斎藤東湾(とうわん)(漢学者・詩人・郷土史家)

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 名著「安房志」を書いた斎藤東湾は、わが東金市が生んだ漢学の大家で、また、著述家・教育実践家としても、他に誇るべき人物の一人である。
 東湾の名は顕忠、字は士享、通称は夏之助、東湾はその号である。安政五年(一八五八)六月二六日、上総国山辺郡幸田村(東金市幸田)斎藤吉左衛門の二男に生まれ、幼時から俊才を謳われ、六歳の時から川場村(東金市川場)で家塾を開いていた筑紫文岱(ぶんたい)という学者のところへ入門した。文岱について伝える資料としては、東金市川場の東福寺にある文岱墓碑の碑文A(斎藤東湾撰文、参考資料参照)と東湾が書いた「追(つい)哭(こくス)文岱先生(ヲ)」B(「東湾村稿・巻之二」)という文章(AもBも漢文)がある。いずれも短いもので、文岱の経歴についてくわしくは知り得ない。それらによると文岱は肥後の生まれであったようだが、Aは「肥後細川侯藩ノ産ナリ」とし、Bは「後肥某侯ノ儒員ナリ」としている。某侯というだけでは何藩とも分からない。肥後には細川藩(熊本藩)のほか、宇土藩・富岡藩・人吉藩・宇土藩(細川支藩)等の諸藩があったから、はっきりしなくなる。Aを信ずれば、細川藩(熊本藩)に仕えていたということになるだろう。この説をとるべきであろう。
 学者としての彼について、Bには「経史ヲ博渉シ、兼ネテ詩文ヲ善クシ、旁(かたがた)、刀圭(とうけい)ノ術ニ通ズ」とある。Aには「医ヲ以テ業ト為シ」とあるだけである。そうすると、漢籍に通じ、かつ漢詩をよくつくり、その上、医術(「刀圭ノ術」は医術のこと)が出来た人ということになる。昔の儒者には医術の出来る人が多かったから、まず信じられよう。次に彼の人物であるが、Aには「幼ニシテ博学多識、長ジテ雄邁ニシテ特達」とあり、Bには「人ト為(な)リ雋爽(しゅんそう)(すぐれてさっぱりしていること)」とある。相当立派な人物ということになる。その彼が何故に当地へやって来たか。それについてBは「故有リテ致仕シ、来リテ本州川場ノ里ニ寓ス」とあり、Aには「遍(あまね)ク諸州ニ遊ビ、晩年蹤(あと)ヲ南総川場村(東金市川場)ニ占ム。帷(い)ヲ垂レ、業ヲ授ク」とある。浪人したのであるが、理由は示されていない。ともかく、諸国を転々とした末、晩年になってから川場村にやって来て家塾を開いたというのである。
 ところで、文岱の浪人した事情について、斎藤家の現当主で東湾の令孫にあたる斎藤一夫氏(書道家)の語るところによれば、細川藩に禄仕していた文岱は、藩の重役と意見が合わず脱藩してしまったのだという。何が原因か分からないが、文岱が仕えていた頃は、幕末の世情騒然たる時代で、細川藩は学校党・実学党・勤王党の三派に別れて相争っていたから、文岱はその渦中に巻きこまれた結果、重役と衝突して脱藩することになったのではなかろうかと考えられる。そして、おそらく文岱は進歩的な思想を持ち、勤王党か実学党に属し、保守派(学校党)の重役と意見が合わなくなったのではなかろうかと想像される。なお、彼の本姓は高伴と言い、筑紫という姓は脱藩後の仮称であったと見られるのである。
 さて、文岱がどういう関係で川場村へ来たかは不明だが、ここは宿場町を形成していて、塾を開くにはよい場所だった。Aにも「四方ヨリ誨(おしえ)ヲ請フ者衆(おお)シ」とあるが、門弟も多く集まったのであろう。そして、彼は塾経営のかたわら医者もやって家計のおぎないをつけていたことと思われる。彼は独身ではなく家族持ちであり、Aに「一女有り」とあるから、娘が一人いたようである。さて、文岱はAによると、「明治七年(一八七四)十月二十一日、病ニ罹リ逝去ス。享年五十三。」とあるごとく(Bには死亡の年時など記していない)明治七年、五三歳で死んでいる。これから逆算すると、彼の出生は文政五年(一八二二)となる。彼の死後、娘が家を嗣いだとAにあるが、その後どうなったのか、分からない。
 ところで、東湾はこの文岱のところへ六歳の時に入門し、それから七年間在学したということである。これを年代でいうと、文久三年(一八六三)から明治二年(一八六九)までということになると思う。すると、文岱が川場へ来たのは、少なくとも文久三年以前ということになり、彼の年齢でいえば四二歳以前ということになる。
 東湾が文岱に七年間も従学したということは彼の生涯において、きわめて重要な意味をもつのである。東湾は後に学校教師となるが、その専門は漢学であり漢詩であった。その基礎はおそらく文岱塾にいる時代にきずかれたであろう。東湾は学才にめぐまれていて、文岱塾では師の代稽古をつとめるほど学問が上達したということだ。文岱の教授効果も相当大きなものがあったのではなかろうか。してみれば、文岱は彼にとって大恩人といっていいだろう。東湾が文岱の死後同門の中心となって、師のため建碑したのも当然ということができるだろう。師の死後、彼は独学で刻苦しなければならなかったが、基礎が出来ていたことは幸いであった。
 
