鶴岡安宅(あたか)(塾主・東金郷校教授・郷土史家)

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 鶴岡安宅は、高橋一庵・今関琴美(いずれも別項参照)と同じく、他の地方から当地へ移ってきて、子弟の教育にあたった学者である。彼は天保六年(一八三五)四月一九日、南総市原幸田郷久保村(市原市久保)の鶴岡善右衛門(名は直弘)の長男として生まれた。(母は秋葉氏)幼名は卯之助といったが、後、庄司と改め、さらに安宅(あたか)と改称し、本名を正弘といった。老洲または恒(こう)斎と号した。彼には兄弟が多く、弟が四人、妹が二人、つまり七人兄弟であった。一番上の弟を善次郎といったが、他は名前が分からない。
 鶴岡家はもと赤坂と称したが、赤坂氏は楠正成の流れを汲むといわれ、七代目の赤坂久海という者が諸国を旅行してまわった果てに南総の久保村に留まり住みついたが、どういう縁があったか、土地の豪族鶴岡氏の後を継ぐようになったということだ。しかるに、安宅の祖父弘幸の世になってから、家産が衰えはじめ、昔日の勢威を失うにいたった。そのため、父善右衛門は家名の恢復のために腐心し、長男の安宅が物心づくと、お前はえらくなって家道を起こせと諭したという。幸い安宅は明敏な生まれで普通の子どもとはちがうところがあり、書物を教えればよくおぼえ、数学なども理解が早かった。なお、鶴岡家は旧家であったから屋敷も広く、庭に松の巨樹があった。そこで、安宅は生家を松陰山房と名づけていた。(彼は後年の日記に「松陰山房日記」と命名している。)
 やがて少年期を迎えると、安宅は近在の儒者について漢籍を学習した。この人は名前が分からぬが篠崎司直の門人であったという。篠崎司直は著名な儒者で山辺郡平沢村門之谷(かどのさく)(大網白里町小中字門之谷)の人で、江戸へ出て折衷学の大家太田錦城の門に学び、その実力を認められ、錦城の推薦で昌平黌の教官に擬せられたほどの学者であった。その上、長沼流の兵学にも通じていて、充分出世できる人物であったが、みずから〓孤(けいこ)隠士(人にそむかれはなれられてしまう孤独者という意)と号したほど狷介(けんかい)清潔の士であったため、文政年中(一八一八-一八二九)郷里に隠退して子弟の教授にあたっていた。司直は嘉永元年(一八四八)一月一四日没している。
 安宅は父を助けて農業に従事していたと思われるが、もしそのままで行けば長男だから家業をつぐことになる。しかし、父からのはげましを受けており、学問への関心も強かった彼は江戸遊学の決意を固めるようになった。幸い弟が四人もいるので、父とも相談の上、上の弟の善次郎に家をつがせることにし、二一歳の時すなわち安政二年(一八五五)に江戸へ出ることにしたのである。もっとも、別説として一九歳(嘉永六年、一八五三)とする説もある。(二一歳説は安宅の門人吉原三郎の「老州鶴岡先生行述」(「千葉県教育史・第一巻」所収)の説。一九歳記は同じ門人吉原致堂のしるした「略記」(池田忠好氏所蔵)の説である。)いずれが正しいかは決めかねる。筆者の気持では、一九歳説を取りたいが、当時の鶴岡家は貧窮に苦しんでいたらしいので、出遊が遅くなったろうことは想像できる。ところで江戸への途次、安宅は篠崎司直の墓参りをしている。墓は司直の郷里門之谷の正因(しょういん)寺(顕本法華宗)にある。しかし、直接の恩師でもない司直の墓参りをなぜしたのであろうか。もちろん、学問の道からいって不思議なことではない。これは孫弟子たる安宅の司直への敬慕の心のあらわれであることは確かだ。さらに臆測すれば、司直の生前に門之谷まで行って、司直の教えを受ける機会をもっていたかもしれない。なお、司直の死んだ嘉永元年には安宅は一四歳になっていた。
 
