は、大正一五年(一九二六)九月、迎えられて公平村村長の要職についたのである。まだ、数え年二九歳の若さである。そして、昭和三年(一九二八)七月まで、二年一〇か月間つとめた後、惜しまれて退職し、ふたたび家業に従事したのであるが、同六年(一九三一)三月にいたって、同村助役に懇望され、ことわりきれず引受けた。が、翌七年六月、村長に再就任することとなり、同一一年(一九三六)一月まで、四年七か月間在職した。前後計七年五か月間の長きにわたって、村政のために尽瘁したのである。その間の業績は多いが、特に村役場を新築し、小学校の校庭を拡張整備して校舎の増改築を断行し、その面目を一新する等その功績はまことに頭著である。
 更に、村内学童の健康増進に資するため、私費を投じ、他町村にさきがけて、夏期海辺学校を、山武郡鳴浜村本須賀(成東町本須賀)海岸に開設した如きは、当時の教育会に大きな波紋を与えたもので、彼ならではの感が深いものがある。
 
    

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 ところで、当時の農村は非常な危機状態にあった。大正末期から不作つづきで、農民の生活は疲弊をきわめ、何とか打開の方途を講じなければ、農村は破滅に追いこまれることは必然であった。弥は村長の職にあって、農政にたずさわりながら、肌でその危機を感じ取っていた。もともと、知性的で敏感な彼のことだから、保守的な弥縫(びほう)策では、とても救い得ないことを察知していた。抜本的な策を考えなければ、大変なことになるだろうという予感をもっていたのである。彼は山武郡連合青年団長をしていた頃から多くの若き同志と農村問題について話し合い、革新の方向をさぐっていたのであるが、特に、鈴木勝・市原正利・渡辺好忠・外山政雄・子安清一・子安昇らと具体的な打開策を協議した結果、同志の結束による推進団体の結成こそ急務であると、意見の一致を見たのである。
 いったい、昭和六年(一九三一)九月の満洲事変以来、時代は急旋回して太平洋戦争へと突走るのであるが、農村の深刻な不況がそれに拍車を加えたことは事実であり、それに伴って、同七年四月には、橘孝三郎・長野朗らによって、自治農民協議会が結成され、地方へもその影響が及びつつあった。千葉県でもそういう動きがあらわれはじめたが、特に山武地区は旱害がひどく、昭和八年当時は、被害面積が一二、三七六町歩、植付不能面積が三二六町歩に達するありさまであったから、弥らも急進的にならざるをえなかった。同志の中でも、主導的な立場をとったのは鈴木勝であった。彼は農民詩人として知られ、犬田卯(ぼう)・鑓田(やりた)研一らと親交があり、前記の長野朗には深く傾倒していた。そして、農民の自治精神を高揚することこそ新農村建設の要諦であるという主張をもっていた。弥もこれに共鳴していたが、その背景となっていたのは、権藤成卿(ごんどうせいけい)の思想であった。権藤は資本主義の中央集権主義に反対して、農村中心の自治制こそ日本の政治経済機構の中核とすべきであり、都市的工業体制は国を亡ぼすものだと考えていた。弥は昭和七年ごろから、鈴木勝と市原正利とを相談役にして山武郡のみならず、全県的な農民自治の連盟組織を形成すべく運動をすすめることにした。そして、同八年(一九三三)一〇月四日、東金町公会堂において、千葉農民自治連盟の結成大会が挙行され、東京からは長野朗・岡本利吉が参列し、長生・山武・安房・印旛・海上の五郡から三千名の会員が集まった。協議の結果、会長には石橋弥、副会長には有田源、常任委員には、鈴木勝・渡辺好忠・子安清一・外出政雄・子安昇・三上敏・市原正利がそれぞれ就任することとなった。会長はじめ役員の大部分が山武郡出身者であることは、本郡がこの運動の発祥の地たる名誉を担うことを証していよう。
 こうして結成された千葉農民自治連盟は早速、実行運動を展開した。その第一は旱害対策として、政府米貸下げの陳情合戦を行なったのであるが、これは米穀法にはばまれて成功しなかった。ついで、同盟内に配給部を設置して日用品の配給を行ない、また、法律相談所を開設して、顧問弁護士を招いたり、医療部を設けて診療をはじめたりした。以上は、だいたい昭和八年内の活動であったが、翌九年一月には、農民食糧米差押禁止法案の獲得運動をすすめることになり、国会(衆議院・貴族院)に対して、盛んに働きかけた。その結果、衆議院は早く通過したが、貴族院がはかどらず、とうとう二年がかりとなってしまったが、とにかく国会の承認を得ることができた。これには、新潟・長野・静岡等他県の農民自治体の活動も熱心であったが、千葉農民自治連盟の活動は特に目立っていた。「二か年に及ぶこの議会運動期間中、千葉農民自治連盟は先頭に立って大衆動員をくり返し、運動の貫徹に力を尽したことは特記されていいと思う」(「ふるさとと共に」一八五頁)と、鈴木勝はその時のことを回想している。
 ところが、昭和九年(一九三四)一〇月にいたって、連盟の名称が皇国農民自治連盟と改称されることになった。これは戦局の推移とともに、いわゆる皇農戦線の全国的統一が図られ、その大勢に順応した結果であった。それについて、鈴木勝は、
 「初め鈴木の主唱で千葉農民自治連盟として発足したのであって、名称通り農民自治主義を標榜していたが、当時の社会状勢、右翼思想の大きい抬頭の中にあって、次第にその潮流の中に押し流されていった。皇国という名称を冠することには、内部的に可成り抵抗があったが、盟主である石橋弥の強い希望で変更されたものである。」(同一八二頁)
とのべているが、これによると、名称の変更には会長たる弥の強い主張があったもののようだ。なお、この改称は昭和九年一〇月九日の第二回年次大会の際、決定されたのである。
 
