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誠斎は幕末も明治に近い頃の人で、押堀の農家に生まれ、当時の最高学府であった昌平校(聖堂)に学んで学者としての力を蓄え、郷里で塾を開いて多数の子弟を教育したが、時代の荒浪に呑まれ、真忠組騒動に巻きこまれて、悲劇的な最期を遂げた人である。したがって、彼ははなやかな成功者ではなく、不遇な失敗者である。いわば、時代の犠牲者であり、むしろその悲劇の中にこそ意味があるということができよう。誠斎と同じ押堀の生まれである志賀吾郷は、その著「東金町誌」の中で、誠斎について、こう書いている。
「誠斎は本町(東金町ということ)押堀の人。青年笈(きゅう)を負ひて江戸に出で聖堂に学び、学成って後、領主大久保駿河守に仕へ、其の後文政十年(一八二七)より文久三年(一八六三)に至る数十年間、私塾を自邸に開き、門弟一千五百名の多きに達す。当時中産以上の子弟にして来り学ばざるものなく、門前常に市(いち)を為せりと。儒家にして書家たり、著書少からず、書亦今に尊重せらる。元治元年(一八六四)慷慨(こうがい)時事に感ずる所あり、自殺す。立善寺に葬る。」(二〇三頁)
聖堂というのは、江戸湯島の聖すなわち昌平校のことである。誠斎のような百姓のせがれが昌平校に入るのは容易なことではない。彼が相当の秀才であったことを物語っている。業終えて、領主の大久保駿河守に仕えたとあるが、駿河守は押堀村(村高四二二石余)の地頭であった。駿河守は誠斎の才能を見込んで、将来は自分の手元で使うつもりで昌平校に推挙し入学せしめたものであろう。大久保家は五千石の大旗本であった。誠斎が大久保家の家臣となり得たことは大きな幸運だったにちがいない。一介の百姓から武家身分に上昇できたのだから出世にちがいない。ところが、どういうわけか、彼はその地位をはなれて、郷里で塾を開いたのである。その理由を吾郷は書いていないが、疑点の一つである。しかし、塾は繁昌したようである。門前市をなすとは少し誇張があろうが、東金あたりからもかなりの入門者があったらしい。新宿の杉谷直道(別項参照)や田間の生んだ名士のひとり小安正徳なども入門者である。塾については改めて後述することにしたい。彼は儒者としても書家としても遠近にその名を知られるようになったけれども、吾郷は誠斎が自殺したと書いている。これは大きな問題である。それはなぜだったろうか。吾郷は「慷慨時事に感ずる所あり」と記しているが、これでは抽象的すぎて、理解に苦しむ。これについては後でくわしく触れるつもりである。
高宮誠斎の書
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誠斎の家は押堀村新田にあり、持高六石の農家であった。彼の名は幸助、父ははじめ孝助といったが、後に文右衛門と改めた。しかし、誠斎の生年がわからない。ただ、死没が元治元年(文久四年)一月三日であることは分かっている(後述)。ところで、彼には昭明という弟があった。養子に行って鳥居姓を名のっていた。彼に似てなかなか秀才であったようだ。志賀吾郷は「東金町誌」に
「鳥居白海、字は昭明、誠斎の弟なり、学識筆力阿兄に劣らず。壮年江戸に遊び、鳥居家の養子となり、銀座街に門戸を張り子弟を教育す。亦、一家の儒者として都下に名声あり。」(二〇三頁)
とのべている。鳥居家はどういう家かわからないが、白海と号して、江戸の銀座で儒門を張ったというから相当のものだったようだ。壮年江戸に遊学したというが、何という学者についたものか不明なのは残念だ。誠斎にこういう弟があったことは注目すべきである。地方の農家に生まれた秀才の兄弟がたどった道、弟は江戸で儒者になって成功したのに、兄は田舎で塾を開きながら時流の中で不遇な終りを遂げた。皮肉な運命というべきであろうか。
ところで、筆者は最近押堀の志賀家の家譜を見る機会を得たが、それは吾郷自身の書いたもので、それによって、吾郷の父勘兵衛は初名を半蔵と言い、高宮誠斎の弟であることが分かった。(志賀家の当主は勘兵衛を襲名していた)つまり、誠斎と吾郷は伯父、甥の関係にあり、誠斎には前記の鳥居白海のほかにもう一人半蔵という弟があったのである。それについて、吾郷の書いた志賀家の家譜には、
「半蔵ニ二兄アリ、長兄ハ学者、書道ニ巧ミナルコトハ世ノ知ル所ナリ。誠斎是レナリ。(中略)次兄徳蔵ハ兄ノ隣地ニ分家シ」
と記されている。すなわち、これによって、誠斎が長男、徳蔵(志賀家では徳造と書くのが正しいとしている。以下「徳造」と書く)が次男、そして、半蔵が三男となる。その半蔵について家譜には、
