河野呼牛(こぎゅう)(俳人・塾主)

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 東金市谷御林墓地の桜木〓(ぎん)斎一族の墓所の附近、清宮家墓地の左側に、樹木のしげりの中にひっそりと一基の句碑が建っている。薄明かりの中で読むと、左のような文字が刻まれている。
 
 「                間々亭呼牛
                    嘉永二年閏(うるう)四月七日没
                      享年八十二歳
   身の代(しろ)の
     米喰ひそめる
        冬至(とうじ)かな                」
 
これは、碑の表面であるが、書はなかなかの達筆である。さらに、裏面を見ると、左側に小さく、「昭和十五年春 健堂建」とある。健堂とは小川健堂(別項参照)にちがいない。同氏が昭和十五年(一九四〇)に好意的に建立したものと考えられる。碑面の文字は健堂の筆であり、碑そのものも同氏の支弁であったろうと察せられる。碑の建つ場所は河野家の墓域であったと聞くが、墓石は見出されない。

呼牛句碑(御林)

 呼牛は俳人としてよく知られているが、伝記はきわめて不明である。一、二の文献をたどると、彼は東金市上宿の河野家に生まれたが、河野家は代々漢学の家で手習師匠を業としていたという。呼牛は通称を平内といった。生年は右の碑銘の没年嘉永二年(一八四九)から逆算すると、明和五年(一七六八)となる。これは、奇しくも、彼の盟友たる俳人北村音人(おとんど)(別項参照)とその生没年を等しくしている。二人とも八二歳の高齢で死んでいるが、音人は八月二五日だから、呼牛のほうが四か月と二十日ほど早く逝ったことになる。
 河野家の子孫は今日ではすでに絶えてしまったらしいが、幕末の名高い詩人梁川星巌が天保一二年(一八四一)五月東金地方へ来遊した時、入門者の一人に河野士貞という者があったが、士貞は呼牛の孫であったといわれる。星巌は相当期間東金地方に滞留していたが(「安川柳渓」の項参照)河野家にもしばらく足をとどめたと伝えられている。その時星巌は次のような七言律詩を詠んでいる。
 
 「 士貞ノ静観樓ニ雨ニ対シテ諸子ニ同ジテ賦ス。雲如①ノ詩先ヅ成リ、因リテ其ノ韻ニ歩ス。
  林ヲ籠ムル午気、暗還(また)明。
  八尺風ヲ含ミ、夢モ亦清シ。
  纔(わずか)ニ見ル、繭絲(けんし)②檻③ニ当ツテ乱ルルヲ。
  已(すで)ニシテ聞ク、琴筑④ノ簷(のき)ヲ繞(めぐ)ル声ヲ。
  他山ヲ遮(さえぎ)リテ、尽(ことごと)ク無頼⑤ナリト雖(いえど)モ、
  我ガ詩ヲ催シ成スニ、大イニ情有リ。
  最モ好シ、秧田(おうてん)⑥青クシテ万頃(ばんけい)⑦ナリ。
  油油(ゆうゆう)⑧タル甘沢(かんたく)⑨、群氓(ぐんぼう)⑩ヲ福(さいわい)ニス。            」
 
                        (原漢文)
 
 注 ①遠山雲如、詩人、星巌の門人、江戸の人。
   ②絹糸、ここでは蜘蛛の巣を美的にいったもの。
   ③手すり。
   ④琴と笛。
   ⑤そこはかとない感じ。
   ⑥苗代田。
   ⑦広々としていること。
   ⑧ゆたかでめぐみ深い。
   ⑨めぐみの雨。
   ⑩万民。
 
