1
素寿は幕末から明治初年にかけて、山辺郡前之内村(東金市前之内)で私塾を開き、附近の子弟の教育に力をそそぎ、人材の育成に努め、隣村の関内村で同じく塾を経営していた今関琴美(山陽琴美・別項参照)とともに、名声の高い学者であった。琴美は備前岡山の生まれだが、天保六年(一八三五)この地へ移って来た人である。それに対して、素寿は土着の人で、年齢は琴美より一七歳ほど上であった。
最近、素寿についての世間の関心が高まっているが、それは、彼が東金の生んだ偉人の一人である蘭医・関寛斎(別項参照)の養父であり、寛斎の人間形成に深甚な感化を及ぼしたことによるのである。素寿の経歴を知る唯一の資料として、前之内の常覚寺(関家の菩提寺)の境門に建つ「製錦堂関先生墓碣(けつ)銘」(参考資料参照)があるが、これは明治三〇年(一八九七)四月の建立で、撰文は佐倉順天堂病院の第三代院長佐藤舜海(しゅんかい)によるものである。舜海は旧名を岡本道庵(本名は兼治)と言い、佐倉藩士の岡本千春の子であったが、順天堂二代病院長佐藤舜海(初代院長佐藤泰然の養子、後、尚中と称した)に師事し、後その養子となり舜海を襲名したのである。関寛斎は舜海の親友であったので撰文を依頼したものと考えられるが、この舜海が実は素寿の門弟であったのである。それは、この墓碣銘の終りの方に「余モ亦嘗ツテ教ヲ先生ニ受ケシ者」(原漢文)とあることによって判明するのである。舜海のような英才が素寿の門から出たことは注目すべきである。寛斎と舜海はともに順天堂で学んだところから知り合ったのであるが、寛斎は舜海より一三歳年長であった。(寛斎は天保元年生まれ、舜海は同一四年生まれ)寛斎は嘉永元年(一八四八)一八歳の時に順天堂に入門したが、舜海はそれから六年後の安政元年(一八五四)一二歳で入門している。そこで、二人の交際が開けたものであろう。年齢的にもずっと上の寛斎は可愛い弟として舜海の面倒を見たのであろう。医学の修業には高度の漢学の素養を必要とする。舜海も幼少時すでに佐倉の塾で勉学は積んでいたであろうが、寛斎のすすめで素寿の塾でしばらく学んだのではなかろうか。舜海も寛斎の学力には敬服するところがあったと思われるし、その寛斎を育てた素寿を慕う気持にもなったものと考えられる。
関素寿の碑(常覚寺)
ところで、墓碣(けつ)銘によると、素寿は前之内の君塚兵左衛門の長子に生まれ名を俊輔と言い、後に素寿と改めたが、「故アツテ関家ヲ冒シ別ニ一家ヲ成ス」とある。生まれた年代のことが書かれていないが、「明治三年七十三ニシテ病没ス」とあるので、これから逆算すると、寛政一〇年(一七九八)の出生となる。「豊成村誌」その他の文献では、みなこの説に従っているが、実はこの説にはまちがいがあるようだ。
結論からいうと、素寿は明治四年(一八七一)四月二六日、七六歳で死去している。したがって、生まれは寛政八年(一七九六)とするのが正しいのである。(生まれた月日は不明である)その根拠となるのは、寛斎が書き残した「家日記抄・三」中の明治四年の項に、
「四月廿六日上総ニ於テ父病死、七十六歳。
但シ、五月廿五日報着。
小杉榲邨ヲ以テ神葬式ヲ行フ。
明治四未年四月廿六日第二字
七十六卒
源朝臣素寿霊璽」
と書かれていることである。当時、寛斎は四国徳島で医業を開いていたが、死亡通知を五月二五日に受け取って、友人小杉榲邨(すぎむら)①を煩わして神式で葬儀をいとなみ、墓標に「明治四年」以下の文字を録したのであった。(「第二字」とは午前二時のこと)これによって、明治三年七三で死んだとしたのは、誤りであるとすべきであろう。
2