    

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 さて、江戸へ出た安宅はどうしたかというと、前引の「老洲鶴岡先生行述」(以下「行述」という)には、
 
 「遂ニ江都ニ赴ク。貧困ニシテ託スル所無シ、其ノ同師ノ故ヲ以テ、剣客木村氏ニ投(とう)ズ。」(原漢文)
 
とある。この「木村氏」(「山武郡郷土誌」(二五九頁)ではその名を「定五郎」とし、滝口房州氏の「上総の人・海保漁村」(四一頁)では「定次郎」としている)は司直の門人で、司直は江戸のこの人の家で急死しているのである。なかなか顔の広い世話好きの人であったらしい。安宅はこの人のことを聞いていて世話になろうとしたのであろう。「同門ノ故ヲ以テ」という語は、安宅が直接司直から木村のことを聞かされていたようなニュアンスを感じさせる。安宅は木村の紹介で三河(愛知県)田原藩士松岡次郎を知るようになり、やがて江戸のその家に寄遇することになった。松岡は儒学と剣道に長じていたが、安宅が気に入って養子にしようとしたが、安宅はそれをことわった。安宅としては長男でもあり、養子などに行く気がしなかったのであろう。その後、安宅は昌平黌の教授で碩学の名が高かった安井息軒(一七九八-一八七六 寛政一〇-明治九)の学僕となって一年あまり安井家に住み込み、息軒の教えに接したが、さらに林鶯渓(おうけい)(一八二三-一八七四 文政六-明治七)の塾に移り、同じく学僕として修業した。鶯渓は林大学頭の一族で、林復軒の子、述斎の孫にあたる。息軒ほど著名ではなかったが、ともかく儒学の名門である。希望が持てると思ったのであろう。ここに四年ほど(「略記」には「四、五年」とあり、「行述」には「六年」とある。彼が郷里を出たのが一九歳とすると「六年」があうのだが)いたが、その間に学問も大いに進み、塾長に選ばれるにいたった。この時代は彼にとってもなつかしい時代だったらしく、彼の「松陰山房日記」を見ると、明治二年(一八六九)東京へ出てきた時、鶯渓塾のあった場所へ立ち寄ったところ、すっかり変わってしまったことに驚いている記事に出くわす。
 
 「(八月)十九日、晴。彦根侯ノ邸ニ横川源蔵ヲ訪フ。途ニ林院ノ旧読書所ヲ過(よぎ)ル。邸宅ハ薪樵(しんしょう)(たきぎ)ト為(な)リ、荊蒿(けいこう)(いばらやよもぎ)撫(しげ)クシテ、遺趾ヲ没ス。嗚呼(ああ)、余此(ここ)ニ起居スルコト既ニ六、七年ナリ。図(はか)ラズモ雙涙〓(けん)然トシテ下ル。遂ニ源蔵ヲ訪フ。此レ亦罪ヲ朝廷ニ獲(え)、以テ一室中ニ蟄(ちつ)ス。源蔵ハ嘗ツテ東山道ノ巡察使ニ任ゼシ者ナリ。」(原漢文)
 
林院とは林大学頭の邸のことであろう。明治となって、かつて繁栄を誇った屋敷がすっかり荒れてしまっているのに、驚きかなしみ、感慨無量の思いに打たれたのである。横川源蔵はかつての幕臣で新政府に罪を得たものであろう。(右の引用中に「此ニ起居スルコト既ニ六、七年ナリ)の記述よりすれば、前の「六年」説、そして一九歳出郷説が正しいように思われる。後考をまつことにしよう。)
 林塾で学問が一応仕上がった以上、安宅も社会的活動に入りたくなったであろう。そこで、かねてからの願望を実現しようとして、社会見学のため諸国遊歴を志し、文久元年(一八六一)二七歳の時、常陸・上州・北越のほうに出かけて、翌二年江戸に帰ってきた。遊歴の間には、各地で弟子を取りその指導にもあたったが、地方の名士たちにも接し、歴史・風土の調査も行なって、いろいろと得ることが多かったのである。
 なお、この遊歴中のことについて、前引の「略記」には、次のように記している。
 
