英三は明治一三年(一八八〇)四月一七日、山辺郡関下村(東金市関下)に生まれている。家は農業で資産家であった。父は栄五郎、母はちゑといい、英三は長男であった。父の栄五郎は村の顔役で村会議員のほか、助役や学務委員をつとめ、また、信用組合長などにもなって、単なる農民ではなく、社会性・政治性をそなえた幅のある人柄であった。母のちゑは長柄郡剃金(そりがね)村長島久兵衛の二女で、素朴な良妻賢母的な女性だったらしい。
英三の幼少時のことは分からないが、小学校を卒業すると、千葉県師範学校に入学し、明治三四年(一九〇一)卒業して、郷里の小学校に奉職した。そして、数年を経たのであるが、彼の心内に意識革命がおこり、教職を離れて、一段高い学識を身につけるため東京の大学へ進学しようとしたのである。それは一つの冒険であったが、父を説得して中央大学の法科へ入学することにしたのである。その際彼がはっきりと政治家志望を持っていたかどうかは確認し得ないが、法科を選んだ以上は、教職は捨てるつもりであり、政治家ないし行政家を志向していたろうことは推察できよう。ともかく、中央大学を卒業した英三は、どういう手づるによったか不明であるが、政友会の著名な政治家だった横田千之助の秘書になっているのである。
ここで、ことわっておきたいが、英三の経歴を証すべき資料について生家の渡辺家に質(ただ)してみたが、殆んど皆無の状況なのである。だから、残念ながら抽象的な叙述しかできないのである。横田千之助との関係なども、具体的には何もつかみ得ないありさまなのである。
横田千之助は明治末期から大正時代にかけて活躍した政治家で、明治三年(一八七〇)栃木県足利市に生まれ、いろいろ苦労した末、政友会の領袖星亨に見出されて弁護士となり、明治四二年(一九〇九)衆議院議員に当選し、大正三年(一九一四)には政友会の幹事長になっていた。英三が横田の秘書となったのは明治の末か大正のはじめだろうと考えられる。有力な政治家に近接することは、政界に進出する足がかりを得ることである。その点英三は将来へのステップを確実に踏みしめたことになる。
ところで、渡辺家の長男に生まれた彼は、当然家を嗣ぐべき義務があるわけだから、身をかためる必要性にせまられる。彼は明治三六年(一九〇三)四月二七日、山武郡増穂村南横川(大網白里町南横川)北田元司郎の長女ことと結婚している。ことは英三より六歳年下であった。三六年というと、英三が師範学校を卒業して小学校に奉職中のころである。そして、三七年には長女百合が、三九年には長男信郎が生まれている。こういう境遇の中で英三は中央大学へ進学し、さらに横田千之助の秘書になったのである。その間英三はおそらく東京に下宿生活をして郷里の家族の面倒を見るという、いわば二重生活をせざるを得なかったものと考えられる。なお、彼の父栄五郎は大正七年(一九一八)六月一一日五九歳(栄五郎は万延元年(一八六〇)九月生まれ)で死去しているが、父の元気だった間は家庭の管理もしてくれただろうから助かったと思われるけれども、英三自身の生活もいろいろ苦しいことが多かったものと思われる。
さて、ここで特に書き加えておきたいことがある。それは、英三が有名な宗教家内村鑑三に接触し、その教えを受けていたということである。渡辺家に一葉の古い写真がある。それは、鑑三を正面にそれをかこむ三〇名ほどの男女の集団をうつしたものであるが、おそらく信州あたりで講習会でもあった時の記念写真であろう。(年代は不明)この写真の裏書によるとその中には英三のほか、海保竹松(鳴浜)・高知尾権治(東金)の姿も見える。この三人が東金地方から内村門に従学していたことは注目にあたいするが、英三は海保竹松とは特に親しくしていたといわれる。竹松は山辺郡本須賀村(成東町本須賀)の生まれで、村会議員や信用組合長などをつとめていた名望家だった。英三や竹松がどういう動機で内村鑑三と接するようになったか分からないが、鑑三は人も知るようにキリスト教徒であるが、いわゆる無教会主義者で、きわめて自由なヒューマニスティックな立場をとっていた思想家である。