大野伝兵衛(八代秀頴)(豪商・俳人)

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 大野家は六代秀澄の時代から興隆期に入ったと見られる。興隆期の初代を秀澄とすれば、二代が循理、三代が秀頴となる。これを徳川将軍家にたとえていえば、秀澄が初代家康で創業の主、循理は二代秀忠で守成の人、そして、秀頴は三代の家光で新成の人とでもいえようか。秀頴は八歳で父と別れ一八歳で母を喪った。これは人間として大きな不幸である。若年一八歳で大家の屋台骨を背負わされたのであるから、大変なことである。だが、逆に考えれば、父母の拘束から早く解放され、しかも、得難い巨富をあたえられたのであるから、これはどの幸運はないかもしれないのだ。もちろん、大野家には親族もあり分家もあり、大勢の雇人がいて、主人一人の勝手な振舞いは出来にくい。しかし、当主となれば相当の我儘はきくはずである。家光が生まれながらの将軍といわれたように、秀頴も生まれながらの大商人である。どうしても、自由奔放になり勝ちである。事実、秀頴は父や祖父とちがって、かなり派手であり気儘であり闊達であった。本漸寺の彼の墓碑には、九代伝兵衛(哲次郎)の書いた墓誌が刻まれてあるが、秀頴の人物について、
 
 「君、資性英邁(えいまい)、明察ヲ求メテ以テ能ク任ジ、慈愛ニ篤クシテ、以テ人ニ接ス。」(原漢文)
 
とのべている。たしかに彼は「英邁」であり「明察」でもあり、「慈愛」の持主であったであろう。しかし、いわゆる聖人君子型の人物ではなく、豪傑型で奔放性の自由人的なところがあったようだ。少なくとも、勤倹力行で爪に火をとぼす式の商人型とはほど遠い面があったようである。それについて、こんなエピソードが伝えられている。それは、杉谷直道の「杉谷弥左衛門直道一代記」に書かれてあることである。
 
 「同年(明治元年、一八六八)十月水戸戦争之レアリ。武田錦(ママ)次郎(武田耕雲斎の子・金治郎)ノ為メニ朝比奈(弥太郎)・市川(三左衛門)勢敗走シテ、八日市場ニテ戦ヒアル。当町ヘモ軍兵来ル。(中略)早打チノ兵東西ニ奔走シテ、継立テ人馬難渋スル。此ノ際、大野伝兵衛氏和泉屋ニテ酒狂ノ余リ高声ヲ発シ、隊長へ無礼アルニヨリ捕縛ニナリ、当町役人一同ヨリ嘆願シテ赦免ニナル。」(「東金市史・史料篇一」五九頁)
 
これは水戸の天狗騒動の際、八日市場の近辺松山村で小戦争があり、その余波が東金に波及して騒然としていた時の話である。そんな折に酒狂して捕縛されたとはあきれたものだが、酒好きで時に無法な振舞いもあった秀頴の奔放性を示す話柄としておもしろいと思う。しかし、その反面、彼は学問好きで教養もあり、特に俳譜では「風乎(ふうこ)」と号して、著名な人であった。
 彼の学業その他については、「墓誌」は左のように記している。
 
 「蘇根雲泉ニ縦ヒテ経学詩文ヲ修メ、中島渓(けい)斎ニ就イテ俳諧ヲ学ビ、草書ヲ能クシ、射御(しゃぎょ)ニ長ズ。」
 
この蘇根雲泉がどういう人物か、まるで分からない。中島渓斎は俳人で武蔵の人、桜井梅室の弟子である。漢学・俳諧・書道のほか弓馬の道まで学んだわけである。これらをどの程度身につけていたかは問題にしろ、たとえば書道などは相当のものだったという説もある。(彼の俳諧については後述する)

大野伝兵衛墓碑(本漸寺)

 
    

2


 一八歳で当主となった秀頴は当然結婚したわけであるが、妻に迎えたのは植松氏の娘ていであるが、この女性は一女こうを生んだが、三〇歳(慶応二年、一八六六)で死去している。そこで、後妻として田丸氏の娘たかを迎えたということである。たかは一女千可(ちか)を生んだが、とうとう男児は生まれなかったらしい。右の二度の結婚の年時は不明である。ところで、ここに、文久二年(一八六二)三月の東金上宿町の「宗旨人別御改帳」(飯田久衛氏蔵)がある。これは前に示した文政一一年(一八二八)から三四年後のものである。文久二年のは、家族が伝兵衛(秀頴三三才)はじめ、母秀(四九才)、姉とく(四二才)、妹喜わ(一八才)、家内てい(二七才)同こう(四才)の六人で、召使(名前略)は下男が二四人、下女が九人の計三三人。家族召使の合計は三九人である。このほかに持馬が一疋である。これを、文政一一年のもの(別項「大野伝兵衛(六代秀澄)」参照)と比較すると、家族の数は変わらず、下男が二人少なくなり、下女は同数、召使数は二人減じ、持馬が一疋へっている。三四年前と大差はないが、下男二人持馬一疋の減は、いくぶん商勢が退潮したといえるかもしれない。ただし、後に説くように、文久元年には茶園の経営をはじめているので、その影響ということも考えなければならないかもしれないのである。
 右の家内ていというのは最初の妻のことであるが、なぜ「女房」としてないのか気になる。彼女はこの年二七歳とすると、天保七年(一八三六)の生まれとなり、一女こうが四歳だったとすると、秀頴との結婚は彼の二七、八歳の頃かと推量される。もう一つ問題になるのは「母秀(四九才)」である。「母」は伝兵衛すなわち秀頴の母であるが、彼の母はゆかのはずである。ゆかは弘化四年に死んでいるので、この人別帳に名が出ないのは当然であるが、しかし、なぜここに母秀が出ているのであろうか。秀はこの年四九歳だから、生まれは文化一一年(一八一四)となる。(たかの生まれは文化三年)秀頴は天保元年(一八三〇)に生まれている。秀はその年一七である。子を産んでもおかしくはない。と言っても、秀頴の母はゆかであるから、生母が二人あるはずもない。ゆかと秀とはどういう関係にあるのだろうか、疑問になってくる。いいかげんな推理をするのもどうかと思うので、深く追究するのは慎しみたい。
 秀頴は先妻の生んだこうと後妻の生んだ千可と二人の娘を得たが、男児にはめぐまれなかった。そこで、千可に佐藤尚中の次男哲次郎を婿養子として迎えて、後を嗣がせたのである。佐藤尚中(文政一〇-明治一五 一八二七-一八八二)は順天堂の創始者佐藤泰然に師事し、やがて見込まれて、その養子となり、順天堂の後を嗣いだ著名な医家である。これと縁組したということは、大野家の社会的地位の高さを物語るものであった。
 さて、六代秀澄の頃から大野家は興隆期に入り、七代循理を経て八代秀頴の時代となり、家庭的には問題が多少あったとはいえ、家業も順調な状態をつづけていたと見られる。それにつれて、秀頴の社会的地位も重きをなすようになった。慶応年間、彼は領主板倉内膳正勝尚から、苗字帯刀を許されるとともに扶持米を下附されている。その記録を杉谷直道の「東金町誌・草稿」から書き抜いておこう。
 