 「……上州桐生郷堤村の里に至り、逗留(とうりゅう)する事一年余りにして門人を受くる事四、五十人。又、其の里を立ちて、越後の国に至り又逗留する事一両年、門人を受くる事又四、五十人。後諸国を遊歴なし……」
 
これによると、上州と越後とに一年ないし二年ほどずつ止まって弟子を取っていたことになる。すると、年数計算が狂ってくることになるが、参考として附記しておくことにする。
 
    

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 江戸に帰ったところが、松岡次郎が自分の仕えている田原藩(一万二千石、藩主三宅康保)に仕官の口を見つけてくれた。小藩ではあるが断るべき理由もないので禄仕することにしたが、その年の一二月二五日、郷里から母が重病であるという知らせが届いた。親孝行な安宅は急いで帰郷したが、母はすでに息絶えていた。父もすでに老境である。長男の自分が家を離れては、大勢の兄弟の面倒も見られなくなる。その上、祖父母がまだ健在だった。大家族の面倒は安宅が見なければならない。そこで、彼はやむなく郷里に止まることにした。ところが、父は元治元年(一八六四)一一月五日、母のあとを追うて死んでしまった。そして、翌慶応元年(一八六五)一月、安宅は夷隅郡作田村(夷隅町作田)に移居し、さらに隣村の苅谷(かりや)村(夷隅町苅谷)に居をかえている。これはどういうわけか。また、家族をつれてのことか、それとも単身でか、それを知る一つの手がかりとして、彼の残した「松陰山房日記」の巻二「苅谷僑居記」の明治二年正月七日の記事に「家人余ニ従ヒ、始メテ帰展ス。浅井潜蔵、僑居(仮住まい)ノ留守ヲ為ス。」とある。これは後述するように、明治元年(一八六八)八月結婚した彼が「家人」つまり妻をつれて帰展(祖先の墓参り)に郷里へかえり、その留守を門人の浅井潜蔵に頼んだということである。久保村の家族を一緒につれて来ていれば、留守を他人に頼む必要もないわけである。もう一つつけ加えれば、七日に帰郷した安宅夫婦は一〇日まで滞在し、一一日に弟の弘嗣(前記の善次郎のことか)をつれて苅谷に帰り、弘嗣は一二日に「帰郷」したとある。それらから考えると、安宅は単身で郷里を出て来たものと見ていいだろう。もし、大家族をつれて移ったとするなら、作田村へ来て、またすぐ苅谷村に転ずるようなことが出来るものではなかろう。おそらく、郷里の弟たちも生活力をつけていて、家を任かせておけるようになったためではないかと考えられる。安宅としては、学問で自活したいという希望が強かったのではなかろうか。
 苅谷で安宅は塾を開いている。塾の名を誠尽館と称した。苅谷は居心地がよかったらしい。あるいは、苅谷の人たちが安宅を招いたのではなかろうか。「松陰山房日記」の巻二「苅谷僑居日記」によると、塾では孟子や詩経を講じていたことが知れるが、おそらくその他の書にも及んだことであろう。塾は繁昌したので、安宅はここに四年過ごしている。その間に塾生は二〇〇人を数えたという。明治元年(一八六八)八月一九日、三四歳の安宅は結婚した。相手は夷隅村見掛村(勝浦市)の神崎文蔵の娘である。名前は残念ながら不明である。おそい結婚ではあるが、ともかく安宅もようやく家庭を営むにいたったのである。
 明治二年(一八六九)一月二三日、大多喜藩(二万石)の藩主大河内正質が、新しく大多喜藩領に編入された新しい村々の視察に来て、苅谷村をも訪れた。その時のことを安宅は前記の「苅谷僑居記」に左のように書いている。
 
