小川健堂(荘三郎)(豪商・随筆家)

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 健堂は東金市上宿の人で、石材業小川屋第三代の当主であった。名を荘三郎と言い、健堂はその号である。明治四年(一八七一)一一月三〇日をもって生まれ、昭和一八年(一九四三)一一月六日死去している。行年七三歳であった。
 健堂は商人にはめずらしく、文筆にすぐれ、「おもかげ」「うつせみ」という二冊の随筆集を残している。健堂の号は彼が青年の頃に愛読した「文章軌範」(宋の謝枋得編、名家の文をあつめた書)の注釈書の著者安原健堂(名は富次)の雅号が気に入って、黙って頂戴したものだと、自からいっている。(「うつせみ」一〇頁)
 小川家は健堂の祖父から始まったとされている。祖父は本姓は山田、名は種吉といって、千葉市内五田保の生まれであったが、彼は若い頃から商業に興味を持っていたのに、その土地は漁村であったため、よその町へ行きたいと考えていた。そして、天保の末頃、志を立てて、わが東金の地へやって来たというのである。
 ところで、種吉は明治二二年(一八八九)七五歳で亡くなっているので、生まれは文化一二年(一八一五)ということになるが、天保の末頃というと、その年齢はすでに四五歳ぐらいにはなっていたはずである。それまで彼がどんな経歴をもっていたかは全く分からない。東金へ来た彼は、小川吉兵衛という人の娘と結婚して一家を立て、妻の姓小川を名のるようにしたという。そして、弘化元年(一八四四)に商売をはじめたのである。小川家では今もこの年を創業の年として尊重している。
 はじめた商売は荒物乾物を主として、あらゆる雑貨をすべてそろえて、いわば何でも屋式のやりかたを取ったらしい。それがよかったのか、商売は繁昌して、金が出来ていったようである。健堂にいわせると、祖父の種吉は、商業の手腕は天才的であり、また、商売が飯(めし)よりも好きで、健実をモットーとしていたから、世間の信用が増し、だんだん町の顔役になって行ったということである。種吉は金持になっても、慈善心が厚かったらしく、健堂は左のようなエピソードを伝えている。
 
 「明治維新前後には、乞食非人が沢山あって、夜は神社の境内等に籠城(ろうじょう)し、昼は市中を貰って歩いた。或る年の暮、連日の大雪で貰ひに出られない数十人の乞食は、飢餓に迫った。此の時、祖父は大釜で粥(かゆ)を炊き、手樋で日吉神社境内へ運ばせて、窮乏を賑(にぎわ)した。雪は漸く歇(や)んで、明くれば正月元日、其の翌二日の早朝、乞食の一団が我が店前に御礼に来たといふ実話がある。」(「おもかげ」四四-四五頁)
 
種吉は教養のある人ではなかったが、物の考えかたはなかなかしっかりしていて、家庭の教育は相当きびしかったらしい。健堂は幼少時この祖父の訓化を深く受けたようである。小川家の根基はこの種吉によって強固に据えられたものの如くだ。
 種吉は晩年には常吉と改名し、種吉の名を長男にゆずり、静安な隠居生活をおくり、明治二二年二月一日、七五年の生涯を終わった。
 二代種吉、つまり健堂の父は、弘化三年(一八四六)一一月二八日に生まれ、初名は市太郎と言い、のちに種吉と改めた。彼は別に特異な材幹でもなく、おそらく実直な人物だったと思われるが、本漸寺の墓碑に刻まれた「小川家第二世墓誌」には、
 
 「二世亦其ノ志ヲ継ギ、拮据(きっきょ)(生活の苦しみにたえる)シテ経営シ、夙夜(しゅくや)(朝早くから夜おそくまで)家道ヲ懈(おこた)ラズ、家道滋興(じこう)セリ。」(原漢文)
 
とあって、専ら守成の功を全うしたもののようである。健堂は父種吉が多くの宅地を買っておいてくれたことに深く感謝している。そして、「これは父上先見の賜(たまもの)であった」といい、「当時買入れたる家屋敷の、家屋が腐朽しようが、宅地に草が生へようが、之れを整理せんともせず、其の整理の費用があれば、又外の宅地を買ふ、斯(か)くして買収したる宅地は相当の坪数となり」(「おもかげ」五-六頁)というごとくになって、健堂の時代には地価が暴騰して巨利を生むことになったとのべているが、そういう商法に長けていた種吉も相当の商人であった感じがする。
 種吉は八日市場の太田貞助の長女さよ子を妻に迎え、二男三女をもうけた。しかし、さよ子は不幸にも、明治一六年(一八八三)病没したので、後妻として同じ八日市場の徳山忠兵衛の次女すて子を入れた。
 種吉は大正三年(一九一四)二月一六日、長逝した。六九歳であった。その後を長男の健堂が嗣いだのである。
 