「半蔵、新田高宮文右衛門ノ三男ニ生ル。十八才ニシテ志賀家ニ聟入リス。」
とあって、十八歳の時、志賀七郎兵衛の養子となり、家附の娘ちよと結婚し、やがて吾郷(幼名政之助)を生んだことになる。半蔵は義父七郎兵衛の死後志賀家を嗣ぎ、勘兵衛を名のることになるのである。
次に、徳造であるが、この人が前記の鳥居白海のことらしい。徳造すなわち白海は前引の家譜に「兄ノ隣地ニ分家シ」とあった通り、一応分家したけれでも、向学の志が強かった彼は、これも前引の「東金町誌」の記事に「壮年江戸に遊び、鳥居家の養子となり」と書かれてある通り、江戸へ出て鳥居家の養子となったのである。
ここで、誠斎の塾経営についてのべることにしよう。彼は江戸へ出て、大久家に仕えたのであるが、如何なる事情があったか、郷里に帰って塾を開いたのであるが、その経営には全力をそそいだようである。教えたのは漢学と書道であったが、子弟も多く集まり、相当に隆盛であったようだ。それについて、例の家譜には、
「先生(誠斎のこと)ハ新田(押堀村)ノ自宅ニ於テ私塾ヲ開クコト年久シク、郡内又ハ四隣郡ヨリ入門スルモノ甚ダ多ク、地方稀ニ見ル先生ナリ。常ニ門前人馬ノ絶ヘルコトナカリシト云フ。」
と書かれている。郡内とは山辺郡内ということであるが、他郡からも入門があったとすれば、かなりその数も多かったろうと思われる。前引の「東金町誌」では千五百名の多きに達したとし、開塾期間も文政一〇年(一八二七)から文久三年(一八六三)におよんだとしている。すなわち、三六年間にわたったとしているのである。この文久二年までつづいたとしたのは、後に述べるように、誠斎は文久四年に死去しているので、それまで塾経営を継続していたことになる。誠斎の享年は不明であるが、彼はその生涯の大半を子弟の教授に捧げたといってよいのではなかろうか。
ところが、誠斎の塾は彼の死後も弟の徳造すなわち白海によって引継がれていたらしい。それは、家譜に
「徳蔵(ママ)ハ兄ノ隣地ニ分家シ、兄無キ後ニ其ノ志ヲ継イデ、地方ノ子弟ノ教育ニ従事セシモ、明治ノ始メニ学制改革ト同時ニ其ノ私塾ヲ中止シタリ。」
とあるのによって知れるのである。学制発布は明治五年(一八七二)であるから、誠斎の死後八年間は徳造が遺志をついで教授にあたっていたことになる。すると、徳造が江戸へ出たのは明治五年以降のことであり、その年齢もおそらく三〇歳を越えていたことであろう。「東金町誌」が「壮年」といっているのもおおむね符合することになる。誠斎・徳造の兄弟はいずれも農民出身の学者として名を成したのであるが、半蔵は学者とはならなかったが、その子に吾郷のごとき人物が出たことは偶然ではない思いがする。
さて、誠斎の生涯については不明なことが多いが、その消息をある程度うかがえる資料としては、押堀高宮(押堀には高宮姓の家が多い)家の本家といわれる高宮三男家に伝えられる「高宮家々譜」(「東金市史・史料篇一」所収)と真忠組騒動に関する文書(「東金市史・史料篇一-四」所収)もう一つ志賀吾郷の書いた「村方大事件」という書物がある。それらによって、彼の人生行路を追ってみることにしよう。彼の行路には三回のヤマがあったように思われる。その第一回は文政年間押堀農民が出訴事件をおこした時のことである。第二回は弘化四年(一八四七)押堀村民間におこった内紛(村方騒動)事件の時のことである。第三回は文久三年(一八六三)から翌四年(元治元年)にかけて真忠組騒動がおこった時のことである。
押堀村は小村で生産力が低く、村の実権は代々名主の高宮本家に握られている感があり、領主へも度々献金しているので、その関係も密接であった。その反面、他の農家は貧苦にあえいでいて、文化年中(一八〇六-一八一七)には度々旱害に見舞われて不作がつづき「村内小作人も至って風儀あしく、大勢徒党いたし」「文化の中頃小前三十八人出訴いたし」という状況となり、文政年間(一八一八-一八二九)になって、「又々小前四十人徒党いたし欠け出し候」という事態となった。出訴というのは江戸の領主邸に押しかけて訴訟することだが、しかし、領主側のきびしい対応によって、出訴人たちは捕えられ、ひどい目にあわされて敗北に終わってしまったのである。(以上「高宮家々譜」による)これが文政何年のことかかわらないが、こういう空気の中にいた誠斎の意識が問題になる。どうも誠斎にはエクセントリックなところがあったらしい。彼に「癇症病」があったことを「家譜」は伝えているが、物に激しやすく反抗的な性向の持主だったように思われる。そして、自分の低い社会的地位から貧農に同情しがちな面があったのではないかと考えられるのである。右の出訴事件に彼が直接拘わった証拠はないが、シンパ的な立場をとった可能性がありそうである。彼は領主の家臣となったがそれをやめて、文政一〇年(一八二七)から郷里で塾をはじめているが、その起因には彼の執った態度が領主に忌避されたということがあったのではないかと想像される。それは、次の第二、第三回の事件における彼の行動から類推してみた結果でもある。
