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柳渓は東金の生んだ最高の文化人である。学者としては不朽の名著「上総国誌」その他を書き残し、画家としては中央にも名を知られた大家であり、文人としても、また書家としても数々の作品にその才分を発揮している。学芸ともに秀でた出色の人物といえよう。
柳渓は福俵の生まれで、名は惟礼(これまさ)、字(あざな)は子恭といい、柳渓はその号である。文政二年(一八一九)一〇月一二日、父八郎左衛門・母さくの長男として誕生した。安川家の祖先は近江商人で日野屋と称していたが、その後、江戸で薬種業などにたずさわっていたという。そして、宝暦二年(一七五二)福俵村に土着し、農事に力を入れた結果、おいおい産を成して、村の上層を占める家柄となっていった。柳渓の父八郎左衛門は押堀村(東金市押堀)の素封家高宮藤右衛門の子で、初名を兼吉と称したが、縁あって安川家に入って、家つきの娘さくと結婚したのである。結婚後、名を元八と改めたが、さらに安川家当主の名乗りである八郎左衛門を襲名した。夫婦の間には三人の男の子と女の子一人が生まれた。長男は八太郎といい次男が惟礼すなわち柳渓で、三男は隆次女子はきくと言った。ところが、長男八太郎が一〇歳で夭折したので、次男の柳渓が家をつぐことになったのである。
ところで、父八郎左衛門についてはちょっと筆を費しておく必要がある。この人はなかなかの人物で、村の組頭から名主役をつとめ重きをなしたが、性来文才にすぐれ、村役人としての生活経験を書きつづった日記「役向日記」二二巻を残している。(表題は各巻必ずしも一定していない)これは文政六年(一八二三)にはじまり弘化四年(一八四七)まで、二四年の長きにわたるもので、その間の村政のプロセスが事こまかに記されており、幕末における地方農村の動向を知る上で貴重な文献となっている。柳渓の文才や学問好みはこの父から享けたものと考えられよう。右の日記を通して見たところ、八郎左衛門という人は温厚誠実で実直清廉な性格であったようにうかがわれる。その血は柳渓にも流れていたごとくである。母さくの人柄などについては、ほとんど分からない。農村女性として貞実な人柄だったにちがいないと思われる。ただ、柳渓のゆたかな芸術的天分はどこにその流源があるのか、その点は今のところつきとめられない。
柳渓の人となりについては、「資性温厚品行方正」(「柳渓翁ノ碑」)とか、「人トナリ方正厳格ニシテ、強記ナルコト人ニ絶ユ」(「安川柳渓翁伝」)とか書かれているが、温厚方正なところは父似であったとしても、頭脳の俊敏さにおいては立ちまさっていたようだ。それが彼に外向性をあたえ、社会的視野を持たせるようにもなった。農家の後継者となった彼は、家業を継ぎ、親を養う義務をまぬがれなかった。その点、彼は真面目な親孝行者であった。しかし、あふれた才気を社会的に生かしたい意欲は強く、家事のためにそれを捨てきれないところがあった。少年の頃の彼は読書絵事をもっとも好み、かたわら弓剣の術を学んだというが、これらは百姓のせがれとしては分外な志向である。彼も寺子屋へは通ったであろう。また、当時は田舎剣士がこの地方にもいたから、武道を学ぶには事欠かなかっただろう。柳渓の学問の師や武道の師が誰であったかは不明である。しかし、絵事となると、田舎にいてはよき師を得ることはむずかしい。
ところが、幸いなことに、天保九年(一八三八)ごろ、高久靄厓(たかくあいがい)という有名な南宋派の画家(後述)が、東金の飯田総右衛門をたよってやって来て、しばらく滞在していた。それを知った柳渓は、総右衛門の次男芳一郎(画号林斎、「人物篇」別項参照)らとともに、靄厓の教えを受けることになった。靄厓は東金・成東・大富あたりの富家をまわり歩いては、居候生活をつづけ、その後六年間ほどこの地方に居つづけていたが、その間柳渓は断続的に靄厓の指導を受けることができた。これは柳渓にとって幸福なことであったが、やがて靄厓は東金地方から去ってしまった。柳渓はさぞ残念に思ったことだろう。
