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幕末の頃には、幾人かの学者が他地から移って来て、東金の地に住みつき、子弟の教育にたずさわっていたが、琴美もその一人である。彼は「山陽琴美」と名のっていたが、東金市関内の蓮成(れんじょう)寺に、石川鴻斎(こうさい)の撰文に成る彼の記念碑が建てられていて、それには、彼の出自が左のように書かれている。
「翁、諱(いみな)ハ義方、字(あざな)ハ王佐、通称は寿郎、琴美ト号ス。吉備(きび)氏ノ裔(えい)ニシテ、備前国岡山ノ人ナリ。父ハ正教、母ハ馬場氏。文化十年十月ヲ以テ生ル。」(原漢文)
これによれば、彼は備前岡山の生まれで、吉備氏の子孫だという。吉備氏は吉備地方の国造家で、古代には地方豪族として朝廷に対抗するほどの勢力があったが、やがて中央政権に屈伏し、平安初期以後は国司となったり学者となったりして、多くの支家に分かれていたが、琴美がどの血筋に生まれたかは明瞭ではない。彼の父は正教、母は馬場氏の出というが、父の姓を何といったかが、右の文には記されていない。吉備と称したわけでもなかろう。それについて、佐久間洋行氏(茂原市在住、医師漢学者、今関天彭の門人)の調査によると、父の姓は淵原で、父正教は備前岡山藩の儒者であったという。したがって、琴美は淵原寿郎義方と称していたことになる。なお、名を琴美と号したのは、祖先の吉備氏の名を音に通わせたことと、彼が琴を弾ずるのを好んでいたのでこの字を用いるようにしたものだという。また、姓を山陽と称したのは、山陽道の生まれだからであろう。
今関琴美顕彰碑(蓮成寺)
父正教が仕えた備前岡山藩は三一万石の大藩で藩主は池田氏であった。初代池田光政は有名な大名で、寛永九年(一六三二)鳥取から岡山に転封して来て、熊沢蕃山を登用して藩政の改革を行ない、名君の名をうたわれた人である。琴美の生まれた文化一〇年(一八一三)の頃は、光政から数えて六代目の斉政が藩主の時代だった。父正教が藩に仕えて、どの位の禄を得ていたかは不明だが、後年、琴美が東金の関内なる今関家を嗣いで、私塾を開いた際、帰郷して淵原家から相当の金子を持ち帰って塾の経営費に充てたという話があるところから見ると、生活はかなり裕福であったごとく思われる。
ここで、琴美の人柄について書いておきたいが、碑文にはこうある。
「人トナリ慷慨廉潔、毅厳犯スベカラザルノ風アリ。然カモ、優愛能ク人ヲ撫育ス。」
彼は情熱的で英気があり、清廉で真率、しかも毅然として犯すべからざるところがあったが、また、情愛が深い半面もあったという。右は後年子弟の教授あたっていた時分の彼の心象をのべたものであるが、その性格もおおよそ察知できるであろう。
琴美は幼少時、頼山陽の門人・姫井琢堂(ひめいたくどう)について漢学を修業したが、後に藩の経営する郷学(ごうがく)たる閑谷(しずたに)学校に入学した。閑谷学校は全国的に著名な学校で、初代藩主池田光政が延宝三年(一六七五)領内にあった百二十余の手習所を廃止して、岡山県和気郡備前町閑谷に建設したもので、規模も大きく、郷学としては日本中で最も古いものであった。庶民の子弟を主たる対象としたが、武士の子弟でも他領の者でも入学が出来た。琴美はここに入学したのである。
琴美は別に、奥津という学者について国典を学び、また、尊皇の歌人平賀元義について和歌を修めたと伝えられる。奥津のことは分からないが、平賀元義は名高い歌人であった。この人に師事したことは注目すべきである。元義は岡山藩の中老池田勘解由(かげゆ)の臣平尾長春の子で、寛政一二年(一八〇〇)に生まれ、琴美より一三歳の年長であった。元義は直情奔放な性格で、独学で万葉を学び、上代生活に強くあこがれ、尊皇の志が深かった。歌人としては、明治の正岡子規が、「上(かみ)にして田安宗武下(しも)にして平賀元義歌よみ二人」と詠んで、田安宗武とならぶ二大歌人とたたえたことは有名であるが、琴美がこの人に就いたことは、万葉風の和歌を学ぶとともに、尊皇の精神を植えつけられたことが考えられ、重要な意味をもつといえるのである。
