嶋田伊伯(いはく)(徳川幕府代官・雄蛇ケ池造成者)

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 伊伯は徳川幕府の初期、直轄地(天領)となっていた東金の代官を二三年間もつとめた人物で、東金の建設発展のために大きな業績を残した人物である。彼の出自は「寛政重修諸家譜」(第五巻)によると、清和源氏の源頼光の流れをくむ土岐家の支流で、直接の祖は土岐左近将監頼康の次男満貞である。この満貞から嶋田姓(多くの文献に「島田」とあるが、「寛政重修諸家譜」によって「嶋田」の表記をとる)を称するようになった。その後、四代目の十兵衛の時から徳川家康の父・松平広忠に仕えるようになったが、天文一六年(一五四七)四月一八日、徳川氏の居城岡崎城内で反乱がおこり、十兵衛はその鎮圧に努めたが、不幸にして討死した。この十兵衛が伊伯の祖父にあたる。十兵衛の子が右京亮で、これが伊伯の父である。右京亮は広忠とその子家康に歴仕したが、壮年の頃戦場で右手に負傷し、そのため弓矢を手にとることが出来なくなり、家康が織田信長と連合して武田信玄と戦った三方原の戦いには、合戦に参加せず、浜松城の留守居にあたったという。その後致仕して、武蔵国入間郡坂戸というところに閑居し、慶長一八年(一六一三)五月一五日、この地で没した。行年八九であった。右京亮は晩年出家して、法名を永源と称したが、伊伯は後に父の霊を慰めるため、武蔵国坂戸(嶋田家の領地)に永源寺を建てた。
 さて、伊伯は右京亮の子として、その没年から逆算すると、天文一四年(一五四五)に生まれている。彼の祖父十兵衛がそれから二年後岡崎で討死しているので、伊伯もおそらく岡崎で生まれたものと考えられる。伊伯の母(右京亮の妻)は土屋甚助重俊の女である。伊伯の名は重次、通称は次兵衛といった。(普通「治兵衛」と書いている。)以下、彼の経歴を「寛政重修諸家譜」(第五巻)から書き抜いてみよう。
 「東照宮につかへたてまつり、御使番をつとむ。天正十年(一五八二)御銕炮(てっぽう)足軽二千人をあづけられ、十八年(一五九〇)また三十人を加へらる。慶長十九年(一六一四)大坂の役に、御旗奉公となりて供奉(ぐぶ)し、これよりさき、遠江の国のうちにを(ママ)いて采地二千石をたまひ、のち武蔵国入間郡のうちにうつさる。寛永十四年(一六三七)九月十七日、坂戸にをいて死す。年九十三。法名以栢(いはく)。妻は多田慶忠某が女。」
 
家康に仕えて、御使番から足軽頭になったのが天正一〇年というから、彼の三八歳の時である。そして、天正一八年、四六歳の時、足軽五〇人の頭となった。ところで、右の引用文には、その後、慶長一九年までのことが書かれていないが、実はその間が東金代官をつとめた時代なのである。すなわち、文禄元年(一五九二)から慶長一九年(その一〇月から大坂の役冬の陣がはじまる)まで二三年間、彼は東金地域の幕府代官として勤務したのである。(杉谷直道「東金町来歴談」による。)彼の前の代官(第一代)清(せい)彦三郎が天正一八年から同一九年まで二か年つとめた後をうけて、伊伯が第二代の代官として赴任し、二三年という、めずらしいほどの長期間東金代官の任にあったのである。これを彼の年齢によって見れば、四八歳から七一歳までである。初老から衰老期にいたる長い期間であった。そして、代官退任後七一歳の慶長一九年冬、大坂の役に旗奉行を命ぜられて出陣したのである。よほど家康の信頼があったのだろう。大坂の役後、遠江に二千石の采地をもらったが、おそらく伊伯の願いによったものであろう。それがさらに父が眠っている武蔵国入間郡(坂戸)の地に替地となり、晩年は父にならって仏道に入り、法名を以栢(いはく)と称した。この以栢が伊伯に変わったものと思われる。以栢ではむずかしく分かりにくいので変えたように考えられるが、本人が変えたものか、他者が変えたのかは分からない。ともかく、彼はこうして郷里に帰り、寛永一四年(一六三七)九月一七日、九三歳という稀有の高齢をもって永眠したのであった。

