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他山は幕末時、東金の俳人として名を残した人であるが、名を前嶋三郎兵衛と云い、東金市新宿の豪商で屋号を茶竹と称する前嶋家第九代の当主であった。他山は俳号であり、別に竹園という号もあった。
他山は前嶋家の生まれではなく、生家は同じ新宿の旧家頓阿弥(とんあみ)家で、文化七年(一八一〇)の誕生である。頓阿弥家の祖先は、東金酒井氏の家臣頓阿弥彦左衛門という人であった。彦左衛門の身分は近習で禄は百石であった。東金酒井氏の家臣名簿を検すると、その末尾に家之子御所で客分扱いを受け五千石を支給されていた古河公方足利成氏の一族たる上杉高貞の家臣名簿が出ているが、その中に「東金より附人」として酒井氏から派遣されていた武士の名が出ており、その中に近習三人の名前(いずれも百石)が見えるが、その一人が頓阿弥彦左衛門である。(「東金史話」四五-四六頁参照)彦左衛門の子孫は酒井氏滅亡後、新宿に土着したのであって、他山はこの家に生まれたわけである。
頓阿弥家で生長した他山は、何歳の時か分からぬが、縁あって前嶋家の養子となった。同家は前記のごとく屋号を茶竹といい、代々茶商をいとなみ巨富を積み、東金では有名な商家であったが、戸主は三郎兵衛を襲名する習慣があり、他山もその名をついだのである。
ところで、茶竹-前嶋家のあった位置を、上記の地図(昭和五九年度の東金市動態地図の一部)によって確かめると、片貝県道をはさんで左下の鈴木洋子家のあたりが茶竹の本家のあったところで、県道右側の前島延雄・前島米子、左側の前島商店・前島武弘・前島商店のある場所は五軒の分家が散在していたということである。したがって、かなり広大な屋敷であったことが知られるのである。
前嶋一族住居図(東金市新宿)
商人としての他山については、伝うべき資料が何もないので書きようがないが、土地の有力者であったから、名主等の公職についたことはじゅうぶんに考えられる。彼が明治四年(一八七一)二月、関西方面に四か月ほどの旅をした時の紀行文「西遊紀行」の二月六日の記事に、
「朝辰刻過ぎ旅立つ。余未だ里長の役にあれば、ひそかに旅の用意を調へ、隣家へも知らせず……」
とあるが、この年彼は六二歳であったが、旅行好きの彼は「里長の役」つまり当時の戸長の職にありながら、「隣家へも知らせず」旅に出たのである。戸長は公職だから、やたらに旅行は出来ないはずであるが、おそらく非公式にその筋の了解を得たと思うけれども、四か月の長旅に出たのである。この文は彼が相当長い間公職を勤めさせられ、六〇すぎてもなお解放されなかったことを物語っていると思われる。彼の生活もかなり多忙だったであろう。なお、この旅の時には、せがれの亀之助の分家の新兵衛が山田台まで、下僕の平吉が東京まで送っているが、その帰りには六月一五日千葉の登戸へ着くと新兵衛ら四人が出迎え、小野の宿には亀之助ら一一人が出迎えている。これらによっても、他山の家業が相当繁昌し、生活もゆたかであったことが分かるのである。
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ところで、他山は何時頃から俳諧の道に入ったのであろうか。前嶋家には、他山自筆の句集が残されているが、それには、天保年間(一八三〇-一八四四)から明治一四年(一八八一)までの二千句が年代順に記されている。すると、彼は天保年間から作句していることが分かるけれども、天保最後の年たる一五年(一八四四)には、三五歳だったから、少なくともそれ以前からはじめていたものと考えられるのである。ただ、石井雀子氏によると、他山は天保一四年(一八四三)に立机(りっき)したということである(「房総の俳人」)。立机したとは宗匠となったということである。他山は三四歳で宗匠となったことになるが、宗匠となるには、早くても五年以上、おそければ一〇年くらいはかかる。中間を取って七、八年かかったとすれば、他山の入門は天保六、七年(一八三五-六)、年齢でいえば、二五、六歳の頃ということになろう。
では、彼の就いた師は誰かというと、はじめは素雲堂曽雲で、後に葎甘介我(りっかんかいが)であったとされる。曽雲は江戸の俳人という以外伝不明だが、介我は時代から考えて七世介我だと思われる。初代の介我は姓を佐保といい、芭蕉の弟子で其角と親しかった。この介我の子孫で七世をついだ葎甘介我は、五世介我の息子で、江戸の俳人岩波午心(ごしん)に学んだ。午心は葎雪庵と号し、大島蓼太(りょうた)に就き、蓼太の死後はその弟子大島完来(かんらい)に学んだ。したがって、他山は蓼太系の俳人ということになる。彼の立机もおそらく葎甘介我から許されたものであろう。
