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宗元は幕末から明治にかけて活動した人であり、本職は医師であるが、同時に漢学者でもあり、また、教育者として多くの門弟を養成した。
彼は天保四年(一八三三)三月五日武射郡椎崎村(山武町椎崎)の吉井家に生まれた。吉井家は地代官を勤める名門であった。父は甚之亟(寛親)と言い、布留川家の生まれ、母は東金町須田氏の出、したがって、いわゆる夫婦養子であった。宗元はその三男に生まれ、名を謙斎と言い、宗元は通称である。兄弟は五人あり、兄が二人、姉が一人、弟が一人あった。長兄の名は冽(きよし)、通称は呈庵(ていあん)と言った。次兄は鋼蔵と言い、母の実家須田姓を嗣ぎ権三郎と改名している。弟は八郎といったが、これは五歳の時夭折したらしい。姉の名は列伊といい、神保家に嫁している。さて、長兄呈庵は文政二年(一八一九)の生まれで、宗元より一四歳の年長であったが、彼のことは、宗元の門下生の一人で、正岡子規の門人だった蕨真(わらびしん)(本名真一郎、山武町埴谷の出身)が「民間造林の中より」という文章の中で、次のように書いている。
「椎崎村・吉井家の吾が外祖父(呈庵)は、夙(つと)に斯文(しぶん)(学問のこと)の為めに辛苦をものともせず、歳漸く十一の頃、遠く常陸の潮来(いたこ)なる宮本茶村翁の門に入り、やがて水戸学風の一般を上総の一部面に伝へたのである。然して、医を以て本業となし、詩を好んで老の到るを忘るる程であった。それ故、同村及び附近町村の父兄子弟に最も良好なる教化を及ぼす事が出来たのである。然して、吾が祖父とは知己親友中に好学的良友であった。ここに於て初めて我が家へ斯文(しぶん)の趣味が伝はったのである。」(海宝文雄「蕨真の生涯と作品」三八頁)
まず、吉井家と蕨家の関係を説いておかなければならないが、真の母せつは呈庵の娘(宗元の姪)であった。だから呈庵は真の外祖父になる。また、真が右の文のおわりのほうで「吾が祖父」といっているのは、真の父重三郎その父礎左衛門のことをさす。吉井家と蕨家とは共に名門で(蕨家はこの地方切っての名家で「代官」の名で呼ばれていた。)親戚関係にあったわけで、後に真もその弟直治郎(橿堂(きょうどう)も吉井塾に入学することになるわけである(後述)。ところで、呈庵は一一歳の時文政一二年(一八二九)、常陸潮来の宮本茶村(寛政五(一七九三)-文久二(一八六二))に入門したという。茶村は宗元の師にもなる人だから、ここで触れておくと、彼は潮来の名主の家柄の生まれで、名を尚一郎、別号を水雲といった。若いころ江戸に出て折衷学者として有名な山本北山に学び、帰郷後名主役をつとめ、郷士に列せられた。当時水戸藩内には尊王運動にからんで紛争がおこっていたが、尊王派の茶村は反対派にとらえられて三年ほど入獄の憂目を見たけれども、出獄後は漢学塾を開き門人に教授していた。尊王学者茶村の名は遠近に聞こえていた。そして、この茶村に学ぶべく、少年呈庵は利根川をわたったのである。遊学といえば、江戸をめざすのが普通であるのに、常陸を志向したというのはどうわけだったろうか。一一歳の呈庵に選択の自由は持てなかったから、おそらく父甚之亟の意志であったのだろう。もっとも、当時は水戸および水戸学への関心が全国的に高まりつつあって、九十九里地方にも水戸をあこがれる若者がふえつつあったことは事実だ。そんな風潮に動かされたか、または、甚之亟が茶村と知遇でもあったか、それともほかに何か理由があったか、それもはっきり分からない。