柳渓としては本格的に絵に打ち込みたかったのである。そのためには、家督を弟の隆次にゆずって江戸へ遊学しようと思っていた。しかし、その隆次が大網町木崎の富塚家へ婿入りすることになったので、柳渓の希望はかなえられなくなってしまった。家の後継者となった身の宿命というものであろう。なお、富塚家に入った隆次は、不幸にも二六歳の時長逝してしまっている。ついでにいえば、妹のきくは茶の湯の師匠のところへ嫁いだが、この人は長命であったということである。
柳渓はこうして生家を離れられなくなってしまったが、といって、生来の学問や絵事に対する熱求は捨てられなかった。残された道は、家業と願望との両立をはかることであった。それは容易ならぬ難業であった。しかも、彼はその苦難に見事に打ち克った。ここに彼の特異な生き方があったのである。
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江戸遊学をあきらめた彼は、学問も絵事も独学独修の道をとらざるをえなかった。そして、昼は農業に精を出し、夜はおそくまで書を読み絵を描くようにした。幸い彼は健康に恵まれており、また、きわめて意志の強い男であったから、堪え得たのである。彼の家は上農ではあったが、有閑地主ではない。むろん数人の婢僕を使ってはいたであろうが、田畑の仕事はいつも彼が先頭に立っていた。そんな生活の中から積み上げられたのが、その学問であり画業であった。
天保八年(一八三七)数え年一九歳で彼は結婚した。ずいぶん若いが、当時の農村では普通のことだった。妻に迎えたのは、長柄郡中里村(長生郡長生村中里)御園(みその)五左衛門の長女すみである。この女性は「貞順ニシテ家事ヲ助ケ、終身一日ノ如シ」(「柳渓翁ノ碑」)といわれるような、典型的な貞女であった。夫妻の間には一男二女が生まれた。
さて、この結婚後四年目の天保一二年(一八四一)五月詩人であり尊王家であった有名な梁川星巌がその妻紅蘭をつれて、わが東金・九十九里地方をおとずれたのである。そして、東金には約一か月ほど滞在していたが、二三歳の柳渓は星巌夫婦とも面談の機を得て、その教えを受けているのである。柳渓はそれ以前に、星巌の高弟で星門四天王の一人といわれた遠山雲如と親交をもっていたようだ。雲如は江戸生まれで、柳渓より九歳年長であったが、父祖の家が長柄郡一ツ松村(長生郡長生村)にあり、そこで塾を開いていたので、柳渓は妻の実家がそこに近い関係から雲如と知り合ったものと思われる。柳渓は雲如に師事していたと見てもよかろう。しかし、両者の性格はかなりちがっていた。雲如は不羈豪宕(ふきごうとう)な放浪性の強いロマンティストであったが、柳渓は健実なリアリストであったから、肌合いはちがっていたが、交わりは深かったようである。柳渓は同じ星門の大沼枕山とも親しくしていた。枕山も雲如と同型の詩人だった。
柳渓は雲如の紹介によって星巌に近づいたものと思われる。なお、田波啓氏によると、雲如は奔放な生活のために家産を失い、天保一〇年(一八三九)ごろ、つまり星巌夫婦来遊の二年前ごろ、一家をあげて東金に移住していたということで、(「東金文学散歩」)柳渓との往来も繁くなっていて、柳渓は星巌夫婦の来遊を銚子まで雲如とともに出迎えたといわれる。柳渓はこれから二四年後の元治二年(一八六五)銚子まで旅行したことを「刀袮(とね)之河ふね」という紀行文(後述)に書いているが、その中に銚子での感懐を「実にいにし辛の丑(かのとのうし)のとし(天保一二年のこと)、星巌翁の此の地に遊びしから歌(漢詩)を、今にわすれもせであれば、むかしながらの其の人と共にあそべる心地して……」(「房総文庫・第一巻」)と書いている。そして、その時星巌の詠んだ詩に和して作った七言絶句を記しているのである。師星巌との心の深い通い合いを想わせるものがある。