陪臣の身分であった元義は、その社会地位の低さに不満をもつとともに、元来の放浪癖も手伝って、天保三年(一八三二)ついに脱藩してしまった。琴美が元義に師事したのもその年までであったことが推察される。琴美は天保三年には二〇歳になっていた。さて、その後の琴美の行動であるが、碑文によると、「業既ニ成ルヤ、笈(きゅう)ヲ負ウテ京摂ニ遊ビ」とあるが、佐久間洋行氏の調査では、江戸の昌平黌(こう)に進学せよとの藩命によって東上の途次、京坂地方に滞留してしまったということらしい。そうすると、藩命を履行せず、罪を犯したことになる。これはゆゆしいことになる。京坂での彼の動向は、碑文によると、
「頼子成(らいしせい)・篠崎小竹(しょうちく)・大塩後素(こうそ)ノ諸名流ト相交リ、日野・錦子路・花山院諸卿ノ門ニ出入シ、居ヲ三条木屋巷(まち)ニ卜(ぼく)シ、徒ヲ聚(あつ)メテ教授ス。居ルコト数年、頗ル時人ノ耳目ヲ惹(ひ)ク。」
というわけであった。有名な学者や公卿と交わったといえば、尊皇傾向を深め行動的になっていったことが想像される。京都の三条木屋町に数年間塾を開いていたというが、かりに彼が岡山を出たのが天保三年かその一、二年前だとすると、年齢では一八、九歳から二〇歳ごろになる。後に彼が東金関内の今関家に入るのが天保六年(一八三五)九月だとされているから、その間三、四年、長くても五年にすぎない。すると、京都三条に塾を開いていたのが数年だといっても、長くて二年くらいの間ではなかったかと思われる。それに、彼は犯罪人である。藩の追手が及ぶのは知れきっている。そう長く、京坂の地にいられるものではない。そこで、琴美は江戸へ下って行ったのである。
2
ところで、琴美が京坂で交遊した人たちのことであるが、頼子成は有名な山陽のことであり、彼は京都三本木にいたが、天保三年(一八三二)には死亡している。山陽は琴美の師姫井琢堂の師であるところからその関係で接したと思うが、琴美が山陽に面晤したのが事実ならば、天保三年もしくはそれ以前に琴美は京都へ入ったことになる。篠崎小竹は大坂の朱子学者、大塩後素は平八郎といったほうが分かりやすい。彼も大坂の人で陽明学者であり、天保八年(一八三七)二月乱を起こして自殺したことはよく知られている。小竹も平八郎も山陽の友人であった。公家のうち、日野は日野資愛(すけなる)、錦小路は錦小路頼徳(にしきのこうじよりとく)、花山院は花山院家厚であろうと思われる。以上の人たちと琴美は交わったというが、短期間の滞留のことだったろうから、さほど深い交際はできなかったであろう。
なお、琴美が京坂を去った起因として、右のような人たちと交わって、尊王倒幕の運動をしたので、幕吏に疑われたためとしている向きがあるが、彼が公家たちと接触し塾を開いていて、しかも素性があやしいとにらまれたことはあったろうが、実際に尊王倒幕運動をやっていたとも思われない。天保という時代から考えても、まだそれほど急迫した情勢ではなかったはずである。むしろ、藩の追捕のほうが問題であったろう。