逞庵は茶村から漢学の指導を受けたことはもちろんであろうが、帰郷後医業をやっていることから考えると、茶村から医術の伝授をも受けたのであろうか。茶村は医学の心得もあったといわれるから、そうであったかもしれない。しかし、別の専門家に就いたかもしれないが、それも要するに不明である。また、潮来に何年いたかも分からない。
なお、逞庵のことは、蕨真の弟直次郎(橿堂)も「予の学びし私塾及恩師の風格」(雑誌「日本及日本人」昭和一三・四号所載)という文章の中で、こう書いている。
「老湖(宗元)先生には吉井呈庵といふ長兄があって、共に潮来の宮本茶村先生に学び其の門人であった。長兄の呈庵先生は家督を相続して医を業とし、側に塾を開いて漢学の先生をして居ったが、医業の忙はしき為め塾の方は止めてしまった。」
これによると、医業のかたわら塾を開いていたことがわかる。しかし、塾のほうは医業がいそがしいので、やめてしまったということである。呈庵が学問好きで詩文学にも深い興味を寄せていたことが、やがて蕨家にも影響をおよぼし、ひいては、真・直治郎の兄弟が正岡子規に入門して「馬酔木」という短歌雑誌を発行し、成東の人伊藤左千夫との交友の中から「アララギ」の歌風を生み出す水源となるのであるが、その根因は吉井家の好学にあったわけであって、その意義は大きいものがあるといえるようだ。
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このような呈庵の弟として生まれた宗元は、兄と同じようなコースを取ることになるのである。宗元の幼少時のことは分からぬが、兄から影響を受けたことはたしかであろう。そして、嘉永二年(一八四九)一六歳の宗元は、兄と同じく潮来の茶村のところへ修業に出かけることになったのである。兄逞庵が文政一二年(一八二九)一一歳で入門した時から、実に二〇年後のことである。
ところで、ちょっと余計なことかも知れないが、そのころ、成東上町の塚本正典という人が茶村に従学している。茶村の名声に惹かれたのであろうが、彼は天保戊戌年一二月五日の生まれだという。戊成は九年(一八三八)である。すると天保四年生まれの宗元より五歳も年下である。嘉永二年に正典は一一歳であったことになるが、逞庵も一一歳で入門しているけれども、正典は宗元と同時に入門したかどうか、あるいは二、三年おくれたかもしれない。正典は「経義に精しく、また、史学に造詣があった」といい、後に成東の戸長となり、成東小学校の前身たる興譲館に教鞭を執ったが、その後家塾を開き、学区取締役をつとめたこともあるという。彼は明治三〇年(一八九七)八月、六〇歳で没した。(塚本正典のことは「成東町志教育編(其ノ一)」による)宗元はこの塚本正典と相知っていたと思うが、どの位の関わりをもっていたかは不明である。ともかく吉井兄弟以外にも、茶村を慕って常陸行きをした人のあった一例として触れておいたのである。
さて、宗元は二〇歳まで、すなわち嘉永六年(一八五三)まで修学していたというが、その間に彼は水戸の本間棗軒(そうけん)(文化元(一八〇四)-明治四(一八七一))という医学の専門家に入門している。前述のごとく呈庵のばあいは、専門家についたかどうか分からぬが、宗元は西洋外科医の大家といわれた棗軒に従学しているのである。そのことは、吉井家の「我が家の歴史」(吉井永執筆)という記録に、
