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片岡家は、ゲタモの屋号で広く知られた豪商である。東金を本拠に、千葉・東京・銚子等に支店を有し、呉服ないし洋品をあきなって、大いに商勢を張り、隆盛時には天下の耳目をそばだたせたほどであった。東金地方はいわゆる七里法華の域内であった関係から、日蓮宗信仰がさかんであり、日蓮宗は由来商業活動と密接なつながりをもつところから、東金商人たちの崇信はことさら深いものがあった。その中で、片岡家はもっとも熱烈な日蓮尊崇の精神をもって一族が団結し、活発な経済活動を行なって巨富を成したものといえよう。その一族において、中心的な存在だったのは、立正安国会を興した片岡盛助と政治家として名を成した片岡伊三郎の兄弟である。盛助は信仰の主柱でありリーダーであったが、伊三郎はその信仰を政治的に拡充した運動家であった。しかし、片岡家の基礎づくりをし、富力を蓄積したのは、彼等の父善助であった。したがって、まず、善助のことから語らなければなるまい。
善助は実は片岡家の生まれではない。彼は山辺郡片貝村(現・九十九里町片貝)の呉服商高柳吉右衛門の子で、嘉永三年(一八五〇)二月一五日に生まれたが、明治九年(一八七六)二七歳の時に、東金上宿の片岡茂兵衛の養嗣子に迎えられ、その長女よねと結婚したのである。よねはその時一七歳であった。ところで、この茂兵衛は片岡家の三代目で、彼も東金の木口という家から養子に入った男である。彼の養父たる二代目茂兵衛もやはり養子だったが、生家のことは分からない。初代の茂兵衛(片岡家は三代まで茂兵衛を襲名していた)は長生郡豊岡村(茂原市本納豊岡)から東金へ移って来たというが、上宿の中田屋に勤めて、後に「下田(げた)屋」という屋号をもらったというが、仕事は農業であったらしい。彼の妻の名などは不明であるが、夫婦ともに熱心な法華信者であったといわれる。片岡家の法華執心は初代からのことであった。初代茂兵衛は安政三年(一八五六)一二月二八日に没したというが、行年は不詳である。
ふたたび善助の養父三代目茂兵衛にもどるが、彼の妻アサ(すなわち善助の養母)も養女であって、生まれは東金の油屋小川家だという。その頃の片岡家の農業は「田地五十俵足らずの入れ付け」(立正安国会編「片岡随喜居士影譜」一四頁)であったというが、茂兵衛は別に雑貨の商いをはじめたけれども、あまり繁昌はしなかったようである。なお、「ゲタモ」と称したのも彼の代からであって、これは下田屋茂兵衛の略称であって、商標には井桁の中に「モ」の字を配するようにした。彼は学者タイプの人だったらしく、御家流の書をよくし、花道や茶道のたしなみもあったそうで、どうも商才の持主ではなかったらしい。茂兵衛夫妻には五人の子ども(三男二女)があった。ところが、三人の男の子を皆他家へ出してしまい、長女のよねに養子善助をもらったのである。これは、その時分、長子(男であっても女であっても)に家を嗣がせるという風習が残っていたので、それを守ったのではないかと思われる。しかし、これが結果的には成功して、片岡家は繁栄するにいたるのである。