琴美は藩吏の追捕をのがれて、江戸へ下ることになった。そして、日本橋の長屋に身をひそめることにした。碑文によると、江戸では、朝川善庵・小池曲江らと交わったという。朝川善庵は山本北山の弟子で、肥前松浦侯の儒臣であった。小池曲江は学者とは思うが、くわしいことは不明である。琴美は日本橋にひそんでいるうちに、偶然のことから、上総大網町宮谷(みやざく)の本圀(ほんごく)寺の住職と知り合い、意気投合するにいたった。本圀寺は日蓮宗の檀林のあった名刹で、明治初年ここに県庁がおかれたことはよく知られている。本圀寺の住職は琴美の身の上を聞いて、いたく同情し、いっそのこと大網へ来たらどうかと勧めてくた。琴美は感謝して、そのすすめに従うことになり、本圀寺へ潜居することにしたのである。それは天保五年(一八三四)の終り時分か、天保六年(一八三五)のはじめ頃ではないかと思われる。
本圀寺では、僧侶たちに漢学を教えていたらしいが、そのうちに、これも偶然だが、大網へ絵を習いに来ていた東金関内村の蓮成寺(今関家の菩提寺)の住職と知り合うようになった。この住職がまたなかなか世話好きで、関内の今関文右衛門家の話をし、その娘そよの婿にならないかという話を持ちかけた。今関家はもともと夷隅郡今関郷にあって、寺院の統領をしていた家柄であるが、故あって関内村へ移って来て、代々寺子屋をしていた。土地の人びとからは「匠(しょう)様」と呼ばれて、尊敬を受けていた。匠様とはお師匠様を省略した言い方であろうか。文右衛門ももちろん寺子屋師匠をしていたが、すでに老齢であった。彼にはそよの下に二人の男の子があり、長男が文右衛門(父と同名であるが、おそらく幼名が別にあり、文右衛門は後に襲名したものと思われるが、その幼名は不明である)、次男は登といった。二人ともまだ幼かった。長男文右衛門の年齢ははっきりしないが、彼の長子富徳が嘉永四年(一八五一)に生まれている(江畑耕作「野菊の如き君」八三頁の系図による)ので、その年の長男文右衛門の年齢をかりに二一、二歳とすると、その出生は、天保二年(一八三一)ないし同三年(一八三二)となり、琴美が今関家に婿入りした天保六年(一八三五)には、四歳ないし五歳であったことになる。したがって、長男文右衛門が後嗣ぎになれるのは、あと十数年位は待たなければならないわけである。だから、姉のそよに琴美を迎えて寺子屋をやらせたいという話になったのである。
ところで、この地方にはちょっと面白い風習があった。それは、江畑耕作氏が「この地方では、田畑三町歩以上を所有して小作人や下男下女を使っている上農の家では、長女に学者の婿を迎えて農業をさせずに学問をさせておく風習もあった。」(「野菊の如き君」八〇頁)といっていることである。琴美のばあいもこういう事情が背後にあったものかもしれない。だが、琴美としても、すぐに決心のつく話ではなかったであろう。しかし、うしろ暗い境遇にあった彼としては、生活の安定を得るためにはいたし方ないと思い定めたのである。今関家でも浪人者を入れるのは冒険にはちがいないが、人物がしっかりしているらしいので望んだのであろう。結局、琴美は今関家の人となることになった。天保六年(一八三五)九月のことであった。琴美はこの年二六歳であった。
ところで、琴美が大網の本圀寺に来て、それから関内へ入ったことについて、異説があるので書き足しておきたい。それは、本圀寺からすぐに関内へ入ったのではなく、その間に武射郡上武射田村(東金市武射田)に移り、ここで琴氏塾と称する学舎を開いていたというのである。その村に彼を庇護する人があって、塾をやらせたのであろうが、その人が誰か、またその場所がどこかは不明である。塾を開いていたとすれば、少なくとも数か月は武射田にいたものと考えられる。もしこれが事実とすれば、琴美は大網から武射田へ、武射田から関内へ移ったことになる。しかし、なお検討を要することである。
3