「年十六ニシテ常陸潮来ニ遊ビ、宮本茶村翁ニ師事シ経書ヲ学ビ、後水戸ニ遊ビ、町医本間棗軒ニ従ヒ医術ヲ学ビ、業大イニ進ム」
と記されていることによって明らかである。
本間棗軒(名は資章、玄調と称した)は水戸の人で、江戸に出て杉田立卿について西洋医学を学び、さらに長崎におもむいて、有名なシーボルトに師事、その上、紀州の名高い外科医華岡(はなおか)青洲に入門して、外科道の奥義をきわめ、帰国後開業したが、やがて水戸藩主の侍医に召出され、また、弘道館の医学教授にも任ぜられた。宗元が棗軒に就いたのは、おそらく茶村の紹介推薦によるものと考えられるが、これは宗元にとって大きな幸いであったろう。結局、宗元の常陸留学は医学修学のほうに主目的があったような気がするが、茶村のごとき進歩的学者の訓化を受けたことは、宗元の意識を革新せしめたところがあったのではなかろうか。これは兄呈庵のばあいも同様と思うが、つまり、兄弟は若くして水戸学の洗礼を受けて、尊王思想に目ざめたところがあったろうとも思料される。(呈庵は明治二四年(一八九一)四月一〇日没している。享年七三であった。)
宗元も常陸で受けた感銘は相当に深いものがあったらしく、前引の蕨直治郎の文章にも、「老湖(宗元)先生は茶村先生の塾を出てから、度々水戸に遊ばれて、西山公の学系を温(たず)ねそれを私に伝へられたのであった。」と記している。西山公とはもちろん水戸学の祖たる徳川光圀のことである。(宗元はその後、安政二年・明治二二年、に二度その後にもう一度(年代不明)計三度水戸を訪ねている。)
宗元は潮来と水戸で四年を過ごして椎崎に帰ってきた。漢学と医学の両方を深く学び取るためには、四年間はむしろ短かすぎよう。どの位の実力を養い得たか、何ともいえないが、後の活動状況から見ても、かなりの力はつけ得たものと考えられる。こうして、五年を経た安政五年(一八五八)二五歳の時、宗元の身の上に変化がおこった。それは、宗元が、片貝村(九十九里町片貝)の医師服部長六の養子となり、その娘経(つね)(伊三郎の姉)と結婚したことである。養子であるから、もちろん吉井家を出て服部家へ入ったのであるが、間もなく彼は妻となったつねとともに椎崎に帰ってきたのである。これはどういうわけであるか。もう一つ、この年三月二日に宗元の父甚之亟が六八歳で病没している。このことが宗元の養子復縁問題に影響があったかどうか。宗元は次男であり後継ぎの兄呈庵がいる以上、他家へ養子にいったところで不思議はない。また、父が死んだからといって、そのために養家先から引きあげるというのも、このばあい納得しかねる。(宗元の養子入りが父の死の前であるか、後であるかはわからない。)そこで、考えられるのは、養子に入ってみたものの、服部家には伊三郎という男子もあり、養子というものの立場に幻滅を感じさせられ、プライドを傷つけられるものがあったのではないかということだ。妻となったつねが宗元といっしょに服部家を離れたのは、貞女は二夫に見えずというモラル感があったためか、あるいは宗元に別れがたい愛情を感じたためかであろう。
かくして、椎崎にかえり吉井姓にもどった彼は前のように医業をつづけたが、将来のことを考えれば有利な場所へ移るべきだと決心したのであろう。二七歳万延元年(一八六〇)に田間村(東金市田間)に居を構え、医者をやりながら、かたわら子供たちに学問を教えるようになったのである。そして、翌々文久二年(一八六二)七月一日には長男量平が生まれた。