水神様

 
    

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 以上が、嶋田伊伯の経歴の概略であるが、何といっても、東金における二三年の長きにわたる代官の仕事がいかなるものであったかが、関心の中心になるであろう。だいたい、東金が徳川幕府の直轄地となっていたのは、天正一八年(一五九〇)から寛永一八年(一六四一)にいたる五二年間と、寛文元年(一六六一)から同一〇年(一六七〇)にいたる一〇年間と、前後二期にわたり、あわせて六二年間であった。この前後二期の中間、寛永一九年(一六四二)から万治三年(一六六〇)までの一九年間は下総佐倉の堀田藩領となっていた。そして、右の幕府直轄の六二年間に、五人の代官が交代したが、その中で一ばん長期の代官をつとめたのが嶋田伊伯であった。伊伯の次に長かったのが野村彦太夫で、彼は前期に一八年間、後期に三年間、計二一年間つとめており、伊伯と彦太夫は特に名代官として領民から敬慕されていたのである。それは二人が、すぐれた治績を残したためであるが、特に伊伯のばあいは雄蛇ケ池の造成など大きな仕事をしたので、歴史的人物として高く評価されているのである。しかし、困ったことには、彼の業績を伝える史料がきわめてとぼしいのである。したがって、彼の事歴について具体的につかむことはむずかしい。
 伊伯の代官時代の主な出来事を年代順に表示してみると、次のようになる。
 
 文禄三年(一五九四)
   東金地方に検地(太閤検地)が行なわれる。
 慶長五年(一六〇〇)
   九月関ケ原の戦がある。
 同六年(一六〇一)
   一二月房総地方に大地震がある。諸国洪水、霖雨。
 同 八年(一六〇三)
   二月、徳川家康将軍となり、幕府を開く。
 同 九年(一六〇四)
   四月伊伯雄蛇ケ池造成工事を始める。この年関東地方に大風雨あり、諸国旱魃(かんばつ)。
 同 一〇年(一六〇五)
   関東地方不作。東金に市東刑部左衛門事件おこる。
 同 一三年(一六〇八)
   関東地方に大雨、洪水。
 同 一四年(一六〇九)
   関東地方旱魃。
 同 一五年(一六一〇)
   大豆谷郷に検地が行なわれる。
 同 一七年(一六一二)
   山口郷に検地が行なわれる。関東地方旱魃、諸国不作。
 同 一八年(一六一三)
   東金御殿造成される。
 同 一九年(一六一四)
   一月九日、家康東金御殿に来泊、一月一六日東金を去る。
   五月五日雄蛇ケ池竣工し、八鶴湖もこの年完成する。
   一〇月大坂冬の陣はじまる。伊伯従軍のため東金を離れる。
 
この年表を見て、まず気のつくことは、慶長一七年までは、連年天気不順で、農業が不作つづきであったことである。つぎには、文禄検地(太閤検地)が何回か行なわれ、農民への規制が強くなったことである。また、政治的には、豊臣政権から徳川政権へと大きな転換があったことである。すなわち、慶長三年(一五九八)八月豊臣秀吉が死去し、同五年九月関ケ原の戦いがあり、同八年二月徳川家康が将軍となり幕府が開かれるにいたった。それによって、東金地方は徳川藩領から幕府領つまり天領にかわった。そのことが、東金人民に天領の民たるプライド意識をあたえ、同一八年に東金御殿が造成され、将軍の御成りがあり、また、「東金町」と称することが出来、城下町たる栄誉があたえられ、それなりに、民政にも力が入れられるようになったことは考えられる。代官としての伊伯の責任も重加したことであろうが、それとともにやり甲斐もあったにちがいない。
 