柳渓は星巌から詩学の指導はもちろん受けたであろうが、思想的な感化をどの程度受けたであろうか。当時の星巌はまだ尊王思想を表に出そうとしなかったフシがあるが、元来教育力の強い人だったから、柳渓も詩学以上の訓化を受けたろうことは想像できる。
ところで、福俵村は下総高岡藩主井上壱岐守と旗本河野松庵の二給支配になっていたが、安川家は井上領に所属していた。柳渓は三〇歳くらいの若さで名主役を引受けさせられていたが、嘉永二年(一八四九)藩主が大坂城代となって赴任するので、そのお伴を仰せつかり上坂することとなった。(「安川柳渓翁伝」の説)もっとも、大坂城代赴任のことは調べてみるとまちがいのようであるが、安川家に柳渓の手記に成る「嘉永二年己酉(つちのととり)七月吉日・旅中入用控帳」と題されたメモ帳が残されているところから察すると、この年に上京したことは確実のようである。そして、この帳の終りのほうに
「嘉永二年酉(とり)七月十三日出立、同九月十二日帰国。道中日数五十九日にて無事安泰に帰宅被(いたされ)レ致候。」
とあり、また、次のような書き留めもされている。
「京師三条東大津街道蹴上ゲ
梁川星巌
京師二条丸太町川東
貫名海屋(ぬきなかいおく)
同 米屋町二条下ル
中村竹洞
同 衣ノ棚下立売下ル
梅逸
同 烏丸通小池下ル東側
谷山靄(あい)山
同 両替町小池下ル
日根対山
同 麸(ふ)屋町姉ケ小路
牧青霞 」
つまり、七月から九月まで約二か月の京坂旅行を行ない、星巌はじめ、竹洞以下の画家たちと交遊して画境をゆたかにしたのである。この時彼は大坂へも足をのばして儒者篠崎小竹(しょうちく)をもたずねたらしいことは「安川柳渓翁伝」によって知られる。しかし、この旅行の主たる目的は星巌を訪問することにあったような気がする。星巌は弘化二年(一八四五)になって、それまでの長い江戸生活を突如切り上げて一端郷里の美濃に帰り、間もなく京都に出て尊王運動の渦中に入ったのである。嘉永二年のころは、彼の革命行動がそろそろ熱を上げ出した時分である。柳渓が東金で会った頃の星巌とは色合いがちがっていたはずである。この時、柳渓がどのような印銘を受けたかはわからないが、彼の社会意識に磨きがかけられたことはたしかだと思われる。星巌はこの年から九年後の安政五年(一八五八)九月、安政大獄のおこる直前にコレラにかかって死んでしまう。そして、未亡人となった紅蘭はその後、獄につながれて拷問を受けたが、固く口を閉ざして星巌のことを秘しつづけ、証拠不十分ということでようやく釈放されたが、京都附近にいては何時危険が迫るかわからないので、遠地に身を避けることにし、曽遊のなつかしい上総の柳渓をたよって来たのである。これは安政六年か七年ごろのことと思われる。柳渓は紅蘭のために離れを建て増しして庭なども風雅に造って、あたたかく彼女を迎えたということである。危険人物をかくまうわけだから、勇気のいることである。それをあえてしたのは、星巌夫婦に恩義を感じたということもあろうが、柳渓の時局認識が進んでいたからでもあろう。なお、紅蘭はこの時、片貝村(九十九里町片貝)の儒医藤代昌琢方にも身を寄せたと伝えられる。