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文久三年(一八六三)から翌四年(二月改元して元治元年となる)にかけて、九十九里地方は不穏な情勢となってきた。そして、真忠組騒動が勃発した。宗元もこれに巻きこまれようとしたのである。真忠組は小関新開(九十九里町小関)の旅館大村屋に本拠をおいて貧民救済運動をはじめていたが、その首領楠音治郎はその勢力強化のために土地の有力者を仲間に引き入れようとしていた。宗元は水戸学の洗礼を受けた医者である。これを味方につければ大変都合がいいと楠は考えて、宗元に働きかけてきたが、宗元は応じなかった。それは、真忠組は無頼漢の集まりと言われ評判が悪く、宗元も好感が持てなかったことにもよろうが、暴力沙汰にかかわるのを好まなかったことにもよるのであろうか。やがて、幕府は真忠組を討伐することとなり、当時、東金町・田間村・二又村(あわせて二千九百石)の領主だった奥州福島の板倉藩主が討伐軍の先鋒を命ぜられた。そのため、東金御殿に陣屋をおいていた板倉藩の代官冨田善平から宗元に対し従軍に命令が達せられ、宗元は准藩医に登用され、苗字帯刀を許されることになったのである。文久四年(一八六四)正月一七日、板倉軍を主体とする討伐軍は小関新開の大村屋を襲って真忠組を壊滅せしめたのであるが、宗元は軍医として終始奉仕し、その功をみとめられた。
この事件後も、宗元は引きつづき東金御殿に出入し、藩医としての仕事をしていたが、元治元年(一八六四)一二月、水戸の天狗党が尊王運動をおこして幕府に討伐され降参した党員のうち二六人が板倉藩に預けられ、これを東金に収容することになったので、八鶴湖畔に臨時の牢舎を立てて入牢させておいたが、宗元は藩医として診療にあたることになった。それについて、「我ガ家ノ歴史」には「即チ毎月六回出デテ其ノ健康診断ニ赴ク傍(かたわ)ラ経書ヲ講義シ、浪士大イニ傾倒シ、尓来(じらい)来ルモノ門ニ多シ。」と記されている。診断だけではなく、経書の講義までして深い感銘をあたえたというのはおもしろい。宗元にとって、水戸はなつかしいところだし、天狗党にも親しみを持っていたであろうから、浪士たちは敬慕の心を寄せたのであろう。これが評判になって、宗元の塾への入門者もふえるようになったという。浪士たちは翌慶応元年(一八六五)四月ここを引払ったが、宗元にはあつい感謝の心をあらわしていたということである。
やがて明治の世となり、明治二年(一八六九)板倉藩は東金支配を解かれることになった。宗元も藩医の地位から離れ、それまでもつづけていた町医と塾経営の仕事に帰ることになった。塾のほうはかなり盛んであったらしく、慶応二、三年当時には、百四、五〇人ぐらいの門弟があったということだ。ところで、その明治二年五月に、宗元は醤油の醸造業をはじめている。唐突で意外な感じがする。どうしてこんなことをはじめたのか。由来、東金では酒や醤油の製造業者が産を成している例が多い。宗元には野心家的なところがあったから、はじめたのかもれれない。彼は醸造に必要な糀(こうじ)は妻の実家たる服部家から取り寄せるようにした。(服部家でも醤油業をはじめていたのかも知れない。)翌三年には醤油蔵も造っている。「我ガ家ノ歴史」には、「事業大イニ進ム」とあるから、仕事は順調にいったもののようである。