星巌は士貞の「静観樓」と称する邸でこの詩を作ったのであるが、それが何処にあったものやら、岩崎だとか上宿だとか、あるいは谷(やつ)だとかいろいろ云われるが、断定しがたい。また、その家が士貞の家としても、祖父の呼牛が同居していたかどうか。さらに、その家が士貞の本宅なのか、別宅なのか、そういうことも分からない。が、いやしくも「樓」と名づけるくらいだから、「亭」や「庵」などとちがい、相当立派で二階建ての建物だったという想像がつく。すると、河野家の生活程度も高かったものと思われてくるのである。
 ところで、東金市上宿の片岡栄一氏所蔵の掛軸に、呼牛が天保一五年(一八四四)七七歳の喜寿を迎えた時、友人たちの贈った句を記したものがあり、その序詞(漢文)のおわりに「孫幹謹識」と署しているのであるが、(この資料は後に示す)この幹は士貞のことではないかと思われる。士貞は彼の字(あざな)(本名のほかに用いる別名)で、幹が本名であろう。それから、文久二年(一八六二)三月の上宿の「宗旨人別御改帳」に「平助」とその家族の名が出ているが、この平助があるいは士貞の通称ではないだろうか。それは呼牛の通称が平内であるところからの想像ではあるが、一応そう考えてみたのである。(なお、人別帳には通称のみを記し、姓は特別の場合以外は書かれない。)ついでにいえば、平助の年齢は五二歳とあるから、逆算すると彼の出生は文化八年(一八一一)となる。星巌に入門したと思われる天保一二年(一八四一)には三一歳であったことになる。
 士貞の静観樓には星巌のみならず、大槻盤渓その他の漢学者が訪れたらしいが、遠山雲如などはその頃東金に移居していたらしいので、(別項「安川柳渓」参照)士貞宅にはちょいちょい来ていたようで、「河野氏静観樓ニ宿シ、秋錦生(秋錦は士貞の号)ニ似ス」とか「中秋無月静観樓ニ河野士貞ニ同ジテ賦ス」とか「河野士貞ノ楊柳枝詞ニ和ス」とかいう題の詩を詠じている。
 士貞が呼牛の孫だとして、しからば、呼牛の子つまり士貞の父は誰かということは分からない。どうも呼牛の生活環境は雲の中にいるようでつかみどころがないのは困ったものである。
 
    

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 さて、呼牛の俳系については、石井雀子氏が「俳諧を好文亭青牛に学び、後、松露庵三世烏明(うめい)を師とし、音人と同じ伊勢派の俳士であった」(「房総の俳人」閑古鳥・昭和八・一〇号)と書いているが、青牛なる俳人は不明である。烏明は白井鳥酔門下で、江戸日本橋の人、もと商人であった。鳥酔門では杉坂百明・松露庵左明(いずれも別項参照)とともに「三明」といわれた一人である。鳥明は享和元年(一八〇一)七六歳で没している。その年は呼牛の三四歳の時である。呼牛の入門が何時だったかは不明であるが、三四歳以前であることはたしかであろう。鳥明は呼牛の生まれた明和五年(一七六八)に師の鳥酔とともに東金へ来たことがあるが、江戸の生まれで東金に住んでいた左明とは親しく、また、東金の人である百明は弟弟子で、たがいに協力し合う仲だった。だから、鳥明と東金との縁も浅くはなかったのである。呼牛がどういう手づるで鳥明に入門したかは不詳であるが、左明は呼牛の生まれる八年前の宝暦一〇年(一七六〇)に没しているから、呼牛とは関係がない。百明は天明四年(一七八四)まで生きていた。その年呼牛は一七歳だったはずであるが、両者は会う機会を持ったかどうかは何ともいえない。
 東金で呼牛が親しくしていたもう一人の俳人に、小林霞雪(別項参照)がある。霞雪は安永九年(一七八〇)の生まれだから、呼牛より一二歳年少であり、俳系は桜井梅室の門下だったが、俳風にそう大きなちがいもなかったので、霞雪のほうが兄事して、深い交際をしていたらしい。呼牛が嘉永二年(一八四九)死去した時、霞雪は「呼牛誄(るい)」なる文を書いて、哀悼の意を表している。(「誄」とは追悼文のこと)その文が、前引の石井雀子氏の「房総の俳人」中に載っているので、少し長いがここに書き抜いてみよう。
 