    

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 明治五年(一八七二)学制が発布され、翌六年小学校令が施行されることになると、教員志望試験に応募した東湾は、見事これに合格し、翌々七年一七歳の若さをもって幸田小学校教員となり、以後逐次上級教員試験に合格している。
 明治一二年(一八七九)には、自宅内に私立中学校朝宗学舎(寄宿制)を設立し、公職のかたわら近隣の子弟を集めてこれを薫陶した。「東湾村稿・巻之二」に「塾生ヲ拉(らっ)シテ梅ヲ山口ニ観ル」と題して、一五首の七言絶句が載っているが、学業の余暇、観梅遠足をやった時の作であろう。
 明治一五年(一八八二)小学校中等科免許状を授けられ、また、翌年文部省から栄ある教育表彰を受けている。そして、翌々一七年五等訓導の資格をあたえられた。
 ところが、この年七月、東湾は山口村へ転居しているのである。幸田から山口までは、約七キロしか離れていない。それは彼が明治二〇年(一八八七)にまとめた漢詩集「卜居百律」(「東湾遺稿集・第二巻」所収)の序に、
 
 「明治十七年七月、新タニ居ヲ漁村ノ間ニ構ヘ、紅杏(こうきょう)書荘ト称ス。庭園ニ杏樹百株ヲ植ヱ、以テ窃(ひそか)ニ杏壇ニ比ス。爾来(じらい)三年間、詩数百ヲ得タリ。(下略)」(原漢文)
 