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第二回のヤマは弘化四年(一八四七)、今度は誠斎自身が主役となって、高宮本家の主人で名主の藤十郎を押領のかどで訴え出た事件である。すなわち「家譜」によると「弘化四未(ひつじ)年十二月、些細の遺恨にて幸助(誠斎)より押領私欲の旨其の外箇条書出入(でいり)懸けられ」たのである。(「出入」とは抗議、けんかのこと)そこで、上谷(うわや)村や福俵村から立会人を頼んで帳簿類を調べたところ、少しも不正はないことが分かり、誠斎は江戸へ呼び出され、手鎖の刑に処せられたのである。この当時は、各村で今まで権力を握っていた上農層に対し、中・小農層がレジスタンスを企て、年貢などに関する不正をあばき、それによって、上農層の権力を奪取しようとする、いわゆる村方騒動が頻繁におこっていたのである。誠斎はその気運に乗って、村における自己の支配力を強めようとはかったのである。しかし、見事に失敗してしまったのである。これは、はっきりと彼の反抗心のあらわれといえよう。「家譜」では誠斎がもっぱら悪人にされているが、真相はどうであったか、それも謎である。
第三回のヤマは、誠斎が真忠組と関係した事件で、これが彼を決定的な悲運に追いこんだのである。真忠組は楠音次郎・三浦帯刀が首領となって結成され、貧民救済を名として攘夷の決行を企図していた集団である。結局、文久四年(元治元年、一八六四)一月一七日、幕府に討伐されてはかなく亡びてしまったが、文久三年の夏ごろから翌文久四年(元治元年)の春にかけて九十九里・東金地方をゆるがした大きな事件であった。誠斎はどういう考えであったか、この真忠組に入党したのである。そのいきさつについては、誠斎のせがれ徳蔵(誠斎の弟徳造とは別人である)が当局に提出した届書に、左のように記されている。
「私儀、高六石余所持、家内六人暮らし、農業一派に罷り在り、私実父幸助(誠斎)儀、年来手習指南(しなん)仕り候へども、折々癇症(かんしょう)の病気に之れ有り、去る亥(文久三年)十二月十九日、風(ふ)と家出致し候に付き、相尋ね候処、浪人旅宿(真忠組の宿舎、小関新開の大村屋)へ罷り越し候趣承り驚き入り、早々連れ人差し遣はし候処、浪人ども書役を頼み入り候由にて、帰しくれ申さず。然る処、持病癇症(かんしょう)発狂致し候趣申し来り候に付き、早速連れ帰り候処、当(文久四年)正月三日、死去。」(九十九里町・町史編さん室所蔵文書)
誠斎は手習師匠をしていたが、時々癇症をおこす傾向があった。ところが、文久三年の一二月一九日に突然家出をした。驚いて行先をさがしたところ、小関(九十九里町)の大村旅館(真忠組本拠)へ行ったということがわかったので、連れ出しに行ったところ、真忠組の浪士たちは、誠斎は書記役の仕事をさせているから引渡すわけにゆかないと拒んだ。だが、その後、誠斎は癇症がおこって発狂したからという知らせがあったので、連れもどしてきたが、正月の三日に死んでしまったというのである。この報告にウソはないとは思うが、全部がほんとうとはいえないだろう。
前に引いたように、志賀吾郷は自殺としている。杉谷直道の書いた「真忠組浪士騒動実話」には「(誠斎は)真忠組ヘ加ハリマシテ、書役ヲ致シテ居リマシタガ、病発致シマシテ死去セシニヨリ、自宅ヘ引キ取リマシタ」(「東金市史・史料篇一」九三〇頁)とあり、同人の別著「真忠組浪士騒動実録」には、「小関旅館ニアリテ書記役ヲナセリ。正月三日病死セリ。」(同五六頁)とあって、大村屋で病死したとしている。そうすると、病死、狂死、自殺の三説あることになる。いずれを正しいとすべきか。徳蔵の報告書は肉親の書いたものだから、もっとも信憑性があるとは考えられるが、実際は自殺したのを狂死だとカモフラージュしたかもしれないのである。しかし、その逆のばあいもありえないことはない。