    

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 健堂はさよ子を母として、明治四年(一八七一)一一月三〇日生まれたことは、はじめに書いておいた。彼は長男だったが、上に姉が二人あり、つまり第三子だったので、荘三郎という名をつけられた。
 健堂は利発な子であったらしい。彼が五歳の時(明治八年)姉が小学校へ通うようになったが、彼は「毎日姉の通学に伴はれて昇校し、姉の腰掛の隅に腰を掛け、弁当持参で終日授業を拝見するを例とした。」(「うつせみ」二-三頁)ところが、ある日、校長室に呼ばれ、ちょうど来校していた県官の前で「歳月不人」という五文字を書かされ、立派に出来たとほめられたということである。
 明治一一年(一八七八)八歳の時、小学校に入った。当時は上等が八級、下等が八級という組織であったが、その下等八級に入ったわけである。それが、同一四年(一八八一)に編制がえとなり、初等科が六期、中等科が六期、高等科が四期となったが、健堂は中等科の三期に編入された。こうして、明治一八年(一八八五)一二月、高等科を卒業した。(卒業したのは彼と吉井宗元(別項参照)の四男篤四郎の二人だったという。)
 ところで、彼が中等科の五期か六期(一二、三歳)の頃、父種吉は学校をやめさせ、東京へ小僧にやることにし、学校へ退学届を提出した。健堂はもちろん不満であったが、仕方がなくあきらめた。しかるに、担任の藤田という先生が健堂の将来のために反対し、種吉を説得してくれたので、健堂は高等科まで終了することができたという。健堂はこの藤田先生を生涯の恩人だと、非常に尊敬していた。
 さて、小学校は卒業したが、彼の勉学熱はなかなか盛んであって、塾通いをしようとも考えてみた。当時、東金には吉井宗元の漢学塾と奥村展親の英語学校があったけれども、健堂は「漢学に偏するも不可だ、英語も尚早だ、先づ浅くとも広き智識を得よう」(「うつせみ」九頁)と考えて、「無師独習」(同)をしようと決意したのであった。商人の長男で学問始きの若者としては、これより道がなかったであろう。生涯、彼はこの「無師独習」の道を貫くのである。
 健堂は盛んに読書をした。家業の手伝いの暇に読むのだから思うようには行かなかったろうが、「文章軌範」から「三国志」、「源氏物語」、「太平記」のごとき古典物から、当時流行の「佳人の奇遇」(東海散士)のごとき政治小説、また、尾崎紅葉・幸田露伴・徳富蘆花のような新作家の小説類から、徳富蘇峰・内村鑑三・山路愛山等の評論類まで読みあさるというありさまだった。さらに、その頃発刊されていた「頴才新誌」とか「教文雑誌」とかいう雑誌に文章などを投書したり、また、仲間と俳句会を催し(彼は「梅香」とか「桐雨」とかいう俳号をつけていた)、あるいは漢詩をさかんに作ったりして、活発な文学活動もやっている。田舎商人のせがれとしては、めずらしいことであるが、こういう傾向はその頃の社会的風潮であったとも考えられよう。健堂にしてみれば、若き血の燃えあがりであり、青春の爆発でもあっただろう。
 健堂は孝行息子であった。しかし、青春時代には、さすがに反抗の気慨を示して、親を困らせたところがあったようだ。
 
 「若き我には溌刺の元気あり、青雲の志あり、如何にかして立志の目的に到着せむとするの慨(がい)なきにあらず。老いたる父は寧(むし)ろこれを危ぶみ、或ひは其の行路を遮(さえぎ)り、或ひは其の志望を抑へ、以て予の進路を妨げたることもありき。若き予には怨恨とも感じ、遺憾とも思ひたるこそ口惜しけれ。」(「おもかげ」二頁)
 
彼はこう書いているが、一時はいわゆる大志をいだいて、雄飛を夢見、父と衝突したこともあったらしく思われる。しかし、結局彼は順良な息子であった。家を亡ぼすほどの豪傑でもなかった。家業を嫌って飛び出すほどの風雲児でもなかった。健堂の親友であった小倉徳太郎は「おもかげ」に寄せた序文の中で、健堂の人柄について、
 
