栢子樵谷(はくししょうこく)(塾主)(遠山利三郎)

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 栢子樵谷という変わった名は、この人の号であり、本名は遠山利三郎である。この人は尾張の生まれで、学問をしたが、どういうわけか故郷を出て諸国を遍歴した末、下総へ来り、やがて上総東金の地に住みつき、農民に実学と農事の指導をしたのである。以上の経歴は、同じ尾張の生まれで東総を中心に農民指導を行なった大原幽学とよく似ている。ただ。幽学のほうがスケールが大きいというちがいはある。
 ところが、樵谷(利三郎)の生涯は不明なことが多い。彼のことを伝えた文献としては、大正二年(一九一三)に書かれた「公平村郷土資料草案」(「東金市史・史料篇一」所収)(A)、大正五年(一九一六)の「山武郡郷土誌」(三一〇頁)(B)、昭和一一年(一九三六)の「千葉県教育史・第一巻」(五五三頁)(C)がある。このうち、Aはいちばん古く、またいちばんくわしい。BはAを踏襲してこれを縮めたものであるが、Cはもっとも新しく、わずか菊判の書で七行の短い記述であるが、記事内容はAとかなりちがうところがある。なお、筆者は東金地方の彼と関係のある土地の人に彼のことをたずねてみたが、全く忘れられている形で、ほとんど資料らしいものをつかむことは出来なかった。
 まず、彼の出自を見よう。Aによると、彼は「栢子樵谷翁ハモト尾張ノ人。名古屋黄金城下ニ生レ、幼名ヲ利三郎ト呼ビ、父ヲ金岩利左衛門ト云フ。」とある。ところが、Cによると、「利三郎は尾州丹波郡木賀村農兼岩十左衛門の次男で、文化元年(一八〇四)の生れである。」とある。尾張は同じであるが、Aが名古屋としているのに、Cは丹波郡木賀村とする。(丹波郡は丹羽(にわ)郡のあやまりであろう)。父の名もちがっている。Aは金岩利左衛門だが、Cは兼岩十左衛門である。しかし、利三郎の名は一致している。利三郎という名から考えると、父の名は利左衛門であったような気がする。姓は金と兼のちがいがあるが、昔はよく宛て字を使ったから、どっちともいえない。Aは利三郎の身分は何とも書いてないが、Cは農としてある。Cはまた、次男で文化元年(一八〇四)の生まれとしている。利三郎は東金で農事指導をやっているから、農家出身ということが考えられるし、また、次男というのも故郷を出やすい立場だったことを思わせる。文化元年の生まれというのも、他書にない以上、一応これを信ずるよりほかあるまい。因みに、大原幽学は寛政九年(一七九七)の生まれだから、利三郎のほうが七歳若いということになる。
 その後のことについて、Cは利三郎が上総へ来るまでのことを何も書いていない。Aによると、利三郎の修学のことについて、「翁(利三郎のこと)、初メ禅学ニ志シ、壮ナルニ及ビテ漢学ヲ修ム。号シテ栢子樵谷ト云ヒ詩書ニ通ジ、訓蒙教育ノ道ヲ始ム。」とある。禅学に志したとは、僧侶にでもなろうとしたのであろうか。壮年になってから漢学を学んだというが、壮年は大体三、四〇歳をいうから、かなり晩学である。しかも、何処で誰に就いて習ったかは記していない。栢子樵谷(栢は柏(かしわ)の異体字。樵谷はきこりのいる谷のこと。)と号して詩書に通じていたとすると、ある程度の学問を身につけたのであろう。また、訓蒙教育の道を好んだといえば、私塾の師匠を心がけていたのであろう。ともかく、彼は学問修業を終わった時、すでに壮年に達していたのである。
 
    

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 さて、それからどうしたか。Aは次のように述べている。
 
 「諸国ヲ遍歴シテ、到ル処ニ子弟ヲ教養セシガ、次イデ下総国ニ来リ、千葉郡天戸村ニ留マル。里人其ノ徳ニ懐(なつ)キ、学童其ノ門ニ満ツ。」
 
つまり、遊歴教師(トラベリングティーチャー)の旅に出て、その果てに下総の天戸(あまど)村(千葉市天戸)へやってきて、塾を開いたところが、だいぶ歓迎され、生徒が多く集まったという。天戸村は今の幕張あたりである。その後彼はやがて、縁あって東金へやって来ることになる―
 
 「適々(たまたま)、上総ノ人村井縫右衛門、此ノ地ヲ過(よぎ)リ、翁ノ教育ニ篤キヲ聞キ、欽慕措カズ。礼ヲ厚クシテ翁ヲ其ノ郷松之郷ニ迎ヘ、村民ト共ニ力ヲ併セ、翁ノ為メニ本松寺内菅谷坊ヲ開キテ書院ト為シ、委(ゆだ)ヌルニ村内子弟ノ教養ノ事ヲ以テス。」
 
