水野茂右衛門(豪商)(東金茂右衛門)

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 水野茂右衛門は商業都市東金のシンボルとして、その名をうたわれた人物である。彼によって東金の名は江戸中に知られ、全国的にも注目されるようになった。その意味で忘れられない存在である。
 茂右衛門について、杉谷直道はその遺著「東金開拓年表」の中で、天明元年(一七八一)と寛政四年(一七九二)の項に、左のように書き留めている。
 
 「天明元年
  東金上宿水野茂右衛門身代盛大ナリシニヨリ、日本国ノ分限(ぶげん)帳ニ記名セラレタリ。故ニ、東金茂右衛門ノ名義全国ヘ弘マレリ。」
 
 「寛政四年
  水野茂右衛門、東金上宿名主役ニ成リ、今年ヨリ向フ七ケ年勤務ス。」
 
これによれば、彼は江戸中期の天明・寛政期に活動し、分限者としてその名をうたわれ、東金上宿の名主となった人であることがわかる。しかも、その名声の高かったことは、彼の豪富を謳歌する歌謡が東金近辺はいうまでもなく房総の各地で盛んにうたわれ、一大流行となるありさまであった。それらの歌詞は現在も伝えられているが、まず、茂右衛門の大名のごとき豪奢な生活ぶりを賛美したものには、
 
  「街道通るは大名じゃないか、あれは茂右衛門嫁御寮(ごりょう)。」(東金甚句)
  「我が町にも名も高き、茂右衛門とて分限あり。」(東金名所歌)
  「今日も行こかよ茂右衛門屋敷、蔵の千両箱積みかへに。」(東金民謡)
 
などがある。これらは地元の東金でうたわれたものである。もちろん、ずいぶん誇張されてはいるが、人民の巨富への憧憬と羨望がこんな歌をつくり出したものであろう。中にはもっと生活に即(そく)した、次のような歌もあった。
 
  「東金の茂右衛門の女楽(おんならく)だよ、山の上へ樋(とい)かけて、水は居て取る。」(田植歌)
 
当時、農村の女性たちにとって、水汲みは大へんな労働であった。しかるに、茂右衛門の家の女たちは山の上へ掛けた樋から水が引かれてくるような設備があるから、座りながら楽に水を使うことができる、うらやましいことだ、と切実な気持が表現されているのである。
 
 「東金の茂右衛門の裏で鵜がなく、何となく、茂右衛門の小嫁(こよめ)恋しと。」(摺臼(すりうす)唄)
 
これは、印旛郡地方でうたわれていたものだそうだが、貧富の差から来る庶民感情がにじみ出ている。
 茂右衛門歌謡の中で、とくに広く流行したのは茂右衛門の嫁さがしを題材にしたものであった。水野家でも財産が増大するにつれて、出来るだけよい所から嫁を迎えたいと、その選定には心を労したことではあろうが、歌謡の方は無責任にいろいろな想像を加えて、際限もない拡がりを見せていった。
 
 「東金の茂右衛門の娶(よめ)は何地(どち)から、三ケ国たづねてなくて、江戸の本町の茶屋の小娘。」(麦搗(つき)唄)
 「東金茂右衛門ナーヨー、嫁は何処から、七(なな)浜尋ねてナー、なくて、お江戸から、江戸も江戸、本町の、ナーヨー、茶屋のむすめ、絵も、書く、手も書く、ナーヨー、疥癬瘡(ひぜんかさ)かく。」(のげおし歌)
 
茂右衛門の嫁は田舎娘ではダメで、江戸の茶屋の娘で諸芸に達した立派なものでなければふさわしくないという。しかも、大事なのは沢山の持参金である。
 
 「東金の茂右衛門の嫁はどちらから、江戸も江戸も、本町二丁目の茶屋の小娘、長持が七棹(ななさお)、八棹(やさお)、八葛籠(やつづら)と、八葛籠へ腰をかけ、あひのお銚子、お銚子の浦で綱を引く、綱引かば神輿(みこし)にかかれ、このしろで、サンナー。」(安房国東金節)
 「東金の茂右衛門の背戸(せど)で、ナー背戸で、鵜が鳴く、何となく、茂右衛門の小嫁、サー小嫁恋しと鳴く、浜曽我尋ねてなくば、サーなくば、江戸までも、江戸も江戸も本町の茶の、サー茶屋の小娘がよ、長持七棹(さお)、つづらが、サーつづら八葛籠(やつづら)へ、腰よ(を)かけ、酒のサーさけの銚子づけ、ええ。」(市原地方の唄)
 