 「君は……資性温厚中正、実に常識的の人物である。(中略)常識の持主たる君は、文事の修養を崇みながら、尚ほ家業の進展を忘れない。」
 
と評し、彼のいわゆる部屋住時代の生活について、
 
 「彼は若き日から、賦性を練(ね)るべく営々一日として安きを貪らない。父の助手として、一時たりとも業務を曠廃(こうはい)したといふを聞かない。部屋住の四十年間は、彼が成長修養の時期であり、且つ、力の貯蔵時代であって、決して遊惰安眠の時間ではなかった。」
 
とのべている。彼を「常識」の人としているが、まさにその通りであろう。ただ、「常識」に達するまでの道程を考えてやらなければなるまい。彼には田舎の一商人に甘んじななければならぬ悩みがあったであろう。それを克服するための人知れぬ努力も、なまやさしいものではなかったにちがいない。彼は自力で教養を積みながら、自己の人格を形成していった。そうして、「常識」の人となったのである。
 
    

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 「予の一生を通じ、邁進の勇気は四十才位と思ふ。予が商業立志の時は正に三十九才であった。「(「うつせみ」二九頁)
 
健堂の三九歳は明治四二年(一九〇九)である。父種吉もまだ健在であった。その年彼は「商業立志」をしたというが、これはどういうことだったろう。これは彼が新しく石材業をはじめたということである。石材業を開始したことについて、彼はこう言っている。
 
 「三年父の道を改めざる、これを孝と申しますから、成るべく従来の営業を尊重し、衣食住と云っても、呉服屋にはなれず、食料店にもなれず、結局、住の方面に活躍しようと、従来の畳表や壁材料セメントの拡張と共に、石材業を開始して、其の目的を達成せんと致しました。」(「おもかげ」一一頁)
 
石材業をはじめることを父に話すと、父は直ちに賛成したという。だが、なぜ父が直ちに賛成したかというと、小川家は右の引用文にあるとおり、畳表とセメントなどの問屋をやっていたのだが、健堂はその運営で手腕を発揮して、父に実力を認められていたからなのである。それは、健堂は輸送機関として画期的な活力を持つ鉄道を利用して、産地からの直輸入を考え、それを実行して、かなりの利益をあげていたからである。これは畳表の場合であるが、当時東金には小川屋よりも大きな問屋があって、小川屋は三流どころであったが、健堂は父から二百円の金を出させて、それを資金として、九州杵築(きつき)の町役場へ直接交渉して、畳表の直送を実現し、東京の店にもない新しい畳表を廉価(れんか)に売るようにしたのである。当時世の中は不況で物価も安かったから、二百円の資金でも相当大量の品を仕入れることが出来たし、しかも、幸いなことに、だんだん景気も上向きになって行ったので、価格をあげても需要が伸びるばかりだったから、儲けも大きかった。セメントなどについても同じ方法を取って成功したのである。このような実績があったので、父も気をよくしたから、石材業のことも健堂にまかせたのである。彼の商才もすでに立派な成長を遂げていたのである。
 いったい、上総国には石が産出されない。そのため、石材は遠地から輸入しなければならないから、当然、東金地方でも石材はバカ高い値になった。これを畳表同様、産地直輸入をやれば安くなる。需要は多いのだから、その方法を取れば喜ばれるにちがいないと、彼は考えた。そこで、石材業の開始にふみ切ったのである。彼は常陸・岩代・磐城等の諸国の石材問屋と直接交渉をして、鉄道輸送による産地直輸入をやり、しかも、取引は現金主義を採ったから、信用が高まり、商売繁昌ということになったのである。
 こうして、四四歳を迎えた大正三年(一九一四)父種吉(晩年に常吉と改名)は死没し、健堂が小川家三代目の当主となった。彼は父祖の名を恥かしめないように覚悟を新たにするとともに、家政・営業・奉仕についての三大方針を建て、その線に沿って家業の隆盛をはかったのである。まず、家政方針としては、
 
 「家政方針は、営業に精進するは勿論の事、而して祖先より承けたる財産は、生活の第一線に恩恵を受くるものなれば、財産には幾分の利息を附け、以て不慮の災禍に備へ、余裕あれば公共に奉仕し、唯だ資産の増殖のみに専念せず、但し、厳確に減退は警戒すべきである。」(「おもかげ」四頁)
 
