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東金八鶴湖畔の本漸寺の山門をくぐって、右手の高台の墓地へのぼる石段をあがると、薄蒼い天龍石の墓碑が、人がそこに佇んでいるような姿をして建っている。近づいて見ると、表面に「音人墓」の文字がかすかながら読み取れる。裏面を見ると、磨滅していて判読しかねるが、だいたい、次のような文字がおぼろげながら刻まれている。
「 弘化四丁未(ひのとひつじ)三月建之
加賀之産
俗名北村良意篤之
青葉庵音人日精
嘉永二己酉(つちのととり)季八月廿五日
清存院妙都日法
未(ひつじ)正月
上宿町村田宗八妹俗名梅女
青蓮院妙精日音 」
北村音人墓碑(本漸寺)
これが俳人北村音人とその関係者の墓碑であるが、何かさびしげなたたずまいである。今から五二年前の昭和八年(一九三三)、本漸寺の住僧であった石井雀子(俳人)氏が、
「青葉庵音人日精、と刻まれた天龍石の墓碑一基は、今も尚ほ老杉古松の下に誰れ一人詣する者もなく、殆んど無縁の姿にて、風雨にさらされ居る。余は折々墓前に立ちて往時を追想し、香花を手向けながら、思はず暗涙にむせぶことがある。」(「房総の俳人」閑古鳥・昭和八・六)
と書いている。音人は東金の生まれではないが、東金に三〇年も住んでいたという。しかし、子孫は残さなかったらしい。そのためか、孤影を感じさせるところがある。
さて、右の墓誌を検すると、表面に「音人墓」とだけあって、裏面の最初に「弘化四丁未三月建之」とあり、そのあと三人の名が並記してある。戒名でいうと日精(俗名北村良意すなわち音人)日法(俗名記載なし)日音(俗名村田梅)の三人である。日蓮宗では女性の戒名には「妙」の字をつける習慣があるから、日法・日音は女性である。この二人の女性は音人と深い関係の者にちがいない。次に、年号を見ると、「弘化四」(一八四七)の後に「嘉永二」(一八四九)とあり、弘化四年はもちろんこの碑を建てた年で、嘉永二年は音人すなわち日精の没年である。すると、この碑は音人の死ぬ二年前に建てられたことが分かる。それから、「未(ひつじ)」とあるのは日法の没年を示すと思われるが、これは何年のことなのか。弘化四年は未年なので、それを受けて「未七月」と書いたもののようにも考えられる。
ところで、日法と日音すなわち梅女はそれぞれ音人とどういう関係だったろうか。加賀生まれの音人は東金へ来て上宿村田宗八の妹梅と結婚したことは雀子氏の「房総の俳人」に
「音人の室は東金町上宿村田宗八の妹梅女とあれど、子なきものの如く、子孫は絶えたらしい」
とあるのによっても、梅女が音人の妻であったことはまちがいないが、ただそれが初婚であったかどうかは分からない。もし初婚でなかったとすれば、日法は音人の前妻であったかとも思われる。(音人の母ではないかという説もあるようだ。)しかし、俗名もなく、「未七月」とのみで命日もないのは変である。あるいは、「未」というのも弘化四年以前の未年、すなわち天保六年(乙未)か、文政六年(癸未)か、あるいは文化八年(辛未)かのいずれかであったかもしれない。
だいたい、この墓碑そのものは音人の生前に建てたものであるが、裏面の記載は音人が嘉永二年に死んだ後、おそらく梅女の手によって書き添えられたものらしく、だから、日法のことも位牌か何かの記載によったもので、梅女自身の命日も書かれていないのは、子孫が絶えてしまったためとも考えられる。墓碑のことで筆を費しすぎたが、なお検討の余地があるようだ。
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音人は「加賀之産」とあるとおり、加賀国金沢の出生といわれ、本名は北村良意篤之といい、医を業としていた。音人はその俳号である。彼は嘉永二年(一八四九)八月二五日に没しているが、その時八二歳だった。この年齢については、彼と親友であった河野呼牛(別項参照)が音人と同年の生まれで、しかも奇しくも同じ嘉永二年に死んでおり、呼牛の年が八二なので音人もその年齢で没したものと考えられているのである。呼牛はその年の閏(うるう)四月七日に死去したが、その日は音人の八〇歳の祝賀(一年おくれで挙行した)の句会が行なわれ、呼牛は世話役を元気でやっていたのに、その夜急死したのであった。それから四か月と約二〇日後に音人は死んだのである。すると、音人の生年は呼牛と同じ明和五年(一七六八)ということになる。