    

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 伊伯の代官時代は、いわば戦時期から平和期への過渡期であった。関ケ原の戦と大坂の役とがあって、そのための戦力を蓄える必要があった。勢い、人民への締めつけを強くし、苛斂誅求も止むをえぬ政策であった。それも豊作か、せめて平年作の時でもあればともかく、すでに見たように、不作つづきであったから、なかなかの困難が伴ったろうと思われる。しかし、誅求ばかりつづけて、農民の生産力を涸らしてしまっては大変である。特に東金地方は昔から旱損地帯で生産力のきわめて弱いところである。放置したら大変なことになりかねない。用水問題の解決は絶対に必要事であった。ここに、雄蛇ケ池や八鶴湖造成の意義があった。
 雄蛇ケ池も八鶴湖も溜池(ためいけ)である。旱損地帯の東金には溜池が特に必要であった。もっとも、八鶴湖のほうは御殿池とはじめ呼ばれていたとおり、東金御殿の前につくられ、観賞用でもあったが、東金町(農家が多かった)の用水施設として営まれ、約一万坪の広さがあった。雄蛇ケ池のほうは六万坪の広さがあり、八鶴湖よりはずっと広く、一町八か村、すなわち、東金町・山口村・福俵村・田中村・大豆谷村・台方村・押堀村・川場村・堀上村の用水池として造られたものである。八鶴湖は慶長一八年に竣工した東金御殿のあとで造られ、同一九年に完成しているが、これはそれほど手間もかからず出来たようである。だが、雄蛇ケ池は慶長九年に取りかかり、それから一〇年かかって、同一九年にようやく竣成したものである。(この竣成期について、安川柳渓の「上総国誌」には、承応二年(一六五三)に出来上がったと記しているが、この承応二年は嶋田伊伯が東金を離れた慶長一九年から三九年も後のことになる。明らかにまちがいである。)一〇年も費したということは、この事業がいかに困難であったかを物語っている。伊伯の苦労も並み大抵なものではなかったであろう。それを裏書きする史料がないのが残念である。
 大きな溜池をつくるには、まず場所の選択が大切である。その選択の条件は、「地方凡(じかたはん)例録」によれば、
 
 「新溜池を仕立(した)つるに、両方山間(やまあい)にて、谷水・清水などある処の場へ堤を築き立て、水を湛(たた)ふるなり。堤をさへ丈夫に仕立(した)つれば、自然と水溜るゆゑ、仕立て方は格別むつかしきこともなし。山もなき場処に池を掘り立つるは、一通りにては水洩れて用立たず。」(下巻、二三七頁)
 