 「東金旧領主内膳正役所ヨリ、名字佩刀ヲ許サレ扶持米ヲ給セラレシ人名ヲ左ニ記ス。
  五人扶持
 一米二十二俵二斗    内田清三郎
  二人扶持
 一米九俵        石橋三左衛門
  同
 一米九俵        大多和平左衛門
  同
 一米九俵        大野伝兵衛
  同
 一米九俵        杉谷弥左衛門
  同
 一米九俵        小安庄作
  計六十七俵二斗
 右ハ毎年御蔵米ヲ以テ下賜セラレシナリ。」
 
            (「東金市史・史料篇一」五五頁)
 
 また、安政四年(一八五七)には、板倉藩の御用金御用達として、大野伝兵衛・内田清三郎・勝田増太郎・小倉彦太郎・古川惣右衛門・布施甚七・前島三郎兵衛・加瀬半兵衛・今井利右衛門・古川伝七の十人が命ぜられた。特に伝兵衛(秀頴)は筆取として頭取の重任を委嘱されたのである。(杉谷直道「東金町創始」による。)その任は慶応年間も引続き命ぜられ、伝兵衛を頭取に、右の内田・加瀬・小倉のほか、稗田勘左衛門・勝田増次郎・三上惣九郎の七人となった。(同「東金町誌・草稿」による)御用達は藩の要請によって御用金を用立てする役であって財力がなければ勤まらないもので、伝兵衛(秀頴)は最有力の財閥として重きをなしていたわけである。
 
    

3


 大野家は商家ではあるけれども、問屋や卸商と異なって、製薬をしてそれを販売することを業としている。だから、製産と販売を兼ねていたわけで、品物を右から左へ売りさばいて利鞘(りざや)を取る商売とはちがっていた。したがって、産業に関する関心が深かった。また、大野家では江戸日本橋に一角丸の取次店を出していて、前述のように水戸家その他との取引きを活溌にし、江戸市内や諸国への売り込みに懸命であった。京都に本拠をもっていた三井家が江戸に出店をもっていたので「江戸店(たな)持ち京商人(あきんど)」といわれたことは有名だが、大野家も「江戸店持ち東金商人(あきんど)」であった。(水野家も同様)そうなると、普通の東金商人とはちがって、視野が広くなり、仕事が大きくなる。闊達な秀頴が商業界ないし産業界に野心を燃やすのは自然のなりゆきであろう。そのあらわれが安政五年(一八五八)の江戸コレラ流行の際の救援活動であり、あるいは東金茶園の経営である。
 まず、コレラ活動であるが、これは東金商人の心意気を示した慈善活動であるとともに、乾坤一擲の大バクチでもあったのだ。このことについて、「墓誌」は次のように記している。
 
 「君弱冠ノ時、安政五年(一八五八)戊午(つちのえうま)ノ夏、悪疫流行ス。君之レヲ憂ヘ、都下ノ支店ニ於テ折衝飲(せっしょういん)数万錠ヲ施シ、患者幾千人ヲ救フ。官、其ノ仁慈ヲ美(ほ)メ、白金十一枚ヲ賜フ。」
 
弱冠とあるが、安政五年は秀頴二九歳である。結婚して間もなくである。とにかく若いから正義感に燃えて救民に乗り出したのであろう。この年のコレラ蔓延については、斎藤月岑(げっしん)の「武江年表」に、左のような記事がある。少し長くなるが引用しよう。
 
 「夏中、雨多くして炎威烈しからず。秋にいたりても天顔快晴の日少し。冷気がちにて眩暈(めまい)、逆上(のぼせ)、眼病、頭痛をやむ人多し。同月(七月)末の頃より都下に時疫行はれて、芝の海辺、鉄砲洲、佃島、霊巌島の畔(ほとり)に始まり、家毎に此の病痾に罹(かか)らざるはなし。(東海道中駿河の辺よりはやり来りしと云ふ)八月の始めより次第に熾(さかん)にして、江戸中并びに近在に蔓(はびこ)り、即時にやみて即時に終れり(貴人には少し)。始めの程は一町に五人七人、次第に殖(ふ)えて檐(のき)を並べ、一ツ家に枕を並べ臥したるもあり。路頭に匍匐(ほふく)(はいまわる)して死につけるも有りけり。此の病、暴瀉(ぼうしゃ)(はげしく吐くこと)又は暴〓(さ)など号し、俗諺に『コロリ』と云へり。西洋には『コレラ』又『アジヤ』『テイカ』など唱ふるよし。大かたは即時に嘔気(はきけ)を催し、吐瀉して後続けて瀉痢(しゃり)(腹くだし)をなし、手足厥冷(けつれい)(熱くなったり冷めたくなったりする)して痿(な)え痺(しび)れて立所に絶命す。(中略)八月朔日(ついたち)より九月末迄(まで)、武家市中社寺の男女、この病に終れるもの凡そ二万八千余人、内火葬九千九百余人なりしと云ふ。実に恐るべきの病也。(中略)九月初旬より些(すこ)しく遠ざかり、十月に至り漸く此の噂止みたり。」(東洋文庫「武江年表2」一六六-一六八頁)
 
コロリといったのは、ころりと死んでしまうからそういったのであるが、武士など身分のいいものはかからず庶民が多く、また、子どもや老人がかからずに青年者が多かったというのだから、まことに始末が悪かった。わずか三か月ぐらいの間だったようだが、一時は大変な騒ぎだった。この流行病で小説家の山東京山や浮世絵師の一立斎広重その他有名人も多く命を落としている。大野家の折衝飲は胃腸薬ではあるが、当時の有名薬だった守田宝丹などと同じく解毒剤にもなったので、役に立つところがあったのであろう。秀頴は江戸日本橋の取次店を中心に、患者たちに折衝飲を無料で施与し、措しみなく救助活動を実施したのである。それがどの位の効果を及ぼしたかは分からぬが、必ずや江戸市民をよろこばしたにちがいない。秀頴としても相当の犠牲は払ったにちがいない。秀頴の義捐行為に対して、当時の江戸(南)町奉行伊沢美作守正義は白銀一一枚を下賜して、その功を賞したのである。秀頴は面目をほどこし名を売ったわけだが、これが商売にプラスとなったことも事実であろう。
 
    