他山は家が裕福だった関係もあって、なかなか社交家だったようで、彼の家には行脚の俳人たちがよく訪ねてきて滞留していたらしい。前嶋家に保存されている旭斎(きょくさい)(下総香取郡山田町の俳人、姓不明)の数通の消息によると、遠くは京都・信州・北越・土佐あたりからも旅の途次訪問する俳人たちがあったらしい。旭斎は他山より一二歳ほど年少で、大江田誓の門人ということだが、他山とは特に親しかったようである。
他山が旅行好きであったことは前にのべたが、前嶋家には二、三の紀行文が残っている。その一つに「筑波詣」がある。これは安政六年(一八五九)二月、五〇歳の時の旅行記で、一〇日ほどの短い旅(成田・笠間・筑波・鹿島)のことが書かれている。その中に、
砂に置く影のすばやき小蝶かな
鶯や新畑見ゆる小松原
のごとき佳句が見える。
次に、前にも触れた明治四年(一八七一)の「西遊紀行」がある。これは、二月六日に出発し、東京から東海道を下り、大磯の鴫立(しぎたつ)庵に立ち寄り、三月に入って大和から紀伊をまわり、高野山にある芭蕉の雉子塚に詣で、それから近江をめぐり、さらに和歌の浦から四国めぐりをし、四月になって大坂・京都へまわり、京都では土地の俳人たちに大変歓迎され、たびたび俳筵に招かれ、五月初旬まで滞在した。その後、ふたたび近江路に入り、伊勢参りをしてから帰途につき、名古屋・静岡で風交をあたため、六月三日東京に入った。東京には約一〇日間留まって、為(い)山・等裁・春湖・木和・幹雄・乙彦らの俳人たちと交友を深め、同一五日東金に帰着したのであった。
ところで、この「西遊紀行」の序は、彼のこの旅に対する感懐を披瀝しているので、参考までに引用しておこう。
「おのれ他山、吉野嵐山の花を心にかけて、西遊の思ひやまざりしに、世務の繁きにささへられて、未だ果たさざりしに、今年六十もふたつ越えて、やや旅立ちの時を得たり。爰(ここ)に雲水・茶魁(かい)と云へる者、早くもこのことを伝へ聞き、とくより来りて、道の助けとならんと、しきりに乞へり。よつて望みにまかせ、道の連れにと定めつる。かくて、道すがら好むところの吟歩の情はさらなり。その日その日のことをしも、いささか後のたよりにもなりなんと、老の拙なき筆とりて、泊り泊りの灯下に記す。」
割合に練れた文章である。雲水・茶魁の二人はおそらく他山の門弟だろう。つまり、この旅は門弟二人を連れての三人旅だったのである。ただし、この雲水・茶魁については今のところ何も分からない。
西遊の旅から帰った他山は、翌明治五年(一八七二)五月「吉野土産」なる句集を上梓している。これは、西遊中各地の俳友と巻いた歌仙や作句の主なものをまとめたもので、東京の俳人春湖が序を寄せている。それは次のごときものである。
「上総東金なる他山老人、『芳野つと』と題せる一冊子を袖になし来りて、これが序を乞ふ。就いていふやう、箱嶺を西せんの事宿志なりしを、すでに其の勝地を鑑み霊区を探り、かたはら雅友名流を親しく尋ねて、かしこに風彩を語り、爰(ここ)に交遊をよろこび、吟嚢(ぎんのう)やや重きに至れり。冊子即ち是れなり、と。これらの事我が道の人常の情ながら、さるにかくまめやかなるは、いと有りがたきわざなり。(下略)」
さて、他山の句は前述のとおり二千句に上るものが残されているけれども、俳界が月並の俗調に掩(おう)われていた時代だから、彼の作風もだいたい平俗であることはまぬかれなかった。しかし、その中にも多少は才気をしのばせるものも見出せるようである。左に抄出してみよう。
庭狭き槇の上より初日かな
蓬莱(ほうらい)に山の朝影うつりけり
春の水芦の古根にとどきけり
菜がくれに椿の残る四月かな
卯の花に麦簸(ひ)る塵のかかりけり
月の露日の露満ちて牡丹かな
嵐山にて
棹さして見たし若葉の下流れ
成就院にて
涼しさや月の出しほの東山
石山寺にて
石山の石から起こる青あらし
壁越しの咄(はなし)も尽きて夜寒かな
炭の香や交はり淡き別座敷
市(いち)ひけて師走(しはす)の月の残りけり
他山が俳人として活動した頃は、東金にも俳人が多く出て技を競っていた。それがオープンな交友をしているなら問題はないが、互いの縄張りから争論をおこすこともあった。その一例が、他山と篠原葵白(別項参照)とのディスカッションである。他山は大島蓼太系の介我門であったが、葵白は白井鳥酔系の西馬門であった。鳥酔系またはそれに近い派は東金に多く、河野呼牛・小林霞雪・飯田雨兮(うけい)はいずれもその派であった。それに対して、他山の派は孤立的であった。江戸では西馬派と介我派はライバルであった。そういう背景があって、安政三年(一八五六)に、他山の句「作り菊手に手尽くせし匂ひかな」について、葵白と雨兮がケチをつけたところから、他山が憤慨して師の介我に訴えたところから、介我と葵白との争論となったのである。事の経緯は「篠原葵白」の項に詳述したのでここでは略するが、東金俳壇にもそのような俳論が展開されたことがあったのは特筆すべきである。その時他山は論争そのものには積極的に加わっていない。葵白はなかなか学殖もあって、俳論家としての力量も保持していた人である。