素寿は君塚兵左衛門(この家で寛斎の妻アイも生まれている)の長子と生まれながら、他家を嗣いだのはどういうわけか、それは不明である。それから関家を冒して別に家を成したというが、関家は本来「今関」姓であったことが、調査の結果明らかになっている。それは、素寿が「今関」の「今」をけずって「関」と改めたものらしい。なぜそうしたかというと、二つの説が伝えられている。一つは、前記の今関琴美と同姓では、はなはだまぎらわしいので改めたというのである。他の一つは、素寿がついだのは今関家の分家であったが、本家の今関家(現当主今関荘衛氏)との間に争いが生じたので、素寿が同じ今関姓を名のるのを嫌って、関と改めたというのである。いずれの説が正しいかは何ともいえないが、あるいは二つとも改姓の要因を成していたのかもしれない。素寿の剛直な人となりをうかがわせる話である。なお、その頃百姓身分の者は公(おおや)けに姓を名のることは出来なかったから、姓を変える位のことは、あまり問題にならなかったと思われる。
さて、素寿の学問のことだが、彼が誰に学んだかは分からない。墓碣銘には「幼ヨリ学ヲ好ミ、常ニ経文ヲ繙(ひもと)キ、尤モ孝経ヲ重ンズ」とあるが、これによれば独学だと考えられるが、おそらく然るべき師についたものであろう。師の名も分からない以上は、学統なども不明である。古学派に属するという人もあるが、断定は出来まい。彼が「孝悌忠信ノ道」を重んじ、「日用」の学を尊んだことから察すると、実学を奉ずる人であったことは確かであろう。また、彼は非常に親孝行の人であったことは、「老母ニ孝養シ、能ク其ノ心ヲ体シ、未ダ嘗ツテ一日モ定省(ていせい)ヲ怠ラズ」と記されていることからも、彼が徳行の人であったことはまちがいないと思われる。
しかし、彼は単なる道学者ではなかったらしい。しっかりしたバック・ボーンを持つ硬質の人で、富貴にも屈しない、耿々(こうこう)たる反骨の持主だったらしい。関家の資産がどの程度のものであったかは分からないが、おそらく生活はかなり苦しいものだったに相違ないと思われる。しかも、決して卑屈にならず、儒者としてのプライドを守り、人の師表たる道を貫き通したのである。養子の寛斎が四国徳島藩の藩医に迎えられた時も、普通ならば欣喜雀躍(じゃくき)すべきところを、陶淵明に学んで五斗米に屈するなと教えたことなどは、彼が只者(ただもの)でなかったことを示しているといえよう。(この点については、なお別項「関寛斎」を参照されたい)
素寿は塾を開いたのであるが、塾名を「製錦堂」と称した。その名の由来は、「春秋左氏伝」(略称「左伝」)の「襄(じょう)公・三十一」の段にある「子ニ美錦有ラバ、人ヲシテ製(た)ツコトヲ学バシメザラン(子有二美錦一、不レ使二人学製一レ焉)」の語から取ったものらしい。すなわち、錦のごとき人材を育成しようという抱負を示した命名と考えられる。この塾はおそらく素寿の自宅で開いたものと思われるが、その自宅は今残っていない。素寿と同郷の鈴木勝氏の調査によると、「前之内新田地先に関家邸宅跡といわれる土地と墓地があり、戦前まで君塚卓方で管理していたが、戦後、戸田景二氏に譲り渡したという」(「関寛斎の遺跡を訪ねて」房総・一九七八夏号)ということで、家のあった場所は分かるが、家そのものはなくなっている。土地の伝承では、素寿宅は何時のことかは不明だが、火災にあって全焼してしまい、長い間空(あき)屋敷になっていて、村の人々は「師匠様の屋敷」と呼んでいたということだ。(鈴木勝氏「関寛斎の人間像」一八頁)なお、製錦堂の場所について、鈴木氏は「君塚(卓)家邸宅内に学校屋敷といわれる約二畝位の土地があり、旧来桑畑になっていたが、現在は建物が建っている。恐らく素寿の製錦堂跡ではないか」(「関寛斎の遺跡を訪ねて」)とも書いている。さて、こうなると素寿宅と製錦堂との関係はどうなるのか。右の君塚宅で塾を開いたのは、はじめからであるか、それとも素寿宅が焼けてからであるか。鈴木氏は「関寛斎の人間像」の中で、前記の火災のことを書き、そのつづきで「その間前記学校屋敷といわれる君塚卓氏邸宅の一角で塾を営んでいたのではないだろうか」(一八頁)といって、塾は火災前は素寿宅にあり、火災後君塚宅に移したものと見ている。では、火災後は素寿宅はどうなったのかが分からなくなる。塾とともに君塚宅に移されたと考えてよいものかどうか、今のところはっきりしない。