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柳渓が梁川星巌のごとき当時もっとも進歩的な人物に接して思想的影響を受け得たことは、九十九里の辺陬(へんすう)に住む彼に意識革命をおこさせたことで注目すべきであるが、彼が親近した画家仲間から享けた感化も無視することはできない。彼が最初に師事した高久靄厓は寛政四年(一七九六)下野国(栃木県)那須の生まれで江戸に出て谷文晁に学んだが、必ずしも師風に泥まず、中国の明清諸家の画風を取り入れようとしていた点で、普通の南画家とちがうところがあった人だ。彼は江戸日本橋に住んでいたが、各地を遊歴することが多く同じ文晁門の渡辺華山(かざん)やその門人椿椿山(つばきちんざん)らと深い交友があった。柳渓は靄厓との関係から椿山をも知るようになり、かなり親しい交際をするようになったのである。寛政一二年(一八〇〇)生まれの椿山は柳渓より一九歳の年長で身分は幕府の槍同心で三十俵二人扶持の家柄であったが、その実力を認められ百俵五人扶持に引上げられたが、それを本意にあらずとして隠居してしまったという風変わりな人物であった。しかし、それだけ純粋無垢な人柄で、平山行蔵の門人となって兵学・武術を学び、画業ははじめ金子金陵につき、後、崋山にしたがい、花鳥画に秀でていた。ところで、崋山・椿山といえば、当時のインテリ最右翼の蛮社グループの人たちであることを知らねばならぬ。柳渓が華山と知り合ったという証左はないが、椿山を通じて間接のつながりはもっていたと思われる。それは、柳渓が崋山の有名な一掃百態の画その他を模写したものが安川家に残っているからである。崋山は天保一〇年(一八三九)一二月蛮社事件で入獄し、同一二年一〇月自刃を遂げた。その前後、椿山が師崋山のために献身的に尽したことは有名であるが、椿山は崋山の死後その遺児たちの面倒をよく見、とくに二男の諧(かい)(画名・小崋)を自宅に引取ってこれを画家たらしむべく懸命の薫陶を加えたのであるが、その大成を見ないで、椿山は安政元年(一八五四)九月五四歳をもって長逝してしまった。椿山はその生前度々柳渓をたずねている。柳渓にとって椿山は仰慕に価する偉人物だったようだ。学ぶところも多かったにちがいない。また、崋山の遺児諧(小崋)も椿山に伴われて柳渓のところへ来たことがあったし、椿山の死後(椿山の死んだ時、諧(小崋)は二〇歳であった)は小崋の面倒を見てやったようである。(東金地方に小崋の絵が多く残っているのもそのせいらしい。)
以上のように、柳渓は椿山と深い交わりをもち、崋山ともつながりをもっていた。そして、絵筆のみならず、思想的な余響をも受けたろうことは想像できる。星巌といい崋山・椿山といい、いずれも反体制の急進グループである。柳渓がそういう前衛的な人たちとの接触をもっていたことは、彼の進歩性を思わせることである。
なお、柳渓との交友でもう一人注意すべき画家は滝和亭(かてい)がある。和亭は文人画家で江戸の生まれ、幕末から明治期に活動した人であるが、天保三年(一八三二)の出生であるから、柳渓より一三歳の年少である。まず、後輩とすべきであろう。和亭は花鳥画や水墨画を得意とし、どちらかというと中国風の画風を好んだようである。柳渓にも中国風への関心があったから、その点で共鳴するところがあったにちがいない。しかし、柳渓が露厓や椿山に接するような気持で和亭に接したとは思われない。
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嘉永二年の京坂旅行は柳渓にとっていろいろな収穫のあった旅であった。京坂の著名な画家や儒者と交歓ができたことのほか、山陽南海から東海の各地をまわり歩いて、山河の美に接し得たことも望外の幸福だったにちがいない。しかし、時勢は嘉永六年(一八五三)のペリー来航によって急転し、やがて維新期を迎えることとなる。柳渓は名主役のほか藩領の取締役(「安川柳渓翁伝]中の「郡宰」とはこの役のことだろう)にあげられ、領主の顧問役となって働いたようであるが、佐幕か勤王か、いずれの道を行くべきかに迷う領主に対して、向うべき正しい方途を説いて誤りなからしめたのである。また、民事についても適切な指導を行なって信望をあつめたのである。