と書かれているのによって分かるのであるが、彼はここで三年間すごしたというのである。しかし、何故の転居だったのだろうか。
 その頃、彼はすでに結婚していた。はっきりいえば、明治一五年(一八八二)二月のことで、妻となった女性は、武射郡八田村(松尾町八田)の旧松尾藩士金沢善基の二女ぎん(戸籍名)である。彼女は慶応三年(一八六七)九月三日の生まれで、東湾とは九歳のちがいである。東湾が二五歳、ぎんが一六歳の結婚である。ぎんは文字どおりの若妻であった。二人の間には一六年一月に長男胖が生まれていた。
 山口に移ったのは、夫婦だけではなかったようだ。というのは、「東湾村稿・巻之二」に「山口村ニ移居ス」と題した詩(漢詩)があり、その中に「全家移リテ茅(ぼう)茨ノ下ニ在リ」という語があるからだ。しかも、同書中の「山口雑詠二十首」の中の一首に「辛苦シテ家ヲ移スモ偶爾(ぐうじ)ニ非ズ」となり、また、「同書巻之三」中の「山口雑詠」と題された連作詩の一首中に「辛苦シテ家ヲ移シ、林泉ヲ為(つく)ル」の語もある。「辛苦」とはどういうことを指すのであろう。経済的な事情はもちろんあろうが、そのほかに何か複雑な事情があったような気がするが、それが果してどういうことだったかは分からない。
 しかし、山口の住居は彼の詩情を満足させるところがあったらしい。前引の「山口雑詠」の詩の中に「水清ク山静カニシテ塵縁(じんえん)ヲ絶ツ」と歌い、また、「騒人(風流の人)若シ幽棲ノ処ヲ訪ヌレバ、水柴門(さいもん)ヲ繞(めぐ)リ、竹隣ヲ作(な)ス」と詠んでいるような住居であった。そして、ここに住みながら、「身ハ山林ニ在リ名利除(さ)ル。風流宅ヲ老陶廬ニ比ス。」(「卜居百律」)と詠んで、田園詩人陶淵明にみずからを擬していたのである。東湾と親交のあった小野村の田中蛇湖も、やはり陶淵明気取りで、「帰去来辞」中の「廬ヲ結ンデ人境ニ在リ」の語がとても好きだといっているが、東湾にも同じ感懐があったかもしれない。彼はまた、別の詩の中で、「回壁何ゾ憂ヘン司馬ノ貧ヲ」とも歌っている。司馬遷は漢の武帝から宮刑に処せられたが、その屈辱に屈せず、貧にたえながら「史記」を書き上げた。東湾には修史の志があったから、司馬遷にあやかろうとする気持も湧いたのだろう。
 ここで、前引の「卜居百律」の序に戻ろう。東湾は山口の新居に杏(あんず)の木を百本植えて、自家を「紅杏書荘」と称したという。杏の花は彼の好んだものだったのだろう。百本も植えたというのは、果実をとるという目的もあったかも知れないが、「以テ窃ニ杏壇ニ比ス」といっているとおり、孔子に傚おうとするところがあったのである。すなわち、杏壇とは孔子が学問を教えた所の跡にある祭壇のことで、その周囲にはあんずが植えてあったので「杏壇」の名がある。紅杏書荘とは風流な名であるが、教育的な意味も含ませたのであろう。
 山口における生活は東湾にとって、いろいろ意義をもつものであったらしい。当時、詩をたくさん作っているし、後にそれらを「卜居百律」と題して一書にまとめているが、それを読んでみても、彼の当時の心境が汲み取れるのである。彼にとってはなつかしい時代だったにちがいない。
 山口の生活は三年で終ったようである。そうすると、明治一九年ないし二〇年(一八八六-七)にはそこを立ち去っていることになる。幸田に帰ったのであろうが、なぜそういうことになったのか、また、それが何年何月だったかを正確に知り得る資料はない。
 
    

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 彼は明治一九年(一八八六)進徳小学校の訓導に任命された。ようやく公務につくことになり、ついで、翌二〇年同校の校長を兼任するよう命ぜられた。この年、彼は二九歳であった。まずは栄進というべきであろう。が、同じ年、もう一ついいことがあった。それは、文部省の検定試験(いわゆる文検)に応じて、これに合格し、師範学校・中学校漢文科教員免許状を授与されたことである。当時の文検合格は至難のわざであったが、彼は見事に難関を突破し、中等学校教諭たり得る資格を獲得したわけである。
 越えて、明治二三年(一八九〇)東湾は大和小学校の訓導兼校長に転任したが、彼の本望は中等学校の教員になって、専門の漢文を教授したいということであった。しかし、その機会はなかなかおとずれなかった。そして待つこと一四年、明治三四年(一九〇一)になって、ようやく待望久しい時がめぐって来たのである。すなわち、その年四月彼は千葉県立安房中学校(現・安房高等学校)の教諭に任命されたのである。彼すでに四三歳である。しかし、よろこびは大きかったと思われる。
 東湾は妻子とともに、学校の所在地たる安房郡北条町(館山市)に赴任した。房州での生活は校務のほか、例のとおり漢学の研究に精励するとともに、作詩も怠らなかったが、安房の歴史探究に情熱をそそいだ。その結果、「安房志」のごときすぐれた著作も生み出された。
 こうして、房州生活を送ること十年余、明治四五年(一九一二)の初夏、体調が悪化し病臥の身となったが、七月一五日ついに永眠した。五五歳であった。安房中学校では丁重な葬儀を行ない、その冥福を祈ったという。教子たちの敬慕またあついものがあった。遺骨が郷里に帰るや、かつての門弟は流涕して、心をこめた葬送の礼を行ない、報恩のまことをつくした。遺骸は幸田の本光寺に葬られ、「清浄院顕忠日澄居士」の法名がおくられたが、さらに、大正二年(一九一三)門人一同によって、墓碑のかたわらに、頌徳の巨碑が建設され、遺芳は永遠に伝えられることになった。東湾以て冥すべしである。
 東湾の風貌を本光寺の碑文はこう伝えている。
 