 「
    呼牛誄(るい)
  水深ければいせく①ことなし。山茂るときは風に騒がず。されば、静にして物にたゆまざる人は、器の大いなるなるべし。呼牛をぢは、少壮より風雅に入りて、風雅におぼれず、産業をつとめて心を安んじ、其の三余(さんよ)②をもて俳諧を翫(もてあそ)ぶ。古人のいへらく、愚にしてつとむるは得(とく)の本なり、たくみにしてほしいままなるは先の本なり、と。をぢはさかしくして、よくつとむ。ここをもて優名を得たり。海内風交の美はしばらく措(お)きていはず。歳九十を見るの齢(よわい)にのぼりて、一たび病に罹(かか)り、しばしおとろへありといへども、風吟するに至りては、其の感以前に倍せり。是れ、よく身の塵穢(じんあい)③を盪滌(とうでき)④したるの徳なるべし。
  こたび、信友青葉庵主⑤、八秩(はっちつ)⑥の賀会の日、席頭に座して筆を取ること終日止まず。予もかたはらに侍りて事を同じうし、ややつかれぬるに、をぢは更に屈せず、燭を秉(と)る⑦頃席を約めて、杯中の雑話いと健(すこやか)なり。かくて又、帰路を伴ひ、常の如くにして別る。予家に入りてしばらくもあらぬに、をぢ俄かに病有りと聞きて、ただちにはせつれ⑧ども、はや事絶えたり。あまりに本意なき別れなりとは、孝心深かりし一家の歎きひとかたならず。親しき限りのなみだとはなりけり。嗚呼(ああ)、いたましきかな。
  いかなる吟会にも此の人をかかさず、此の人去つて、社友の俳気のたゆまん事をかなしむ。さらぬをだに、なくてぞ人はしのばるる習ひ。まして五十年のしたしみ、其の俤(おもかげ)、愁ひのたもとにむすばるる習ひ、今更むくべき所をわすれ、思ひを述べんとすれば、胸ふさがりて筆まはらず。ただ、おしまづき⑨にかかりて黙するのみ。
   今日のわが心に似たり梅雨雲
    嘉永酉⑩閏(うるう)四月                   」
 
 注 ①水をせきとめる。
   ②農事が暇(ひま)で詩書ができる三つの時期をいう。冬(一年のあまり)・夜(日のあまり)・雨ふり(時のあまり)のこと。
   ③ちりやよごれ。
   ④水をたっぷりかけて洗いすすぐこと。
   ⑤北村音人のこと。
   ⑥八十歳、秩は十年のこと。
   ⑦夜になる。
   ⑧駈けつける。
   ⑨脇息(きょうそく)(座った時、脇におくひじかけ)
   ⑩嘉永二年(一八四九)己酉(つちのととり)。この年は四月閏(うるう)であった。
 
なかなか立派な文である。呼牛の死をかぎりなく悲しみ、追慕する情の切なさ、生前の交情の深さなどが、よく表わされている。それとともに、呼牛の人物・生活状況・俳人としてのえらさや地位などがよく汲みとれる。呼牛を知るための貴重な文献であるといえよう。ただ、文章の性格上、叙述に具体性を欠くことはやむをえない。霞雪が「呼牛をぢ」と呼んでいるのは、年齢が一二歳も上であるから、兄というより「おじさん」の気持で接していたからであろう。
 
    