善助の幼時は不幸つづきだった。彼は二歳の時に母に死別し、祖母の手で育てられたが、一一歳で父に死なれ、文久二年(一八六一)一二歳の時に、東金田間の呉服商古川伝七方に見習徒弟として奉公することになったのである。古川家は屋号を「あぶでん」という豪商として知られていた。もとは油屋をしており、当主の名が伝吉とか伝七とかいっていたので「あぶでん」という屋号をつけていたのである。呉服屋に変わったのは何時ごろかはっきりしないが、この伝七は古川家中興の傑物であったといえよう。この人物についてはその菩提寺上行寺の古川家墓地に建つ墓碑に刻まれた碑文によってその概略を知ることができる。これは岡本監輔の撰文であるが、伝七は天保元年(一八三〇)四月八日、田間に生まれ、一四歳の時に片貝村(九十九里町)の柳という商家に奉公し、日夜よく働いたので主人の深い信任を得、家政を任かされるほどになった。主家の経済は不如意であったけれども、伝七の献身的な努力によって立直りを見せ、見事に復興させることができたのである。こうして、一六年間柳家に仕えた後、二八歳の時東金の生家に帰り、柳家における経験を生かして、自家の商売を盛大ならしめるにいたったのである。
伝七の人となりについて、碑文には「人ニ接スルヤ、温厚謙譲ニシテ、未ダ嘗ツテ忤色(ごしょく)(人にさからう態度)有ラズ。然レドモ亦、剛強不屈ノ気有リ」とあって、おだやかだが剛毅の気性であったとしている。彼は商才にも秀でていて、呉服商のほか上総木綿の問屋をも経営して、豪富を築くことができたのである。彼は社会的にもいろいろ貢献するところが多かったが、特に上総木綿の改良と発達については多大の努力を払い、また、上総木綿織物組合の結成にも尽力したが、明治二三年(一八九〇)病魔におかされ、数年病臥の後、同三〇年(一八九七)一二月五日、六八歳をもって永眠した。
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片岡善助が古川伝七の店で働いたことは、非常に幸福であった。つまり、善助は伝七から商売の極意を学び取ることができたからである。しかし、善助を得たことは伝七に取っても大いにプラスとなったのである。善助は文字通り粉骨砕身して、古川家のために尽し抜いたらしい。その効果は商況の隆昌となって、大利をもたらしたのである。世間では「あぶでんの身代の半分は善助の働きである」と沙汰しあったと伝えられる。だが、善助は決して驕り高ぶるところがなく、きわめて実直に勤め抜いて、上下の信頼が大変あつかったといわれる。こうして、善助は一五年間古川家に奉公して、主人の伝七から、当時としては破格の百二十円という賞与をあたえられて古川家を去り、前述のごとく片岡家に婿入りしたのである。
片岡家に入ってからの善助の奮闘もまことにめざましいものがあった。彼は毎朝三時には起床し、買出し行商にもどんどん出かけ、商品も衣料、砂糖、油から肥料・紙類・畳表にいたるまで多種多様の品目を扱ったので、買い手に喜ばれ、日々繁昌するようになった。ところが、明治一六年(一八八三)一二月一八日の東金の大火(「東金市史・史料篇四」四〇五-四〇七頁参照)に類焼する不運に見舞われたが、幸い前倉が一棟焼け残ったのでそこに仮店を設けて営業をつづけ家屋の再建に取りかかり、明治二六年(一八九三)には以前にも増した立派な店構えを造ることが出来た。