4


 さて、八代伝兵衛秀頴の業績のうち、いちばん仕事が大きく評判をよんだのは、いわゆる東金茶園の経営であろう。これは、彼にしてみれば、かなり大きな冒険だったにちがいない。家業たる薬種業のほかに、新しい企業をやろうというのである。地方の一商家としては、相当の飛躍である。
 この仕事のねらいは、外国貿易に乗り出そうとしたところにある。安政六年(一八五九)六月、幕府は横浜等の港を開いて、海外貿易にふみ切った。これは形は自由貿易であったが、実は主体制の保てないいわゆる従属的貿易で、外国商人の独占によるものであった。輸出物産としては生糸がもっとも多く、幕末の万延元年(一八六〇)から慶応三年(一八六七)にいたる八年間の輸出額は生糸が七三・一%であった。その次が茶の一一・六%、蚕種・繭の六・五%、綿花が三・八%という順序であった。(山崎隆三氏「幕末維新期の経済活動」岩波講座日本歴史13、一四三頁参照)この、茶が第二位の貿易額を占めていることが、秀頴にとっては魅力的だったのだ。すでに、安政五年には幕府が茶・紙・漆等の増産を奨励しており、産業関係者の関心をあおっていたのである。茶の受入れ先は圧倒的にアメリカが多く、カナダがそれに次いでいたが、相手が大国だけに茶業従事者の夢をふくらませたのであるが、明治になっても数年間は輸出は良好な状況をつづけていた。野望家の秀頴は茶産業の開発に心をとらわれた。そして、茶園づくりをはじめたのである。

茶園風景

 茶の栽培には、気候が温暖で雨が多く排水状況の良好な丘陵地または台地が適しており、土質は埴壌土のごとく腐植に富むものがいいとされる。東金地方はおおむねその条件に合致しているといえよう。秀頴が茶園づくりに熱中しだしたのは、土地状況から考えても不思議はないのである。しかも、製茶熱は関東一圓に盛んとなり、農民たちは換金作物として茶が最適だと考えはじめ、各地に茶釜が作り出される機運が濃厚になってきていたのである。その直接の刺戟となったのは、貿易開始に伴って、茶が高値を呼ぶようになったことである。そんな空気は秀頴の野心をそそらずにおかなかったのである。
 新事業をおこすにあたって、秀頴も茶についての勉強には努めたことであろう。それについて考えられるのは、例の佐藤信淵の影響である。前述したとおり、信淵に直接指導を受けることはなかったであろうが、間接に彼の書き残したものから示唆を受けたところはあったかも知れないのである。信淵の著述には茶の栽培法について触れた文が散見する。ちょっと引いて見ると、「総(すべ)て茶は暖国は気烈(はげし)きに過ぎて、寒国は気醜を奈何(いかん)ともすることなし。故に茶園を立つるには、気候第十番の土地を適宜とす。山城の国宇治・醍醐・栂尾(とがのを)等は第十番の地なり。」(「薩藩経緯記」家学全集・中、六九四頁)「茶ヲ作ルノ法ハ宇治ノ製法ヲ学ブベシ。茶ノ種子ヲ蒔クヨリ苗ヲ仕立テ植ヱ様其ノ他新芽ヲ香烈ニシ、味ヲ美ニスルコト、皆秘事アリ。講習スベシ。」(「経済要略・上」岩波・日本思想大系45、五四五頁)「凡そ茶の木を上手に仕立つるには、其の幹を高く延ばすことなく、丈矮(たけひく)く其の枝横に拡(ひろが)りて、蓊鬱(こんもり)として繁茂せしむる様に作るを法とす。」(「培養秘録・五」(佐藤信季著)家学全集・上、四〇五頁)「抑(そもそ)も極上の茶を製することは、茶の木古株に非れば宜しからず、故に宇治にても五十年以上の古根を貴び……」(「責難録・上」家学全集・中、七五六頁)信淵のこんな栽培要領を秀頴は学び取ったかもしれない。
 秀頴がいよいよ製茶事業に取りかかったのは「墓誌」によると、文久元年(一八六一)彼の三二歳の時であった。青年の野望に燃え立っていたことであろう。この時期は貿易熱の高まりとともに、各地に生産熱が勃興しつつあった。時勢に敏感な秀頴は新事業に意欲を燃やしたのである。たとえば、静岡茶をはじめた多田元吉が静岡県有渡郡丸子の赤目国有林の払い下げを受けて、五十町歩ほどの茶園を開いたのは、これより八年後の明治二年(一八六九)のことであった。秀頴が先見の明をもっていたことは明らかであろう。さて、その頃、といっても慶応元年(一八六五)の文書だから四年ほど後に書かれたものだが、新事業に取りかかった当時の大野家の資産状況を示す資料があるので引いておこう。
 
  「   板倉内膳正領分
        上総国山辺郡東金町
             百姓
                      伝兵衛
 一高五拾石余
   此の代金凡そ五百両位
   田徳米凡そ七拾五俵位
 一山林
   此の代金凡そ七百両位
 一一角丸折衝飲
   凡そ代金七千両位
 〆金八千弐百両位の見込みに御座候。尤も、去る亥(文久三年)年中、家宅焼失後、普請等にて預り金借用金とも、凡そ金四、五千両も之れ有り候様子に御座候。
 外に
  江戸日本橋通壱丁目一角丸出店壱ケ所支配人持ちにて、諸事右伝兵衛賄(まかな)ひ、当五月中、町御奉行所より支配人御呼出しの上、御用金弐百両仰せ付けられ、請書差上げ奉り候趣に御座候。」
 
   (「身元者取調帳」東金市史・史料篇四、一二二二頁)
 
これによれば、資産の現金評価額は八、二〇〇両ほどであるが、文久三年(一八六三)火事にあい家宅が消失するという不測の災害を蒙ったこと等のため、四、五千両の借金等によるマイナスがあり、また、江戸の出店に対し町奉行所から二〇〇両の上納金を命ぜられたこともあって、相当苦しい状態にあったことが分かる。火事が全焼だったか、または半焼程度だったか、伝える資料がないので不明だが、ともかく、新事業をはじめた矢先の不幸だから、打撃は大きかったにちがいない。
 
    