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 この文に即して、呼牛の生活を考えてみると、「産業をつとめ」「其の三余をもて俳諧を翫ぶ」とあるのに注意したい。呼牛の家業は手習師匠であったという。しかるに、彼が「産業をつとめ」ていたとは、常識で考えて、学問的な仕事をしていたのではないことがわかる。では、産業とはどんな仕事だったか。「三余」とは注に示したとおり、本来、農事関係の語である。すると、この産業とは、農業のことだろうと一応は察せられる。彼は谷(やつ)に住んでいたといわれるが、しからば、谷で百姓をしていたのであろうか。しかし、「産業」とは農業以外の生産業であったかもしれない。また、手習師匠は副業でやっていたのかも知れない。「産業」は広義では生業という意味にもなる。すると、商業も含むことになる。何か商売をやっていたのかも知れない。そうなると、ちょっと結論が出せそうもないことになってしまう。
 次に、呼牛の人物についてだが、「静にして物にたゆまざる人は、器の大いなるべし」は、彼が器(うつわ)の大きい、意志の強い沈着な人物だったことを意味し、「をぢはさかしくてよくつとむ」とあるから、賢明な努力家であったことになる。哀悼文である以上、故人の徳をほめたたえるのは当然だから、文字どおりには受け取れないが、相当な人物だったことはたしかであろう。「ここをもて優名を得たり」というのも、世間の信望を得ていたものと解釈できよう。
 さらに、俳諧関係を見ると、「少壮より風雅に入りて」とあるが、「少壮」とは早ければ二十代、おそければ三十代の年ごろをいうわけであり、呼牛の鳥明への入門時について、三四歳以前だろうと前に見ておいたが、青牛という俳人への入門がもっと早かったろうことを考慮に入れれば、入門の時期は三〇歳前後だったろうと考えられる。彼の俳界における地位については「いかなる吟会にも此の人をかかさず、此の人去って、社友の俳気のたゆまん事をかなしむ」とあって、彼が当時の東金俳壇でかなり重要な立場を保持していた人だったことを推察するに難くない。ところで「一たび病に罹り、しばしおとろへありといへども、風吟するに至っては、其の感以前に倍せり」とあるところに心がひかれる。彼が病気をしたというが、それは何時ごろのことか判断はできないが、「しばしおとろへあり」というのは、一か月や二か月のことではなかったと思われる。二、三年位の長わずらいをしたのであろう。しかし、そのために苦労はあったにしても、俳風はかえって練磨されて、それ以前より深化のあとを示していると霞雪は見ているのである。そして、「是れ、よく身の塵穢(じんあい)を湯滌(とうでき)したるの徳なるべし」と推賞している。が、気になるのは「身の塵穢」の語である。病気のこともあろうが、それに伴う生活上の労苦、たとえば貧乏とか不名誉な事件とかが考えられる。呼牛の身辺に不幸がおこり、それを克服したということだろう。それについて思い出されるのは、冒頭に示した「身の代の米喰ひそめる冬至かな」の句である。冬至は旧暦一一月中の節日で一陽来復のめでたい日とされていた。その日に新米をはじめて食って祝ったという意味であろうが、ただ、気になるのはその米が「身の代(しろ)の米」であったということだ。身の代とは財産という意味もあるが、身体を売るという意味もある。どちらかといえば、後者の意味に使われることが多い。すると、呼牛の家に誰かが奉公に出るというような不幸なことがあったかもしれないという想像が出てくる。そして、この句の作られた時期は不明であるけれども、前記の病臥期と結びつけて考えたくなるのである。もっとも、「身の代」を財産の意味として、大切な財産の米を冬至に食いはじめたとする解釈も可能であるが、呼牛家の生活状況が明証されない以上は、何ともいえないことである。
 いったい、改めていうようだが、呼牛は家庭をもっていたのかどうか。この文から察すると、やはり彼は一家を営み、妻子があったものと考えられる。「孝心深かりし一家の歎きひとかたならず」という言葉から見ても、それが分かるし、彼が家長として大事にされていたらしいことも想像がつく。ただ、妻子の名も全く分からず、河野士貞が孫であったことくらいしか伝えられないのは、何としても残念である。
 さて、右の文を読めば明瞭なように、呼牛は青葉庵主北村音人の八〇歳の賀宴が催された日の夜、急死したのである。その日は嘉永二年(一八四九)閏四月七日であったことになる。二人のめぐりあわせはまことに不思議というほかはない。その日、記念句会が催され、呼牛は執筆(しゅひつ)をつとめ、終始元気に突合い、霞雪とともに家に帰ったあと、急に倒れたのである。心臓発作のごとき病気だったのだろう。八二歳の高齢だから、いくら矍鑠(かくしゃく)としていても、心臓には弱りが来ていたのだろう。
 
    

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 ここで、ちょっとさかのぼるが、前述した片岡氏蔵の呼牛喜寿の俳諧掛軸のことを記そう。本文は次のようである。
 
 「 天保甲辰七月七日、開祖翁七十七ノ賀宴ニ会ヲ請ヒ、俳諧連七人、秋ノ七種(ななくさ)ノ題ヲ分チテ賦シ、寿ト為ス。
               孫幹謹ンデ識(しる)ス。(以上原漢文)
 野は尾花山は北斗の星明り           雨兮(けい)
    雨にふす草にまじらず女郎花(おみなえし) 霞雪
 家遠し先づ朝顔を右左り            養江
    きらきらとさもからるりや藤袴(ふじばかま)南甫
 日を経ても色の替(かわ)らず萩の花       永保
    木に山に根はひと本や葛の花       音人
   撫子(なでしこ)とばかり有りたし花の色   呼牛」
 
