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俳人として知られた霞雪は、本名を小林佐平次といい、東金市上宿の十文字屋(岡崎屋)金物店第五代の当主だった人である。彼は安永九年(一七八〇)山武郡横芝町横地の生まれで、後、小林家に入婿し、佐平次を襲名した。入婿前の姓名や入婿した時の年齢は分からない。かりに、二二、三歳の頃入婿したとすると、享和元、二年(一八〇一-一八〇二)ごろとなる。なお、彼は別に白斎という号もあった。
霞雪は温厚で大人(たいじん)の風があったといわれるので人柄もよかったらしく、その上、なかなか多芸の人で、能書家であるとともに彫刻にも長じていたという。
東金でも一流の豪商たる十文字屋(岡崎屋)の主人だった彼は、商人としてどういう活動をしたか、それを伝える資料は全くない。しかし、相当豪奢な生活をしていたらしいことは、その晩年に三松亭なる風雅な別宅を営み、俳客・茶客・花客を招いて雅遊を楽んだという話によっても、うかがい知られるところである。そのことを彼は「三松亭記」という文に書きのこしている。引用してみよう。
「 三松亭記
さざ波の大津壁に世の塵を隔てたるたかどのあり。みづから三松亭と名づく。名におふ御殿山はほどよく離れ、竹木かさねつらなりて、春秋に富みたり。西南の方は夷北①峰々遙かに聳(そび)え、鴇が嶺はいただき穏かにして、癸丑(みずのとうし)②の間に立てり。妙見の森、お中間の並木、花に遊ぶ百鳥は高欄にかげをはさみ、木の間もる涼風は机上の書籍をさらはんとす。初月(はつづき)③の隈(くま)なきより、有明の月の松にかかれるまで、みな此の桜をもてなすに似たり。雪の旦(あした)の一興は、遠近の奇境に眸(ひとみ)をさき、あらたに乾坤(けいこん)④を見るが如し。ある日は茶事を翫(もてあそ)びて古人の佗(わび)をしたひ、または酒客を携(たずさ)へ、雅に乗じて無弦の琴を叩(たた)く。醒めて見る、左右の人家工商のいとなみに物音の絶えざるをおもへば、彼(か)の楽天⑤がいへる大隠朝市⑥の栖(すみか)をここにうつせるものならし。」
注 ①関東北辺の意か。
②北東の方向。
③陰暦八月初めの月。
④天と地。
⑤中国唐時代の詩人白楽天。
⑥中国の詩人王康泯(おうこうみん)の詩の言葉「大隠ハ朝市ニ隠ル」による。真の隠者は人のいない山林の中などに住まず、人の多くあつまる都市の中にまぎれて住むものという意。霞雪はこの語を白楽天の語と感ちがいしていたのである。
「たかどの」とか「高欄」とかいう表現からすると、少なくも二階だてで高欄をめぐらした建物であっただろう。そういう別宅で悠々自適が出来、雅友と酒をくみかわし、音曲を楽しんだのである。おそらく、俳友をあつめての句会なども催されたことであろう。この建物は大正の頃までは残っていたということだ。
霞雪は俳諧を河野呼牛・北村音人(いずれも別項参照)らの先輩に学んだといわれるが、反面、桜井梅室を尊敬していたという。梅室は音人と同じく加賀金沢の人で、音人と同じく高桑闌更の門人であったから、両者は同門のよしみがあったわけで、霞雪はおそらく音人から梅室のことを聞いていたことであろう。梅室は東金へ来遊して、大野風乎(ふうこ)(伝兵衛(八代)のこと、別項参照)の家に滞在したことがあるといわれるが、それが何時のことか不明である。梅室は嘉永五年(一八五二)八四歳で死去しているから、その年以前に東金へ来たことはたしかである。もし、嘉永二年以前に来たとすれば霞雪とはもちろん、音人とも会っていただろう。
霞雪句碑(最福寺)
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霞雪には、まとまった句集というのはないけれども、句文集「杉下随筆」二巻のほか俳諧・発句の雑記、また、前出の「三松亭記」のほか「東金の賦」「百蟲の賦」などの俳文がある。能書家だった彼は「古今俳諧類題集」一巻、「歌仙袖定木」一巻などの編書を残している。それらは筆蹟も見事である。まず、「杉下随筆」中の俳諧について見ると、天保一〇年(一八三九)六月河野呼牛と両吟を試みているが、それは左のごとくである。
「 用水の出尽て高し蓮の花 霞雪
涼風うける坂口の家 呼牛
碓(いしうす)を明かぬうちからかりに来て 霞雪
塒(ねぐら)へあがるも早い丑刻鳥(うしどり) 呼牛
宵(よい)の間は月のさはらぬ銀河(あまのがわ) 霞雪
箒(ほうき)を抜て匂ふ紫蘇(しそ)の実 呼牛
(下略)」
このほか、天保一三年(一八四二)には、多々良平山(へいざん)という人と、霞雪の立句で歌仙を巻いている。この平山は備前岡山の俳人で霞雪と交友があったが、翌一四年秋、江戸で客死したということで、その知らせを受けた霞雪は、
