能勢土岐太郎(豪商)○能勢鉄三郎(豪商・県会議員・東金町長)(能勢家の人びと)

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 能勢家の人物を知るためには、能勢家そのものの歴史と家風とを見きわめておく必要がある。人は生まれた家の色に染まることはまぬかれないが、それがその人を幸福にすることもあれば、不幸にすることもあり得る。人間と家との関係は深いものである。
 能勢家の歴史はかなり古い。「能勢家系譜稿本」によれば、遠祖は清和源氏の源満仲で、鎮守府将軍となった彼は摂津国多田の庄(兵庫県)に住み、多田満仲と称していた。現在、その地に彼を祀る多田神社がある。能勢家の商号たる多田屋はこれにもとづき、多田神社は同家の守護神ともなっている。満仲の孫頼国は摂津守と称して多田にいたが、その曽孫が有名な源三位頼政である。頼政の孫にあたる高頼は野瀬蔵人と称していたが、その子資国は能勢蔵人と称し、豊後守となっていた。その孫兼国は能勢姓を名のり、その弟外記(げき)は野瀬姓を名のるようになった。こうして、姓の表記を「能勢」としたり「野瀬」としたりするのは、いかなる事情によるかわかりかねるが、この野瀬外記が東金能勢家の祖(第一代)となるのである。
 能勢外記は名を兼尚といい、永享年間(一四二九-一四四〇)に東国へ下り、上総の地に土着したといわれる。何故に東国へ下向したか、また、上総のどこに住みついたかは不明であるが、外記は酒井氏に仕えたとされている。酒井氏の初代定隆が上総土気城に本拠を据えたのは長享二年(一四八八)、上総田間城を築いたのが永正六年(一五〇九)、東金城に入ったのが大永元年(一五二一)である。ところで、「東金史話」(清水浦次郎著)所載の東金酒井家の家臣名簿を見ると、「高二百石、岩崎、野瀬外記」と出ている。(三八頁)したがって、外記が酒井氏に臣従して二百石の知行を得、東金岩崎に住んで岩崎衆に属していたことは確かだと見られる。そして、仕えた時期はおそらく大永元年以後と判断される。すると、彼が上総へ来たといわれる永享年間から六〇年以上もたってからである。これはおかしい。「能勢家系譜稿本」(以下咯して「系譜」ということにする)によると、外記は慶長年間(月日未詳)に没したとある。とすれば、彼が上総へ来たのは永享年間よりかなり後のこととなるであろう。酒井氏は天正一八年(一五九〇)に滅亡した。それによって、外記は浪人して慶長年間に死んだものであろう。
 外記の後をついだのは二代兼頼である。彼は通称を六兵衛と称したが、「系譜」によると、「酒井氏ニ仕ヘ後民間ニ入リ、寛永十四年(一六三七)十二月十七日卒」したとある。すると、外記・兼頼の二人は親子で酒井氏に仕え(外記が隠居してその後を兼頼がついだか)、酒井氏の滅亡とともに、武士の身分を捨て、そのまま岩崎に住みつづけ民間人となったものと考えられる。
 野瀬家は二代兼頼のあとは、三代道意、四代頼広とつづいたが、それまでどういう職業に従っていたかは分からない。土地は持っていたであろうから、農業をやっていたのではないかと考えられる。四代頼広には男の子がなかった。そこで、娘(名は不明)に婿養子を迎えることになった。迎えられたのは大多和理兵衛の子儀喬(のりたか)である。これが五代当主である。彼は通称を利左衛門といったが、「系譜」には「医師トナル為メニ橘家門人ト為リ、隆昌ト改名ス。医師開業ハ此ノ代ニ始マリ、四代継続ス。」とある。すなわち、野瀬家はここで医家に転回するわけである。そのため、儀喬を江戸の橘家に送って医業修行をさせるのである。それには相当の経費を必要としたであろう。それを賄うだけの家財の蓄積ができていたものと思われる。医家のほうが社会的地位も高くなるので、あえて儀喬を江戸に遊学させたのであろう。医者は当時の知識階級である。だから、医学のみならず、儒学等の学問につながりを持つことになる。野瀬家に学問が入ったことになり、これは重要な意味を持つにいたるのである。
 六代隆甫は儀喬の三男であったが、兄二人が夭折したため、六代当主となり、父と同じく橘家の門人となって医業をついだ。隆甫の子之禎(ゆきさだ)が七代をついだが、彼は中村松敬という人に医学を学んでいる。この中村松敬はどこの人か不明である。之禎は後に養三と改名し、五二歳で没している。(「系譜」に死亡年齢が示されるのはこの人がはじめてである)之禎の子雄が八代当主となるが、この人は傑物であった。
 