こんなふうに、長持葛籠(つづら)の行列で、はなやかな嫁入りの風景をうたう。土地によって多少のニューアンスのちがいはあるが、大筋には変わりがない。嫁さがしの場所も、香取郡地方では「横浜尋ねて」、匝瑳郡地方では「岡浜尋ねて」、房州地方では「三箇村尋ねて」と、それそれちがいはあったようだが、結局は江戸から迎えるということになる。また、「茶屋の娘」が「糸屋の娘」になったりしているが、「嫁は何処から」の歌謡形式をとりながら、いつも「茂右衛門の嫁」ということでうたいつがれ、あるいは、麦つき唄に、摺臼(すりうす)唄に、地つき唄に、労働歌謡として、または、安房でのお座敷唄にもなり、東金節という流行歌謡の名が出来るまでに普及したのである。
 以上は、かなり誇張されたものにはちがいないが、その豪奢な生活ぶりがうかがわれるのである。茂右衛門は第二の紀文といわれたようであるが、紀文はいうまでもなく紀ノ国文左衛門のことで、この人は材木商で産を成し、紀州みかんの出荷で大儲(もう)けをしたのだが、茂右衛門より五、六十年前の人である。紀文と併称された富豪に奈良屋茂左衛門(略称・奈良茂)があるが、これは紀文と同時代で、やはり材木商であった。この二人が天下に名を成したのは、巨商であったことの他に、遊里吉原で豪遊をし千金を惜しまず名妓を落籍したという異常行動があったことを注意しなければなるまい。
 
    

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 さて、茂右衛門は上宿で酒と醤油の醸造業を行ない巨財を積み上げ、その邸は広大で、現在の上宿から東金高校へ入るあたりに位置し、俗説によると、いろは四八の蔵が建ちならんでいたといわれる。(この蔵は明治の初年までは残っていたと伝えられる。)もちろん、江戸にも出店を持ち、商売の手をひろげて、大坂から綿を、紀州からみかんを買い入れて、東海道五十三次を「丸に水」の旗のぼりを立てて、派手な行列で江戸へはこびこみ、紀文・奈良茂もどきの大商売をやってのけ、東海道が茂右衛門笠であふれたとか、茂右衛門船は難破しないとかいう評判が立つほどだったという。彼はさらに、これも紀文・奈良茂同様、江戸の吉原で遊女総揚げの大盤振舞をやって、世間をあっと言わせている。それについて、紀文が吉原の大門を閉めれば、すぐそのあとで茂右衛門がまた閉めたという話が伝わっているが、前述のように両者の時代がちがうからそのままには受け取れない。(名妓落籍の話はない。)こんなことから、狂言作者が彼を主人公とする「唐金(とうがね)茂右衛門東髢(あずまかつら)」なる劇を仕組み、猿楽町の劇場で上演し、大評判を取るに至ったと伝えられる。(「唐金」は、もちろん「東金」の変え名である。)
 これほど名を売った茂右衛門であるが、不思議なことに、経歴などほとんど不明なのである。前引のとおり、茂右衛門は寛政四年から七年間名主をつとめていたとあるから、寛政一一年(一七九九)までは健在だったことはわかる。しかし、それ以後はどうなったか。杉谷直道の書いた「東金町誌(稿本)」に、明治二年(一八六九)三月の東金町役員(組頭)の名簿が出ているが、その中に水野茂右衛門の名が見えるし、また、同じく「東金誌」(稿本)には同年六月から一二月まで東金町の庄屋をつとめたことも出ているが、この茂右衛門は年代経過から見て、本人ではなく子孫であろう。なお、同じ直道の「東金見聞記(稿本)」には」、種々ノ説アリテ事実判然セザルモ、一時東金茂右衛門ノ高名ハ盛ンナリシガ、明治ノ世ニ至リテ、遂ニ破産セリト云フ。」とあるので、茂右衛門家(水野本家)は不幸にして没落したらしい。そのため、茂右衛門の生涯や事蹟に関することも雲霧の中にかくれてしまったようである。ただし、仄聞するところによると、茂右衛門の子孫は東京に実在し、立派に家名を継ぎ、事業にも成功しているということである。
 なお、水野茂右衛門が東金茂右衛門と呼ばれ、東金が唐金のかえ名で芝居の外題にまでなったことは、当時の東金の繁栄のためであったことは明らかで、「西に木更津、東に東金」と言いはやされたほど商業町東金の富力が強大になりつつあったことを証拠立てることでもあった。田丸健良(長者町の人、医師・著述家。安永三年生まれ、弘化三年没、七二歳)が書いた「房総志料続篇」を見ると、
 