5


 こうしてはじめられた茶園づくりは、どういう展開をしたのであろうか。「墓誌」を見よう。
 
 「文久元年、山林八万余歩ヲ開拓シ、茶園ヲ為(つく)リ、又、水田六千歩ヲ埋メ、製茶場ヲ建設シ、良手ヲ宇治ヨリ招キ、里人六百余人ニ伝習シテ競技セシム。」
 
仕事は茶園づくりと製茶場づくりと、そして、宇治からの技術の輸入、さらに人集めということがあった。
 まず、茶園づくりは、文久元年(一八六一)東金台御林から黒田地先さらに松之郷の菅谷新田へかけて、自己の所有する山林・荒蕪地あわせて二〇町歩を開墾して、茶園化した。茶の実は山城の宇治から取り寄せたというが茶樹は何処から移入したものか明らかでないが、相当の労力を要したものであろう。ついで、五年後の慶応元年(一八六六)右の菅谷新田の宇木浦、それから南北高塚、矢射塚(八重塚)等の山林数町歩を開いて、さらに茶園を拡張した。そして、秀頴は茶の名所山城国の宇治にあやかる意味をもって、この地域を「宇治」と命名したのである。(現在の松之郷宇治はその名残りである。)秀頴は遠大な計画をもっていて、この地を永く茶所とすべく、産土神として天照大御神の神霊を勧請したのである。その神祠は今も同地に残っている。
 この茶園内部の様子はどうであったか。それを伝える資料の一、二を見ると、相模の学者小川泰堂という人が、明治四年(一八七一)四月一八日、友人二人とともに大野茶園をおとずれている記事が、同人の書いた「観海漫録」(「房総叢書・第八巻」所収)にあるが、それによると、「九曲(つづらおり)の坂を登り、二十余町にして茶園に至る。中之割・会之割・富士見畠等九個所にて、凡そ十万坪といへり。(中略)処々に仮小屋をしつらへ幟(のぼり)を立てたるは、定めて此所に茶摘女を進退するなるべし。」(三九三頁)とあり、九か所に区割をしてそれに名前がつけられ、仮小屋が所々に立てられ、茶摘女の控所にしていたらしい。
 なお、大野茶園は宇治地区を主としていたが、黒田地区のものは広さおよそ七町歩ほどで、これは別になっていたもののようである(古老の説による)。明治八年(一八七五)二月一九日、東葛飾郡十余二(とよふた)村(柏市十余二)の市岡晋一郎という人がこの茶園をたずねた時の記事(「東金町大野伝兵衛茶園視察」)が、「柏市史・資料編一一」に出ている。「(前略)茶畑見物ニ罷リ越シ、追々見物いたし進ミ入リ候処、畑之中央ニ芝ニテ小丸山之レ有リ、山中央、古松十四、五本植込ミ之レ有リ、同処ヘ案内致サレ罷リ越シ候処、人足程右山中ニ居ラレ候。(下略)」(五〇一頁)とあるが、これは右の黒田茶園のことのようである。
 さて、大野茶園が整備されても、茶摘みが出来るまでには数年を要したと思われるが、夏も近づく八十八夜の頃となると、茶摘み女が大勢雇われて、それはにぎやかな茶摘みが行われたようである。前引の「観海漫録」にはその模様を「今は茶も二番摘みになれば賑しからずと雖(いえど)も、凡そ三百人あまりの婦女(おんな)、若きも老いたるも一様に前掛け襷(たすき)の花美(はなやか)なるが、菅の小笠に唄ひなまめかしたるさま、いと面白くて、笠の中を差し覗(のぞ)くに、何れも美婦人多し。(中略)近き頃は、此の国にて娵(よめ)を迎へんと思ふ者は、大野の茶園に娘の撰娶(えりどり)すと聞きしが、さもあらんなど囁(ささ)やく。」(同前)とのべている。茶摘み風景のにぎやかだったことは想像できる。鈴木勝氏の「大野の茶園について」(「東金文化」第一七号)という文章には、当時茶摘娘であったある老女から聞いた話として、「何しろ数十町歩という広い茶園なので、近在の農家の女たちや、海岸の船方の妻君などが大ぜい集って、五色に染めぬいた旗のぼりを立てて、その旗の色によって組を分けて摘んだということである。蚕豆(そらまめ)を一俵位焙(あぶ)って売りに行くと、忽ち売り切れたという話である。」と書かれている。
 次に、製茶場のことであるが、これは現在の東金駅のあたりにあった大野家の水田一五町ほどを埋め立てて建てられたもので、かなり広大な施設であったといわれる。その外装や内部の状景について、度々引用する「観海漫録」は「大野の後園に茶製場を見る。四方に溝渠(みぞほり)をめぐらし、内には幾棟となく建て列(つら)ねたる小屋の中に、蒸(む)すあり扇(あお)ぐあり、揉(も)むあり焙(ほう)ずるあり、撰ぶもあり、喧々(がやがや)として熱躁(ねっそう)し、混雑限りなし。ここに立舞ふ者五百人といへり。中央に大井戸あり、清泉沸出(ふっしゅつ)す。井架(いどやかた)に額あり。『素履』の二大字を書す。素履は『易』に『往吉(ユクキツ)ナリ』とあって、質素を用ゆるの義なり。」(三九三-三九四頁)と書いている。
 また、秀頴とは親しい間柄であった安川柳渓(別項参照)は、大野茶園の情景を飯田林斎(別項参照)が絵巻にえがいた画帖「東嘉園画巻」(東嘉園は大野茶園の名称)に寄せた跋(ばつ)文(漢文)に製茶場で働く人たちの様子をおもしろく書いている。ちょっとむずかしいが一部を引いてみると、「焙炉(ばいろ)数百之レヲ屋内ニ置キ、一人一炉ニ当リ、且ツ揉ミ且ツ撒(ま)キ、其ノ手裏(しゅり)ノ工拙火気ノ緩急(かんきゅう)、視テ識(し)ルベカラズトイヘドモ、亦、大イニ製品ノ差等ニ係(かかわ)ルト云フ。其ノ煙気濛々(もうもう)タル中、剥々(はくはく)トシテ(コツコツと)声有ルハ、茶芽ヲ蒸(む)シ度(ど)ヲ計リテ、甑(こしき)(せいろう)の蓋(ふた)ヲ拍(う)ツナリ。且ツ蒸シ且ツ扇(あお)ギ、竹籃モテ冷(れい)ヲ取リ、而(しか)ル後、之レヲ炉夫(ろふ)ニ授ク。凡ソ卯(う)ノ時(午前六時ごろ)、事ヲ挙ゲ、申(さる)の時(午後四時ごろ)事ヲ歛(おさ)ム。男女数百、孜々役々(ししえきえき)(一所懸命に働くこと)トシテ、更ニ一人モ食頃(しょっけい)(食事するほどのわずかな時間)ノ間(いとま)ナシ。」(原漢文)というような次第である。工場の設備がどの程度のものだったかはよくわからぬが、宇治式のやりかたを取り入れたことはまちがいなかろう。が、いろいろこまかな手わざを必要とするので、技術練成のためには容易ならぬ苦労があったことと思われる。右の柳渓の文章から考えても、仕事はかなり重労働であったらしい。労働時間は午前六時ごろから午後四時ごろまでだったというが、賃銀などはどのように支払ったものかは分からない。当時は不景気つづきだったから、人集めは骨が折れなかったであろう。地域経済に活性をあたえたところもあったにちがいない。
 

有栖川熾仁親王自筆の額

 
    

6


 茶園経営のためには、宇治から三〇人位の職人を借りて来て、こちらで選んだ職人候補者たちに技術講習を受けさせ、その受講者たちを幹部として他の人夫たちを指導するようにしたということである。ちょうど、九十九里浜の漁業が紀州漁夫の指導を受けたような形になるわけである。ところで、漁業のばあいに、漁撈技術とともに労働歌というべき民謡も伝達されたように、茶業のばあいも、宇治の茶摘み唄・葉もみ唄のたぐいがおのずから伝えられて、労働する男女の間にさかんにうたわれるようになった。その歌詞や歌曲は宇治の本歌そのままのものもあるが、東金色を多少発揮して新しい歌詞に直しあるいは言葉を加えたものもあり、曲を歌いやすくかえたものもあるようだ。前引の鈴木勝氏の「大野の茶園」という文章の中には、いくつかの歌詞が紹介されている。それを引用させてもらうと、
 
 「宇治は茶どころ茶は縁どころ 娘やりたや婿ほしや
  お茶はもめもめもまなきゃならぬ もめば古葉も粉(こ)茶となる
  宇治で儲けて田原で費(つか)うて 花の朝宮で丸はだか
  お茶がありゃこそ田原は都 お茶がなければいやの谷」
 