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明治五年(一八七二)学制が発布され、田間には翌六年東小学校と西小学校とが開校され、宗元は東小学校の校長となった。宗元時に四〇歳である。公務に専念するために、医業はやめてしまったらしい。塾のほうは続けていたが、明治一〇年(一八七七)には息子の量平も一五歳になっていて、父を助けて門弟を教えるようにしていたが、その量平も同一二年には家徳小学校で教鞭をとることになり、同一四年には小学校初等科教員免許を取得し成東小学校の訓導になり、一五年には学力を高めるため東京斯文(しぶん)学校に入学して漢文学を専攻し、同一八年には卒業した。ところが、同一九年(一八八六)宗元は田間東小学校長を辞職することとなった。彼もすでに五三歳である。一方、量平は同二〇年二月から、北之幸谷の私立菁莪義塾で漢学を教授することになったが、翌二一年(一八八八)一〇月にはこれをやめ、宗元・量平は共同して自家の塾を本格的に経営する決意を固め、校名を吉井学校と定め、新発足をすることになった。寄宿舎なども設けて、遠地の者も入学できるようにした。当時の小学校は四年制であったから、それを終った子供たちが多く来るようになったものであろう。宗元は死にいたるまでこの学校を経営したが、教育熱が高まりつつある時であったから、父兄から歓迎されたようである。これを地域的に見ると、現在の東金市内の各区はほとんど来ないところはなく、(田間がもっとも多く次は旧東金であった。)九十九里町・松尾町・山武町・横芝町・大網白里町から本納町・茂原市におよび、さらに千葉市にも何人かの入学者があったのである。校運は相当隆盛であったと見られるのである。
明治二三年(一八九〇)七月には、東京斯文学会の支会たる南総斯文学会を開設することになり、東京の本会と提携して、著名な漢学者らを招いて、経書の研究を行なうようになった。この斯文学会が出来ると、前記の蕨真が同二四年五月に、その弟直治郎が二五年三月には入学してきた。二人とも埴谷からは通えないので、寄宿舎に入ったということである。直治郎は前引の文章の中で、当時のことを回想して、左のようにのべている。
「私らの居った時の吉井塾は大繁盛の時で狭い塾に生徒は百三四十人も居られた。当時は東京からは時々岡本監輔先生が来られて講演をして下さった。岡鹿門(ろくもん)先生も来られたこともあった。老湖先生は内藤恥叟(ちそう)先生とも交誼が深かった。塾の長押(なげし)の処に掲げてあった教育勅語は恥叟先生の御筆であった。」
ここに名の出ている恥叟・鹿門・監輔の三人はいずれも著名な学者であった。この人たちは、量平が東京斯文学校で教えを受けた恩師たちでもあった。次に、教育内容については、前掲の「蕨真の生涯と作品」に、
「宗元は生涯真摯に教育にたずさわったが、この当時は最も情熱のたぎっていた時であろう。宗元は緻密(ちみつ)であり、優秀な指導者であった。漢籍を学ぶことが学業の中心であった。ひとつの釈義がおわると検定を実施した。そして、すべての釈義が終ると改めて検定をおこない卒業証書を交付した。講義の筆記を通して見ても指導が念入りであったことがわかる。これらの講義のほかに郷土の歴史・漢詩・書の指導もうけた。」(三九-四〇頁)