3
製錦堂での教育はかなりきびしく徹底したものであったようだ。読書・習字に力を入れたことはもちろんであるが、日常の行儀作法のしつけには特に心を用い、清掃指導にいたるまでキメこまかく仕込んだようだ。こういう指導法を効果あらしめるために、彼は塾生を年齢・学力・人物等の格差によって、いくつかの段階を設け、先進者が後進者を補導するようなシステムをつくり、たがいに切磋琢磨させることで実効をあげるようにしたのであった。このために、製錦堂の評判は高まり、従学者も相当数に上るようになったのである。
素寿は「幼学訓」なる著述をし、また、「製錦堂百ケ条」という教戒を作製したということであるが、それらがどのような内容のものであるかは、伝える文献が残存していないので、何とも言いかねる。「製錦堂百ケ条」について、戸石四郎氏はその著「関寛斎・最後の蘭医」で、当時幕府から発せられた「御取締箇条書」とその解説たる「教諭諺解(げんかい)」を下敷きにしたものではないかと言っているが、(一〇頁)そういうことは考えられるかもしれない。「御取締箇条書」は文政一一年(一八二八)東金地方に流されており(東金市史・史料篇一」五六二-五八〇頁参照)また、「教諭諺解」は同一二年に流されている。(同、五八三-六〇七頁参照)これらは、農民の心得を詳細に諭したものである。素寿がこれらを参考にしたろうことは想像できるが、むろんそのほかにも儒書などからいろいろな教訓を取り集めて百ケ条に仕上げたのであろう。寛斎が後に「養生心得草」その他を箇条書にしていることが多いのは、素寿の影響だろうと戸石氏はいっているが、そうとも考えられる。
ところで、素寿は人は生れて世の中を裨益することをしなければならないと、子弟を教えていたが、製錦堂では貧乏人の子どもたちにも就学をすすめて、多くの者に教育の恩恵をほどこしていたという。ということは、束修(そくしゅう)などは問題とせずに、奉仕的に教えていたことになる。これは、いわば教育を仁術として行なっていたことになり、寛斎にも深い影響をあたえたのであった。
素寿は製錦堂を何時からはじめて、何時頃まで継続したかは、はっきり分からないが、おそらく一生の仕事として、何十年間にわたって、孜々(しし)営々としてつづけたものと想像される。子弟の数もおそらく千をもって数えるほどであったと考えられる。彼が郷党に及ぼした道徳的感化も、必ずや大きなものがあったことだろう。それについて、明治の初年、官軍の東上に際して、旧幕臣らがいわゆる脱走兵として、東金周辺に乱を起こしたことがあったが、そのため、庶民は動揺して帰趨に迷い、社会不安をかもすようになったけれども、素寿は子弟をあつめて、尊皇の大義をさとし、平静に行動すべきことを説いて、混乱にいたらしめなかったのである。彼の教化力の大きさを示す話柄であろう。
素寿は儒者であったが、敬神の念はあつかったらしい。その人徳を買われたのであろう、前之内の鎮守たる三社大神(天照大神・天児屋根命・誉田別尊をまつる)の神主に任ぜられた。この社は二又・菱沼両村にも氏子をもって広く信仰されていたが、彼が神主になったのは、天保一四年(一八四三)ごろといわれるが、関東取締役から神主用の風折鳥帽子や狩衣などを与えられ、祭礼の時には神事を執行したと伝えられている。(明治四年彼が死去した時、徳島にいた寛斎が神葬式をいとなんだのは、神主の身分をもっていたからである。)
素寿の妻は菱沼村斎藤清左衛門の長女年(とし)子であったが、不幸にして子に恵まれなかった。年子の妹幸(さち)子は中村の吉井佐兵衛に嫁いで長男豊太郎(後の寛斎)を生んだが、豊太郎が四歳の時幸子は不幸にも死別したので、素寿夫妻は豊太郎すなわち寛斎を引き取って養子とした。寛斎は素寿の訓育を受けて成人の後名医となり、四国徳島に遷居することとなり、たびたび素寿を同地に迎えようとしたが、素寿はついに肯んじなかった。その理由として、素寿は寛斎が殿様にペコペコ頭を下げて仕える様を見たくないからだと言い、また、もしいやになったら止(や)めて帰って来いとも言っているのである。反骨者素寿らしい言い草である。しかし、その反面、やさしい情も見せて、寛斎の長男生三を引き取って数年間養育しているのである。(別項「関寛斎」参照)