さて、善助夫婦は子宝に恵まれた。結婚三年目の明治一二年(一八七九)に長女みつが、同一四年に次女やすと娘が二人つづいたが、三番目にして待望の長男が生まれた。すなわち、同二〇年(一九四五)盛助が誕生したのである。つづいて、二男邦三が、同二三年に、三男伊三郎が同二七年に生まれた。その後、同三〇年に三女かめ、同三二年に四女糸子と、また娘が二人生まれ三男四女、計七人が出生したのである。この七人は成長の後も兄弟仲がきわめて良好で、たがいに睦み合い助け合って、世にもめずらしい兄弟愛を発揮したのである。この七人兄弟の協力によって、片岡家は大発展を遂げるのであるが、それは、ちょうど能勢家一〇代の賢貞が七人の子ども(五男二女)を持ち、その兄弟たちのたぐいない共同によって同家が大躍進したのと相似た現象であったといえる。能勢家では七人兄弟のうち、長男土岐太郎と三男の鉄三郎の二人が傑出していたように、片岡家では長男盛助と三男伊三郎とが特に優秀であった。ただ、能勢家はずっと家系も古く、伝統も重いのに対して、片岡家は新成の家であるところにちがいがある。
明治三八年(一九〇五)一月一二日、養父茂兵衛が没した。その時、善助は五六歳となっていたが、家業のことはすでに善助が全責任を負うていて、商売の中心は呉服が中心となっており、その方針は薄利多売主義を取っていた。ゲタモ式の商法は彼が口癖にしていた「売るという字は、買うという字の上に十一と書く。十で買って十一で売る」というやり方であった。店で用いる包装紙には「買ふ人の心になつて、良い品を安く売ります」と書かれてあり、それをモットーとしていたのである。
商勢も起伏はあったが、だいたい順調に伸び、大正二年(一九一三)には、千葉の本町に支店を出し、同七年には同二丁目に第二支店を、同一〇年には同一丁目に第三支店を出し、同一二年には同町に洋品店を新しく出した。さらに、同一三年には東京に進出し、日本橋区元浜町に東京店を開くにいたった。そして、同一五年(一九二六)九月には、合名会社片岡商店を創設し、長男盛助を代表社員にした。また、その一二月には、銚子市新生に銚子支店を設けた。こうして、片岡商店は大商店として関東に雄飛することになったのである。それはもちろん善助一人の力ではなく、彼を助けた七人の子どもたち、特に盛助・邦三・伊三郎三人の協力によるところであった。
右のように、片岡家が大発展を成すにいたった一つの動機として、善助の妻よねの死があったことを注意すべきであろう。よねは明治四四年(一九一一)三月一八日病死したのであるが、万延六年(一八六〇)生まれの彼女は五二歳になったばかりであった。多年苦労をともにしてきた善助の悲しみは深かった。その悲愁の底から善助は「ゲタモの一小僧になったつもり」で、思い切ったことをやってみようと決意して、大正二年九月、千葉に最初の支店を開設したというのである。これは、背水の陣を敷いた冒険であって、一意、妻の霊を慰めたいというまごころの発露であったのだ。それが成功をおさめたので、つぎつぎに商勢を広げていったのである。彼は非常な努力家で、高齢になっても毎日必ず三時起きをし、使用人といっしょに身を労して立ち働いていたという。また、彼は若い時に大村蕉雨(九十九里町小関の人)について書道を習い、なかなかの達筆家で盛んに手紙を書いていたという。その上、彼は長男盛助の影響もあって、熱心な法華信者で、捨身で商売にあたったから、その効果も大きかったのである。