ということだが、「格別むつかしきことなし」とは言っているが、そう簡単に行くはずもない。しかし、伊伯は選択の眼をもっていたと見えて、恰好の地をえらんだのである。すなわち、彼は雄蛇ケ池周辺の地相を見て、まわりが丘陵地で、谷が割りに深く、東南側が低いので、そこに堤を築けば、かなり広い池が出来ると判断したのであろう。当時は、幕府でも各藩でも開拓には非常に力を入れていて、農業施設の拡充には資金を惜しまず取り組んでいた。したがって、土木技術も著しい進歩を遂げ、特に代官の任にあるものは、その面の専門的知識が必要とされていた。伊伯にも相当の学識と技術力があったものと考えられる。なお、ここで触れておきたいが、彼は財政などにもよく通じていたといわれるが、おそらくそういう力は持っていたであろう。また、彼は陽明学に通じていたともいわれるが、この点はどうかと思われる。というのは、陽明学を日本に普及せしめた始祖は中江藤樹(一六〇八-一六四八 慶長一三-慶安元)であるが、その藤樹が朱子学を捨てて陽明学に転向したのは正保元年(一六四四)のこととされている。しかるに、伊伯はそれより七年前の寛永一四年(一六三七)に没しているのであるから、彼が陽明学を学んだということはちょっと考えられない。ただし、伊伯が学問好きで儒学をある程度マスターしていた事実はあったかもしれない。筆を前にもどすが、伊伯は政治的に社会的に、また技術的にいろいろ考え、多くの人の意見を聞いて、雄蛇ケ池の地を新しい溜池の候補地に決めたが、伊伯の選択が正しかったことは、用水施設の専門学者たる喜多村俊夫氏が、「常総台地の東端、九十九里沿岸平野との接触部に当る丘陵の末端を利用した上総国山武郡雄蛇池」が「江戸初期に好適地を撰んで一大溜池を造築した」(「日本灌漑水利慣行の史的研究・総論篇」一〇一頁)事例として推挙していることによっても証明されるのである。
 しかし、土地の選択がうまく行ったからといって、それだけですべてスムースに行くものではない。これが造成には、莫大な資金と労力とが必要であるばかりでなく、地域農民の自発的な協力、その衝にあたる人の抜群な指導力が要望される。特に一、二年の短期間に完成するはずのない、長期の大工事には、想像を絶する大いなる犠牲が払われるものである。完成までにどのくらいの苦難がつづくか、はかり知れないものがあるはずだ。
 
    

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 雄蛇ケ池造成の必要性を痛感せしめた直接の動機は、慶長六年(一六〇一)一二月一六日におこった房総の大地震であったといわれる。この時、九十九里沿岸には津波が襲い、惨憺たる被害をこうむった。農漁民の家屋田畑は押し流され、死者は数知れず、不作不漁がつづき、ひどい旱害に見舞われ、内陸農村にいたるまで徹底的な打撃をこうむったのであった。(「房総治乱記」「房総軍記」等による)この結果、どうしても大きな溜池をつくる必要性を為政者も農民たちも痛感したのであった。そこで代官が中心となって溜池造成計画に取りかかり、適地の選定をはじめることになったのである。いま、「代官が中心」といったが、こういう場合多くは人民側から強い要望が出て、それを体制側が取り上げるという形になるものである。雄蛇ケ池のばあいにも、そういう経緯はあったことと思われるが、ただそのことがくわしく伝承されておらず、雄蛇ケ池といえばもっぱら伊伯の名ばかりが伝えられているのである。しかし、仕事そのものはとうてい人民の力でやれることではなく、どうしても幕府の力に依らなければならなかったので、勢い代官が中心となるようになったと考えられる。
 さて、伊伯が雄蛇ケ池をつくることに踏み切ったきっかけとして、夢知らせを受けたという話がある。ある夜、泉ケ池の蛇神(雄神)が伊伯の夢にあらわれて、泉ケ池は底知れずといわれた深い池だが、今やその水も涸れてしまいそうだから、ほかに大きな池をつくる必要がある。お前さんがつくる気なら、わたしが協力しよう。泉ケ池には雄蛇神と雌蛇神がいるが、わたしは雄蛇神だ、と告げたというのである。伊伯はこの夢を三夜つづけて見た。そこで、彼は泉ケ池の創設者といわれる砂古瀬(いさごぜ)の中村家をたずねて、いろいろ意見を聞き、雄蛇ケ池開発を企画するにいたったという話である。
 これは、伊伯にまつわる話として有名であるが、もちろん、後人のつくり話にすぎない。伊伯が泉ケ池や中村家のことを知らなかったはずもない。中村の祖先は奥州藤原氏の一族和泉三郎忠衡の家臣筋にあたり、忠衡は源義経に味方したため滅亡したので、中村家の先祖(当主は慶衡と称したという)は、東金地方に落ちてきて、砂古瀬村に住みつき、泉ケ池を造成したという。(泉ケ池の名は和泉三郎にちなむ)伊伯は中村家をたずねて、泉ケ池造成に関する古伝を聞いて参考にしたのである。これは、夢知らせを受けて、はじめてその気になったのではあるまい。
 雄蛇ケ池の土地選定が本決まりとなったのは、慶長七、八年(一六〇二-三)頃だといわれている。その選定にあたって、もっとも困難だったのは、場所の中心に養安寺村があり、農民部落があったので、立ち退きをしてもらわなければならないことだった。養安寺村は現在大網白里町に所属しているが、当時は村高五六六石、(「元禄郷帳」)戸数七六(「上総国村高帳」)ほどの小村であった。このうち、二二〇石の地域を水底に沈めて池をつくる計画であった。そこにどの位の家があったか、推定だが二〇軒ぐらいはあったと思う。それをどこに移転させるかで、いろいろむずかしい問題があった。池敷にされる人たちはやりきれないことでその不満を解決してやらなければならなかった。そのためいろいろ折衝が重ねられた結果、山口村(東金市山口)から一四六石の土地を代替地として提供し、そこへ池敷となる部落の人たちを移住させ、移住費は前記の東金町はじめ八か村で分担するということで話がついた。雄蛇ケ池の敷地とされたのは、養安寺村ばかりでなく、小野村・田中村・山口村にもそれぞれ多少の関係があったが、田中・山口両村は恩恵を受ける側であり、小野村は間接的には受益者であったので、大した問題もなく解決した。ただ、養安寺村だけは、受益者ともならず、いわば犠牲にされた形で、その後もこれがシコリとなって、いろいろとゴタゴタをかもすことになるのである。