のごとくを定め、営業方針としては、
 
 「営業方針は第一、時勢の赴く所を先覚し、第二には、近傍町村の生活状態、並びに需要供給の趨勢を察知し、時勢に適したる商品に注目し、然らざるものを縮小する事。」(同、一〇-一一頁)
 
と定めたのである。奉仕方針は特に定めていないが、ともかく、以上によって、健堂の抱負は十分にうかがえるであろう。
 かくして、小川家は三代健堂の健闘によって、その基礎が固まったばかりでなく、家業も隆々と繁栄するようになって行ったのである。
 
    

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 健堂は社会的にもいろいろ活動し、数々の要職について各方面に貢献している。本漸寺の彼の墓碑に書かれた墓誌(「小川家第三世墓誌」)には「社会人トシテハ、福祉教育産業経済各般ニ亘リ、世ニ貢献スル所多ク、其ノ閲歴ハ列挙ニ暇アラズ。唯、政治ヲ好マズ」とあり、実際沢山の肩書をもっていた(「うつせみ」二二-二八頁参照)けれども、文化人だった彼は「政治ヲ好マズ」とあるとおり、政治嫌いのところがあったようだ。しかし、大正時代には東金町会議員・山武郡会議員になったこともある。経済関係では、東金商工組合長や千葉県商工聯会会長になっており、とくに後者については彼が創立者となっていた。また、営業税審査委員を八年間つとめていたが、これは関東地区から四人選ばれるもので、彼がその一人であったことは特筆に価しよう。
 文化方面の仕事としては、明治四〇年(一九〇七)以来、八年間にわたって、「東金月報」を刊行しつづけたことなども、いわば市民新聞のさきがけとして歴史的な意義をもつものであろう。次に、彼は明治三八年(一九〇五)東金小学校の校歌を作詞している。これは、鉄道唱歌の作詞者として有名な大和田建樹に校閲してもらい、小学唱歌などの作曲者として知られる田村虎蔵が作曲して発表されたものである。歌詞は七節から成る長いものである。(「うつせみ」三六-三八頁参照)彼は教育にはなかなか熱心で、小学校教育を外部からいろいろ援護し、課外教育に力を入れ、また、青少年のための夜学なども、いろいろな方法でやっているが、興味深いのは、子守教育をやっていることであろう。これなど全国的にもめずらしい事例であろう。
 健堂はなかなかの読書家で、死ぬまで書物に親しんでいた人のようである。文章を書くのも好きであったが、かなりの達筆であった。その上、書道にすぐれた腕を持っていたことも強調したいところである。特に隷(れい)書が得意であったといわれる。
 ここで、彼の家庭関係についてのべておきたい。彼はさよ子を母として生まれたが、さよ子は明治一六年(一八八三)彼が一三歳の時死没してしまった。これは彼にとって大きなショックだったにちがいない。さよ子のあとにはすて子が入った。彼にとっては継母である。彼は二人の母を持ったわけであるが、この継母は世間のいわゆるまま母とはちがっていたらしい。それについて、小倉徳太郎は「おもかげ」の序文で、
 
 「私は全く彼れの先妣(死んだ母、さよ子のこと)を知らない。次の母君(継母のこと、すなわちすて子)なるものはよく知つてゐる。彼を産みし事実を除き、生母と何処が異つてゐるかは、私の目には映じなかつた。」
 
と書いている。継母らしいところが見えなかったというのである。さらに、小倉は、
 
 「小川君の素行の正しかつたことは、君の道念の然らしめたことが主であらうが、次の母君の愛が、家庭を暖かにした力に待つものが尠(すくな)くはないと思つてゐる。」
 
とものべている。継母の愛情で家庭があたたかかったから、健堂も非行に走ることがなかったというわけである。これは、稀有の幸福であった。継母すて子は夫の死後八年の、大正一一年(一九二二)三月二〇日、六九歳で没している。
 健堂は明治二四年(一八九一)、二一歳の時に、八日市場の太田平助の長女はなを妻に迎えた。はなは健堂より五歳年下であった。はなは「資性極メテ温和ニシテ」(「小川家第三世墓誌」)とあるから、至って性質のいい家庭的な女性だったのだろう。夫婦の間には四男四女の子どもが生まれた。
 さて、健堂は昭和九年(一九三四)六四歳のころから健康がすぐれず、病床に親しみがちになっていたが、同一五年(一九四〇)七〇歳となった二月、中風にかかり、身体不自由の状態となってしまった。彼は昭和六年(一九三一)から、自分の伝記などを書いておきたいと考えて、ぼつぼつ稿をおこしていたが、右のように七〇歳になって中風を病んだので、いそいで既成の原稿をまとめて一書を刊行した。それが「おもかげ」である。そして、翌一六年の初冬、残りの原稿を整理編成し、表題を「うつせみ」とつけた。そして、「自序」を書き添えたが、その中に
 