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そこで、筆を盛助のことに移そう。盛助は明治二〇年(一八八七)五月二〇日に生まれた。彼は生まれながらに性格がおおらかで大人びたところがあったが、お墓参りが好きで念珠をほしがったといわれる。そして、一二歳のころに、人生に疑惑を持ち、仏教の宗派が多くあり、日蓮宗に十派もあるのはなぜだろうと、しきりに疑念をいだいたという。同三四年(一九〇一)東金高等小学校を卒業すると、東京の慶応義塾普通部へ入り、同三九年(一九〇六)卒業とともに帰郷して家業に励んだ。同四三年には母よねが病臥するようになったので、孝心深い彼はこれが平癒を祈念して仏立講に入り、熱心に祈祷をつづけたが、前記のとおり、よねは翌四四年三月ついに死去した。この結果、仏立講からは離れ、同年一二月、山武郡南郷村の鈴木留吉の次女富士枝と結婚し、翌々大正二年には長男栄一が生まれた。一方、信仰心はますます高まり、大正一〇年(一九二一)には妹尾義郎の主催する大日本日蓮主義青年団に入るとともに、旭日唱題会なるものを自から組織し、一層熱意を入れ出した。
かくして、大正二一年(一九二三)九月一日の関東大震災の際には、千葉のゲタモ総動員で四日間は不眠不休の活動をし、衣類・食料などを買い求めて罹災者に恵与し、一人々々に合掌して題目を唱えながら渡すようにし、また、自動車に千二百枚の衣類と米四俵を積んで東京の難民救済に出かけたりなどもしたのである。この体験から彼の宗教活動が漸次盛んとなり、「一念信随喜の心のみ」が自からを救い、人をも利する所以であると悟りを開くにいたり、「随喜」の号を用いるようになった。その開悟の日は大正一四年(一九二五)四月三日のことであった。そのことを、「立正安国会設立縁起」には、
「たまたま大正十四年四月三日、至心唱題の境に於て、夢の如くに其の心を発得し、宿年の欝悒(うつゆう)、悉く四散することを得たり。」
とあり、また、開悟の実情を「片岡随喜居士影譜」には、左のごとく説いている。
「大正十四年四月三日夕方、たまたま恩師(盛助のこと)は片貝に商用に行かれた東金への帰路、片貝県道の薄島(すすきしま)の辺を自転車上にてお題目を唱えながら走っていた。晴れ渡った空には、すでに明星が輝きはじめ、唱題のみ声は春寒の空気の中に澄み透って響いている。刹那(せつな)、恩師は本仏釈尊のみ声をハッキリと聴き奉った。瞬時に天地闊然として光明世界と化し、年来の疑雲は一掃され、仏教の肝要を解せられた。」(三一頁)
盛助はこの日を起点として、教化活動を熱心に展開するようになった。従来とても相当数の信者を得ていたが、その後の積極的な布教によって、昭和を迎えるころには千三百人位の入信者があったといわれる。盛助は東京・千葉・野田・東金等の各地で談話会を開き、法華経の妙旨とともに経済生活の要諦を説いた。はじめのうちは比較的上層の生活者が共鳴していたが、だんだん中下層の商工業者・農民・サラリーマンの信者が多くなっていった。それは盛助が日蓮のいわゆる「教へいよいよ実(まこと)ならば、位いよいよ下(ひく)し」の教旨にしたがって、庶民開発に力をつくしたからである。
彼の教義は「始メノ頃ハ力ヲ示サレ、中頃ニハ智恵ヲ大切ナモノト説カレ、終リニ其ノ力モ智恵モ徳ガ根源デアルコトヲ教エテ下サツタ」(石川平八郎「大先生ノ記」二七頁)とあるように、結局、徳こそ最高のものであるとし、人は幼児のごとき純な心を持てと教え、「コレハ幼児ノヨウニ柔和デ素直ナ心が仏様の徳化ヲ受ケ入レルノニ最モ適シテ居ルカラデアリマス」(同九頁)と説き、また、自他の関係については、「拡ゲレバ、自ト他、個ト全トハ、実際ニハ一身一体トモ言エマス。デスカラ、他ノ人ヲ苦シメルコトハ、カヘツテ自ラヲ痛メル結果ヲ招キ、人ヲ歓(よろこ)バセルコトハ、カエツテ、自ラノ喜ビヲ増スコトニナルノデス。」(同二六頁)と言って、融和協同の大切さをも教えた。生活の教えとしては、一身の健康、一家の和合、経済生活の安定が基本であるとし、金銭の貸借とそのための保証行為は厳禁していた。また、商売のやりかたについては、「例エバ、五間間口店デ、人ヲ五人使ツテ商売ヲシテ赤字ニナル人ハ、徳ガ足リナイノデアルカラ、二間間口ノ店デ人モ二人ニシテ、ヤツテミルコト、ソレデモ赤字ナラ、裏ニ入リ、一人デ行商スルコト、ソシテ勤倹ニ努メ、貯エヲ増シ、後日ニ備エルノガ可トサレタノデス」(同二三頁)というような教えかたをしていた。