他山は俳諧の宗匠であったから、幾人かの門弟はあったであろう。前記の雲水・茶魁のほかにも数人はいたろうと考えられるが、具体的には不明である。また、前嶋家には、なお百余巻の歌仙の類が残されているということである。
他山は明治一四年(一八八一)一月四日、行年七二歳で永眠した。死に際して、彼は次のごとき辞世を詠んでいる。
辞世
今日きりの春や寝て聞く鐘の声
彼の墓は東金・本漸寺にある。
3(広田茶来)
他山は東金俳壇から見れば、別派的存在であったが、もう一人別派俳人がある。それは広田茶来である。茶来の経歴ははっきりしないが、ちょっとおどろかされるのは、東金の本漸寺と長久寺に二つも句碑があることだ。
まず、長久寺の碑であるが、この寺は現在廃寺となっており、墓地も雑草におおわれてしまっているが、その中をさがすと、「加藤氏祖先霊之墓」とあるささやかな墓碑に接して右側に更に小さな一基が見つかった。そして、その正面には左のような文字が読み取られる。
妙法 蓮成院受信 寂而常照 連実院妙信 照而妙寂 稚覚童子 霊
そして、その右側面には
何国をや定めなき世の草枕
うきことのミさぞ思羅無(おもふらむ)
寛政元己酉二月廿一日
という和歌が二行に書かれ、その左側面には
朝露の消へてあとなき夏の草
新宿町 広田伍兵衛
という句と姓名が刻まれている。この碑は広田伍兵衛が寛政元年(一七八九)二月二一日、七五歳の時に、死んだ子稚児童子(男の子であろう)のために建てた供養碑のような気がする。それは、「何国ぞや」の歌や「朝露の」の句(いずれも広田伍兵衛の作であろう)の内容によって判断できる。蓮成院受信は彼の戒名、蓮実院妙信は彼の妻の戒名であろう。七〇歳すぎて子どもを持つことはあり得ないようにも思われるが、妻が若ければあり得ることである。なお、二月二十一日というのは、死んだ子の命日だと思われる。この碑は加藤家の墓地内にあるが、おそらく縁戚だったのだろう。
次に、本漸寺にある碑は、その正面に
蓮成院受信 蓮実院妙信 種宝院当玄日庄
と、三人の戒名が書かれてあるが、上部の二人は長久寺の句碑に照らして広田伍兵衛夫妻のものであることは疑いない。その右側には
乙鳥(つばくろ)の入身かしこき縄すだれ
翠山
とあり、左側には
風操を□□つくして落葉かな
茶来
とあり、裏面には
□□□□露に野□□か勢かな
長秀
居つかれぬ蝶の姿やはま庇(ひさし)
同
とある。伏字のところは、磨滅していてどうにも読み取れない。ところで、ここに三人の俳名が出ているが、この俳名と前の戒名とはどういう関係にあるのか。蓮成院が伍兵衛のであり、蓮実院がその妻のであると前に見たが、それなら種宝院とは誰なのか。また、この碑には建碑の年時も建碑者の名も刻まれていない。どうも疑問の多い碑である。
故関岡一葉氏は「東金文化」に連載した「東金俳人について(3)」において、広田茶来のことを取り上げ、広田五(ママ)兵衛がすなわち茶来であるとし、五兵衛すなわち茶来は「新宿下宿(しもじゅく)忠右衛門屋敷の一番北で、現在では広森彦造氏宅と村松氏の間に居住していた広田五兵衛と云う者である」と述べ、広田家は代々五兵衛の名を襲いでいるが、今は絶家しているので、茶来が何代目の五兵衛だったか分からないとしている。
一葉氏はまた、茶来の家は画家の前島木端(別項参照)の家と向う前にあって、日常親しく交際していた仲であり、木端が芭蕉の像を描き、それに茶来が芭蕉の句「物言へば唇寒し秋の風」を書き「享和弐壬戌年 八十八才 茶来」としるした軸を見たといい、「その筆勢の見事な事に驚くほかなかった」と書いている。寛政元年(一七八九)に七五歳、享和二年(一八〇二)に八八歳であった五兵衛すなわち茶来は、逆算すると正徳五年(一七一五)の生まれとなり、享保七年(一七二二)生まれの木端より七歳年下であったことになる。木端は文化一二年(一八一五)九四歳という長寿で没しているが、茶来の没年は不明である。
ところで、一葉氏は与謝蕪村の門下江森月居の門人に茶来という俳人があったが、広田茶来と同一人がどうかという疑問を提出している。月居は京都の人で、放浪性の強い特異な俳人で、蕪村の没後は多くの門人をもって、東の鈴木道彦、中京の井上士朗とともに西の月居といわれ、三大家の一人とたたえられていた。彼の縄張りは関西の京阪・丹羽・若狭地方であって、東国にまで勢力が及んでいたかどうかうたがわしいので、右の問題はにわかに断定は下されないと思う。