琴美が今関家へ入った当時の同家の資産がどの位あったか、はっきりとは分からないが、琴美の養父文右衛門の孫富徳が家督をついで家計をしくじり東京へ転居した際の不動産が、宅地七畝二三歩、田畑を合せて二町一反四畝一〇歩(二一二アール)あったそうである。(「野菊の如き君」八七頁)それから考えても、文右衛門当時には三町歩程度の土地は所持していたものと考えることはできよう。ともかく、琴美は今関家の婿となって寺子屋師匠をはじめたのであるが、学力は充分にあった人だから、子弟の評判もよく、稲葉黙斎の再来だという評判が立つほどになったという。稲葉黙斎はいうまでもなく、上総道学の教祖で、崎門学派の碩学として一代に尊崇された人であるか、彼は天明元年(一七八一)大網白里町清名幸谷に移居し、多くの門人に教授し、寛政一一年(一七九九)一一月一日同地に没した。それは琴美が関内に来住した時から三六年前のことである。両者の学風・思想ともに大きなちがいはあるが、琴美は青春の意気に燃え、新鋭な学者としての魅力をもっていたであろうから、田園の若者をひきつけるところが大いにあったと思われる。
琴美とそよ夫婦の間には、結婚六年目の天保一二年(一八四一)に長女ことじが、同一三年には次女こときが、嘉永二年(一八四九)には長男富徳が生まれた。いっぽう、義弟の文右衛門は嘉永二年には、すでに二〇歳ごろになっていた。すると、琴美の立場も微妙になってきた。書き後れたが、養父文右衛門は万延年間(「野菊の如き君」八三頁の系図には「万延七年歿」とあるが、万延は元年と二年としかなく、二年の三月一八日には改元されて文久元年となっている。)に没している。そのあとを誰が嗣ぐかが問題になる。しかも、義弟文右衛門は体が虚弱であった。琴美は自分が身を引いて、備前に帰るのがよいと考えたもののようである。その後の経緯について、江畑耕作氏は次のようにのべている。
「文右衛門(義弟)が成長して一人前の教士の資格を得たときには、すでに琴美は岡山藩から赦免されていたので、自分が今関家にいるのは、義弟の将来のためにならないと、妻子を連れて郷里の岡山に帰った。だが、琴美の徳を慕う門弟の声に押されて、文右衛門は岡山まで琴美を連れ戻しに行った。二人の間で、寺子屋の相続をめぐり、伯夷叔斉(はくいしゅくせい)の故事さながら互いに譲りあったが、結局、琴美は郷民の要望に応(こた)えて関内に帰ってきた。その時、生家の淵原家から、相当の金子(きんす)を持ってきて私塾の経営に当てた。」(「野菊の如き君」八六-八七頁)
義弟文右衛門が「教士の資格を得た」というのが、具体的にどういうことだったが分かりかねるが、おそらく誰か適当な師に就いて学び、認可を受けたものであろう。また、琴美が岡山藩から赦免になったというのも、何時どんな形が取られたか不明である。ともかく、琴美は妻子をつれて郷里岡山へ帰った(年時は分からない)けれども、門弟たちが彼を慕い、強く帰来を求めたので、義弟文右衛門が岡山へ琴美を迎えに行った。そこで、情にほだされた琴美は生家からそこばくの金を持って、ふたたび関内にもどってきたのである。門弟たちはもちろん大喜びであったろう。これには、義弟文右衛門が病弱(医師である江畑氏は結核であったとされている)であって課業に堪え得ないところがあったという事情も存在したためである。事実、文右衛門は文久三年(一八六三)には病死してしまうのである。その時、彼は三一、二歳であったと思われる。--江畑氏の筆はさらにつづく。
「琴美の再来は今関家にとって幸運であった。文右衛門が間もなく早死し、その妻が実家に帰ってしまったからである。残された子供の英徳は琴美の子として育てられ、のちに医者になって大網町で開業した。」(同八七頁)
文右衛門の死によって、琴美は事実上今関家の後取りとなった。文右衛門の子の英徳を引き取ったから、琴美の子は四人となったわけである。なお、実家に帰った文右衛門の妻は結核の相互感染で間もなく死亡したということだ。
4