雄蛇ケ池

 
    

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 以上は、雄蛇ケ池造成の計画から取りかかりにいたる経緯であるが、その間に種々の困難や障害があり、それを克服するため関係者の払った労苦も多大なものがあったにちがいない。それを実証する当時の資料はないが、それに準ずべき貴重な記録がある。それは、東金市堀上(雄蛇ケ池引用九か村のうちの堀上村)の旧家篠原家に残る同家の家史を綴った「篠原氏系書」の中に、雄蛇ケ池造成のことに触れた記述である。この書は同家の一一代当主静安(俳号葵白、別項参照)が明治五年(一八七二)に書いたものであるが、同家の四代当主宗与(名は修理)の時代に雄蛇ケ池の造成が行なわれ、宗与もこれに関与しており、造成にいたるプロセスについて、次のように記されている。
 
 「宗与庄屋(名主)勤役中、東金御出張御代官嶋田伊伯様の砌(みぎ)り、養安寺村地内を当方用水溜井に取り立つべき企てにて、発起人山口村木島内蔵助、御代官へ申し立て、福俵村庄屋吉原十郎兵衛両人惣代出頭に及び候ところ、一体、無理なる一件に付き、相立ち難く、十二月中帰村。一同九ケ村評議に及ぶの節、右宗与六十八歳、川場村四郎左衛門七十二歳なり。両人進み出で、此の上難渋の場、万一の儀之れ在りては、勤め盛りの者ども不便(ふびん)に存ずる故、我等ども両人惜しむべき年にも之れ無く、末代まで訴へ致すべしとて、十二月二十八日両人家内村役人へ水酒盛いたし、潔く出立。其の頃の風儀と相見え、正月三日朝御老中御月番の御門内に駈け込み、訴訟申上げ、夫れより御吟味に相成り、終に一件勝利を得候ところ、養安寺村残念に相心得、其の後三度に及び右村より願立てに相成り、弥々落着は小野村鶴岡平太夫重立ち隣郷扱ひに立ち入り、山口村より養安寺村へ替地(かえち)差出し、下九ケ村末代までの用水溜井に相成る。」(「東金市史・史料篇一」二九九頁)
 