 「人ト為リ痩顔(そうがん)(やせ顔)長身ニシテ美シキ鬚髯(しゅぜん)有リ。眼光炯然(けいぜん)(鋭く光ること)トシテ人ヲ射ル。」
 
これは晩年の容姿をいったものであろうが、遺影を見ると、全くこのとおりで、いかにも漢文学者らしい風姿である。性格は厳厲なところはあったが、内面には温情をたたえて、詩人的な憂愁をいだいていた人のように思われる。碑文には、「先生ハ蒲柳(ほりゅう)ノ質ニシテ、善ク病ミ善ク愁フ」と記しているが、頑健な肉体の持主でないだけに、内省的であって、他にはやさしく、自らにはきびしかったようだ。そのきびしさは、学問修行によく発揮されて、病床にあっても、研学をおこたらなかった。つまりは意志の人というべきであろう。
 東湾の学問は朱子学が中心であり、特に水戸学を信奉していた。そのため国粋主義的傾向が強く、明治の新時代に生きても、欧米化の風潮を好まないところがあった。そして、いつも和服で押し通すようにしていた。安房中学校在職中も、当局から教員はなるべく洋服を着用するようにという指示があっても、彼は従わなかった。当局でも彼には一目をおいていたから、黙認の態度を取らざるをえなかったという話柄がある。
 彼は学者であり、詩人でもあったが、彼の一生の仕事は教育者のそれというべきであろう。五五年の生涯のうち、四〇年くらいを教育に捧げているのである。塾の先生・小学校の教師・中学校の教師、この三つのコースを彼は歩んだが、彼の本領は塾の先生だったといえそうだ。碑文によると、彼の真の目標は儒道を復興することにあって、詩文のごときは余技にすぎなかったということだが、そうであったと思われる。というのは、教育を最高のメルクマールとしていたということだろう。「気力絶倫、教ヘテ眠食ヲ廃スルニ至ル」(碑文)というのも、必ずしも誇張ではないだろう。
 
    

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 東湾はかなり多くの著編を残している。上梓されたものもあるが、稿本として保存されているものもある。まず、学問的な著述を見ると、「安房志」「外史纂摘註」「故事考」「事物異名類纂」等があげられる。この中、何といっても、最大の労作は「安房志」であろう。これは、十年以上にわたる彼の安房時代の記念碑的著作であった。
 東湾が房州の地をふんだ時、彼の心をとらえたのは、この地の歴史が古いにもかかわらず、学問的に未開拓であるということだった。したがって、文献も少なく、調査も行き届いていないことだった。そこで、房州へ来た以上、大いにアプローチしてみたいと、情熱を燃やしたのである。(「遊房日録」)そして、あらゆる資料を渉猟し、暇を見ては草鞋がけで、安房の隅々まで歩きまわり、いわゆるフィールド・ワークの実をあげてこの著述をつくりあげたのである。本書は糧から見ても、五百頁を超える大著であり、このために彼は命を縮めたのではないかと考えられるほどのものである。本書の執筆方針について、東湾は「此の篇、安房全国に於ける郷里荘保の沿革・社寺城寨の来由・忠臣孝子・名将賢士・節婦英僧の遺蹟及び故老相伝の旧事異聞を記載するを以て旨とす。」(凡例)といっているとおり、いわゆる通史的叙述ではなく、個々の事跡・事象・名勝・人物・文化物等につてい記述しているのである。「志」(誌)とは記録体の史書であり、本書もその体に従っている。それも、「此の篇専ら古代に遡(さかのぼ)つて其の本蹟を蒐輯(しゅうしゅう)するに在り。故に、輓近(ばんきん)の事に至つては、多くは略して載せず。」(同)という視点であつかっている。しかも、執筆の態度は「此の篇、事実の確実にして、考拠の詳細ならんことを務む。」(同)といっているように、リアリスティックな行き方をとっているのである。東湾は漢文が得意であったが、本書は平仮名まじりの和文でしるされ、もちろん文語体であるが、文章は古雅でなかなか迫力がある。現代の人にはちょっと親しみにくいが、博引旁証、苦心のあとが歴々としている。
 歴史学者として著名な邨岡良弼(むらおかりょうすけ)は本書に序文をおくり、「上下三千余年ノ迹(あと)、粲如(さんじょ)トシテ掌上ノ紋ヲ視ルガ如シ。勤メタリト謂(い)フベシ……其文真摯ニシテ婉雅(えんが)、洵(まこと)ニ師尚(ししょう)スベシ。」(原漠文)と、称賛のことばを記している。なお、本書は明治四一年(一九〇八)五月、多田屋から刊行されている。
 東湾の安房時代は、生涯のピークであった。その象徴がこの「安房志」である。この著述は房総の郷土史研究史の上から見ても、歴史的意義のある価値高い文献である。東金には「上総国誌」を書いた安川柳渓があり、また、「房総逸史」を書いた鶴岡安宅がいた。(いずれも別項参照)東湾は柳渓とは特に親しい交友をし、感化も受けていた。しかも、修史にはもともと野心があった。「安房志」はそういう環境と心意の中から生み出されたものであった。東湾は東金周辺の歴史にも深い関心をもっていた。それは、彼のたくさんの漢詩の中に、歴史を取り上げたものが多いことによっても察知できるが、残念なのは、東金周辺についての「安房志」のごとき著述を残していないことである。もし彼がなお十年の余命を得て、郷里東金の歴史的研究を残しておいてくれたなら、郷土文化の発展のために、どれほど幸せであったろうかと悔まれるのである。
 