金沢時代の音人については分からないことが多いが、医者の仕事をしながら、宝生流の謡曲を嗜み相当の腕を発揮し、さらに俳諧の道に志したという。金沢は俳諧の盛んなところであったが、彼は高桑闌更(らんこう)の門に入ったという。闌更は商人であったが、同じ金沢の俳人和田希因の弟子であり、希因は伊勢の俳人麦林(ばくりん)舎乙由(おつゆ)の伊勢派(麦林派ともいう)の流れを汲む人であった。したがって、闌更も伊勢派の人であった。彼は「人となり温順篤厚、能く人を容(い)る」といわれ、また門人をよく指導した人だから、音人がこの人を師としたことは幸いであったと思われる。闌更は途中から商人を廃業して俳諧に専心し、芭蕉の高雅をしたう風が強く蕉風復興を念願としていた。しかし、天明元年(一七八一)頃から金沢を離れて京都に移居してしまっている。天明元年は音人の一四歳の年である。すると、音人が闌更に師事したのは少年時の短い間だったことになる。その後は、闌更の弟子で和田希因の息子である和田後川に就いたといわれている。後川は闌更ほど有名ではなく、どういう人物だったかも分からぬが、音人はこの人に長く師事したものと考えられる。
音人が東金へ移って来たのは何時であったか、また、如何なる事情であったろうか。移居の時期について、雀子氏は「五十歳を越えてからの事であらう」(「房総の俳人」)といっているが、その理由は、知足坊一瓢(いっぴょう)が文化一三年(一八一六)に著わした「俳諧西歌仙(にしかせん)」に音人の句が出ていることをあげ、その年彼は四九歳だった。その年にはまだ金沢にいたことになるから、東金移居は五〇歳以後、つまり文化一四年以後のことであろうと雀子氏は考えたのである。知足坊一瓢は江戸谷中の本行寺の住職をしていた俳僧で、小林一茶の親友として知られている。「俳諧西歌仙」は文化一三年に一瓢が編集上梓したもので、西国地方の俳人の句稿を四年がかりで集めたもので、夏目成美が跋を寄せている。
次に、音人が東金へ移居した事情については、残念ながら全く分からない。また、移居の際、音人は単身で来たか、それとも前に見た墓誌にある「清存院妙都日法」なる妻とおぼしき女性(母かもしれない)を帯同して来たものか、それとも、日法(前妻とすれば)は東金へ来てから迎えたものかどうかも不明である。ただ、東金へ来てから村田宗八の妹梅を妻にしたことが判明しているだけである。医者である音人は東金へ来て医を業としていたと思われるが、どこに住んでいたか、これも不明である。
東金移居後の彼は俳人仲間と親しい交友を持ったようである。呼牛とは特別深い交わりがあったが、そのほか、小林霞雪(別項参照)・飯田雨兮(うけい)らの俳人たちや画家の飯田林斎(別項参照)ともこまやかな友情を結んだようである。音人は特に句集などは残していないが、当時板行された俳諧集には彼の句作が散見される。なお、飯田林斎の描いた松尾芭蕉の肖像画に、音人が各務(かがみ)支考の編集した「笈(おい)日記」(元禄八年(一六九五)刊)中にある芭蕉の俳文「あすならう」を賛として書いた半折幅物が伝えられている。それは、次のごとき文である。
「桧に似て明日はならふとかや、谷の老木の言ひし事ありき。きのふは夢とすぎ、あすはいまだいたらず。生前一樽(いっそん)の楽みの外に、明日はあすはと言暮して、終に賢者のそしりをうくる。
閑(さび)しさや花のあたりのあすならふ
太尊吟※
七十八歳 青葉音人拝書 」
※芭蕉を尊称した語。なお、右の文は刊行されている「笈日記」のものと、所々表現のちがいがある。
この「あすならう」の文は、芭蕉が貞享四年(一六八七)一〇月から翌五年四月までの関西旅行(この紀行が「笈の小文」である)の途次作ったものとされている。七八歳は音人の死の四年前で弘化二年(一八四五)にあたる。雀子氏は「翁の像も、音人の書も中々の出来ばえである」(「房総の俳人」)といっている。
次に、音人の句をあげてみよう。
柊(ひいらぎ)さす門やきのふのなづな屑(くず)
春の水月につかへてよどみけり
辛夷(こぶし)咲くや山は日に日に遠くなる
種ひでて鰌(どじょう)めでたき命かな
杜若温泉尻(かきつばたゆじり)のかかる細流れ
寒さうに蛍(ほたる)の戻る夜明かな
竹のかげ移りて重し蚊屋(かや)の月
土用芽の伸びもつくさず秋の風
蘭の香や月もしばらく春に似る
毬(いか)栗の口へさし入る西日かな
すずしさや座敷の中のシテ柱
秋の気は染めもつくさず鵙(もず)の声
水仙は日の出て露をおきにけり
肌入れる間もなかりしや涅槃(ねはん)像
新味を出そうとする工夫のあとが見える。繊細で余情のある句がいくつか数えられる。平俗の臭味が割りに少なく好感が持てる。闌更風の詩情がうかがえるように思う。