志賀吾卿(ごきょう)(郷土史家・県会議員)

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 吾卿は文久元年(一八六一)一〇月一〇日、上総国山辺郡押堀村(東金市押堀)農志賀勘兵衛の長子に生まれ、幼名を政之助字は寛徳といい、狂外・吾卿と号した。
 吾卿の風貌や人となりについては、彼の親友たる霞城生なる人物が次のように書いている。「われ足下の風貌を察するに、面小にして矮躯疎髯(わいくそぜん)、皓齢恰(こうしあたか)も往昔の判官公に似たり。況(いわ)んや、其の上(うわ)づった声調を聞けば、足下の多情多感の人たる察すべきなり。」(「千葉毎日新聞」明治三三・八・三一)からだが小さくて歯が白く、うすひげをはやし、源義経のごとき風貌だという。また、声が上ずって、多情多感の人だという。これによって、吾卿のおもかげが彷彿(ほうふつ)とするであろう。彼は幼時から聰明を謳(うた)われ、向学心もまた旺盛で、少年時代は布治復堂(片貝村中里の人)の修道館に入塾して国学・漢学を学び、忽ち塾頭となってその俊才振りを発揮し、明治一一年(一八七八)千葉師範学校へ入学、同校卒業後は一時片貝小学校訓導となったが、間もなく辞職し、更に上京して和仏法律学校(現法政大学)に入学して法律を学んでいる。学を卒え帰郷後は父勘兵衛の代理として、区及び嶺南地区の諸会議に出席し、地区の衛生委員や学務委員などを歴任した。
 ところで、彼は早くから政治に関心を寄せ、当時の自由民権運動に敏感に対応し、明治一三年(一八八〇)には郷土の友人たちと「愛信会」を組織してしばしば演説会を開いていたほどであった。その経緯は彼の残した日記「吹塵録(すいじんろく)」にも書かれているが、新町村制施行の機運が高まり、町村分合の問題がやかましくなると、彼も同志とともに盛んに意見を発表し、当局の示した原案に反対して、村々の歴史・風習を重んじ、用水・祭事等庶民の生活環境から考えた合理的な分合をなすべきことを知事に請願したのであった。その間の彼の努力は大いに認むべきものがあった。
 このようにして明治二二年(一八八九)五月、町村合併により新東金町が創設されるや、押堀区長に推され、続いて東金町会議員に当選すること前後八回の多きに達し、ついで、東金町助役を同二五年から二七年まで二期勤めた後、同三〇年(一八九七)山武郡会議員に選ばれ、地域の発展に尽力した。同三二年(一八九九)九月、衆に推されて、千葉県会議員選挙に出馬し、見事に当選、はなばなしく県政界に進出したのである。吾卿の活躍ぶりについて、前掲の霞城生は、「政之助の昔より狂外先生に至るまで、敢為剛腹の気性を立て通したる進歩党の旗幟、誠に鮮明の好男児なり。想ひ出づる当年の県会、隆々旭日の如き政友会の中堅を衝(つ)いて吶喊(とっかん)し肉薄し、斬然として一頭地を抜くの快舌、敵をして座に堪へざらしめたる山武の快男児。」と颯爽とした快男児のおもかげを伝えている。多少の舞文はあるが、政治家としての吾卿の真骨頂は理解できよう。吾卿は進歩党に属していたが、これは明治二九年(一八九六)に結成された大隈重信系の政党である。それに対して政友会は三三年(一九〇〇)に伊藤博文を中心として作られた新政党であった。
 吾卿は県会議員を同三六年(一九〇三)九月まで四年間勤めた。彼が就任当初特に努力したのは、新府県制に適した県会会議規則の制定起草委員としての仕事であった。その原案は三二年(一八九九)一〇月の臨時県会において可決された。その後は土木問題・教育問題などで手腕を発揮し、県政に寄与すること多大なものがあった。
 
    

