篠原葵白(きはく)(俳人・村名主・組合村大惣代)

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 葵白は篠原惟秀(別項参照)の孫にあたる。もっとも、血のつながりはない。惟秀は篠原家の九代目当主であり、葵白は一一代目当主である。惟秀は稲葉黙斎門下で、学者として重きをなしたが、また俳人でもあった。葵白は俳人として名を残している。しかし、両者とも本職は農業(惟秀は医師を兼ねた)であり、村名主の地位にあって、行政にタッチするところが多かった。
 ここで、篠原家の家系について記しておきたい。葵白は明治五年(一八七二)九月、「篠原氏系書」(東金市史・史料篇一」二九五-三〇四所収)なるものを書きのこしているが、それによると、篠原家の高祖は修理秀徳と称し、木曽義仲の家臣であったが、義仲が寿永三年(一一八四)近江の粟津で敗死すると、上総に流れてきて堀上村に土着し、開拓にしたがうようになったという。ところが、戦国時代に酒井定隆がこの地方を征服して、例の七里法華の改宗令を発して、領内を法華一宗に固めようとした。元来篠原家は最福寺の檀家となっていたので天台宗に帰依していた。最福寺は定隆の改宗令前に日蓮宗に改宗していたが、篠原家では天台宗時代の位牌や仏具等をそのまま保存していたのに、定隆はそれらを地下に埋めさせてしまったので、それ以前二十一代にわたる祖先の由緒が不明になってしまったのである。(葵白は自分を篠原氏三十二世の孫と称していた。)しかし、篠原家そのものはその後も連綿としてつづき、酒井氏時代から改めて初代二代ととなえるようになり、九代目を継いだのが惟秀である。
 惟秀は福俵村の北田太兵衛の次男に生まれ、篠原家に婿入りした。妻のお銀は家つきの娘であるが、前夫粂三郎との間に男の子が出来たが粂三郎は離縁となり、男の子はそのまま家に残し、義父として惟秀を迎えたのである。男の子は幼名を太乙といい、後、安之進と改名した。惟秀には実子(太四郎)があっが、それをさしおいて安之進が十代目当主となり、その嫡男に生まれたのが葵白である。
 葵白は前記の「系書」を書いた明治五年が七八歳(数え年)だといっているから、その出生は寛政七年(一七九五)であったことがわかる。名は周徳、通称を太乙といった。長じて匝瑳郡尾垂(おだれ)村の伊藤伊左衛門の娘お鷹を妻に迎えた。夫妻の間には一男一女が生まれた。そして、文政二年(一八一九)二五歳で家督を相続し通称を与五右衛門と改めたが、父安之進は隠居して三瓶と称し、好きな活花に打ちこむようになった。葵白の性格はよく分からぬが、相当気の強いところがあり、その後の経歴を見ると、積極的に動くほうであり、そのため敵を作ったことも多く災難を招いたこともたびたびであった。家督をついだ翌年の文政三年三月に大きな事件がおこった。北之幸谷村の妙徳寺で千部供養が催された時、堀上村の平馬と音松の二人が川場村の平右衛門と喧嘩をしたのがきっかけで、堀上・川場両村の若者同士の大喧嘩になって、川場村の庄太郎という若者が即死を遂げた。すると、若者組とは関係のなかった与五右衛門(葵白)と石松という若者がとばっちりを受けて訴えられ、江戸送りになり入牢させられた。これを勘定奉行石川主水正が吟味して、与五右衛門の無実が分かり出牢することが出来た。この事件は平馬の父親で名主をしていた常右衛門が与五右衛門の父三瓶に恨みをもっていて、その腹いせにたくらんだ形勢があり、翌四年には与五右衛門と常右衛門の間に出入(でいり)がおこり、常右衛門は名主役をやめさせられた。
 文政七年(一八二四)になって、与五右衛門(葵白)の妻お鷹が中村養芸という医師と不義を犯したことが発覚したので、これを離縁したが、お鷹の里方から訴えられた。それでまた、江戸で裁判になったが、内済で片づいた。ところが、同年村名主庄兵衛の押領が問題になったところ、庄兵衛は地頭所の用人石嶋新平と結託して逆に与五右衛門(葵白)の父三瓶が名主時代に不正をしたと言いがかりをつけたので、与五右衛門(葵白)は怒って地頭(旗本・川口熊五郎)に訴え出たが、結局奉行所吟味となり、庄兵衛は敗訴し、名主役を取上げられ、石嶋新平は押込隠居に処せられ、与五右衛門(葵白)が臨時名主をさせられた。
 