これらは宇治民謡の歌詞そのままのものである。これに対して、東金色を出したものには、
 
 「宇治の新茶と大野の古茶が、出合いましたよ横浜へ
  馬が来た来た千両箱つけて 大野どこだと尋ねきた
  お茶の茶の茶の茶の木の下で お茶も摘まずにいろ話
  もめよもめもめもまなきゃならぬ もめば茶となるお茶となる
  東金よいとこ北西晴れて 東山風そよそよと
  お台所と川の瀬は いつまでどんどと続くだろ
  ここの旦那は馬好きで 黒毛かわる毛数知れず」
 
のごときものがある。このうち、おわりの二つについて鈴木氏は「この馬の唄は大野の主人公が非常に馬好きで、いつも黒毛の駒にのって、茶園の見廻りに来たという。そして、好んで好みのこの唄を歌うと、主人は忽ち上機嫌になって、沢山の茶菓子を買って馳走したという。」と、秀頴にまつわるほほえましい話柄を伝えている。彼は若い頃から乗馬に興味を持ち馬術の習練をしていたのであるが、茶園の巡回を馬でやっていたのであろう。また、彼は開放的な人柄だったから、雇人たちともザックバランに親しみ、彼らに好かれていたらしいことが、右の唄から察せられるのである。
 だいたい、秀頴は人の使い方がうまかったらしい。「其ノ人ヲ用フルヤ、丁寧ニシテ、告戒以テ之レヲ奨励ス」(「墓誌」)というように、民主的なあつかい方をして信望を得たようである。また、仕事の能率をあげるために、競争意識をあおるような仕方も取ったことが伝えられている。
 こんな調子で事業を進めたので、茶の生産も順調で企業成績も上昇して行った。「故ニ、数年ヲ出デズシテ、茶質精純ニシテ、声価諸州ニ冠タリ。宜(むべ)ナルカナ、関左ノ産茶ハ君ヲ以テ嚆矢(こうし)ト為セリ」(「墓誌」)というような成果をおさめるにいたったのである。したがって、世間の評判も高まり、諸方からの見学者も多くなった。すでに紹介した相模の小川泰堂とか、柏の市岡晋一郎とかのほかに、大原幽学の門人で香取郡諸徳寺村(干潟町)の菅谷又左衛門、あるいは印旛郡飯野村(佐倉市)の倉次(くらなみ)享という人たちも、大野茶園をおとずれてそれぞれ受益するところが多かったのである。倉次氏のごときは、はじめ下総猿島(茨城県)の茶園をたずねたところ、製茶は秘法だから伝えるわけに行かないとことわられ、それで東金へ来たのであるが、大いに歓迎されいろいろな教授を受けて帰り、後に柳沢牧(佐倉七牧の一)を開拓して茶園を設け製茶会社をおこし、これがいわゆる八街茶のおこりになったのである。秀頴はそういう来訪者を丁重にあつかい、酒食をもってもてなすなど歓待に努めたのである。(そのことは市岡晋一郎の視察記事にも書かれている。)彼には祖父秀澄から享けた宣伝上手なところがあったようだ。
 
    

7


 東金茶園の営業成績は良好な状態をつづけていた。それは、少なくとも明治七年(一八七四)頃までは上昇的であったと思われる。というのは、横浜貿易における茶の輸出状況が良好であったからである。秀頴は商売についてはかなり進取的なところがあって、アメリカとの直接取引を企図したのである。そして、横浜に支店を持っていたウォルシーギー商会と契約を結び、アメリカへの直輸出を実現するにいたった。直輸出は当時の大手製茶会社の多くが考えていたことで、たとえば、埼玉県の狭山(さやま)茶で有名な狭山地方の入間郡豊岡町(狭山市)の狭山会社(明治八年設立)などは、ニューヨークに支店を設けた(明治九年)ということである。秀頴が米国への直輸出をはじめたのは何時であるか、それを明証する資料もないから、はっきりしたことは分からぬが、右の狭山会社よりは早かったと思われる。あるいは、全国的にも早いほうだったのではないかと考えられる。また、狭山会社のように米国内に支店を設ける意向も持っていたかもしれない。のみならず、彼は茶産業の発展のため、壮大な夢をえがいていたかもしれない。しかし、その夢も、突如はかなくも断たれてしまうのである。それは、突然彼を奪い去った死のおとずれである。
 明治九年(一八七六)七月二九日、彼は不帰の客となった。その年春頃から体調を崩し、療養につとめていたが、ついにふたたび起つことが出来なかったのである。病名は不明である。享年四七歳という若さであった。
 これは、東金茶園に取っては最大の痛手であった。将来の目途が立たず、関係者は困惑するばかりであった。加えて、客観情勢も悪化の傾向を示して来ていた。すなわち、茶の輸出量も減り、茶の価格も低落を示していた。その要因としては、日本の製茶業者の中に悪質なものがいて、粗悪な品を輸出したため、アメリカ側が不信を示し、輸入を制限しはじめたことがその主たるものであった。一説によると、静岡あたりのある業者が柳の葉を混入して送ったのが発覚してそれが直接のきっかけとなったということである。しかし、一度信用を失うとそれを恢復するのは容易ではない。日本政府はそれまでは業者にまかせ切りで放任していたので、悪結果を招いてしまったのである。そこで、明治一二年(一八七九)横浜で第一回の製茶共進会を開いて対策を講じてみたが、なかなか好転の見込みは立たなかった。
 大野家では、すでに述べておいたように、養嗣子哲次郎が後をついだ。彼は万延元年(一八六〇)一〇月一五日の出生で、秀頴の没した明治九年には一七歳の少年であった。とても後途を策するほどの力はなかったであろう。親戚の重立った者や使用人中の幹部たちが後始末に努力したのであろうが、製茶業は縮小してゆくよりほかはなかった。そして、明治二〇年(一八八七)ごろまでは操業をつづけていたらしいが、間もなく廃業してしまったごとくである。廃業した年時をはっきり伝える資料はない。ともかく、大野家の家業はもとの薬種業一本に戻ったことになる。
 廃業にいたった主因は、前記のごとく秀頴の死と客観情勢の悪化ということにあったが、かりに秀頴がその後健在だったとしても、客観的な悪情勢を乗り切れたかどうかは疑問とすべきであろう。東金茶園は新生の茶園である。いわば俄かづくりである。宇治・静岡の茶は古い伝統をもっている。埼玉の狭山茶も文化年間からはじめられ、数十年の伝統を保持している。東金周辺には散在的に茶畑を持つ農家が多少あったにはちがいないが、産業としてのしっかりした伝統はなかった。良質の茶は古木によらなければつくりにくい。秀頴が開港に際して急に茶産業をはじめても、伝統ある企業者と太刀打ちすることは困難だったろう。それに、大量生産のためには、近代的な機械もそなえなければならず、俄か仕立ての職人ばかりでは仕事がはかどりかねるであろう。さらに、問題は資金である。大野家では薬剤生産の利益をもって第二産業たる茶生産をはじめたのであるが、二本立産業をすすめるには、よほど金融関係がうまくゆかなければむずかしいであろう。秀頴の生前にもおそらくその面の苦しみはあったろうし、死後はなおさらその度が増したことであろう。茶生産の廃業はいたしかたない成りゆきというよりほかはないであろう。
 秀頴はアイディアリストで、また気の多い人であったが、茶産業のほかに生糸景気に対応して桑田を開いて養蚕業にも手を出している。しかし、これもものにならないうちに死を迎えてしまった。そのほか、彼が東金郵便局の創始者だったことも書いておく必要があろう。明治五年(一八七二)六月二二日彼は自宅に局を設け自ら局長となり、郵便業務をはじめている。彼の死後は哲次郎が継ぎ三五年まで勤め、その後をさらに一〇代の秀一が受け三八年まで勤続して別人にゆずっている。
 秀頴は義俠心に富み、また、愛情の深い人だった。そのあらわれの一つは例のコレラ救済活動だったが、そのほかにも特記すべきことがある。それは、「墓誌」に、
 