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 吾卿は町政・県政にたずさわっただけでなく、国政にも関わりをもっていたことをここに記しておく必要がある。彼が県会議員に当選した前年の三一年の三月、第五回衆議院議員の総選挙が行なわれたが、吾卿は山武郡内同志に推されて立候補して、善戦したけれども不幸にして落選した。それから十年たって、四二年(一九〇九)一一月、衆議院議員の補欠選挙が実施されたことがあった際、彼は進歩党から立候補することを勧められたが、固辞して受けなかった。そのことについて、彼自身はこう説明している。
 「当時の状勢、両派某・某代議士両名が共に日糖事件に連座失格、其の補欠として、両派より同時に一名づつの候補を出すべく、一方は千葉禎太郎、一方は予に候補たらんことを勧めらる。何れも当選疑ひなきは明かなり。然れども、余は飽くまで固辞して却って当時洋行帰りの親友関和知に譲り、遂に同氏をして当選せしむ。関氏の代議士たること是れより始まる。」(「東金町誌」二二八-二二九頁)
当選うたがいなしというのに、これを固辞して親友の関和知にゆずったというのである。友情の美しさが思われる。しかし、ちょっと惜しいことをしたと考えられないでもない。おのれを知ることが深く、また人情家でもあった吾卿の面目を知らせる話柄というべきである。その後二年をへて、ふたたび補欠選挙の機会があったが、彼はその時も出馬しなかった。なお、関和知は、夷隅郡東浪見の生まれで、著名な政治家であって、一時、進歩党系の日刊新聞「新房総」の主筆をしていたこともあったが、政界に打って出で、前後六回衆議院議員となったが、大正一四年(一九二五)二月死去している。その後継者が千葉三郎である。はなばなしく県政界に進出することになった吾卿はその他、町農会長・銀行役員・新聞記者・政党役員等々、その経歴の幅は実に広く、また多彩を極めている。このように町政に、県政に参与し、貢献した上に教育・文化・産業・土木等多方面の公共事業に尽瘁(じんすい)して、まことに大きな業績を残しているのである。
 彼は若い時から雄弁を以て鳴り、政治に明るく法律に精通し、また文筆の士として高く評価され、特に郷土に起こる大小の事象は、こと細かにこれを記載し、たくさんの文献を残していることは特筆すべきである。彼には常に大所高所から物事を判断し、適確にこれに処する天与の才能があったが、その特質がいろいろな面に発揮されて多彩な活動を可能にしたのであった。
 前に触れたことではあるが、明治二二年(一八八九)、第一回の町村合併実施の際、県当局が提示した合併案に対し、吾卿は、歴史上・風土上・慣行上・又経済上の諸見地から、県の実施案は到底相容れられざるものと考え、断乎その非を力説し、陳情・請願等あらゆる合法的な手段に訴え、県をして原案を撤回させて、東金町(東金・田間・嶺南・城西)の創設を果し、今日の東金市の根幹を築いたのである。
 また、明治四〇年(一九〇七)県立東金高等女学校誘致問題が起こるや、彼はいち早くこれを取り上げ、同志を糾合して全町必須の課題とし、熾(し)烈な運動を展開、その運動が功を奏して、ついに翌四一年一二月三日、千葉県議会はこれを可決し、翌四二年九月東金高女の創立を見たのである。
 以上二件の経緯を思い起こす時、今更ながら彼の非凡な識見・手腕・力量に驚嘆と敬服を禁じ得ないのである。
 
    

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 彼はまた、文筆の士としてはすでに定評のあるところであるが、加えて天成の筆まめで、その青年時代からの日記は、裏返しの用紙を使用し、数十巻に及ぶ厖大なもので、後年の著作の資料に大いに役立ったものと思われる。
 公事多端の間、寸暇を惜んで、三十年の歳月を費した刻苦の末の結晶が、「東金町誌」(昭和二年刊行)と「用水資料」(明治四四年刊)の二書で、彼の代表的名著として、安川柳渓の「上総国誌」と共に、東金市民が他に誇り得るものであり、貴重な歴史的文献として後世に永く残し伝うべきものである。
 この二書の祥述はこれを省略して、「東金町誌」の緒言の一節を抜粋して参考に供したいと思う。
 
 「……」(前略)現在の改良を図り将来の発展を期せんとせば、最も深くその地方に於ける既往(きおう)の沿革を探り、名所旧蹟を尋ね、その治乱興廃の縁由を察せざるべからず、これ実に為政者の大いに意を用ゆべき緊要事なりとす。即ちその萃を抜き要を摘み、これを実地に活用し、これを眼前に利用すると同時に、これを将来に資するところあるべく、町是(ちょうぜ)もまたもってこれより生ずべきなり。」
 
 まことに至言と云うべきである。
 昭和二一年(一九四六)六月二六日、病気のため没した。享年八六歳。法名「済成院護郷日憲居士」。押堀最教寺先瑩域内に葬る。

志賀吾卿

 
  参考資料
    「吾卿の人物と「用水資料の著述」
 
                 関和知
                   (白洋)
 狂外志賀吾卿君は余の親友なり。夙(つと)に志を政治に存し、其の主義政見に於て深く相契合(けいごう)す。小少郷党の推重する所となり、公共の事務一として与(あず)からざるなく、或ひは郡政に或ひは県政に之れに参画し、之れに尽瘁(じんすい)せるは世の認むる所。適(たまたま)、大いに期する所あり。馳駆(ちく)を中原に廃して、田園に隠るること数年、頃(このごろ)一書を携へ来りて余に示さる。題して「用水資料」と曰(い)ふ。是れ、君が農桑の余事、潜心編纂せるもの、其の内容は雄蛇(おじゃ)・百樋(ひゃくひ)・地水(じすい)の三篇に分ち、郷地民生に直接緊要なる用水灌漑の旧記・慣例・沿革を説明し、頗る詳悉(しょうしつ)正確を極む。特に雄蛇・百樋の争議に就いては、君親しく解難排紛の任に当る。委曲の事実以て百世に伝ふる、実に君の筆を待たざるべからず。
 今、君の記する所、敢へて天下国家にあらず。然かも、其の地方に於ける経済上産業上、将(は)た教化上最も有益の書たるは論無く、所謂(いわゆる)地方経営上好個の参考資料たるべきは余の確信する所なり。志賀君嘗て県政に参与するや、侃諤(かんがく)の論以て議場を風靡したり。然も真個政治的面目を認むべきもの、寧ろ彼にあらずして、却りて這般(しゃはん)「用水資料」の記述者たる君に在りて謂ふべし。蓋し、之に依りて始めて君が利用厚生の道に忠なる所以を認むべければなり。
                      (「用水資料」序)