    

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 ついで天保元年(一八三〇)与五右衛門(葵白)は村の中津沼の流地一町六反を買い取ることにしたが、これに文句をつけたのが、前記の常右衛門のせがれ平馬で、彼はその後六右衛門と改名していたが、前に敗訴した庄兵衛と手を組んで、与五右衛門が勝手気儘なことをやっていると攻撃をかけてきたのである。このため、天保六年から同七年にかけて(一八三五-六)騒動になるのであるが、その時の文書「堀上村騒動一件」(「東金市史・史料篇二」六七四-九頁)を見ると、六右衛門は平常とも身持不埓(ふらち)にて、博奕大酒を好み、其の為めに累大(るいだい)持続け候田畑等も悉く売り払ひ……彼一人の悪心より村内騒動相絶え申さず」という、はなはだ不評判の男であったから、与五右衛門(葵白)方に味方する者が多く、この騒動も六右衛門方の敗北となり、その反対に「与五右衛門かへつて田地為め筋宜しく相成り、十分勝利を得」(「系書」)という結果となり、与五右衛門(葵白)の人望と権威が高まって、関東取締役から東金町組合の大惣代を申し付けられることになったのである。
 元来、堀上村は三給支配になっていた。清水(御三卿)領知・旗本大久保豊前守知行所・同川口熊五郎知行所の三給であるが、与五右衛門(葵白)は三給全体の政事向きにたずさわるようになり、その役名も清水御料兼帯給人格知行所割元役となり、その上、組合村の大惣代であるから、最高の地位へ上昇したことになったのである。抜け目ない彼はこの地位を有効に利用しようと考え、天保八年(一八三七)八月には従来の醤油醸造業のほかに酒の醸造をはじめた。これでまたかなりの利徳を得たのである。そして、同一一年(一八四〇)には、すでに成年に達していた忰の与五郎に名主役をゆずり、名を与五右衛門と改めさせ、自分は安之進と名のることにし、割元兼地頭所詰役として、村政の指導監督にあたることにしたのである。
 こうして、葵白(安之進)はもっとも得意で幸福な時代がつづいたのであるが、好事魔多しで、また、災難がふりかかったのである。例の庄兵衛一件で押込隠居に処せられた石嶋新平の忰新十郎が、親の仇討をたくらみ、庄兵衛と手を握って、地頭所の上役にうまく取り入り、先約金問題で不正があったと取りこしらえ、葵白(安之進)の反対派の村名主らを味方につけて、勘定奉行戸川播摩守へ駕籠訴(かごそ)をやってのけ、そのため葵白(安之進)は天保一二年(一八四一)八月一〇日江戸小伝馬町の牢屋敷の揚屋入りを命ぜられてしまった。そして、増田作右衛門という留役の取調べを受けたが、増田があまりに非違の吟味をするので、葵白(安之進)は大いに反論したところ、無体な拷問を加えられて、ずいぶんひどい目にあわされた。しかし、幸いにも奉行が牧野大和守にかわり、留役もかわって、ようやく正当な裁判が行なわれた結果、六年目の弘化四年(一八四七)六月、葵白(安之進)はやっと出牢することが出来、地頭の川口家に御預けとなった。それから二年後の嘉永二年(一八四九)一二月、お構いなしということで無罪放免となったが、天保一二年以来、入牢六年、御預け二年、計八年の苦難というものは、筆紙につくしがたいものがあったであろう。なお、石嶋新十郎は押込めの処分を受けたが、庄兵衛らに対する処置は不明である。
 翌嘉永三年(一八五〇)一月、久しぶりに葵白(安之進)は郷里に帰住した。このいまわしい事件は、どんなに大きな屈辱と深い傷を彼に残したことであろうか。彼もすでに五六歳である。世の無常と人の非情とを、つくづく感じさせられたことであろう。晩年の平安をねがう心は切実であったと思われる。彼はその年の五月、東金の友人たちのすすめに応じて、東金町の中に隠居所をしつらえ、そこへ移って、静かに俳諧や茶事を楽しむこととし、名も葵白と改めることにしたのである。ここに俳人葵白の新しい人生がはじまったのである。葵白は東金町に明治四年(一八七一)八月まで、約二一年間居住していたが、やはり生まれ故郷がなつかしいと見えて、ふたたび帰臥することになった。自宅の裏に隠宅をつくって、そこに余生をすごすことにしたのである。そして、明治一三年(一八八〇)八四歳の長い生涯を閉じた。
 土地の草分けの名家に生まれた彼は、家名の保持という使命感のもとに生きなければならなかった。ところが、幕末のころともなると、村には新興勢力が台頭していて、旧勢力を倒しこれに代ろうとする気運が濃厚になっていた。その間のたたかいが彼の背負った運命であった。村という小さな閉鎖社会内での権力闘争はきわめて熾烈(しれつ)であり、また陰湿なものであった。その中で旧家の栄光を保持するのは、容易ならぬことであった。いくたびか苦杯をなめさせられながら、葵白は負けなかったのである。負けないためには、それなりの努力と忍苦と対応が必要であった。彼は全力をあげてその必要を充たし、父祖の名を恥かしめなかったのである。そのためには、二度も入牢し、特に二度目の場合など悲惨をきわめたのであるが、それも結局は自家の防衛のためであって、村や社会の発展に寄与し新しい歴史を開いたという性格のものではなかったのである。
 