    

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 八代雄は後に父の名養三を襲名するが、この人の本漸寺内の墓碑には墓誌が刻まれている。墓誌の撰文は有名な儒者篠崎司直の手に成るものである。雄の生涯はこの墓誌によってかなりくわしく判明する。雄は安永六年(一七七七)九月六日に生まれ、医術を前出の中村松敬に学んだが、さらに被褐(ひかつ)道人(伝不明)という学者について漢籍を学び、孔孟の学から老荘の学まで広く研鑚した上に、軍書にも通じ、また、書家としても相当の域に達し、重厚な書風で知られたという。号を東園と称した。
 雄は東金新宿の杉谷久太郎の二女以志(いし)を妻に迎え一女暦(れき)をもうけたが、以志はその後で、わずか一九歳の若さで没したので、後妻として香取郡松崎村の医家吉田昌翁の二女(名不明)を入れたが、この人には子どもが出来なかったのではないかと思う。雄の人となりは謹直にして寡黙、己れの長を誇らず人の短を言わずという、君子の典型のごとき性格であったらしい。だから、世の信望もあつく、人に慕われていたようである。雄は天保六年(一八三五)一一月一九日、五九歳で長逝した。この人は能勢家の中興の人として尊ばれている。
 雄には男の子がなかったので、娘の暦(れき)に養子を迎えることになった。選ばれたのは、山辺郡大沼田村の吉原太左衛門(詮弥)の四男(これは「系譜」の説だが、墓誌には「吉原弥一右衛門ノ三男ナリ」とある)尚貞であった。彼は幼名を哲造といい、通称は嘉左衛門、天明四年(一七八四)の出生である。この人も相当の人物だったらしく、本漸寺の墓碑には、彼の子一〇代賢貞の書いた墓誌が刻まれている。それによると、尚貞は若い頃、江戸に遊学し、「武術・経学・書法・算数ヲ修ム」とあり、そのため、人に過ぎるほどの刻苦精励をしたともある。しかし、医学を学んだとはない。つまり、彼は医者にはならなかったのである。彼が野瀬家へ入婿したのは、おそらく江戸修業を終えてからであろう。入婿したのは文化一一年(一八一四)三一歳の時であったという。入婿の年齢としては、遅きに失した観がある。
 そこで、想像を働かせてみると、雄は医家を嗣がすべく、適当な若者をさがしていたのであるが、ついに見出せず、結局、尚貞の人物を見込んで婿とすることにしたのではなかろうか。ともかく、尚貞は医者はやらなかったように考えられる。「系譜」にも医業をやったとは記されていない。ところが、能勢家の直系たる能勢潔氏が書いた「田舎店主折ふしの記」(昭和五五年刊)によると、「文化元年頃、能勢家九代目能(ママ)勢尚貞が、医業を廃して書道塾を開き」(四六頁)とあり、また別のところでは「文化二年それまで東金の地にて医業を営んでいた能(ママ)勢尚貞(医者としては五代目)は塾を開き」(四四二頁)とある。以上の記述は尚貞自身が医業をやっていたのを廃業したという意味に解せられるだろう。しかし、なお考えると、八代雄は天保六年(五九歳)まで生きていたのであり、老衰しないうちは医業をつづけていたと思われる。文化一一年に婿入りした尚貞は養父の助手を勤め、おのずから医術をある程度身につけたろうことは想像できる。だから、彼を五代目医者とすることは根拠がないわけではないが、やはり医業は八代雄までで打ち切られたと考えたほうが穏当のような気がする。
 なお、尚貞が医業をやめたのが文化二年(一八〇四)だとされているが、これは変である。というのは、尚貞の入婿が文化一一年なのだから、それ以前のことだとは考えられない。当然、文化一一年以後のこととすべきであろう。尚貞は塾を開くとともに書店開業へと新しい道を切りひらいていった。この変移について、前掲書のつづきは「塾を開き、近隣青少年の教育に努めていた。この頃、古い医書類を譲り受けたいとの各方面からの要望もあり、塾教育に必要な四書五経、筆墨の取り扱いや販売も開始。次第に商人の態を成す。」(四四二頁)となっている。また、前掲書に田中治男氏の寄せた序文(「能勢社長の書に寄せて」)には、
 
 「九代尚貞は医者にならなかったが、書道塾を開き、子弟に学問を教え、版をおこして出版を行ない、併せて書店を開いた。四代にわたる医業を続けた結果、医家垂涎(すいぜん)の医書が山ほど書庫に積まれており、これらの専門書を希望する人たちに割愛することが、自然書店業への開眼につながったと思われる。」
 
