前嶋治平(じへい)(東金町長・県会議員・農業功労者)

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 慶応元年(一八六五)三月八日、東金町台方(東金市台方)農業前嶋治助の長男に生まれた。父治助は戸長・郡会議員等を歴任した相当の人物である。治平は人となり剛毅闊達、長じて志を立てて東京に出て法律を修め帰郷の後、更に明治一七年(一八八四)千葉県師範学校へ入学、同二〇年同校を卒業し、以後約一〇年間県下の各小学校で教鞭を執り、専心子弟の薫陶に当たってよくその実績を挙げ、東金町台方小学校長を最後に退職し、以後郷里にあって後進の指導と郷土の発展のため尽瘁した。特に教育・自治・産業の三分野に於ける功績は大なるものがある。
 小学校長退職後は学務委員に推され、また、東金町会議員に当選すること四回、次いで助役に任じられてよく町長を補佐したが、明治三二年(一八九九)九月、千葉県会議員に当選、政友会に所属して活動した。次いで翌明治三三年一二月東金町長に推され、東金町政の刷新に努め、房総鉄道の東金駅までの延長を実現する等地方自治振興のため尽力して大きな実績を挙げている。
 他面、地域の産業発展のためには特に意を注ぎ、山武郡農会長としてその敏腕を揮い、産米の増収・土地改良の奨励・水稲の品種改良等を計っている。また、東金信用購買利用組合を組織してその理事となり、農産物資流通の円滑を図り、今日の農協組合の基礎を確立している。
 更に昭和三年(一九二八)には山武郡養蚕組合連合会長に就任し、当時世界的不況のドン底に喘(あえ)ぐ養蚕業の復興に努力、桑園を改良し、地質を調査し、あるいは肥料の改良を計り、また、指導員の増加や産繭組合の設置を当局に要請してこれを実現させる等、養蚕業の充実向上に貢献し、遂に山武郡下の産繭額をして県下第一位となさしめた磐石の基礎を固めたのである。
 かかる功績に対し、昭和八年(一九三三)三月、大日本農会緑綬有功章を、昭和一二年(一九三七)四月、大日本蚕糸会第二種功績章を、昭和一二年(一九三八)五月、自治制度発布五十周年感謝状並記念品を、それぞれに授与されている。
 なお、地元台方青年館入口には、地元民の建立した「前嶋翁頌徳碑」があり、彼の業績を永遠に伝えている。
 彼は昭和一五年(一九四〇)五月一二日、病のため死去。享年七六歳。法名は本義院功顕日治居士、東金市谷本漸寺先瑩域内に葬られている。

前嶋治平

 
 【参考資料】
   前嶋翁頌徳碑銘(原漢文)
         (東金市台方城西青年館入口)
 前嶋治平翁ハ慶応元年(一八六五)三月八日、千葉県東金町台方ニ生ル。資性剛毅活達ニシテ、人ニ接シテ和煦(わく)タリ。性力兼衆ス。青年ニシテ志ヲ立テ、笈ヲ東都ニ負ウテ、法律学ヲ修メ、明治十七年(一八八四)千葉県師範学校ニ入ル。同二十年(一八八七)卒業シテ教鞭ヲ県下ニ執ルコト十年、育英ニ功有リ、更ニ力ヲ郷党ノ発展ニ致シテ、精励スルコト多年、特ニ意ヲ学水両事ニ注ギ、業績ノ称スベキモノ有リ。
 其ノ閲歴ハ、東金町会議員・千葉県会議員・東金町長・助役・学務委員・山武郡農会長等ノ公職ニ任ズラレ、又、東金信用販売購買利用組合ヲ組織シ、其ノ理事トシテ農村物資ノ需給ノ円滑ヲ謀リ、尽瘁スルコト年有リ。昭和三年(一九二八)十二月、山武郡養蚕組合聯合会長ニ就任シ、斯(し)業ノ難関ヲ打開シ、其ノ進展発達ヲ計リ、或ヒハ桑園ヲ改良シ、地質ヲ精査シ、肥料ヲ選整シ、或ヒハ乾繭(かんけん)組合ヲ造リ、指導員ヲ増設シ、研鑚努力、終始一貫、以テ蚕作ノ安定産繭ノ完璧ヲ期ス。方今非常局下、山武郡ノ産繭額ハ県下産額ノ三分ノ一ヲ占メ、隆然トシテ発達シ、以テ磐石ノ基礎ヲ為(つく)リシハ、君ノ力多キニ居ル。教育産業自治ノ三方面ニ於ケル君ノ功労ハ、偉且ツ大ナリト謂フベシ。
 昭和八年(一九三三)三月大日本農会緑綬有功章、昭和十二年(一九三七)四月大日本蚕絲第二種紅綬功績章、昭和十三年五月自治制度発布五十周年感謝状并記念品ヲ賜ハル。今茲(ことし)君年七十六ニ届キ、神志衰ヘズ、常ニ垂範シテ功ヲ遺(のこ)シ、孜々(しし)トシテ倦ムコト無シ。真ニ後進ノ亀鑑ト為スベシ。
 台方砂郷両区ノ人胥謀(あいはか)リ、地ヲ相シテ碑ヲ建テ、以テ其ノ功労ヲ後世ニ伝ヘント欲シ、来リテ文ヲ余ニ嘱ス。余、誼(ぎ)トシテ辞スベカラズ。乃(すなわ)チ、其ノ事歴ノ梗概ヲ叙シ、繋(つな)グニ銘ヲ以テス。曰ク、
 
  青嶂(しょう)千仭(じん)     龍幹維(これ)繁シ
  沃野万頃(けい)ニシテ      雲鶴翻(ひるが)ヘル
  厥(そ)ノ徳厚渾(こうこん)ニシテ 厥(そ)ノ功源有リ
  桓(かん)碑新タニ立テ      長ク後昆(こうこん)ニ伝フ
                    小高長三郎 撰
   昭和十六年(一九四一)三月十日建
                   台方区並区内有志一同