    

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 次に、俳人としての葵白に触れなければならない。彼がいつごろから俳句をたしなむようになったかは、はっきりつかめない。まず、考えられるのは祖父惟秀(俳号鶴洲)の感化ということである。惟秀は文化九年(一八一二)に死んでいるが、その年葵白は一八歳になっていた。生前の惟秀から手ほどきを受けたことがあったかもしれない。しかし、具体的には何も分からない。田波啓氏によると、葵白は東金の俳人河野呼牛と小林霞雪(いずれも別項参照)から学んだということである。(「東金文学散歩」)呼牛は上宿の人で明和七年(一七六七)の生まれであるから、葵白より二八歳も上である。そして、嘉永二年(一八四九)に八二歳で死んでいる。その年には葵白は江戸の川口家に御預けになっていたことは前述のとおりである。霞雪は生まれは横芝町であるが、東金上宿の小林家(十文字屋)に入婿した人で、生年は安永九年(一七八〇)だから、葵白より一五歳の年長である。霞雪は呼牛と北村音人(東金田間に住む)の弟子であった。霞雪は安政二年(一八五五)に七六歳で死去している。
 さて、葵白が呼牛・霞雪の二人に就いたとして、それがいつごろかという問題になると、はっきりとはわからない。葵白という号は彼が隠居した嘉永三年(一八五〇)から用いたと彼自身書いている。しかし、これは彼が隠居してから俳句をはじめたということではあるまい。後にも説くように、彼は俳諧や和歌のことについては、相当に深い知識を所持していた。おそらく、かなり早くからこの道に入っていたにちがいない。葵白は天保一二年(一八四一)から江戸で入牢しているが、呼牛・霞雪に就いたのは、それ以前のことと考えてよいのではないかと推察される。霞雪は呼牛の弟子、呼牛は江戸の俳人松露庵烏明(うめい)の弟子であり、烏明は東金の俳人杉坂百明(別項参照)の親友でともに白井鳥酔の門人であったから、葵白は鳥酔系統の俳風を学んだことになる。
 ところが、葵白は呼牛・霞雪のほかに、もう一人の師匠をもっていたといわれる。それは、惺庵西馬(せいあんさいば)という人である。西馬は本姓富所氏、上州高崎の人で文化五年(一八〇八)に生まれ、安政五年(一八五八)八月、五一歳で没している。元来左官職であったが俳諧の才にすぐれ弘化三年(一八四六)江戸に出てプロの俳諧宗匠となり、数百人の門弟をかかえて、著名な俳諧師となった。西馬は化政期の大立物鈴木道彦の弟子田川鳳朗(ほうろう)に就いた人である。
 葵白は何時ごろ西馬の門に入ったか。西馬が江戸へ出て来たのは弘化三年だが、その時葵白は入牢中で、出牢したのは同四年で、それから二年川口家に御預けとなっていたが、その期間は割合自由がきいたと思われるので、おそらくその時分に入門したのではなかろうか。そして、堀上へ帰ってからも指導を受けていたと思われる。