盛助のこのような宗教的指導が、片岡家の商況の繁栄にプラスしたことは当然であったろう。それについて、能勢潔氏の著「田舎店主折ふしの記」には、次のように記述されている。
「祖父に当たる人(片岡家現当主から見ての祖父、すなわち盛助のこと)が日蓮宗の大信者というより、あたかも東金の本山のような形で地方の善男善女から大先生と呼ばれていた。月に何回か集会があり、広い屋敷内の部屋に大勢集まっては読経したり、大先生の法話を拝聴していたものである。呉服の店も大繁盛、大番頭から中番頭、小番頭と人手も揃って居り、買物客に応対するのに、必ず『南無妙法蓮華経』と合掌するのが一大特長であった。
『大先生のところで買物が出来る』という法悦感に浸って沢山の民衆は満足していたのであろう。宗教と商売を巧みに結んだ方法で、独自の繁栄を来していたのである。」(九五頁)
宗教と商業との巧妙な合作、七里法華以来の日蓮信仰心を商売の上に活かした点で、一歩進んだやり方であったといえよう。信仰による致富の道は人びとを魅するところがあったのだろう。
かくして、片岡家の繁栄はピークに達していったが、あたかも昭和二年(一九二七)は善助の七七歳すなわち喜寿の年にあたった。そして、一一月一八日、東金の最福寺で盛大な祝賀会が催されたのである。この時の参列者は一千名を越え、東京からは臨時列車が出、花火があげられて、大変な騒ぎであった。そのことは今も語り草になっているほどだ。善助はまことに幸運な人で、この後もさらに生き長らえて、昭和一二年(一九三七)九月七日、八八歳の米寿を迎えたのち、めでたく大往生を遂げたのであった。
盛助の宗教活動はその後も活発につづけられ、施教範囲も年々拡がり、信者も増大していった。そして、昭和一五年(一九四〇)四月三日には、彼の宗団は宗教団体法によって、立正安国会として公式に認可されたのである。戦時中も盛助の活動はつづけられたが、空襲の被害などで少なからぬ痛手も受けた。かくて、六三歳を迎えた昭和二四年(一九四九)六月二九日、入寂したのである。
片岡随喜
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盛助の次ぎの弟邦三は兄より三歳若く、性格も地味で、兄のかげにかくれてこれを助けることに努めていたが、兄に先立って、昭和一五年一月二三日五一歳で世を去った。
三男の伊三郎は、明治二七年(一八九四)八月一二日の生まれで、盛助より七歳の年下であった。伊三郎は兄とちがい、商業界から政治の世界に出て、衆議院議員に当選すること三回、運輸政務次官となって、きわめてはなやかな活躍をした人であるが、その伝記を綴るための資料がきわめて乏しく、残念ながらくわしくのべることができないのである。