と説かれている。医業をやめたので、沢山ある医書を希望する者が多かったので、それを人に譲ることから書店を開くことを考えたという。また、塾(書道塾といっても、漢籍などを教えるようにもなったのであろう)を開いているので、子弟に必要な書籍を売ることを考えた。さらに出版(もちろん木板であろう)までやり、文房具の販売をも兼ね、医業から商業へと転換していったという次第である。こうして多田屋書肆の誕生となったのである。これは、能勢家の歴史の上では、ずいぶん大きな転機となったことであろう。東金のような小さな地方都市で、書店業が成り立つものかどうか。かなり疑念もあったろうし、一つの冒険でもあったにちがいない。
 
    

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 しかし、医業は仁術であり、塾は教育である。いずれも世道人心を利する仕事である。書店業といえども文化にかかわる商売であるからには、単なる金儲けではなく、道徳性を重視する線上の企業となるべきものである。そこに、多田屋の独特の進路があるべきはずであった。尚貞はそういう理想を保持していたと考えられる。
 尚貞と暦(れき)夫婦の間には一男五女が生まれた。四番目の娘久米(くめ)は画家飯田林斎(別項参照)の妻となっている。一男は一〇代をついだ賢貞である。尚貞は長寿の人で、明治二年(一八六九)一二月二〇日八六歳で永眠している。彼は入婿以来五〇年あまり、ひたすら家を守り通すことに努めたようだ。墓誌の最後に、次のような言葉が記されている。
 
 「語ニ曰ク、積善ノ家ニ余慶有リト。良キカナ、此ノ言ヤ。厳父(尚貞のこと)、資性廉直、修身ヲ己ガ計ト為シ、寡ニシテ多ヲ積ム。是レ、天稟ニ出ヅト雖(いえど)モ、豈(あ)ニ復(また)遠ク子孫ノ繁栄ヲ慮ルノ慈ニ非ザルナカランヤ。」(原漢文)
 
これによって、彼の人物と生きかたがどのようなものであったかは、明白であろう。なお、彼は華林とか桃園とかいう号を用いていたというが、おそらく死ぬまで学問には親しんでいたことと考えられる。
 一〇代賢貞は天保六年(一八三五)七月一二日に生まれている。同年一一月に祖父雄が死去しているが、彼はこの孫の顔を見ることが出来たわけである。賢貞は幼名を雄助といい、通称を父と同じく嘉左衛門と称した。彼は温厚な人柄だったといわれる。妻に迎えたのは、正気村幸田の鈴木巳之助の長女やすであった。やすは非常にしっかり者で、経済的才覚にすぐれ山林の経営などに腕をふるい、家産の増殖につとめたという。
 賢貞の代の特記すべきこととしては、それまで用いてきた野瀬の姓を、本来の能勢のそれに戻したことである。それは、ただ戻しただけでなく、野瀬の姓を分家にゆずった上で本家の姓として能勢を用いるようにしたのである。本・分の関係をはっきりさせたとも考えられる。
 ところで、賢貞夫妻は子福者であった。七人の子持ちである。男が六人、女が一人である。上から、土岐(とき)太郎・けん・甲子次郎・鉄三郎・政四郎・鼎三(ていぞう)・欽之助の順である。この七人の子どもたちは、みなすぐれた素質をもっていたが、父賢貞の教育もまた立派なものであった。彼は二宮尊徳の報徳教に深く帰依し、その精神を取り入れて家訓とし、子どもたちを社会有用の材とすべく、懸命の指導を加えたのである。躾(しつけ)などに特にきびしかったといわれている。一人ひとりがそれぞれ存分に力量を伸ばしただけでなく、兄弟が協調してたがいに助け合うという世間にも稀な美風を養うことができたのである。世間ではこの七人兄弟を「七福神」と呼んでほめたたえたということである。この中で長男の土岐太郎は特に優秀で、彼は「東金長者」の名で呼ばれていたそうである。彼はいつも率先して身を挺して事にあたり、自分を犠牲にしても人を助けようとするところがあった。だから、他の兄弟たちもよく助けたのである。そこには、世にも美しい兄弟愛が実存したのである。その兄弟愛は作りあげられたものではなく、自然に生まれたものという感じだった。それだけにまことに力強いものであった。世間がうらやんだのも当然だった。
 兄弟の核は惣領の土岐太郎であった。核を強大なものにするために、兄弟は全力を結集した。しかし、そういう場合、とかく封建的に長男に臣従し奉仕するばかりで、古いものを後生大事に守り通すことに腐心し、かえって屋台骨を朽ちさせダメにしてしまい勝ちなものだが、能勢家にはそんなことはなかった。商業に必要なものは発展性である。多田屋は守旧的にはならなかった。前向きの明るい展開があったのである。
 