 しかし、すでに呼牛・霞雪に学んでいた葵白が、何故に西馬に入門したのであろうか。西馬は呼牛・霞雪のような地方的な俳人ではなく、江戸で名を知られた、いわば全国的な地位のある俳諧師である。五〇歳を越えていた葵白があえて新しい師に就いたのには、なみなみならぬ決意があったことと考えられる。入牢の惨苦を味わわされた彼は、世外人になりたいという気持が強かったであろうが、同時に本格的に俳諧に打ち込んでみたい欲求もあったのではなかろうか。その欲求の具現が、安政四年(一八五七)宗匠の地位を獲得したことに見られるのである。
 ところで、葵白が西馬に入門するについて、その仲介をなしたのは霞雪だったのではないかと思われるのである。霞雪は前記のごとく安政二年(一八五五)二月八日、七六歳で死去しているが、その翌々年すなわち安政四年の二月、小祥忌を期して、霞雪の句集「こぼれ梅集」が上梓された。霞雪の嗣子は東湖と号して俳人となっていたが、出版にあたっては葵白は蒼湖という俳人とともに、資金その他の援助をしている。そして、西馬が序文を寄せて上梓を祝している。以上の事情を考えてみると、霞雪はかねてから西馬と親しかったと考えられ、葵白は霞雪の推挽(すいばん)によって、西馬に入門したものと見られる。西馬は右の序文の中に、
 
 「葵白・蒼湖の両子まめやかにも一集をあみなし、小祥忌辰(しょうしょうきしん)の塚樹(ちょうじゅ)にたむく。かならずや幽魂地下に此のこぼれ梅を拈(ねん)じ、まさに微笑すべし」
 
と、葵白らの骨折をたたえ、親しみの情を表明しているのである。こういう関係が結ばれて、その年の四月、葵白は西馬から宗匠の資格をあたえられることになるのである。
 宗匠とは俳諧の師匠のことであるが、何派の何代目を襲名したか、あるいは誰々の門人で立机(りっき)を許され、一人前の点者として認められた者のことをいうのである。この資格を得れば、プロ俳諧師として弟子を取ることが出来るのである。それには、自分の就いた師匠のネイム・バリューが問題になる。えらい師匠ほどいいわけである。葵白は帰郷してから七年目に宗匠となることが出来たのである。そこで、彼は西馬を江戸から招いて披露会を催したのであった。それは同年の初夏であったと伝えられるので、おそらく四月であったろう。ただ、前述のとおり二月には霞雪の小祥忌をやっており、句集上梓の記念会をやったとすれば、西馬はその頃東金へ来ていて、しばらく滞在していたのかもしれない。
 宗匠の披露会は世間に対して開庵を知らせ入門者の募集を公告することにもなるので、師匠をはじめ然るべき俳諧師を招いて句会を催す例があった。葵白の披露会には、西馬をはじめ、江戸の為誰(いすい)庵由誓(ゆうせい)と東金の飯田雨兮が同席したと伝えられる。由誓は小林一茶の師であった夏目成美の門人で、札差業をしていた夏目家の番頭で成美の死後、その後継者として著明な宗匠となっていた人である。西馬とは親しくしていたのであった。雨兮は東金新宿の人で、寛政三年(一七九一)の生まれだから、葵白より四歳年下である。しかし、万延元年(一八六〇)七〇歳で、葵白よりも早く没している。西馬は東金で翌年の安政五年にコレラにかかって急逝している。葵白にとっては、もう一年おくれれば、宗匠になれなかったわけである。(由誓は安政六年に没している。)
 