 「(一月)二十三日、雨。是ノ日大多喜侯兵隊ヲ率ヰ、親シク新邑ヲ巡察シ、石渡氏ニ宿ス。夜、監察井上昇ヲシテ余ガ草廬ヲ訪ハシメ、且ツ賜フニ金二方ヲ以テス。」
 
大河内侯苅谷の石渡方に一泊したが、監察の井上昇(「述行」には井上義行とある。義行は本名であろう。)を安宅の家に派遣して、教育のためにつくした労を賞して賜金をあたえたのである。(「二方」とは二分金のことである。長方形の一分金を二枚ということであろう。)なお、大河内正質は間部家から入って大河内家をついだ人で若年寄をつとめたこともある。この人の長男が工学博士大河内正敏である。
 ところで、「行述」には、安宅が大河内侯に対して上書して、学校を建てて教育を盛んにし人材を養成すべき必要を訴えたが、取り上げられなかったと書かれている。しかし、安宅の日記には上書したことは記されていない。ただ、二月一三日の条に、「是(こ)ノ日、大多喜侯訴状函(ばこ)ヲ苅谷駅ニ置ク」という記事がある。苅谷の宿役場に大多喜侯が訴状を入れた箱を置かせたというのは、安宅の上書をそのまま返してよこしたと解釈できそうである。しかし、これによって大多喜藩と安宅との関係が断たれてしまったわけではなかったらしい。というのは、日記の四月二二日の条下には「大多喜学校の講会ニ赴ク」とあり、また、六月二二日の記事には「大多喜学校ニ赴キ、孟子ノ序説ヲ講ズ」などと書かれてあって、彼が大多喜藩校の講師をやっていたらしいことがわかるからである。だからといって、彼が上書したのは自分が大多喜藩に使ってもらいたくてやったことでないのはもちろんであろう。世間には、彼が後に東金へ来たのは、この上書が用いられなかったことが不満でその腹いせであったかのごとく考えている向きがあるようだが、必ずしもあたっていないであろう。
 
    

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 こうして、苅谷での生活をつづけているうち、安宅と東金との関縁が生まれ、それがだんだん深くなってくるのである。「苅谷僑居記」を繰ると、明治二年(一八六九)二月四日の記事に、
 
 「飯田延太郎、東金ヨリ来ル。延太郎ハ新三郎ノ子ナリ。」
 
とある。東金の飯田新三郎の子の延太郎がたずねて来たというのである。これは、この日突然の訪問ではなく、飯田新三郎とは前から知り合っていたものと考えられる。さらに、三月七日の条には、「飯田新三郎来リ問フ。」とあり、同一五日には「新三郎、東金ニ帰ル。」と書かれてある。これは、新三郎が安宅の家に一週間ほど逗留していたことであり、二人の関係がかなり親密であったことがわかるのである。ところが、その後、日記には飯田新三郎という名は出て来なくなる。そのかわり、四月四日の記事に「飯田操軒ノ書、東金ヨリ達ス」とある。どうもこの「操軒」は新三郎の号であると思われる。すなわち、操軒即新三郎と考えたい。さらに、六月二一日になると次の記事がある。
 
 「二十一日、晴。東金ノ人大多和確斎来リ、飯田操軒ノ書ヲ寄ス。時ニ操軒ハ東京ニ在ルナリ。
 二十二日、晴。確斎・浅井潜造ヲ拉(らっ)シテ大多喜学校ニ赴キ、孟子ノ序説ヲ講ズ。」
 
東京の大多和確斎が飯田操軒の手紙をもって苅谷へ来て一泊した。翌日、安宅は確斎と門人の浅井潜造をつれて、大多喜学校へ行き、孟子の講義をしたというのである。(「大多喜学校」以下は前に引用した。)確斎は大多和平左衛門のことと思われるが、操軒の友人と見られる。操軒にすすめられて安宅をたずねたのであろう。こんな風にして、東金人とのつながりが深くなると、安宅の東金への関心が強くなって来る。そして、七月五日になると、彼のほうから東金へ出かけていっているのである。
 