 「江戸時代、医業から出発して、関係図書・筆墨類の販売へとだんだんに商売の体をなし、商家として力を蓄え、『東金商人』の中心勢力=多田屋が形成されたものであろう。多田屋は、その形成過程から見て、教育・文化的色彩が濃厚である。同時にまた開明的であることにおいて一頭地を抜いている。」(千葉地域科学研究所編「大道無門-両総用水に生涯を捧げた能勢剛翁とその時代-」四四八-四四九頁)
 
まことにこのとおりであった。今、七人兄弟の団結ということをいったが、団結したのは兄弟ばかりではなかった。一族がすべて一つにまとまっていたのである。七人兄弟は土岐太郎中心にまとまり、多田屋一族は本家を中心に結束したのである。それは親族ばかりでなく、従業員の末端にいたるまで強固なまとまりを持っていたのである。
 多田屋の関係者は、一代目尚貞、二代目賢貞、三代目土岐太郎という言いかたをする。事実は尚貞が九代、賢貞が一〇代、土岐太郎が一一代である。だのに、別に一代目、二代目、三代目などというのは、尚貞時代から能勢家が新しい時代に入ったという意味なのである。新しい時代とは、過去の医業時代を清算して、商業の時代に入ったということである。その商業時代の創始者すなわち一代目が尚貞であるとしたのである。その尚貞は明治二年(一八六九)まで存命したが、江戸期の人である。二代目の賢貞は明治二九年(一八九六)まで生きていたから、幕末から明治新時代に足をかけて激動期を生き抜いた。三代目土岐太郎は安政三年(一八五六)四月二〇日に生まれているが、彼が満二〇歳に達したのは明治九年(一八七六)である。そして、この土岐太郎の時代に多田屋は一大発展を遂げたという。それは、明治新時代を乗り越えることが出来たこと、つまり、新しい潮流を巧みに泳ぎ抜くことが出来たからである。その基点は新しい時代を見る眼、あるいは頭脳があり、また、勇気があったことであろう。能勢家が医家であったことは、学問の家であったということだが、医学という合理的な学問をつづけたということは、おのかずら近代的な眼と頭脳を養うことになったのだ。このことを見逃がしてはいけない。その上に、勇気と実行力があったからこそ、見事に激動期を乗り越えて、めざましい進展が可能となったのである。
 能勢家の合理性には視野の広さというものがあった。商売を広域的に考えるということだ。医業から書店業に切りかえたのであるが、書店くらい経営のむずかしいものはない。もし多田屋が東金町とその周辺だけを相手にしていたならば、その発展はあまり望まれなかったであろう。
 
 「明治以前、江戸期において多田屋の屋号を称する前の時代、盛松館書肆の名で四書五経など古典の流派版元として名をなしており、関東における書籍版元、つまり権威ある書籍の発行所として名がとおっていたことは注目に値する。八日市場活版所(印刷所)の事業活動もこうした歴史の延長線上にあるものといえる。」(前掲「大道無門」四五〇頁)
 
このように、多田屋は江戸期においてすでに広域的な活動をするとともに、出版業にも手を出して多角的な経営をやっているのである。この行き方を明治以降はさらに拡充して、千葉市に拠点をのばし、千葉県全域に教科書その他書籍の一手販売権を得、さらに東北三県の供給権までも手中にするほどになっている。それに応じて、支店を各地にたくさん設けて、がっちりと体制を固めているなど、いわゆる多田屋的商法は、全国的な注目を浴びているのである。
 書籍・出版ばかりではない。洋品・煙草等まで幅をひろげて、それぞれ立派な成果をあげていることは世間周知のとおりである。以上のごとき多田屋の大発展を推進したのが能勢家一一代の土岐太郎であったのだ。もちろん、それは彼一人の力ではなく、六人の兄弟たちの助力に依ったものである。
 その兄弟たちのことを簡単に記すと、土岐太郎の妹でただ一人の女兄弟の憲(けん)(生没年不明)は東金谷の大多和武太郎に嫁ぎ、二男甲子次郎(元治元年生まれ、没年不明)は長生郡北高根村(白子町)の酒井一郎左衛門の養嗣子となった。三男の鉄三郎は分家した。四男政四郎(生没年不明)は片貝村(九十九里町)の小高弥平の養子分となった。五男鼎三は分家した。そして、六男鉄之助(明治一二年生まれ、没年不明)もまた分家した。
 多田屋が千葉へ進出して出店を設けたことについては、鉄三郎・鼎三・鉄之助の三人の協力によるところが多かった。彼らは書籍だけでなく洋品の分野にまで手を拡げた。また、八日市場へ進出するについては、甲子次郎が大いに骨を折り、書籍のほか、印刷・洋品にまで分野をひろげたのであった。
 右の進展状況を年代順に整理すると、次のようになる。
 