やがて、明治の代を迎えたが、明治元年(一八六八)一一月、遠江掛川藩主太田備中守資美が松尾藩主に封ぜられ、上総国山辺・武射両郡において五万三千四百石を領することとなり、関内村もその版図(はんと)に入った。藩主は教育の充実にも力をそそぎ、教養館なる郷学校を設立したが、琴美は教授として迎えられ士格に列せられた。しかし、同四年(一八七一)七月、廃藩置県が発令されて松尾藩が廃せられると、琴美も退いて、山辺郡学区取締を命ぜられたが、間もなく辞任して、武射田学校で教鞭を取るようになった。そして、同一二年(一八七九)六月には、成東学校の訓導に任ぜられて教務をつづけたが、同一九年(一八八六)六月、公務から身を引いて、関内村に私立向道学校を興し、塾教育に専心することにした。すでに彼も七四歳の老齢である。しかし、教育への情熱はいささかも衰えるところがなかった。当初の寺子屋から向道学校にいたるまで彼が教誨した門人は二千人にのぼるとされるが、こうして、明治三三年(一九〇〇)一〇月、八八歳の長寿をもって永眠するまで、教育一途の歩みをつづけたのである。天保六年(一八三五)関内の地をふんでから、実に六五年である。草野に埋もれたさびしい生涯ではあったが、「其ノ門ニ入ル者、慈父ノ如ク敬慕セザルハナシ」(碑文)と称されたように、四隣の人びとの敬愛の的となり、充実した生活をおくったことは幸福といわなければならないだろう。
琴美は学問教授のかたわら、読書・著述に親しんでいた。碑文にも「暇アレバ常ニ著述ヲ以テ楽シミトナシ」とあり、また、「書ヲ著スコト等身、以テ法言(ほうげん)①ニ比ス」ともある。それらの著述は、ほとんど散佚してしまっている。筆者の目にしたのは、わずかに「倭蒙求(やまともうきみう)」「琴美学論」「皇国誌」「長松余弦」「農業帖」「当校必読」などという小冊子にすぎない。彼はまた平賀元義から指導を受けて、和歌を詠ずる趣味もあった。今、わずかに残っている彼の作を、左に示してみよう。
あら玉の春の朝旦(あした)の若水をすずりにうけてかき初(む)るふみ
明治三十年(一八九七)孟春元旦
八十五叟(そう)
山陽琴美
○
富士のゆきにほふ初日のおもかげは三国ひとつの栄(え)なるかな
戊戌(明治三年)(一八九八)試筆の二
八十六叟
○
明治三十二年(一八九九)春、矍鑠(かくしゃく)②八十七歳新試筆
久かたのはるの光りを積みつみて八十(やそ)ななつなる歳をいはひぬ
己亥(つちのとい)元旦試筆
山陽琴美
いずれも最晩年の元旦の歌である。歌は平凡で、平賀元義の歌風に比すべくもない。ただ、これらの歌をとおして、彼が老いてますます元気旺盛であったことが分かる。
なお、彼は琴美と称したごとく、音楽趣味があって、琴その他の楽器を奏して、音律雅声の風流をよろこんでいたようだ。僻村に住んでいたことであるから、たくさんの友人は得られなかったかもしれないが、それでも、吉井宗元(田間村の学者(別項参照)、佐瀬春圃(しゅんぽ)(東中村の学者)、竹内場園、大関剣峰(家之子村の学者)らの知友がいて、彼をさびしがらせなかった。佐瀬春圃は成東の生んだ歌人伊藤左千夫の師であった人で、琴美とは特に親しかった。春圃の墓碑文は琴美の筆に成るものである。
ついでに記せば、今関家と伊藤左千夫の家とは縁戚関係にあった。すなわち、琴美の義弟登(文右衛門の弟)が、伊藤重左衛門(左千夫の祖父)の養子となり、その娘くまと結婚しているのである。登とくまの間に生まれた広太郎が左千夫と腹ちがいの兄になっている。登は弘化四年(一八四七)死んでいるが、やはり結核だったらしい。
注 ①「楊子法言」ともいう。一三巻から成り、中国漢代の儒者揚雄(ようゆう)の著書。漢代には高く評価され尊重されていたが、後代ではあまり買われなくなった。
②老いても丈夫で元気なこと。
【参考資料】
山陽琴美ノ碑(原漢文)
(東金市関内水神社境内)