 「病後の弱体、殊に七十有余の老齢、記憶力耗衰して文藻昔日の如くならず、唯だ抜け殼の囈語(たわごと)のみ。或ひは多少の錯誤もあらん、因つて、『空蟬(うつせみ)』と名づく。」
 
と記している。何かあわれさを誘うが、人生を達観した人のさわやかさを感じさせるところもある。
 健堂の晩年のもう一つの仕事として伝えておきたいのは、御殿山私園のことである。御殿山は東金御殿に因む名称で、現在東金高校の校舎の背面の山を指すのであるが、大正五年(一九一六)彼はこの山を買い取り、在来から遊園化されて風致に富むその山に楓等の雅趣ある樹木を植えこんで、さらに美化をはかり、風雅の士にその楽しみを分たんとしたのである。今、この山の頂(いただき)に「植楓の碑」が建てられ、彼の綴った「植楓之記」なる碑文が刻まれてあって、その中に事の次第が述べられている。「大正五年購(あがな)ウテ余ノ有ニ帰ス。乃(すなわ)チ竹林ヲ修メ桧杉ヲ栽ヱ、拮堀(きっくつ)十年稍ヤ成ルヲ告グルヤ、稀代ノ旧蹟徒(た)ダ竹木ノ繁茂ヲ楽シムニ忍ビズ、随時開放シテ懐古探勝ニ資セント」して、更に楓樹数百株を植え「秋季錦繍(きんしゅう)ノ美ヲ綴」り、「東金名勝ニ一景ヲ添ヘ」ようと考えたのであった。そして、名も「紅葉谷」と称して自らも至楽とし他にもそのよろこびを及ぼそうとしたのである。富豪の道楽としても、いかにも彼らしい仕事といえよう。(なお、本巻「自然・名勝」篇・御殿山の項を参照されたい。)
 健堂はこのようにして、昭和一八年(一九四三)一一月六日、七三歳で永眠した。妻のはなはそれから五年後の昭和二三年(一九四八)日も同じ一一月六日、しかも、行年も同じ七三歳で夫のあとを追うて死についた。奇しきめぐりあわせというべきであろう。小川家は長男の一郎氏がついで四代目の当主となった。同家の家運はめでたく、隆昌をつづけている。(「うつせみ」は健堂の在世時に出版されず、昭和二四年一一月、七回忌に上梓された。)

小川健堂

 
 【参考資料】
   小川家第三世墓誌
                 (東金本漸寺小川家墓地)
 荘厳院名ハ荘三郎健堂ト号ス。幼ニシテ頴悟(えいご)、五歳ニシテ書ヲ良クシ、長ジテ父祖ノ業ヲ継グヤ、時世ヲ達観スルノ明アリ。率先シテ畳表ノ産地ト直取引キヲ行ヒ、尋イデ石材ノ業ヲ創始シ、営業規模ノ革新ヲ計リ、以テ後代ノ為メ基盤ヲ確立シタリ。先考(亡父)ハ又文学ヲ好ミ、書道ヲ嗜(たしな)ム。壮時東金月報ヲ創刊シ、独力経営実ニ八年。是郡内新聞ノ濫觴(らんしょう)(おこり)ニシテ、良ク地方風教ノ刷新ヲ図ル。書道ハ終生愛好スル所ニシテ、殊ニ隷書ヲ良クス。社会人トシテハ、福祉教育産業経済各般ニ亘リ、世ニ貢献スル所多ク、其ノ閲歴ハ列挙ニ暇アラズ。唯政治ヲ好マズ。子ニ四男四女アリ。長男一郎家督ヲ嗣グ。昭和十八年十一月六日没ス。時ニ齢七十有三ナリ。
 宝蓮院名ハはな北総八日市場太田平助ノ長女ニシテ、明治二十四年小川家ニ嫁ス。資性極メテ温和ニシテ、四男四女の慈母トシ又良キ先考ノ内助者タリ。昭和二十三年十一月六日、七十三歳ニシテ先考ト其ノ命日行年ヲ同ジクシテ歿ス。