 「慶応三年(一八六七)山林六千歩ヲ開墾シテ、窮乏者ヲシテ之レヲ佃(こさく)(小作)セシメ、而カモ租有ラシメズ。明治二年(一八六九)宮谷(みやざく)県ノ義倉米百苞(ほう)(「俵」に同じ)ヲ出サシメ、細民貸与ノ法ニ賛ス。」
 
と記されていることだ。はじめのことは細民に土地を貸与し小作料を徴収しなかったというのだが、その代り茶園を作らせたという風に伝えられている。後のことは宮谷県に働きかけて貧民救済の実をあげしめたということである。なお、「墓誌」には彼の死後、明治一六年(一八八三)同一七年(一八八四)の二回政府から生前の功績に対して賞金が与えられたことを記してある。余栄というべきであろう。
 
    

8


 最後に、俳人としての秀頴について語っておかなければならない。
 秀頴は俳名を風乎(ふうこ)と称し、天隨舎・得々庵などの号を持っていた。彼はすでに少年時から俳諧に親しんでいたらしい。その時分、東金には何人かの俳諧師がおり、また、彼の分家筋(大野豊治の長男)で二つ年下(天保三年一〇月一七日)の同姓伝右衛門も俳諧趣味があり柳塘(りゅうとう)と称し蒼々舎と号していたが、二人は仲がよくともに、河野呼牛(こぎゅう)(別項参照)について指導を受けた。その時分、風乎は未成と称していた。呼牛は漢学も出来た人だが、俳諧は伊勢派の中川乙由の流れをくむ白井鳥酔の門下で江戸の人である松露庵烏明(うめい)に学んだ。だから、呼牛に就いたことは鳥酔の流風を承けたことになる。ところが、呼牛は風乎の二〇歳の時すなわち嘉永二年(一八四九)四月七日八二歳で没してしまった。そこで、風乎は新しい師匠として中島渓斎(けいさい)に教えを受けることになった。渓斎は武州の人で、桜井梅室(ばいしつ)の門下であった。梅室は加賀金沢の人で同地の高桑闌更(らんこう)についたが、闌更は伊勢派を起こした芭蕉門人の中川乙由(おつゆう)の流れを承けた人である。梅室は後京都に住み、俳人として名声を高めたが、どういう縁であったか東金へ来遊し、大野家に滞在したことがあった。それについて、石井雀子氏はこう書いている。
 
 「京の梅室も東金に来遊され、風乎の処にしばらく滞在して居られた。従って、梅室の短冊や半折など各所に散見する。中にも珍とするものは、十二ケ月の六枚屏風である。」(「房総の俳人(六)」俳誌・閑古鳥昭和九年一月号)
 
これは何時のことであったか分からない。梅室は嘉永五年(一八五二)一〇月一日八四歳で京都において没している。それ以前であることは明らかだが、正確に何年のことかは判断し得ない。おそらく右のような縁故で梅室門の渓斎に師事することになったものだろう。その渓斎について、雀子氏は左のように記している。
 
 「渓斎は梅室門なれど、師風と稍趣を異にし、客観の句多く、現代のものとしても遜色なき作品を多数遺(のこ)されて居る。渓斎は武州の人にて、各地を行脚し、東金へは屢々(しばしば)来遊されて、地方俳人に歓迎されたものである。来る毎に、風乎、柳塘、葵白(篠原)、他山(前島)等の宅に逗留し、句会を開莚された。当時往復の書翰など今尚残つてゐる。」(同)
 
これによると、渓斎は相当すぐれた俳人であり、指導力もあった人のようだが、一般にはその名はあまり知られていない。ともかく、呼牛も渓斎も同じ伊勢派に属する人たちであるから、異派の師にかえたというわけではなかった。柳塘も風乎と同時に渓斎門に入ったということである。風乎はなかなか社交家であり、家は豪富でその場所も東金の中心にあったので、俳人たちが自然に集まって来て、それに、安川柳渓・飯田林斎のごとき画人や、鶴岡安宅・吉井宗元のような学者も加わって、大野家は文人サロンといった社交場となり、秀頴はその軸をなしていたごとき観があったのである。
 ところで、風乎の俳風はどうであったろうか。
 
   牛のふむ鋸屑(おがくず)くぼむ秋の雨
   萩原やたそがれ近き一とあらし
   七夕(たなばた)や門へ出づれば草の風
   大風の中に日暮るる紫苑(しおん)かな
 
こんな句には、温雅で奇を衒(てら)わないよさがある。また、写生的なところに新しさがある。
 
     草庵
   後の月膝より先の竹格子
     良夜清光
   軒の樋(ひ)にしばしの隈(くま)や今日の月
 
月の句であるが、デリカシーが感ぜられる。
 
   雪の日や柴積む窓の薄あかり
 
古句のなぞりを感ぜしめるが、情趣があらわれて好感が持てる。
 
     小祥忌(しょうしょうき)追悼
   うたてやな折ればこぼるる梅の花
     嫡子竹女を悼む
   鼠尾草(みそはぎ)にこの芽そゆべき恨みかな
 
はじめのは、慶応二年(一八六六)三〇歳で死んだ最初の妻ていの追悼句である。小祥忌とは死者の一年後の祥月命日に行なう祭りのことである。後の句はていが生んだ長女竹の夭死を悼(いた)んだものである。両句とも情をおさえて情をよく出している。
 俳人としての風乎は凡手ではなかったと思う。俗俳臭が少なくたしかなものをもっていた。多忙な生活の余事だったろうが、もう少し長生きさせ、大成させたかった。
 風乎は辞世の句をのこしている
 
     辞世
   死ぬるまで光もて飛ぶ蛍かな
 
 彼の理想家らしさがよく出ている。死ぬまで夢を捨てなかった人といいたい。彼の戒名は得々院風乎日憲居士とつけられた。
 なお、風乎の盟友だった柳塘は、風乎の死後一五年目の明治二四年(一八九一)一一月二一日、六〇歳で没した。彼も俳句に精進し、なかなか上手な句を作っているが、月並臭から脱け出せないところがあった。「鐘遠く小雨もかすむ夕べかな」「香の残る河原蓬(かわらよもぎ)や夕時雨」「松風も春のひかりや池の面」「音立てて日暮るる雪の水田かな」というたぐいの句であった。句のほかに、「八鶴亭の雪」という俳文を書き残している。
 