 「東金の茂右衛門といふは、往古よりの豪家、衆人の知る処なり。其の外、近江屋・矢島・大木太兵衛・大野伝兵衛・田間の庄作、二百石三百石の人は数に入れず、これ全く土地平にして広き故に、此(かく)の如きの豪家絶えざるべし。」(「房総双書・第六巻」一九七頁)
 
と記されているが、その頃の東金には豪富を誇り得る大商人が少なくなかったのであって、東金茂右衛門は、いわばその代表者であったのだ。東金が繁栄したのは、右の「土地平にして広き」が故に広大な耕地を保持しえたことにもよるが、九十九里漁産物の集散地であり、また上総木綿の製産取次地でもあったがためであることはいうまでもない。余談になるが、幕末慶応元年(一八六五)幕府探索方から関東取締出役に提出された「身元者調書」によると、東金町では、稗田勘左衛門が百二十石、大重伝兵衛・布施甚七が各五〇石となっている。これに比すると、右の引用文中の「二百石三百石の人は数に入れず」というのは、オーバーな表現だとしても、茂右衛門の当時の分限者たちのスケールの大きさがわかるというものである。もっとも、茂右衛門の資産がどのくらいあったかとなると、資料がないので、具体的に示すわけには行かない。例えば、茂右衛門同様大商人であったと言われる桜木清十郎(〓(ぎん)斎)は、三千五百石の資産家だったと称されるが、茂右衛門の石高はいくらであったかと問われても、答えることは不可能である。
 
    

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 さて、東金といえば水野茂右衛門というほど音に高い茂右衛門ではあるが、何かフィクション化され、伝説化されてしまっていて、その実体をつかむことはすこぶる困難である。これほどの人物が口誦的に伝えられるだけで、実証すべき資料が全くといっていいほどに存在しないのは、まことに不思議である。そういう中で、多少の手がかりをあたえるのは、水野家の墓地に残る数基の墓碑である。
 編者が調査したところによると、水野家関係の墓は、本漸寺内に一基と、大宮墓地(日吉神社正面の山林中の墓地)内に数基がある。大宮墓地内のものは草莽の中に荒れ捨てられた形で、倒されたままのものもいくつかあって、そぞろあわれを感じさせる。直系の子孫が当地に在住していないためであろうが、それにしてもひどい状態である。編者は一、二の協力者とともに調査してみたところ、①水野栄震墓・②水野栄陳墓・③石橋氏墓・④妙法蓮種妙等墓の四基にそれぞれ墓誌が刻まれていた。(このうち、②と④は倒れたままである。)それを判読してみた結果、①の栄震と②の栄陳は父子であり、いずれも茂右衛門と称していたことが分かり、③の石橋氏は栄陳の妻であり、④の妙等は本名がぬいで、栄陳の子(栄震の孫)栄敦の妻であることが判明した。栄敦も茂右衛門と称していたが、この人の墓はこの墓地にはない。そして、①②③はいずれも栄敦が建てたものである。④を建てた者は不明だが、おそらく栄敦であろう。(墓誌銘は参考資料を参照のこと)
 ところで、まず、問題になるのは、茂右衛門が三人出て来たが、水野家の当主は代々茂右衛門を襲名していたことになるけれども、天下に名を馳せた「茂右衛門」はどの茂右衛門かということである。そこで、順序として栄震(「ひでなり」と読むのであろうか)の履歴を墓誌によってしらべてみよう。栄震は栄篤(「ひであつ」とよむのであろうか)の長子であり、父のあとを継いで茂右衛門と称した。父の栄篤の墓石は確認できないが、大宮墓地の一基に「法泉院蓮慶日悟 蓮成院妙慶日暁各霊」と正面に記された墓があるが、その右側面に「延享二乙丑三月廿五日」、左側面に「享保四己亥三月十七日」、その背面に「水野茂右衛門栄震立」と刻まれている。これは推測するに、栄震が延享二年(一七四五)に建てた彼の父母の墓ではないかと思われる。すなわち「日悟」が父栄篤、「日暁」が母(名は不明)ではないだろうか。そして「享保四己亥三月十七日」は父の命日と考えてよいかと思う。これで、栄篤が享保四年(一七一九)に没していることだけはわかるが、そのほかのことは分からない。
 さて、栄震の生没年を見ておくと、墓誌のおわりのところに、元禄一五年(一七〇二)に生まれて、安永九年(一七八〇)一二月一八日に没し、享年は六七歳と記されている。しかし、元禄一五年生まれならば、享年は七九歳のはずである。どうもおかしい。だいたい、この墓は栄震の孫の栄敦(「ひであつ」と読むのであろう)が文化一四年(一八一七)に建てたものだから、栄震の死後三七年後になってようやく建立されたものである。したがって、年代があやふやになるのもありがちである。おそらく、没年と享年とはまちがいないだろうが、生年の元禄一五年がおかしいのではないだろうか。六七歳で死んだとすると、生年は正徳四甲午年(一七一四)とすべきであろう。栄震の生まれが正徳四年とすると、父栄篤が没した享保四年には、一八歳であったことになる。彼の結婚はおそらく父の死後間もなくであろう。妻は姫島村(成東町姫島)の浦上甚五兵衛の娘である。夫婦の間には四男二女が生まれたが、長男は夭折したので、次男の栄陳(「ひでのぶ」とよむのだろうか)が後取りとなった。もちろん、茂右衛門を襲名した。三男茂作・四男兵吉(後に太兵衛)は二人とも養子に出て他家を嗣いだ。

