彼は明治二一年(一八八八)五月三一日、山武郡東金町東金(東金市東金一一七五)、内山禎二郎の三男に生まれる。幼時から剛気闊達、進取果断、義俠心に富むと伝えられ、長じて東金町東金内山伝次郎の養子となる。
明治四一年(一九〇八)二一歳の時、木材業によって身を立てようと志し、東金駅前の後藤製材所跡を買い受けて営業を始めた。
以来、約四〇年にわたる活躍は目覚ましく、寝食を忘れての刻苦勉励の甲斐あって、漸次頭角をあらわし、その成果は大いに挙がり、事業は拡大の一途をたどり、その名声は高まり、大正六年(一九一七)には早くも東金木工組合の役員に推され、同業界に重きをなすにいたったのである。そして、大正一二年(一九二三)の関東大震災の折には、持前の義俠心を発揮して東都へ乗り込み、罹災民の住居新築に協力して大いに喜ばれ、東金内山組の声価を挙げ、これを機に建築土木業を拡張し、建築請負業に手を延ばして成功を収めている。
昭和五年(一九三〇)、工場敷地を現在の地(東金市東上宿四四〇)に求めてここに移転し、その根拠地を確立したのである。
この時期は、満洲事変勃発から支那事変へと目まぐるしく推移変遷し、世代は漸く戦時体制へと移行したが、昭和一五年(一九四〇)、各業界の個人営業は統制化され、木材業界も県単位、ブロック単位となり、関東木材運輸株式会社が設立されるにいたり、彼はその傘下(さんか)に属して内山組合長に就任した。つづいて翌一六年には、千葉県自家用自動車会長に推され、更に一七年、山武郡土建株式会社社長に就任、戦時下における木材の配給・製造・販売・建築等の難事を克服して業界に貢献している。
終戦後は千葉県建設業会理事、千葉県木材組合長を歴任して、県木材業・建設業発展のため尽瘁し、同時に株式会社内山組を、株式会社内野屋工務店と改名し、県下屈指の建設業にまで発展せしめ、今日に至っている。
彼は、また、地方自治行政にも参与し、これに貢献するところが大きく、昭和二六年(一九五一)四月、千葉県議会議員に当選、県政に参与し、特に建設・土木行政面には、永年にわたる貴重な経験を生かして、大きな功績を挙げている。
昭和三五年(一九六〇)七月、折からの東金市長選に立候補して第三代東金市長に当選、つづいて昭和三九年(一九六四)七月、第四代東金市長に再選され、その死に至る四年二か月間市政を掌握し、積極的にこれを推進して、多くの治績を挙げている。
今、その事例の二、三を挙げるならば、従来の公共施設の建築は、殆んど木造建築と規定されていたが、彼の決断によって、鉄筋コンクリート制を導入することにし、以後これに倣って公共施設はすべて鉄筋制を採用するようになり、現在にいたっているのである。
東金市民の永い懸案であった、東金市役所の移転新築の問題は、彼の在任中の一大事業であったが、彼は実に決断よく、いち早くその移転先を東金市東岩崎一の一(現市役所所在地)に決定し、坪五千円でこれを買収して大きな話題を起こしたが、彼のやりかたは実に要所をよく押え、順序正しく事を運ばせているので、大へん好評を博し、その洞察力・決断力、加えて旺盛な実践力は高く評価されたのであった。
次に、国道一二六号線バイパスの建設は、前者に幾層倍する難事業であるにもかかわらず、彼は、永年の体験を生かし、その先見性と的確な判断力と鋭い決断力によって、その大綱を決定して、国および県と折衝して、現在の国道一二六号線施工の基盤を確立したのであるが、不幸にしてその竣工を見ずして長逝したことは、まことに残念至極であった。現在この沿線の殷賑と繁栄を見るにつけ感無量を覚えるものである。
このように、彼は幾多の不滅の社会事業を後世に残しているが、これは、その生来の義俠心に加え、社会公共に対する独得の「報恩感謝」の一念を凝集したもので、しかもそれは、その生涯を通じての献身的な奉仕活動であったことに、深い意義と強い感銘を覚えるものである。
さらに彼は私財を投じて、埋もれた郷土の先覚、義人等を発掘し、あるいはその墓丘を改修整備し、これを内外に顕彰しているが、特筆すべき偉業ということができよう。すなわち、市内道庭石切の大多和四郎右衛門、および東金黒田の市東刑部左衛門、両義人の顕彰碑は彼の建立に成るもので、世道人心に及ぼす影響も大きく、また文化面への貢献も少なくない。
その上彼は、昭和三七年(一九六二)その金婚式に当たって、記念として、中央公民館を自費で建立してこれを東金市に寄贈している。
以上のような輝かしい多くの功績に対し、内閣総理大臣池田勇人・佐藤栄作から、それぞれ褒章を授与されている。その他表彰・賜杯等も数多く下賜されている。
昭和三九年(一九六四)九月一八日病のため長逝、享年七七歳、法名・大鳳院勲光日常大居士。多年の功績に対して、市葬が執行され、本漸寺内、内山家墓域内に葬られた。
内山常治郎