こうして明治の新時代を迎えると、戸長の職に任ぜられたりして、相変らず世務に繁忙であったが、やがて彼も五〇歳に達し、長男八郎左衛門(幼名尚)も立派に成長して家業を引受けられるようになったので、柳渓は公務をも辞し、長年の夢であった学芸に身を打ち込む楽しみを享有することができるようになったのである。詩文を作り絵筆をふるい、また漂然として旅に出ては烟霞の境に陶酔し、さらに来遊する学芸の名士との交友をよろこんだ。学者では重野成斎・小永井小舟(しょうしゅう)、画家では滝和亭(かてい)・奥原晴湖のごときは特に親交を深めた人たちであった。
その間に彼は郷土の歴史に興味を寄せ、暇を見ては古記をしらべ、各地を探索していたが、明治七年(一八七四)千葉県当局から修史の委員を委嘱され、以後三年間その職をつとめた。その職を退いた後も郷土史の研究に熱意をそそぎ、県当局からの激励もあって、同一〇年(一八七七)一一月にいたって完成し、翌一一年一一月に刊行されたのが名著「上総国誌」六巻である。これは彼の代表的著述であるばかりでなく、地方史研究上不朽の高著として大きな価値を保持するものである。本書は漢文で書かれており、国・郡・村という三部面から叙述されている。そして、巻一は国の部、巻二と巻三は郡の部、(昔時、上総には天羽・周集・望陀・市原・埴生・夷隅・長柄・山辺・武射の九郡があった)巻四と巻五と巻六は村の部となっている。史家としての柳渓の視点は、全国的視野から郷土を見るという立場に立っているので、郷土史家の陥りがちな狭小さがない。また、つとめて客観性を重んじ、冷静な学問的姿勢をとっていて、私情私見に走ることを避けている。右のような彼の態度方針は本書の「緒言」や「凡例」に詳述されている。たとえば、
「此ノ篇、主トシテ証ヲ群書ニ取リ、蹟ヲ実境ニ探リ、古文書ニ至リテハ、則チ原文ヲ挿入シ、敢ヘテ私ニ之レヲ改メズ。然レドモ、俗文野記ノ甚シキモノニ至リテハ、或ヒハ本義ヲ撮訳シ、而シテ之レヲ編入ス。夫(か)ノ仏舎縁起ノ若(ごと)キハ多クハ浮屠(ふと)氏ノ所作ニ出テ、或ヒハ奇異怪説ニ渉(かた)ルモノ有リ、斯(かく)ノ如キハ例シテ挙ゲズ。」(凡例、原漢文)
と書かれているように、近代史学の科学性に則った、きわめて進歩的な立場が取られているのである。本書が巷間の俗史書と截然と区別さるべき価値はここにあるといえよう。本書の完成に彼の注いだ努力も大変なものだったろう。彼は「緒言」の中で「家ニ堆積ノ書乏シク、郷ニ研究ノ友靡(な)ク」という不遇の中からこれだけの力作をしあげたことは特筆すべきである。嶺田楓江が本書に序文を寄せて、本書が柳渓「一人ノ力」によって成ったことの意義を強調していることも、よく理解できる。
柳渓は別に「南総各地見聞筆記」(「東金市史・史料篇三」所収)なるものを書き残している。これは明治七年(一八七四)に書かれたもので、上総の埴生・長柄・山辺・武射四郡の各地を探訪した見聞記である。断片的なメモ帳のごときものではあるが、郷土史研究の貴重な資料とすべきものである。
以上のほか、柳渓は数種の紀行文および漢詩集を残しているが、紀行文は漢文で綴ったものが多い中に、和文で書かれたものに「刀袮(とね)之河ふね」がある。これは「房総文庫」(第一巻)に収載されているので、世に知られている。元治二年(一八六五)二月、彼が公用で福俵村領主井上氏の本拠香取郡高岡村の陣屋に赴いた際、利根川を船で銚子まで下り、銚子から陸路帰ってきた紀行である。さほどの長文でもなく、特にすぐれたものとはいえないが、一見の価値はあるだろう。