水野茂右衛門(栄震)の墓
(東金・大宮墓地)

 ところで、栄震の人物については「栄震ハ能ク家事ニ恪勤(かくきん)シ」とあるだけで、くわしい記述がない。真面目によく働いたというだけで、家産を成したとか、公共のために尽したとかいうことも書かれていない。「後、世事ヲ遯(のが)レテ殊居(しゅきょ)シ、茂左衛門ト改称ス」とあるから、晩年は隠退して静安な生活を送ったらしい。東牛と号したとあるが、おそらく俳句を楽しんでいたものだろう。当時東金地方には、佐久間柳居・白井鳥酔の流れである伊勢派の俳諧が盛んであったから、彼もその仲間に入って句作に親しんでいたものと思われる。栄震が水野家に文学的雰囲気を持ち込んだことは、注意しておくべきことであろう。茂左衛門と改名したのは、せがれの栄陳に世をゆずり茂右衛門を名のらせたからであろう。
 次に、栄震の子栄陳を見よう。彼は文化元年(一八〇四)五九歳で死んでいるので、その生年は延享三年(一七四六)である。前述のとおり次男だったが、兄が早世したため、後継者となり茂右衛門を襲名した。彼の妻となったのは、森村(山武町森)の石橋〓(「惣」ともある)左衛門の娘である。彼女は「石橋氏墓」の主である。その墓誌によると、名を里実といい、「人ト為リ温順ニシテ、其ノ室ニ宜シト称セラレ」とあるから、貞淑な気心のよい女性だったのだろう。石橋家は森村切っての素封家で、領主水野日向守にも多額の献金をしていたということだ。彼女は三人の男児を生んだが、不幸にして安永六年(一七七七)九月、二九歳の若さで良人に先立って世を去った。彼女の死後、栄陳はおそらく後妻を迎えたことであろうが、その名などは分からない。また、その墓も見出せない。里実の墓(石橋氏墓)はその死後五〇年の文政一〇年(一八二七)に、次男で家を嗣いだ栄敦が建てたものである。
 栄陳の人物については、「人ト為リ和諧ニシテ用ヲ節ス」とある。和諧とは調和的であるということだ。また「用ヲ節ス」とは節約家だったことである。このほか記述がないので、彼がどういう仕事をしたかも不明である。栄陳には三人の男の子があったが、長男の松之助栄智は二七歳で早世したとあるけれども、この人は病弱で俳諧に親しんでいたようだ。おそらく、東牛と号した祖父栄震の影響であろうが、杉坂百明(別項参照)の門人に雪光という俳人があるが、多分この松之助のことらしい。長男が死んだので、当然次男の栄敦が後を嗣ぐことになり、三男の栄国は分家したという。栄陳は文化元年(一八〇四)三月二三日、病気のため東金で死去した。五九歳であった。
 以上、栄震・栄陳二人のことを、墓誌の記載にもとづいて述べてきたが、ちょっと不審に思うのは、両人の墓が栄敦の手によって、文化一四年(一八一七)七月、同時に建立されていることだ。栄震のはその死後三七年、栄陳のはその死後一三年に建てられたことになる。富豪水野家として、そのように建立がおくれたのはどういうわけであろうか。疑問を持ちたくなる。なお、栄陳の後嗣者栄敦についても、その妻ぬいの墓があるのに、栄敦自身の墓が同じ場所にはない。どこか他所にあるのだろうか。まだ突き止められない。
 