 「五日。(門人佐久間千太郎が)即日東金駅ヘ送ル。飯田氏ニ宿ス。
 六日。飯田操軒宮谷(みやざく)県ヨリ還ル。是ヨリ先、操軒県ノ主記トナレルナリ。遂ニ共ニ稗田氏ヲ訪ネテ宿ス。
 八日。東金ヲ辞ス。」
 
門人の佐久間千太郎が馬で安宅を東金まで送ってくれた。安宅は飯田操軒を訪ねたが、操軒は留守であった。操軒は宮谷県の主記になっていたのである。主記とは明治二年に太政官に置かれた職で、記録や会計に関する仕事をする判任官であった。操軒の翌六日帰って来たので、二人は稗田氏をたずねた。稗田の名は四郎兵衛、東金町岩崎の庄屋であった。安宅は八日に苅谷へ帰っている。この東金行は親善ということもあったろうが、そればかりではなかったと思われる。明治二年(一八六九)一月から東金は宮谷県の管下に入っていた。飯田操軒は県の主記であり、稗田は東金の役人である。安宅の東金郷校教授へ就任の動きがこの時かなり進められたような感じがするのである。
 その後、一五日に飯田操軒が東金から訪ねて来て翌日帰っている。安宅はこの月二六日東京へ出かけている。そして旧師の安井息軒の家をしばらく振りで訪問し、しばらく滞在している。その間に、横浜へ出かけているが、八月一一日に東京で飯田操軒に会っている。飯田は太政官主記に栄転することになり、したがって東京へ住居を変えることになったのである。安宅は二六日東京を去ることになり、安井息軒に挨拶すると、息軒が別離の宴を張ってくれた。そして、その日小網町から船で登戸に着き、それから苅谷へ向わず、東金への道を取ったのである。
 
 「(八月)二十七日、(中略)哺時(ほじ)(夕方)東金駅ニ入リ、飯田氏母ノ宅ニ宿ス。
 二十八日、晴。駅正(庄屋)稗田勘左(勘左衛門の略記)ノ招キニ応ジ、東金郷校ノ教授ト為(な)ル。郷校ハ旧板倉侯ノ治所タリ。宮谷ノ管轄中トナルニ及ビ、東金ノ巨家九人社ヲ結ビ、郷校ヲ為(つく)ルコトヲ県令柴山公ニ請フ。乃(すなわ)チ、允(ゆる)サル。是(こ)ノ日、余ヲ以テ教授ト為(な)ス。
 二十九日、午牌(昼時)、東金ヲ辞ス。」
 
この二八日の記事は重要である。庄屋稗田勘左衛門の招きに応じて、東金郷校の教授となったというのである。これは、この日急に決めたのではなく、前々から話のあったのに対して、応諾したということである。彼が決意するまでは、迷いもあったことであろう。ここまで来るのにかなり時間がかかっていることがそのことを裏書きしている。彼としては、維新の機運に乗じて、もっと高い地位を望んでいたことと思われる。安井息軒をたずねたのも身の振り方を相談するためであったろう。苅谷の一私塾主であるよりも、東金郷校の教授のほうが多少いいかもしれないが、決して栄誉ある地位とはいえない。彼が迷ったのも無理がないといえよう。
 さて、右の二八日の記事中で、東金郷校の由来に触れているところは注意に値する。東金は寛文一一年(一六七一)以来、福島の板倉藩の飛地となっていたが、明治二年一月国替えとなり、宮谷県の治下になった。その時、東金の「巨家九人」(後出。この中に、大多和・稗田両家が入るだろう。)が県令の柴山文平に願い出て、郷校を作ってくれと頼んだ。それが許可されて出来たのが東金郷校であるというのである。郷校とは江戸時代には郷学と称し、あるいは教諭所という名称でも呼ばれたが、人民の願意にもとづき、領主がこれを認めこれを後援して作られた学校で、いわば半民半公の庶民学校であった。苅谷の塾はもちろん私立であったのに対して、東金郷校は宮谷県の支援もあるから、それだけ安定性もあるわけなので、安宅も踏み切る心になったのであろう。なお、東金郷校は板倉の陣屋になっていた旧東金御殿に設けられたもので、すでに授業も行なわれていたのである。なお、東金郷校は明倫堂という名をもっていた。
 
