彼はもともと心理学者であった。ベルリン大学で学んだゲシユタルト心理学を、帰国して日本に最初に紹介したのも彼である。九州大学で教えていた昭和二年(一九二七)当時において日本一を誇る心理学教室を完成させ、発達途上のわが国の心理学研究の推進に大きな貢献をした功績は不滅である。
また彼は早くから日本の音声学にも興味を示していた学者として知られる。わが国では、すでに平安朝の頃から、音韻学の研究は進められていたが、それは漢字音に限られていた。一般に使われる国語音に関する研究は、ずっと遅れ、明治三〇年(一八九七)以後にようやくスタートした。しかし、それも、明治三六年(一九〇三)にイギリス人のエドワーズによって発表された論文「日本語の音声学的研究」などによるところが多く、日本音声学はまだ西洋の音声学から分離独立していなかった。そのような時に鼎は日本音声学の独立に取り組み、「国語の発音とアクセント」(大正八年)、「日本音声学」(昭和四年)などの著述にそのすぐれた成果を示した。とくに、日本語のアクセントの本質を究明し、アクセントの方式を発見した意義は深いといわれる。
さらに、のちには日本語文法の問題に心を寄せるようになり、「現代日本語の表現と語法」「現代日本語の研究」などを著述した。心理主義の文法を説いたこれらの著作は、学界に新風を送り、注目された。こうして彼は、心理学者・音声学者・国語学者という三つの肩書をもつに至り、いずれにもすぐれた業績を残したことは、敬服に値いしよう。その功績によって、彼は昭和四一年(一九六六)日本学士院会員に選ばれている。
由来、東金からは学界に名を成した人をあまり出していないが、佐久間鼎のごときは、その貴重な一人として、大いに誇るべき存在といえよう。
佐久間鼎