  参考資料
   (一) 大野伝兵衛(八世秀頴)墓碑銘(原漢文)
             (本漸寺大野家墓地)
 君、諱(いみな)ハ秀頴、字ハ子徳、大野氏、通称ハ伝兵衛、号ハ風乎(ふうこ)、故循理ノ男ナリ。天保元年(一八三〇)庚寅(かのえとら)三月十五日生ル。植松氏ヲ娶(めと)リ、早世ス。後、田丸氏ヲ娶リ、女有リ、千可(ちか)ト曰(い)フ。佐藤尚中翁ノ次男哲次郎ヲ養ヒ嗣ト為シ、之レニ妻(めあわ)スニ女ヲ以テス。
 君、資性英邁(えいまい)、明察ヲ求メテ以テ能ク任ジ、慈愛ニ篤クシテ以テ人ニ接ス。蘇根雲泉ニ従ヒテ経学詩文ヲ修メ、中島渓斎ニ就イテ俳諧ヲ学ビ、草書ヲ能クシ、射御ニ長ズ。領主板倉侯下士ニ命ジ、佩刀ヲ許ス。君弱冠ノトキ安政五年(一八五八)戊午(つちのえうま)ノ夏、悪疫流行ス。君之レヲ憂ヘ、都下ノ支店ニ於テ折衝飲(せっしょういん)数万錠ヲ施シ、患者幾千人ヲ救フ。官其ノ仁慈ヲ美(ほ)メ、白金十一枚ヲ賜フ。
 文久元年(一八六一)山林八万余歩ヲ開拓シ、茶園ヲ為(つく)リ、又、水田六千歩ヲ埋メ、製茶場ヲ建設シ、良手ヲ宇治ヨリ招キ、里人六百余人ニ伝習シテ共ニ競技セシム。其ノ人ヲ用フルヤ、丁寧ニシテ、告戒以テ之レヲ奨励ス。故ニ、数年ヲ出デズシテ、茶質精純ニシテ、声価諸州ニ冠タリ。宜(むべ)ナルカナ、関左ノ産茶ハ君ヲ以テ嚆矢(こうし)ト為セリ。慶応三年(一八六七)山林六千歩ヲ開墾シテ、窮乏者ヲシテ之レヲ佃(こさく)セシメ、而カモ租有ラシメズ。明治二年(一八六九)宮谷県ノ義倉米百苞ヲ出サシメ、細民貸与ノ法ニ賛ス。又、能ク蚕業ヲ勧ム。蓋(けだ)シ、其ノ期スル所遠クシテ、務メテ事ヲ践(ふ)ミ、其ノ造(いた)ル所深クシテ、其ノ心〓(むな)シク、未ダ得ルコト有ラザル如シト為ス。而シテ、同九年(一八七六)春病有リ、秋七月二十九日、年四十有七ニシテ没ス。本漸寺先塋(けい)ノ次ニ葬ル。
 嗚呼(ああ)、君ヲシテ以テ寿年ナラシメバ、其ノ志ス所何事カ成ラザラン。其ノ生クルヤ人之レニ服シ、其ノ没スルヤ莫大ニ悼惜ス。同十六年(一八八三)十月、農商務卿追賞二十金ヲ賜ヒ、同十七年(一八八四)三月、賞勲局追賞五十金ヲ暘フ。実ニ閭里(りょり)ノ栄ニシテ、人民ノ重ンズル所ナリ。
   明治三十三年(一九〇〇)十一月
                   九世大野伝兵衛 建之
   (二) 東嘉園画巻
 
    (1) 序
                     大村蕉雨(邦英)※
 春山の木(こ)の芽をつみとりて、月の夕べ雪の朝(あした)にめづるは、ことさへく①人の国に、早くよりももてはやし来つるとなむ。かけまくもかしこき皇大御国(すめらおおみくに)には、あをによし②奈良の都のころになむ、唐国(からくに)に大御使(おおみつかひ)の行きかひするに、法(のり)の師らのその道のもとをたづぬとて、かの国にいゆきて③かへさに、そが種(たね)をものして、不知火(しらぬい)の④筑紫(つくし)に植ゑそめけらし。
 かくてより、歳月(としつき)をわたりて、都(みやこ)近き栂(とが)の尾山に移し植ゑぬるものから、ややにそのこと去(い)にて、やむごとなきあたり⑤にも、をりをりにすさむる⑥ことにはなりぬる。しかありてのち、栂の尾より都の巽(たつみ)⑦なる宇治の里に移し植ゑつれば、この里やこの木にかなひたりけむ、異郷(ことさと)に似るべくもあらずまさりにけり。かくて、百度八十(ももたびやそ)の国べに植ゑもてゆくものから、今は白波へだつる外国(とつくに)にも立ちまさりぬ。
 こまつるぎ⑧我が上総(かみつふさ)東金の里なる大野ぬしは、家富み栄え、いと若きころより、月花(つきはな)のみやびをもはら⑨となし、ひたぶるに⑩世のすね人(びと)⑪なりけり。ある時おもへらく、おのれ国の大宝(おほたから)と生れて、田畑ここだく⑫に持てるとて、みやびにのみ歳月(としつき)をすごしてむは、かしこくも大君につかへまつる道にあらずとて、その持てる山畑(やまはた)を幾町か打ち開きて、種もまぐはしき⑬宇治の里よりはこびて、播(ま)き植ゑつるものから、また、たぐふべくもあらぬ園をつくり出せりける。その木(こ)の芽つめるも、むしよれる⑭わざも、宇治人(うぢびと)の勝(まさ)りに勝(まさ)れるを呼びつどへてなしぬるからに、今はその宇治にも劣らざりけり。
 ほととぎすの初音(はつね)なく青山の木の芽(このめ)時は、千五百(ちいほ)にあまる乙女(おとめ)らが、かたき⑮につめる新葉(にいは)の山として、五百八百(いほやほ)の男(を)の子らが、はより唄⑯のにぎはしき、たぐふるにものなし。その園のさま、むしよれるさまを、つばらに⑰正隆ぬし⑱の写(うつし)を見れば、鳥が鳴く⑲吾妻(あづま)にとつ大宮⑳をさだめ給ひて、万代(よろづよ)もかはることなく住み給はむ都の巽(たつみ)に、かかる新(にい)宇治の里の開けいづるも、大御代(おほみよ)の栄ゆるさ21がならし22と、かしこくもよろこびて、絵巻(えまき)のはしに書きつけぬるは、明治三(一八七〇)といへる年の春如月(きさらぎ)はじめつかた上総(かみつふさ)の邦英。
 