    

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 ところで、葵白は宗匠となる一年前の安政三年(一八五六)一一月から一二月にかけて、江戸の俳人佐保介我(かいが)と、相当はげしい俳論をかわしているのである。介我は松尾芭蕉の門下で同門の宝井其角とも親しかった初代介我(甘雨(かんう)亭)の曽孫であって五世介我をついだ人の子にあたり、大島蓼太(りょうた)門下の岩波午心(ごしん)について学び、七世介我となった人である。東金の俳人前島他山(別項参照)はこの人の門下であった。他山は東金新宿の素封家前島家の養子となり、生まれは文化七年(一八一〇)であるから、葵白より一五歳若い。他山が七世介我に入門した年時は不明だが、天保一四年(一八四三)には宗匠になっている。三四歳であった。非常な社交家であり、また旅行家でもあり、広く各地の俳人と交わりを結んでかなり有名であった。葵白はこの他山をライバルとしていたようだ。
 論争の発火点は、他山の句「作り菊手に手尽くせし匂ひかな」について、葵白と雨兮が「初五に『作り菊』といっていながら、それに重ねて中七で『手に手尽くせし』といっているのはおかしい、というような評言をした。それを聞いた他山は憤慨して師匠の介我に話したところが、介我はわが弟子可愛いさから、葵白・雨兮両人あてに手紙(一一月二〇日付)を送ってきた。かなり長い、刀を上段から振りかぶったような文言である。ポイントのところだけを引用すると、
 
 「安政の今、俳諧盛んに行はるるといへども、江戸にてまま古事古語をうち入れたるよき句を見ても、珍重する仁(じん)なく、只(ただ)、句のとがなくとり所もなき句をのみ売るといひ買ふといひ、ほめそやしてものをむさぼらむとおもふ俳諧師のみ多く、褒貶(ほうへん)(ほめたりそしったりすること)の事なきに、ほのかに聞く、上総東金に雨兮(けい)・葵白の両子(し)有りて、他山が菊の句を評したり、と。尤(もっと)も道の為めにしてよろこぶべきの至極なり。さりながら、口にのみ句を貶(おと)しめそしりあざけりたりとも、証(あかし)とすべきなし。よつて、
   作り菊手に手尽くせし匂ひかな
 上下(かみしも)の五言は通例なれば論なし。中の七言あげつらひあるべし。書きしるしておこし給へ。介我褒貶の判者(はんじゃ)に相(あい)なるべし。(中略)
  次にいはん。近比(ごろ)蕉門と唱へるやから、句を売るといひ、買ふといふ。是れ何事ぞや。売るといへるは、てらふ事にして、衒(げん)の字なり。(中略)翁(芭蕉)の流れをしたはむもの翁の詞(ことば)を見て、売買といふ事のいやしきをしらるべし。介我がをしへ子、一人も句を売るの買ふのといふものなし。」
 