伊三郎は東金の小学校修了後、明治四〇年(一九〇七)四月、県立成東中学校に入学、同四五年(一九一二)三月同校を卒業した。それより片岡商店の社員として父善助を助けて働き、商勢拡張に尽力した。そして、大正一〇年(一九二一)二月、二八歳で、佐原町の諸房(もろふさ)半兵衛の二女うめを妻に迎えた。その頃、ゲタモは千葉へ進出して、支店を三つも設けていたので、伊三郎は千葉の長洲に住居を構え、支店の経営につとめた。兄盛助は宗教運動に熱中しており、とくに大正一四年(一九二五)以後はそちらの方に多くの精力をそそいだので、商業関係は二兄邦三と伊三郎の肩にかかることが多く、生活も繁忙であった。だいたい、片岡商店の呉服部は邦三の責任となっていて伊三郎はその補助役をしていたが、その邦三が昭和一五年(一九四〇)一月二三日死去してしまった上に、洋品部を受持っていた妹かめの夫幸三郎が邦三の後を追って急死したので、伊三郎の責任は重化され、仕事はますます多忙になった。
ところが、翌一六年一月一六日、伊三郎の上に思いもかけない不幸が襲った。それは、妻のうめが世を去ったことである。彼女は明治三一年(一八九八)七月二七日の生まれだから、まだ四四歳の若さだった。彼女が死んだ時のことを、「大先生ノ記」(石川平八郎著)はこう書いている。
「是年(昭和一六年)一月十六日、伊三郎氏ノ妻梅子ガ逝去サレマシタガ、最後ニ大先生(盛助のこと)ニ丁寧ナル御礼ヲ伝エラレ、看護ノ人々ニ、皆サン有難ウ御座居マシタ、ト礼ヲノベラレテ、自ラ身ヲ整エ、安祥トシテ臨終サレタソウデス。仏子ノ方ニハ、コノヨウナ立派ナ臨終ヲサレル方ガ多クアリ、又、ソノ臨終ノ相ヲ見テ入信サレタ方モ多クアリマシタ。」(三七-三八頁)
見事な最後であったようだ。「臨終ノ相」を立派にすること、そのために立派な生をおくることを盛助は教えていたのであるが、うめはその教えどおりの死にかたをしたということだろう。片岡一族はすべて盛助の教化に従っていたが、伊三郎といえども同様であった。彼も本業のかたわら兄の布教活動にたずさわっていたのである。
伊三郎はなかなか野心家であり、また、政治的手腕の持主であった。片岡商会の仕事のほかにもいろいろな会社に関係して、重要な役職についている。昭和一五年には、大洋土地建物株式会社をおこしてその社長となり、翌一六年には、千葉県繊維製品配給株式会社の社長の椅子についている。また、同二一年には、財団法人千葉市戦災復興会の会長にもなっている。しかし、彼はそれだけでは満足せず、政界への進出を志したのである。その場合、普通のコースは市会議員、県会議員、国会議員の順路をとるものであるが、彼はいきなり衆議院議員選挙に出馬したのである。
それは、昭和二一年(一九四六)四月戦後第一回の総選挙の時であった。それは、全県一区で行なわれ、多数の候補者が乱立したが、伊三郎は日本自由党から打って出て、好運にも当選の栄をかち得たのである。つづいて、同二二年の第二回、同二四年の第三回の総選挙にも見事に当選を果たし、自由党の総務となるとともに、同二三年一〇月から二四年二月まで、運輸政務次官の栄職につくことが出来たのである。しかし、同二七年第四回の総選挙の時には不幸にして落選の憂目を見るにいたった。これによって、彼は政界からの引退を決意し、兄盛助死後、主柱を失っていた立正安国会の再建をはかるべく、同年その会長の地位についた。経済関係の仕事としては同二八年千葉復興株式会社の取締役社長を勤める以外はすべて手を引き、宗教活動に専念するようにした。かくて、その後十数年僧衣をまとい、精神的には僧侶と等しい超俗生活をつづけたが、昭和四一年(一九六六)一月五日、七三歳の高齢で帰寂したのである。