 ①明治二〇年(一八八七)鉄三郎が千葉に支店をつくる。
 ②同二四年(一八九一)鉄三郎が東金店の隣に洋品店をつくる。
 ③同三〇年(一八九七)甲子次郎が八日市場に支店をつくる。
 ④同三八年(一九〇五)鉄之助が千葉に第二支店をつくる。同年店員服部貞一が木更津に支店をつくる。
 
 能勢七人兄弟のうち、人物や仕事の上から見て、特に優秀だったのは土岐太郎を筆頭に鉄三郎・鼎三の三人が挙げられるであろう。土岐太郎・鉄三郎の二人についてはさらに後述するが、鼎三は明治一〇年(一八七七)の生まれで、土岐太郎より二一歳、鉄三郎より一〇歳若かったが、兄弟のうちでも、いわゆるアイディアマンとしてもっともすぐれた才能を持ち、企画面において常に他をリードし、しかも活動力きわめて旺盛であった。彼の力は東京にまでも伸び、有名な書肆三省堂の第三代社長になったことはよく知られている。彼はまた、千葉の多田屋書店主として大いに活躍し、今日の発展の基礎をすえた人でもある。さらに、彼は昭和四年(一九二九)株式会社多田屋設立の計画を立て、将来は百貨店に発展さすべく、大きな理想に燃え、その実現に歩みを進めていたが、同一四年(一九三九)九月六日、志半ばにして惜しくも他界した。六三歳であった。
 
    