これによると、造成の取りかかりまでに、大変な苦労のあったことが分かる。雄蛇ケ池の工事は代官請負の幕府主体の事業だったにはちがいないが、人民側もかなり動き、人民側の願出としてはじめられたことが、この記述によってわかる。もちろん、その間、代官のほうから指導を加えたことはあったろうし、代官としても人民側の希望を取り上げるという形式をふむのが当然であるが、この記述によると、関係村々が代表者をえらんで代官に交渉したことになっている。代表者は発起人の山口村木島内蔵助と福俵村吉原十郎兵衛の二人であった。代官は支配地東金に常駐していたわけではないので、二人は江戸駒込追分にあった嶋田伊伯宅へ陳情に行ったものと思われる。ところが、「一体、無理なる一件に付き相立ち難く」帰村したのである。相当無理な願いであったことがわかる。二人は帰ってから関係村々の代表者と評議した。その時、情勢はきわめて困難なので、江戸の老中に直接訴える、つまり直訴(じきそ)するよりほかあるまいとの結論に達した。直訴となれば命を捨ててかかる覚悟が必要だ。そこで、列席していた六八歳になる宗与と、七二歳になる福俵村の庄屋吉原十郎兵衛の二人が、若い者を犠牲するのも気の毒だから、老人の二人が引き受けようと申し出たのである。その時、二人は「我等ども両人惜しむべき年にも之れ無く、末代まで訴へ致すべし」と決意のほどを述べ、家族や村役人たちと水さかずきをかわして、江戸へ出立した。それが一二月二八日のことであった。ところで、この日が何年のことか記載がない。文面の前後を検しても分からない。そこで推察だが、工事にかかったのが慶長九年だから、このことは慶長七、八年頃だったろうと考えられる。
 それから、もう一つ注釈しておきたいことがある。六八歳の宗与のことだが、この人は篠原家の墓碑によると、承応二年(一六五三)六月五日に没している。(行年の記載はない)そうすると、その年の年齢は一一七、ないし一一八歳になっていたことになる。これは長命すぎて、ちょっと信ぜられない。おそらくこれは宗与の父善泰院道修のまちがいではなかろうかと思う。道修は天和三年(一六一七)四月一七日に没している。(これも行年の記載がない)この人は八一ないし八二歳であったと考えられるので、おかしくはない。そこで、以下道修ということで筆をすすめることにする。
 道修と四郎左衛門の二人は、正月三日の朝月番老中の門内に駈け込み訴え(いわゆる門訴)をした。(当時、老中は榊原康政ほか一〇名ほどいたが、そのうち誰であったかは見当がつかない)その結果、訴訟が取り上げられ、老中吟味にかけられ、九か村側の要望が通るようになったのである。つまり、「一件勝利を得」たのだ。「養安寺村残念に相心得」とあるのによって、養安寺村側の反対が最大の障害になっていたようである。養安寺村側ではその後三回も異議申立てをしたが、小野村の鶴岡平太夫そのほか近村の役人らが扱い(調停)に立ち入って、ようやく話がまとまり、山口村から替地を出すことで一件落着に及んだというのである。
 こうして、雄蛇ケ池の造成は、九か村側の強い要望と積極的な行動があって実行に移されたことが分かる。とくに、老中直訴という非常手段が取られ、道修と四郎左衛門の二人の犠牲的精神によって推進されたことを銘記すべきである。嶋田伊伯も人民側のこのような盛り上がりがあればこそ、あの難業も完遂できたわけである。ともかく、「篠原氏系書」の記述は、今までかくされていた事実をある程度明らかにし得て、きわめて効果的だといえよう。
 
    