はじめの前書は呼牛の孫幹(士貞)が書き、後の俳句はその作者の自筆である。天保甲辰は天保一五年(一八四四)である。この年一二月二日には改元して弘化元年となっている。この年呼牛は数え年七七歳であった。七月七日は呼牛の誕生日だったか、それとも七夕の日だからこの日をえらんだのか、そのへんは不明である。七人の俳人が秋の七種を一つずつ詠んでいるが、呼牛が撫子をえらんだのは彼の人柄をしのばせるものがある。俳友六人のうち、雨兮(けい)・霞雪・音人(おとんど)の三人についてはすでに触れているが、他の三人は初出である。南甫は福俵村の人、永保は清名幸谷村の人であるが、養江は不明である。呼牛の俳友はこの六人だけではなかったと思うが、六人を招いたのは日頃特に親しくしていたからであろう。
 次に、問題となるのは、前書の中の「開祖翁」の語である。これはもちろん呼牛のことを指しているが、開祖とはどういう意味であろうか。ある人は東金俳壇を開いた人だといい、別の人は河野家を起こした人と解釈する。もし前者とすれば、呼牛が東金俳壇の草分けとなるが、これはおかしいと思う。後者と考えるのが穏当であろう。河野家が静観樓を建てるほどの豪家だったとすると、その基礎をきずいた呼牛は相当の理財家だったと考えられる。しかし、裏づけ資料は何もない。
 おわりに、呼牛の俳業についてふれなければならないが、呼牛には「松かさ集」という遺著がある。これは、天保七年(一八三六)春、彼の七一歳の時上梓されたもので、内容は彼が諸俳人と巻いた歌仙と彼自身の句作、それに各地の著名俳人の代表作を一句ずつ選んだものが添えられている。因みに、彼が選んだ俳人たちのうち、主なものを拾ってみると、桜井梅室(金沢の人、高桑闌更門、江戸に住み、京都にうつる)成田蒼〓(そうきゅう)(金沢の人、闌更門、京都住)八木芹舎(きんしゃ)(山城の人、蒼〓門)僧虚白(きょはく)(京都の人、闌更門)市原多代女(奥州の人、鈴木道彦門)鶴岡卓池(三河岡崎の人、加藤暁台門)田川鳳朗(熊本の人、鈴木道彦門)安達一具(いちぐ)(江戸の人、岩間乙二(おつに)門)守村抱儀(ほうぎ)(江戸の人、蒼〓門)といったような顔ぶれである。だいたいが、天保の三宗匠といわれた梅室・蒼〓・鳳朗とその系統の人か、音人との関係で高桑闌更門の人であったようである。これによって、呼牛の俳交関係が分かるし、俳人としての彼の地位も推知できる。当時の俳壇はすでに中興期をすぎて、末期的徴候が濃厚になりつつあり、俗俳的空気は掩うべくもなかった。業俳によるいわゆる宗匠俳諧の時代で、俳風は月並調となりつつあった。呼牛はもちろん業俳ではなかったし、遊俳のひとりであろうが、詩性を守ろうとする意欲はあったとしても、俳調は平俗におちいらざるをえないのが一般的傾向であり、呼牛もそういう空気の中で作句していたのである。
 次に、呼牛の残した句作品を紹介しよう。
 
   初からすうとき耳にもさやかなり
   一組はあとにひかへる御慶(ぎょけい)かな
   今遣(つか)ふ若菜束(たば)ねて並べけり
   紅梅や机の上の絵の具皿
     風乎(大野伝兵衛・別項参照)の初旅に贐(はなむけ)す
   うらやまし岬の松魚五月不士(かつをさつきふじ)
   蝶の行く方は明るし木下闇(こしたやみ)
   涼み台おくや昨日の足の跡
   初嵐吹くや汐まく遠干潟
   虫の名もみな片言や草の宿
   歩いても行かるる島や青あらし
   夕虹の消ゆるところや桐の花
   枯草に鴨のおす波かかりけり
   砧(きぬた)打つ横目いらつく障子かな
   遠山にほちほち白しいかのぼり
   膳立てや榾(ほた)の明りを障子ごし
 
右の最後の句は、東金市上宿の片岡栄一氏宅に呼牛自筆の掛軸として所蔵されているが、句の左下に「八十一才 呼牛」としるされている。彼の死の前年の作であったことが知られるのである。この句は、「身の代の」の句とともに、秀作とすべきであろう。