    

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 弥が農民連盟の会長となったことは、彼の信望を高め、社会的地位を重くしたことは事実である。そこで、昭和一一年(一九三六)一月、千葉県会議員の選挙が行なわれるや、彼は連盟から推挙されて、山武郡から立候補することになった。そして、見事第二位で当選することが出来、長い間つとめてきた公平村長の職を退くことになった。この年、彼は三九歳の働き盛りであり、農民代表の政治家として、新たな脚光を浴びることになった。連盟では県会毎に多数の会員を傍聴等におくりこんで、支援をおしまなかった。弥は県政の浄化をはかるべく力を入れ、県民世論の重視を訴えたが、その推進のために「県政を語る会」を結成して、県政の動向をチェックするようにした。また、その頃時局の推移とともに、人材が都市に集中して、農村に人的資源が乏しくなる傾向が見られるのを憂え、農村人材の確保を声を大にして訴えた。さらに、戦局の重大化とともに、挙国一致の体制づくりの必要性を唱え、そのために府県会議員選挙を停止するのが適当であることをも提唱した。
 いっぽう、農民連盟のその後の活動は、小さいことでは自転車税撤廃運動・東電譲渡反対運動などをすすめ、大きいことでは政党解消運動の強行に力を貸し、農村民問題としては、村一致運動や肥料確保の運動を推進した。また、連盟の事業としては、千葉農民新聞(農本自治と改題)の発行や講演会・座談会の開催等にも努めた。
 なお、弥は自己の政治的理想を達成するためには、さらに飛躍して国会議員になる必要があると思惟して、昭和一一年二月二日に行なわれた第一九回衆議院議員の総選挙に立候補したのであったが、準備不足のためもあって、惜しくも落選した。そこで、県会議員として引続き勤めてきたのであるが、昭和一五年(一九四〇)一月、次の県会議員選挙が施行された際、ふたたび立候補して、こんどは最高点で当選の栄をかちとることが出来た。県議としては、農村問題にもっとも力を入れたことはもちろんであるが、そのほか、教育問題・土木事業などにも熱意をそそぎ、それぞれ実績をあげている。また、彼の社会的地位が向上するとともに、交友範囲も広まって、前記の橘孝三郎・権藤成卿・長野朗・岡本利吉のほか、安岡正篤・菅原兵治・赤松克麿・小池四郎らの名士とも知遇を得るようになっていった。
 ところが、戦局はますます熾烈となり、有力な同志が次々と応召し、連盟の自治制もこれを保持することが困難となり、加えて内部に種々な事件がおこったりして、その波紋から、弥は同志とはかった末、ついに連盟を解散することにしたのである。そして、昭和一五年九月二五日、左のごとき「解体声明書」を公表した。
 