片岡家は新興財閥として巨富を擁し、その勢力は大変なものであったが、終戦後の財産税による重圧や、主柱たる盛助の死、伊三郎の政治的活動のための多端な出費等で、昔日のおもかげを漸次喪失していったのは、やむをえないことであった。
片岡伊三郎
参考資料
(片岡善助の主人・古川伝七の墓誌)
古川君墓誌(原漠文)
従五位岡本監輔操文
(東金田間上行寺古川家墓地)
古川君、名ハ親明、伝七ト称ス。上総国山武郡東金町ノ人、天保元年(一八三〇)四月八日、東金町田間ノ里ニ生マル。幼ニシテ徳三郎ト称シ、後伝七ト改ム、父ノ称ヲ襲ギシナリ。母ハ島氏ナリ。君ハ長子タリ。幼ニシテ郷校ニ入リ岐嶷(きぎょく)①ナリ。夙(つと)ニ成年十四ニシテ、同郡片貝村ノ豪商柳某ノ家丁トナリ、日夕勤勉ニ執役シ、主ノ信任スル所ト為ル。既ニシテ、主家ノ子弟、放縦ニシテ度無シ。君、屢々(しばしば)之レヲ諌ムレドモ聴カズ、家道中落ス。君、父母ニ帰与シテ金ヲ得テ、以テ之レヲ救フ。約期既ニ満ツ。主人其ノ労ヲ謝シ、且ツ告ゲテ曰ク、吾ガ児怠惰ナリ、前途知ルベシ。汝、善ク之レヲ輔ク、ト。君起(た)ツテ対(こた)ヘテ曰ク、我ヲ生ム者ハ父母、我ヲ長ゼシメシ者ハ主家ナリ。万一ニ報効スルハ、正ニ今日ニ在リ、某(それがし)、敢ヘテ鞠躬(きっきゅう)②尽力セザランヤ、ト。主人感賞シテ、家政ヲ挙ゲテ之レニ委(ゆだ)ヌ。未ダ三年ナラズシテ主家旧ニ復スルヲ得、乃チ、辞去シ、帰リテ其ノ裘(きゅう)業③ヲ襲(つ)グ。時ニ年二十八。
自ラ倹薄ヲ奉ジ、家道日ニ興ル。古川氏ノ業君ニ至ツテ方(まさ)ニ昌(さかん)ナリ。而カモ、性施与ヲ好ミ、凡ソ学校社会及ビ郷党ノ公挙毎ニ、輙(すなわち)チ衆ニ先ンジテ捐資(えんし)④ス。官、銀盃及ビ賞状ヲ賜フ事、数次ナリ。人ニ接スルヤ、温厚謙譲ニシテ、未ダ嘗ツテ忤色(ごしょく)⑤有ラズ。然レドモ亦、剛強不屈ノ気有リ。嘗ツテ兇徒数人夜白刃ヲ提(ひっさ)ゲテ来リ劫(おびや)カスニ遇(あ)フ、君刀ヲ奪ヒ之ヲ撃ツ、賊僅カニ身ヲ以テ免ル。既ニシテ老イ、猶ホ日ニ肆(みせ)ニ坐シテ計ヲ察ス。曰ク、余性之レヲ好ム、ト。瑣屑(させつ)⑥ヲ以テ労ト為サザルナリ。又、心ヲ摂生ニ用ヒ、暇アレバ則チ勝境ニ遊ビ、以テ風月ヲ賞ス。
明治二十三年(一八九〇)十一月、疾ニ罹(かか)リ、荏冉痊(じんぜんい)⑦エズ、延(ひ)イテ三十年(一八九七)十二月五日ニ至リ、溘焉(こうえん)⑧トシテ長逝ス。遠邇(えんじ)聞ク者悼惜(とうせき)セザル無シ。越エテ三日上行寺先塋(せんけい)ノ次ニ葬ル。浮屠(ふと)⑨溢(おくりな)シテ、厚徳院法要日隆信士ト曰フ。
配(はい)、喜多邨(むら)氏、一男ヲ挙ゲ、儀三郎ト曰フ。出デて喜多邨氏ヲ継グ。二女アリ、竹ト曰ヒ米ト曰フ。米ハ分貲シテ別居シ、竹ハ君ノ後ヲ承ク、嫡長女タルヲ以テノ故ナリ。女ノ夫豊次郎、温雅ニシテ読書ヲ好ミ、予ヲ視ルコト、猶ホ父ノ如シ。君ガ状ヲ郵寄(ゆうき)⑩シテ、文ヲ予ニ請フ。乃チ之レガ銘ヲ為(つく)リテ曰ク。
予ノ君ヲ知ルヤ 今ニ二十年 和気藹々(あいあい)トシテ 敬スベク親シムベシ 予諛辞(ゆじ)⑪無シ 諸(これ)ヲ貞珉⑫ニ〓(え)リ 垂伝スルコト悠久ニシテ 其ノ徳泯(ほろ)ビズ
明治三十一年(一八九八)戊戌八月
正四位勲三等巌谷修書
順徳院 俗名みや
大正元年(一九一二)十二月没 享年七十八才。
注 ①幼時から才知がすぐれていること
②身体をかがめて働くこと
③家業のこと
④寄附すること
⑤怒りの表情
⑥こまかくわずらわしい仕事
⑦長びくこと
⑧人の急死することをいうが、ここではいたましくも死去したこと
⑨僧侶のこと
⑩郵便でおくること
⑪人の機嫌をとる言葉
⑫立派な石