素寿は非常に読書好きで(常に書冊を手離さなかったといわれる。また、墓碣銘には、「毎日雑事ヲ筆記シ、或ヒハ経解ヲ作リ、或ヒハ詩文ヲ作リ、以テ娯楽ト為ス」とあって、なかなか筆まめな人であったようだ。しかし、彼の詩文等は何も残っていない。素寿は農業に従事しながら、学問に親しみ、子弟を訓化して、一生を送った。彼は一個の百姓学者をもって自任していたのであろう。しかし、川崎巳三郎氏がいうように、彼は「強靱きわまる、不敵なまでの百姓だましい」(「関寛斎」二七頁)の持主であったにちがいないのである。
①小杉榲邨(すぎむら)は天保五年(一八三四)の生まれ。徳島藩の支藩たる稲田藩に仕え、幕末の頃尊皇運動をおこし、幽閉されたことがあった。本居宣長派の国学を学び、明治七年(一八七四)新政府の教部省に出仕、のち東京帝大古典科講師等となる。書道家としても有名、歌人でもあった。明治四三年(一九一〇)三月三〇日没。年七七歳。寛斎は徳島時代、榲邨と親しく交際していた。関家には榲邨の書幅が何点か残されている。
【参考資料】
製錦堂関先生墓碣(けつ)銘(原漢文)
(東金市前之内常覚寺)
先生、姓ハ関氏、俊輔ト称シ、後、素寿ト改メ、製錦堂ト号ス。上総国山辺郡前之内村ノ人、君塚兵左衛門ノ長子ナリ。故有リテ関氏ヲ冒(おか)シ、別ニ一家ヲ成ス。
幼ヨリ学ヲ好ミ、常ニ経史ヲ繙(ひもと)キ、尤モ孝経ヲ重ンジ、人ト談ズレバ、則チ孝悌忠信ノ道ニ及ブ。平居子弟ノ講読ヲ督シ、旁(かたがた)字ヲ書スルヲ教フ。務メテ日用ニ適セシメ、灑掃(さいそう)①応対整飭(ちょく)②セザル無シ。嘗ツテ条目ヲ設ケ、人ヲ誘(みちび)クニ製錦堂百箇条アリ。毎日雑事ヲ筆記シ、或ヒハ経解ヲ作り、或ヒハ詩文ヲ作リ、以テ娯楽トナス。著ス所、幼学訓等アリ。
明治ノ初、徳川氏麾下(きか)ノ諸臣、籍ヲ脱シテ両総ノ間ヲ徘徊シ庶民ヲ煽動スルヲ以テ、先生子弟ヲ会シテ大義ヲ喩(さと)ス。子弟之レヲ聞キ、帖然(ちょうぜん)③トシテ復(また)一人ノ軽挙者無シ。郷党其ノ先見ヲ称ス。
嘗ツテ云フ、凡ソ人生レテハ当ニ常ニ世ヲ稗益スベク、死シテハ速カニ朽ツルニ如(し)カズ、ト。心清貧ニ甘ンジ、窮民ノ子弟ノ学ニ就ク能ハザル者ニ勧奨シテ、孜々(しし)④トシテ訓誨シテ倦(う)マズ。年六十ニ及ビ、養父母ニ孝ニシテ能ク其ノ心ヲ体シ、未ダ嘗ツテ一日モ定省ヲ怠ラズ。明治三年(一八七〇)、七十三ニシテ病没ス。配、斎藤氏、子無ク、同郷ノ中邨(むら)吉井佐兵衛ノ長子寛ヲ嗣トナス。寛医ヲ業トシ徳島藩ニ仕フ。先生之レヲ戒メテ曰ク、苟(いやし)クモ志ヲ得ザラバ、須(すべか)ラク陶彭沢ノ五斗米ヲ辞スルガゴトクスベシ。決然トシテ回顧スルコト無カレ。富貴ニシテ人ニ屈スルヨリハ、貧賤ニシテ志ヲ肆(ほしいまま)ニスルニ若(し)カズ、ト。寛、徳島ニ徒(うつ)ランコトヲ勧ム。先生頭(こうべ)ヲ掉(ふ)ツテ曰ク、汝ノ公務ニ労シ、膝ヲ長官ニ屈スルヲ目ニセンヨリハ、未ダ郷ニ在リテ優游シテ以テ我ガ意ヲ適(たのし)マスノ愈(まさ)レルニ若カザルナリ、ト。
没シテヨリ二十七年、門人教育ノ恩ヲ忘ルルニ忍ビズ、相議シテ其ノ性行ヲ録シ、以テ之レヲ不朽ニ伝ヘント欲シ、来リテ余ガ文ヲ請フ。余モ亦嘗(か)ツテ教ヲ先生ニ受クル者、不文ヲ以テ之レヲ辞スルヲ得ザルナリ。乃チ、其ノ梗概ヲ叙スルコト此(かく)ノ如シ。銘ニ曰ク、
耿介(かうかい)⑤ノ節モテ 分ヲ守リ公ニ報ズ。
郷人ノ則ト作(な)リ、令名窮リ無シ。
明治三十年(一八九七)四月建
佐藤舜海 撰
注 ①掃除すること
②引き締め整えること
③心服するさま
④熱心にはげむこと
⑤堅くしっかりとしていること