こうして、教育に専心しながら、宗元はまた別の事業をはじめているのである。それは当時の養蚕業ブームに刺激された結果だと思うが、明治二二年(一八八九)小間子(おまご)原の数十町歩を開墾して桑園を開き、また、山田台にも数千本の桑樹を植えて蚕業をおこすことにし、翌二三年には二男の信(平山)を養蚕研究のために栃木県に出向させているのである。この事業がどの程度成功したかわからぬが、越えて二九年(一八九六)になると、明治二年から続けてきた醤油醸造業を高橋喜人という人にゆずってやめてしまっている。一方、塾のほうも、明治三四年(一九〇一)一月成東に佐倉中学校成東分校が出来、同四月それが千葉県立成東中学校(現・成東高等学校)となるとともに、その影響を受けて衰微に向かう情勢となるにいたった。生涯を教育に捧げてきた宗元としては、さびしいかぎりであったろう。
宗元もすでに老境であった。もともと詩才にめぐまれていた彼は詩作にふけったり、また、依頼を受けては、安川柳渓・川嶋善兵衛小安正徹等の碑文を作成したりして、自適の晩年をおくっていた。ところが、明治三九年(一九〇六)四月一日、七三歳を迎えた彼は、最愛の伴侶たる妻のつねに先立たれてしまったのである。いたし方ないこととはいえ、宗元にとっては大きな痛手であった。
明治四二年(一九〇九)宗元は七六歳を迎えた。かねてから門弟たちの間で、恩師宗元の多大な功績をたたえるために彰徳碑建立の議が出されていたが、いよいよ熟して、八月五日、吉井家の菩提寺たる田間の名刹上行寺に建設された。篆額は旧領主板倉勝達、撰文は佐倉孫三、書は香川〓(あきら)(松石)である。宗元への贈り物としては最高のものであったろう。彼のよろこびもさこそと察せられる。しかし、それから五〇日を経た九月二〇日、宗元はついに帰らぬ人となってしまった。遺骸は手厚く上行寺に葬られ、宣徳院宗元日沾老湖居士と謚(おくりな)された。
宗元の後は量平が嗣いで吉井学校の経営にあたったが、大正元年(一九一二)彼は東京に出て牛込中学校に勤めたけれども、同九年(一九二〇)郷里に帰り、私立大正学校を設立した。しかし、昭和三年(一九二八)病のためにこれを閉鎖し、読書に日をおくる生活に入ったが、同九年(一九三四)九月七日、永眠した。行年七二歳であった。
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宗元の人となりについて、内藤恥叟(ちそう)は「天下ノ憂ニ先ンジテ憂フル気ニ溢レタ者」(老湖詩評)といい、岡本監輔は「爽快豁達雄弁ノ士」(老湖絶句序)と評した。男性的で小事にこだわらず、豪快で気骨があり、しかし真率誠実な人であったといえようか。人は彼を隠君子と評し本人もその積りでいたようだが、反面アンビシャスなところがあり、そのため醤油醸造や養蚕業にも手を出す色気をもっていた。彼は詩人肌で情に激するところもあったようだが、それがまた彼の魅力でもあった。しかし、何といっても彼の本領は教育者であった。そして、彼の教育はマンツーマンの教育であった。たびたび引用する蕨直治郎の文章には、「老湖先生は温良で怒るといふことはなかつたが、冒(おか)すことは出来ない風格であつた。」と教師宗元を評しているが、おそらくこれはあたっているであろう。といって、放任主義を取ったわけではない。「吉井塾には塾の規則といふ規則はなかつたが、本づく所は人倫であつた。人倫に悖(もと)つたことをしたら直ちに処罰であつた。」と直治郎はのべているが、これが吉井学校の教育方針であった。日清戦争のころ、塾生が教師の命にそむいて芝居見物にいった時、直ちに全員退校の処分をされたことがある。もっとも、父兄が詫びを入れてようやく許されたが……。総じてこの塾は師弟が相和し、情誼に厚いところに大きな特色があった。