    

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 次に、彼の詩業について語らなければなるまい。彼は尨大な数の漢詩を残している。それは大体「東湾遺稿集・第二巻」に収められているが、この巻(詩ばかりでなく文章も入っている)はすべて漢字で埋められ、見ただけで圧倒されそうである。よくこんなものを書きのこしたものだと驚くばかりである。彼の漢詩は七言絶句が多いが、五言のものもあり長詩もある。題材は諸方面にわたり、自然・人物・史跡・生活・社会等ヴァラエティに富んでいる。それから、目につくのは、人に贈った詩が多いことである。漢詩人の間に、詩の贈答が盛んに行なわれたことは周知のことであるが、東湾もその面では相当の社交家であったことが分かる。漢詩壇の有名人と広くつきあいがあったわけである。出てくる主な名を列挙してみると、森春濤(とう)・貫名海屋(ぬきなかいおく)・大槻如電(じょでん)・塩谷(しおのや)青山・南摩綱紀(なんまこうき)・清宮秀堅・岡鹿(ろく)山・岡本韋庵・嶺田楓江・村岡良弼・今関琴美・板倉胤臣・鱸(すずき)松塘・大沼枕山・安川柳渓・吉井老湖等である。
 東湾の詩に対する門弟の批評を聞いてみよう。「其ノ言雅雋(がしゅん)、其ノ志高尚、首首皆珠玉。句々皆琢磨、朗吟数遇スレバ、余韻愈(いよいよ)深シ。先生ノ志、杜韓(杜甫と韓退之)憂国ノ意ト同帰ナリ。」(大木宇佶)「我ガ東湾斎藤先生ノ詩ニ於ケル、経伝ヲ渉猟スルノ余之レヲ得タリ。故ニ、能ク詩人ノ常套(じょうとう)ヲ脱出セリ。」(斎藤吉次)(以上「卜居百律」跋文より)門人の評であるから賛美にみちている。彼の詩はいわゆる「述志」的なものであり、憂国の情にもとづくとし、研学の余技であるから専門詩人の俗臭がないという。また、格調が高く、余韻が深いともいう。ところで、敢えていえば、漢詩は型の文学であり、習慣の文学である。それは、形式だけでなく内容もそうである。その点、東湾の漢詩も型通りのものが多い。しかし、東湾の詩を読んで心ひかれるのは、身辺の生活を詠んだものである。そこには彼の真情が出ていて、清新なものが感ぜられるところがあることをここで言っておきたい。
 東湾は詩については天才的なところがあったようだ。それについて、令孫・斎藤一夫氏はこんなことを語ってくれた。それは、東湾がまだ少年のころの話だが、詩壇の大御所と称された森春濤(しゅんとう)(前出)が東湾の詩を読んでえらく感服してわざわざ会いに来たというのである。春濤は年齢においては(文政二年生まれ)東湾より三九歳も上であり、詩業においては一世に卓然としていた人である。その人に認められたというのは、東湾の詩才がなみなみでなかったことを物語るといってよいであろう。
 なお、東湾には漢詩に関する編著があることをつけ加えておきたい。「鶴湖唱和集」「東金雑咏」「南遊詩草」「皇統一系歌」「唐詩正音」のごときものである。
 以上、東湾の学問と詩業に関係する著述を取り上げたが、このほか、雑著というべきものがある。「明倫要義」「格言録」「斎子文集」「鎌城小録」「書紳警語」のたぐいである。