文翁①ノ蜀②ニ至ルヤ、仁愛ニシテ教化ヲ好ミ、以テ後進ヲ誘導ス。漢武ノ世、校ヲ立テ業ヲ授ケシハ、蓋(けだ)シ、文翁ヨリ始マルト云フ。
琴美翁ノ総ニ来ルヤ、子弟ヲ教誨スルコト凡ソ二千人。其ノ没スルヤ、門人追慕シテ将ニ碑ヲ樹(た)テ以テ祭祀セントス。今ニ於テ郷人文雅ヲ好ムハ、皆翁ノ化スル所。顕晦(けんかい)③同ジカラズトイヘドモ、其ノ仁愛ニシテ教化ヲ好ムハ、文翁ト相異ル無キノミ。
翁、諱(いみな)④ハ義方、字(あざな)⑤ハ王佐、通称ハ寿郎、琴美ト号ス。吉備氏ノ裔(えい)⑥ニシテ、備前国岡山ノ人ナリ。父ハ正教、母ハ馬場氏、文化十年(一八一三)十月ヲ以テ生ル。幼ニシテ学ヲ姫井琢堂(たくどう)ニ受ケ、後、閑谷(しずたに)学校ニ入リ、又、奥津氏ニ従ツテ国典ヲ学ブ。業既ニ成ルヤ、笈(きゅう)ヲ負ウテ京摂ニ遊ビ、頼子成・篠崎小竹・大塩後素ノ諸名流ト相交リ、日野・錦小路・花山院諸卿ノ門ニ出入シ、居ヲ三条木屋巷⑦ニトシ、徒ヲ聚(あつ)メテ教授ス。居ルコト数年、頗ル時人ノ耳目ヲ惹ク。覇吏⑧ノ嫌忌スル所トナリ、避ケテ江戸ニ至り、朝川善庵・小池曲江等ト相親シミ、遂ニ去ツテ上総宮谷(みやざく)ニ流寓し、又、同国関内邑(むら)ニ来ル。実ニ天保六年(一八三五)九月ナリ。是(ここ)ニ於テ、居室ヲ以テ黌(こう)舎⑨トナシ、専ラ生徒ヲ教授ス。遠近ヨリ麕至(きんし)⑩シ、皆学ニ嚮(むか)フヲ知ル。
明治維新ノ初、太田侯松尾ニ移封シテ、此ノ郷版図(はんと)ニ属シ、藩立郷学校ヲ興ス。乃(すなわ)チ、翁ヲ擢(ぬきん)デテ教授トナシ士格ニ登(のぼ)ス。六年(一八七三)、廃藩置県に及ビ、山辺郡学区取締ニ任ジ、幾(いくばく)モ無ク辞シテ小学校授業生ニ補シ、武射田学校ヲ管セシム。十二年六月、成東学校訓導ニ任ジ、十九年六月私立向道学校ヲ興シ親シク之レヲ督ス。三十三年(一九〇〇)十月、偶疾ヲ得テ家ニ没ス。享年八十有八。豊成村蓮成寺塋域(けいいき)ニ葬ル。
翁、天保六年始メテ校ヲ興セシヨリ、子弟ヲ教育スルコト此(ここ)ニ六十余年。暇有レバ常ニ著述ヲ以テ楽シミトナシ、其ノ功其ノ績、偉且ツ大ナリト謂(い)フベシ。人トナリ慷慨廉潔、毅厳犯スベカラザルノ風アリ。然カモ優愛能ク人ヲ撫育ス。是(ここ)ヲ以テ其ノ門ニ入ル者、慈父ノ如ク敬慕セザルハナシ。配(はい)⑪・今関氏、一男二女ヲ生ム。富徳後ヲ承ケ、孫寿麻呂東京ニ来リ、屡(しばしば)余ガ門ヲ訪レ、因リテ状ヲ携ヘ銘ヲ乞フ。辞セズシテ之レニ銘シテ曰ク、
六経(りくけい)⑫ノ奥ヲ探リ、百家ノ源ヲ極メ至誠至忠、世渾(せこん)⑬ヲ清メント欲シ、〓〓(ちゅんてん)⑭シテ志ヲ衷(うしな)フ。遂ニ僻村ニ隠レ、後進ヲ誘導シ、学ヲ興シ門ヲ構ヘ、書ヲ著スコト等身、以テ法言⑮ニ比ス。二千ノ子弟、四隣恩ヲ蒙(こうむ)ル。時ニ音律ヲ喜ビ、琴(そん)ヲ鼓(こ)し〓(そん)⑯ヲ傾ケ、球ヲ鳴ラシ玉ヲ戛(う)ツ。雅声長存シ、総山⑰〓〓(りんじゅん)⑱トシテ、総水潺湲(せんかん)⑲タリ。斯(ここ)ニ貞珉⑳ニ勒(ろく)21シ、永ク英魂ヲ慰ム。
明治三十七年(一九〇四)七月
関東学人
鴻斎 石川英 撰文
注 ①周の文王。武王の父、徳の高いことで有名な君主。儒家の手本として仰がれた。
②中国四川省の地方を昔、蜀といった。
③はっきり分かっていることと、かくれてよく知られないこと。
④人の本名を死後には「いみな」という。
⑤本名のほかの別名
⑥子孫
⑦京都三条通り木屋町
⑧幕府役人
⑨校舎に同じ。
⑩たくさん集まってくること。
⑪妻
⑫六つの経書。易経・詩経・書経・春秋・礼記・楽記をいう。
⑬世の乱れ
⑭ゆきなやむこと。
⑮儒教の教えにもとづく正しいことば。
⑯酒樽。
⑰上総の山々
⑱重なりつらなるさま
⑲水が音立てながら流れること。
⑳美しい石
21きざむ
〔なお、文中の人物については、本文中の説明によられたい〕