詩(漢詩)が得意であった宗元は、「老湖絶句・第一集」(詩数二六七首)「老湖絶句・第二集」(詩数一九四首)の二冊の詩集を残している。また、郷土史研究として、「山武沿革考」がある。これは「東金市史・史料篇一」におさめてあるが、覚書的なものであるとはいえ、貴重な文献ということが出来よう。
【参考資料】
(一) 吉井君頌徳碑(しょうとくひ) (原漢文)
(東金田間上行寺)
吉井宗元君ハ千葉県山武郡東金町田間里ノ人。弱冠ニシテ常陸ニ遊ビ、宮本茶村ニ従ヒ経史ヲ修メ、尋(つい)イデ本間棗軒(そをけん)ニ就イテ医術ヲ習ヒ、以テ業ト為シ、兼ネテ帷(い)ヲ垂レテ(①)教授ス。元治元年(一八六四)、片貝村ニ暴徒嘯集(しょうしゅう)②シ、旁近(ぼうきん)ノ諸藩兵ヲ出シテ之レヲ鎮ム。君藩主板倉侯ノ命ヲ奉ジ、医ヲ以テ之レニ従ヒ、功有リテ藩医格ニ進ミ、姓氏ヲ准称(じゅんしょう)ス。
明治六年(一八七三)ヨリ十九年(一八八六)ニ至ルマデ、公立田間小学校ヲ督シ、後、私立吉井学校ヲ創設ス。著ス所、老湖詩集若干(じゃっかん)山武郡考一巻アリ。君資性敏達ニシテ辺幅ヲ修メズ、倹素ヲ尚(タット)ビ、節廉(せつれん)ヲ重ンジ、一郷靡然(びぜん)トシテ響風(きょうふう)③ス。常ニ子弟ヲ誡メテ曰ク、夫レ、学者ハ宜シク尊王ヲ以テ体ト為シ、済世ヲ以テ用ト為シ、腐儒迂学(うがく)④ノ名ヲ取ルコト勿レ、ト。薫陶シテ倦(う)マザルコト実ニ五十余年ナリ。門ニ及ブ者数百千人、頃(このごろ)、門人故旧相謀リ、醵金(きょきん)シテ頌徳碑ヲ建テ、文ヲ余ニ徴ス。余未ダ君ガ道貌(どうほう)ヲ識ラズト雖(いえど)モ、曽(か)ツテ職ヲ其ノ県ニ奉ジ、稔(しき)リニ令名ヲ聞ク。誼(ぎ)トシテ辞スベカラズ。嗚呼(ああ)、江河ニ堤防アレバ則チ氾濫(はんらん)ノ患(うれい)ヲ免カレ、郷閭(きょうりょ)⑤ニ哲人アレバ則チ子弟ハ淫靡(いんぴ)ニ流レズ。君ノ如キハ蓋(けだ)シ其ノ人カ。余、他日往(ゆ)キテ君ノ閭里(りょり)ヲ訪レ、風ヲ観(み)、俗ヲ察シ、以テ之レヲ験スルモ、豈(あ)ニ亦楽シカラズヤ。
明治四十二年(一九〇九)八月五日
貴族院議員従二位勲四等子爵
板倉勝達篆額(てんがく)
清(しん)国警務学堂総教習従七位勲六等
佐倉孫三撰
香川〓(あきら)書
(二) 老湖絶句序(原漢文) 岡本監輔
南総ニ隠君子有リ。吉井宗元トイフ。爽快豁達雄弁ノ士ナリ。幼時嘗ツテ宮本茶村翁ニ従学シ、山辺郡田間ノ里ニ住シ、生徒ヲ教育スルコト数百千人ニ及ブ。四男子アリ、皆育英ニ任ジ、文学彬々(ひんぴん)⑥トシテ観ルベシ。頃(このごろ)、山田台ニ荒地数町ヲ得、桑数千本ヲ種(う)エ、閑々耕〓(こうせき)⑦、興ニ乗ジテ詩ヲ賦シ、皆雅健愛スベシ。将ニ上木セントシ、附スルニ常陸客中得ル所其ノ他ノ諸作ヲ以テシ、慷慨淋漓(こうがいりんり)⑧タリ。
余、宗元ト相知ルコト年有リ。情ハ兄弟ノ如シ。其ノ長男量平、嘗ツテ余ノ門ニ遊ブ。余、猶子(ゆうし)⑨ノゴトク視ル。今此ノ挙アリ、其ノ不朽ヲ喜ビ、披(ひら)キテ之レヲ閲ス。宗元父子ト手ヲ一堂ノ上ニ接スルガ如キヲ覚ユ。其ノ縦談ヲ聞ク亦愉快ナラズヤ。今ノ儒者ハ貧苦ヲ訴ヘザル者ナシ。坐シテ詩ヲ賦スヲ知リ、桑ヲ種(う)ウルヲ知ラズ。歎ズルニ勝(た)ヘズ。余、嘗ツテ吾ガ党ノ惰弱ヲ悲シミ、宗元ニ倣(なら)ツテ隠者トナラント欲ス。而シテ桑アリ子アリ、未ダ宗元ノ如クナルコト能ハズ、亦、歎ズベキカナ。
注 ①塾を開くこと
②わっと集まる
③草木が風になびくように教化された
④低級な学者
⑤村里
⑥学問がそろってすぐれていること
⑦田畑をたがやすこと
⑧熱烈な思いを表現している
⑨義子・養子