    

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 安宅一家は九月一〇日に苅谷を引上げている。苅谷の門弟たちは別れを惜しんで、涙とともに心からの餞別をおくっている。安宅一家は途中茂原で二、三日を過して、一三日東金に入り、一先ず稗田方に身を落着けた。一四日には郷校の学生たちが敬意を表して来た。一五日には稗田方から郷校内の住居に移居した。(なお、この九月一五日から日記は「東金郷校記」と名をかえている。)そして、一六日には初講会を行なっているが、この日の記事を引用しよう。
 
 「十六日、晴。是ノ日講会ヲナス。是ヨリ先、宮谷県学校教授倉橋鋭三郎漢学ヲ以テ来リ講ズ。山口某国学ヲ以テ相代リ会ヲ為ス。是(ここ)ニ於テ、余此ノ二人ニ代ル。即チ、孟子ノ首篇ヲ講ズ。」
 
この日の初講会には孟子を講じたのであるが、安宅の前任者のことが書かれている。倉橋鋭三郎が漢学を教え、山口某が国学を教えていた、その後へ安宅が赴任したことがわかる。かくして、東金郷校教授の仕事がはじまったわけである。それから三日後の一九日に安宅は宮谷県庁をおとずれ、赴任の挨拶をしているが、その時倉橋鋭三郎にも初対面をしている。倉橋とはその後も何回か会っており、倉橋のほうから安宅をたずねたこともある。倉橋は旧幕臣だったということだ。
 講義がはじまると、入門者がだんだんふえてくる。日記にちょいちょいその名が出てくるが、わずらわしいから略す。その中には柴山県令の長子新吾・次子麟太郎の名が見え、また何人かの女性があることもおもしろいと思う。
 年が明けて明治三年(一八七〇)を迎えると、東金郷校では入門式を行なっている。その日の記事を安宅の日記から書き抜くと、
 
 「十二日、是(こ)ノ日発会。孟子ノ公孫丑(こうそんちゅう)ノ篇ヲ講ズ。校社大多和確斎・水野茂右(茂右衛門)・稗田勘左(勘左衛門)・内田清三郎・田波養拙・能勢嘉左(嘉左衛門)・柴田増右(増右衛門)・桜木太兵(太兵衛)、始メテ入門ノ式ヲ行フ。大野風乎(伝兵衛)ハ校社タレドモ、既ニ余ガ門ニ入ル。故ニ、此ニ列セズ。又、講会ヲ二・五・七ノ九日ト定ム。」
 
ここに「校社」という名の九人の人名が出てくる。このうち、大野風乎(八代伝兵衛、別項参照)はすでに入門しているからこれを除き、他の八人について入門の式を行なったというのである。そもそも、「校社」とは何か、社とは仲間というような意の語であるから「校友」というごとき意味になろうが、といって生徒とか学生とかとはちがうであろう。この九人はみな町の錚々たる顔役である。前に東金郷校設立を宮谷県令に願出た「東金巨家九人社ヲ結ビ」という九人は、おそらく、右の九人であろう。だから、「校正」というのは設立委員というような意味と考えられる。つまり、校社というおえら方が全部入門したというのである。これは今の学校では考えられないことだ。この入門式には、ほかの入門者も列席したと思うが、とにかくおもしろいことである。そして、講会の日を毎月二の日、五の日、七の日の九日間とすることに決めたのである。
 なお、教授内容については、孟子のほかに左伝を講じ、また、国史の講義も行なわれ、それも、応神帝紀・仁徳帝紀・雄略帝紀のごときもので、総じて寺子屋的でなく高級な講座という感じがする。しかし、単なるレクチュアに終始したのではなく、人間教育に最大の力を入れたのであって、いわゆるマン・ツー・マンの訓化を行なったのであり、その点の感銘は深かったようである。「行述」にも、
 