縁というのは不思議なもので、たまたま、上総東金松之郷の村井縫右衛門が旅の途中天戸村に立ち寄ったところが、利三郎のことを聞き惚れこんで、松之郷へ招いたというわけである。縫右衛門はおそらく松之郷の名主役をしていたのではなかろうか。この当時は、房総の村々でも教育熱が高まっていたから、いい教師を他から引張ってくることはめずらしくなかった。大原幽学も、下総香取郡長部村(干潟町)の名主遠藤伊兵衛が村改革のために招き入れたのである。利三郎も縫右衛門に見出されたのである。といっても、天戸村のほうが江戸に近いだけに、地理的には有利だったと思われるが、縫右衛門の熱意にほだされたのか、それともほかに何かいい条件でもあったのだろうか。それは分からないが、縫右衛門は利三郎を松之郷につれて来て、本松寺(別項参照)内の菅谷坊をあけてもらって、ここに利三郎を住まわせて、塾(寺子屋)を開かせたのである。本松寺は相当の大寺であり、盛時には一二坊もあったというが、この当時は坊の数も昔ほど多くはなかったろうが、その一つを提供してもらったのである。さて、利三郎が松之郷へ来たのは何歳ぐらいだったろうか。かりに三五歳ごろとすると、天保九年(一八三八)ごろになる。利三郎はどういう教育を施したであろうか。
 
 「其ノ児童ヲ諭(さと)スヤ専ラ実用ヲ重ンジ、読書習字ノ傍、折ニ触レ事ニ応ジテ、衛生農事ノ事ニ及ブコト尠(すくな)カラズ。是ヲ以テ遠近争ヒテ其ノ門ニ集マリ、児童百数十名ニ達セリト云フ。」
 
利三郎の指導は読み書きばかりでなく、農事の指導にまで及んだという。とすれば、その教育は児童のみならず、その父兄にも及んだことが考えられる。なお、彼は唐詩選などを教えるにも、百人一首のカルタ競技の方式を取り入れて、上の句と下の句とを別々に書かせて、面白く覚えさせたというし、すべて実物実地に即した指導法を取ったと伝えられている。
 
    

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 ところが、利三郎は松之郷をはなれて、隣村道庭(どうにわ)村の遠山家に婿入りすることになるのである。すなわち、
 
 「翁、後ニ道庭村遠山氏ニ養ハレ、遠山利三郎ト云ヒ、黌(こう)ヲ茲(ここ)ニ移ス。里人今尚ホ遠山家ヲ呼ンデ、『師匠様』ト云フ。当主遠山喜一ハ翁ノ孫ニ当ル。初メ屋根職ヲ営ミシガ、翁ノ残シタル遺法ニ痔(じ)ノ薬ノ調合法アリ。今、官許ヲ得テコレヲ製シ、各地ニ行商ス。名ヅケテ退痔散(たいじさん)ト云フ。コレ亦翁ノ余徳ト云フベシ。」
 
利三郎は結婚したのである。そして、塾を道庭の自家に移したのである。遠山家には退痔散という家伝薬があるが、利三郎の創製したものという。利三郎には薬事の心得があったものと見える。
 ところが、この遠山家入りについて、Cはかなりちがった記述をしている。すなわち、左のとおりである。
 
 「公平村松之郷遠山甚之助の養子となった。妻は千葉郡坂月村千城村坂月農山林彦太郎の三女で、名をせきといった。万延元年(一八六〇)松之郷小字(あざ)関戸猪野五右衛門方の一隅を借受け、子弟を集めて教授した。門に入る者常に男子約三十名、女子数名であった。茲(ここ)に居ること十二年にして、明治四年(一八七一)に至り、道庭の人鵜沢総一郎等に招かれて、同所第十二番屋敷に移り、此所にて若干(じゃっかん)年教育に従事したと伝へられて居る。」
 
ここには、下総天戸村のことも、村井縫右衛門のことも、松之郷の本松寺での開塾のことも全く出てこない。そして、いきなり道庭村ではなく松之郷の遠山家へ養子に入り、妻を坂月村から迎えたこと(つまり、夫婦養子ということである)が書かれているが、その年時は示していない。しかし、養父の姓名と妻の実家と名まで明記してある。それから、開塾が本松寺ではなく、猪野方であり、年時が万延元年(一八六〇)と言えば、彼が五七歳の時になる。これと養子入りとの関係はどうなるのか。養子入りはおそらく五七歳よりずっと以前のことであったろう。松之郷の猪野で一二年間寺子屋をやり、明治四年(一八七一)六八歳の時に、道庭村に招かれてそこに移り、さらに教育をつづけたという。すると、彼は七〇歳くらいまでは健在だったと思われるが、死去の確実な年時は不明である。死去した場所はおそらく道庭であったと考えられるが、墓所の所在等は今のところ分かっていない。
 以上、とぼしい資料によって、栢子樵谷(はくししょうこく)という変わった号を持つ遠山利三郎の生涯をたどってみた。これは、文献をたどるよりほか仕方がないので、記述もおのずからたどたどしいものにならざるをえなかった。今後の探索に期待するよりほかあるまい。