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「上総国誌」を完成した明治一〇年(一八七七)には、柳渓はすでに五八歳に達していた。すでに老境である。その後、彼には二つの吉事があった。その一つは、明治一六年(一八八三)五月、新しく書斎がつくられたことである。これを彼は対帖邱処(たいはんきゅうしょ)と名づけた。遠く本納(長生郡)の丘まで望める風雅の場所という意味である。ここで読書作詩をたのしみ、また、絹素に描くをよろこびとし、さらに風流人士を迎えては歓談に時を過したのである。もう一つは、同二一年(一八八八)に東金の八鶴館で小松宮に拝謁して、倭絵と花鳥画とを献上し面目をほどこしたことである。かくして、平安で充実した日々をおくっていったのであるが、そういう彼にも不幸な波はあった。彼には三人の子(一男二女)があったが、一男つまり長男八郎左衛門は成人して彼のあとを嗣いだのであるが、二女は二人とも彼に先立って娘時代に若死にしているのである。しかも、最晩年となってからもう一つの不運が襲った。それは、明治二九年(一八九六)二月一六日、最愛の妻すみが七六歳で彼を残して永遠の旅についたことである。これは衰老の柳渓には痛手であったろう。それから二年二か月後、明治三一年(一八九八)四月二五日、彼も亡妻のあとを追うて世を去ったのである。享年八〇歳であった。
柳渓は僻村に生まれてよく家業を守り郷土の発展につくしながら、もって生まれた学芸の天分を発揮し、学者として画家としてまた書家として名を成すことが出来た。とはいっても、彼が自己の境涯に充分に満足していたかどうか。「山武郡地方誌」にはこんなことが書かれてある。
「画は殊に見事で、江戸の第一流の画家と交はり、瀧和亭からはしばしば江戸に出ることをすすめられたが、経国済民を主眼とし画を余技とする見地から、終(つい)に郷土のために一生を捧げた一廉(ひとかど)の人傑である。」(六一〇頁)
柳渓が中央画壇にみとめられていた逸材であったことはたしからしい。瀧和亭とどの程度の交友があったかはよくわからぬが、柳渓の人柄から見て、家を捨ててまで芸術に殉ずる気持はなかったであろうことは察せられる。
こんなわけで柳渓も天下に名声をとどろかすというところまではいたらなかったとしても、まずは健全な成功者といって差支えなかろう。少なくとも、東金にとっては文化の大先達であり、不滅の輝きをもつ人といってしかるべきであろう。
彼の主著「上総国誌」についてはすでに説いたが、そのほか詩集・紀行文のごとき遺作は多い。画業については、かなりの数量にのぼるのであるが、散逸していて定かにつかみがたいところがあるけれども、九十九里の漁村風景を描いた「漁図」のごとき大作から、扇面に描いた小品の類にいたるまで、それぞれ温雅清涼の風趣に富むものが多く、今も雅人の珍重するところとなっている。彼はまた書道にすぐれ、とくに楷書には妙を得ていたといわれている。
◎安川柳渓の遺稿
(安川家(当主安川元氏)に保有されているもの)
○史書
上総国誌 (六巻)(漢文)
南総各地見聞筆記(和文)
○紀行
梅瀬紀遊(漢文) 西遊紀行(漢文)
信中紀行(漢文) 北遊紀行(漢文)
東北紀行(上巻)(漢文) 東寧紀行(前編)(漢文)
毛山紀行(漢文) 刀袮(とね)之河ふね(和文)
○漢詩集
柳渓詩集
柳渓漁唱 第一集
同 第二集
同 第二集 附録
同 第四集
同 第五集
近詩稿
詩稿 上
同 中
安川柳渓
【参考資料】
(一)安川柳渓翁伝 (原漢文)