 「我等は昭和八年十月同志と共に皇国農民自治連盟を結成し、爾来(じらい)八か年間、純農民の結合体として農本自治主義の旗の下に、『農村の興廃は皇国の存亡を左右す』のスローガンを掲げて、疲弊困憊(こんぱい)の極致に呻吟(しんぎん)する農村の更生を叫び、政治の覚醒を促し只管(ひたすら)に国本の基礎工作の為に奮闘してきた。その間、農民食料米確保の議会運動・旱害対策としての政府米貸下げ運動・自転車税撤廃運動など、世に問ひ来った農民としての意志表示は、農業国策樹立のために多大の貢献を果してきたものと確信している。
 今や、世界の大転換期に遭遇し、聖戦の目的達成のために、新体制中央組織が確立せられんとしつつある。而も、地方農村の声頓(とみ)にあがらず、一部小児病者の自薦盲動各所に行はれて、神聖なる運動の遊離せんことを恐れる。正に土に即(つ)き大義に立脚せる真の国民運動の展開せらるべき時なり。徒らに袖手傍観(しゅうしゅぼうかん)すべき時に非ず。茲に於て、吾人はともすれば地方政党の如く誤解せらるる我々の組織を解き、新体制地方組織確立の推進力として奉公のことに誠を誓はんと欲する。
 今かく決意して天下に声明す。遠く八年の闘(たたか)いの跡をふり返り感無量のものあり。新体制とは信念なり、行動なり。百千の語多くとも、何ら翼賛の責務は達せられず。吾人(ごじん)はいまこの信念によって新体制確立のために邁進(まいしん)せんことを誓ふ。
   昭和十五年九月二十五日
                   皇国農民自治連盟本部
               (責任者山武郡公平村石橋弥)
 
時勢はすでに国民の自治自由を許さず、これを圧殺しようとするところまできていたのである。連盟の本来の目標は、ここに書かれているように、「農本自治主義の旗の下に」「純農民の結合体」を結成するところにあったのであるが、戦局の異常転回のために、農村の生活体制が破壊され、農民の真の声もあがらなくなり、かえって「一部小児病者の自薦盲動各所に行はれ」るようなことになってきた。のみならず、連盟そのものが「地方政党の如く誤解」されるような形勢も見えるので、ここに涙を呑んで、連盟を解体することにしたというのである。自治の許されない農民組織は、もはや無意味である。八年間の苦闘も大きな実を結ぶことができないままで、終焉(しゅうえん)を迎えることになったのである。しかし、弥ら山武農民同志の若き理想の灯は、おそらく消えることはないであろう。
 皇国農民自治連盟の解消は、弥にとって無念至極なことであった。そのことは彼の社会的地位をも不安定なものにした。それから間もなく、昭和一六年(一九四一)一月、彼は県会議員を失職することになった。二重の痛手であった。
 かくして、弥は終戦後一〇か月ほどたった昭和二一年(一九四六)四月四日、自宅で病没した。享年四九歳であった。彼の生涯は農民自治運動のために捧げられたといっていい。その仕事は未完成であったとはいえ、日本の農民運動史の上に、彼の名は永久に刻され、不滅の光を放つことであろう。幸いにして、彼の子息一弥氏は父の遺業を立派に継ぎ、衆議院議員としてゆるぎなき地位と高き名声を得ている。まさにこの父にしてこの子ありというべきであろう。

石橋弥