決して、はげしい口調ではない。高所から教えさとそうとする姿勢を取っている。しかし、自分の門下こそ蕉風を正しく守って、句を売買するごとき卑俗な態度を取っている者は一人もないと誇っている。これに対して、葵白は「雨兮に代りて」とことわって、一二月付で返書をおくっているが、かなりはげしい口調で食ってかかっている。介我の手紙より倍近い長さであるが、やはりポイントを書き抜こう。
 
 「伝へきく、江府に介我といふもの有り。其の門葉他山が菊の句を、雨兮(うけい)と我と詆評(ていひょう)したりと、頻りに怨怒(えんど)して、何かあらむつづくりておこしたりと、信友ひそかに予に伝ふ。閲するに、傍若無人(ぼうじゃくぶじん)の僻言(ひがごと)にして、蝙蝠(こうもり)の軒にかかりて、人の倒(さかしま)に歩行(あるく)を笑ふ諺(ことわざ)にひとし。我、弁を好むにあらねども、不已(やむをえず)雨兮に代りて是れを破(は)す。まづ
  作りきく手に手つくせしにほひかな
                       他山
中の七言意味有りと評して贈れ、介我褒貶の判者たるべし、と。古人もいはずや、軽佻(けいちょう)(軽はずみ)の発言は、安(いずくんぞ)知人之讃愬(しんそ)(いずくんぞ人の讃愬(しんそ)(人を非難して訴えること)にあらざるを知らんや)と。足下(そっか)、いかなれば斯く不遜なる。俗に云ふ片聞きといふものなり。また、他人が句を識りたらんにせよ、足下の側言(そくげん)(片よった意見)片腹(かたはら)いたし。既に足下も句を評するは道のためにして、悦ぶべきの至極なりとは申さずや。はた、予が社中にて評せば、上下通例といへども、上ミに作り菊といへば、手に手尽せしは知れたる事なり。(中略)
 足下、雨兮と我と他山が句を評せしとて、古事並に字の音訓を正しものしたれども、実に井蛙の見(せいあのけん)(世間知らずの狭い意見)にひとし。(中略)近国さへ知る人まれなる分際として、梅室・鳳朗・卓池などの句を理不尽(りふじん)にそしり、我々を驚かさんとするは何事ぞや。」(以上の往復書簡は篠原家所蔵)
 
一見して、攻撃の激烈なのにおどろくが、「江府に介我といふもの有り」とか、「近国さへ知る人まれなる分際として」とかいって相手を蔑視し、ここに引用しない本文の中には「足下は蓋世(がいせ)(有名な)の俗物なれば」とか、「何とて斯くは無学」などという罵詈(ばり)もあって、ちょっとひどすぎる感もされる。また、他山に対しては、「他山が如きは、譫(せん)言譫語(たわごと)に近く、歯牙(しが)するにたらざるなり」と、問題にもしていない口吻さえ示しているのである。とにかく、挑戦のはげしさは異常というよりほかはない。当時の俳壇における派閥間の闘争の猛烈さを思わせるものがあるが、これは葵白の性格のあらわれでもあろう。主我的で否妥協的な面がこういうところにあらわれたものといえよう。前にのべたような村落抗争に捲き込まれて二度も入牢したことも、彼の排他性が招いたフシがある。しかし、介我あてのこの長い書簡を検すると、葵白は相当の学殖の持主で、かなり勉強していたことが知れるのである。何時の間にこれだけの薀蓄(うんちく)を積んだのかと、びっくりさせられるところがある。和歌俳諧についての知識も広いし、文章にも迫力がある。その点は評価してしかるべきであろう。
 そこで、前のことにさかのぼるが、彼が俳諧の道に入ったのは、隠居してからではなさそうだ。俳諧をふくめて学問の道にはかなり早くから志して、相当に読書もし文章も書いていたように考えられる。
 葵白の俳句はあまり多く残されてはいない。作風は平明であるが、巧みとはいえない。彼はまた漢学にも通じ、絵も描いたといわれる。もし彼が学芸の道に専心したならば、あるいは見るべき業績をあげたかもしれない。