独学自ラ勉メ、遂ニ一家ヲ成セル者ハ、曽(か)ツテ其ノ語ヲ聞キ、今之レヲ柳渓翁ニ見ル。翁、名ハ惟礼(これまさ)、字(あざな)ハ子恭、安川氏、柳渓ハ其ノ号ナリ。南総山辺郡福俵村ノ人。人トナリ方正厳格ニシテ、強記ナルコト人ニ絶ユ。最モ読書絵事ヲ好ミ、傍、弓剣ノ術ヲ学ブ。嘗ツテ同友ト吟社ヲ結ビ、互ニ相〓磨(ろうま)①ス。此ノ時ニ当リ、南総ノ地、人智未ダ開ケズ、文教未ダ普(あまね)カラズ。翁深ク之レヲ憂ヘ、将(まさ)ニ江都ニ遊ビ以テ師友ヲ求メントス。会(たまたま)弟某没シ、家政ノ託スベキ者無ク、且ツ、膝下ノ歓ヲ欠クヲ恐レ、遂ニ節ヲ折リ〓畝(けんぽ)②ニ就キ、昼ハ則チ耒耜(らいし)③ヲ携ヘ、出デテ婢僕ノ先トナリ、夜ハ則チ書ヲ読ミ画ヲ学ブ。盛夏隆冬率(おおむね)夜半ヲ過ギテ始メテ寝ニ就キ、而カモ敢ヘテ午睡スルコト莫(な)シ。文墨ノ楽ミ未ダ曽ツテ事ヲ以テ廃セサルナリ。時ニ或ヒハ大沼枕山(ちんざん)・遠山雲如(うんにょ)等ヲ聘(へい)シ、其ノ他名流ノ来遊スル者有レバ、則チ就イテ質(ただ)ス。画術ニ至ルモ亦然リ。翁又書法ニ妙ニ、銕筆(てっぴつ)ヲ善クシ、筆力勁正④、敢ヘテ苟(いやしく)モスルコト莫(な)シ。故ニ、自ラ書画ノ印章ヲ作リ、皆自ラ鐫(え)リテ敢ヘテ人ニ嘱セザリシト云フ。
嘉永二年(一八四九)藩主ノ入リテ阪城ヲ衛(まも)ルニ随フ。解任ノ後、京摂ノ間ニ徘徊ス。儒家ハ則チ篠崎小竹(しょうちく)・貫名海屋(ぬきなかいおく)・梁川星巌(やながわせいがん)、画家ハ則チ中西耕石・谷口靄山(あいざん)及ビ竹洞・梅逸等、皆忘年ノ交リ⑤ヲ為ス。尋(つ)イデ山陽南海東海ノ諸州ヲ歴遊シテ、親シク高山大川ヲ跋渉(ばっしょう)シ、大イニ画致ノ真ヲ悟ル。是(ここ)ニ於テ、名声〓々(さくさく)⑥、大イニ遠近ニ噪(さわが)シ。
嘉永六年(一八五三)、米艦闖入(ちんにゅう)⑦シ、国家多事ニシテ、漸ク潰裂ノ勢ヲナス。時ニ、翁里正⑧ニ任ジ、尋イデ郡宰ニ挙ゲラル。因リテ人ニ語ツテ曰ク、己レヲ修メ、以テ百姓(せい)ヲ安ンズルハ、聖人スラ其レ猶ホ諸(これ)ニ病(くる)シム。況ンヤ、吾ニ於テヲヤ。然リト雖(いえど)モ、積年学ブ所ハ今日ニ在リ、ト。牧民ノ策亦譲ラズ。深ク心ヲ民事ニ尽シ、恩威並ビニ至ル。故ニ、狡猾(こうかつ)ニシテ使ヒ難キ者モ亦、能ク之ガ用ヲ効(いた)シ、人皆其ノ徳ニ化シ、風俗頓(とみ)ニ改マル。
慶応ノ末明治ノ始、兵馬倥〓(こうそう)⑨ニシテ、人心穏カナラズ。翁、藩主ノ順逆ヲ誤ランコトヲ慮リ、東奔西走、百方説諭シ議論シテ、古今ニ証拠シ、堂々トシテ撓(たゆ)マズ、遂ニ大イニ規画スル所アリ。功ヲ以テ章服ヲ賜ハリ、士班ニ列セラル。蓋(けだ)シ、特典ナリ。
四年(明治四、一八七一)、朝廷藩ヲ廃シ県ヲ置キ、国勢大イニ革(あらた)マル。時ニ翁戸長ニ任ジ、幾(いくばく)モ無ク職ヲ辞シ、吟咏自適シ、爾後(じご)、豆相及ビ安房ニ遊ビ、又、晃山銚江ヲ探リ、東山諸州ノ奇ニ及ビ、後、金華松島ノ勝ヲ窮メ、其ノ紀行摸景〓然(ほうぜん)⑩トシテ筺(きょう)ニ満ツ。而シテ、言ハ必ズ信ニシテ、行ハ必ズ敬、少老一日ノ如シ。故ニ、声誉愈々熾(いよいよさかん)ニ、交際益々広ク、重野(しげの)成斎・岡本韋庵(いあん)・小永井小舟(しょうしゅう)、画人滝和亭(かてい)・晴湖女史ノ如キハ、其ノ親善スル所ナリ。
是ヨリ先、翁、千葉県歴史編輯ノ徴ニ応ジ、職ヲ奉ズルコト三年、且ツ、県命ヲ以テ国内ヲ経歴シ、或ヒハ旧記ニ徴シ、或ヒハ故老ニ問ヒ、「上総国誌」六巻ヲ著ハシ、以テ世ニ公(おおやけ)ニス。時ニ明治丁丑(ひのとうし)(十年)翁年五十八ナリ。
嗚呼(ああ)、翁ヲシテ此ノ文明ノ世ニ遭遇スルコト二十年前ニ在ラシメンカ、当ニ大イニ為ス所有リシナルベシ。惜シイカナ、南総ノ一隅ニ生レ且ツ老イ、竟(つい)ニ驥足(きそく)ヲ展(のぶ)ル⑪能ハザリキ。然リト雖モ、眼ニ巻ヲ離サズ、手ニ筆ヲ捨テズ、愈々(いよいよ)老イテ愈々勉ム。固(もとよ)リ尋常文士ノ企テ及ブ所ニ非ルナリ。
今茲(ことし)、戊子(つちのえね)(明治二十一年)夏五月、偶々小松二品親王殿下東臨ノ次(ついで)、駕ヲ本郡東金街八鶴館ニ駐(とどむ)ルニ会フヤ、特使モテ翁ヲ召ス。翁即チ自筆ノ倭絵及ビ花鳥ノ二幅ヲ献ジ、殊ニ嘉賞ヲ蒙ル。還駕ノ後、特旨ヲ以テ御墨一函ヲ賜フ。蓋(けだ)シ、翁嘗ツテ陸軍中尉米津政敏君ト善シ。故ニ、紹介之レニ及ベルナリ。抑(そもそ)モ亦、文墨ノ光栄子孫ニ及ブモノト謂(い)フベシ。