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 土岐太郎は東金長者と称されたということだが、長者とは普通富豪という意味に使われるが、土岐太郎の場合は、大きな人物という要素を多分に含む意味に解すべきであろうと思う。彼に仕えた店員の一人今関善謙が、土岐太郎について「寛厚の長者として、多田屋家御同族間中に於ける、第一人者ではなからうかと存じます」(「御肖像贈呈式祝詞」)といっているが、寛厚の長者という評はよく当たっているように考えられる。
 次に彼はすぐれた商才の持主であった。商人には才覚と算用に強いことが要求されるが、創意工夫と勤倹力行の精神も大切である。さらに進取の勇気も不可欠のものである。しかし、それを綜合し推進するものは仁愛の心であろう。土岐太郎はそのような才質をそなえていたようである。彼は特に人づかいが上手であったらしい。それは、技術的に上手だったということではなく、後々まで感謝されるような愛情深いつかい方であったのである。彼は七〇歳を迎えた大正一四年(一八五六)七月、従業員一同から立派な象牙の立像を贈られ感謝されているが、これも人徳の然らしめたところであろう。
 土岐太郎には進取性があった。そのもっとも早いあらわれは、明治五年(一八七二)学制が発布されると、直ちに当局へ働きかけて学校教科書を千葉県全域へ供給する権利を獲得したことであろう。これはただ商利を得たいという根性から出たのではなく、教育に貢献したいという熱意から発したものでもあった。それはまた、能勢家代々の教育熱の発現でもあったのである。土岐太郎の情熱はさらに燃えて、やがて東京への進出を具現することになった。すなわち、彼は日本橋に出店をつくり、書籍の販売と出版を行なったのである。今関善謙の語るところによると、左のごとき状況であった。
 「尚、百戦百勝の意気を以て、東京日本橋区通二丁目に出版部を設けまして、四書に五経に十八史略・史記と、当時の代表的蔵版ものもありましたが、特に、今井匡之先生の校訂十八史略の如きは、類書中傑出せるものでありまして、毎年数千部の販売を計上する盛況を呈して居りました。」(「御肖像贈呈式祝詞」)
主として漢籍の出版と販売をやって、売上げも相当であったらしいが、ほかに、辞書や掛図の類も扱ったということもいわれている。また、同じ日本橋の横山町に体操器具の製作所を設けて、製造と販売をやっていたとも伝えられている。このように東京へ進出したことから、いろいろな人の知遇も得たが、特に書籍出版で知られる三省堂の亀井初代社長と知りあいになり、三年間その経営に参画した。(この縁で後に弟の鼎三が三省堂の三代目社長に就任することになったのである。)
 しかし、土岐太郎は東京での仕事の将来が必ずしも有利でないことに気づき、いわゆる鶏口となるも牛後となる勿れということで、千葉県において強い基盤をきずくことこそ先決であるとさとり、東京の店と製作所を閉鎖して、千葉に支店を設けることを考え、直ちにその実現をはかったのである。その仕事には鉄三郎が主としてあたった。支店が出来たのは明治二二年(一八八九)であった。(明治二〇年という説もある。)
 ところが、それより六年前の明治一六年(一八八三)一二月、東金は大火に襲われた。そして、町の九割が焼け失せたのであるが、多田屋の店舗も類焼の厄にあってしまった。しかも、その店舗は土岐太郎の父賢貞(一〇代)が大変骨を折って新築したばかりで、土蔵づくりの立派なものであったのだ。賢貞の悲嘆は限りないものがあった。土岐太郎はその年二八歳になっていたが、父を慰めて、「私が必ず焼けた店より立派なものを建てますから」と誓い、いろいろ苦労し、たとえば、用材などは長南から立派な欅(けやき)の大木を取り寄せて、以前にまさる堂々たる建物を完成したのであった。それが明治一九年(一八八六)のことであったといわれる。新店舗が出来上がると、復興気分が湧いて、商売のほうもどんどん伸びていった。
 土岐太郎のごとき、気宇が大きく、人格的にもすぐれた人物が出たことは、能勢家にとってこの上ない幸福であった。彼の力によって、多田屋能勢家の基礎は磐石となったといえる。しかも彼はただ自家の発展をはかったばかりではない。東金町全体の開発のためにも、いろいろつくしているのである。東金商業組合の結成、東金銀行の設立等にも参画し、それぞれ役員として貢献するところがあった。
 次に、彼の家庭状況を見ると、必ずしも幸運であったとは言えない。というのは、妻を三度迎えたが、いずれも先立たれていることである。最初の妻は正気村幸田の鈴木家の生まれの徳(とく)であった。彼女は一男四女を生んだが、明治三四年(一九〇一)六月四四歳の若さで五人の子を残して逝去した。そこで、大多喜町から芳(よし)を後妻に迎えたが、子が出来ず、同四五年(一九一二)五月、四一歳で没した。三番目の妻となったのは、東京から嫁いだ泰(やす)であったが、一女を生んだあと、大正一一年(一九二二)五月、四八歳で死去してしまった。それ以後、土岐太郎は独身で過したが、六人の子があったとは言いながら、妻亡き晩年は寂しかったにちがいない。
 土岐太郎はこうして、昭和七年(一九三二)四月二〇日、七七歳の高齢をもって永眠した。
 土岐太郎の後は息子の鬼一(きいち)が嗣いで、能勢家一二代の当主となった。彼は明治一八年(一八八五)五月二〇日に生まれ、早稲田大学を卒業している。性格は自他にきびしいところがあったが、父の遺業をよく守り、町の行政にも携(たずさ)わり、戦時中は東金町長として、時局困難な時に、多大の功績を残した。また、戦後は東金信用組合の初代理事長として、同組合発展の基礎づくりをした。彼には男の子がなかったので(一女があったけれども夭折した)、叔父鉄三郎の三男潔を迎えて養嗣子とし、これに養女うた(鬼一の末の妹にあたる)をめあわせて、後を嗣がせた。潔氏は能勢家一三代(多田屋五代)の当主として、現在多田屋の経営にあたっている。
 
    

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 鉄三郎は慶応三年(一八六七)二月二日の生まれで 土岐太郎より一一歳も年下であった。しかし、彼の兄甲子次郎が他家の養子に出たので、長兄土岐太郎を助けなければならない立場となったが、実によく長兄につくしたのであった。この兄弟は特に仲がよく、鉄三郎は土岐太郎にとって、なくてはならぬ存在であった。鉄三郎は才気煥発で、活動力も旺盛であった。彼は後に政治家として活躍するようになったので、自然に名声を得て、兄弟中でいちばん世間に名が通っていた。
 ところで、大正七年(一九一八)六月、多田屋で発行(編纂は多田屋編纂部)した書に「房総町村と人物」というのがあるが、その中に鉄三郎の小伝があり、その終りに彼自身の書いた自叙伝風の簡単な文が載っている。参考のために、掲出してみよう。
 「生来平凡、何等記すべき経歴を有せず。若冠(ママ)の時聊(いささ)か時勢に感ずる所あり、将(まさ)に図南(となん)の鵬翼(ほうよく)を長風に打たん志ありしも、家風再興の必要に迫られ、翻然(ほんぜん)悟る所あり。十八歳より二十七歳まで書籍洋物の業に従事し、二十七、八年戦役に際し、満韓の野に飛躍を試みんとせしも、投機業に蹉跌(さてつ)して、所志を遂げず、退嬰(たいえい)自守、一太平民たるに甘んぜり。詩あり、いふ。
 