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 かくて、いよいよ工事に取りかかったのは、慶長九年四月上旬のことであったと伝えられる。しかし、その計画のディテールについては全く分からない。工事はその後一〇年を経て、ようやく、慶長一九年(一六一四)五月五日に出来上がったと伝えられる。けれども、経費がどのくらいかかり、どの程度の労力を要したか、また、どのような苦難があり、それをどう乗り越えたかなどについては、皆目不明である。一〇年の長きを要したのは、いかなる事由によるものであろうか。第一に考えられるのは資金の調達である。幕府の請負い仕事とは言いながら、人民への負荷もさぞ重いものだったろう。関ケ原の戦い、九十九里大地震とつづいた災害の傷あとの癒えない時に始められた大工事であるから、伊伯の心労も深刻なものだったであろう。
 伊伯は困難な時代に、二三年間も代官の職にあり、立派な業績を残した人である。家康からの信頼も深く、住民からも敬慕されていたからこそ、可能であったわけである。雄蛇ケ池の造成を第一の治績として、東金御殿と八鶴湖の造営等、いろいろの仕事をやっている。まず、名代官と言っていい人であろう。ところが、ここに問題になる事件が一つあった。それは雄蛇ケ池の工事がはじまった慶長九年の翌一〇年におこった市東刑部左衛門(別項参照)の抗争事件である。この事件の真相は謎につつまれていて何とも言えないが、一説によると、幕府の検田使が来て、年貢の増徴を要求したが、その年飢饉で人民の窮乏が甚だしかったので、東金の名主だった刑部左衛門は抗議し、それが容れられなかったので、彼は無断で郷倉を開いて人民を救い、みずからは自刃したというのである。こういう事件があったとして、このばあい代官を無視して検田使なる者が年貢の増徴を命ずることが出来るものかどうか。年貢の徴収は代官のもっとも重要な職務であり、また権限である。もし、年貢増徴の命が出たとすると、代官もそれに同調したことになる。そして、増徴命令は雄蛇ケ池の資金問題にもつながりを持っていたと考えられる。すると、刑部左衛門は雄蛇ケ池造成に反対であったかもしれない。しかし、以上は増徴問題があったという仮説の上での臆測である。市東事件が別の問題でおこったとしたら、話は別である。
 雄蛇ケ池は、現在、東金市民の飲料水の水源となっている。いわば、いのちの綱である。伊伯の恩恵はなお生きている。彼を忘れることは許されないのではなかろうか。
 雄蛇ケ池が完工し、多くの村々が水の利便をあたえられたので、伊伯を神に祀ろうということになり、いつの頃かはっきりしないが池を囲む丘上に伊伯を水神として奉祀するため一の祠を建設した。その場所は旅館「きかく」の前の道を西へ向う左側に、かつて研修所があった空地から池の方へ一段低くなって、数本の樹木を低い土手で囲んだところに建てられたものらしい。ここは池を一眸(いちぼう)におさめる眺めのよい場所である。ここに、今、小さな赤屋根の祠があるが、これは昔の水神ではなく、昭和一三年(一九三八)に建てられたもので、中に弁財天を祀ったむねを記した神牌がおさめてある。伝えられるところによると、ここにあった水神はその後廃祠となって消えてしまったのであるが、茂原のある老女が夢にお告げを受けてふたたびここに弁財天を祀ったということである。右の老女の信心は殊勝なことであるが、伊伯をまつった昔の水神(これを土地の人たちは「治神」と称したということだ。治兵衛神ということだろうか。)がいつの間にか消えてしまったとは、なんとしても解せない、残念な話である。

弁天様

 ところが、右の場所から一段下って、池の中に突き出したハナがある。ここを土地の人は弁天のハナと呼んでいるが、ここに昭和三三年(一九五八)三月、当時の布施市長の手によって建てられた、瓦ブキの小社がある。社内の掲示によると、これは右の年時に「再建」したものであるという。「再建」というのは、伊伯をまつった昔の水神の再建という意味だろうと思う。この社のことを土地の人は「弁天さま」と呼んだり、「水神さま」と呼んだりしているが、正しくは「水神さま」というべきであろう。
 また、土地の人たちの話では、雄蛇ケ池のほとり田中の小字蛇首(あざじゃこ)一八九番地にある水門の前手に一本の松があり、その根元に高さ三尺ほどの石碑があった。これが伊伯を記念するものであったが、その後道路改修工事が行なわれたため、今は無くなってしまったということである。
 雄蛇ケ池は、もちろん伊伯一人の力で成ったものではない。しかし、伊伯がいなかったなら、出来なかったものではなかろうか。