「東備の平山、江戸の土になれりと、四好士①のせうそこ②に聞ゆ。この叟(そう)③去年の夏別れたるを、生涯の別れとなりければ、思ひ出づる事のみ多く、しばらく眼(まなこ)を閉ぢ口をつぐむ。
なき名きく秋をしぐるる秡(はらえ)かな
霞雪 」
注 ①四人の紳士。四人の名は不明。
②たより、手紙。
③老人
という文章を書き、その死を悼んでいる。「四好士」の語によって、江戸にも幾人かの知友がいたことが分かる。以上のほか、天保一四年(一八四三)には、磧水・念々などという俳人たちと両吟を試みているが、この二俳人のことは不明である。
次に、彼の俳句をあげてみよう。
元日の賑ひにたく囲炉裏(いろり)かな
茶の花に顔の小さき雀かな
星かげや闇にも動く鴨の水
飛返す鷹の光りや水の上
用もなく押されて出たり年の市
豆はやす声や田越しの三軒家
賀
花の咲く松を齢(よわい)の柱かな
浅茅生(あさぢふ)に影の深さや夏の月
草庵に雨を佗びて
さびしさに見れば淋しや栗の花
一と日小間子野に遊ぶ
地をすつて飛ぶ野雀や木瓜(ぼけ)の花
これという目立った特色はないが、情景を素直に表現しようとする気持は出ている。
霞雪は、安政二年(一八五五)二月八日七六歳の高齢で永眠した。死にあたって、彼は次のような辞世の句を残している。
「 辞世
病床に梅の小枝をさしてなぐさめられけるによろこびて
これほどの見おさめはなし梅の花
七十六翁 霞雪 」
この句は、彼の菩提寺たる最福寺の宝蔵前に句碑として建立されている(ただし、詞書は略されている)。充実した心で死を迎えている姿が偲ばれて、彼の最後をかざるものといえよう。
彼は信望のあった人だから、多くの人にその死を惜しまれた。そして、小祥忌(一周忌)を迎えるにあたって、彼の弟子であった篠原葵白(別項参照)や蒼湖(伝不明)、その他の知友が、彼の嗣子で俳句を嗜んでいた東湖を支援して、各地の著名な俳人たちから作句を寄せてもらい、追善のための句集「こぼれ梅集」を編輯し、安政四年(一八五七)二月、上梓したのである。この集には惺庵西馬(せいあんさいば)が序を寄せている。西馬は田川鳳朗の門下で、江戸に数百人の弟子を持つ俳諧宗匠であったが、霞雪とも親しかった人である。篠原葵白は西馬に入門しているが、これは霞雪の紹介によったらしい。(西馬と葵白の関係等については「篠原葵白」の項を参照されたい)ところで、西馬の序は霞雪を知る上にも参考となるので、左に引用してみる。
「 序
白斎霞雪居士は身を市場にやすんじ、心を煙霞雪月の間に遊ばしめ、はやくより蕉門の本旨を自得し、げに南総の逸人(いつじん)①なりけり。去年②の如月(きさらぎ)はじめの八日、梅花の一章を辞世とし、その匂ひに和して広莫(こうばく)③の野に帰れり。その期の約をたがへず、葵白・蒼湖の両子まめやかにも一集をあみなし、小祥忌辰(しょうしょうきしん)④の塚樹(ちょうじゅ)⑤にたむく。
かならずや幽魂地下に此のこぼれ梅を拈(ねん)じ⑥まさに微笑すべしと、随喜してしるす。
安政丁巳(ひのとみ)⑦令月⑧
惺庵 西阿弥 西馬」
注 ①すぐれた風流人
②この文は安政四年に書かれているので(⑦参照)「去年」ではなく「一昨年」とすべきところである。
③「広漠」に同じ。
④人の死後一年目の忌日。
⑤墓に植えた木。霊に手向けること。
⑥ひねる意。ここは、仏語の「拈華微笑(れんげみしょう)」のことばをつよめていっている。釈迦が仏前で黙って花をひねって供養した時、誰もその意味が分からなかったが弟子の迦葉(かしょう)だけは理解して微笑したという話。
⑦安政四年(一八五七)である。
⑧二月のこと。
西馬はこの文を書いた翌年、すなわち安政五年(一八五七)八月一五日、五一歳で死去しているが、その生前、霞雪は江戸で会っていたであろうし、また、西馬が東金へ来遊したこともあったと考えられる(「篠原葵白」の項参照)から、両者の間には親交があったものとみられる。
なお、この句集の巻頭には、霞雪の遺作たる
初夢にたのまぬまでに老いにけり
の句が掲げられている。何年の作か分からぬが、晩年のものにちがいない。この句のほか霞雪の句は四〇句おさめられている。また、小祥忌脇起(わきおこし)(古人の句を立句として脇句から連句を作りはじめること。「脇おこり」ともいう)の歌仙一巻が添えられており、さらに各地から寄せられた悼句百余も掲げられている。その中には、西馬のほか、為山(いさん)(江戸の人、関氏、桜井梅室門)・抱儀(ほうぎ)(江戸の人、守村氏、成田蒼〓(きゅう)門)・等栽(とうさい)(大阪の人、のち江戸住、鳥越氏)らの作も見える。