翁、癸未(みずのとひつじ)(明治十六年)五月ヲ以テ、書斎ヲ新築ス。遠ク帖邱(はんきゅう)ノ縹緲(ひょうびょう)タルヲ望ミ、近ク芙蓉ノ清池ヲ枕ス。題シテ対帆邱処ト号ス。又、荷香柳影ノ称アリ。四時ノ風物ハ詩料ヲ供シ、明〓浄几(めいそうじょうき)ハ揮毫ニ適ス。其ノ幽致想フベシ。之レヲ視レバ、紅塵寸金ノ地ニ在リ、姓名ヲ門戸ニ表シ、唯伎芸以テ妻拏(さいど)⑫ヲ糊(のり)スル者、豈(あ)ニ真逸ノ君子人ト謂(い)ハザルベケンヤ。
明治二十一年(一八八八)桂秋下澣南総辱交(じょくこう)
吉井老湖男量平並撰
東京 南摩綱紀校並〓
柳渓翁ノ伝、余一読ス。叙事明瞭、網羅シテ遺(のこ)サズ。蓋(けだ)シ、深ク翁ヲ識(し)ル者ニ非レバ能ハザルナリ。余曽ツテ南総大網村ニ在リ、屡(しばしば)翁ヲ聘(へい)シテ詩酒歓娯シ、交誼特ニ厚シ。今、翁余ニ嘱スルニ、其ノ伝ヲ写サンコトヲ以テス。是(ここ)ニ於テカ、作字ノ拙劣ヲ顧(おも)フニ遑(いとま)アラズ、欣然トシテ筆ヲ走ラセ、其ノ需(もとめ)ニ応ズ。
明治巳丑(二十二年)二月
正五位子爵 米津政敏 書
注 ①互いにみがきあう
②農村農事
③農具のこと
④強く正しいこと
⑤年齢のへだたりを忘れるほど親しい交わり
⑥非常に有名なこと
⑦押し入ること
⑧名主、庄屋
⑨戦争がおこっていそがしいこと
⑩たくさんあつめて
⑪すぐれた才能をのばすこと
⑫妻と子ども
(二)柳渓翁ノ碑 (原漢文)
翁、諱(いみな)ハ惟礼(これまさ)、字(あざな)ハ子恭、柳渓ト号ス。文政二年(一八一九)巳卯(つちのとう)十一月ヲ以テ、南総山辺郡福俵村ニ生ル。幼ニシテ学ヲ好ミ、長ズルニ及ビ経史ヲ修メ詩学ヲ研(みが)キ、旁(かたわら)絵事ヲ嗜(たしな)ム。資性温厚品行方正。家世々農ヲ業トス。邨(むら)高岡藩ニ属ス。中年、里正ニ任ジ、尋イデ郡宰ニ挙ゲラル。元治慶応ノ間(一八六四-七)、世局漸ク多事、藩務ニ鞅掌シ、兼ネテ村治ヲ管理ス。功ヲ以テ章服ヲ賜ハリ、士班ニ列ス。
明治四年(一八七一)藩ヲ廃シ県ナトス。更ニ戸長ニ任ズ。明年廃県ノ後ハ、文墨ヲ以テ諸国ヲ漫遊ス。年同七年(一八七四)千葉県修史ノ徴ニ応ジ、再ビ職ヲ奉ズルコト三年ナリ。是ニ先ダチ「上総国誌」ヲ編纂シテ未ダ完カラズ。解職サルルニ及ビ、猶、県命ヲ帯ビ社寺民間ノ旧記古蹟ヲ捜索(そうさく)シ、輯(あつ)メテ六巻ト為シ、官准ヲ得テ以テ世ニ公(おおやけ)ニス。時ニ十一年(一八七八)十一月ナリ。
翁老イテ益々健、又、筆硯ヲ嚢ニシ縦遊スルコト数年、足跡殆ンド海内ニ半バス。其ノ紀行模景積ンデ十余巻ヲ成ス。
戊子(明治二一年、一八八八)五月、小松二品(にほん)親王東臨ノ次(ついで)、翁命ヲ奉ジテ其ノ画ク所ノ絹本(けんぽん)二幅ヲ献ジ、嘉納ヲ蒙(こうむ)リ且ツ菊章ノ名墨一函(はこ)ヲ賜ハル。蓋(けだ)シ、文墨ノ光栄ナリ。
抑々(そもそも)、翁ノ生前交ハル所ハ概(おおむね)名流博雅ノ士ナリ。贈答ノ文詩書犢(とく)、〓然(ほうぜん)トシテ筐ニ満チ、以テ紀念ト為スニ足レリ。若シ夫レ、翁ノ本伝既ニ已(すで)ニ書幅印刷ニ詳ラカナリ。今、梗概ヲ挙ゲテ、以テ碑陰ニ勒(ろく)ス。
今茲(ことし)明治三十一年(一八九八)四月二十五日、翁ノ寿ヲ以テ下世ス。享年齢八十。謚(おくりな)シテ風月院柳渓居士ト曰フ。妣(はは)、諱(いみな)ハ須美、同国長柄郡中里村御園五左衛門ノ長女ナリ。天保丁酉(ひのととり)年(天保八年、一八三七)翁ニ嫁(とつ)ギ、一男二女ヲ生ミ、貞順ニシテ家事ヲ助ケ、終身一日ノ如シ。明治二十九年二月十六日病ンデ卒ス。行年七十六。謚(おくりな)シテ徳性院妙行日貞ト曰(い)フ。二女先ンジテ没シ、共ニ先塋(けい)ノ側ニ葬ル。
正四位子爵 米津政敏 撰文
明治三十七年(一九〇四)四月二十五日
男 安川八郎左衛門
孫 安川八郎 並建レ之