   人間万事塞翁馬(人間万事、塞翁ガ馬)
   幾度得意復失望(幾度カ得意、復(また)失望ス)
   五十年来過如夢(五十年来過ギテ夢ノ如シ)
   醒来尚未天命(醒メ来リテ尚ホ未ダ天命ヲ悟ラズ)」
 
  (七三八頁)
大正七年は彼の五二歳の時である。老齡にさしかかって、それまでのライフ・コースを回顧し、懴悔の感懐を披瀝している。若い頃は時勢に感じて青雲の志に燃えたが、「家道再興」に迫られて家業に従い、その後投機に失敗したりして所志を遂げ得ず、太平の逸民になり下がっているというのである。自嘲の口吻も感ぜられる。この文を見ても分かるとおり、彼は小心翼々たる普通の商人とは、かなり異なるタイプの人物だったようだ。
 彼は少年の頃、先祖のように医者になろうと考えていたらしい。しかし、前記のごとく明治一六年(一八八三)一二月東金に大火があり、能勢家も類焼し大打撃を受けた。時に彼は一七歳であったが、生家の惨状を見ては、とても医学修業など出来るはずがなかった。まず、親を助け兄に協力して、家の再興をはからなければならないと考えた。前述のごとく、土岐太郎は家の新築に取りかかり、出来上がった頃には東京へ店を出した。繁忙をきわめていた。兄思いの鉄三郎には到底傍観などしていられなかった。店の手伝いはもちろん、兄の不在の時など、代わって田畑・山林などの管理にも当たり、また、教科書その他の書籍を背負い、あるいは体操器具を車に積んで配達するような仕事もしなければならなかった。土岐太郎が千葉に支店を出そうとした時、もっとも働いたのは鉄三郎であった。次兄の甲子次郎は八日市場進出に骨を折ったが、これも鉄三郎が相当助けたが、甲子次郎は他家を嗣いだ身であるから、八日市場におさまるわけには行かず、結局、鉄三郎は後に八日市場多田屋の店主となることになったのである。
 鉄三郎は若い頃忙しい長兄土岐太郎を助けて東金本店の手伝いをいろいろやっていたが、田畑や山林の管理事業にたずさわったことから、自然に農業経営に興味を持つようになり、地域の発展には農業の振興をはかる必要があることを感じ取り、農地の開拓や植林事業に深い関心を持ち、その方面の仕事に力をつくすようになって行った。また、商人であるから当然町の商業組織やその運営に心を寄せ、江戸時代にあった店仲間(たななかま)を近代的な東金商業組合に改組するために兄土岐太郎とともに努力し、大正七年(一九一七)には副組合長、同一〇年(一九二〇)には組合長に選ばれている。それが東金商工会に発展的解消を遂げる際にも、その推進に尽力を惜しまなかった。右のような行動を進める以上は、当然、彼も政治に関わりをもつようになり、町会議員を三度、郡会議員を一度勤めた上、県会に乗り出すようになり、大正一三年(一九二四)一月の選挙に立候補し見事に当選した。ついで、昭和三年(一九二八)一月の選挙にも再選の栄冠を得た。こうして県会議員を二期つとめたのであるが、一期目の時に、彼は前述の東金商業組合の組合長をやっていたが、県会議員の地位を活用して、千葉県商工聯合会の結成を実現している。それについて、小川健堂(別項参照)の「おもかげ」という本に、次のように書いてある。
 
 「昭和三年九月一日、組合長能勢鉄三郎、副組合長小川荘三郎(健堂)の時代、檄(げき)を一市四十町に飛ばし、同月五日千葉県商工聯合会設立協議会を東金町八鶴館に開き、同月十三日を以て、千葉市牧野屋旅館に第一回総会を開き、茲(ここ)に千葉県商工聯合会を結成するに至った。」(八七-八八頁)
 