 「先生容貌端荘、挙動方正ニシテ、其ノ人ニ接スルヤ、厳ニシテ恩アリ。故ニ、門人過差アリトイヘドモ、未ダ嘗ツテ責メズ。云々」
 
とある通りである。みずからを正しくして人を化するという、真教育者であった。なお、彼は郷校で書物の講義をするばかりの教師ではなく、社会教化の上でも力をつくした。当時は明治新政が定着せず、人心が安定しない混乱期であったから、いろいろゴタゴタが絶えなかった。それに対して彼は毅然たる態度で新政の意義を説き、正しい方向づけのために努力したのである。教養のある彼の指導には町民たちも信頼を寄せていた。人望が自然に彼に集まるようになった。彼は社交性のある人物だったから、多くの人たちと交流を持った。彼には人を引きつける魅力があったのである。前にあげた巨家九人は彼を師と仰いだし、特に大野伝兵衛(風乎)は親しくしていて、その経営する茶園には安宅も深い関心を寄せた。そのほか、画家の飯田林斎、医者で儒者の吉井宗元(老湖)、画家で郷土史家の安川柳渓などは昵懇(じっこん)にしていた人たちであった。柳渓は「上総国誌」の著者であるが、安宅より一四歳の年長であったから、安宅のほうで兄事していた。二人は協同して郷土研究をやろうと意気投合していたのであるが、若い安宅が早逝してしまって、柳渓を非常にがっかりさせた。そのことを柳渓は「上総国誌」の跋文で書いている。(別項「安川柳渓」参考資料参照)
 安宅は学者としても研鑽を怠らなかった。そして、特に房総の地理・歴史に関する研究には力を入れ、多くの著述を残している。その主なものは左のごとくである。
 
  「房総志料」六巻  「房総逸史」一巻
  「上総地誌」一巻  「安房地志」一巻
  「南総郡郷考」二巻 「名族譜」二巻
  「松陰山房日記」五巻(巻一を欠く) (明治二年一月-同四年二月の日記)
  (このほか、雑抄・詩文集の類が二十巻ほどある。)
 
 右のうち、「房総逸史」(原漢文)は彼の代表的な述作で、「房総叢書・第三巻」に収められている。明治三年七月東金で書き上げたもので、その内容は治承四年(一一八〇)源頼政が以仁(もちひと)王の令旨(りょうじ)を奉じて挙兵したことから書きおこし、元弘二年(一三三二、北朝正慶元年)後醍醐天皇の隠岐遷幸まで一五二年間における房総諸豪族の動きを年代順に書いたものである。また、「松陰山房日記」は漢文で書かれた日記で、彼が苅谷で塾を開きやがて東金へ移り、東金郷校で講義しながら多くの人と交遊する状況が記されているもので、本文でもたびたび引用したことは、ごらんの通りである。
 安宅は明治二年九月、東金へ移居したのであるが、それから一年一か月の後、明治三年(一八七〇)一〇月一四日、男児が誕生した。三六歳にして、はじめて父親と成り得、しかも後つぎをえたことは大いなる喜びであったろう。名前は大多和確斎が選んで、鴇太郎とつけた。鴇ケ嶺にちなんだものである。こういう幸福はあったが、元来健康体といえなかった彼は、翌四年の四月ごろから体調をくずし、九月二四日から病床についた。夫人はもとより門人で助教をつとめていた吉原信・江沢敏常らが献身的に看病につくした結果、一時快方に向かったが、五年(一八七二)の三月から、ふたたび臥床し、六月一四日午後三時長逝した。享年三八歳であった。考学院老山道州居士と謚(おくりな)され、故郷久保村の久保台山先塋(けい)の側に葬られた。
 鶴岡安宅と東金との関係はその晩年の三か年にすぎない。しかし、近代文明の出発期にあたり、学問上教育上に残した彼の功績は決して小さいものではなかった。

鶴岡安宅