 注 ①「百済(くだら)」「韓(から)」にかかる枕詞。ここでは「人の国」すなわち外国への枕詞として使っている。②「奈良」の枕詞。③「い」は接頭語。④「筑紫」の枕詞。⑤朝廷のこと ⑥愛しめでる ⑦南東 ③「わ」にかかる枕詞 ⑨もっぱら ⑩非常に ⑪変わりもの ⑫たくさん ⑬うるわしい ⑭ふかしてもむ ⑮目のこまかい竹籠 ⑯茶の葉をよりながら歌う唄 ⑰くわしく ⑱画家飯田林斎の名、「ぬし」は尊称 ⑲「東(あずま)(吾妻)」の枕詞 ⑳東京の宮城、「とつ(外の)」といったのは京都に対してである 21しるし、きざし 22であろう
 ※大村蕉雨
  山武郡九十九里町片貝の人。天保元年(一八三〇)七月生まれた。家は呉服屋で富んでいた。彼は学問好きで地方学者として名を知られ、特に書家としてすぐれていた。九十九里の小関に大村屋という旅館を営んでいたが、文久四年(一八六四)真忠組騒動にまきこまれ苦労した。明治になってから大網の米津侯に仕えたが、その後東京の青山に居を移し、風雅な生活をつづけ、明治三四年(一九〇一)七月、七二歳で没した。
 
   (2)跋
                       安川柳渓
 大野風乎(ふうこ)生ハ、一種宏量ノ人ナリ。其ノ家曽ツテ祖先ノ方製セル奇薬二品ヲ伝ヘ、広ク之ヲ海内ニ鬻(ひさ)ギ、洽(あまね)ク病患ノ急ヲ救ヒ、頻リニ回生ノ功ヲ奏ス。故ニ、鎮西奥東数千里ノ間、啻(ただ)ニ城邑府会①ノ地ノミナラズ、僻郷孤駅ト雖(いえど)モ、往々ニシテ、牌(はい)②ヲ挂(か)ケ名ヲ知ルニ至ル。何ゾ其レ盛ナルカナ。
 嚢年(のうねん)③、夙(つと)ニ時勢ノ機ヲ察シ、林〓(りんえつ)④ヲ斧(き)リ、草莽(そうもう)⑤ヲ鋤(のぞ)キ、広ク其ノ田ヲ墾(ひら)キ、大イニ茶種ヲ下(おろ)シテ、力ヲ培養ニ究ム。果セルカナ、未ダ数年ヲ出デズシテ、枝葉密茂シ、茶區⑥方(まさ)ニ成ル。其ノ春山花落チ、杜鵑(ほととぎす)雲ニ叫ブニ及ンデヤ、新緑〓々(さつさつ)⑦トシテ芽ヲ露(あら)ハシ、当(まさ)ニ摘マントス。此ノ時、女児筐(かご)ヲ提(ひっさ)ゲテ之レヲ採ラントシテ踵(つ)イデ至リ、陸続(りくぞく)⑧トシテ茶區ノ際ニ排列シ、歌ヲ謳(うた)ヒテ悠揚(ゆうよう)タル中ニ、或ヒハ喃々トシテ痴(ち)ヲ話(かた)リ、喋々(ちょうちょう)⑨トシテ情ヲ説キ、笑語シテ喧〓(けんそう)⑩タリ。雑踏(ざっとう)⑪想フベシ。
 其ノ製造ノ場ニ於ケルヤ、預(あらかじめ)一廓ノ地ヲ卜シ、塹(ほり)ヲ深クシ屋ヲ陳(つら)ネ、焙炉(ばいろ)⑫数百、之レヲ屋内ニ置キ、一人一炉ニ当リ、且ツ揉ミ且ツ撒(ま)ク。其ノ手裏ノ工拙火気ノ緩急(かんきゅう)⑬、視テ識ルベカラズト雖(いえど)モ、亦、大イニ製品ノ差等ニ係ルト云フ。其ノ煙気濛々(もうもう)タル中、剥々(はくはく)⑭トシテ声有ルハ、茶芽ヲ蒸(む)シ度ヲ計リテ、甑(こしき)⑮ノ蓋(ふた)ヲ拍(う)ツナリ。且ツ蒸シ且ツ扇(あお)ギ、竹籃モテ冷ヲ取リ、而(しか)ル後、之ヲ炉夫ニ授ク。此ノ時ニ於テカ、遠近ヨリ来リ観ル者、魚貫(ぎょかん)⑯シテ議集スルコト、日、一日ヨリ甚ダシ。凡ソ卯(う)ノ時⑰事ヲ挙ゲ、申(さる)ノ時⑱事ヲ歛(おさ)ム。男女数百、孜々役々(ししえきえき)⑲トシテ、更ニ一人モ食頃(しょくけい)⑳ノ間(いとま)ナシ。吁嗟乎(ああ)、主人厳トシテ之ヲ指揮セシメ、労モ亦至レルカナ。
 余、風乎生ト風月ノ友タリ。故ニ、累年(るいねん)21製茶ノ際屢々(しばしば)其ノ園ニ遊ビ、其ノ室ニ入リ、熟視スルコト己(すで)ニ久シ。偶(たまたま)感ズル所有リ、其ノ光景ヲ数帖ニ絵(えが)キ、以テ主人ニ贈ル。蓋(けだ)シ、其ノ人、決然トシテ機ヲ察スルノ敏アリ、果シテ此ノ大業ノ挙アリ。故ニ、之ヲ一種宏量ノ人ト謂ヒテ可(か)ナランカ。
 
  吾ガ友柳渓、嘗ツテ風乎生(ふうこせい)ノ為メニ、茶製真景図并ニ跋ヲ作リ、之ヲ贈ル。吾モ亦、其ノ親シク覧(み)ル所ニ就イテ、漫(みだ)リニ此ノ図ヲ製シ、且ツ、其ノ跋ヲ録シテ、以テ風乎生ニ寄ス。時ニ、明治二年(一八六九)己巳(つちのとみ)孟冬。
                      三笠小農22
                        (飯田林斎)
 
 注 ①城下町や政府のある都市。②かんばん ③むかし ④林や街路樹 ⑤くさむら ⑥茶園 ⑦草木の芽が勢いよくのび出るさま ⑧あとからあとからつづくこと ⑨しゃべりまくること ⑩さわがしいこと ⑪こみあうこと ⑫茶の葉をほうじるためのかまど ⑬強くしたり弱くしたりすること ⑭コソコソと ⑮せいろう ⑯魚をクシにさしたようにつらなること ⑰午前六時ごろ ⑱午後四時ごろ ⑲一生けんめいよく働くこと ⑳食事をするほどの短い時間 21毎年 22画家飯田林斎の戯号であろう。
 柳渓・林斎の二子、この一巻をものせり。その画は実景に近しといへども、文は過讃に絶えたり。友なる邦秀これに序すれば、予もまた、つたなき五七五をもて、その償(つぐない)をそふるにこそ。
 
   桂林(けいりん)の一枝(いっし)をしたふたつきかな
                      天随舎風乎
                        (大野伝兵衛)
    東嘉園を賀して
  年々につめど尽きせず
    その名さへ園は
      ひろくも世に
        かをりけり
                       千浪※
 ※加藤千浪(ちなみ)
  国学者歌人。文化七年(一八一〇)奥州白河に生まれ、江戸に上り、岸本由豆流(ゆづる)について国学と和歌を学び、後、歌塾を開いて多くの門人を養った。明治一〇年(一八七七)六八歳をもって没した。