    

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 有名な「茂右衛門」は、栄震・栄陳・栄敦三人の茂右衛門のうち、誰が該当するのだろうか。「茂右衛門」は天明年間に名を馳せたといわれるが、栄震は天明の前年安永九年、六七歳で死んでしまっている。年齢から言っても、その活動期はかなり昔のことである。「茂右衛門」には該当しそうもない。彼の孫の栄敦の履歴は墓誌もないので分からないが、彼の妻ぬいが文化一四年三六歳で死んでいることから考えると、彼女の生年は天明二年(一七八二)になる。その良人たる栄敦も天明の頃は、まだ幼少の時分だったろう。すると、栄敦も「茂右衛門」には該当しそうもない。残るのは栄陳である。
 延享三年(一七四六)に生まれた栄陳は、天明元年(一七八一)には三六歳である。彼の五〇歳は寛政七年(一七九五)である。天明寛政期は彼の働き盛りの時期である。ところで、杉谷直道の記録による「上総国山辺郡東金町明細記」(「福島市史資料叢書・第一七輯」所収)を検すると、「東金町庄屋割元名主」の項に、
 
  「水野茂右衛門
   寛政四壬子年より同十戊午年迄相勤(む)「七ケ年」」(八〇頁)
 
という記事があるが、この茂右衛門は、たしかに栄陳のことである。すなわち、彼は寛政四年(一七九二)四六歳から、同一〇年五三歳まで七年間、東金名主をつとめていたことになる。なお、同書によると、茂右衛門の前の名主は鵜沢壱右衛門であったが、老齢の上、病気になったので、退職を願い出たので、石橋三左衛門と水野茂右衛門の二人が代役を命ぜられたが、それについて、本文には左のような説明がある。
 
 「三左衛門・茂右衛門代役被仰付(おおせつけられ)候処、三左衛門義は御代官大塚順助殿気ニ合(ひ)不申(もうさず)候而(て)、役義被召上(めしあげられ)、茂右衛門一人ニ而(て)相勤(む)」(同)
 
言いおくれたが、東金は寛文一一年(一六七一)以来、板倉藩の支配地となっていたから、この「御代官」は板倉藩から派遣されていた代官である。右の大塚順助は天明八年(一七八七)七月から寛政一〇年まで一一年間代官の職にあった人物であった(同書、八三頁)。この人と石橋三左衛門は気が合わなかったので、三左衛門は免職となり、茂右衛門一人で名主をつとめたというのである。思うに、大塚順助は相当の利者(きけもの)であったらしいが、茂右衛門はこの代官とうまく調子をあわせたのであろう。ここで、墓誌にあった「人ト為リ和諧ニシテ」という語を思い出してほしい。つまり、彼は人とうまく調和できる人間で、いわば、社交性がある上に、政治性も具備した人間だったのではないか。代官とうまく手を組んで、抜け目なく事に処する才智を持っていたのではないか。それが彼の商売の上に発揮されて、巨富を積ませる結果を生んだように思われる。前引の語の次に「用ヲ節ス」とあるのも、単なる倹約家ということではなく、締めるところは締めるという商才のあったことを示しているごとく考えられる。すなわち、彼は相当の手腕家であったと思われるのである。
 このように見てくると、「茂右衛門」は水野栄陳であるという結論が出て来そうである。しかし、何といっても裏づけの資料のないのがもどかしい。石橋氏墓の墓誌中に「各其ノ伝ニ詳ナリト云フ」とあるが、その「伝」が現存すれば、真実が解明されるだろうが、不幸にしてわれわれはまだ目にしたことがないのである。
 また、説をなす人は、「茂右衛門」とはいっても、ある個人の「茂右衛門」ではなく、各代の茂右衛門の事跡が合せ絵にされているのではないかといっている。編者はある人から、「茂右衛門」は実は大木太郎左衛門のことが「茂右衛門」にすりかえられて伝えられているのだという説を聞いたことがある。太郎左衛門は酒井家の重臣の血筋で慶長年間には東金名主をしたこともあり、その後、岩崎の豪商として栄えたという話である。真偽のほどは分からないが、「茂右衛門」のはなやかなストーリーの中には、水野以外の大商人の残したエピソードが折り込まれていそうな感じはある。
 ともかく、今になっては「茂右衛門」のリアリティをえがき出すことはきわめて困難である。「茂右衛門」説話は、古く、よき東金の夢物語だったのだろうか。
 