二期目の時には川口為之助議長の下で副議長をつとめて手腕をふるい、次期議長に擬せられていたが、考えるところがあって、選挙に出ることはやめてしまった。その代りというわけでもないが、昭和三年一二月二七日東金町長に推され、同五年(一九三〇)一月二二日まで二年余にわたり町政の改革に献身したのであった。
 以上が鉄三郎の公私にわたる人生コースの概略である。ここで、はじめに紹介した彼の自叙伝風の短文をもう一度吟味すると、彼の「図南の鵬翼(となんのほうよく)」うんぬんの志とは、医者になろうとしたことを含めて青雲の夢を持ったということであろうが、それを捨てて「書籍洋物の業」に従事したのが、十八歳(明治一七年)から二七歳(明治二六年)の約一〇年間であった。そして日清戦争の明治二七、八年の頃、すなわち二八、九歳の時分に、朝鮮満洲にわたって「飛躍」しようとして「投機業」をやったが失敗したという。この「投機業」が何であったか調べてみたが、今のところ分からない。が、ともかくそこまでが彼の前半生であり、彼自身は失敗の前半生だと見ていたのである。それ以後、つまり右の短文を書いた大正七年(一九一八)五二歳の時点まで約二〇年は「退嬰自守」の「一太平民」ですごしたというのである。とはいっても、彼が何もしないで怠惰に日を送ったというわけではないが、彼の心情としては憮(ぶ)然たるものがあったであろう。つまり、彼は相当の理想家であり、アンビシャスな男であったのだ。東金ないし八日市場の一商人として甘んじてはいられない人物であった。
 彼が県会議員になった大正一三年には五八歳であった。もう老齢であった。しかし、若き日の夢をいくぶんでも達成できた喜びはあったかもしれない。さらに町長ともなって郷土の発展に寄与し得たことに、多少の満足感を覚えたところもあったであろう。
 ところで、鉄三郎は「東金聖人」といわれ、「近江聖人」とも呼ばれていたということだ。近江聖人とはもちろん中江藤樹のことである。鉄三郎は学者ではなかったが、彼が土地の人たちから聖人と呼ばれたことは興味深い。それは、おそらく晩年の彼のことをいったものであろうが、あの野望家の彼が晩年は圓満具足の徳人になっていたことは、彼が内省的で克己心の強い人だったことを証明するものであろう。
 鉄三郎の家庭状況をのべると、彼は長生郡北高根(白子町)酒井家の女かつを妻として、一男三女をもうけたが、一男すなわち長男の剛が鉄三郎の後をついだ。剛氏は周知のごとく東金市長をつとめ、現在東金市名誉市民となっている。かつは不幸にして夫に先立って逝き、後妻として長生郡ネズ坂山崎家の女たるいわが迎えられた。いわは二男四女を生んだ。三男にあたる潔氏が本宗本家鬼一の養嗣子となり一三代を嗣いだことは、すでにのべておいた。
 鉄三郎は昭和一二年(一九三七)二月五日、世を去った。享年七一歳であった。

能勢土岐太郎


能勢鉄三郎

 
  参考資料
   多田屋家訓
一 節制
   余分に飲食すべからず。
二 沈黙
   自他の益にならざる事を弁ずる勿(なか)れ。無益の談話を避けよ。
三 整斉
   所有の物品は、各(おのおの)その置き場所を定め、予定の仕事は、悉く時間を設くべし。
四 決断
   己れの職業は、勉めてこれを為さんと決心せざるべからず。
   既(すで)に決心したる事は、遅滞(ちたい)なく之れを為さざるべからず。
五 倹約
   自他の利益とならざる事に金銭を費すべからず。一物たりとも、これを徒費すべからず。
六 勉強
   時間を空しく経過すべからず。常に有用の事にのみ使用すべし。無益なる動作は、すべてこれを禁ぜざるべからず。
七 真実
   詐欺(さぎ)を為すべからず。正直に考へ真実に話せ。
八 正直
   不正の所業を行ひ、或ひは自己の職分を怠りて、他人に損害を与ふべからず。
九 抑制
   すべて極端の事を為すべからず。不正の所業を増長せしむべからず。
十 清潔
   身体、衣服、又は居室を不潔ならしむべからず。
十一 静粛
   小事に驚くべからず。免るべからざる災難に出遇ひたるときは、虚心平気となりて、決してその志を乱すべからず。
十二 仁愛
   自身の平和を完うすべし。他人の名誉を毀損(きそん)すべからず。
  附記
 
  これは「謝恩記念御肖像贈呈式祝詞」(大正一四年八月刊)というパンフレットの巻末に「附録」として載せられたものである。何時誰れによって書かれたものか判明しないが、多田屋の指導精神をよく表現したものである。これには表題がついていないが、便宜上編者が「多田屋家訓」と題しておいた。