自殺説を取っている志賀吾郷は、前述のごとく誠斎の甥であり、かなり近い関係者である。だから、いいかげんのことを書いたとは考えられない。しかし、吾郷の生まれたのは文久元年(一八六一)で、真忠組騒動の際にはまだ四歳の幼児にすぎなかった。したがって、彼の記述も伝聞をもとにしたものであろう。必ずしも確説とはしがたいところがあろう。
ともかく、誠斎は幕府の逆賊たる真忠組の仲間入りをした人間である。幸い討伐の一月一七日の一四日前に死んでいるとはいえ、その累が及ぶおそれはある。だからすべてを狂気沙汰にしておけば、後難をまぬがれるには都合がよいことだ。平常から癇症持ちだったことは世間周知のことでもある。病死とするよりはよかったであろう。
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ところで、徳蔵の届書によると、誠斎が真忠組へ加入したのは、癇症(かんしょう)のためにフラフラと大村旅館へ迷いこんだかのように書かれているが、はたしてそうであったろうか。文久三年一二月一九日に、突然そんな気をおこしたものであろうか。そうではないのではないか。それ以前から真忠組に関心があったればこその行動だったと考えるべきではないだろうか。
前にあげた志賀吾郷の「村方大事件」という書物には誠斎すなわち幸助のことが書かれており、また、弘化四年の例の出訴一件についても触れていて、それが幸助の「拵へ」事であるとしているが、真忠組入りのことについて、
「孝(幸)助儀、右屯所(とんしょ)(小関大村屋)ヘ這入(はい)リ、其ノ徒ニ組シ、藤右衛門(高宮藤十郎のせがれで、高宮本家の当主)へ大金の用を申し付け、追々難渋ニ及ぼすべく工(たく)らみ云々」
とのべていることに注意したい。誠斎は弘化四年に高宮本家を陥れようとして失敗した恨みをいつか晴らそうとしていたが、真忠組が富豪を襲って大金を奪取しているのを知って、みずからこれに入党し、高宮本家をゆすらせようとたくらんだというのである。誠斎は一二月一九日に大村屋入りをしたが、その日から三日後の二二日に、楠音次郎は部下をつれて押堀村の高宮本家を訪れ、主人の藤右衛門に二百両を出せと要求している。藤右衛門は減額を願って百五十両醵出している。これは、誠斎のさしがねによることは明らかである。この事実は、彼がただ一時の狂気から大村屋へ入ったのではなく、目的をもって意図的に入党したことを裏書きするものと考えられよう。もっとも、それが高宮本家へ恨みを晴らそうとする復讐心からのみ出たことか、それとも、真忠組の趣旨に共鳴してのことであったかについては、かんたんに臆断はできない。同じ高宮姓を名のる彼の家は、高宮本家の分家筋と思うが、どの程度の関縁があったかはよくわからぬけれども、同族間で憎みあって、自分の力が弱いが故に強大な本家を恨むという、いわゆる近親憎悪の怨念から復讐をくわだて、真忠組の暴力を利用しようとしたとするならば、誠斎という人物の器(うつわ)は大したものではないことになるだろう。
だが、もし彼が社会正義にめざめ革命意識をいだいていて、そのために貧農に味方し権力とたたかおうとした結果、真忠組の貧民救済運動に共鳴して、大義親(しん)を滅すという信念から高宮本家に献金させようとはかったとするならば、その進歩性ないし前衛性の故に、彼の思想を評価することが可能であろう。志賀吾郷が「慷慨時事に感ずる所あり、自殺す。」と書いているのは、自殺が事実かどうかは別として、誠斎を志士的人物として考えていたらしいことを思わせる。とすれば、誠斎を狂人扱いにばかりはできなくなりそうだ。なお真忠組の浪士が多く捕えられて処刑されようとした時、誠斎が幕府に対して助命嘆願書を提出したという話が伝えられているが、既記のとおり、誠斎は真忠組が討伐される以前に死去しているので、右のような事実にありえないことになる。
誠斎は異常性格の人であったろう。といって彼を狂人あつかいすることはどうかと思う。彼は激情家である。しかし、純一な理想家であったともいえそうだ。山武町埴谷にある妙宣寺に、彼が揮毫した「冠鍋聖」という額が掲げられている。これは同寺出身の不受不施の傑僧日親を敬仰する意味で献ぜられたものであろう。日親のごとき無垢で徹底した行動家にあこがれた誠斎の心持はよくわかるような気がする。しかし、それがまた彼を非運な奇行家にしてしまったかもしれない。もっとも、彼にも一つの幸せはあった。それは彼が真忠組討伐の前に死んだことだ。もし討伐の際捕えられでもしたら、まず極刑はまぬかれなかったであろう。死罪か軽くても遠島にはされたであろう。そうならなかったのは、せめてもの幸福であった。