 【参考資料】
   (一) 水野栄震墓碑(原漢文、以下同じ)
 水埜(の)栄震ハ茂右衛門ト称ス。東牛ハ其ノ号ナリ。父、諱(いみな)ハ栄篤。栄震ハ其ノ長子タリ。因ツテ、業ヲ継承ス。姫島邨(むら)ノ浦上甚五兵衛ナル者ノ女ヲ娶(めと)リ、四男二女ヲ生ム。長男ハ幼ニシテ没ス。次ヲ栄陳ト曰ヒ、亦、茂右衛門ト称ス。次ヲ茂作ト称シ、出デテ福俵邨ノ栗原氏ヲ嗣グ。一女有レドモ、熟セズ。次ヲ兵吉ト曰ヒ、後、太兵衛ト改称ス。出デテ下総生実(おゆみ)邨ノ中村氏ヲ嗣グ。然レドモ、熟セズ。後、意(つい)ニ家ニ在リ。五女ハ分家吉左衛門ニ嫁ス。六女ハ屋形村海保伝右衛門ニ嫁ス。
 栄震ハ能ク家事ニ恪勤(かくきん)シ、後、世事ヲ遯(のが)レテ殊居シ、茂左衛門ト改称ス。元禄十有五(一七〇二)壬午ヲ以テ生レ、安永九(一七八〇)庚子冬十有二年十有八日没ス。享年六十有七。即チ、之ヲ先瑩(けい)ノ次ニ葬ル。
   時ニ文化十四(一八一七)丁丑秋七月
                   不肖
                     孫栄敦謹誌
 
   (二) 水野栄陳墓碑
 水野栄陳ハ亦茂右衛門ト称ス。父ハ栄震、母ハ浦上氏ナリ。栄陳ハ延享三(一七四六)丙寅ヲ以テ生ル。兄有リ、早ク夭(よう)ス。故ニ、栄陳ハ父祖ノ遺業ヲ嗣グ。嘗ツテ森之郷石橋〓拮左衛門義智ノ女ヲ娶(めと)リ、三男ヲ生ム。長ヲ松之助栄智ト曰ヒ、未ダ家ヲ継ガズシテ没ス。享年二十有七ナリ。次ハ栄敦ト曰ヒ、亦茂右衛門ト称ス。更ニ長ジテ家ヲ嗣グ。次ハ兵右衛門栄因ト曰ヒ、分族シテ異居ス。
 栄陳、人ト為リ和諧ニシテ用ヲ節ス。維(これ)、文化元(一八〇四)甲子春三月二十有三卯牌、疾ヲ以テ家ニ没ス。享年五十有九。即チ、先瑩(けい)ノ側ニ葬ル。
   時ニ文化十四(一八一七)丁丑秋七月
                   不肖男栄敦謹誌
 
   (三) 石橋氏墓(水野栄陳妻)
 水野栄陳君ノ妻ハ名ヲ里実ト曰ヒ、森邨石橋惣左衛門義智ノ女ナリ。人ト為リ温順ニシテ、其ノ室ニ宜シト称セラレ、栄陳君ニ東金ニ帰(とつ)ギ、三男ヲ生ム。各其ノ伝ニ詳ナリト云フ。安永六(一七七七)丁酉九月二十五日没ス。時ニ年二十九ナリ。之ヲ里西ノ先瑩(けい)ノ側ニ葬ル。法謚(し)ヲ妙秀ト曰ク。
                      大高明書
   文政十年(一八二七)八月之ヲ建ツ。
                      水野栄敦
 
   (四) 妙法蓮種院妙等(水野栄敦妻)之墓
 妙等ハ俗称おぬい、新宿長谷川八左衛(門)恭敬ノ女ナリ。水野茂右衛(門)栄敦ニ嫁シ、居ルコト数十年ニシテ、子無シ。文化十四(一八一七)丁丑三月六日、病ヲ以テ没ス。享年三十六。先瑩ノ側ニ葬ル。
     (以上、東金大宮墓地内水野家墓所)