その思想行動が独自的であり尖鋭的であったので、危険思想家視せられていたほどだった。彼の教義は弟子の畔上賢造によって東金地方にも広められていて、何人かの崇拝者(信者)があったことは事実である。英三が鑑三に接したのは「青年時代上京中」(千葉県議会史・議員名鑑八六四頁)であったといわれているが、はっきりその年時をつかむことはできない。が、ともかく彼が鑑三の感化を受けたことは注目にあたいすることで、彼の思想が他の政治家とちがって新鋭なところがあったのも、その辺に起因があったと見られそうである。
英三は大正八年(一九一九)の千葉県会議員選挙に立候補した。これはもちろん横田千之助の後押しによったのである。そして、見事に当選を果たし、待望の県会議員になることができた。時に四〇歳であった。英三の県議就任は隣村丘山村から県議となっていた橋本信(別項参照)がその年辞任したのと入れかわる形になった。
県議となった翌九年四月に、英三は吉植庄亮らとともに千葉立憲青年党を結成している。庄亮はいうまでもなく著名な政治家吉植庄一郎のせがれで、ずっと後の昭和一一年(一九三六)衆議院議員となるが、この時分は父の補佐をしていたにすぎぬが、ともかく英三は庄亮と結んで右の青年党を結成して、その幹事長となったのである。この党のスローガンは「穏健なる政治思想」を重んずることと「普通選挙は尚早」であるとしてこれを阻止しようとするところにあった。このスローガンは一見保守的であり、反動的でもある。どうしてこういう党を結んだか、青年政治家としては逆行的な感じを持たせられるが、実は当時政権の座にあった政友会原敬内閣が数年来激化しつつあった普選実施運動に反対の立場をとり、そのためにこの年すなわち大正九年の二月議会の解散を行なったのである。それを受けて右の青年党を結成したというわけなのである。進歩主義者と見られる英三にしては意外な行動と考えられるが、実は政治の現実に即したものだったのである。
さて、県会議員として英三は諸種の問題に取り組んだようであるが、本来教育畑の人であっただけに、やはり教育問題にかかわることが多かった模様である。師範学校生徒の学費増額の問題、教員特に中等教員の待遇改善の問題などには殊に深い関心をよせていろいろ骨を折った。また、当時大きな社会問題となっていた自由教育の問題については、かなり理解を示し、積極的にこれを支持しようとする姿勢をとったのであった。
自由教育は大正八年から昭和四年(一九二九)の頃にかけて、千葉県師範学校附属小学校主事手塚岸衛を中心に、人間解放の理想の下に個性尊重を最高のテーマとして、人間自らが自らを教育することをねらいとしたもので、要するに教育の画一主義を打破しようとしたものである。英三は附属小学校の授業を参観して深く共鳴を感じ、この新教育法を全国に普及すべきだとの見解を示したのである。これはいかにも彼らしい真摯な姿がうかがえて好感が持たれる。なお、彼は大正八年に千葉県教育会の専務理事に就任して、昭和五年までその職にあったが、自由教育の推進には側面から協力したもののようである。しかし、体制側は自由教育が忠君愛国の国民教育を害するものとしてこれを抑圧する方針をとっていたから、英三も遂にはその線に従わざるをえなかったのである。
英三は大正八年九月から同一三年一月まで県議をつとめたが、次回の選挙には出馬しなかったようである。そして、昭和三年(一九二八)一月の選挙にはふたたび打って出で、二度目の当選を果たし、同七年一月まで在職し、その後は政界を引退した。そして、数年自適の生活をおくり、昭和一一年(一九三六)五月二四日、五七歳をもって長逝した。英三には四人の弟と三人の妹があった。そのうちすぐ下の弟(次男)義三(ぎぞう)は県立成東中学校卒業後、長生郡南白亀(なばき)村(白子町)の長島家を嗣いだが、兄に似て英才で、村長をつとめた後、昭和三年一月、兄と並んで県会議員選挙に長生郡から出馬し、見事に栄職につき、兄弟ともに県政界の花となって活躍したのであった。
渡辺英三