斎藤東湾

 
 【参考資料】
   (一) 斎藤東湾先生ノ碑(原漢文)
             (東金市幸田・本光寺境内)
 先生、姓ハ斎藤名ハ夏之助字(あざな)ハ顕忠号ハ東湾。上総正気村幸田ノ人。考(こう)ハ吉左衛門、妣(ひ)ハ鬼島氏、先生ハ其ノ第二子ナリ。幼ニシテ岐嶷(きぎ)①、八歳ニシテ字ヲ識ル。後、高伴文岱(ぶんたい)ノ門ニ入リ、研鑽スルコト七年、学業大イニ進ム。
 明治六年(一八七三)小学校令発布サルルヤ、先生試(し)ニ応ジ、七年(一八七四)幸田小学校ノ教師ト為(な)リ、十五年(一八八二)小学校中等科教員免許状ヲ授カリ、十六年(一八八三)文部省ノ表彰スル所トナル。十七年(一八八四)五等訓導ニ任ゼラレ、十九年(一八八六)進徳小学校訓導ニ任ゼラレ、二十年(一八八七)校長ヲ兼ヌ。同年文部省ノ試ニ応ジ、師範学校・中学校漢文科教員免許状ヲ授カル。二十三年(一八九〇)大和小学校訓導兼校長ニ任ゼラレ、二十四年(一八九一)高等本科正教員免許状ヲ授カル。三十四年(一九〇一)安房中学校教諭ニ任ゼラレ、以テ易簀(えきさく)①ノ時ニ及ブ。
 教育ニ従事スルコト茲(ここ)ニ三十有九年。先生ノ子弟ヲ教導スルヤ、諄々孜々(じゅんじゅんしし)トシテ勉メテ倦(う)マズ。是ヲ以テ、及門ノ諸子皆能ク道ニ達シ、其ノ指画教育ヲ継承シ、子弟父兄ノ信頼嘖々(さくさく)トシテ措(お)カザルハ、亦先生ノ力ナリ。
 先生、人ト為リ痩顔(そうがん)長身ニシテ、美シキ鬚髯(しゅぜん)有リ、眼光炯然(けいぜん)トシテ人ヲ射ル。性、学ヲ好ミ、気力絶倫、教ヘテ眠食ヲ廃スルニ至ル。嘗(か)ツテ大日本史ヲ手写シ、継〓(けいき)②之レヲ読ム。其ノ篤学思フベキナリ。専ラ〓洛(びんらく)ノ学③ヲ修メ、経史百家ノ書ヲ渉猟シ、該博(がいはく)①深淵、常ニ儒道ヲ復興スルヲ以テ任ト為シ、余力モテ文詩ニ造詣スル所有リ、故ヲ以テ交游スル所皆一時ノ名流タリ。
 著ハス所、曰ク「卜居百律」、曰ク「唐詩正音」、曰ク「皇統一系歌」、曰ク「南遊詩草」、曰ク「鶴湖唱和集」、曰ク「明倫要儀」、曰ク「東金雑咏」、曰ク「安房志」、曰ク「百家名言」、曰ク「〓雨〓(ぎん)草」ノ十有余種ハ既ニ該成(がいせい)セリ。曰ク「東湾邨(そん)稿」、曰ク「事物彙(い)纂」、曰ク「鎌城小録」、曰ク「修身格言録」、曰ク「外史纂摘註」、曰ク「故事考」、曰ク「東金新咏」ノ七種余ハ未ダ上梓セズ。而シテ、先生ヲシテ専ラ述作ヲ事トセシメ、天復(また)假スニ年ヲ以テスレバ、則チ斯道(しどう)ヲ闡明(せんめい)シ、後昆(こうこん)④ヲ益スル、豈(あ)ニ此ニ止マランヤ。
 先生ハ蒲柳(ほりゅう)ノ質ニシテ、善ク病ミ善ク愁フ。其ノ病ヤ、執筆シテ已(や)マズ。其ノ愁ヤ、探韻シテ能ク吟ズ。蓋(けだ)シ、〓(しょう)情⑤ノ致ス所ナルカ。
 四十五年(一九一二)初夏、又病ンデ頗ル重キヲ加フ。令夫人侍シテ、湯薬懇(ねんごろ)ニ款備(かんび)⑥至リ、衣、帯ヲ解カザルコト七旬。不幸ニシテ遂ニ起タズ。実ニ七月十五日ナリ。噫(ああ)、命ナルカナ。安政五年(一八五八)六ニ生レ、年ヲ享クルコト五十有五。安房中学校校長以下職員及ビ学生、葬典ヲ挙グルコト頗ル盛大ナリシト云フ。遺骨ノ郷里ニ着スルニ及ビ、嘗ツテ門ニ従フ者、流涕(りゅうてい)シテ柩ヲ擁シ、具礼(ぐれい)シテ本光寺ノ塋域ニ〓(うず)ム。
 先生、新ニ家ヲ起シ、松尾藩士金沢善基氏ノ女銀子ヲ娶(めと)リ、三男四女ヲ挙グ。長ハ胖君ニシテ家ヲ嗣ギ、既ニ配有リ、田中氏ト曰(い)フ。次ハ有斐君ニシテ、東亜同文書院ニ入リ、中道ニシテ病没ス。三男ハ卓爾君、東京商船学校ニ入ル。長女文子ハ白土氏ニ帰(とつ)ギ、二女福子三女静子共ニ夭(よう)シ、四女満子ハ修学シテ家ニ在リ。家道亦殷賑(またいんしん)タリ。先生、以テ瞑スベキナリ。
 頃(このごろ)、門人等胥(あい)議シテ、碑ヲ建テ不朽ヲ謀ラント欲シ、銘ヲ刻シテ曰ク、
  風神奕々(えきえき)⑦トシテ   人皆瞻望(せんぼう)⑧ス
  英才ヲ教育シ          先生ノ居ル所
  俗ハ循良ト為(な)ル       梅花的〓(てきれき)⑨トシテ
  惟(これ)、行蔵⑩ヲ守リ     永ク芬芳(ふんほう)⑪ヲ嗅(か)グ
    従二位勲四等伯爵万里小路通房篆額門人撰文并書
                   田中芳輝刻
  大正二年(一九一三)七月建之
                   門人一同
 
 注 ①幼少から才知がすぐれていること
   ②太陽が照っているかぎり
   ③程朱学
   ④子孫、後世
   ⑤風雅を愛する心。〓は笛を作る竹の名
   ⑥行きとどくこと
   ⑦立派な人柄がゆたかに発揮されて
   ⑧尊敬し、うやまう
   ⑨白くかがやく
   ⑩出処進退
   ⑪かんばしい香り、立派な名声
 
   (二) 筑紫文岱(つくしぶんたい)墓碑文(原漢文)
    筑紫文岱の墓は東金市川場の東福寺にある。正面に「筑紫文岱之墓」とあり、その左右に左の碑文が刻まれている。文は門人たる斎藤東湾の作成したものである。そして裏面には門人の名が刻まれているが、内訳は堀上村一人・川場村七人・蛇島村二人・幸田村一人・高根村一人・貝塚村一人、ほかに幹事として三人で、総計一六人である。堀上村の一人は篠原蔵司であり、幹事の中には斎藤東湾の名がある。建碑されたのは、明治一三年(一八八〇)一月である。
 
 先生、姓ハ筑紫、字(あざな)ハ文岱(ぶんたい)、号ハ玄海。肥後細川侯藩ノ産ナリ。幼ニシテ博学多識。長ジテ雄邁ニシテ特達。医ヲ以テ業ト為シ、遍(あまね)ク諸州ニ遊ビ、晩年蹤(あと)ヲ南総川場村ニ占(し)ム。帷(い)ヲ垂レ、業ヲ授ク。四方ヨリ誨(おしえ)ヲ請フ者衆(おお)シ。嗟乎(ああ)、哀シイカナ、明治七年(一八七四)十月二十一日、病ニ罹(かか)リ逝去ス。享年五十三。一女有リ、家ヲ嗣グ。門人追慕シ、力ヲ戮(あわ)セテ之レヲ建ツ。維(これ)、明治十三年一月ナリ。
        門人斎藤東湾涙ヲ〓(ぬぐ)ツテ謹書ス。
 

筑紫文岱の墓(東福寺)